獣道を抜けると景色が開けた。細雪が舞い、視界をぼやけさせる。
 けれど、その先に確かに七瀬の姿が見えた。夢か真か。と朧げな意識を振り払うように。もう七瀬を逃さないように。気づくと僕は後ろから抱きついていた。
「いつの間にこんなに大胆になったのかな?」
「ここ最近で変わったと言う点では、七瀬の方が、変わっちゃったじゃないか」
「私は変わってないよ。でも人が変わるのは自然な事。その一つに吉良くんは大胆になった。ねぇ、ならさ、今だけ小春って呼んでよ」
「……贅沢な名だね。これから君は春だよ」
 そう言うと懐かしい音色が。七瀬の笑い声がカラカラと聞こえ、そして彼女は「やかましいわっ」と小さく言って、肘で僕を小突く。
 七瀬の笑い声を聞いて、少しホッとした僕は、七瀬をゆっくりと解放し、隣に座った。
 すると七瀬も隣に座り「入りなよ」と、自身が羽織っていた膝掛けを広げ、今度は七瀬が抱きつくようにして、僕と一緒に包まった。途端、甘い匂いと温もりに包まれる。
 外は寒くて、と言うより今も寒いけれど、隣の七瀬は温かくて、それは彼女が今日まで生きてきて、今も生きている証明だった。
「吉良くんあったかいねぇ。生きてるんだね」
 生きている。その温かみを噛み締める。
「ねぇ、小春」と、僕は七瀬に向く。
「なに、澄人」と、小春は僕に向く。
 僕らは意図せず向かい合い、お互いの真っ赤な顔を見て、同時に目を逸らした。僕はもう少しで声を上げるところだった。気恥ずかしさと、幸福感が体に循環するのがわかった。
 小春は顔をムニムニと揉んでから、言った。
「うん。オッケー。よし、どうした澄人」
 また僕の名を小春が呼んだ。そうして心まで温まると、逆に余計なことを言ってしまう。
「小春……君は本当に死ぬの?」
 温もりが。柔い感触が。甘い匂いが。
「うん。もう、死んじゃうんだ」
 体の芯がじわりと痛みを伴って冷える。
「でもさ、まだ他に手があったり——」
 そう必死になって言った僕は、しかし、小春の横顔を見て、その温度差を察した。
「もう少し、こうして居ていい……?」
 消え入るように言う小春。透き通るような肌の白さと、憂いを帯びた瞳。このまま景色に溶けて消えてしまいそうな儚さが怖かった。
「結局、私の覚悟は全部、甘々だったな」
 小春がそうポツリと呟く。
「澄人くんを遠ざけるのも、補習の時から意識してたのに、本音と葛藤して負けちゃう時の方が多かった。ふとした時に、この時間が永遠に続かないかなって思っちゃってる自分に気づいて……そうだ。結局、私から言い出した勝負にも負けちゃってるんだった」
 軽く笑ってから、突然に「あっ」と漏らした小春が、思い出したというように言う。
「でも勝負と言えば、まだ澄人くんの分は残ってるよね?」
「僕の分……?」
「私も勝ち負けじゃない使い方をしてみるよ」
 そう言って、小春が真剣な目で僕に向いた。
「私が澄人くんと仲良くなりたい理由。それはね、私が澄人くんの事が好きだから。ううん。澄人が、ずっと好きで、今も好きだから」
 顔が沸騰するかと思った。なんと返すべきだろうと思って、でも言いたいことはたくさんあった。だからそれをそのまま声にした。
「なんていうか……ありがとう。それと、長い間待たせてごめん。あと、僕も君が好きだ」
「なんか盛り沢山。大事なことが霞んでるよ」
 言って、小春は拗ねたように頬を膨らませる。僕も確かにと自覚して、きちんと言おうと心に決めた。もう照れもなしだ。
「僕は君が、小春のことが大好きだ」
 一拍置いてから、小春が答えた。
「うんっ! 私も澄人が大好きだよ」
 感情を素直に表現できる。それが小春だ。それは今もそうで、声色はとても明るく見せるけれど……物悲しげな微笑みが隠しきれていなかった。証拠に、表情から徐々に笑みが消え、瞳が潤み、滲んだ涙を袖で拭うと、そのまま顔を埋めた。
「ねぇ。一つだけ、言っちゃいけないこと言ってもいい?」と、小春が涙声で言う。
「うん」僕は覚悟して返事をした。
「……私ね、今ここで死んじゃいたい。澄人の隣で、この真珠岬で。真珠岬なら、真珠貝で掘った穴よりもっとご利益ありそうだし。空にも近いから星が降ってくる確率も高そう」
 小春特有のユニークな表現だと思うと同時に、やはり小春は僕がまだ死を止めにここに来たのだと思っているらしいとわかった。
「ご利益とか確率とか、逆に胡散臭いよ」
 僕が言うと、小さく息を吸いながら、小春が顔を上げ、目前の海を眺めて呟く。
「……本当だね」
