だけれど今年の夏休みは実際そうはならず、騒がしい日々を過ごすことになった。
始まりは三日後、夏休みになり最大限シフトを入れたバイトの一日目の朝礼だった。
「七瀬小春と申します! お願いします!」
溌剌とした挨拶を、皆が拍手で迎える。
「なんで君が?」と僕が呟くと「知り合い!?」と、チーフが露骨に驚いて言った。
「親友です。ねぇ〜?」
と、七瀬が言って人懐こい笑顔を僕に向けると、皆が不思議そうに僕らを見比べた。
「じゃあ、吉良くんが教育してあげてよ」
そうして店長がそう言うと、僕は次の瞬間には、気づけば七瀬の教育担当になっていた。
ミーティングが終わると仕事が始まり、文字通り僕が七瀬を教育する担当となる。だけれど、僕が教えるというより、むしろ僕の方が彼女に聞きたいことが沢山ある。
「なんでバイト? それもなんでここなの」
「夏はお金を使うし、ここは週払いオッケーらしいし。あと友達が居ると続けやすいしね」
「いや、なんで僕のバイト先を知ってるの?」
そう言った僕を、しかし七瀬は、
「そろそろお仕事教えてよ。労働は真面目にだよ。さぁさ、これどうするの?」と躱した。
丁度その時、後ろからチーフがやって来たから助かったと言えばそうだけど、それでこの話はうやむやになってしまった。
ただ七瀬は、さっきの言葉に恥じないくらい仕事に励んだ。それこそ仕事中に僕に話しかけるでもなく真面目に働いた。それは初日だけじゃなく三週間もそのままで、実際、僕らが日々会話を交わすのは帰り道だけだった。
七瀬と以前に一悶着あった例の交差点まで一緒に帰って、いつもそこで別れた。会話はどれも取るに足らないもので、収穫といえば、七瀬お得意の雑学的な知識と、コンビニ大手四社のコーヒーに、それぞれの個人的な美味しさランキングを付けられたくらい。おまけで、ランキングは七瀬が実はコーヒーが飲めないという事実を知ってから始まったものだから、彼女の意外な弱点を知れたという意味では、ある種、それも収穫の一つだった。
まぁでも七瀬の飲めるコーヒーは今のところコンビニでは見つからなくて、彼女曰くギリ勝負できるらしいカフェモカを飲みながら、特訓と称して駄弁っていることがほとんどだった。
「お疲れ様でした」
今日もバイトを終えた。シフトは六時から九時。いわゆる早朝シフトだった。
日が登っている間の暇を潰したいがためにバイトをしている僕としては、不本意なシフトではあるけれど、夏休みとあっては仕方ない。日中は主婦方が優先され、暇な学生で夕方シフトを取り合うのは、もはや一種の夏休みの風物詩みたいなものだ。
けれど流石に……ここからが今日の始まりだと言わんばかりの、灼熱のお天道様の追い討ちにはウンザリする。
この蒸し暑さと蝉の喧騒から逃れる為には、電車で少し行った、そう、七瀬と映画を見に行った、あの駅にある図書館に向かうしかない。
ただ勿論、本は読まない。夏休みの課題を、こういう日にこそまとめて消化するのだ。
そう意気込み、教科書で重くなったリュックをジャンプするように弾みで浮かせて担ぎ直した、その時だった。
「うぇっ?」
戻ってくるはずのリュックの重みを感じない、なぜか、リュックが宙に浮いている?
「なにこのリュック、めちゃ重いじゃん!」
ここ最近、聞き慣れた声。七瀬だとすぐにわかった。
「……そういや今日も君と同じシフトだったね」
「そういやも何もわかってたくせにっ」
言うや否や「えいっ」と、いう声と共に、ドスンとリュックの重みを返される。そのまま背後からするりと隣に並んだ七瀬は、僕の顔を覗き込むように見て言った。
「なるほど。私に内緒でどこかに行くから、黙って一人で帰ろうって魂胆なんだね?」
相変わらず感が鋭いというか、目敏いと言うか……。それに魂胆って何だよ。
「図書館に行くだけだよ。夏休みの課題、まとめてやろうと思って」
「あぁそゆこと。図書館ね……って、あ〜ぁ。 私たちの思い出の駅にあるとこかぁ?」
「そ、だから今日は僕、こっちだから」
最近、僕も七瀬のこういう面倒なノリを自然に流せるようになった。
軽く気にも止めずと言った風に身を翻し、いつもとは逆方向に交差点を曲がる——けど、ここで素直に引き離してくれないのも七瀬だ。
「わたしも実は街に用があるんですぅー」
白々しく言って、追いかけるようにまた僕の隣に並んだ。
「僕、今日は本当に勉強するよ?」
「やだな、別にお邪魔虫しようってわけじゃないよ。本当に別に用事があるの。もぅ、自信過剰なんだから」
「……まぁ、とにかくお邪魔虫じゃないなら、良いけどさ」
ため息を吐きながら言ったのに、七瀬は構わず「ふふん」と、鼻歌を歌うように笑った。
それから二回チラチラと僕を見て、また口を開いた。
「ところで吉良くん。お邪魔虫の言葉の由来は知ってる?」
「その調子じゃ、早々に勉強の邪魔をしてきそうな雰囲気だけど?」
「まだ図書館じゃないからいいじゃん。それに雑学だって学び。学問だよ。学問を疎かにするとは、吉良くんは学生の風上にも置けないね」
「なるほど。僕が風上に居ないから、邪魔な虫が寄りつくってわけなんだね」
あえて七瀬を覗き込むように見ながらそう言った。
対して七瀬は頬を膨らませる。
「相変わらず意地悪だね! この意地悪虫ぃ!」
「残念、意地悪虫なんて言葉はないよ」
「うるさーい! 意地悪虫でうるさい虫には、もっとうるさいお邪魔虫が寄生してやる!」
そう言うや否や、七瀬が僕の背後に回り込み、ただでさえ重いリュックに抱きついて、
「ほれ、みんみんみんみんー! つくつくぼーし!」と、喚き始めた。
演技が割と迫真で、絶妙なウザさも相まって、思わず僕は吹き出してしまう。
すると七瀬の鳴き声も、すぐに笑い声に変わった。
リュックが解放されると同時に、お腹を抱えた七瀬が戻ってきた。
お互いに息を整え、前へ向き直った時には、もう駅にたどり着いていた。
駅名の看板をくぐり、改札を抜ける。駅舎には外で鳴くツクツクボウシの声が反響して聞こえていた。
ホームに着くと丁度、電車がやってきた。
乗り込むと、扉のすぐ側の空席へ七瀬と隣同士で腰掛ける。
向かい合う長椅子のような座席には、最初こそお年寄りが数人だったけれど、数駅と過ぎるうちに僕達よりも少し歳上くらいの若者が増えてきた。
