野球部が甲子園三回戦を突破したらしい、と聞いたのは昨日の練習中だった。ちょうど課題曲の合奏が終わり、休憩に入った時だ。

「野球部、準決行くってよ」

 野球部応援組の吹奏楽部員から部長に連絡があったらしい。「おお~」とコンクール出場組は小さな歓声をあげた。その中で俺は無表情で、無言だった。まぁ心の中で「ふぅん」くらいは言っておいたが。

 去年、一昨年とベスト16止まりだった野球部が、今年は甲子園に行くと聞いた時も「ふぅん」だった。学校をあげて壮行会とか盛大に行われたけど、夏の甲子園は野球部だけのものじゃない。吹奏楽部にだって甲子園がある。

 全日本吹奏楽コンクール。日本中の高校吹奏楽部の各都道府県から選ばれた代表が集まって、12分間のステージに立ち、今までの努力を披露する大会。

 だから野球部の甲子園出場なんて、どうでもよかった。
 だってもう、俺には関係ないのだ。野球部を辞めて吹奏楽部に入った俺には。


***


「ねぇ太一。大地、準決勝行くんだって」
「……知ってる」
「それだけ? もっと、こう、ないの? 『おめでとう!』とか『お前の兄ちゃんすげぇなぁ!』とか」
「あー……お前の兄ちゃんスゲェナァ」
「うわー。めっちゃ棒読みー」

 部屋の学習机で楽譜と睨めっこしていたら、同じマンションに住む幼馴染が部屋に入ってきた。高校三年生の男子の部屋に、堂々と高校一年生の女子が入ってくるのはいかがなものか。まぁ今さらコイツに欲情なんてしないけど。

「うわ、何その楽譜! 真っ黒じゃん。何書いてあるか分かんないし。楽譜ってそれでいいの? 音符見えないよ?」
「いいんだよ。指が覚えてるから」
「うわ、自称天才トランぺッターだよ。キモーい」
「うるさいな。二月からずっとやってんだ。勝手に覚えるに決まってんだろバカ海美(うみ)
「あー! バカっていう方がバカなんですぅ」

 本当にコイツはうるさい。「とっとと帰れバーカ」と言うと、海美は頬を膨らませて「レギュラー落ちろクソ太一!」と暴言を吐き、ドスドスと音を立てて部屋を出ていこうとした。

「海美」
「何!?」
「……大地に『頑張れ』って言っといて」

 一瞬で静かになる暴言マシーン。しかし、彼女は舌を出した。

「自分で言えバーカ!」

 可愛げのない幼馴染は、何やらいい匂いのする髪の毛の香りだけを残して自分の家へ帰っていった。

「…………」

 嵐が去った部屋で、真っ黒だと言われた楽譜に目を落とす。音符だけでなく、字で埋め尽くされた課題曲と自由曲。

『ていねいに!』
『テンポキープ!』
『縦の線そろえる!』
『低音聴いて!』
『ピッチ注意!』……

 気をつけることがたくさん書いてある中、曲名の隣に赤字で書いてある文字をそっとなぞった。

『!!全国行くぞ!!』

 地区大会でわが校吹奏楽部は見事金賞をいただき、支部大会出場を決めた。その支部大会を突破できれば、次は全国だ。この二年、支部大会までは進み金賞をもらうも全国への切符は掴み損ねていた。そもそも俺は地区大会から出場したのは今年が初めてだった。というのも、大会には規定があって、ステージに上がれるのは最大55人まで。わが校の吹奏楽部員は70人近くいる大所帯である。そのためオーディションが開催され、選ばれた55人だけが舞台に上がれるのだ。俺は一昨年と去年、ステージに上がれなかった。高校三年生、最後のチャンスでようやくレギュラーの座を勝ち取った。

