ピンポーン、と家のインターホンが鳴ったのは、翌日の午前六時だった。
すでに起きて制服に着替えていた俺は、母親に頼まれて玄関を開けた。
「はいー、どちらさま……」
回覧板かと思っていた。朝早い近所のおばさんが「次は長谷川さんちなの」と朝っぱらから化粧のにおいを放ちながらバインダーを手渡してくるんだろうな、と考えていたのに。
「おはよ、太一」
ニッコリと笑った海美がいた。
「……海美」
「もう制服じゃん。早いね」
「まぁ、支部大会明日だし、今日はホール練だから……」
「そっか」
すでに日は昇っていて、セミも仲間たちと合唱を始めている。
昨日の今日でなんとなく気まずい。
「……どした? こんな朝早くに」
「んーと……紹介したい人が、います?」
なぜか疑問形で海美は後ろに下がった。開け放たれた玄関からは死角になっていて、海実は俺からは見えない隣に視線を動かし「ほら、早く」と小声で誰かを急かしている。
こんな朝早くから紹介したい人? どこの誰だよ。
開けたドアの向こう側をのぞき込んで、「あ」と声が漏れた。そこには、茶色いシミの付いたユニフォームを着た甲子園球児がいた。ちょっとだけ目が合って、すぐ逸らす。
「大地……」
「……なんか、久しぶりだな」
俺は玄関から完全に出て、後ろでドアが閉まる音を聞いた。視線が合わないところで、俺と大地は向かい合っている。
唐突にトランペットが吹きたくなった。山の上で小さく見える家々を眺めながら、ありったけの息を吸い込んで近所迷惑なくらいの大音量で吹き鳴らしたい。俺とトランペットは一心同体なわけで、俺の気持ちをトランペットに代弁してもらってもおかしくないよな? ちなみにトランぺッターはトランペットのことを『ペット』もしくは『ラッパ』と呼ぶんだけれど『ペット』のイントネーションは動物の『ペット』ではなくペットボトルの『ペット』である──
「オジャマ虫の私は消えまーす」
海美が俺に下手くそなウィンクを見せて姿を消した。ちょっと待て。変な気を使わなくていいからそばにいてほしかった。いや、変な意味じゃなくて。
すぐ近くで泣いていたセミの声が、心なしか遠ざかって聞こえた。
「…………」
べらぼうに気まずい。同じマンションに住み、同じ高校に通っているというのにこうして二人で面と向かうのは中学三年の夏以来だ。俺が大地を避けてきたのか、大地が俺を避けてきたのか……こうして家に来たということは、きっと前者だ。
だから、先に口を開いたのはやっぱり大地だった。
「……吹奏楽、頑張ってんだな」
大地と俺の間には低音のティンパニ一台分の距離があった。一人が手を伸ばしても相手には届かないけれど、二人で手を伸ばせばその手に触れられる距離。
「うん。コンクールメンバーに選ばれるくらい、頑張ってる」
「……そうか」
「そういう大地こそ、野球頑張ってんだな。甲子園出場ってだけですごいのに、決勝まで勝ち進むなんて」
「まぁ、俺だけの力じゃないけどな」
大地と目を合わせて話すのは、初見の楽譜を30秒で覚えろと言われているくらいに難しいことのような気がしていたが、案外簡単だった。しっかりした意志を持った大地の目に吸い込まれそうになる。
『太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい』
あの日そう言っていた大地の目と、何ら変わりなかった。そんな変わらない所に俺の心は音の出だしがみんなで揃ったときのようにホッとする。あぁ、やっぱり大地だ。
すると大地は視線を落として「あのさ」と下を向いた。
「海美が言ってたんだけど、甲子園決勝の日、『何日だ』って言ってないのに日にち知ってたって、本当?」
突然の意外な質問に面食らう。そんなの聞いてどうするんだ?
「まぁ、そりゃ、テレビでも散々言ってたし、コンクールとかぶってんだから気にしてなくても覚えてるだろ」
「……ふっ」
大地は下を向いたまま、微かに肩を震わせた。え、泣いてんのか? どこにそんな要素あった?
