「太一。キャッチボールしようぜ」
「えー。大地、キャッチボールとか言って全力で投げてくるじゃん。もはや投球練習だろ」
「いいだろ別に。ピッチャーなんだし。太一はキャッチャーなんだからちゃんと受けろよ」
「もー。しょうがねぇなぁ」
青空が頭上に広がる休日。中学時代、野球部だった俺たちは休みの日には近所の公園でキャッチボールをする野球少年だった。
大地とは小学生の頃から馬が合い、同じマンションに住んでいるのもあって、割と一緒にいた。親同士も仲良くなって、家族ぐるみの付き合いでもある。
中学で野球部に入ろうと誘ってきたのは大地だ。特にやりたいこともなかった俺は二つ返事でOKして、気づけばバッテリーを組むようになっていた。
ピッチャー大地にキャッチャー太一。たまに名前を間違えられることだってあったが、別に気にしたことなんかなかった。大地は太一で太一は大地。二人一緒なら世界平和だって夢じゃない、とかなんとか、中二病的な発言で周りをドン引きさせたりしていた。
野球は普通に好きだった。みんなで「えいっおー」と低い声で言いながらグラウンドを走ることも、高く上がった白球を取ろうと上を向いたら太陽を直視してしまっておでこでキャッチしてしまったことも、盗塁練習で思いっきりスライディングをして摩擦でユニフォームに穴を開けてしまったことも、全部全部楽しかった。
楽しかったのに、中学三年生の夏。引退を控えた俺たちは、後輩たちと紅白試合、いわゆる引退試合をすることになった。三年生対一、二年生。決して強くないチーム内での試合。和気あいあいと、楽しくやるはずだった。
俺が後輩だった頃、先輩に対して「ウザい」とか「早く引退しろ」とか思ったことはなかった。むしろ引退してほしくなくて、先輩がいなくなったら誰がまとめるんだとか、まだ一緒に部活したいとか思っていた。しかし、俺たちが最高学年になった時は後輩たちが生意気だった。特に一年生。挨拶しなかったり、毎日の練習に来なかったり、とにかく不真面目で俺たちの学年と温度差があった。
そして俺と大地がバッテリーを組んだその引退試合で、バッターボックスに立った一年の後輩が言ったのだ。
「やっとウザい先輩たちがいなくなる」
最初は冗談かと思った。不真面目な一年生ではあったけど、言えば渋々ながらも練習には参加してくれていたし、文句などは言われたことはなかった。でもその日は心底うんざりした顔で声を低くして後輩はそう言ったのだ。
「は?」
「知ってました? 太一先輩と大地先輩、んー特に大地先輩。一、二年生から嫌われてましたよ。ピッチャーが偉いのか知らないですけど、毎日『あれしろこれしろ』って、強豪校でもないのに指図してくるし。俺ら別に強くなりたいわけじゃないんすよね。ただ『野球』がしたいだけ」
一気に血の気が引いた。最後だから自分の胸に留めておいて、俺らが完全にいなくなってから仲間内で言えばいいのに、面と向かって言われるなんて。まるで崖から突き落とされたような衝撃だった。
「おーい、太一、何してんだ? 早くミット構えろー」
マウンドにいる大地にはこの会話は聞こえていない。俺が言わなければ大地は気持ちよく引退できる。だから、「聞かなかったことにするから、お前も言わなかったことにしろ」と何もなかったかのようにしようとしたが。
「青井大地センパーイ!」
「んー? なんだー?」
「早く消えてくださーい!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の怒りメーターが振り切れる音がした。
「っテメェッ!」
俺はキャッチャーメットをはぎ取って投げ捨て、後輩の胸倉を掴んでいた。ここで初めて俺って手が出るタイプなのか、と気づいた。本当に無意識だったのだ。
大地が朝も昼も夜も野球のことを考えて努力していることを知っていたから、後輩にそんなことを言われてカッときたのかもしれない。
あと、自分の分身のような親友に対して放たれた暴言が、俺の逆鱗に触れた。
それからは紅白試合どころではなくなったのは言うまでもない。
胸くそ悪い帰り道。俺は大地に高校へ行ってももう野球はやらない、と言った。しかし大地は俺を真っ直ぐ見つめて言う。
「太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい」
「そんな夢みたいなこと言うなよ。俺には無理だ」
「ここまで一緒に頑張ってきたじゃんか。そんなしょうもないことで辞めんなよ」
「……しょうもないこと? どこがしょうもない? 俺にとっては充分起爆剤だった」
「本人の俺が許してんだから、いいんだよ。それに俺らの進む高校の野球部は監督が代わるんだ。甲子園に出たことある監督で、めっちゃ厳しいって有名でさ。レギュラーになるのも難しいかもしれないけど、甲子園も夢じゃないと思うんだよな」