 昔から努力は得意な方だった。朝練も昼練も放課後練も、誰より早く誰より効率的にやってきた。その成果が評価され、俺は夢の舞台へ上がる。

 一足先に全国で闘っている幼馴染の大地。応援してないわけじゃない。あいつも努力人間だから評価されてさぞ嬉しいだろう。ましてや甲子園なんて。行けるだけでもすごいのに、さらに勝ち進んで準決勝まで駒を進めた。

 ちょっとだけ悔しい。あいつがそこまで行けるなら俺だって、なんて思う。

『太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!』

 その一言で俺たちは絶交状態となった。元々言い合っていた中での大地の発言だったが、いまだに謝罪の言葉はない。
俺の憧れを笑ったあいつにだけは、絶対に負けたくなかった。

「太一。キャッチボールしようぜ」
「えー。大地、キャッチボールとか言って全力で投げてくるじゃん。もはや投球練習だろ」
「いいだろ別に。ピッチャーなんだし。太一はキャッチャーなんだからちゃんと受けろよ」
「もー。しょうがねぇなぁ」

 青空が頭上に広がる休日。中学時代、野球部だった俺たちは休みの日には近所の公園でキャッチボールをする野球少年だった。

 大地とは小学生の頃から馬が合い、同じマンションに住んでいるのもあって、割と一緒にいた。親同士も仲良くなって、家族ぐるみの付き合いでもある。

 中学で野球部に入ろうと誘ってきたのは大地だ。特にやりたいこともなかった俺は二つ返事でOKして、気づけばバッテリーを組むようになっていた。

 ピッチャー大地にキャッチャー太一。たまに名前を間違えられることだってあったが、別に気にしたことなんかなかった。大地は太一で太一は大地。二人一緒なら世界平和だって夢じゃない、とかなんとか、中二病的な発言で周りをドン引きさせたりしていた。

 野球は普通に好きだった。みんなで「えいっおー」と低い声で言いながらグラウンドを走ることも、高く上がった白球を取ろうと上を向いたら太陽を直視してしまっておでこでキャッチしてしまったことも、盗塁練習で思いっきりスライディングをして摩擦でユニフォームに穴を開けてしまったことも、全部全部楽しかった。

 楽しかったのに、中学三年生の夏。引退を控えた俺たちは、後輩たちと紅白試合、いわゆる引退試合をすることになった。三年生対一、二年生。決して強くないチーム内での試合。和気あいあいと、楽しくやるはずだった。

 俺が後輩だった頃、先輩に対して「ウザい」とか「早く引退しろ」とか思ったことはなかった。むしろ引退してほしくなくて、先輩がいなくなったら誰がまとめるんだとか、まだ一緒に部活したいとか思っていた。しかし、俺たちが最高学年になった時は後輩たちが生意気だった。特に一年生。挨拶しなかったり、毎日の練習に来なかったり、とにかく不真面目で俺たちの学年と温度差があった。

 そして俺と大地がバッテリーを組んだその引退試合で、バッターボックスに立った一年の後輩が言ったのだ。

「やっとウザい先輩たちがいなくなる」

 最初は冗談かと思った。不真面目な一年生ではあったけど、言えば渋々ながらも練習には参加してくれていたし、文句などは言われたことはなかった。でもその日は心底うんざりした顔で声を低くして後輩はそう言ったのだ。

「は?」
「知ってました? 太一先輩と大地先輩、んー特に大地先輩。一、二年生から嫌われてましたよ。ピッチャーが偉いのか知らないですけど、毎日『あれしろこれしろ』って、強豪校でもないのに指図してくるし。俺ら別に強くなりたいわけじゃないんすよね。ただ『野球』がしたいだけ」

 一気に血の気が引いた。最後だから自分の胸に留めておいて、俺らが完全にいなくなってから仲間内で言えばいいのに、面と向かって言われるなんて。まるで崖から突き落とされたような衝撃だった。

「おーい、太一、何してんだ? 早くミット構えろー」

 マウンドにいる大地にはこの会話は聞こえていない。俺が言わなければ大地は気持ちよく引退できる。だから、「聞かなかったことにするから、お前も言わなかったことにしろ」と何もなかったかのようにしようとしたが。

