夏休みも、残すところあと一日となった。旅行委員については着々と用意が進んでいた。
 毎週水曜日は学校で。それ以外の日でもよく顔を合わせていた。勿論、いつも通りの無理矢理な感じで……ほぼ拉致に違い時もあった。
 でも、その『おかげで』と言うか、その『せいで』、あとは休み明け初日の明日、クラスで内容を発表し、実際に動き始めるのみという具合だった。
 ある意味、全てが順調だった。
 だからこそ、以前のような僕や七瀬の問題とか疑問は、些細なものにしか感じていなかった。
「七瀬さん!?」
 だけれど夏休みの最終日。バイト中に七瀬が突然倒れた。
 店長を含めて社員の慌てようを見るに、以前に聞いた貧血ではなく、只事ではない様子だった。だから僕は「七瀬に何があったんですか?」と聞いた。店長はこう返答した。
「以前にも何度かあったことらしいから、心配しなくて大丈夫だそうだ。だから詳しいことは、僕から君に話すことはできないよ」
 妙な言い回しだった。だけれど救急車も呼ばず、七瀬は控室で寝かされていたから、少なくとも、いや絶対に深刻というほどではないだろうと思って、胸を撫で下ろした。
 ただ、妙なことはさらに続いた。
「小春!?」と叫び、七瀬を迎えに来たのは北島だった。彼は控室で横になる七瀬に駆け寄り「無茶すんなって言っただろ!」と言った。『無茶』から『負担』という幾度か聞いた七瀬に関する単語を思い出す。それが七瀬にとって一体何を表すのか、尋ねようと北島に近づいた時、僕は後ろ向きに倒れていた。
 衝撃で体が浮き上がったところをキャッチするように、北島が僕の襟首を掴み上げる。
「小春に何かあったら許さないって、俺、言ったよな?」
 突然の事態に未だ混乱している。でも流石にここまでの横暴さには黙っていられない。
「その何かが先にわかったら苦労してない。体調が悪いなら先に言ってくれてれば——」
「浮かれてんじゃねぇよ」
 浮かれてる? 僕が? 意味がわからない。でも、なぜかその一言で頭に血が昇った。
「僕が浮かれてる? 馬鹿言わないでくれるかな。北島こそ、勘違いしてんだろ」
 言い返すと、北島の顔が一層歪む。僕の襟を掴む手が震えだした。
「勘違いだと? ならお前、勘違いで十年もこの重さに耐えられるってのかよ‼」
 重症だ。彼は何かに酷く酔っているらしい。
「そんな所こそ、お前が度を超えた勘違い野郎だって証拠じゃないのかよ!!」
 北島の怒号に張り合うように叫ぶ。だけれどそうした時、僕は不思議な浮遊感を覚えた。
 確かに直後の北島の拳を僕は今、顔面に受けているけれど、でも、それが原因じゃない。
 この浮遊感は、激しく憤る自分を客観的に見て、自分で自分に疑問を感じているからだ。
「ちょっと、やめてよ……」
 しかし、北島が拳を振り抜いた直後、そう七瀬の声が聞こえた。声量は小さかったけれど、その声は僕を冷静にさせ、北島を止めた。
「こんなことをしている場合じゃないだろ」
 店長が言った。すると北島は、「だから一万発のところを二発で終えただろ」と、そう返して、七瀬を負ぶう。そのまま北島は呟くように、でも確実に僕に向けてまた言った。
「浮かれてんじゃねぇ」
 もう一度言われて、僕は再び血が沸くのがわかった。そうだ。僕はさっきもこの言葉に反応して熱くなったんだ。
 北島が立ち上がると、「待って」と、七瀬がそう言い、さらに続けた。
「私ね、気候の変化に敏感でさ、こうして貧血で倒れちゃうことがあって……。だから、そう。今日はこの後雨が降るよ……」
 そこで一旦、七瀬は言い淀んだ。彼女の迷いは、いつもと変わらずにわかりやすい。
「あはは。じゃなくて……明日が休み明け初登校日クラスへの報告会だね。絶対に私——」
 また七瀬が口を開いてそこまで言った時、僕が続く言葉を奪った。
「僕がやる。僕だけでやってみせるよ」
「え?」
「ここまで二人で形にしてきた。情報の共有も理解もできてる。だから僕に任せてよ。僕だってある程度、真剣に向き合ってきたんだ」
 言って未だ不安げな七瀬を一目見てから北島に向いた。彼は横目で僕を睨み、それから歩き出した。その背中で七瀬が言った。
「……わかった」
 二人が職員用通路から消えると、暫くしてエンジン音が聞こえ始め、そして遠ざかった。完全に音が聞こえなくなった時、僕は店長に肩を叩かれ、今日は帰るようにと促された。
 帰り道、七瀬の言った通り、雨が降った。傘をさそうとは思わなかった。

 翌日、正直、僕は朝から落ち着かなかった。それでもやることは変わらない。これまでのことを説明し、順調に事を進めれば——
「劇ってセリフ覚えるってわけ? そんで、ロミオとジュリエット?」と誰かが言った。