「皆、大学生って感じだね」
七瀬がこそっと静かに言った。
背格好は大きく変わらないはずなのに、たしかに僕とは違って、彼らにはいわゆる垢抜けた感? があった。服装の違いか、はたまた少し明るい髪色のせいだろうか。
そう考えながら何となく七瀬に向いてみると、彼女には特段、周りの大学生たちとのギャップはない気がした。そんな七瀬がポツリと呟く。
「大学生って、人生の夏休み期間なんだって」
「じゃあ夏休み中の大学生は、夏休みの中の夏休みにいるわけだ」
七瀬はぼんやりと「たしかに」と言った後「エドガー・アラン・ポーの『夢の中の夢』みたいだね」と返した。
エドガー・アラン・ポーの『夢の中の夢』は、僕も知っていた。頭の中でその内容の大体を思い出せたのは、それが小説ではなく詩の体裁であったから。
ただ、その内容は何も今話し合うようなものではなかったし、七瀬自身も語呂が似ているくらいのイメージで話題に出したのだろうと思っていた。
だから、眺める彼女のその横顔の哀愁に、僕は違和感を覚えた。
「七瀬?」
けれど直後、七瀬はまたいつものように僕に向いて「ふふん」と謎に笑ったから、杞憂だったらしい。七瀬はまた深く椅子にもたれるように座って言った。
「羨ましいねぇ。大学生」
そう言われても、僕は大学生に対し何の羨望も抱いていない。人生の夏休みと形容される程の自由な時間を有意義に過ごせる自信も、さらに勉学に励みたいという意識もなければ、その先に広がる未来も想像すらできない。
対して七瀬にしてみれば、それらの全てに憧れを抱いていると言う訳なのだろう。
「君もあと二年もすれば大学生になれるだろ。本来は頭も悪くないんだし。それに君のことだから、大学生活もきっと上手く乗りこなすんだろうさ」
「……やっぱり? そう見える?」
七瀬は少し間をおいて、はにかみながらそう答えると、そのまま続けた。
「吉良くんは、大学とか行くの?」
「行かないよ」
「行きたいとは思う?」
「わからない」
「そっか」
淡々と、特に感情もなくそう受け答えをした。
本当にどうでもいいというか、途方もないくらい想像もできないし、実感もない話だった。
「もし大学生になったなら、やってみたいこととかはないの?」
やってみたいことも勿論ない。けれど淡白な返事だけを繰り返すと七瀬がまた拗ねるだろうから、適当に視界に入っていたスーツケースを持った学生を見て言った。
「旅行かな」
「あら、意外だね」
発した時こそ他意はなくそう言った。しかし、自分でも意外だった。言葉にしてみると本当に興味を惹かれる気がした。ただ旅行とは少しニュアンスが違う。もっと近い言葉にすれば、
「どこか遠くへ行きたい」かもしれない。
考えていると、意図せずその一端が口から漏れた。
すると、その言葉を拾い上げるかのように七瀬が不意に僕の腕を掴んだ。そして——、
「遠くに行きたいの?」と僕の目を覗き込んで「それとも」と続けて、こう言った。
「行ってしまいたい?」
なぜだか、七瀬が僕を睨んでいるように見える。
「何? どうしたの?」
僕が身を引きながら言うと、七瀬は手を離し、ゆっくり腕を組み直してから言った。
「何でもないよん」
「い、意味がわからないんだけど、マジで」
七瀬は長くため息をついて、それから右手の人差し指をスッと立てて言った。
「まぁ強いて言うなら、旅行は逃げるためのものじゃない。迎えに行くものだ。って感じかな」
「はぁ?」
困惑する僕の隣で、七瀬は謎にコクコクと頷いている。意味不明すぎて呆れてきた。
そして呆れたらやっと思い出した。彼女は元より話を無駄にややこしくする天才だった。
だったら雑に割り切って、さっさとこの不毛な会話を終わらせるべきであることも思い出す。
「まぁとにかく、旅行ならちょうど修学旅行があるもんね。そこで行けるからいいや」
そう言って終わろうとした。でも、今日の七瀬は、また一段と頑固だった。
「吉良くんは、大勢じゃなく、一人で旅行に行きたいんじゃないの?」
「話を戻すのかよ」と、もはや口に出してしまった。けれど七瀬の言ったことは的を得ていた。そういえば七瀬は不必要な場面で妙に鋭いことを言う天才でもあるのだった。それでも僕は、
「まぁそうだけどさ」と言った後に続けて、
『もうこの話はいいだろ』と続けて今度こそ終わらせようとした——その時だった。
「じゃあ旅行、私と行こっか」
「……は?」
たしかに七瀬は、突拍子もないことを言う天才でもあった。
「このまま、今から二人で」
ただ今日のはさすがに、度がすぎていた。
「なんで……?」
未だ冗談だと疑う僕に対し、七瀬はふざけた様子もなく、こう言った。
「さっき吉良くんがわからないと言った言葉の意味を、探しに行くために」
刹那、状況の整理がついていないうちに僕の耳へ飛び込んできたのは、降りる予定だった駅からの出発を伝える車内アナウンスだった。
「……て言うか君、今日、他に用事があるって言ってなかった?」
そう僕が言ったのは、わけのわからないままに乗り換えた特急電車の中、車内販売で買った幕内弁当のがんもを口に含もうとする瞬間の七瀬に向かって。
がんもを一口で頬張りながら七瀬が言う。
「ぼ、ぼじろんうぼにぎばっ——」
「飲み込んでからでいいよ」
「……んぐっ。もちろん嘘に決まってるじゃん」
「もちろんなんだ。潔いね」
「でも、チャンスがあればいつでも吉良くんと阿古屋に行きたいと思っていたって意味では、いつかの用事を遂行できているとも言えるよ」
七瀬が今言った通り、旅行とは言っても日帰りで阿古屋に行くというだけだった。それも、旅行委員としての修学旅行の下見として。
「ところで吉良くんこそ、珍しく文句も言わずに付いてきたね」
「一応、文句を言っていないことはないし、無理矢理連れてきておいてよく言えるね」
「何で今日は素直に付いてきたの?」
七瀬は、もはや僕の話を聞かないスタンスらしい。
「はぁ……なんとなくだよ」
「やっぱり本当は一人じゃなくて、私と二人っきりの旅行に憧れてたとか?」
「……二人旅行で、どちらかを不機嫌にさせたら楽しくなくなると思うよ?」