「大地……?」
「くくっ……あっはっは!」
汚れが落ち切っていないユニフォーム姿で、大地は突然笑い出した。お腹を押さえながら身体を前に倒し、笑い茸でも食べたのかっていうくらい笑っている。俺は訳が分からず「何?」と眉をひそめた。
「ご、ごめっ……ちょっと待って……」
「何なんだよ。理由によっては手が出るぞ」
「ごめんて……お前、すぐ手が出るもんなっ……あー、可笑し」
少し汚れた手で大地は目元を拭った。ダジャレを言ったわけでもネタを披露したわけでもないのに、なんでそんなに笑われなきゃいけないんだ。
不満顔全開の俺に対し、大地は姿勢を正して俺を見た。
「太一さ、吹奏楽のコンクールでソロあんの?」
「え?」
「だって、毎日、これ見よがしにグラウンドに向かって吹いてるじゃん」
「あぁ、まぁ、そうだけど」
地表の熱が段々と上がってきて、朝の風が薄く吹いた。大地はコルネットの音色のように柔らかく微笑む。
「去年まで太一、吹部で野球応援の方やってたじゃん? でも今年はアルプスに太一がいなくて、野球のこと嫌いになったのかなって思ってたんだ。見たくもないから野球応援してくれないのかなって。海美に『コンクールの方に出るらしいよ』って聞いた時は、正直ホッとした。なんだ、嫌いになったわけじゃなかったんだって……その証拠に、野球部が練習してるグラウンドを見下ろしながらトランペット吹いてた」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。
すでに起きて制服に着替えていた俺は、母親に頼まれて玄関を開けた。
「はいー、どちらさま……」
回覧板かと思っていた。朝早い近所のおばさんが「次は長谷川さんちなの」と朝っぱらから化粧のにおいを放ちながらバインダーを手渡してくるんだろうな、と考えていたのに。
「おはよ、太一」
ニッコリと笑った海美がいた。
「……海美」
「もう制服じゃん。早いね」
「まぁ、支部大会明日だし、今日はホール練だから……」
「そっか」
すでに日は昇っていて、セミも仲間たちと合唱を始めている。
昨日の今日でなんとなく気まずい。
「……どした? こんな朝早くに」
「んーと……紹介したい人が、います?」
なぜか疑問形で海美は後ろに下がった。開け放たれた玄関からは死角になっていて、海実は俺からは見えない隣に視線を動かし「ほら、早く」と小声で誰かを急かしている。
こんな朝早くから紹介したい人? どこの誰だよ。
開けたドアの向こう側をのぞき込んで、「あ」と声が漏れた。そこには、茶色いシミの付いたユニフォームを着た甲子園球児がいた。ちょっとだけ目が合って、すぐ逸らす。
「大地……」
「……なんか、久しぶりだな」
俺は玄関から完全に出て、後ろでドアが閉まる音を聞いた。視線が合わないところで、俺と大地は向かい合っている。
唐突にトランペットが吹きたくなった。山の上で小さく見える家々を眺めながら、ありったけの息を吸い込んで近所迷惑なくらいの大音量で吹き鳴らしたい。俺とトランペットは一心同体なわけで、俺の気持ちをトランペットに代弁してもらってもおかしくないよな? ちなみにトランぺッターはトランペットのことを『ペット』もしくは『ラッパ』と呼ぶんだけれど『ペット』のイントネーションは動物の『ペット』ではなくペットボトルの『ペット』である──
「オジャマ虫の私は消えまーす」
海美が俺に下手くそなウィンクを見せて姿を消した。ちょっと待て。変な気を使わなくていいからそばにいてほしかった。いや、変な意味じゃなくて。
すぐ近くで泣いていたセミの声が、心なしか遠ざかって聞こえた。
「…………」
べらぼうに気まずい。同じマンションに住み、同じ高校に通っているというのにこうして二人で面と向かうのは中学三年の夏以来だ。俺が大地を避けてきたのか、大地が俺を避けてきたのか……こうして家に来たということは、きっと前者だ。
だから、先に口を開いたのはやっぱり大地だった。
「……吹奏楽、頑張ってんだな」
大地と俺の間には低音のティンパニ一台分の距離があった。一人が手を伸ばしても相手には届かないけれど、二人で手を伸ばせばその手に触れられる距離。
「うん。コンクールメンバーに選ばれるくらい、頑張ってる」
「……そうか」
「そういう大地こそ、野球頑張ってんだな。甲子園出場ってだけですごいのに、決勝まで勝ち進むなんて」
「まぁ、俺だけの力じゃないけどな」
大地と目を合わせて話すのは、初見の楽譜を30秒で覚えろと言われているくらいに難しいことのような気がしていたが、案外簡単だった。しっかりした意志を持った大地の目に吸い込まれそうになる。
『太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい』
あの日そう言っていた大地の目と、何ら変わりなかった。そんな変わらない所に俺の心は音の出だしがみんなで揃ったときのようにホッとする。あぁ、やっぱり大地だ。
すると大地は視線を落として「あのさ」と下を向いた。
「海美が言ってたんだけど、甲子園決勝の日、『何日だ』って言ってないのに日にち知ってたって、本当?」
突然の意外な質問に面食らう。そんなの聞いてどうするんだ?
「まぁ、そりゃ、テレビでも散々言ってたし、コンクールとかぶってんだから気にしてなくても覚えてるだろ」
「……ふっ」
大地は下を向いたまま、微かに肩を震わせた。え、泣いてんのか? どこにそんな要素あった?
「大地……?」
「くくっ……あっはっは!」
汚れが落ち切っていないユニフォーム姿で、大地は突然笑い出した。お腹を押さえながら身体を前に倒し、笑い茸でも食べたのかっていうくらい笑っている。俺は訳が分からず「何?」と眉をひそめた。
「ご、ごめっ……ちょっと待って……」
「何なんだよ。理由によっては手が出るぞ」
「ごめんて……お前、すぐ手が出るもんなっ……あー、可笑し」
少し汚れた手で大地は目元を拭った。ダジャレを言ったわけでもネタを披露したわけでもないのに、なんでそんなに笑われなきゃいけないんだ。
不満顔全開の俺に対し、大地は姿勢を正して俺を見た。
「太一さ、吹奏楽のコンクールでソロあんの?」
「え?」
「だって、毎日、これ見よがしにグラウンドに向かって吹いてるじゃん」
「あぁ、まぁ、そうだけど」
地表の熱が段々と上がってきて、朝の風が薄く吹いた。大地はコルネットの音色のように柔らかく微笑む。
「去年まで太一、吹部で野球応援の方やってたじゃん? でも今年はアルプスに太一がいなくて、野球のこと嫌いになったのかなって思ってたんだ。見たくもないから野球応援してくれないのかなって。海美に『コンクールの方に出るらしいよ』って聞いた時は、正直ホッとした。なんだ、嫌いになったわけじゃなかったんだって……その証拠に、野球部が練習してるグラウンドを見下ろしながらトランペット吹いてた」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。