***


 八月中旬は夜の七時になると太陽が沈み、それでもまだ地面に薄く影ができる。俺はトランペットケースを背負って家に帰っていた。

 全国に行けなかったら引退。そんな未来は描きたくない。どうせなら、全国へ。そう思っているのに。

 結局、合奏でもソロの部分はうまくいかなかった。今日の午前中はいい調子で吹けていたのに、午後から突然スランプに陥ってしまった。

『ダメだ。今日のトランペットソロは後藤でいく。長谷川。本番明後日だからな。分かってんのか』

 今日の合奏でソロの交代を命じられた。全国に行くためなら顧問だって鬼になる。メンバーの交代など珍しいことではない。一秒たりとも気が抜けないっていうのに、俺は別のことに気を取られていた。

『野球部、決勝行くってよ』

 一足先に全国に行った大地。そして明後日、決勝で闘う幼馴染。

 このままでいいのだろうかと、心のどこかが声を上げる。

『太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!』

 そう笑われたことは許していないし、大地の左頬を殴った感触はまだ残っている。

 人の憧れを笑った大地が悪いのか、手を出してしまった俺が悪いのか。

「あ、太一だ」

 自分の家があるマンションが見えてきたとき、そのマンションから出てきた海美と遭遇した。ウェルカム蚊と言わんばかりのノースリーブに短パン姿。がま口財布を持っているのでコンビニにでも行くのだろう。

 正直、今会いたくない幼馴染だ。

「あぁ」
「部活帰り? お疲れさまー」
「おう」

 ちょっと高い声がなぜか鼻につく。なるべく会話を避けて早く家に帰りたい。

「じゃあな」
「え、なんか冷たくない? もしかして機嫌悪い?」
「……別に」
「話聞いてあげよっか?」
「必要ない」

 スッと海美の横を通り過ぎた。これ以上会話を続けられたくない。早く家に帰ってソロのイメトレをしないと。

「太一」
「んだよ」
「大地、決勝だよ? 仲直り、しないの?」

 虫が目の前を通過する。

 抑えていた感情のリミッターが外れる音がした。コイツに俺のなにが分かる。

「……るさい」
「え? なに? 聞こえな」
「うるさいっつってんだよ! ほっといてくれ!」
「太一?」
「全部あいつが悪いんだよ! 甲子園がそんなに偉いか? 夏は野球部のためにあるんじゃないんだよ!」
「ちょ、太一」
「うるせぇついてくんな!」

 思春期くらいイラついた。海美は俺のことも応援してくれているのに、ソロがうまく吹けなかった八つ当たりだった。

 眉尻を下げた海美の視線が俺に突き刺さる。でも俺は無視してマンションのエントランスに入った。

 大地が言った通り、俺にトランペットなど似合ってないことくらい本当は分かっていた。理想と現実は違って、くじけそうになる瞬間はいつも隣にあった。それでも俺は辞めなかった。俺だって全国に行きたい。

 甲子園に行きたいと言った大地。後輩から疎まれても平気な素振りをした大地。野球を辞めると言った俺に『そんなしょうもないことで辞めるな』と言った大地。『一緒に甲子園に行きたい』と言った大地。そして、先に甲子園に行った大地。

「一番クソなのは俺だ……」

 だた、悔しかった。中学の頃から努力して本当に甲子園へ行った幼馴染がうらやましくて、その幼馴染に笑われたトランペットが似合う奴になって、見返してやりたかった。努力したのはお前だけじゃないと、言ってやりたかった。