「ごめん。ごめん。謝りますとも。付いてきてくださって、どうもありがとうございますぅ」
「はい。どういたしまして」
二人で頭を下げてから、どちらともなくクスッと笑った。僕は照れ隠しに言葉を発した。
「そんで、下見って何をするの?」
「特にこれと言ってやることはないよ。行く予定の先々を見て周る感じかな。名付けて、ザ・下見だね」
「ん……それ何の為に行くの?」
「もしも私が修学旅行に行けなくなった時のために、吉良くんに現地をしっかり把握させておくのさ」
言いながら、七瀬がお金持ちのおぼっちゃまキャラがやるような動作で、前髪をファサッと撫で上げる。その行為の意味はもちろん謎だった。
「そんな状況、想像もできないね。君なら仮に風邪をひいたって、いや、むしろどんな病気に罹っても、這ってでも来そうだ」
「確かに。病気くらいだったら、私は行くだろうね」
七瀬がカラカラと笑った。それから、また自分の弁当に目線を下ろして、こう言った。
「まぁでも、さっきも言ったけどさ。この旅行にまだ理由は無くたっていいんだよっ」
七瀬はその言葉を弾みにするように立ち上がると、僕の目を見ながら続ける。
「吉良くんと二人で阿古屋に行く。その理由は、これから私が探し出してみせるから——」
そう言った七瀬の声を全て聞いたかどうかわからないうちに、僕の手元で軽い音がした。目線を向けると、僕の死角から伸びた七瀬の箸が、僕の弁当の卵焼きを奪い損ねていた。
「おいっ」
「ちぇっ。バレたか……」
七瀬は席に座り直すと、白飯の上の梅を口に含んで、口を窄ませた。
それを見て、ため息のような笑いが漏れた時にはもう、直前の七瀬の言葉など忘れていた。
弁当を食べ終わった僕達は、どちらともなく「「ふぅ」」と息を吐いて席に背中を預けた。
その一瞬に静寂が訪れ、目的の駅までの残り一時間の過ごし方を選択させるかような時間が訪れる。
僕は何も考えずにリュックの中の課題に手を伸ばしかけて——でも辞めた。
「到着まで何する?」
そう言って七瀬に向くと、彼女がやけに暑苦しい視線を僕に向けていた。
「え、課題はいいの?」
「この状況では、やる気にならないよ」
パァッと明るい笑顔になる七瀬。その頬をムニムニと揉みほぐしてから言う。
「私さ、旅行の道中の特別感も好きなんだよね」
その笑顔を見て、課題を後回しにしたことによる未来は考えないことにした。ここまで来たら七瀬にとことん付き合ってやろうと思った。
「それで何する?」
「そうだねぇ、流石に私もトランプとかUNOとかを常備してはいないし……」
「別にすぐにスッとモノを出せって言ってるわけじゃないよ」
「わかってるよ。わかってるけど、今の言い草はなんか、ワルの感じがしたね! 『ブツを出せっ』みたいなさ」
「……相変わらず想像力が豊かだね」
「そういえばワルな感じのゲームって言えばさ——」
「……あぁ、ワルな感じから話が続くんだね」
「うん。それで、この前見た映画で麻雀のシーンがあってさ、あれ結構面白そうなんだよね」
「麻雀か——てかその前に意外。極道系って言うのかな? そういうのも観るんだね」
「極道というより、任侠系かな。主人公もマタギの人だったし」
任侠系でマタギ……? そんなジャパニーズB級ジャンルが……いや、たぶん七瀬は——
「今、カタギって言おうとした?」
僕がそう言うと、七瀬が固まった。みるみる顔が赤くなり顔を伏せると、フルフル震えだす。彼女はそのまま早口で言葉を並べ始めた。
「い、いや、東北の村で生まれたマタギ太郎が、任侠ヶ島に極道退治に行く話で、毎日おじいさんは山でしばかれて、おばあさんは川で血を洗い流して——」
「いやいや物騒! 物騒すぎるから! 君が言い間違えただけで、無闇に被害者を作るなよ」
僕がそう言うと、七瀬は両手で顔を覆いながらこう返す。
「確かに、作品への敬意がなかったね……」
「そっちかよ」
何にせよ、なぜかひどくダメージを食らっているらしいから、僕から話を戻してやろう。でもせっかく七瀬へいつもの仕返しができるチャンスだ。少し恩を売るような言い方にはしておきたい。
「しょうがないね。話を戻すために助け舟を出してあげるよ。話を巻き戻して、うん。まぁ確かに麻雀には、アウトローなイメージはあるね」
「助け舟、あぁ昔話つながりで、一寸法師かな? うん。確かにその例えはアウトロー、外角低めな感じで、カッ飛ばないボケだね!」
「無理矢理に共倒れを狙おうとするなよ! 僕まで引きずり込むな。善意を返せ!」
顔を抑えたままの七瀬がそのまま笑って、ただでさえ赤い耳がさらに真っ赤になった。
まだ笑いながら顔から手を離し、ポケットを弄るとお馴染みのチョコバーを取り出した。
「ごめん。これで、手打ちにしてくだせぇ」と、僕の前に両手で高く差し出した。
僕までまた呆れて吹き出してしまった。
その後、呼吸を整えた僕らは、遅れて麻雀のルールや役について調べ、説明を読み上げながら互いに「へぇ」とか「ほぅ」とか言っていた。つまりは思う以上に複雑だったのだ。
用語の読み方も特徴的で『平和』という役は『ピンフ』と読むらしく、以前に現代文の授業で青葉がそう読み間違えていたことを二人で思い出して、妙な答え合わせができた。
他には『役満』という最高得点のつく役を、七瀬が「ジャーナリストのあの人みたいな名前だね」と言って、調べると元は漫画家らしく、終いにはその芸名は本当に役満から来ていると知り、妙な答え合わせは二問目を突破したのだった。
結局は麻雀について話しているうちに話が逸れて、いつも通りのふざけた会話をしていると、目的の駅に着くまではあっという間だった。
改札を出て駅前のロータリーへ出ると、再び茹るような暑さに焼かれた。
それでも快晴に近い夏空や、海が近いからか風が心地よかったりと、うざったいだけじゃない夏を感じられるのは、さすが一応、観光地を内包する町なのだなと納得した。
駅の周りを眺めてみても印象は変わらず、確かに田舎ではあるけれど、寂れた様子はなくて、僕達の地元なんかよりよっぽど活気があった。
「とりあえず観光案内所に行くね。行きたい場所を全部巡ろうとスマホで調べたら、どうも遠回りになる気がしてさ」
