バスに乗り込むと、車内に差し込む陽光が、温かみとどこか物悲しい旅の終わりを演出した。一方で七瀬は「わくわくしてきたぁー」と感情を昂らせている。
横目で七瀬が手にもつパンフレットを覗くと、さすが目玉と言うべきか。真珠岬はより一層、記述に熱量が込められていた。
人気な理由はひとえに、そこから見える絶景。特に夕暮れが素晴らしいとのことだった。あとは白い煉瓦作りの灯台や、誰かの小説の舞台になっただとかのおまけが付随するらしい。
僕は絶景に感動するような高尚な感性を持ち合わせてはいないけれど、七瀬は違うらしく、この真珠岬を焦点に予定をじっくりと思案したらしかった。そのおかげかはもう、今となっては定かではないし、尋ねたくもないのだけれど、とにかく事実としては日が落ち切るまでには真珠岬に到着できそうだった。
真珠岬へ向かうちょっとした山道の手前、そこの停留所までの三十分、バスに揺られていた。
涼しい車内、心地良く差す西日、程よい疲労感。睡魔に飲み込まれるには十分な状況だった。
頭が何回か船を漕いで、現実と夢の狭間を行ったり来たりと繰り返していた。
そしてある時、バスが段差を乗り越えた振動で意識が引き戻された。
意識が完全に覚醒しないまま目を開けると、今、自分が何故バスの中に居るのか。そして隣を見て、なぜクラスメイトの女子と——七瀬小春と一緒なのかと疑問に思った。
完全に寝ぼけていたわけだけれど、この時の僕はびっくりすることに、本気でそう疑問に思い、何故なのかと焦って、この状況に至った経緯を考えていた。
そうしてその時、僕はある過去の一幕にたどり着いた。
見つけ出したのは、答えとしては少し筋違いの記憶。ただ、それを思い起こした理由は、それが今すぐ隣で開かれていたからだ。
『これは私の、最初で最後の恋愛小説』
七瀬が書いていると言っていた恋愛小説だ。
そして恋愛小説であると同時に、ある種の予言書のようなものでもあると、僕は認識している。
あの日、その内容を僕が覗いてしまった時の会話を思い出す。
七瀬が言った、僕と七瀬が仲良くなる可能性についての一言。
『今においてはそうかもね。でも、未来では違ったら、一概に嘘とも言い切れない』
クラスに仲が良いと言いふらし、それを否定した僕に対して言ったデタラメだった。
でも今のこの現実と、その言葉を照らし合わせてみると、どうだろう。
ようやく意識が追いついてきて、これまでのこと……特に今日一日の出来事を事象として並べて思考できる今、流石の僕も、あの時の七瀬の言葉を完全に否定できるとは思えなかった。
では事象としてではなく、単に僕の感情に従い評価するとしたなら……と、考えようとしてやめた。
その答えは僕の感情なんかじゃなく、予言書であるのなら、それこそ七瀬の小説に描かれているはずだ。
そして、隣に座る七瀬を横目で見た。
僕がそのノートの内容を覗き見ることのできる機会は、あの日以来、二回目。
書いている姿を見ることは幾度かあれど、僕を含め周りに誰も居ない時を狙っているようだった。今思えば、あの日、無防備にクラスの机に置いてあることが特異な出来事だったのだ。
つまり、僕がこうして七瀬の小説を覗くことができる瞬間は滅多になかった。
自分でも魔が刺したのだと自覚しながらも、しかし僕と七瀬の関係は、その小説にはどのように描かれているのか……薄く目を開け視線をノートに向けた——その時だった。
鈍い音がした。感覚が追いついてきて初めて、それが自分の後頭部に何かがぶつかった音だとわかった。そして、その正体は探る前にわかった。
突如、僕の右半身にもたれかかるように倒れてきた七瀬だった。
ノートを覗こうとしているのがバレたのかと思ったけれど、そうではないことはすぐにわかった。耳に近い位置で聞こえてくる七瀬の呼吸音が、普通では無かったから。
「どうしたの?」