 感情をうまくコントロールできないくせしてソロが吹きたいなんて。どの口が言ってんだ。

「あーっもう!」

 グチャグチャの頭を搔きむしると、背負ったトランペットケースが肩からズレ落ちた。
 ピンポーン、と家のインターホンが鳴ったのは、翌日の午前六時だった。

 すでに起きて制服に着替えていた俺は、母親に頼まれて玄関を開けた。

「はいー、どちらさま……」

 回覧板かと思っていた。朝早い近所のおばさんが「次は長谷川さんちなの」と朝っぱらから化粧のにおいを放ちながらバインダーを手渡してくるんだろうな、と考えていたのに。

「おはよ、太一」

 ニッコリと笑った海美がいた。

「……海美」
「もう制服じゃん。早いね」
「まぁ、支部大会明日だし、今日はホール練だから……」
「そっか」

 すでに日は昇っていて、セミも仲間たちと合唱を始めている。
 昨日の今日でなんとなく気まずい。

「……どした? こんな朝早くに」
「んーと……紹介したい人が、います?」

 なぜか疑問形で海美は後ろに下がった。開け放たれた玄関からは死角になっていて、海実は俺からは見えない隣に視線を動かし「ほら、早く」と小声で誰かを急かしている。

 こんな朝早くから紹介したい人? どこの誰だよ。

 開けたドアの向こう側をのぞき込んで、「あ」と声が漏れた。そこには、茶色いシミの付いたユニフォームを着た甲子園球児がいた。ちょっとだけ目が合って、すぐ逸らす。

「大地……」
「……なんか、久しぶりだな」

 俺は玄関から完全に出て、後ろでドアが閉まる音を聞いた。視線が合わないところで、俺と大地は向かい合っている。

 唐突にトランペットが吹きたくなった。山の上で小さく見える家々を眺めながら、ありったけの息を吸い込んで近所迷惑なくらいの大音量で吹き鳴らしたい。俺とトランペットは一心同体なわけで、俺の気持ちをトランペットに代弁してもらってもおかしくないよな? ちなみにトランぺッターはトランペットのことを『ペット』もしくは『ラッパ』と呼ぶんだけれど『ペット』のイントネーションは動物の『ペット』ではなくペットボトルの『ペット』である──

「オジャマ虫の私は消えまーす」

 海美が俺に下手くそなウィンクを見せて姿を消した。ちょっと待て。変な気を使わなくていいからそばにいてほしかった。いや、変な意味じゃなくて。

 すぐ近くで泣いていたセミの声が、心なしか遠ざかって聞こえた。

「…………」

 べらぼうに気まずい。同じマンションに住み、同じ高校に通っているというのにこうして二人で面と向かうのは中学三年の夏以来だ。俺が大地を避けてきたのか、大地が俺を避けてきたのか……こうして家に来たということは、きっと前者だ。

 だから、先に口を開いたのはやっぱり大地だった。

「……吹奏楽、頑張ってんだな」

 大地と俺の間には低音のティンパニ一台分の距離があった。一人が手を伸ばしても相手には届かないけれど、二人で手を伸ばせばその手に触れられる距離。

「うん。コンクールメンバーに選ばれるくらい、頑張ってる」
「……そうか」
「そういう大地こそ、野球頑張ってんだな。甲子園出場ってだけですごいのに、決勝まで勝ち進むなんて」
「まぁ、俺だけの力じゃないけどな」

 大地と目を合わせて話すのは、初見の楽譜を30秒で覚えろと言われているくらいに難しいことのような気がしていたが、案外簡単だった。しっかりした意志を持った大地の目に吸い込まれそうになる。

『太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい』

 あの日そう言っていた大地の目と、何ら変わりなかった。そんな変わらない所に俺の心は音の出だしがみんなで揃ったときのようにホッとする。あぁ、やっぱり大地だ。

 すると大地は視線を落として「あのさ」と下を向いた。

「海美が言ってたんだけど、甲子園決勝の日、『何日だ』って言ってないのに日にち知ってたって、本当?」

 突然の意外な質問に面食らう。そんなの聞いてどうするんだ?

「まぁ、そりゃ、テレビでも散々言ってたし、コンクールとかぶってんだから気にしてなくても覚えてるだろ」
「……ふっ」

 大地は下を向いたまま、微かに肩を震わせた。え、泣いてんのか? どこにそんな要素あった?