駅と共に数年前に改装されたらしい併設された案内所も、レトロとモダンの調和がとれたとでも言うのだろうか。とにかく今風な雰囲気が漂っていた。
自動ドアの入り口には、『阿古屋へようこそ!』と書かれた垂れ幕がかかっていた。
そこから目線を動かすと、僕と七瀬は二人してドアの向こう、エントランスに見える奇妙な何かに目を奪われた。
それはパイプ椅子に腰かけた、二枚貝から手足の生えたぬいぐるみだった。
元は着ぐるみなのか大きさは成人男性ほどあり、巨大な頭部と異様に細い四肢が影響して、項垂れるような姿勢で座らされていた。
影がある目元にはギョロッとした魚のような目が収まり、貝殻の隙間は口に見立てられ、舌のように太い管のようなものを吐き出している。とにかく受ける印象としては——
「かわいい〜」と七瀬。
「は?」と僕。七瀬の予想外の発言に思わず声が大きくなった。
「百人いれば百人がキモいって言うだろこれは」
僕がそう言うも、七瀬は躊躇なくそいつの頭を撫でて言った。
「一万人いたら一万人がキモいって言う?」
「間違いないだろ」
「でも、一万一回目は何か変わるかもしれない〜♪」
「……そう言うなら、込み上げてくるのは嗚咽だよ?」
「ん、もう頑なだねぇ。こんなに愛くるしいのにさぁ」
七瀬は今度、手を掴んで僕に振って見せながら、途中裏声でナレーションするように言った。
「ほら、『阿古屋へようこそ!』って言ってるよ!」
「マジで子供は逃げるよ」
「何度でも何度でも何度でも、立ち上がり呼ぶよ?」
「じゃあ妖怪だ。恐怖だよ。込み上げるものも、ちゃんと涙に変わったよ」
そう言うと七瀬は激しく笑った。七瀬に掴まれたままの手はパシパシと暴れ、片手だけが忙しく動く奇妙な貝は本当に気持ち悪くて、目を合わせると冗談じゃなく若干の恐怖を感じた。
「ほら、もう行くよ。さっきの話だと予定はタイトなんだろ」
僕が先に歩き始めると、七瀬は本当に名残惜しそうに貝を撫でてから追ってきた。
受付は気の良い中年の女性だった。観光地はもちろん、そうじゃない場所まで結ぶ無茶なルート案内を要求する七瀬に対し、それでも女性は丁寧に提案をしてくれた。
大体の内容がまとまった時、女性からパンフレットと一緒に、小袋に入った缶バッチを渡された。
「それじゃあご旅行を楽しんでね。あ、あとこの可愛い缶バッチ『あこやん』もどうぞ。ぜひバックとかに付けてね」
言われて見てみると、バッチの表にはさっきのキャラクターが印刷してあった。
なるほど、あの妖怪の名は『あこやん』と言うのか。謎に関西テイストなネーミングだなと思いながら、再度イラストを確認する。デフォルメされているからか、キモさは若干マシにはなっていた。だけれど何も言わず七瀬に二個とも渡した。素直に喜んでいた。
女性にお礼を言って歩き出すと、七瀬が隣で自分のトートバックに缶バッチを付けていた。本当に好きなのかと不思議に思っていると、しばらくして僕のリュックが引っ張られた。
本当に僕は要らないのだけれど、外すのも面倒だから、もう文句は言わないでおいた。
外に出て太陽からの眩しさに目を逸らすと、七瀬の手元に目線を向けることになった。だけれどそこでも不意な閃光に目を細めた。正体はパンフレットが反射した日光だった。そんなパンフレットには、さっきの女性の案内が赤ペンで書き込まれている。
「何か宝の地図みたいでワクワクするね」
言って七瀬が満面の笑みを向けてくる。楽しそうで何よりだと思った。
まず最初に向かったのは、駅から徒歩十分。合同文化祭の形で関わる予定の阿古屋高校だった。
特段これと言った特徴のない外観だけれど、僕らの高校よりかは明らかに新しかった。
七瀬のリサーチによれば、十数年前に別の二校の高校が老朽化によって取り壊され、この学校が新たに建設、合併されたという経緯があるらしかった。
「やっぱり綺麗〜。あ、吉良くんみてよ。あの奥に見えるのが体育館じゃない? 大きいから劇のやりがいもありそうだね」
七瀬が背伸びをするように校内を覗き込んで言った。その姿を見ていて僕は今更だけど気がついた。ここに来たとして、僕らは中に入れないのだ。
しばらく外観をぼうっと眺め、部活動の野球部だろうか? の声を、僕は遠くに聞いていた。
そうしていると、ある時、七瀬が突然に歩き出して近くの街路樹の隣に隠れた。謎だ。
「……今度は何が始まったの?」
「張り込みだよ」
「何のために?」
言った時、七瀬に急に腕を引かれた。文句を言おうとしたら、七瀬が先に口を開いた。
「ほらほら、来たよ」
言われて七瀬の視線を追った。見つめているのは、校門から出てきた女子高生達だ。
何も言わず二人でその姿を見送ると、七瀬がようやく口を開いた。
「なるほど、なるほど」
「何?」
「何って、女子の制服チェックに決まってるじゃん。やっぱ噂の通り可愛い。そんでスカートが短いの何の……」
「おっさんかよ」
「そうだよ。そういうスケベ観点でも見ておかないと。我が校の吉良くん筆頭の男子達が血迷わないよう、事前教育をする必要性を再確認しておくのさ」
「意味わかんないけど、とにかく僕を犯罪者予備軍の筆頭に据え置くのはやめて欲しいな」
「ふふふ、まさにアウトローだね吉良くん」
その時、グラウンドから『カキーン』と金属バットが球を捉えた甲高い音が木霊した。
「君は本当、絶望的にバカな時があるよね」
七瀬は満更でも無さそうな顔で笑っていた。僕は改めて心底バカだなぁと思った。
ともかく学校を観察してみて少し安心した。見るからに綺麗で施設も整っていそうなここなら、確かに劇もそれに付随する文化祭的な催しも壮大で楽しめるものになるだろう。
ここから僕らはバスを駆使して阿古屋を駆け回ることになる。次に向かったのは海鮮市場だ。
修学旅行初日も、お昼はここで各々グループに分かれ、好きなものを食べる予定をしている。
しかし今日は、あまり長居する猶予は無い……はずなのに、僕らは二人して珍しい魚達に夢中になっていた。
市場のおじさん達も気さくな人ばかりだった。エピソードとして特に印象に残っているのは、七瀬が大きな蟹に手を伸ばした時に「挟まれるぞ!」と冗談で叫ばれて、飛び跳ねていた一幕だろうか。
市場を一周すると、併設された食堂を訪れ、メニューを眺めた。