七瀬の体を支えながら、ゆっくりと僕から引き離して問いかけた。そして七瀬の顔を見て狼狽えた。顔が真っ青だった。涼しい車内でひどい汗をかいていて、呼吸も浅く苦しそうに繰り返していた。その呼吸の合間に、七瀬が掠れた声で答えた。
「あたま……痛くて……」
そう聞いて、焦りながらも冷静に、おそらく熱中症だろうと思った。日焼けもしているし、途中温泉にも入っている。その上で彼女が水分を口にしたのは、卓球後に小さな紙コップで飲んだ水が最後だったように記憶している。
「水……ほしい」
水分は二人とも持っていなかった。ぬかった。バスに乗る間は取り敢えず、大丈夫だと思ったのだ。
僕はとにかく焦った。バスの車窓から外を見渡し、自販機を見つけるとボタンで降車の意志を示した。しかし、押せどバスは停まらない。当然だ。バスが停まるのはバス停なのだから。それを忘れるほどに気が動転していた。
「降ります! 降りますここで!」
とにかく運転手にそう叫んだ。そして七瀬を背負い、バスの前方へ急いだ。運転手には走行中に車内を歩くなと注意を受けたけれど、素直に聞いている余裕は無かった。
ちょうどその時にバスが停車した。バス停にたどり着いたらしかった。僕は急いで運賃の投入口に向かって小銭入れをひっくり返した。直前にUFOキャッチャーをしたこともあり、両替した分、料金が十分に足りていることは理解していた。
運転手が何か言っていたけれど、そんな声は聞こえないふりをするともなく聞こえなかった。
バスを降りると、さっき見かけた自販機まで七瀬を背負ったまま無心で走った。
肺と鳩尾が痛み、足がもつれても、とにかく前に体を運んだ。怖かった。得体の知れない恐怖がどれだけ進んでもピッタリと背中にくっついて離れなかった。
やっと自販機まで辿り着いた。
小銭入れを開いて、今さっきその中身の全てを消費した事実に直面する。すぐさま紙幣に切り替えた。震える手で自販機に吸い込ませるのには、時間がかかった。
ようやくペットボトルが吐き出され、すかさず手にした僕は、地面に七瀬を下ろし、抱えながら水を飲ませた。七瀬の震える唇に水を流し込むことも、酷く難しかった。
結局半分ほどを溢しながら注ぎ込んだ。
七瀬が一度、嚥下したのを確認すると、ボトルを口から離す。
でもそこで再度、七瀬の体温を感じてみて、気付かされる。
なぜ七瀬をバスから下ろしたのか。水もそうだけれど、炎天下に居させては意味がない。もっとやりようがあったはずだ。
しかし、後悔している暇はない。とにかく、せめて陰になるような場所を見つけなければ。
僕はまた立ち上がり、辺りを見回す。下から七瀬が何か言う声が聞こえたが、言葉として耳に入らなかった。
少し先の曲がり角の奥、そこに木が並んでいるように見える。一瞬考えて、とりあえずそこが影になっているのか、僕一人で行って先に確認してきた方が良いと思った。
また踏み出す足は重かった。曲がり角の先にちゃんと木陰があるのかと、不安に押し潰されそうだった。ついに角の先を見やる時、僕は祈るような気持ちで目を向けた。
そこには——十分な木陰が存在していた。ほんの少しの安堵感に、震えた息が漏れた。しかし今度は、七瀬をここに連れてこなければならない。
踵を返し、着た道を引き返す。そして角を曲がって——戦慄した。
七瀬がこちらに背を向ける形でうずくまっていた。
「七瀬‼︎」
自分でも聞いたことの無いくらいの声量で叫び、七瀬に駆け寄った。
僕も半ば倒れ込むような勢いで七瀬の肩に手を触れ、表情を確認するために七瀬の体を起こした。
その一瞬、七瀬の妙な仕草を見た気がした。束で纏めた何かをバックに隠すような——しかし、今はそんな疑念も瑣末な事で、一刻も早く七瀬を木陰に連れて行くのが先だ。
また七瀬を背負い、走り、角を曲がり、手頃な木の幹を選んで、もたれ掛からせるように座らせた。
「水、まだある?」
七瀬は小さく頷いてバックからさっきのボトルを取り出した。僕が思っているよりも水量が減っていた。
