予定の二十三時が近づいていた。これまでは彼女の電話を首を長くして待っていたのに、今日は電話を待つ自分とかかってくることに怯える自分が、胸の中で睨みあっていた。

 俺の中で、彼女の正体は若林だと確信していた。さらに、なぜ若林がこんなことをしているのかも、その理由もわかっていた。

 そのため、今日の電話をでるかどうか今でも迷っている。若林の気持ちを考え、あえて気づかないふりを続ける手もあるだろう。けど、それが若林を余計に苦しめることになるとわかるからこそ、この問題から逃げるわけにはいかなかった。

 とはいえ、だからといって正体に気づいたことを告げた場合、待っている未来は辛い結果しかない。若林は、親友としてではなく一人の女の子としてこんな真似をしている。ということは、その若林の気持ちに答えを出さないわけにはいかなかった。

 ――どうする?

 刻一刻と時間が迫る中、焦りが余計に考えをかき乱していく。俺には若林の気持ちを受け入れることができない以上、出す答えは一つしかなかった。

 けど、その答えを出したら若林との関係にヒビが入るのは目に見えていた。若林は、出会ったときから色んなことを共有してきた仲だし、これからもずっと仲良くしていきたい親友でもある。だから、これがきっかけで関係が崩れるかと思うと、そのことがただ怖くて仕方がなかった。

 残酷なほど時間は当たり前に過ぎていき、なにも決まらないまま二十三時を迎えたところで、深く息をする音を遮るように聞き慣れたメロディがスマホから流れだした。

 そっと手にし、もう見慣れてしまったナンバーをゆっくりと確認する。この電話が終わったとき、きっと俺は若林を傷つけている確信があった。

 しばらく鳴り続ける電話を見つめながら、迷いに迷ったあげく、俺は通話のボタンを震える指で押した。

『やっと電話にでてくれたね。さては、女の子の動画でもみていたな?』

 いつもと変わらないノリでささやかれる甘い声に、一気に意識をもっていかれそうになる。もう何度も聞いた声なのに、何度聞いてもその甘いささやきには抗えない魅力があった。

『あのな、いつもすぐにでれるわけないだろ』

 慣れない悪態は、最後までうまくいかなかった。しかも声まで震える始末で、もう彼女の声を楽しむ余裕もなかった。

『ん? どうしたの?』

 しばらく続いた他愛もない話のあと、急に彼女がトーンを落とした声で聞いてくる。ずっと時計を気にしていた俺は、いよいよこの瞬間がきたことを感じ、覚悟を決めるようにスマホを握りしめた。

『実は、お前の正体がわかったんだ』

 決心を吐き出すように口にすると、しばらくの沈黙のあと、『そうなんだ』とさらに一段低くなった声で彼女は返してきた。

『どうして気づいたの?』

『それは、お前が姫はという俺の言葉に迷いなく男を連想したからだ。普通、姫という言葉からは女性を連想するはずだ。なのにお前は、俺が友達だとしか言っていないのに男の子と口にした。それだけじゃない。アイツは女性の声を多少の時間は出せるんだ。けど、そんなに長くは出せないと考えたとき、お前はどういうわけか必ず二十四時前には電話を切るから、それでお前とアイツがリンクしたってわけさ』

 語りながら目を閉じると、浮かんできたのは若林の残像だった。これまでのやりとりを重ねたとき、結局たどり着くのは若林以外になかった。

『そっか。でも、なんでアイツはこんな真似をしていると思う?』

 しばらくの沈黙の後、先に沈黙を破ったのは若林のかすかに震える声だった。

『それは、たぶんアイツが正体をあかすことができないからだと思う』

『正体をあかせない?』

『そうだ。アイツは言ってたんだ。人を好きになったとしても、それを表には決して出せないってね。なぜなら、好きになった相手のことを口にしたら、その相手が偏見にさらされてしまう恐れがあるってアイツは言っていた』

『それで?』

『だからアイツは考えたと思う。好きな気持ちを表すにはどうしたらいいかってね。その結果、アイツは正体を隠して声だけで気持ちを表そうとしたんだろう。声だけなら、正体がわからない限りは俺に迷惑はかからないし、なによりアイツも素直な自分を出せると考えたんだと思う』

 言葉にしながら、以前若林が言っていた悩みが脳裏に蘇ってきた。若林は、たとえ誰かを好きになったとしても、相手が悪意ある偏見にさらされて傷つく恐れがある以上、決して気持ちを口にはできないと言っていた。

 でも、そうはいっても若林も恋をする一人の女の子だ。胸に宿る想いや葛藤は俺たちと変わりはないはず。だから、思い悩んだ末に、正体を隠してやりとりする方法を考えたのかもしれない。