「いくら丼、いくら何でも高すぎるよぉ」
「雑、雑、誰かに聞かれたら恥ずかしいからやめてよ」
「無意識だった……」
「重症だね……まぁいいや。そっちのサーモンも乗ってるやつなら、幾分か安いよ」
「本当だ。サーモンの方が安いってことは、いくらは生まれながらに親を超えたんだね」
「壮大な感想と感性だね。まぁ、いくらは生まれて直ぐに他人に味付けされた子供だけど」
「複雑な家庭だね」
「むしろ複雑な一生だよ。最後には親子まとめて君に食われるんだから」
「よし。じゃあ私、サーモンいくら丼にするよ」
「潔いね。消費者の鏡だよ」
「吉良くんは何にするの?」
「僕はこっちの色々と乗ってるやつにしようかな」
「吉良くんはより多くの命を奪うつもりなんだね」
「命の数なら君の丼の方が圧倒的に多いよ」
言って笑い合う僕らは、魚達からすれば悪魔のように見えるのだろうなと思った。
食券を渡して番号札を受け取り、セルフの水を持って席に着いた時にはもう番号を呼ばれた。豪華な海鮮丼と味噌汁の乗った盆は重くて、七瀬が持つと怖いくらい不安定だったから僕が二往復もする羽目になった。都合の良い時だけ、か弱さを演出するなよと思っていると、
「どう? 命の重みを感じられた?」と七瀬が言った。
ムカついたので七瀬の分の水を一気に飲み干してやった。
「なっ! このぉ!」
次の瞬間、七瀬も僕の水を掻っ攫って飲み干した。その瞬発力は他のことに活かしてほしい。
結局二人共がまたコップを持って席を立つと、七瀬が手を伸ばした。
「ごめんごめん。ここは私が」
その手にコップを握らせると、素直に水を二人分汲んできた。
直前までは騒がしかったけれど、七瀬が戻ると二人で手を合わせ、食べ始めたらもう食べ終わるまでずっと「美味しい」以外の言葉は交わさなかった。
食べ終わり、お盆を返却した後、七瀬が満足げな顔で言った。
「命の重みは胃袋で感じてこそだね。感謝。幸せだよ」
「珍しく同感だね。美味しかった」
七瀬が僕の顔を覗き込んで満面の笑みで言うもんだから、僕は顔を逸らしてサムズアップを見せつけて返事しておいた。
スマホを確認すると、思ったよりも時間が押していた。急ごうと足を早めようとした僕に、七瀬の声が少し遠くから聞こえた。
「ねぇ、吉良くんこっち! 漁港も見ていこうよ!」
時間はないけれど、主催者がそう言うのなら仕方がない。
海と想像すると砂浜とセットで思い起こすから、こうして漁港をまじまじとみる機会は僕にとっては初めてかつ新鮮だった。
波が船や岸のコンクリートにぶつかる音は、砂浜で聴くものとはまた違う風情を感じさせる。
空にはカモメが数匹飛んでいて、そのまたさらに上空に旋回する鷹が独特な声で鳴いた。
「あ、鳶だね」
七瀬が言った。鷹じゃなくて鳶だったらしい。勘違いしたことは当然黙っておく。
「飛べ飛べぇトンビ〜空たぁかぁくぅ〜」
いつだか音楽の授業で聞いた歌を歌う七瀬。節が誇張されているのがウザいけれど、上手いかどうかは差し置いて、意外にも繊細な歌声だった。でもその後から、
「ほら飛べぇ! もっと飛べぇ!」と、なんか飲みの席の面倒なオヤジのような口調のノリが始まっていて台無しだった。
けれど少し先に居た釣り人がこっちを見て笑っているのに気づくと、流石の七瀬も静かになった。
七瀬が真っ赤な顔で僕の後ろに回り込んで、釣り人から隠れる。とばっちりはやめて欲しいと思った時に、その釣り人が僕らを手招いた。
近づくと、釣り人の竿がしなっていた。どうやら魚が掛かっているらしかった。釣り竿が上がると、糸の先に平べったい魚が付いていた。釣り人はそのまま魚を手で掴んだ。
いつの間にか僕の後ろから這い出ていた七瀬が釣り人に近づいた。僕も続くと、釣り人の顔が見えた。思っていたよりも高齢なお爺さんだった。
彼は老人特有のくしゃっとした笑顔で、七瀬に突然その魚を下投げした。
「うわぁ!」
七瀬が声を上げながら魚をキャッチする。手の中で暴れる魚を遠くに持ちながら、
「うわわ、うわわわ、うわわわわ、うわわわわわわっ!」と声をあげて慌てふためいていた。
そして七瀬はその魚を無理矢理に僕に渡す。落とすわけにもいかず受け取った僕は、七瀬の時と似通った反応をした。とにかく足早に歩いて、老人に魚を返した。
老人も僕らを真似して「うわわわっ」とリアクションをとった。
僕ら三人は手をビショビショで、ヌルヌルにしながら笑った。
老人は魚を片手で掴み直すと「こいつはあんたらと一緒だな」と言って海へ投げ返した。
僕と七瀬が二人して首を傾げていると、
「未来があるってこと」と言い、続けて「こんな老いぼれと違って」と付け加えた。
「「そ、そんなそんな」」と狼狽える僕達の微妙な反応に、老人はまた満面の笑みで返した。
その後、軽く老人と雑談をしてから、最後にお礼を伝えて漁港を後にした。
ちなみに七瀬はさっきの魚を後からニモと名付けた。姿形も配色も全くもってそれっぽくなくて、馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど、ヌルヌルの手をトイレで洗う時、なんとなくニモに悪い気がしてモヤっとした。
またバスに乗り込んだ。バス停での待ち時間は奇跡的に無かったのだけれど、時間は予定よりも一時間も遅れていた。七瀬も流石に焦り始めたのか、パンフレットを広げて眺めていたけれど「まぁ、何とでもなるでしょ!」と閉じた。まぁ主催者が良いのなら僕も良いけれど……。
しばらくバスに揺られ、ある停留所で止まった時、七瀬が突然に窓の外を指差した。
「吉良くん。降りよう!」
言って七瀬は、困惑する僕を置いてさっさとバスから降りてしまい、窓の向こう側から僕に手を振る。運転手さんの「他、お降りのお客様〜」との声にも急かされ、僕はまんまと七瀬の横に並んだ。
「こんなとこで降りる予定ないんじゃないの?」
「ここで降りる予定は今できました。ほらここ」
七瀬に指さされたのは……何だろう綺麗な一軒家だろうか、ともう少し視線をズラすとそれがカフェであることに気がついた。白基調の壁に薄い木の扉やカウンター。中に見えるイートインスペースには小さな椅子と机が並んでいる。
「もしかして、目についてオシャレだと思ったからって理由だけ?」
