勢いよく玄関扉を開けた。リビングには明かりが点いている。でも躊躇なく乗り込んだ。
「うおぁ!!」と低く唸るような悲鳴を漏らした男は、僕が知る父よりも随分、小さかった。
「なんで母さんが死んだことを黙ってた!?」
 そんな貧弱な姿を見て、余計に、僕の中でどうしようもない怒りが湧き上がってくる。
「なんでそれを……」
 驚嘆する一方どこか気まずそうな表情を浮かべるのを見て、僕はたまらず掴みかかった。
「言えよ、薄情者!!」
 だけれどそうして顔を近づけて睨んでやると、丸くなっていた目がキッと吊り上がった。
「真実を聞いて、お前が耐えられたかよ!!」
 不意をつかれて掴み返される。でも、その力は弱く、拳も震えていた。
「言い訳すんな! 逃げんなよ!」
 と、僕がそこまで言った時だった。
「……逃げたのは、お前も一緒だろ」
「は……? な、何言って……」
 突然にトーンを落として言われた一言に、僕はなぜか酷く怯んだ。理由はわからない。
 一方で、父さんは僕から手を離し、その手を自身の目元を覆うように当てて話し始めた。
「病気が見つかり、余命一ヶ月との宣告通りに母さんは死んだ。母さんは死をお前に伝えることを望む一方で、お前はまだ幼かった。そして俺も、お前の悲しむ顔を母さんには見せたくなかった。だから、母さんが死んだ後、俺から真実を伝えると、そう約束した」
「でも事実、今日まで話さなかった!!」
「お前がっ!! お前は……当時、母さんに会いに行く時だけ楽しそうにしていた。母さんと別れる夕方にはいつも泣き喚いた。でもある時からお前は母さんに会いたがらなくなった。いつしか会っても顔さえ見なくなった」
 父さんは一拍置いてから、こう言った。
「母さんが死ぬ。それを、お前も幼いながらに察していたんだ」
「そ、そんなの勝手な想像だろ……」
 しかし、そう言った僕の声は、なぜか自然と尻すぼみになった。
「想像じゃない。なぜならお前は、母さんが死ぬ直前に病室を抜け出した。それ自体は勘に近い何かで、ここに居るのが嫌だと察したんだろう——」
 父さんはそこまで言って一瞬だけ沈黙を挟んだ後に「でも、その後だ」と続けた。
「お前はその後、近くの病室の女の子に、前日に母さんから読み聞かされた夢十夜を読み聞かせていた。その行為にはお前なりの理由があったはずだ」
 その時、僕の中でカチャリと何かが音を立てて嵌った気がした。直前の違和感が一気に僕を包み込み、あの日の記憶を呼び起こした。
 病室で夢十夜を読み終えた母さんが言った。
『澄人。少しだけでいい。こっちを向いて』
 言われて僕は母さんに向いた。そうだ。僕は日に日に窶れ、機器を取り付けられていく母さんの顔を見るのが怖かった。母さんが母さんじゃなくなって行くのが怖かったんだ。
 僕は、この後に続く母さんの言葉を思い出した。そして今やっとわかった。母さんが僕に夢十夜を読み聞かせたのは、言葉にしてはいけない。でもそれでも伝えたかった、『忘れないで』という思いからだったのだと。
『お母さんは、澄人が大好きだよ』
 母さんが悲しく、でも優しく温かく笑う。
 僕はそうして十年ぶりに母さんの顔を思い出す。何も怖くない。僕だって大好きだった。
 その上で、僕が七瀬に夢十夜を読み聞かせた理由がわかった気がする。
 それは僕が母さんの死という事実を否定する、忘れるための無意識な抵抗から生まれた。
 僕は一人で抱えきれなかった。かと言って父さんにそれを言えば母さんの死が確定する。
 でも、忘れるには夢十夜が邪魔をした。つまり、その足掻きが、見知らぬ七瀬に夢十夜を読み聞かせるという結果を招いたのだった。
 そう。僕は夢十夜を七瀬に押しつけたんだ……。
 回想が終わると、父さんの声が聞こえた。
「真実を伝える事は、お前の傷口を抉るだけに思えた。だから明言できなかったんだ……」
 全てを思い出して、理解した。でも、それでも僕は、惨めにも、続けて言った。
「じゃあ、知らない女が家にいたのは!?」「今日まで、ずっと引きこもってきたのは!?」
 感情が——怒りが、悲しみが、枯れない。
 でもその時、意図せぬ声が聞こえた。
「吉良。もうやめとけ。そこまでだよ」
 振り向くと、玄関になぜか北島が居た。
「話が母親から逸れただろ。じゃあもうお前は話を飲み込めてんだよ。あとは甘えだ」