「青井大地センパーイ!」
「んー? なんだー?」
「早く消えてくださーい!」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中の怒りメーターが振り切れる音がした。

「っテメェッ!」

 俺はキャッチャーメットをはぎ取って投げ捨て、後輩の胸倉を掴んでいた。ここで初めて俺って手が出るタイプなのか、と気づいた。本当に無意識だったのだ。

 大地が朝も昼も夜も野球のことを考えて努力していることを知っていたから、後輩にそんなことを言われてカッときたのかもしれない。

 あと、自分の分身のような親友に対して放たれた暴言が、俺の逆鱗に触れた。
 それからは紅白試合どころではなくなったのは言うまでもない。



 胸くそ悪い帰り道。俺は大地に高校へ行ってももう野球はやらない、と言った。しかし大地は俺を真っ直ぐ見つめて言う。

「太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい」
「そんな夢みたいなこと言うなよ。俺には無理だ」
「ここまで一緒に頑張ってきたじゃんか。そんなしょうもないことで辞めんなよ」
「……しょうもないこと? どこがしょうもない? 俺にとっては充分起爆剤だった」
「本人の俺が許してんだから、いいんだよ。それに俺らの進む高校の野球部は監督が代わるんだ。甲子園に出たことある監督で、めっちゃ厳しいって有名でさ。レギュラーになるのも難しいかもしれないけど、甲子園も夢じゃないと思うんだよな」
「無理。もう俺に野球は無理。とにかく俺は辞めるから」

 俺の意志は固かった。そもそも大地みたいに甲子園に行きたいとか、野球で天下取るとか考えたことがなかった。大地がやるから俺も一緒にやっただけで、特に強い思いはなかった。

「……辞めてどうするんだよ」

 そう聞かれて、なぜか頭にファンファーレが鳴り響いた。俺のやりたいこと。テレビで見て初めて自分の意志で「これやりたい」と惹きつけられたもの。

「吹奏楽部に入ってトランペット吹く」

 本気だった。とある吹奏楽部に密着したドキュメンタリー番組を何気なく見て、全国の舞台で高らかにソロを吹いていたトランぺッターがいた。音楽なんて全く分からない俺だったのに、なぜか魅力的に見えた。三本の指だけで低音から高音まで揺らぐことなく真っ直ぐに吹き鳴らしている様はどっしりと構えた王様のようで、でもその肩には小鳥を乗せているような繊細さもあって、とにかく俺は全身が震えた。怒りの震えではない。多分、あれは感動の震えだった。

 俺もあんな風に楽器を鳴らしてみたい——

 しかし、大地の顔はみるみる歪んでいった。

「太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!」

 笑われたことが、悔しかった。一緒に同じ道を歩んでいた親友と仲違いした挙句、俺が憧れたことを笑う幼馴染が最低なやつに見えた。

 ほとんど反射だった。気づけば大地は左頬を押さえて地面に倒れていた。

 自分の右手の拳が痛いと思ったのは、それからもう少し経ってからだった。やっぱり俺は怒ると手が出るタイプらしい。

 それ以降、大地とはまともな会話をしていない。大地の妹の海美が勝手に伝言係になって色々情報を流してくるが、俺たちが直接顔を合わせて会話をすることはなかった。

 同じ高校に行くことは引退前から話していたし、顔も見たくないほど嫌いになったわけではなかったので、そのまま希望する高校へ進学した。同じクラスになるとさすがに気まずいな、とは思ったが、三年間大地と同じクラスになることもなく、すれ違うのが俺たちの運命だったのかな、などと恋愛小説みたいなことを考えてみたりして。

 結局、俺は吹奏楽部、大地は野球部でそれぞれ目標に向かって突き進んでいた。
 中学から吹奏楽をやっている人たちが多い中、高校から始めてよくもまぁ辞めずにやってきたなと自分でも笑ってしまう。まさかここまで吹奏楽にのめり込むなんて。野球はあんなにあっさりと辞められたというのに、どうも音楽は手放せそうにない。