「もう足りない? 買ってくるよ。走ればすぐだから。あ、水よりスポーツドリンクの方が良いよね——」
言いつつ立ち上がろうとした時、七瀬に手を掴まれた。
「大丈夫……薬も飲んだから」
そう言うと七瀬は手を下ろし、水も地面へ置いた。そのままバックを抱えるように胸に抱くと顔を伏せる。
「もうちょっとで、良くなるから」
何を根拠に良くなるのか、そもそも熱中症に効く薬とは何なのかと思ったけれど、本人がそう言うなら信じる他にない。ただ、じっとしても居られない。
「僕に、他にできることはある?」
言い切る前に、七瀬が僕のズボンの裾を摘んだ。
「ここに居てくれたらそれでいい……」
それで僕は動くに動けなくなって、そのまま七瀬に向かい合う形でしゃがんだ。
まだ肩で息をする七瀬を見ていると、僕の一連の対応が反芻するように思い起こされた。
反省というよりも強迫観念に襲われていた。
当然、他人の命が自分にかかっていることへの恐怖もあった。でも、僕を芯から震え上がらせるものの正体は、また少し別の性質を持っていた。
それが何かは靄がかかって判然としない。ただ、その恐怖にはどこか既視感があった。
この恐怖を、僕は知っている。
だから……なのかも知れない。僕は顔を上げることができなくなっていた。金縛りのように、目線が地面へと固定されていた。再度、七瀬の顔を見る、表情を伺うことができなかった。
どのくらいそうして居ただろう。
もう時間感覚でさえ遠のいていた時、突如、両頬に衝撃を感じた。
「吉良くん!」
意識が引き戻されると同時に、その大声にハッとした。同時に頭をぐいっと引っ張られる。驚きに見開いた目は、七瀬の顔をしっかりと捉えた。
「もぅ! 何回も呼んでるのに無視しないでよ」
言って七瀬が僕の顔から手を離す。状況が掴めずに居ると、七瀬が続けて言った。
「しんどいの、治ったよ」
「へ?」
間抜けな声が出た。
「だから乗り物酔い、治りましたよ!」
「へぇぇ?」
間抜けすぎる声が出た。
「何でそんなに驚いてるの?」
「は? え、だって君——」
僕が話す前に、七瀬が吹き出した。これでもかというくらい元気に笑っている。
「やっぱり熱中症か何かだと思ってた?」
混乱する僕は、頷くことしかできない。
「だから何回も言ったじゃんか。大丈夫だって。乗り物酔いだからって。必死で聞いてなかったのは吉良くんだよ?」
そう聞いて全身の力が抜けた。そうしたら長くしゃがんでいた影響からの強烈な足の痺れを自覚して、そのまま尻餅をついた。
対する七瀬も笑いすぎて転げた。そして目尻を拭いながら言った。
「でも、本当ありがとね。助かったのは事実だよ」
ようやく状況を飲み込めば、なるほど。さっきの発言にも納得できる。
「薬を飲めば治るってのも、そういうことか……」
「そうそう。なのに吉良くんが話を聞いてくれないから、なかなか飲むタイミングがなくて、この場所を探しに行ってくれた時に、何とか隠れて飲んだんだよ」
自分に呆れた。色々と杞憂だったのは良いけど、安堵よりも変な疲労を強く感じた。
「てか、酔い止めなら先に飲んでおきなよ」
七瀬が分かりやすく困った表情をした。
「あ、あと飲みタイプなんだもん」
「そんな酔い止めあってたまるか……」
聞いて呆れる。だけどまぁ、これがいつも通りの七瀬だった。
今日、何度目かわからないため息を、今日一番長く吐いた。息と一緒に項垂れると、地面に長くオレンジの光が伸びているのに気づいた。
光を辿るように見る。それで気づく。ここは海岸をぐるっと囲む並木だったらしい。必死だから気づかなかった。そして光の正体は、言わずもがな夕日だ。
水平線に沈んでいく輝きを見て、真珠岬と呼ばれる由来に納得した。
「空と海が貝殻で、夕日が真珠。快晴が多く、風が穏やかな、気候に恵まれた風土だからこそ生まれる絶景なんだって」
