遠ざかる単気筒を見送った。代わりに自分の鼓動が聞こえ始めると、僕は振り返った。
「私、朝井ね」
 彼女はあっけらかんとした様子でそう言った。一方、隣に立つ少女は緊張した面持ちで、
「初めまして。七瀬小春です」と、言った。
「さぁさ、とりあえず店へ入ろっか」
 朝井が慌てたようにそう言ってくれたおかげで、僕はギリギリ正気を保つことができた。
 店員が注文を取りに来る。僕と朝井はコーヒー。小春はじっくりとメニューを見ていた。
「君はカフェモカがいいんじゃないかな?」
 その沈黙を嫌った僕は、震える喉を物理的に押さえながら、そう言った。けれど——、
「これって、甘いですか?」
「う、うん。甘いよ。チョコ風味というか」
「あぁ……ごめんなさい。チョコはもうお見舞いで沢山もらって、飽き飽きなんですよね」
 言って笑うのは、間違いなく小春の顔だ。けれど、小春はそんな愛想を取り付けただけの笑い方はしたことがない。
「あぁ、そう……」
 姿形はそこにあるのに、存在が果てしなく遠い。底のない虚空だけがそこにあった。落胆に身を引くと、背中が背もたれに付いた。
「ところで……吉良さん? ですよね。あの、私をモデルにした小説というのは……?」
 放心していた僕へ小春が言った。朝井から「吉良っ」と呼ばれて、僕はそれに気づいた。
 徐に小説を取り出し、小春に渡す。
 これが最後の可能性だった。小春の人格がその体から消えたと聞いて、僕は二週間の猶予をもらって小説を完成させた。そして今日それを小春に読ませる。そこで初めて、何が終わって、何が始まるのか。その結論が出る。
 小春は静かにそれを読んだ。普通、記憶を喪失した自分をモデルにした小説など読みたがらないだろうに、それでも小春は淡々とページを捲った。
 そうして、僕らの過去が、僕らの過ごした時間が、小春によって次々に読み飛ばされていく。どんどんと消化され、消えていった。僕はその姿を目に焼き付けるように眺めた。
 冬の優しい日差しが小春を照らす。スポットライトのように当てられた光。そこで記憶が再生される。それは何気ない日々の一瞬。
 教室だった。まだ小春は夏服を着ていた。風に吹かれる髪を耳に掛け、真剣な表情で劇の脚本に向かっている。軽やかに唇が動き、少し鼻声気味の落ち着いた声。その懐かしい音色が台詞を読み上げた。
 すると、ふと綿毛のようなまつ毛が瞬き、愛らしい瞳に僕が映った。小春が言った。
『吉良くん。愛してるよ——』
 その一言が、かえって僕を現実へ押し出した。見つめる先、追憶の君が目前の少女に重なる。
 それで僕はわかった。
『今日、君の恋愛小説が終わる』
 しかし、その時だった。ふっと小春が顔を上げた。その瞬間に僕は、不覚にも何かが動き出す。何かが変わる予感を強く夢みた。
「コーヒーおかわりもらっていいですか?」
 それで僕は本当に諦めがついた。温かい想い出は僕に残っている。それで良いのだと。
 感情に整理がついたからか、その後の出来事は淡々と受け入れられた。結局、小春は何も思い出さなかった。本当に僕らの物語はこれで終わった。
 だから、別れ際に僕は小春にこう言った。
「今日はありがとう。僕も色々とケジメがついた。そして、初対面でこう言うのもなんだけれど、僕はもう君に会えないと思う」
 小春の顔が複雑に歪んだ。でもそれは、僕の言葉を不審に思っているという表情だった。
 朝井が寄って来て、僕に言った。
「正気!? 小春と会わないってあんた——」
 僕は岬で小春にいつまでも待つと言った。でも僕は今、酷く現実を思い知った。
 峠で小春は言っていた。『人が変わるのは自然なこと』と。でも今の僕には、君が自然を超え、超自然的な存在として見えている。医療はもちろん、科学でも、フィクションでも、ノンフィクションであり君の作品でもあった小説でも、説明がつかなかった。君の意識は、人格は、欠片も揺らがなかった。
 そう。だから縋り付いてはいけない。それこそ甘えなんだ。物語の登場人物に思いを馳せても仕方がない。それと同じことだ。
 彼女は、七瀬小春は新たな人間として生まれ変わった。そうして彼女は別人として日々を歩み、新たに出会い、愛する人を見つけ、歳を重ねていく。それも一つの尊い人生で、それは誰にでも平等に与えられるべきものだ。
 だからこそ僕は記憶の中の小春を想い続ける。それでいい。それが僕らの正解なんだ。
「うん。もう決めた。それと、朝井もありがとうね。君も辛いだろうに」
 言うと、朝井は唇を噛んで俯き、言った。
「わかった……」
 そして僕は二人共を視界に入れて、
「じゃあ、僕はこれで」と言い、最後に小春だけを視界に入れて、
「さようなら」と、小さく呟き、別れた。

 僕は歩きながらこれからのことを考えた。どの道で家に帰ろうか。家で何を食べようか。帰ってどうしようか。父さんとはどう生きようか。これから、どう生きていこうか。
 小春が居なくとも僕は生きる。それだけは決めている。
 いつか死ぬからではなく、今を生き抜くと思って生きていきたい。
 その大切さを、尊さを、僕はこの半年で沢山学んだ。
 いつかの交差点を渡って止まる。小春に引き止められて、僕らの出会いが始まった場所。そして僕らは何度もここで別れた。
 そう思った時、そこで突然、強い風が吹いた。風に煽られた僕はポケットから手を出す。