「おい。野球部、決勝行くらしいぞ」

 吹奏楽コンクールの支部大会を明後日に控えた音楽室前の廊下で、部員たちが思い思いの昼食をとっていると、俺の隣に座っていた部長がボソリと言った。

 ザワザワとしていた廊下は一瞬で静かになる。みんな耳が良すぎて怖い。

「うっそ、すごいね! あ、テレビ中継のハイライトがある」
「本当ですね。へぇ。クラスにも野球部いますけど、そいつ確か補欠でした」
「エースって青井君だっけ? えー、これ、プロ野球チームから声掛かったりするんじゃないのー?」

 ここでも俺は「ふぅん」の体勢を変えなかった。あぁそう決勝なんだまぁ今まで勝ち上がっていったのが奇跡だったかもしれないから決勝でボロ負けするような恥だけはかかないといいな。

 ポケットに入れたスマホが震えた。確認してうんざりする。

『太一! 大地、決勝だよ! 決勝だけでも甲子園に来れないの?』

 海美だった。俺はひとつため息をついて、パパパッとフリック入力で返信する。

『その日はコンクールだから無理』

「あ、明後日の決勝、支部大会とかぶってんだね。うちはコンクール組と野球部応援組がいてよかったね」
「だよねー。吹奏楽コンクールより甲子園応援が優先! とかいって、コンクールに出させてもらえない学校もあるらしいしね」
「ですね。まぁコンクールのオーディションに落ちた人が野球部応援組になるのはちょっと悔しい気もしますけどね」
「でもさ、野球部応援組もレベル高い人だらけなんだから、感謝してほしいよね」
「それなー!」

 吹奏楽部の男女比率は、男子一割に対して女子九割で圧倒的に女子が多い。一年の時はちょっと怖かったが、三年にもなると慣れた。こういう時は適当に頷いておくのだ。

 と、またスマホが震えた。

『ちぇー。じゃああたしが実況してあげる! あ、太一のコンクールも全国行けたら応援に行くね』

 続いて「ガンバ!」というプラカードを持ったイルカのイラストのスタンプ。

「あれ、長谷川が女子とメッセージのやり取りしてる」

 部長にスマホを覗き見された。耳の良い女子たちが一斉にこちらを向く。

「えっ! 長谷川先輩、彼女いるんですか!?」
「誰誰? まさか部内恋愛!?」
「禁止じゃないけど引退するまで別れないでよ! ギクシャクされるとこっちが困るから!」

 親鳥の帰りを待つ雛鳥みたいにギャーギャー騒ぐ女子たち。うるさ。

「ただの幼馴染の妹だよ」
「幼馴染の妹! 王道パターンじゃないですか!」
「え、長谷川、幼馴染がいたの?」
「ああ。今話題の野球部の青井大地」
「ええ~!」
「意外! 絡んでるところ全然見たことなかった」
「ちょっと待って! サイン貰っといて!」

 野球部時代には女子がいなかったので、こんなに賑やかな部活ではなかった。うるさいけど悪くない。それに先輩も後輩も関係なくみんな仲がいい。あの頃と違って。

 ギャーギャー騒ぐ女子たちを尻目に、俺は『実況やめろ全国も来なくていい』と返信した。


***


 練習はおはようからおやすみまで一日中行われる。先週は自然豊かな研修施設で二泊三日の強化合宿をした。確実に部員の方が家族より長い時間を共にしている。だから、みんなの気持ちはひとつになっていた。

 全国に行く。ただそれだけ。

「クソッ。うまく吹けねぇな」

 午後の部活動はパート練習からスタートした。 出だし、縦の線、音色、とパート内で再度共有する。合奏が始まる十五分前から個人練習にしてもらって、俺は自由曲のソロを練習していた。

 誰もいない、三年二組の教室内。大地の、教室。

『野球部、決勝行くってよ』

 昼にそう聞いてからなんだか調子が悪い。弁当の食いすぎかと思ったが、胃が痛いわけではなく、胸のあたりがザワザワするというか、モゾモゾするというか、表現のしようがない感情に蝕まれていた。

