「小春やっぱすっごい良いよ! 可愛すぎ!」
 授業終わりに劇の準備をクラスで進めるようになった。結局、あの日の三日後に学校に顔を出した七瀬は、クラスの活気に驚いていた。でも、もちろんそれは僕の手柄じゃない。
 現に、準備が始まってからの七瀬の働きようは変わらず真剣そのもので、また時には、お遊びでジュリエット役の衣装やメイクを施されたり……は、初めてのことだった。
 クラスから歓声が上がっていて、さすがの七瀬もそれには居心地が悪そうだった。
「ったぁ。やっと抜け出せた!」
 七瀬が教室から飛び出てきた。
「災難だね」と、僕が言うと、
「そ〜う〜だねっ」と言うのをフェイントに、七瀬は僕の背後に回り込み、パシャリ。
 音に向けば七瀬のスマホが。画面には僕と七瀬が映り込んでいた。
「いっただき〜」そう言い残し、七瀬が教室へ戻って皆を鼓舞し始める。ひったくりに会ったかのように放心していると、スマホが震える。今撮ったツーショットが「どう? 可愛い?」という文言と共に送られて来ていた。
 不覚にも一瞬の隙を突かれた。と、思いながらも、意志とは裏腹。親指の行方に迷う。
「おぉい! リーダーがオサボリですか?」
 その時、突然クラスの男子に肩を組まれた。心臓が止まるかと思った。慌てて取り繕う。
「ごめん。ちょっと、ぼうっとしてたよ」
「なになに? 七瀬を見て、ぼうっとか?」
「違うよ。君たちをどう上手く使ってやろうかって考えてたのさ」
「ひぇぇ、リーダーおっそろしぃ。そんじゃあ俺らの演技も辛口審査してもらおうか!」
 彼の背中を見送りながら、親指の行方を定める。因みに、文言については無視した。
 ところで僕もいつしか忙しくなっていた。今のように、いつの間にかリーダーだなんて呼ばれていて、今の僕は、これまでの僕には想像もできないだろうし、嫌悪した姿だろう。
 だけれど僕は、今のこの時間の一瞬一瞬が単純に楽しかった。
 そしてそれは秋を通り過ぎ、冬に差し掛かってきた頃になっても変わらなかった。クラスの準備も、隔日くらいの頻度で行っていたから、些細な問題は幾度かあれども、順調に、活気も大きくは損なわず、ここまで来られた。
 ただ一方で、旅行委員として奮闘する代わりに、七瀬との接触は減った。と、言うよりも、彼女自身が学校に来る頻度が日を追うごとに少なくなった。
 倒れた件のこともあるから、一度その理由を問うた時には『貧血に冬の朝は天敵なんだよ。午後からの練習には出るから安心して』なんて言っていた。言葉の通り、当時は放課後の劇の練習にだけ参加していたけれど、その頻度さえも徐々に少なくなっていった。
 そのことに関して、僕は別に無責任だなんて思わない。七瀬はここまで誰よりも頑張ってきた。だから、七瀬が居ないのなら、その分は僕が支えれば良いだけの話だった。
 ただ、ただ普通に僕は心配になった。それで魔が差した。
『君は冬眠でもしてるの?』
 ある朝。まだ布団の中でスマホを触っていると、気づけば僕はそう七瀬に送信していた。
 返答は、思いの外、すぐに返ってきた。
『ずっと寝てられるのは甘美だけれど、断食となると辛いね』
 そんなことを聞いてるんじゃないという意味で、僕は『はい』と、わざと淡白なユーモアを醸して返信した。でもそのコンマ数秒前に、七瀬からのメッセージが割り込んできた。
『今から会えない?』の後に、僕の『はい』が続いた。
「あっ」と思った時には遅かった。
『じゃあ、タコ公園に集合ね』
 七瀬はそう、そんな公園が存在していることも、それを僕が認知していることも至極当然というような言種だった。
 ただ、公園とタコ。想像してみると、一つ思い当たる節があった。それは、僕がまだ小学校に入る前に何度か通った公園。そこにはタコを模した滑り台があった気がする。