「そうだよ?」
呆れた。しかし何度も言うけど、主催者がそう舵を切るのなら従うまでだった。
中へ入ると、一テーブルに幾つかパンが並んでいて、どうやら先にパンを選んでからレジで飲み物を注文するらしかった。
さっき海鮮を食べたばかりなのに、七瀬は何食わぬ顔でトングを掴んだ。
一方、僕はその七瀬の手を掴む。
「待って。さっき食べたばっかりだよね?」
「パンは食べてないよ?」
言いながら飄々とした顔で、かにパンをトレイに乗せていた。
「よりにもよってかにパン食べるの? てかパン屋にかにパンってあるんだ」
「イチオシって書いてあるよ。それに私は生粋のかにパン好きだからね。幼い頃に初めて口にしてから、かにパリズムに目覚めたんだよ」
「なら君がかにパンの方に目覚めてくれてよかった。くれぐれも他の道に逸れないでね」
「了蟹」
言って七瀬はトングをカチカチとさせた。
七瀬はレジでかにパンと、いつも通りにカフェモカを。僕はアイスコーヒーを頼んだ。
店の奥へ通されると、狭い店の中で案外とお客さんがいることに驚いた。
「カップルばっかだね」
七瀬が言った。あえて何も感じまいとしていたことをあえて口にしてくる。何を言っても茶化されそうなので、完璧に無視をすることにした。
「あんまり長居もできないからね。忘れてるようだけれど、今日は下見に来てるんだから」
僕がそう言うと、七瀬が首を傾げる。
「何言ってるの。今日は旅行に来てるんだよ?」
「タマゴが先かニワトリが先かみたいな話はしてないんだけど」
「いくらはサーモンよりも高いよ?」
「会話にならないね」
「まぁ細かいことは良いじゃん。私は旅行に来てる。そんで旅行ってのは、不意に心惹かれてふらっと立ち寄るカフェがあった方が豊かなんだよ」
言いながら七瀬が、かにパンの右足をもぎ取って口に運んだ。
「びぼぐちいぶ?」
「汚い。飲み込んでから話しなよ」
七瀬は僕を睨みながら大袈裟に嚥下してから言った。
「手を当ててるから良いでしょ。そんなことよりこの蟹さん。ミソがクリームなんだよ! 一口食べる?」
「いらないよ。お腹いっぱい」
「ちぇ〜。めちゃ美味しいのに」
プンスカッてこういう顔を言うんだなって言うくらい表情豊かな七瀬を見て、自由だなって思って、時間を気にする自分の方が馬鹿らしく思えた。
「あーおいしー」
言ってもただのクリームパンだろうに、恍惚といった表情で二口目を口に含む七瀬に何となく聞いてみる。
「どのくらい美味しい?」
「このくらいー」
両手をピースの形にしながら満面の笑みを向けてきて、その後はピースの指をカチカチと開閉して「カニカニ星人〜」などと戯言を言っていた。
僕は“カニカニ星人すなる者”を眺めながら、何も言わなかったら、いつ辞めるだろうかとツッコまずに待った。
静かにアイスコーヒーを口にし、ゆっくり吸ってからグラスを置いた。その時には、もうほぼ真顔で「カニカニ……」と連呼する状態だった。
不服そうにまだ続ける七瀬に、なんだかんだ先に痺れを切らした僕が「頑固だね」と言ったとき、その口を閉じる前に、突然、暴力的な甘味を感じた。
状況はもちろん七瀬が僕の口にかにパンを押し込んだのだ。逆の手がまだピース状態だから、多分僕の口にもパンを介してピースが突き立てられているのだろう。
ニヒルに笑った七瀬が僕の口に目線を落とすと、ハッとした表情をした。その理由は僕も察している。口に収まらなかった分のクリームが溢れているのだ。
慌てて僕がパンを全て口に含む。すると僕の口周りと七瀬の指にクリームが付いた。
七瀬があーあー。と言いながら、自分の指のクリームと共に、僕の口周りのクリームも連れて手を引き、それを何食わぬ顔で自らの口に含んだ。思わず僕は咽せ込んだ。
視界から外した七瀬が言った。
「めっちゃ咽せるじゃん。顔真っ赤だよ? え、本当に大丈夫?」
心配される程には咳をした僕は、ようやく呼吸と気持ちを整えて七瀬に向いた。
「生きてる?」
言ってケラケラと笑う七瀬。全く誰のせいだと思っているんだ。
僕は暴挙に次ぐ暴挙に何度目かわからないため息を、またひとつ吐いた。
けれど旅行はまだ続く。ということは当然、七瀬の暴挙もまだまだ続いたのである。
またバスに乗り直して、次は修学旅行で泊まる予定の旅館へと向かった。
古き良き旅館という感じで、設備などは古そうだけれど、老朽化というよりは年季が入っているという言い方の方が正しいと思った。
本来なら、宿泊予定のない僕たちはサラッと外観と内観を見て次へ向かう予定だった。
そう。予定だったということは、七瀬の暴挙がまた始まったのである。
「日帰り温泉だって!」
そう言い始めた時には、僕はもう察した。五分後には売店で着替えを買っていた。
幸運にもTシャツは当たり障りのないデザインのものが一種類だけだったので、選ぶともなくそれをカゴに入れてレジに向かう。七瀬は他の必要もない小物類に目を光らせていた。
男女の暖簾が掛けられた分かれ道で、入浴時間についてまた一悶着したけれど、そこばかりは間を取る形で二十分と決めた。その代わり館内着用無料の浴衣に着替えることを条件にされた。
脱衣所で服を脱ぎながら、まぁ確かに汗を流せるというのは悪くないと自分に言い聞かせた。
温泉は正直に言うと、とても気持ちよかった。湯船は今日一日で育った日焼けの肌に染みたけれど、汗が流れたことで日焼けの肌がつっぱる感じが幾分か和らいだ。
髪を乾かして出てくると、長湯したつもりはないけれど、ちょうど二十分が経っていた。
七瀬は結局、五分遅れたけれど、僕でギリギリだったのだからそこばかりは黙って譲歩しておいてやった。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
そう言って出てきた七瀬。髪に艶が出て、日焼けと火照りでピンク色の頬になっている。淡い紫色の浴衣を着ていて、タオルを首にかけていた。本当に急いだらしいことが伺えた。
なんとなく申し訳なさを感じた僕だけれど、刹那、続いた七瀬の言葉に打ち消された。
「どう? 浴衣姿。かわいい?」
腕を伸ばしクルリと回って言う七瀬。うざいので、僕もその場で回って言った。