 ふぅん、だなんて、余裕で野球部を見下していたくせに。

 椅子に腰かけ天井を仰ぐ。白い下地に黒いミミズが這っているような天井。

 コンクールメンバーに選ばれたのは、俺にとっては最初で最後だった。それだけで充分だったのに、自由曲でソロまで任せてもらえた。俺は高校から始めた初心者で、同じパートの中には幼少期からトランペットに触れて高音も外さず音色もきれいな人がいるのに、その人を差し置いて自分がソロだなんて。そいつは「長谷川になら任せられる」って言ってくれたけど、本当は自分が吹きたかったはずだ。任されたことは嬉しいけど、でもやっぱり自分なんかに務まるのか不安だった。

「よし、吹くか」

 ふぅ、と大きく息を吐いてイメージするために目を閉じる。

 ソロ直前は快活な5/4拍子。そこからルバートとなり闘牛場を彷彿とさせるトランペットソロが始まる。そのイメージを保ったままmolto meno mosso(モルト メノ モッソ)——今までより非常に遅く……かと思えばpiu mosso(ピウ モッソ)——今までより速く。派手過ぎず、地味すぎず、真っ直ぐと向こう側へ届くように。最初の跳躍は力を入れすぎないように楽に。十六分音符による三連符は転げないように指と息の量を合わせて。

 瞼の裏に映し出されるのは、真っ黒な楽譜に書かれた『!!全国行くぞ!!』の文字。

『青井大地センパーイ!』
『早く消えてくださーい!』

 あ、音が外れた。

『太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい』

 あ、テンポがズレた。

『太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!』

 ああ、指がうまく動かない!

「……クソッ」

 トランペットを口から引き離す。俺はいったい何を焦ってるんだ。

 汗が目に入る。暑いと思ったらエアコンがついていない。窓を開けるとセミの声とともに校舎の隣にあるグラウンドからカキーンと白球が打ちあがる音が聞こえた。

「チッ」

 吹かない風と暑苦しい音に思わず舌打ちが出る。

 満足のいく練習ができないまま、俺は窓を閉めて合奏に向かった。

***


 八月中旬は夜の七時になると太陽が沈み、それでもまだ地面に薄く影ができる。俺はトランペットケースを背負って家に帰っていた。

 全国に行けなかったら引退。そんな未来は描きたくない。どうせなら、全国へ。そう思っているのに。

 結局、合奏でもソロの部分はうまくいかなかった。今日の午前中はいい調子で吹けていたのに、午後から突然スランプに陥ってしまった。

『ダメだ。今日のトランペットソロは後藤でいく。長谷川。本番明後日だからな。分かってんのか』

 今日の合奏でソロの交代を命じられた。全国に行くためなら顧問だって鬼になる。メンバーの交代など珍しいことではない。一秒たりとも気が抜けないっていうのに、俺は別のことに気を取られていた。

『野球部、決勝行くってよ』

 一足先に全国に行った大地。そして明後日、決勝で闘う幼馴染。

 このままでいいのだろうかと、心のどこかが声を上げる。

『太一が? 吹奏楽? ぶはっ! 似合わねぇ!』

 そう笑われたことは許していないし、大地の左頬を殴った感触はまだ残っている。

 人の憧れを笑った大地が悪いのか、手を出してしまった俺が悪いのか。

「あ、太一だ」

 自分の家があるマンションが見えてきたとき、そのマンションから出てきた海美と遭遇した。ウェルカム蚊と言わんばかりのノースリーブに短パン姿。がま口財布を持っているのでコンビニにでも行くのだろう。