「大地……?」
「くくっ……あっはっは!」

 汚れが落ち切っていないユニフォーム姿で、大地は突然笑い出した。お腹を押さえながら身体を前に倒し、笑い茸でも食べたのかっていうくらい笑っている。俺は訳が分からず「何?」と眉をひそめた。

「ご、ごめっ……ちょっと待って……」
「何なんだよ。理由によっては手が出るぞ」
「ごめんて……お前、すぐ手が出るもんなっ……あー、可笑し」

 少し汚れた手で大地は目元を拭った。ダジャレを言ったわけでもネタを披露したわけでもないのに、なんでそんなに笑われなきゃいけないんだ。

 不満顔全開の俺に対し、大地は姿勢を正して俺を見た。

「太一さ、吹奏楽のコンクールでソロあんの?」
「え?」
「だって、毎日、これ見よがしにグラウンドに向かって吹いてるじゃん」
「あぁ、まぁ、そうだけど」

 地表の熱が段々と上がってきて、朝の風が薄く吹いた。大地はコルネットの音色のように柔らかく微笑む。

「去年まで太一、吹部で野球応援の方やってたじゃん? でも今年はアルプスに太一がいなくて、野球のこと嫌いになったのかなって思ってたんだ。見たくもないから野球応援してくれないのかなって。海美に『コンクールの方に出るらしいよ』って聞いた時は、正直ホッとした。なんだ、嫌いになったわけじゃなかったんだって……その証拠に、野球部が練習してるグラウンドを見下ろしながらトランペット吹いてた」
「それは……」

 俺は言葉に詰まった。
 確かにソロの練習をするときは校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を選ぶことが多かった。ソロを任された責任と、俺なんかに務まるのかという不安が俺の中に渦巻くとき、自然と足がそこに向かうのだ。

「おーい! 声出してくぞーっ!」
「っしゃおらー!」
「こーい!」

 グラウンドが見下ろせる外廊下。白いユニフォームが黒くなる様子や打ち上がった白球の行方を目で追える場所。

 なぜかそこが落ち着いた。荒立っていた心の波が穏やかになるような気がした。

 かつてバッテリーを組んでいた幼馴染が、マウンドでチェンジアップの練習をしている。それを見ると、トランペットの重量を感じなくなっていた。楽器を構え、すぅっと曲がらないストローのように真っ直ぐ息を吸い込む。その勢いのまま息を出して音を鳴らす。

 青空と太陽の下で、俺はトランペットで歌を歌った。

「……っは」

 余韻を残して唄口から口を離す。その眼下では野球部員がノックの練習や素振りの練習をしている。

 よし、もう一回——

「……なんか分かんねぇけど、大地らの練習を見ながらソロ吹くと、上手く鳴ってる気がしたんだ。高音もすんなり当たるし、息も苦しくない。だから本番でも上手くできるように目に焼きつけておこうと思って」

 目を閉じればいつだってその情景が思い浮かぶくらいには、大地らの練習を見ながらトランペットを吹いたと思う。

 大地がぼそりと呟いた。

「太一がさ、そうやって俺をたきつけるから、甲子園決勝まで行っちゃったよ」
「え?」
「元バッテリーの大事な幼馴染が、俺が似合わないって言ったトランペットをこれ見よがしに吹きこなしてて、悔しくて悔しくて、それが俺の力になった!」

 いつの間に距離を詰めていたのか、ドン、と胸を叩かれた。俺より少しだけ高い背丈。茶色く焼けた顔、腕。洗っても落ちない、汚れたユニフォーム。汗臭い身体。

 セミが近くの木に止まって声を上げた。

 大地の表情がフッと暗くなる。そして頭を下げた。

「ごめんな、太一。あの時、似合わないって笑って」

 本当にごめん、といがぐり頭が俺の眼下に差し出される。中学よりも体格がよくなった大地だが、頭の形といがぐり具合は変わっていないことに気がついた。

 あんなに言えなかった言葉が、俺の口からスッと出る。

「いや、俺こそ殴ってごめん」

 大地と同じように頭を下げると、大地の足元が目に入った。スニーカーでもスパイクでもなく、サンダルを履いた足。大方、海美に引っ張られるがまま来たのだろう。そう思うと鉛を抱えていた心が急に軽くなった。

 大地は俺と目を合わせて言う。

「太一にはトランペットが似合うよ。パーッって真っ直ぐブレない音、カッコいい」
「いや、大地こそストレート速いし変化球も上手いじゃん。あれを受けられるキャッチャーが羨ましいよ」
「じゃあ今度キャッチボールしようぜ」
「あ、出た。キャッチボールという名の投球練習」

