中学から吹奏楽をやっている人たちが多い中、高校から始めてよくもまぁ辞めずにやってきたなと自分でも笑ってしまう。まさかここまで吹奏楽にのめり込むなんて。野球はあんなにあっさりと辞められたというのに、どうも音楽は手放せそうにない。
「おい。野球部、決勝行くらしいぞ」
吹奏楽コンクールの支部大会を明後日に控えた音楽室前の廊下で、部員たちが思い思いの昼食をとっていると、俺の隣に座っていた部長がボソリと言った。
ザワザワとしていた廊下は一瞬で静かになる。みんな耳が良すぎて怖い。
「うっそ、すごいね! あ、テレビ中継のハイライトがある」
「本当ですね。へぇ。クラスにも野球部いますけど、そいつ確か補欠でした」
「エースって青井君だっけ? えー、これ、プロ野球チームから声掛かったりするんじゃないのー?」
ここでも俺は「ふぅん」の体勢を変えなかった。あぁそう決勝なんだまぁ今まで勝ち上がっていったのが奇跡だったかもしれないから決勝でボロ負けするような恥だけはかかないといいな。
ポケットに入れたスマホが震えた。確認してうんざりする。
『太一! 大地、決勝だよ! 決勝だけでも甲子園に来れないの?』
海美だった。俺はひとつため息をついて、パパパッとフリック入力で返信する。
『その日はコンクールだから無理』
「あ、明後日の決勝、支部大会とかぶってんだね。うちはコンクール組と野球部応援組がいてよかったね」
「だよねー。吹奏楽コンクールより甲子園応援が優先! とかいって、コンクールに出させてもらえない学校もあるらしいしね」
「ですね。まぁコンクールのオーディションに落ちた人が野球部応援組になるのはちょっと悔しい気もしますけどね」
「でもさ、野球部応援組もレベル高い人だらけなんだから、感謝してほしいよね」
「それなー!」
吹奏楽部の男女比率は、男子一割に対して女子九割で圧倒的に女子が多い。一年の時はちょっと怖かったが、三年にもなると慣れた。こういう時は適当に頷いておくのだ。
と、またスマホが震えた。
『ちぇー。じゃああたしが実況してあげる! あ、太一のコンクールも全国行けたら応援に行くね』
続いて「ガンバ!」というプラカードを持ったイルカのイラストのスタンプ。
「あれ、長谷川が女子とメッセージのやり取りしてる」
部長にスマホを覗き見された。耳の良い女子たちが一斉にこちらを向く。
「えっ! 長谷川先輩、彼女いるんですか!?」
「誰誰? まさか部内恋愛!?」
「禁止じゃないけど引退するまで別れないでよ! ギクシャクされるとこっちが困るから!」
親鳥の帰りを待つ雛鳥みたいにギャーギャー騒ぐ女子たち。うるさ。
「ただの幼馴染の妹だよ」
「幼馴染の妹! 王道パターンじゃないですか!」
「え、長谷川、幼馴染がいたの?」
「ああ。今話題の野球部の青井大地」
「ええ~!」
「意外! 絡んでるところ全然見たことなかった」
「ちょっと待って! サイン貰っといて!」
野球部時代には女子がいなかったので、こんなに賑やかな部活ではなかった。うるさいけど悪くない。それに先輩も後輩も関係なくみんな仲がいい。あの頃と違って。
ギャーギャー騒ぐ女子たちを尻目に、俺は『実況やめろ全国も来なくていい』と返信した。
***
練習はおはようからおやすみまで一日中行われる。先週は自然豊かな研修施設で二泊三日の強化合宿をした。確実に部員の方が家族より長い時間を共にしている。だから、みんなの気持ちはひとつになっていた。
全国に行く。ただそれだけ。
「クソッ。うまく吹けねぇな」
午後の部活動はパート練習からスタートした。 出だし、縦の線、音色、とパート内で再度共有する。合奏が始まる十五分前から個人練習にしてもらって、俺は自由曲のソロを練習していた。
誰もいない、三年二組の教室内。大地の、教室。
『野球部、決勝行くってよ』
昼にそう聞いてからなんだか調子が悪い。弁当の食いすぎかと思ったが、胃が痛いわけではなく、胸のあたりがザワザワするというか、モゾモゾするというか、表現のしようがない感情に蝕まれていた。