 クラスが騒つく。良い反応ではないことは僕でもすぐにわかった。
「台本はできてるし、準備の時間は十分にある。内容だって凝って作り替えたんだ……」
 そう言ってはみるものの、僕に目を向けている者は居ない。教壇の上に立っているのに、言いようの無い疎外感を覚える。
 だけれど、元から僕はそうだ。そう生きてきたんだから仕方がない。だから。
「七瀬が考えたんだ……よ?」
 こう言えば、ヒロインの名を出せば——、
「だから?」だけれど、また誰かがそう言う。
「小春が考えたからって」「劇は劇だしな」と、声が続いた。蝉の声が遠く聞こえ、蒸し暑さが異常に僕に纏わりついて耳鳴りがする。
 なんとかするんだ。何か言わなければ。
「僕だって——」
 嫌にタイミングが噛み合った。クラスの喧騒の継ぎ目に、僕の声が通った。そして続く言葉を発声しようとしてハッとした。僕は今、何と言おうとしていた? いや、言おうとしたのは僕自身だ。わかっている。
『僕だってやりたくない』そう言おうとした。
 一瞬でも逃げようとした自分に唖然とする。
 だけれど……「仕方がないじゃないか」とそう言ってしまいたくなる。だって、僕はヒロインじゃない。主役じゃないから——。
 それに、さっき七瀬の名を出しても皆の賛同は得られなかった。それならこの話はそもそも最初から……。
「お前自身がやる気ねぇならやめちまえよ」
 だけどその時、そう北島の声が聞こえた。反射的に目を向ける。彼は昨日と変わらない目で僕を見ていた。いや、彼は僕の目の奥までもを見抜き、そう言ったのかもしれない。
『浮かれてんじゃねぇ』と、昨日の言葉が頭に蘇る。また血が湧き立つのを感じる。
 違う。僕は浮かれてなんていない。やりたくないなんて、思っていない。
 すると、僕の頭の中にあの声が一閃する。
『やってみたいって理由以外に何か必要ですか?』
 あの日の七瀬の声。北島とあの奥山を振り切ったあの声。そこには何があったか。
 それは、もう僕自身が彼女を通じて知った。
 そして、そう思った時には声が出ていた。
「やりたいんだっ!」
 クラスの皆の視線が僕に集まった。でも、怯んだりはしない。言葉も勝手に溢れてきた。
「どうしてもやりたいんだ!」「どうすれば面白くなるか、七瀬と沢山考えた」「だからお願いします!」「僕も全力を尽くすから!」
 一息にここまで言い切ったから、もう一言でも発声すればむせ返るとわかる。「だけど」、それでも、僕はもう言葉を止められない。
「一緒にやろうよ!!」
 言い切った途端、案の定ひどくむせて、同時に息継ぎを挟まなかった代償にも襲われる。
 それでも、そんな苦しさよりクラスの反応の方が気になって、無理やり顔を上げた。
 だけどその瞬間に、教室の扉が突然に開く。
「いいぞ澄人! 俺もやりたいぞ!」
 そう雄叫びを上げ、奥山が飛び込んできた。
 まだ息は苦しい。でも僕はたまらず言った。
「うるせぇ!! 僕らがやるんだ! 僕らがやりたいんだ! 修学旅行は、僕らのもんだ!」
 言い切った時、熱が引くみたいに、教室がシンと静まった。すると、声を堪えて小さく笑う声がどこからか聞こえてきた。笑っているのは、北島だった。彼はひとしきり笑ってから、袖で目を拭っていた。
 クラスの皆が、あの北島が笑っている。と、動揺しているのがわかった。
 すると、青葉が突然に立ち上がって言った。
「そうだよな。修学旅行ってのは俺たちのもんだ。先公に無理やり言い包められたままの修学旅行なんてのは偽物だ」
 そのすぐ後に、引き継ぐように朝井が言う。
「そんな偽物を、吉良と小春の、あんたらの考えた劇なら、本物にできるって?」
 朝井がそう言うと、皆の視線が僕に集まる。
 なんと返すのが正解だろう。七瀬ならどう言うだろう。と、そう考える必要はもうない。この状況下において、七瀬も僕もお互いに言うことは変わらないはずだ。だって僕らはここまで、二人で最善を尽くしてきたのだから。
「僕らは最高の準備を進めてきた。だから、本物にできるかどうか、後は演者次第だ」
 言い切ると、朝井がニヤリと笑った。
「受けて立とうじゃないの」
 朝井の言葉がきっかけとなり、クラス中から「やってやろうぜ!」「下剋上だ!」「修学旅行を取り戻すぞ!」と次々に声が上がる。
 きょとんとしていた奥山も、いつの間にか「盛り上がってきたぁ!」とまた叫んでいた。
 かくして、紆余曲折あったものの、僕と七瀬の夏の努力が、まず一つ報われたらしい。
 緊張から解放されると、体が重くなったようなひどい疲労を感じたけれど、でも昨日からの妙な浮遊感はなくなっていた。