 顔を見合わせて、俺たちは吹き出した。マンションの廊下に、俺たちの笑い声が駆ける。今まで一体何をいがみ合っていたのか。いや、いがみ合いなんてしていなかった。お互いにいないものだと思いながら、でも実は常に気にしていたのだ。俺が甲子園の決勝の日を知っていたように、そして大地が俺のトランペットを聞いて嫉妬したように。

「大地が先発?」
「おうよ。背番号1のエースだからな」
「初球からホームラン打たれたら大爆笑だな」
「太一こそコンクールのソロで音外したら腹抱えて笑ってやるよ」

 あー、そうそうこんな空気だった。お互いに譲らない感じ。懐かしいと感じてしまうほどに大地とは疎遠になっていたということか。こうして話してしまえば一瞬であの頃に戻れたというのに。何か、意地を張っていたのがバカみたいだ。

「頑張れよ、太一」
「大地も頑張れよ」

 俺たちはニヤリと笑って拳を合わせた。
「太一。改めて全国出場、おめでとう!」

 キャッチボールにしては獲物を目がけて飛んでくる鷹のような速さの白球が投げられる。

「ぎゃっ! おい怖ぇよ! 俺が野球から離れて何年経ってると思ってんだよ!」

 大地と同じように剛速球で返したいのだが、いかんせんすっかり肩が弱くなっている。腹筋なら負けない自信があるのに。

「悪い。どうしても太一を前にするとバッテリーの血が騒いで」
「……お前、俺のこと好きすぎない?」

 パシン、パシン、とリズムよくお互いのグローブにボールを収めていく。あぁ、そうそうこんな感じだった。でも何か少しだけ違和感がある。

「なぁ大地。何か、球、小さくね?」
「は? そりゃ太一の手がデカくなったんだろ」
「……なるほど」

 成長の証を確認するのに結局野球なわけか。思わずフッと鼻から息が漏れた。

 公園の木に止まったセミがジーワジーワと大合唱している。太陽は真上にあり、大地のおでこには玉の汗が浮かんでいた。

「そうそう。海美のやつ、本当に実況してきてたぞ。コンクール終わってスマホ見たら通知が200件越え。グループメッセでもそんな溜めたことないのに。あれは恐怖だったわ」
「ははっ。それはそれはご迷惑をおかけしまして」

 パシン、パシン、ジーワ、ジーワ、パシン、パシン。キャッチボールとセミの声が交差する近所の公園。大地とキャッチボールをしながら、俺は昨日のことを思い返した。


────


 試合もコンクールも昨日だった。野球の決勝戦は午後二時から、吹奏楽の支部大会の出番は午後四時から。会場に向かうバスの中で、海美から一通目が来た。

『もう少しで始まるよ! 太一も頑張って!』

 イルカが「ガンバ!」と書いたプラカードを持っているスタンプがその後に続く。

 俺はスマホの電源を切った。別に海美の通知がうるさかったわけではない。野球の結果で一喜一憂されないように、スマホで試合結果を追うことをコンクール組全体で禁止されていたのだ。決めたのは自分たち。野球部も頑張ってるから俺たちも頑張ろう、というモチベーションにしたかった。

 出番が終わる頃には試合も終わっているだろう。結果を知るのは自分たちの演奏が終わった後だ。

 そりゃ気にならないわけがなかった。なんせ甲子園の決勝だ。テレビ中継だってされている。うちの家族も大地の勇姿を見ようとテレビにかじりつくと言っていた。息子のコンクールよりもそっちが大事だって。まぁ別にいいけど。

 でも本番が近づくにつれ、俺たちは目の前のコンクールに集中した。楽屋での音出し、チューニング、課題曲の出だし、自由曲の出だし、曲のイメージ、音の処理、縦の線と横の線……すべてを55人で共有して舞台裏で出番を待つ。