 正直、今会いたくない幼馴染だ。

「あぁ」
「部活帰り? お疲れさまー」
「おう」

 ちょっと高い声がなぜか鼻につく。なるべく会話を避けて早く家に帰りたい。

「じゃあな」
「え、なんか冷たくない? もしかして機嫌悪い?」
「……別に」
「話聞いてあげよっか?」
「必要ない」

 スッと海美の横を通り過ぎた。これ以上会話を続けられたくない。早く家に帰ってソロのイメトレをしないと。

「太一」
「んだよ」
「大地、決勝だよ? 仲直り、しないの?」

 虫が目の前を通過する。

 抑えていた感情のリミッターが外れる音がした。コイツに俺のなにが分かる。

「……るさい」
「え? なに? 聞こえな」
「うるさいっつってんだよ! ほっといてくれ!」
「太一?」
「全部あいつが悪いんだよ! 甲子園がそんなに偉いか? 夏は野球部のためにあるんじゃないんだよ!」
「ちょ、太一」
「うるせぇついてくんな!」

 思春期くらいイラついた。海美は俺のことも応援してくれているのに、ソロがうまく吹けなかった八つ当たりだった。

 眉尻を下げた海美の視線が俺に突き刺さる。でも俺は無視してマンションのエントランスに入った。

 大地が言った通り、俺にトランペットなど似合ってないことくらい本当は分かっていた。理想と現実は違って、くじけそうになる瞬間はいつも隣にあった。それでも俺は辞めなかった。俺だって全国に行きたい。

 甲子園に行きたいと言った大地。後輩から疎まれても平気な素振りをした大地。野球を辞めると言った俺に『そんなしょうもないことで辞めるな』と言った大地。『一緒に甲子園に行きたい』と言った大地。そして、先に甲子園に行った大地。

「一番クソなのは俺だ……」

 だた、悔しかった。中学の頃から努力して本当に甲子園へ行った幼馴染がうらやましくて、その幼馴染に笑われたトランペットが似合う奴になって、見返してやりたかった。努力したのはお前だけじゃないと、言ってやりたかった。

 感情をうまくコントロールできないくせしてソロが吹きたいなんて。どの口が言ってんだ。

「あーっもう!」

 グチャグチャの頭を搔きむしると、背負ったトランペットケースが肩からズレ落ちた。
 ピンポーン、と家のインターホンが鳴ったのは、翌日の午前六時だった。

 すでに起きて制服に着替えていた俺は、母親に頼まれて玄関を開けた。

「はいー、どちらさま……」

 回覧板かと思っていた。朝早い近所のおばさんが「次は長谷川さんちなの」と朝っぱらから化粧のにおいを放ちながらバインダーを手渡してくるんだろうな、と考えていたのに。

「おはよ、太一」

 ニッコリと笑った海美がいた。

「……海美」
「もう制服じゃん。早いね」
「まぁ、支部大会明日だし、今日はホール練だから……」
「そっか」

 すでに日は昇っていて、セミも仲間たちと合唱を始めている。
 昨日の今日でなんとなく気まずい。

「……どした? こんな朝早くに」
「んーと……紹介したい人が、います?」

 なぜか疑問形で海美は後ろに下がった。開け放たれた玄関からは死角になっていて、海実は俺からは見えない隣に視線を動かし「ほら、早く」と小声で誰かを急かしている。

 こんな朝早くから紹介したい人? どこの誰だよ。

 開けたドアの向こう側をのぞき込んで、「あ」と声が漏れた。そこには、茶色いシミの付いたユニフォームを着た甲子園球児がいた。ちょっとだけ目が合って、すぐ逸らす。

「大地……」
「……なんか、久しぶりだな」

 俺は玄関から完全に出て、後ろでドアが閉まる音を聞いた。視線が合わないところで、俺と大地は向かい合っている。

 唐突にトランペットが吹きたくなった。山の上で小さく見える家々を眺めながら、ありったけの息を吸い込んで近所迷惑なくらいの大音量で吹き鳴らしたい。俺とトランペットは一心同体なわけで、俺の気持ちをトランペットに代弁してもらってもおかしくないよな? ちなみにトランぺッターはトランペットのことを『ペット』もしくは『ラッパ』と呼ぶんだけれど『ペット』のイントネーションは動物の『ペット』ではなくペットボトルの『ペット』である──