 だから僕は『わかった』と返して身支度を始めた。学校を休むことになるけれど、午後の練習に参加できれば問題ないだろう。僕は朝露に濡れた、湿った曇天の朝へ飛び出した。

 公園に着くと、タコの滑り台の上で七瀬が、
「ガォォォォォ!!」と、そう両手を顔の前に広げ、大きく口を開いて言った。
「どう? 冬眠って言うから、クマの真似」
「元気そうで何よりだよ」
 僕はそう返して、七瀬の隣まで登った。
 体調は大丈夫なのかと聞こうと思っていたけれど、様子を見ていれば大丈夫そうで、何より久しぶりに会ったのだから、少し雑談を先にしても良いだろうと思った。というか、まぁ先に話し始めるのは七瀬なんだけれど。
 何分そうして話していただろう。他愛もないことを言い合って、それもひと段落ついた時、七瀬は「ところで」という風に言った。
「よくこの公園がわかったね」
「小さい頃、この近くに住んでたから」
「あら偶然。私の家もすぐそこなんだよ」
「本当に!?」
 と、僕だけ声を上げてしまい七瀬はカラカラと笑った。いつもなら、七瀬の方が大袈裟に反応しそうなものだけれど。
「じゃあ私たち、昔ここでも会ってたかな」
「可能性はあるね」
「ここで出会うシナリオもあったんだね」
 シナリオってまた物書き症が出てる。と言おうとしてやめた。今、なぜかそう言ってはいけない気がした。対し、七瀬はこう呟いた。
「ここで何回すれ違ったかな」
 あれ。と思う。元気そうだと思っていた七瀬の顔に影が差している。同時に途端、天候が悪化して分厚い雲が辺りを暗くする。ここはタコの頭を模した屋根の中。洞穴状だから、余計に七瀬の表情が見えなくなる。
「この公園は小高い丘になってて、ここは公園で一番高い場所。小さな町を見下ろせる」
 七瀬の目線を追う。暗所にいるから、外に見える町の景色が明るく映る。
「同じ町に住む人でも。こうして見渡せる景色の中にも、大勢の人が生きていて、その中でもう出会わない人もいる」
「……七瀬?」
「私たちは出会えた。その事実があるよね」
 七瀬は景色を見ながら微笑む。微かに。本当に微弱に、表情と共に彼女自身が霞む。
「ねぇ、もしもの話だけどさ……」
 七瀬が言う。すると雨音が聞こえ始める。
「私が、転校するって言ったらどうする?」
「……どうするって?」
「雨、降ってきたね」聞き返した僕には答えず、七瀬はそう独りごつ。でもすぐにまた、
「じゃあ今日は離れ離れになるカップルごっこ。そういう設定でいこう」と、言った。
 またふざけて妙なことを言い出したよ。と呆れていたら、七瀬は徐に立ち上がって言う。
「参考に観たい映画もあるから、家に来なよ」
 その七瀬の声色を聞いて確信した。今日の七瀬は、やっぱりどこかおかしかった。

 言われるがまま七瀬の部屋に上げられる。見るからに女の子の部屋だ。壁一面に並ぶ書籍だけがクラスメイトの女子の部屋という印象から逸脱しているから、目のやり場に困った僕はそこだけを一点集中で眺めていた。
「えっちな本は、そこにはないよ」
「そ、そんなの探してないよ。そ、そう小説。君の書く小説を盗み見てやろうとしたんだ」
「いやんっ。吉良くんのえっち」
「はぁ!? なに——」と僕が慌てると、
「そんなのダメだよ〜ん」とテレビの裏の配線を探りながら、七瀬がそう軽く言った……。
 僕はその違和感から目を逸らすように、七瀬が机に二本置いたチョコバーを見て言った。
「あと、箱買いしたチョコバーも探してた」
「箱買いはしてない」と七瀬が手を止める。
「いつ食べなくなるか、わかんないからね。親は食べないからさぁ。だから迂闊にはね。いつかはしてみたいよ。うん。夢ではある」
 七瀬はそう言って立ち上がり、そのまま、
「コーヒー、紅茶、お茶」と言う。
「いつもので。君は?」と僕。「同じく。いつものオリジナルを頂くよ」と七瀬。
