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八月中旬は夜の七時になると太陽が沈み、それでもまだ地面に薄く影ができる。俺はトランペットケースを背負って家に帰っていた。
全国に行けなかったら引退。そんな未来は描きたくない。どうせなら、全国へ。そう思っているのに。
結局、合奏でもソロの部分はうまくいかなかった。今日の午前中はいい調子で吹けていたのに、午後から突然スランプに陥ってしまった。
『ダメだ。今日のトランペットソロは後藤でいく。長谷川。本番明後日だからな。分かってんのか』
今日の合奏でソロの交代を命じられた。全国に行くためなら顧問だって鬼になる。メンバーの交代など珍しいことではない。一秒たりとも気が抜けないっていうのに、俺は別のことに気を取られていた。
『野球部、決勝行くってよ』
一足先に全国に行った大地。そして明後日、決勝で闘う幼馴染。
このままでいいのだろうかと、心のどこかが声を上げる。
『太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!』
そう笑われたことは許していないし、大地の左頬を殴った感触はまだ残っている。
人の憧れを笑った大地が悪いのか、手を出してしまった俺が悪いのか。
「あ、太一だ」
自分の家があるマンションが見えてきたとき、そのマンションから出てきた海美と遭遇した。ウェルカム蚊と言わんばかりのノースリーブに短パン姿。がま口財布を持っているのでコンビニにでも行くのだろう。
正直、今会いたくない幼馴染だ。
「あぁ」
「部活帰り? お疲れさまー」
「おう」
ちょっと高い声がなぜか鼻につく。なるべく会話を避けて早く家に帰りたい。
「じゃあな」
「え、なんか冷たくない? もしかして機嫌悪い?」
「……別に」
「話聞いてあげよっか?」
「必要ない」
スッと海美の横を通り過ぎた。これ以上会話を続けられたくない。早く家に帰ってソロのイメトレをしないと。
「太一」
「んだよ」
「大地、決勝だよ? 仲直り、しないの?」
虫が目の前を通過する。
抑えていた感情のリミッターが外れる音がした。コイツに俺のなにが分かる。
「……るさい」
「え? なに? 聞こえな」
「うるさいっつってんだよ! ほっといてくれ!」
「太一?」
「全部あいつが悪いんだよ! 甲子園がそんなに偉いか? 夏は野球部のためにあるんじゃないんだよ!」
「ちょ、太一」
「うるせぇついてくんな!」
思春期くらいイラついた。海美は俺のことも応援してくれているのに、ソロがうまく吹けなかった八つ当たりだった。
眉尻を下げた海美の視線が俺に突き刺さる。でも俺は無視してマンションのエントランスに入った。
大地が言った通り、俺にトランペットなど似合ってないことくらい本当は分かっていた。理想と現実は違って、くじけそうになる瞬間はいつも隣にあった。それでも俺は辞めなかった。俺だって全国に行きたい。
甲子園に行きたいと言った大地。後輩から疎まれても平気な素振りをした大地。野球を辞めると言った俺に『そんなしょうもないことで辞めるな』と言った大地。『一緒に甲子園に行きたい』と言った大地。そして、先に甲子園に行った大地。
「一番クソなのは俺だ……」
だた、悔しかった。中学の頃から努力して本当に甲子園へ行った幼馴染がうらやましくて、その幼馴染に笑われたトランペットが似合う奴になって、見返してやりたかった。努力したのはお前だけじゃないと、言ってやりたかった。
感情をうまくコントロールできないくせしてソロが吹きたいなんて。どの口が言ってんだ。
「あーっもう!」
グチャグチャの頭を搔きむしると、背負ったトランペットケースが肩からズレ落ちた。