「どう? 浴衣姿。かわいい?」
対し、七瀬は「おえー」と言った。続けて「吉良くんは私が欲しい言葉をわかってて言ってくれないんだもんな」と呟いていた。僕へ勝手に変な期待をされても困のだけれど。
なんにしても、時間は急がなければいけないと思った時、そういえば、と、自分と七瀬の浴衣を再認した。今更だけれど、これじゃあ旅館の外には出られないじゃないか。
そしてそれは七瀬だってわかっていただろうから、つまりは——
「よし。じゃあ卓球しよう」
そうか、やっぱりそういう事になるのか。
「旅行とは、温泉の後に不意に心惹かれてふらっと始める卓球があった方が豊かなんだよ?」
「本当、元気だよね君は」
一回、五百円で三十分。もうどうにでもなれと思った。
七瀬がラケットを二個持って、自分の背中とお尻でフリフリと振って言う。
「見て、尾ビレ、背ビレ」
「よーし。始めようか」
言って僕が玉を投げた。慌てた七瀬が打ち返すと、台を余裕で飛び越えて僕の額に直撃した。そのフォームと弾道を見てわかった。七瀬は卓球が下手らしい。
そしてもれなく僕も下手だった。
それでも僕らの闘気は凄まじく、もはや相手にどれだけ強くぶつけられるかの勝負になっていた。しばらく続けて、互いに息が切れ始めた頃に一時休戦。早くも汗をかき直していた。
ウォーターサーバーから汲んだ無料の水を、呼吸の合間を狙って飲んだ。
「私、左で打つ、バックハンドが苦手だよね」
「大丈夫。お互いにもはや卓球の形にもなってないよ」
ただでさえ呼吸が乱れているのに、お互いに苦しそうに笑った。
その後、七瀬が唐突に言った。
「吉良くん。共闘しよう」
「ダブルスは四人いないとできないよ?」
「違うよ。敵は卓球そのものさ」
「現時点で足元にも及んでないよ?」
「まずは形にしよう。ラリーを十回続けようよ」
「同感。無益な争いは無駄に疲れるだけだと、今、身を持って実感してるからね」
言って頷くと、二人で一緒に立ち上がった。
三十分をきっちり遊び尽くした後、僕らはまた息を切らしていた。
「最高記録は四十二回かぁー」
「不服そうだね。僕自身はやり切ったと思うけど」
「いや私も。燃え尽きたよ」
しばらく、ベンチに座ったまま二人とも動けなかった。
五分後にようやく、三度目の「「いっせーのでっ」」で立ち上がった。脱衣所で着替えてから、とんぼ返りで戻ってくる。温泉に入った意味は、もうほとんど無くなっていた。
今度は僕より先に暖簾の奥に七瀬が立っていた。その満面の笑みの理由は彼女の上半身を見て、すぐに察した。
「さぁ行こう。ブラザー」
迂闊だった。売店にTシャツが一種類しかないのなら、七瀬とお揃いになることくらいは容易に予想できたはずだ。ただ、予想したとしてこれしか無かったのだから、運命を恨むしかなかった。
幸いにもサイズが僕には少し小さく、七瀬には大きめだったから、別のものに見ようと思えば見える。うん。見えるはずだ。そう自分に言い聞かせた。
その後、旅館を出たのは、UFOキャッチャーも一通り楽しんでからだった。
「修学旅行ではさ、卓球とかUFOキャッチャーとかは禁止だし、こうして存分に遊びたかったんだよ!」
「まぁもう君が楽しめたなら、万事オッケーだよ」
「時間もあれだし仕方ないけど、カラオケやり残したのが悔い残るなぁ」
「まだ遊ぶ意欲があるのか……」
ともあれ、時間はもう本当に差し迫っていた。陽の光が傾き始め、ほんのり辺りがオレンジに染まり始める。日の入りが迫る刻になり、いよいよ本当に真珠岬へ向かわなければならなくなった。
バスに乗り込むと、車内に差し込む陽光が、温かみとどこか物悲しい旅の終わりを演出した。一方で七瀬は「わくわくしてきたぁー」と感情を昂らせている。
横目で七瀬が手にもつパンフレットを覗くと、さすが目玉と言うべきか。真珠岬はより一層、記述に熱量が込められていた。
人気な理由はひとえに、そこから見える絶景。特に夕暮れが素晴らしいとのことだった。あとは白い煉瓦作りの灯台や、誰かの小説の舞台になっただとかのおまけが付随するらしい。
僕は絶景に感動するような高尚な感性を持ち合わせてはいないけれど、七瀬は違うらしく、この真珠岬を焦点に予定をじっくりと思案したらしかった。そのおかげかはもう、今となっては定かではないし、尋ねたくもないのだけれど、とにかく事実としては日が落ち切るまでには真珠岬に到着できそうだった。
真珠岬へ向かうちょっとした山道の手前、そこの停留所までの三十分、バスに揺られていた。
涼しい車内、心地良く差す西日、程よい疲労感。睡魔に飲み込まれるには十分な状況だった。
頭が何回か船を漕いで、現実と夢の狭間を行ったり来たりと繰り返していた。
そしてある時、バスが段差を乗り越えた振動で意識が引き戻された。
意識が完全に覚醒しないまま目を開けると、今、自分が何故バスの中に居るのか。そして隣を見て、なぜクラスメイトの女子と——七瀬小春と一緒なのかと疑問に思った。
完全に寝ぼけていたわけだけれど、この時の僕はびっくりすることに、本気でそう疑問に思い、何故なのかと焦って、この状況に至った経緯を考えていた。
そうしてその時、僕はある過去の一幕にたどり着いた。
見つけ出したのは、答えとしては少し筋違いの記憶。ただ、それを思い起こした理由は、それが今すぐ隣で開かれていたからだ。
『これは私の、最初で最後の恋愛小説』
七瀬が書いていると言っていた恋愛小説だ。
そして恋愛小説であると同時に、ある種の予言書のようなものでもあると、僕は認識している。
あの日、その内容を僕が覗いてしまった時の会話を思い出す。
七瀬が言った、僕と七瀬が仲良くなる可能性についての一言。
『今においてはそうかもね。でも、未来では違ったら、一概に嘘とも言い切れない』
クラスに仲が良いと言いふらし、それを否定した僕に対して言ったデタラメだった。
でも今のこの現実と、その言葉を照らし合わせてみると、どうだろう。
ようやく意識が追いついてきて、これまでのこと……特に今日一日の出来事を事象として並べて思考できる今、流石の僕も、あの時の七瀬の言葉を完全に否定できるとは思えなかった。
では事象としてではなく、単に僕の感情に従い評価するとしたなら……と、考えようとしてやめた。