 なぜ君にそんなことを言われなくてはならないのか。と、思うけれど、感情とは裏腹に僕の手の力は抜けて、父さんを解放していた。
「分かってんだろ。親父さんも苦しんだ。お前の分まで背負って苦しんだんだ」
 だからなぜ北島がそれを言うのかと思うけれど、思ってしまうのは言われていることが図星であるからだとも理解できてしまった。
 でも、それでも最後にこれだけ聞きたい。
「……最近、家には誰が来てるの? 今日も来たから、父さんはリビングに居るんだろ?」
 僕が言うと、父さんは無言のまま、年季の入ったノートパソコンを持ってきた。
「半年前から、お前の進路を気にして、定期的にお話に来てくださっていたんだ。そして今日、これをお前に見せるようにとも言われていた。けど、こっちが取り込んでる間に終わったみたいだ……」
 父さんが言って見つめる画面には、動画サイトのライブ映像が流れていて、そこには顔面から血を流した奥山がリングに立っていた。
『俺は今日、長年、夢見たプロボクサーを諦めます。そう、引退試合で見事にボロ負け。でも、俺はこのボロボロの姿を誇って見せたい奴がいる』
 画面の中の奥山が、サムズアップをする。
『頑張るってのは結果を夢見るが、叶わずとも実る事が全てじゃない。頑張ったってのは未来の自分への証明であり、心の居場所だ』
 そして、奥山はその手で、僕を指差した。
『澄人。頑張っている自分に誇りを持てよ。そうして過去となった自分は、きっと未来のお前を裏切らないぞ』
 画面の中の奥山が言い終わった。対して僕が何も言えずにいると、徐に父さんが言った。
「お前は、いい人たちに恵まれたな」
 言って見つめる先には、北島が居る。僕もそちらへ目線をやると、北島は僕に一言、「面貸せよ」とだけ言って外へ歩いて行った。
 父さんとの話がまだ終わってない。けれど、
「おいっ、待てよ」僕をつけてきた理由も問いたいから、その後を追った。
 玄関の外にはバイクが停まっていた。それに北島は跨り、僕も後ろへ乗るように促した。
 すると後ろから、父さんの声が聞こえた。
「こいつはね、俺の倅なんですよ。だからよろしくしてやって下さい」
 言われた北島は「はい」とだけ返事をしてエンジンをかけた。それに急かされ、僕はまだ良くもわからぬままバイクに跨った。

 信号で停まった時、北島が口を開いた。
「母親のことは、納得いったのかよ」
「君がそれを言う?」と言いかけて、でも、あのまま言い合いをして何かが変わるはずもなかっただろう。彼が邪魔をして茶を濁したからこそ、今はそう思えるかもしれない。
「時間をかけて、消化していくよ」
「そうか」
 ただ、それでも彼は人の家庭の事情に、文字通り土足で踏み入った。
「君はなぜ七瀬のために不良を演じてるの?」これはそのお返しだ。
 信号が青に変わり、バイクが走り出す。排気が安定すると、北島はようやく口を開いた。
「小春に病気が見つかった当時、俺は命が助かるならと、頑なに手術を受けるよう小春を説得した。でもそれは肉体だけの話。だから、その言葉は小春には真逆の意味に聞こえた」
 エンジンが、少し唸った。
「幼馴染に、死んだ方がいいと諭すなんて、最低な奴だよ」
「七瀬はそんな風には思ってないよ」
「そうだとしても、それは代わりが現れたから。そいつが小春の命を肯定したからだ」
 言いながら、北島は前から僕を横目で見て、それからまた前に向き直ると、続けた。
「だからこれは罪滅ぼしであり、足掻きであり……甘えだ。小春に変な男を寄せ付けないように守れる腕っぷしと、何かあった時に病院へ連れて行けるバイク。それだけ持って、俺は結局、何もしなかったし、できなかった」
「だけど君は今日、僕に小説を読ませた。病院から僕を家までつけたじゃないか」
「ただ時間に押された。取れる選択肢がもう他になかった。それだけだ」
 北島の返答は淀みない。僕の言う程度の慰めは、自分の中で幾度も噛み殺したのだろう。だから、僕は七瀬の言葉に置き換えて言った。
「僕が真面目なら、君は生真面目なんだね」
「一緒にすんな。俺はお前とだけは馴れ合いたくねぇ」
 まぁ、そう言われるだろうとは思っていた。
 バイクは国道を途中で折り返し、行き道をそのまま逆に辿った。そうして少しすると、北島が「ただ——」と、口を開いた。
「一つだけお前に礼を言う。小春を、今日まで七瀬小春を生かしてくれて、ありがとう」
 北島は言うや否や、アクセルを強く捻った。僕の返答を聞くつもりはないらしい。