「無理。もう俺に野球は無理。とにかく俺は辞めるから」
俺の意志は固かった。そもそも大地みたいに甲子園に行きたいとか、野球で天下取るとか考えたことがなかった。大地がやるから俺も一緒にやっただけで、特に強い思いはなかった。
「……辞めてどうするんだよ」
そう聞かれて、なぜか頭にファンファーレが鳴り響いた。俺のやりたいこと。テレビで見て初めて自分の意志で「これやりたい」と惹きつけられたもの。
「吹奏楽部に入ってトランペット吹く」
本気だった。とある吹奏楽部に密着したドキュメンタリー番組を何気なく見て、全国の舞台で高らかにソロを吹いていたトランぺッターがいた。音楽なんて全く分からない俺だったのに、なぜか魅力的に見えた。三本の指だけで低音から高音まで揺らぐことなく真っ直ぐに吹き鳴らしている様はどっしりと構えた王様のようで、でもその肩には小鳥を乗せているような繊細さもあって、とにかく俺は全身が震えた。怒りの震えではない。多分、あれは感動の震えだった。
俺もあんな風に楽器を鳴らしてみたい——
しかし、大地の顔はみるみる歪んでいった。
「太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!」
笑われたことが、悔しかった。一緒に同じ道を歩んでいた親友と仲違いした挙句、俺が憧れたことを笑う幼馴染が最低なやつに見えた。
ほとんど反射だった。気づけば大地は左頬を押さえて地面に倒れていた。
自分の右手の拳が痛いと思ったのは、それからもう少し経ってからだった。やっぱり俺は怒ると手が出るタイプらしい。
それ以降、大地とはまともな会話をしていない。大地の妹の海美が勝手に伝言係になって色々情報を流してくるが、俺たちが直接顔を合わせて会話をすることはなかった。
同じ高校に行くことは引退前から話していたし、顔も見たくないほど嫌いになったわけではなかったので、そのまま希望する高校へ進学した。同じクラスになるとさすがに気まずいな、とは思ったが、三年間大地と同じクラスになることもなく、すれ違うのが俺たちの運命だったのかな、などと恋愛小説みたいなことを考えてみたりして。
結局、俺は吹奏楽部、大地は野球部でそれぞれ目標に向かって突き進んでいた。
「えー。大地、キャッチボールとか言って全力で投げてくるじゃん。もはや投球練習だろ」
「いいだろ別に。ピッチャーなんだし。太一はキャッチャーなんだからちゃんと受けろよ」
「もー。しょうがねぇなぁ」
青空が頭上に広がる休日。中学時代、野球部だった俺たちは休みの日には近所の公園でキャッチボールをする野球少年だった。
大地とは小学生の頃から馬が合い、同じマンションに住んでいるのもあって、割と一緒にいた。親同士も仲良くなって、家族ぐるみの付き合いでもある。
中学で野球部に入ろうと誘ってきたのは大地だ。特にやりたいこともなかった俺は二つ返事でOKして、気づけばバッテリーを組むようになっていた。
ピッチャー大地にキャッチャー太一。たまに名前を間違えられることだってあったが、別に気にしたことなんかなかった。大地は太一で太一は大地。二人一緒なら世界平和だって夢じゃない、とかなんとか、中二病的な発言で周りをドン引きさせたりしていた。
野球は普通に好きだった。みんなで「えいっおー」と低い声で言いながらグラウンドを走ることも、高く上がった白球を取ろうと上を向いたら太陽を直視してしまっておでこでキャッチしてしまったことも、盗塁練習で思いっきりスライディングをして摩擦でユニフォームに穴を開けてしまったことも、全部全部楽しかった。
楽しかったのに、中学三年生の夏。引退を控えた俺たちは、後輩たちと紅白試合、いわゆる引退試合をすることになった。三年生対一、二年生。決して強くないチーム内での試合。和気あいあいと、楽しくやるはずだった。
俺が後輩だった頃、先輩に対して「ウザい」とか「早く引退しろ」とか思ったことはなかった。むしろ引退してほしくなくて、先輩がいなくなったら誰がまとめるんだとか、まだ一緒に部活したいとか思っていた。しかし、俺たちが最高学年になった時は後輩たちが生意気だった。特に一年生。挨拶しなかったり、毎日の練習に来なかったり、とにかく不真面目で俺たちの学年と温度差があった。
そして俺と大地がバッテリーを組んだその引退試合で、バッターボックスに立った一年の後輩が言ったのだ。
「やっとウザい先輩たちがいなくなる」
最初は冗談かと思った。不真面目な一年生ではあったけど、言えば渋々ながらも練習には参加してくれていたし、文句などは言われたことはなかった。でもその日は心底うんざりした顔で声を低くして後輩はそう言ったのだ。