 すると、そこから何かこぼれ落ちた。風に流されるそれを目で追う。チョコバーだった。
 最後の一本だ。逃すまいと僕はそれを追う。
 そして、やっと路肩の花壇にぶつかって止まった。やれやれと思いそれに触れた時——、
 視界の端で何かが揺れた。
 その正体を捉える。そこには、季節外れの百合が咲いていた。鼻の先。その百合は、骨に徹えるほど懐かしい香りがした。
 その時、声がする。
「吉良さん!!」
 叫び声に振り向く。すると車道を挟んだ向こう側に、僕はいつかの光景を見た。
 時間も含め、この空間の全てが止まったというようだった。凛とした声と、まっすぐに伸びた白く細い手は、その停止した世界のヒロインであることを主張していた。
 丁度、信号が青に変わると、小春はそのまま僕に駆け寄り、息を切らしながら言った。
「私、言おうか迷ってました。でも、別れ際の吉良さんの言葉を受けて、言ってやろうって思って、やっぱり追いかけてきました」
 僕が黙っていると、そこに付け込むように、
「私、この小説をどこかで読んだ事があるような気がするんです」と、小春が言った。
 暴論だ。だって君は忘れているじゃないか。出鱈目や慰めであるなら、僕は要らない。
「それと、せっかく出会えたんですから、もう会えないとか言わないでください」
 でも、彼女の目には嘘はない様に見えた。もう全てを諦めた上で、僕は今、そう思った。
「じゃあ、君はそれをどこで読んだの?」
「分かりません。それと同じく、私には以前の記憶もありません」
 言って俯く小春は、しかしすぐ顔を上げた。
「でも、過去の自分も併せて私であることには変わりありません。だから私は、立ち止まりも見捨てもしない。忘れたなら思い出せばいい。その上で、私は二度と来ない今日を、両手いっぱいに抱きしめて生きていきます」
 そして小春は「だから」と続けて言った。
「吉良くん。お友達になってください」
 言われて、いっぱいの感情と、いっぱいの思い出が同時に心に溢れる。なんと返すべきかと悩んで、やっと出た言葉はこうだった。
「コーヒー飲みすぎて、甘味が欲しくない?」
「はい……?」
 僕はいつかの小春のようにチョコバーを半分に割って、今ここに居る小春に半分を渡す。
 僕が先にチョコを口に含むと、合わせて小春も恐る恐るチョコを齧る。すると瞬間パッと表情を明るくして彼女はこう言った。
「美味しい! このチョコはなんか違う!」
 そう言って、小春は感情を素直に表現し、興奮で赤らむ頬をムニムニと揉んでみせた。
 そんな小春に僕は気づけばこう言っていた。
「僕はこれを箱買いして食べたことがある」
 言うや否や、小春は夢を見る少女みたいに目を輝かせて言った。
「じゃあ、今から一緒に箱買いしに行きましょう!」
 そう言う彼女の目に嘘はない。この目を、僕は何度も見た。
 小春は先に歩き始める。その背中を見て、しかし僕はまだ足を踏み出せない。
「吉良くん?」
 声の方に向くと、小春は首を傾げながら頬を膨らませている。そしてプッと息を抜くと今度は笑って言った。
「もしや吉良くん。私が小説をどっかで読んだ気がするとか言ったから、拗ねてるんじゃ?」
「え、は?」
 大きく筋違いな解釈をされながら、ただ狼狽える僕へ、小春はクルッと身を翻して言った。
「素敵な小説だったよ。私もいつか、あんな恋がしてみたい。そう思った」
 少し頬を朱に染めた小春はそのまま、
「さぁ、行こうよ」と、僕の小指を雑に掴んできた。痛い……けど懐かしかった。
 そして、そう感じてしまうと、もう目を逸らせなかった。
 恋という形のない、しかし重さのあるもの。今、それを僕は、以前に小春の言った優しさ。その性質に似ていると感じた。
 吊り合ったときに通い合う甘みがある。だからこそ、なんとか吊り合わせるように渡り歩く。
 一見、滑稽に見えるかもしれない。でも、いつだってそこにある発端は互いに盲目的なエゴ。
 つまりは衝動で、それを運命と名づけた瞬間、恋へと昇華するのだろう。
 ——ねぇ。だからこそ、小春。
 これからの君との関係に特別な意味は、持たせなくていいのかもしれない。
 些細なことは、やっぱり僕が勝手に高揚と絶望を繰り返せばいいわけで。いつかそれを片思いと片付けることになってもいい。それもまた一つの繋がりの中で生まれた結果だ。本来というか、いつでも恋とはそういうものなのだと思うから……。
 ここにある僕の衝動は、いつどこに居る君であっても愛したい。ただそれだけ。
 君をもう一度、愛したい。ただその衝動に身を任せたい。
 その上で結論を出すのでも、遅くはないと思うんだ。
 僕は顔を上げた。
 手を引かれるまま、体を支えるようにして踏み出していた一歩を、今、自分の意志で踏み出した。足裏でしっかりと地面を掴んで、そして蹴り出した。
 小春に握られた小指を見て、自分からも握り返してみる。
 また、ここからスタートかと思う。でも、哀愁よりも希望を僕は噛み締めている。
 なんて言ったって、これは君がくれた僕の再出発だ。そして、その出発の動機を、君を幸せにする日々に誓いたい。
 つまりはそういう意味で、この物語は最初で最後なのだろう。そう。だから——、
「今日、君の恋愛小説が終わる」
 そして。
「僕ら二人の物語がまた始まるんだ」