「オジャマ虫の私は消えまーす」

 海美が俺に下手くそなウィンクを見せて姿を消した。ちょっと待て。変な気を使わなくていいからそばにいてほしかった。いや、変な意味じゃなくて。

 すぐ近くで泣いていたセミの声が、心なしか遠ざかって聞こえた。

「…………」

 べらぼうに気まずい。同じマンションに住み、同じ高校に通っているというのにこうして二人で面と向かうのは中学三年の夏以来だ。俺が大地を避けてきたのか、大地が俺を避けてきたのか……こうして家に来たということは、きっと前者だ。

 だから、先に口を開いたのはやっぱり大地だった。

「……吹奏楽、頑張ってんだな」

 大地と俺の間には低音のティンパニ一台分の距離があった。一人が手を伸ばしても相手には届かないけれど、二人で手を伸ばせばその手に触れられる距離。

「うん。コンクールメンバーに選ばれるくらい、頑張ってる」
「……そうか」
「そういう大地こそ、野球頑張ってんだな。甲子園出場ってだけですごいのに、決勝まで勝ち進むなんて」
「まぁ、俺だけの力じゃないけどな」

 大地と目を合わせて話すのは、初見の楽譜を30秒で覚えろと言われているくらいに難しいことのような気がしていたが、案外簡単だった。しっかりした意志を持った大地の目に吸い込まれそうになる。

『太一。俺はお前と一緒に甲子園に行きたい』

 あの日そう言っていた大地の目と、何ら変わりなかった。そんな変わらない所に俺の心は音の出だしがみんなで揃ったときのようにホッとする。あぁ、やっぱり大地だ。

 すると大地は視線を落として「あのさ」と下を向いた。

「海美が言ってたんだけど、甲子園決勝の日、『何日だ』って言ってないのに日にち知ってたって、本当?」

 突然の意外な質問に面食らう。そんなの聞いてどうするんだ?

「まぁ、そりゃ、テレビでも散々言ってたし、コンクールとかぶってんだから気にしてなくても覚えてるだろ」
「……ふっ」

 大地は下を向いたまま、微かに肩を震わせた。え、泣いてんのか? どこにそんな要素あった?

「大地……?」
「くくっ……あっはっは!」

 汚れが落ち切っていないユニフォーム姿で、大地は突然笑い出した。お腹を押さえながら身体を前に倒し、笑い茸でも食べたのかっていうくらい笑っている。俺は訳が分からず「何?」と眉をひそめた。

「ご、ごめっ……ちょっと待って……」
「何なんだよ。理由によっては手が出るぞ」
「ごめんて……お前、すぐ手が出るもんなっ……あー、可笑し」

 少し汚れた手で大地は目元を拭った。ダジャレを言ったわけでもネタを披露したわけでもないのに、なんでそんなに笑われなきゃいけないんだ。

 不満顔全開の俺に対し、大地は姿勢を正して俺を見た。

「太一さ、吹奏楽のコンクールでソロあんの?」
「え?」
「だって、毎日、これ見よがしにグラウンドに向かって吹いてるじゃん」
「あぁ、まぁ、そうだけど」

 地表の熱が段々と上がってきて、朝の風が薄く吹いた。大地はコルネットの音色のように柔らかく微笑む。

「去年まで太一、吹部で野球応援の方やってたじゃん? でも今年はアルプスに太一がいなくて、野球のこと嫌いになったのかなって思ってたんだ。見たくもないから野球応援してくれないのかなって。海美に『コンクールの方に出るらしいよ』って聞いた時は、正直ホッとした。なんだ、嫌いになったわけじゃなかったんだって……その証拠に、野球部が練習してるグラウンドを見下ろしながらトランペット吹いてた」
「それは……」