 それで僕は思った。邪推だろうけど、でも、彼は七瀬の為を想ったこのバイクに、きっと七瀬を乗せたくはなかったんだ。単気筒。一つの鼓動。一つの命。それは七瀬の非常時が無いことを願い、また七瀬がずっと七瀬小春で居て欲しいという暗示であったのだろう。
 無自覚であったとしても、尚更だ。このバイクは北島に似て、とても優しく走った。
 だから、僕は続けて叫んだ。
「君は以前に重みと言ったけれど、君はやっぱり七瀬が好きで、そのために足掻いてきたんだ。それの何がいけないの? 君の言う重み、自責こそ、君が七瀬の為を想う証だろ」
 返答は、少し遅れてから聞こえた。
「お前にだけは言われたくねぇよ」
 北島は実は、ずっと七瀬に手術を受けて欲しかったんだ。その道を望んでいた。七瀬が生きる道を、一人でずっと模索していた。僕はそれに気づいた。だから無視はできない。
 バイクは路地を抜け、また僕の家の前へと帰してくれた。
 北島がキーを捻ってエンジンを切った時に、僕は言った。
 これは蛇足であり、最後の確認だった。
「もし七瀬が手術を受けて、成功して、七瀬の記憶がそのままだったら、君はどうする?」
 意外にも、北島は素直に答えた。
「お前を一発ぶん殴って、それから——」そこまで言って、一度口を継ぐんだ北島は、
「いや。とにかく、この頭を黒く染めるかな」と、そう言い直した。彼らしい返答だった。
 けれど、北島は「まぁ、そんな話はないけどな」と言った。もっと彼らしい返答だった。
 だから僕は、決心して言った。
「僕は七瀬を選ぶよ」
 小説を読んだ時から、僕はそう決めていた。
「病院に来た時点で、わかってる」
 北島はそう言い、それからまた続けて、彼は彼らしく最後まで淡々と言った。
「七瀬小春を、お前の傍で死なせてやってくれ」
 北島は七瀬を生かすことをずっと望んできた。しかしその一方で実際には自責の念から、七瀬の意志を尊重し行動してきた。その苦しみの全てを背負い、噛み殺して、彼は今そう言った。
 僕は迷わず頷いた。
 七瀬を救う。今そのために取れる選択肢は、もうそれしかない。
 七瀬の思惑を捻じ曲げても、最後のシナリオからは、もう逃げられない。
 七瀬は死ぬ。物語はもうそこまで進んでしまった。

 翌日の早朝。僕は七瀬の病室へやって来た。
「七瀬……?」
 しかし、そこに七瀬の姿はなかった。
 僕はすぐさま七瀬へと電話をかけていた。通話中にはなった。でも返事がない。
「君、今どこに居るの?」
 相変わらず応答がない。僕は嫌な想像に急かされ、叫ぶように言った。
「君の小説を読んで、全て知った。思い出した。その上で僕は、君と話がしたいんだ!!」
 怖いくらいの静寂。向こうにはもう、七瀬がいないかのように、思えてしまう。
「七瀬……」と、僕は何かに願うように、泣きつくように、小さくそう漏らした。
 すると、やっと七瀬の声が聞こえてきた。
「真珠って、どうやってできるか知ってる?」
「……なんの話? そんなこと今は——」
「まず異物が貝の体を覆う膜を破って入り込む。すると膜がその異物を包み込んで、周りに真珠袋っていう空間を作る。その袋の中では貝殻を作るものと同じ成分が滲み出るから、異物を核として成分が固まり、層が重なっていき、そしていつか輝く真珠が出来上がる」
「いいから普通に会話をさせてくれ!!」
 今までで一番強く、七瀬の雑学を拒絶した。今、何の脈絡もない話など聞いてられない。
「だから吉良くん。初めは怖いかもしれない。でも付き合っていくうちに、いつかその人達と居る空間が自分を支える居場所になっていて、気づけば大切な人になっている。友達って、そういうものだよ。そして私は、吉良くんにとっての、その最初の輝く一人であったなら、それでいい。それで十分なんだ」
 雑学に脈絡はあった。でも、そんな悲しい納得をさせようとしないでほしい。
「いつでも自分の持つ輝きを忘れないでね。その輝きが、先を歩くための光になるから」
 七瀬は僕が病院で話を聞いていたことを知っている。だから諭すような口調で僕を遠ざけて、それで終わりにしようとしている。
 たとえそうであっても、そんなありきたりな、世に溢れていそうな言葉で終わらせていいのかよ。そもそも人が死ぬ恋愛小説は嫌いじゃなかったのかよ。いいや、そうじゃない。
 なに勝手に終わらせようとしてるんだよ!!