言って七瀬が僕に向いた。そして続けた。
「ねぇ、もっと海に近づいて見てみようよ」
横目で七瀬が手にもつパンフレットを覗くと、さすが目玉と言うべきか。真珠岬はより一層、記述に熱量が込められていた。
人気な理由はひとえに、そこから見える絶景。特に夕暮れが素晴らしいとのことだった。あとは白い煉瓦作りの灯台や、誰かの小説の舞台になっただとかのおまけが付随するらしい。
僕は絶景に感動するような高尚な感性を持ち合わせてはいないけれど、七瀬は違うらしく、この真珠岬を焦点に予定をじっくりと思案したらしかった。そのおかげかはもう、今となっては定かではないし、尋ねたくもないのだけれど、とにかく事実としては日が落ち切るまでには真珠岬に到着できそうだった。
真珠岬へ向かうちょっとした山道の手前、そこの停留所までの三十分、バスに揺られていた。
涼しい車内、心地良く差す西日、程よい疲労感。睡魔に飲み込まれるには十分な状況だった。
頭が何回か船を漕いで、現実と夢の狭間を行ったり来たりと繰り返していた。
そしてある時、バスが段差を乗り越えた振動で意識が引き戻された。
意識が完全に覚醒しないまま目を開けると、今、自分が何故バスの中に居るのか。そして隣を見て、なぜクラスメイトの女子と——七瀬小春と一緒なのかと疑問に思った。
完全に寝ぼけていたわけだけれど、この時の僕はびっくりすることに、本気でそう疑問に思い、何故なのかと焦って、この状況に至った経緯を考えていた。
そうしてその時、僕はある過去の一幕にたどり着いた。
見つけ出したのは、答えとしては少し筋違いの記憶。ただ、それを思い起こした理由は、それが今すぐ隣で開かれていたからだ。
『これは私の、最初で最後の恋愛小説』
七瀬が書いていると言っていた恋愛小説だ。
そして恋愛小説であると同時に、ある種の予言書のようなものでもあると、僕は認識している。
あの日、その内容を僕が覗いてしまった時の会話を思い出す。
七瀬が言った、僕と七瀬が仲良くなる可能性についての一言。
『今においてはそうかもね。でも、未来では違ったら、一概に嘘とも言い切れない』
クラスに仲が良いと言いふらし、それを否定した僕に対して言ったデタラメだった。
でも今のこの現実と、その言葉を照らし合わせてみると、どうだろう。
ようやく意識が追いついてきて、これまでのこと……特に今日一日の出来事を事象として並べて思考できる今、流石の僕も、あの時の七瀬の言葉を完全に否定できるとは思えなかった。
では事象としてではなく、単に僕の感情に従い評価するとしたなら……と、考えようとしてやめた。
その答えは僕の感情なんかじゃなく、予言書であるのなら、それこそ七瀬の小説に描かれているはずだ。
そして、隣に座る七瀬を横目で見た。
僕がそのノートの内容を覗き見ることのできる機会は、あの日以来、二回目。
書いている姿を見ることは幾度かあれど、僕を含め周りに誰も居ない時を狙っているようだった。今思えば、あの日、無防備にクラスの机に置いてあることが特異な出来事だったのだ。
つまり、僕がこうして七瀬の小説を覗くことができる瞬間は滅多になかった。
自分でも魔が刺したのだと自覚しながらも、しかし僕と七瀬の関係は、その小説にはどのように描かれているのか……薄く目を開け視線をノートに向けた——その時だった。
鈍い音がした。感覚が追いついてきて初めて、それが自分の後頭部に何かがぶつかった音だとわかった。そして、その正体は探る前にわかった。
突如、僕の右半身にもたれかかるように倒れてきた七瀬だった。
ノートを覗こうとしているのがバレたのかと思ったけれど、そうではないことはすぐにわかった。耳に近い位置で聞こえてくる七瀬の呼吸音が、普通では無かったから。
「どうしたの?」
七瀬の体を支えながら、ゆっくりと僕から引き離して問いかけた。そして七瀬の顔を見て狼狽えた。顔が真っ青だった。涼しい車内でひどい汗をかいていて、呼吸も浅く苦しそうに繰り返していた。その呼吸の合間に、七瀬が掠れた声で答えた。