 舞台裏に行くとまだ前の学校が演奏していた。不思議なことに舞台裏だと他校の演奏がめちゃめちゃ上手く聞こえるからすごく凹む。

 俺は目を閉じてソロの部分をイメトレした。派手すぎず地味すぎず、跳躍は力まないで、十六分音符による三連符は転がらないように。頭に鳴り響く吹奏楽の音に合わせて、青い空に白球が打ち上がるのが見えた。誰かが「オーライ!」と声を上げる。そこにトランペットの音を重ねて、一緒に甲子園に連れて行ってもらう。

 野球部の甲子園と、吹奏楽部の甲子園。舞台は違えど、目指す場所は同じだ。

 大きな拍手が観客席から聞こえた。前の学校の演奏が終わり、椅子と譜面台の位置が職員の手によって変えられていく。

『コンクールのソロで音外したら腹抱えて笑ってやるよ』

 誰が外すもんか。今に見てろクソ大地。

 俺は目を開けて、舞台へ行くための一歩を踏み出した。

***

「悪い、トイレ行ってくる!」

 出番が終わり、俺は楽器を片付けた後、トラックへ楽器を積み込む搬出作業を手伝わずにトイレに駆け込んだ。お腹が痛かったわけじゃない。個室に入ってスマホの電源を入れ、メッセージアプリを開く。

 海美から200件を超えるメッセージが届いていた。最終メッセージは午後四時九分。『海美がスタンプを送りました』となっていた。

 ニュースアプリを開けば一発で結果が分かることは知っている。それを見てすぐ搬出の手伝いに行けばいいことも分かっている。でも、どうしても結果だけ見るのが嫌だった。こうして海美が実況してくれたのだ。どんな試合だったのか知りたい。

「ふぅ……」

 コンクールは終わったというのに俺の緊張はまだ続いている。意を決して海美のトーク欄をタップした。

『ここから未読』から順に読んでいく。

『始まった!』
『向こうが先制』
『先発は大地』
『1球目、空振り』
『2球目、空振り』
『3球目、空振り三振、1アウト』

 ここまで読んで、マジかと思った。あいつ、一球ずつ実況したのか? まとめてでいいんだけど。試合に集中してやれよ、兄貴の試合だろ。

 しかし海美もそう思ったのか、次からは一人ずつの実況になった。

『2人目。打ったけどフライで取って2アウト』
『3人目。同じく上がった球を取って3アウト。チェンジ!』
『1回目裏、大地たちの攻撃』
『大地、あ、打った! ツーベース!』
『2人目、送りバント! 1アウト3塁っ』
『3人目、打った! 取られた! 大地ホームベース! 先制!』

 なんだこの実況は。分かるけどさ。3人目は犠牲フライだったわけだ。そうか、先制したのか。次のバッターは打ち上げて3アウト。

 0-1。攻守交代。

『うわ、打たれた! 1塁に出た』
『おい大地しっかりしろ! フォアボールで1、2塁』
『よし、打ち取った! 1アウト2、3塁』
『ぎゃああああやられた! 同点! くうううう』
『よし、3アウトチェンジ!』

 おい、こいつ実況下手くそかよ。でもまぁ、先制したのも束の間、すぐ同点に追いつかれたということが分かるだけでもいいか……

 なんか、まだ1回が終わっただけなのに疲れたな。

 しかし、そこからお互いが拮抗を繰り広げ、8回裏が終わってもまだ1-1のままだった。スマホを持っていない左手が何か痛いと思ったら、知らない間に握りしめていたようで、手のひらに爪の跡がついた。

『9回表。相手の攻撃。ピッチャーは変わらず大地』

 すでに投球数は140を超えているはずだ。疲れを見せるなよ、大地……

『えっ! 初級でソロホームラン打たれたぁあああああ! おい、大地! しっかりしろ!』

 おいおいおいおいマジかよ。逆転された。ホームランはキツイ。ピッチャー交代か?

『あああ打ち取った。1アウト』

 よし、ひとまずは安心……

『ああああああ! ヒットだ! ツーベース踏まれた! ああああ大地いいいいい』

 うおおおおお塁に出すなよ大地! もっと踏ん張れ!