ふぅん、だなんて、余裕で野球部を見下していたくせに。
椅子に腰かけ天井を仰ぐ。白い下地に黒いミミズが這っているような天井。
コンクールメンバーに選ばれたのは、俺にとっては最初で最後だった。それだけで充分だったのに、自由曲でソロまで任せてもらえた。俺は高校から始めた初心者で、同じパートの中には幼少期からトランペットに触れて高音も外さず音色もきれいな人がいるのに、その人を差し置いて自分がソロだなんて。そいつは「長谷川になら任せられる」って言ってくれたけど、本当は自分が吹きたかったはずだ。任されたことは嬉しいけど、でもやっぱり自分なんかに務まるのか不安だった。
「よし、吹くか」
ふぅ、と大きく息を吐いてイメージするために目を閉じる。
ソロ直前は快活な5/4拍子。そこからルバートとなり闘牛場を彷彿とさせるトランペットソロが始まる。そのイメージを保ったままmolto meno mosso——今までより非常に遅く……かと思えばpiu mosso——今までより速く。派手過ぎず、地味すぎず、真っ直ぐと向こう側へ届くように。最初の跳躍は力を入れすぎないように楽に。十六分音符による三連符は転げないように指と息の量を合わせて。
瞼の裏に映し出されるのは、真っ黒な楽譜に書かれた『!!全国行くぞ!!』の文字。
『青井大地センパーイ!』
『早く消えてくださーい!』
あ、音が外れた。
『太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい』
あ、テンポがズレた。
『太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!』
ああ、指がうまく動かない!
「……クソッ」
トランペットを口から引き離す。俺はいったい何を焦ってるんだ。
汗が目に入る。暑いと思ったらエアコンがついていない。窓を開けるとセミの声とともに校舎の隣にあるグラウンドからカキーンと白球が打ちあがる音が聞こえた。
「チッ」
吹かない風と暑苦しい音に思わず舌打ちが出る。
満足のいく練習ができないまま、俺は窓を閉めて合奏に向かった。
「おい。野球部、決勝行くらしいぞ」
吹奏楽コンクールの支部大会を明後日に控えた音楽室前の廊下で、部員たちが思い思いの昼食をとっていると、俺の隣に座っていた部長がボソリと言った。
ザワザワとしていた廊下は一瞬で静かになる。みんな耳が良すぎて怖い。
「うっそ、すごいね! あ、テレビ中継のハイライトがある」
「本当ですね。へぇ。クラスにも野球部いますけど、そいつ確か補欠でした」
「エースって青井君だっけ? えー、これ、プロ野球チームから声掛かったりするんじゃないのー?」
ここでも俺は「ふぅん」の体勢を変えなかった。あぁそう決勝なんだまぁ今まで勝ち上がっていったのが奇跡だったかもしれないから決勝でボロ負けするような恥だけはかかないといいな。
ポケットに入れたスマホが震えた。確認してうんざりする。
『太一! 大地、決勝だよ! 決勝だけでも甲子園に来れないの?』
海美だった。俺はひとつため息をついて、パパパッとフリック入力で返信する。
『その日はコンクールだから無理』
「あ、明後日の決勝、支部大会とかぶってんだね。うちはコンクール組と野球部応援組がいてよかったね」
「だよねー。吹奏楽コンクールより甲子園応援が優先! とかいって、コンクールに出させてもらえない学校もあるらしいしね」
「ですね。まぁコンクールのオーディションに落ちた人が野球部応援組になるのはちょっと悔しい気もしますけどね」
「でもさ、野球部応援組もレベル高い人だらけなんだから、感謝してほしいよね」
「それなー!」
吹奏楽部の男女比率は、男子一割に対して女子九割で圧倒的に女子が多い。一年の時はちょっと怖かったが、三年にもなると慣れた。こういう時は適当に頷いておくのだ。
と、またスマホが震えた。
『ちぇー。じゃああたしが実況してあげる! あ、太一のコンクールも全国行けたら応援に行くね』