「は?」
「知ってました? 太一先輩と大地先輩、んー特に大地先輩。一、二年生から嫌われてましたよ。ピッチャーが偉いのか知らないですけど、毎日『あれしろこれしろ』って、強豪校でもないのに指図してくるし。俺ら別に強くなりたいわけじゃないんすよね。ただ『野球』がしたいだけ」
一気に血の気が引いた。最後だから自分の胸に留めておいて、俺らが完全にいなくなってから仲間内で言えばいいのに、面と向かって言われるなんて。まるで崖から突き落とされたような衝撃だった。
「おーい、太一、何してんだ? 早くミット構えろー」
マウンドにいる大地にはこの会話は聞こえていない。俺が言わなければ大地は気持ちよく引退できる。だから、「聞かなかったことにするから、お前も言わなかったことにしろ」と何もなかったかのようにしようとしたが。
「青井大地センパーイ!」
「んー? なんだー?」
「早く消えてくださーい!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の怒りメーターが振り切れる音がした。
「っテメェッ!」
俺はキャッチャーメットをはぎ取って投げ捨て、後輩の胸倉を掴んでいた。ここで初めて俺って手が出るタイプなのか、と気づいた。本当に無意識だったのだ。
大地が朝も昼も夜も野球のことを考えて努力していることを知っていたから、後輩にそんなことを言われてカッときたのかもしれない。
あと、自分の分身のような親友に対して放たれた暴言が、俺の逆鱗に触れた。
それからは紅白試合どころではなくなったのは言うまでもない。
胸くそ悪い帰り道。俺は大地に高校へ行ってももう野球はやらない、と言った。しかし大地は俺を真っ直ぐ見つめて言う。
「太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい」
「そんな夢みたいなこと言うなよ。俺には無理だ」
「ここまで一緒に頑張ってきたじゃんか。そんなしょうもないことで辞めんなよ」
「……しょうもないこと? どこがしょうもない? 俺にとっては充分起爆剤だった」
「本人の俺が許してんだから、いいんだよ。それに俺らの進む高校の野球部は監督が代わるんだ。甲子園に出たことある監督で、めっちゃ厳しいって有名でさ。レギュラーになるのも難しいかもしれないけど、甲子園も夢じゃないと思うんだよな」
「無理。もう俺に野球は無理。とにかく俺は辞めるから」
俺の意志は固かった。そもそも大地みたいに甲子園に行きたいとか、野球で天下取るとか考えたことがなかった。大地がやるから俺も一緒にやっただけで、特に強い思いはなかった。
「……辞めてどうするんだよ」
そう聞かれて、なぜか頭にファンファーレが鳴り響いた。俺のやりたいこと。テレビで見て初めて自分の意志で「これやりたい」と惹きつけられたもの。
「吹奏楽部に入ってトランペット吹く」
本気だった。とある吹奏楽部に密着したドキュメンタリー番組を何気なく見て、全国の舞台で高らかにソロを吹いていたトランぺッターがいた。音楽なんて全く分からない俺だったのに、なぜか魅力的に見えた。三本の指だけで低音から高音まで揺らぐことなく真っ直ぐに吹き鳴らしている様はどっしりと構えた王様のようで、でもその肩には小鳥を乗せているような繊細さもあって、とにかく俺は全身が震えた。怒りの震えではない。多分、あれは感動の震えだった。
俺もあんな風に楽器を鳴らしてみたい——
しかし、大地の顔はみるみる歪んでいった。
「太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!」
笑われたことが、悔しかった。一緒に同じ道を歩んでいた親友と仲違いした挙句、俺が憧れたことを笑う幼馴染が最低なやつに見えた。
ほとんど反射だった。気づけば大地は左頬を押さえて地面に倒れていた。
自分の右手の拳が痛いと思ったのは、それからもう少し経ってからだった。やっぱり俺は怒ると手が出るタイプらしい。
それ以降、大地とはまともな会話をしていない。大地の妹の海美が勝手に伝言係になって色々情報を流してくるが、俺たちが直接顔を合わせて会話をすることはなかった。
同じ高校に行くことは引退前から話していたし、顔も見たくないほど嫌いになったわけではなかったので、そのまま希望する高校へ進学した。同じクラスになるとさすがに気まずいな、とは思ったが、三年間大地と同じクラスになることもなく、すれ違うのが俺たちの運命だったのかな、などと恋愛小説みたいなことを考えてみたりして。
結局、俺は吹奏楽部、大地は野球部でそれぞれ目標に向かって突き進んでいた。