『うげ、送りバントだよ! 2アウト1、3塁からの次、4番バッターだと!?』

 何ぃいいいいい! 大地! 何としても打たせるな!

『ひぃいいいいいいぃぃぃ!』

 何だ!? どうなった!?

『ホームラン。彼は英雄だよ。3点追加』

 何で急に冷静なんだよ……あぁ、そうか……1-5ってわけか。

『見逃し三振。大地ら最後の攻撃』

 お前が落ち込んでどうする。まだ巻き返せるのに。最後まで熱を持ってだな……

『おいおいおいおい! こっちもソロホームランだよ! 2-5! 巻き返せぇぇぇっ!』

 おおお、打ったか! うん、誰が打ったか教えて欲しいな。でも、そうか。いいぞ、頑張れ!

『んーっ! フライ! 1アウト』

『おっ! 打った! ヒットだ! あーん、でも近いなー。1塁』

 近いってなんだ近いって。

『あら、相手ピッチャーも疲れてるのかな? フォアボールで出塁。1アウト1、2塁』

 うわー。なんか心臓痛いな……スクロールする指が止まる。

 もう少しで終わる気配を感じて、一度目を閉じた。俺も悔いのない演奏をしたんだから、大地も悔いのない試合をして欲しい。俺は課題曲の出だしも、自由曲の出だしも、ソロだって失敗せずにホールに響かせた。自惚れていると笑われるかもしれないが、みんなの心がひとつになってとてもいい演奏だった。絶対に全国に行ける——それくらいの自信はあった。

 だから、大地も、優勝旗を勝ち取れ。

 深呼吸して目を開けた。ゆっくりと下から上にスクロールする。

『送りバント成功! 2アウト満塁っ!』
『おーっとここでエースの大地登場!』
『逆転サヨナラ満塁チャーンス!』

 白熱ぶりが伝わってくる。うわ、手に汗かいてきた。大地、頼む!

『ストライク!』
『ボール!』
『ボール!』
『ストライク!』
『ボール!』

 フルカウントだ。ラスト一球。追い込んだのか、追い込まれたのか。

 我が吹奏楽部は各選手ごとに曲を変えていて、確か大地がバッターに立った時に吹かれる曲は『狙いうち』だったはずだ。金管楽器がメインでパーンと音が跳ねるアップテンポな曲。甲子園球場には吹奏楽部の演奏と、応援団の声援、チアリーディングの声援が響いていただろう。その応援を背負った大地の姿は、想像に難くない。暑さも感じず、ただ真っ直ぐ相手ピッチャーを見据え、バッドを握り、白球のアーチを描くことだけを考えていたはずだ。

 お前が打たなきゃ誰が打つ。

 ピッチャー振りかぶって、投げたっ!

『空振りさんしん。ゲームセット』

 最後に、イルカがアイスのように溶けたスタンプが送られてきていた。


────


 大地が投げてきたボールをキャッチして、そのまま送り返す。

「なぁ大地」
「ん?」
「ヒーローになり損ねたな」
「おうよ。最後まで俺を信じてくれた監督を、欺いちまった」
「だな」
「……いや、慰めねぇの?」
「俺が? 大地を?」
「うん」
「はははっ。まさか。え、何、まさか大地、俺に慰められたいの?」
「……太一ってホントいい奴だよな」

 大地は泣き笑いの顔で白い歯を見せた。褒めてんのか貶してんのか分からない。

 ジーワジーワ、パシンパシン。

「あーあ。引退だよ。そんで受験だよ」
「頑張れ」
「他人事じゃないだろ、太一も。全国大会っていつ? 引退しないわけ?」
「十月。引退はしない。つーかできなくね? その全国目指してやってきたんだし。最後まで出させてよ」

 音大に行く人ならまだしも、音楽系の進路を希望していない受験生が10月まで部活をやってていいのか、という声は親御さんから出ないわけではない。ただでさえ受験生にとって大切な夏休みを、コンクールに注いできたのだ。それが終われば受験に身を入れてくれる、と家族は考えるだろう。