続いて「ガンバ!」というプラカードを持ったイルカのイラストのスタンプ。
「あれ、長谷川が女子とメッセージのやり取りしてる」
部長にスマホを覗き見された。耳の良い女子たちが一斉にこちらを向く。
「えっ! 長谷川先輩、彼女いるんですか!?」
「誰誰? まさか部内恋愛!?」
「禁止じゃないけど引退するまで別れないでよ! ギクシャクされるとこっちが困るから!」
親鳥の帰りを待つ雛鳥みたいにギャーギャー騒ぐ女子たち。うるさ。
「ただの幼馴染の妹だよ」
「幼馴染の妹! 王道パターンじゃないですか!」
「え、長谷川、幼馴染がいたの?」
「ああ。今話題の野球部の青井大地」
「ええ~!」
「意外! 絡んでるところ全然見たことなかった」
「ちょっと待って! サイン貰っといて!」
野球部時代には女子がいなかったので、こんなに賑やかな部活ではなかった。うるさいけど悪くない。それに先輩も後輩も関係なくみんな仲がいい。あの頃と違って。
ギャーギャー騒ぐ女子たちを尻目に、俺は『実況やめろ全国も来なくていい』と返信した。
***
練習はおはようからおやすみまで一日中行われる。先週は自然豊かな研修施設で二泊三日の強化合宿をした。確実に部員の方が家族より長い時間を共にしている。だから、みんなの気持ちはひとつになっていた。
全国に行く。ただそれだけ。
「クソッ。うまく吹けねぇな」
午後の部活動はパート練習からスタートした。 出だし、縦の線、音色、とパート内で再度共有する。合奏が始まる十五分前から個人練習にしてもらって、俺は自由曲のソロを練習していた。
誰もいない、三年二組の教室内。大地の、教室。
『野球部、決勝行くってよ』
昼にそう聞いてからなんだか調子が悪い。弁当の食いすぎかと思ったが、胃が痛いわけではなく、胸のあたりがザワザワするというか、モゾモゾするというか、表現のしようがない感情に蝕まれていた。
ふぅん、だなんて、余裕で野球部を見下していたくせに。
椅子に腰かけ天井を仰ぐ。白い下地に黒いミミズが這っているような天井。
コンクールメンバーに選ばれたのは、俺にとっては最初で最後だった。それだけで充分だったのに、自由曲でソロまで任せてもらえた。俺は高校から始めた初心者で、同じパートの中には幼少期からトランペットに触れて高音も外さず音色もきれいな人がいるのに、その人を差し置いて自分がソロだなんて。そいつは「長谷川になら任せられる」って言ってくれたけど、本当は自分が吹きたかったはずだ。任されたことは嬉しいけど、でもやっぱり自分なんかに務まるのか不安だった。
「よし、吹くか」
ふぅ、と大きく息を吐いてイメージするために目を閉じる。
ソロ直前は快活な5/4拍子。そこからルバートとなり闘牛場を彷彿とさせるトランペットソロが始まる。そのイメージを保ったままmolto meno mosso——今までより非常に遅く……かと思えばpiu mosso——今までより速く。派手過ぎず、地味すぎず、真っ直ぐと向こう側へ届くように。最初の跳躍は力を入れすぎないように楽に。十六分音符による三連符は転げないように指と息の量を合わせて。
瞼の裏に映し出されるのは、真っ黒な楽譜に書かれた『!!全国行くぞ!!』の文字。
『青井大地センパーイ!』
『早く消えてくださーい!』
あ、音が外れた。
『太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい』
あ、テンポがズレた。
『太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!』
ああ、指がうまく動かない!
「……クソッ」
トランペットを口から引き離す。俺はいったい何を焦ってるんだ。
汗が目に入る。暑いと思ったらエアコンがついていない。窓を開けるとセミの声とともに校舎の隣にあるグラウンドからカキーンと白球が打ちあがる音が聞こえた。
「チッ」
吹かない風と暑苦しい音に思わず舌打ちが出る。
満足のいく練習ができないまま、俺は窓を閉めて合奏に向かった。