 声と共に小春の姿が霞む。と思って、僕は自分が涙を流していることに気づく。だけれど涙を拭い、小春の横顔を眺めて腹を括った。
 そして「でも、いいよ」と、僕は言った。
「え……?」と、小春の驚いた表情には哀愁が浮かび、一方、紅潮した頬が少し緩む。そんな複雑な小春を見て、魔が差してしまう。
「僕も、一緒に死んでいい?」
「だめぇ!! それだけは絶対に!!」
 その一言だけは、小春に躊躇いはなかった。突き放されて苦しさも感じるけれど、否定してくれてよかった。僕は今の一瞬、本当にここで小春と死んでも良いと思っていたから。
 僕が「ごめん」と言うと「うん」とだけ小春が返した。
 その後、僕らは無言になった。気まずさを埋めると言うより、もっと大切なものを探り、埋めようと、取り返そうとするように、どちらともなくそっと手を触れ、繋いだ。
 小指にしか触れたことのない小春の手は思うよりずっと小さく柔らかい。その感触を覚えておきたくて、指を絡ませるように握り直した。もっと小春を近く感じたい。でも、それ以上は僕らにはまだ早くて、もう遅かった。
 ある時、小春が譫言のように言った。
「私、本当はね、死ぬなら観覧車の中が良かった。東京辺りの大きいやつに乗りたかった」
「観覧車?」
「うん。街を眺めるの。視界の中にもう一生すれ違いもしない沢山の人が生きている。でもスッと隣に向けば澄人が居て『あぁ私はこんなに広い世界でこの人と出会い、愛し合っているんだ』と思うの。そしてゴンドラが頂点に達した時、二人きりの時間と空間の中に、その何気ない一瞬に、命を溶かすんだ——」
 ポスッと、体を丸めるようにして座っていた僕の胸と膝の間に、小春が倒れてきた。
「あぁ、もう本当に時間切れだ……」
 僕は小春を抱えるように、座り直す。
 小春はそのまま、僕の腕の中で言った。
「私ね、死ぬことより記憶が無くなる方が怖かったの。全部を忘れて私が私じゃなくなる。たとえ後から思い出せたとしても、今のこの気持ちを、澄人を。同じ熱量で思い起こせるのかわからない。私から一旦離れた場所で勝手に風化して返ってくるみたいな、そんなのは絶対に許せなかった。だから今ここで澄人の腕の中で死ねることが、私は本当に嬉しい」
 小春が僕を見つめる目はもう虚ろで、涙は湛えられる場所を失い、流れ続けている。
「澄人だって、二人の思い出が私に残ってない。共有できてない。そんなの辛いでしょ?」
 そうだ。僕も幾度もそれを考えて絶望した。その上で僕はこの選択したんだ。
「だから澄人。ありがとう。大好き」
 幾度も見た小春の笑顔に、覚悟を決めた。
「小春。僕も君が大好きだ。だから——」
 言って僕は立ち上がった。何度も考え何度も絶望した。これはだからこその選択なんだ。
 記憶を保っておける僕だからこそ、考えられる、決断できることがある。
「小春ごめん。僕は君を死なせない。手術を受けて、僅かな可能性に賭けてほしい。命さえ助かればいい。もし君が記憶をなくしても、僕が君を忘れない。君が思い出すまで待つ。一方的に思いを寄せ続ける。悲しく聞こえるかもだけど、それら全部、僕は得意なんだよ」
 母さんのこと、父さんのこと、バイトのこと、七瀬小春のこと。色んな感情を帯び、生きてきたそれらは、そのための経験なんだ。
「今の一瞬を、来る時のための輝きにする。真珠岬の灯台として、この先の未来を照らすなら、僕はいつまでだって待ち続けられる」
 呆気にとられている小春を、抱え上げる。
「君の小説は第二章から始まっていた。その意味を夢十夜に倣えて考えれば、君は第一章で、僕と君との再会を書こうとしたんだろ?」
 小春の瞳孔が開く。僕はそれに頷く。
「じゃあそれは僕が書く。そして君と再会した時それを君に読ませる。僕の言葉で、表現で君を感動させる。風化しても欠片を僕が集める。だから、まだ僕達の物語は続くんだ」
「そんなの……澄人が辛いよ」
 やっぱりだ。小春は記憶を失うことによる、僕への影響も考えていた。思うと涙が溢れる。でも、僕は泣いてちゃ駄目だ。
 僕は余韻を置き去りにして立ち上がる。小春を一刻も早く病院と運ぶため、歩き始める。
 一歩一歩、迷いを断ち切るように歩く——。
「澄人……?」
 しかし、そう小春の声を聞いたのが先か。僕の視界が突然にグニャリと歪み、鈍い衝撃を感じた。遠のく意識で理解できたのは、一昨日からの風邪の悪化で僕が今、倒れたこと。
 小春の弱々しい涙まじりの声が僕の名を繰り返し呼ぶ。
 まさか、こんな終わり方なのか? 僕は最後に何もできないままで——。