「あたま……痛くて……」
そう聞いて、焦りながらも冷静に、おそらく熱中症だろうと思った。日焼けもしているし、途中温泉にも入っている。その上で彼女が水分を口にしたのは、卓球後に小さな紙コップで飲んだ水が最後だったように記憶している。
「水……ほしい」
水分は二人とも持っていなかった。ぬかった。バスに乗る間は取り敢えず、大丈夫だと思ったのだ。
僕はとにかく焦った。バスの車窓から外を見渡し、自販機を見つけるとボタンで降車の意志を示した。しかし、押せどバスは停まらない。当然だ。バスが停まるのはバス停なのだから。それを忘れるほどに気が動転していた。
「降ります! 降りますここで!」
とにかく運転手にそう叫んだ。そして七瀬を背負い、バスの前方へ急いだ。運転手には走行中に車内を歩くなと注意を受けたけれど、素直に聞いている余裕は無かった。
ちょうどその時にバスが停車した。バス停にたどり着いたらしかった。僕は急いで運賃の投入口に向かって小銭入れをひっくり返した。直前にUFOキャッチャーをしたこともあり、両替した分、料金が十分に足りていることは理解していた。
運転手が何か言っていたけれど、そんな声は聞こえないふりをするともなく聞こえなかった。
バスを降りると、さっき見かけた自販機まで七瀬を背負ったまま無心で走った。
肺と鳩尾が痛み、足がもつれても、とにかく前に体を運んだ。怖かった。得体の知れない恐怖がどれだけ進んでもピッタリと背中にくっついて離れなかった。
やっと自販機まで辿り着いた。
小銭入れを開いて、今さっきその中身の全てを消費した事実に直面する。すぐさま紙幣に切り替えた。震える手で自販機に吸い込ませるのには、時間がかかった。
ようやくペットボトルが吐き出され、すかさず手にした僕は、地面に七瀬を下ろし、抱えながら水を飲ませた。七瀬の震える唇に水を流し込むことも、酷く難しかった。
結局半分ほどを溢しながら注ぎ込んだ。
七瀬が一度、嚥下したのを確認すると、ボトルを口から離す。
でもそこで再度、七瀬の体温を感じてみて、気付かされる。
なぜ七瀬をバスから下ろしたのか。水もそうだけれど、炎天下に居させては意味がない。もっとやりようがあったはずだ。
しかし、後悔している暇はない。とにかく、せめて陰になるような場所を見つけなければ。
僕はまた立ち上がり、辺りを見回す。下から七瀬が何か言う声が聞こえたが、言葉として耳に入らなかった。
少し先の曲がり角の奥、そこに木が並んでいるように見える。一瞬考えて、とりあえずそこが影になっているのか、僕一人で行って先に確認してきた方が良いと思った。
また踏み出す足は重かった。曲がり角の先にちゃんと木陰があるのかと、不安に押し潰されそうだった。ついに角の先を見やる時、僕は祈るような気持ちで目を向けた。
そこには——十分な木陰が存在していた。ほんの少しの安堵感に、震えた息が漏れた。しかし今度は、七瀬をここに連れてこなければならない。
踵を返し、着た道を引き返す。そして角を曲がって——戦慄した。
七瀬がこちらに背を向ける形でうずくまっていた。
「七瀬‼︎」
自分でも聞いたことの無いくらいの声量で叫び、七瀬に駆け寄った。
僕も半ば倒れ込むような勢いで七瀬の肩に手を触れ、表情を確認するために七瀬の体を起こした。
その一瞬、七瀬の妙な仕草を見た気がした。束で纏めた何かをバックに隠すような——しかし、今はそんな疑念も瑣末な事で、一刻も早く七瀬を木陰に連れて行くのが先だ。
また七瀬を背負い、走り、角を曲がり、手頃な木の幹を選んで、もたれ掛からせるように座らせた。
「水、まだある?」
七瀬は小さく頷いてバックからさっきのボトルを取り出した。僕が思っているよりも水量が減っていた。