 コンビニでのお約束の文言。その後、気さくなおじちゃん店員が「ガッテン!」と言う。七瀬のそのモノマネの腕はいつも通りだった。
「そう言えば、カフェモカは吉良くんが教えてくれたね。いつかパリ辺りで、一級品のカフェモカに舌鼓を打ってみたいものだね」
 七瀬がコーヒーに粉末のココアを溶きながらそう言った。「起源は米国だよ」と僕が言うと「フフン」とだけ言って躱された。
 その後、七瀬はコーヒーを僕側に寄せると、クッションを渡してきた。礼を言って床に置き、座る。そしたら色違いのクッションが僕のすぐ隣にポフっと音を立てて落ちた。
「シュチュエーション遂行。恋人ごっこ」
 温もりが伝わる左半身がこそばゆい。七瀬は構わず部屋を暗くする。その動作の弾みで肩が触れ合う。体温に直接触れた。柔い感触が体を伝わり心臓を揺らす。そしたら高鳴りがまた全身に反響した。
「暑いよ」と、僕が言うと、
「私は寒い」と言って、すぐ七瀬が大音量で映画を再生したから、僕は何も言えなかった。
 王道の恋愛映画。出会い育まれるあれこれ。恋愛とは人間として生きれば誰もが知る高揚と絶望。それだけの繰り返し。けれど僕も今、隣の体温をひどく意識してしまっている。
 移り変わる場面の光が、七瀬を照らす。そのせいか七瀬が霞んで見える。すると、これまでに何度か七瀬が言った言葉を思い出す。
『覚えていて』と、思い起こせば、ふと僕の視線に気づいた七瀬と目が合う。七瀬は緩く、にっと笑ってまた画面に戻った。
 綿毛のようなまつ毛、優しい瞳……その横顔。僕はこの瞬間を覚えていられるだろうか。思うと怖くなって、また七瀬を見つめて——
「集中力が切れ始めたかな?」
 ふと思考を遮られた。
「そろそろ最後の別れのキスシーンだし、気合い入れ直すとしますか」
 言って、七瀬は停止ボタンを押し、コップを持って立ち上がる。その拍子にティースプーンが床に転がり、僕の方に飛んできたと思ったら、ベッドの下へ潜り込んでしまった。
 僕は自然に身を捩り、床に顔を付け、ベッドの下へと手を伸ばした。
 瞬間、七瀬が「あっ」と声を漏らす。僕は本当に如何わしい本でもあるのかと思い、あるわけないと覗き込んだ。迂闊だった。
 そこで僕は、所狭しと置かれた妙な機器を見た。物々しいそれらは女子の部屋とか以前に、似つかわしい場所が思いつかない。強いて言うなら昔の——と思考し青ざめた。
 即座に不気味な光に照らされたスプーンを掴み身を引いた。そしたら振り返りざまに、ドンっと勉強机の角に額をぶつけてしまった。
「あっあぁ。やっちゃったね大丈夫?」
「大丈夫だよ」痛くない。何も見ていない。絶対に大丈夫だ。と思い込んで顔を上げた。
 すると、七瀬と寸分の距離で目が合った。
 一瞬、時が止まった。止まった時間の中で、七瀬の顔はどこか泣き顔のように見えた。
 七瀬が徐に近づいてくる。額に感触がある。二人の額が重なる。唇に吐息が触れる。思い出すのは『痛みを半分こ』『思い出に私が残れば嬉しいし』という言葉。
 七瀬の額が、呼吸が離れる。見つめ合い、引き伸ばされる一瞬に、七瀬の声が震えた。
「ねぇ。私たちもキスすれば、何かが変わってくれるかな……?」
 七瀬の紅潮した頬と、悲しげな目元に潤む瞳。そして桜の花弁のような、その唇……。
 顔が熱い。耳に言葉が籠って離れない。何も言えない。何が起きたかさえ曖昧だった。
 七瀬が唇を結ぶ。その口角が下がる。そしたらまた上がって、
「今日は、お開きにしよっか……」と言った。
「……うん」と、ようやく口を開いた僕は、それだけしか言えなかった。
 その後、僕らは淡々と片付けをして「さよなら」と言う七瀬に「うん」と返して別れた。
 僕は唇に触れた吐息の感触を、一日中、忘れられなかった。けれど次の日の朝には、曖昧になって霞んでしまっていた。