 その結果、声だけの関係に若林が望みを託したとしたら、俺は見事にその策にはまったことになるだろう。

『そっか、そこまで気づいたんだ。だとしたら、君を騙していた以上、この関係はもう終わりだね』

 なにかをさとったかのように、若林がぼつりとこぼす。その声には、ある意味覚悟を決めたような気配があった。そしてなにより、今の言葉に若林の本音があらわれていた。

『なあ、アイツはずっと辛かったんじゃないのか?』

『え?』

『アイツは、最初は軽い気持ちで声だけの関係を望んだのかもしれない。けど、その声に俺が好きになってしまい、さらには会いたいと思うようになった。好きになってもらえたことはアイツにとって嬉しいことだったかもしれないけど、会いたいと思われるのは困ったんじゃないのか?』

『そ、それは――』

『俺は、アイツはきっと辛かったと思っている。声だけの関係とはいえ、もうやめるにやめられなくなっていたと思う。そこに、俺から会いたいという話がきた。アイツにしたら、会えば全てが終わるから会うわけにはいかなかった。その間、アイツのことだからずっと俺を騙している罪悪感に苦しんでたんじゃないかって思っている』

 電話の奥に広がる静けさの中に、かすかに若林の涙する音が聞こえてくる。そして、なにも言わなくなった若林からは、はっきりと後悔する声がかすかに漏れ聞こえてきた。

『ただ、勘違いしないでほしい。俺は、別に騙されたことには怒ってないし、アイツがやったことに文句を言うつもりはないんだ。いいか、これだけは聞いてほしい。アイツは、俺にとってはかけがえのない存在なんだ。俺が困ったとき、アイツはいつも無条件で助けてくれるし、いつも力になってくれる。それに、アイツが笑っていると俺も楽しくなるし、アイツが落ち込んでいると俺も気分が沈んでしまうんだ』

『そ、そうなんだ……』

『アイツに出会えたこと、本当によかったと思ってる。アイツと親友に、いや、それ以上に仲良くなれたことを本当によかったと思ってる。だから、俺、今メチャクチャ恐れてるんだ』

『恐れてるって、なにを?』

『このことがきっかけで、アイツとの関係がギクシャクするんじゃないかってな。この瞬間も、俺は本気でこの先もずっと今の関係でいたいと思っているんだ。アイツと、本当に色んな馬鹿なことをやってきた。だから、これからも一緒に泣き笑いしてアホみたいな毎日をすごせたらなと本気で思っている。もちろん、こんなのは酷い願いだし、アイツの気持ちを考えたらなにもなかったことにするのはアイツを傷つけるってこともわかってる。でも、それでも、たとえアイツとこの関係がなくなったとしても、アイツには今まで通りでいてほしいんだ』

 緊張と恐怖で息が上がる中、俺は正直な気持ちを彼女に伝えた。たぶん息切れもしていたし、なにより耐えられなくなって涙声にもなっていたから、うまく伝えられたか自信がなかった。それでも、今の自分にできる範囲でありったけの気持ちだけは詰め込んだつもりだった。

 荒れる息がこだまする中、かすかなアラーム音が電話の向こうから聞こえてくる。一瞬なにかと思ったけど、時計を見てその理由がわかった。

『本当に変な話だよな。俺は、絶対にアイツだけは傷つけたくなかったのに、結果的に傷つけることしかできないなんてあんまりだよな。ほんと、人が人を好きになるってだけの簡単な話なのにさ、なんでこんなに恋愛って面倒くさくて辛いんだろうな』

『それは違うよ、拓海くん』

 しばらくの沈黙のあと、スマホ越しに聞こえてきたのは、意を決したような若林のハスキーがかった声だった。二十四時を迎えてシンデレラの魔法が解けた若林は、もう正体を隠すことはしなくなった。

『人が人を好きになるから、簡単なことじゃないと思うよ。でも、拓海くん君とこうしてやりとりしてわかったんだ。やっぱり、人を好きになるのも、やっぱり人なんだなってね』

 かすかに震える若林の声から、若林の気持ちが伝わってくる。若林は、電話を切らずに正体を明かしたことで、俺への気持ちにけじめをつけようとしているのだろう。

『拓海くん、こんなことにつきあわせてごめんね。でも、嬉しかったよ。やっぱり、君を好きになってよかったと思えたから、本当にありがとう』

 若林はそう告げると、『またね』といういつもの言葉を残すことなく電話を切った。その瞬間、波が引いたように静まりかえった部屋に、俺の荒い息と乱れた鼓動の音だけが虚しく広がっていった。

 ただの間違い電話から始まった恋。

 でも、本当は間違い電話ではなかった。

 本当は、若林の声だけでも恋愛したいという思惑がそこにはあった。

 その思惑に、俺は見事にはまってしまった。

 画面が消え、真っ暗になったスマホを握りしめる。

 もう二度と電話がかかってくることはないとわかった瞬間、胸の中に若林を傷つけたことへの強烈な痛みと、虚像の女の子に失恋した痛みが入り乱れて走り回り、俺はベッドに横になって声を殺して泣くしかなかった。