「もう足りない? 買ってくるよ。走ればすぐだから。あ、水よりスポーツドリンクの方が良いよね——」
言いつつ立ち上がろうとした時、七瀬に手を掴まれた。
「大丈夫……薬も飲んだから」
そう言うと七瀬は手を下ろし、水も地面へ置いた。そのままバックを抱えるように胸に抱くと顔を伏せる。
「もうちょっとで、良くなるから」
何を根拠に良くなるのか、そもそも熱中症に効く薬とは何なのかと思ったけれど、本人がそう言うなら信じる他にない。ただ、じっとしても居られない。
「僕に、他にできることはある?」
言い切る前に、七瀬が僕のズボンの裾を摘んだ。
「ここに居てくれたらそれでいい……」
それで僕は動くに動けなくなって、そのまま七瀬に向かい合う形でしゃがんだ。
まだ肩で息をする七瀬を見ていると、僕の一連の対応が反芻するように思い起こされた。
反省というよりも強迫観念に襲われていた。
当然、他人の命が自分にかかっていることへの恐怖もあった。でも、僕を芯から震え上がらせるものの正体は、また少し別の性質を持っていた。
それが何かは靄がかかって判然としない。ただ、その恐怖にはどこか既視感があった。
この恐怖を、僕は知っている。
だから……なのかも知れない。僕は顔を上げることができなくなっていた。金縛りのように、目線が地面へと固定されていた。再度、七瀬の顔を見る、表情を伺うことができなかった。
どのくらいそうして居ただろう。
もう時間感覚でさえ遠のいていた時、突如、両頬に衝撃を感じた。
「吉良くん!」
意識が引き戻されると同時に、その大声にハッとした。同時に頭をぐいっと引っ張られる。驚きに見開いた目は、七瀬の顔をしっかりと捉えた。
「もぅ! 何回も呼んでるのに無視しないでよ」
言って七瀬が僕の顔から手を離す。状況が掴めずに居ると、七瀬が続けて言った。
「しんどいの、治ったよ」
「へ?」
間抜けな声が出た。
「だから乗り物酔い、治りましたよ!」
「へぇぇ?」
間抜けすぎる声が出た。
「何でそんなに驚いてるの?」
「は? え、だって君——」
僕が話す前に、七瀬が吹き出した。これでもかというくらい元気に笑っている。
「やっぱり熱中症か何かだと思ってた?」
混乱する僕は、頷くことしかできない。
「だから何回も言ったじゃんか。大丈夫だって。乗り物酔いだからって。必死で聞いてなかったのは吉良くんだよ?」
そう聞いて全身の力が抜けた。そうしたら長くしゃがんでいた影響からの強烈な足の痺れを自覚して、そのまま尻餅をついた。
対する七瀬も笑いすぎて転げた。そして目尻を拭いながら言った。
「でも、本当ありがとね。助かったのは事実だよ」
ようやく状況を飲み込めば、なるほど。さっきの発言にも納得できる。
「薬を飲めば治るってのも、そういうことか……」
「そうそう。なのに吉良くんが話を聞いてくれないから、なかなか飲むタイミングがなくて、この場所を探しに行ってくれた時に、何とか隠れて飲んだんだよ」
自分に呆れた。色々と杞憂だったのは良いけど、安堵よりも変な疲労を強く感じた。
「てか、酔い止めなら先に飲んでおきなよ」
七瀬が分かりやすく困った表情をした。
「あ、あと飲みタイプなんだもん」
「そんな酔い止めあってたまるか……」
聞いて呆れる。だけどまぁ、これがいつも通りの七瀬だった。
今日、何度目かわからないため息を、今日一番長く吐いた。息と一緒に項垂れると、地面に長くオレンジの光が伸びているのに気づいた。
光を辿るように見る。それで気づく。ここは海岸をぐるっと囲む並木だったらしい。必死だから気づかなかった。そして光の正体は、言わずもがな夕日だ。
水平線に沈んでいく輝きを見て、真珠岬と呼ばれる由来に納得した。
「空と海が貝殻で、夕日が真珠。快晴が多く、風が穏やかな、気候に恵まれた風土だからこそ生まれる絶景なんだって」
言って七瀬が僕に向いた。そして続けた。
「ねぇ、もっと海に近づいて見てみようよ」