いつものようにあまり眠れないまま登校すると、同じクラスの田代が険しい顔で俺を出迎えてきた。

「藤原、その顔は、やはり女ができたな?」

 巨漢を震わせながら、赤い顔をした田代がいきなり細身の俺の胸ぐらをつかんでくる。柔道部の田代にしたら、文系の俺を押さえつけるのは赤子を相手にするのと同じく簡単なことだった。

「ちょっと待て、いつ俺に彼女ができたんだよ」

「その憂いた目が証拠だ。藤原、お前は男クラの鉄の掟を忘れたのかよ!」

 切実な想いがあふれるかのように、田代の大きな声が教室に響き渡っていく。その声に気づいた他の男子生徒たちが、積年の恨みがあるかのような視線を送ってきた。

 そう、ここは共学でありながら男子が多いという理由だけで男子のみが集まったクラスだ。だから、この地獄の一丁目で女子絡みの話をすることは、紛争地を裸で歩くくらい危険なことだった。

「ちょっと、田代くんやめなよ」

 朝から死の境界線に立たされた俺だったけど、そこに現れたのは救いの女神だった。

「いくら姫でも、邪魔はさせないからな」

 姫の制止を受けた田代だったけど、聞く耳持たずで俺をさらに締め上げ始めた。姫というのは、同じクラスの若林正輝のことで、身体は男だけど心は女子という性同一性障害の持ち主でもあった。

「あのね、もし拓海くんに彼女ができてたら憂いた目なんかにならないと思うよ。むしろ、幸せオーラ全開でみんなを見下すと思うけど」

 呆れた顔で腕を組んだ若林が、こんこんと田代を説得していく。そんな若林の力説が効いたのか、次第に田代の掴む手から力が抜けていった。

「そうか、まあそうだな。姫の言うとおりだ。藤原、悪かった」

「悪かったじゃないよ。まったく、朝からなんなんだよ」

 悪びれた様子で坊主頭をかく田代に、やられた分を悪態で返していく。そこに「まあまあ」と言いながら若林が入ってきたことで、すっかりいつもの朝の光景に戻っていった。

「姫、助かったよ。貸しができたな」

「へへ、いいのいいの。それより、見てみて。これ新しいネイルなんだよ」

 なんとか席についた俺に手を伸ばしてきた若林が、赤く光るネイルを見せてきた。

 ――ちょ、朝から近いんだけど

 若林は隣の席だから俺の隣に座るのはいいとして、それよりも不自然に身体を寄せてきたことで、さらさらの若林の黒髪から漂う甘いシャンプーの香りに意識が揺らぎそうになった。

 若林とは小学生の時からのつきあいだけど、見た目が中性っぽいこともあってか、当時からよく女の子に間違われるような言動をしていた。今は俺たちと同じ白の開襟シャツに黒の制服ズボン姿だけど、それでもどこか女性的な雰囲気があり、本人もカミングアウトしていることもあってクラスメイトからは姫と呼ばれていた。

 その若林と俺は、たまに本当につきあってるんじゃないかって疑われるくらいに仲がいい。正直、若林がカミングアウトした時も驚きはなかったし、むしろそのおかげで友情が深まった感じもあった。以来、あまり自分の意見や感情を出せない俺が唯一気がねなく接することができる仲であり、苦楽を共にしてきた親友よりも親友という感じが俺と若林の関係でもあった。

「か、かわいいんじゃないのか」

 いくら仲が良いとはいえ、近すぎる距離に妙に焦りを感じながらも、とりあえずの褒め言葉をたどたどしく伝えた。実際、若林の白く伸びる細い指先できらめく赤いネイルは、男の俺でも息をのむくらいに綺麗に見えた。

「ほんと? 頑張ったかいがあったよ」

 満面の笑みを浮かべながら、若林が今度はためらいなく俺に抱きついてきた。一瞬、地平線の彼方に飛んでいった意識が迷子になりそうだったけど、無理矢理引き戻して理性を保った。

「ねぇ、拓海くん」

 なんとか保った意識の中に、さらに追い打ちをかけるように若林の上目遣いが飛び込んできた。

「ちょっとだけ、甘えさせてよ」

 潤んだ瞳で見つめてくる若林に、再び意識が迷子になっていく。その間、そっと頭を俺の胸にあずけてきた若林は、なんとも言いようのない声をもらした。

 たまに女子モードが強くなったときに、若林は明らかに女性と変わらない声を出すことがある。どうやってやっているかは知らないけど、若林によると多少の時間なら女性の声で会話もできるらしい。

「あのさ、拓海くん、なにかあったの?」

 いつもの声に戻った若林が、明らかになにかを疑ってるような目を向けてきた。

「どうしたんだよ、急に」

「だって、田代くんの言ってたとおり拓海くんなんだか憂いた目をしてたから気になったんだ」

「べ、別に憂いていることなんかないんだけど」

 突然の若林の指摘に、戸惑いで声がかすれてしまった。当然、若林が俺の動揺を見逃すはずもなく、さらに距離を詰めては疑惑の瞳で見上げてきた。

「と、とにかくなんでもないから」

 まさか顔もわからない女性の声だけに恋をしかけているとも言えず、俺はむりやり苦笑いを作ってなんとか若林の追求から逃げることにした。