 俺は言葉に詰まった。
 確かにソロの練習をするときは校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を選ぶことが多かった。ソロを任された責任と、俺なんかに務まるのかという不安が俺の中に渦巻くとき、自然と足がそこに向かうのだ。

「おーい! 声出してくぞーっ!」
「っしゃおらー!」
「こーい!」

 グラウンドが見下ろせる外廊下。白いユニフォームが黒くなる様子や打ち上がった白球の行方を目で追える場所。

 なぜかそこが落ち着いた。荒立っていた心の波が穏やかになるような気がした。

 かつてバッテリーを組んでいた幼馴染が、マウンドでチェンジアップの練習をしている。それを見ると、トランペットの重量を感じなくなっていた。楽器を構え、すぅっと曲がらないストローのように真っ直ぐ息を吸い込む。その勢いのまま息を出して音を鳴らす。

 青空と太陽の下で、俺はトランペットで歌を歌った。

「……っは」

 余韻を残して唄口から口を離す。その眼下では野球部員がノックの練習や素振りの練習をしている。

 よし、もう一回——

「……なんか分かんねぇけど、大地らの練習を見ながらソロ吹くと、上手く鳴ってる気がしたんだ。高音もすんなり当たるし、息も苦しくない。だから本番でも上手くできるように目に焼きつけておこうと思って」

 目を閉じればいつだってその情景が思い浮かぶくらいには、大地らの練習を見ながらトランペットを吹いたと思う。

 大地がぼそりと呟いた。

「太一がさ、そうやって俺をたきつけるから、甲子園決勝まで行っちゃったよ」
「え?」
「元バッテリーの大事な幼馴染が、俺が似合わないって言ったトランペットをこれ見よがしに吹きこなしてて、悔しくて悔しくて、それが俺の力になった!」

 いつの間に距離を詰めていたのか、ドン、と胸を叩かれた。俺より少しだけ高い背丈。茶色く焼けた顔、腕。洗っても落ちない、汚れたユニフォーム。汗臭い身体。

 セミが近くの木に止まって声を上げた。

 大地の表情がフッと暗くなる。そして頭を下げた。

「ごめんな、太一。あの時、似合わないって笑って」

 本当にごめん、といがぐり頭が俺の眼下に差し出される。中学よりも体格がよくなった大地だが、頭の形といがぐり具合は変わっていないことに気がついた。

 あんなに言えなかった言葉が、俺の口からスッと出る。

「いや、俺こそ殴ってごめん」

 大地と同じように頭を下げると、大地の足元が目に入った。スニーカーでもスパイクでもなく、サンダルを履いた足。大方、海美に引っ張られるがまま来たのだろう。そう思うと鉛を抱えていた心が急に軽くなった。

 大地は俺と目を合わせて言う。

「太一にはトランペットが似合うよ。パーッって真っ直ぐブレない音、カッコいい」
「いや、大地こそストレート速いし変化球も上手いじゃん。あれを受けられるキャッチャーが羨ましいよ」
「じゃあ今度キャッチボールしようぜ」
「あ、出た。キャッチボールという名の投球練習」

 顔を見合わせて、俺たちは吹き出した。マンションの廊下に、俺たちの笑い声が駆ける。今まで一体何をいがみ合っていたのか。いや、いがみ合いなんてしていなかった。お互いにいないものだと思いながら、でも実は常に気にしていたのだ。俺が甲子園の決勝の日を知っていたように、そして大地が俺のトランペットを聞いて嫉妬したように。

「大地が先発?」
「おうよ。背番号1のエースだからな」
「初球からホームラン打たれたら大爆笑だな」
「太一こそコンクールのソロで音外したら腹抱えて笑ってやるよ」

 あー、そうそうこんな空気だった。お互いに譲らない感じ。懐かしいと感じてしまうほどに大地とは疎遠になっていたということか。こうして話してしまえば一瞬であの頃に戻れたというのに。何か、意地を張っていたのがバカみたいだ。

「頑張れよ、太一」
「大地も頑張れよ」

 俺たちはニヤリと笑って拳を合わせた。