「これは、僕と君の物語だろ!?」
 君が勝手に終わらせようとするのなら、僕はそれに抗う。もう僕は手段を選ばない。
 僕らには『勝負』がある。なら、その魔法の裏をかいて、僕は七瀬の思惑を破壊する。
 そのために必要な言葉は——
「僕は、君が大好きだ!!」
 はち切れそうな心からの、本音を叫んだ。そして僕は、間髪入れずに続ける。
「僕が君を好いていること。その事実は勝負において、君が暴くはずの、僕が委員をやりたくない理由に繋がる。つまりこの瞬間、僕は君の回答に先回りして答えを提示した。君はもう勝負の魔法を使い、僕を強制させることはできなくなった。だから、もう誰も僕を止められないんだ」
 七瀬は何も言わない。ならさらに僕が言う。
「勝負は絶対だ。指切りもした。なら後は、僕の勝手だ。絶対に君を見つけ出してやる」
 そこまで言うと、やっと七瀬が口を開いた。
「悔しいな。こんな形で吉良くんにしてやられるとは思わなかった……」
 声が潤んでいる。安心した。まだ彼女に取り付く島はある。そして彼女は続けて言う。
「……でも、そうだね。指切り。も、したもんね? その意味を最後まできっちり理解した上でそう言ってるんなら、仕方ないかもね」
 七瀬は確かにそう言った。
「待っててよ。絶対に見つけ出すから」
 僕がそう言うと、七瀬は電話を切った。
 すると、直後に北島からの着信が来た。
「小春が病院から居なくなったって? どこにいるんだよ!」と、言われて僕は気づく。
「どこにいるか、考えてなかった……」
「は? 取り敢えず、会話の内容は!?」
 僕は北島に通話での内容を話しながら、自分の焦りと浅はかさに絶望した。だけれど、活路は北島が見出してくれた。
「小春の最後の甘えが見えたな。あいつもまだ、本心ではお前に会いたんだよ」
「……つまり?」
「小春は真珠の話をした。それでわかんねぇのか? お前、旅行委員だろうが」
「——真珠岬!?」
「とにかく病院で待ってろ。阿古屋ならバイクが一番早く着く。それと最後に確認だ。小春は他に匂わすようなこと言ってねぇな?」
「うん」と、返答しようとしたけれど、僕は眠っていた違和感に今更、気づいてしまう。それは北島が今、『最後』という言葉を使ったことも影響しているかもしれない。
「ねぇ……指切り拳万って、一般的に歌われる歌詞の後に、まだ続きがあるの知ってる?」
「こんな時に何の話だよ。指切り拳万だろ? あの歌は指切ったの後に『死んだらごめん』って歌うんだよ。確か、昔に小春から聞いた」
 腰が抜けた。全身の肌が粟立った。
「って、まさか小春がそう言ったのか!? あいつ。この後に及んで、なぜ一人で……」
 怖くて返事ができない。とにかく一呼吸する間も勿体無いくらいの焦燥感に襲われる。
「とにかくすぐに向かう。それと、なぜ小春がまだお前を遠ざけるのか、理由はわかるな? 変な気は絶対に起こすなよ」
「わかってる」と返答し北島を待つ。過ぎる時間にこれほど恐怖したことは始めてだった。

 僕らを乗せたバイクがとうとう山道へと差し掛かる。急勾配にエンジンが悲鳴を上げた。
「さぁ、最後の一仕事だ」
 言って北島がさらにアクセルを開ける。僕らはそのままハイスピードで峠を駆けた。
 すると、後ろからサイレンが聞こえ始める。
『前のバイク、スピード出し過ぎ、止まれ!!』
「ド田舎でも、お巡りは細けぇのな!」
 言ってさらに北島がスピードを上げた。
 景色が一瞬で流れ去る。視界も狭まり、次第に一点に。僕らが見つめる先も一点、真珠岬。後少しだ。もう少し、もうこの先——、
 刹那。視界が歪み、次いで投げ飛ばされた。
「走れ澄人!! 真珠岬はこの先だ!!」
 その声でハッとした。振り返るとバイクと北島が倒れている。その後ろから警官が来る。すると北島は立って警官に馬乗りになった。
「俺が足止めしてるうちに早く!」
 僕は「ありがとう」と心からそう言って、この道の先、真珠岬へと駆けた。