 勉強をしないといけないことは、本人が一番よく分かっている。楽器は一日サボると取り戻すのに三日かかると言われているので、休みは今日だけで明日からまた練習が始まる。だから勉強は二の次になる。それでも、俺たちは全国へ行きたい。いや、行くのだ。

「いいなぁ太一は。まだ部活やれんのか」
「だろ? 俺の青春はまだ終わらないんだぜ」
「……ダサいなそれ」
「安心しろ。言った本人が一番そう思ってる」

 俺が投げたボールは、大地のグローブに吸い込まれるように入っていった。パン、と心地いい音が響く。

 夏の空は心なしか位置が高い。

「でもさ、大地」
「うん」
「大地が空振り三振で終わってよかったって思うよ。これで見逃し三振だったら今日のキャッチボール断ってたわ」

 そう言うと大地は「あはは」と声に出して笑った。

「そうだな。確かに最後は思いっきり振ったしな。だから悔いもない」

 大地の投げたボールが俺のグローブにスッポリ入る。バシン。うーん、やっぱり強い。

「プロ目指さねぇの? 大地だったら球団から声掛かりそうだけど」
「んー。プロ野球選手になろうとは思わないな」
「なんで? 上手いのに」
「……じゃあ太一はプロのトランペット奏者になろうと思ってんの?」
「……いや? 思ってない」
「それと一緒だよ」
「あーね」

 キャッチボールというのは中々面白いな。ただボールを投げ合うだけじゃなくて本音まで投げ合えるなんて。このまま大地の好きな人とか聞いてみたい気もするが、「女より野球!」って言われそうだからやめとこう。

「プロの野球選手は目指さないけどさ」
「うん」
「大学でも野球はやりたいと思うよ」
「……そうか。俺もトランペットは続けたいと思ってる」
「あ、いたいた! 太一ぃ! 大地ぃ!」

 キャミソールと短パンにサンダルを履いた大地の妹が、手を振りながら公園に入ってきた。大地が「二人いると絶対太一を先に呼ぶよな」と呟く。そうなの? 気にしたことなかった。

 海美は何かが入った袋をカサカサと掲げた。

「アイス買ってきた! 食べる?」
「おぉ、サンキュー。ほれ、太一」
「おう。いただきまーす」

 大地から棒のついたアイスキャンディーを受け取る。やった、俺の大好物のゴリゴリくんのソーダ味だ。シャリシャリ触感がたまんないんだよな。いいね、夏最高だね。

 海美は何事もなかったかのように「太一、全国出場おめでとー!」とアイスを掲げて乾杯を求めてきた。

 おずおずと自分のアイスを差し出しながら「この前はごめんな」と謝罪を添えた。海美は一瞬キョトンとしたが、すぐ笑みを浮かべて「タイミングが悪かったんでしょ。全然気にしてないよ」とアイスをかじった。

 海美っていい奴だよな、と時々思う。時々だけど。

「私の奢りなんだからねー。味わって食べてよ」
「げ。毒とか入ってないだろうな」
「何よ、太一。文句言うならあげません」
「いや、もう開けちゃったしな。食べないと溶けてもったいないし」
「別にいいよ。私が二個食べるし」
「いやいや……っておい、マジで食うなよ! おい、手を離せっ」
「うーん、美味しい! やっぱり自分のお金で買ったアイスは格別だよねー!」
「おいふざけんな……って近いんだよ! 離れろバカ」
「バカって言う方がバカなんですぅ」
「……太一。俺、帰ろうか? 邪魔だよな?」
「何でだよっ!」

 数秒でアイスが砂場に吸い込まれるほどギラギラした太陽の下で、俺たちは確実に前を向いて進んでいる。立ち止まってた期間もあるけれど、進みだした時計はもう歩みを止めることを知らない。俺たちの青春も、きっと、そんな感じだ。

「ねぇ、写真撮ろ! 自撮り!」
「最近の子はすぐ写真撮りたがるよな」
「太一、それジジイの発言だよ」
「太一、それジジイの発言だな」
「ハモんな兄妹!」

 今日もトランペットは高らかに鳴り響く。限りない青春を、歌うために。

「もう、いいから、ほら撮るよ~! ハイ、チーズっ」

 パシャッ。



END.

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