その答えは僕の感情なんかじゃなく、予言書であるのなら、それこそ七瀬の小説に描かれているはずだ。
そして、隣に座る七瀬を横目で見た。
僕がそのノートの内容を覗き見ることのできる機会は、あの日以来、二回目。
書いている姿を見ることは幾度かあれど、僕を含め周りに誰も居ない時を狙っているようだった。今思えば、あの日、無防備にクラスの机に置いてあることが特異な出来事だったのだ。
つまり、僕がこうして七瀬の小説を覗くことができる瞬間は滅多になかった。
自分でも魔が刺したのだと自覚しながらも、しかし僕と七瀬の関係は、その小説にはどのように描かれているのか……薄く目を開け視線をノートに向けた——その時だった。
鈍い音がした。感覚が追いついてきて初めて、それが自分の後頭部に何かがぶつかった音だとわかった。そして、その正体は探る前にわかった。
突如、僕の右半身にもたれかかるように倒れてきた七瀬だった。
ノートを覗こうとしているのがバレたのかと思ったけれど、そうではないことはすぐにわかった。耳に近い位置で聞こえてくる七瀬の呼吸音が、普通では無かったから。
「どうしたの?」
七瀬の体を支えながら、ゆっくりと僕から引き離して問いかけた。そして七瀬の顔を見て狼狽えた。顔が真っ青だった。涼しい車内でひどい汗をかいていて、呼吸も浅く苦しそうに繰り返していた。その呼吸の合間に、七瀬が掠れた声で答えた。
「あたま……痛くて……」
そう聞いて、焦りながらも冷静に、おそらく熱中症だろうと思った。日焼けもしているし、途中温泉にも入っている。その上で彼女が水分を口にしたのは、卓球後に小さな紙コップで飲んだ水が最後だったように記憶している。
「水……ほしい」
水分は二人とも持っていなかった。ぬかった。バスに乗る間は取り敢えず、大丈夫だと思ったのだ。
僕はとにかく焦った。バスの車窓から外を見渡し、自販機を見つけるとボタンで降車の意志を示した。しかし、押せどバスは停まらない。当然だ。バスが停まるのはバス停なのだから。それを忘れるほどに気が動転していた。
「降ります! 降りますここで!」
とにかく運転手にそう叫んだ。そして七瀬を背負い、バスの前方へ急いだ。運転手には走行中に車内を歩くなと注意を受けたけれど、素直に聞いている余裕は無かった。
ちょうどその時にバスが停車した。バス停にたどり着いたらしかった。僕は急いで運賃の投入口に向かって小銭入れをひっくり返した。直前にUFOキャッチャーをしたこともあり、両替した分、料金が十分に足りていることは理解していた。
運転手が何か言っていたけれど、そんな声は聞こえないふりをするともなく聞こえなかった。
バスを降りると、さっき見かけた自販機まで七瀬を背負ったまま無心で走った。
肺と鳩尾が痛み、足がもつれても、とにかく前に体を運んだ。怖かった。得体の知れない恐怖がどれだけ進んでもピッタリと背中にくっついて離れなかった。
やっと自販機まで辿り着いた。
小銭入れを開いて、今さっきその中身の全てを消費した事実に直面する。すぐさま紙幣に切り替えた。震える手で自販機に吸い込ませるのには、時間がかかった。
ようやくペットボトルが吐き出され、すかさず手にした僕は、地面に七瀬を下ろし、抱えながら水を飲ませた。七瀬の震える唇に水を流し込むことも、酷く難しかった。
結局半分ほどを溢しながら注ぎ込んだ。
七瀬が一度、嚥下したのを確認すると、ボトルを口から離す。
でもそこで再度、七瀬の体温を感じてみて、気付かされる。
なぜ七瀬をバスから下ろしたのか。水もそうだけれど、炎天下に居させては意味がない。もっとやりようがあったはずだ。
しかし、後悔している暇はない。とにかく、せめて陰になるような場所を見つけなければ。
僕はまた立ち上がり、辺りを見回す。下から七瀬が何か言う声が聞こえたが、言葉として耳に入らなかった。
少し先の曲がり角の奥、そこに木が並んでいるように見える。一瞬考えて、とりあえずそこが影になっているのか、僕一人で行って先に確認してきた方が良いと思った。
また踏み出す足は重かった。曲がり角の先にちゃんと木陰があるのかと、不安に押し潰されそうだった。ついに角の先を見やる時、僕は祈るような気持ちで目を向けた。
そこには——十分な木陰が存在していた。ほんの少しの安堵感に、震えた息が漏れた。しかし今度は、七瀬をここに連れてこなければならない。
踵を返し、着た道を引き返す。そして角を曲がって——戦慄した。
七瀬がこちらに背を向ける形でうずくまっていた。
「七瀬‼︎」
自分でも聞いたことの無いくらいの声量で叫び、七瀬に駆け寄った。
僕も半ば倒れ込むような勢いで七瀬の肩に手を触れ、表情を確認するために七瀬の体を起こした。
その一瞬、七瀬の妙な仕草を見た気がした。束で纏めた何かをバックに隠すような——しかし、今はそんな疑念も瑣末な事で、一刻も早く七瀬を木陰に連れて行くのが先だ。
また七瀬を背負い、走り、角を曲がり、手頃な木の幹を選んで、もたれ掛からせるように座らせた。
「水、まだある?」
七瀬は小さく頷いてバックからさっきのボトルを取り出した。僕が思っているよりも水量が減っていた。
「もう足りない? 買ってくるよ。走ればすぐだから。あ、水よりスポーツドリンクの方が良いよね——」
言いつつ立ち上がろうとした時、七瀬に手を掴まれた。
「大丈夫……薬も飲んだから」
そう言うと七瀬は手を下ろし、水も地面へ置いた。そのままバックを抱えるように胸に抱くと顔を伏せる。
「もうちょっとで、良くなるから」
何を根拠に良くなるのか、そもそも熱中症に効く薬とは何なのかと思ったけれど、本人がそう言うなら信じる他にない。ただ、じっとしても居られない。
「僕に、他にできることはある?」
言い切る前に、七瀬が僕のズボンの裾を摘んだ。
「ここに居てくれたらそれでいい……」
それで僕は動くに動けなくなって、そのまま七瀬に向かい合う形でしゃがんだ。
まだ肩で息をする七瀬を見ていると、僕の一連の対応が反芻するように思い起こされた。
反省というよりも強迫観念に襲われていた。
当然、他人の命が自分にかかっていることへの恐怖もあった。でも、僕を芯から震え上がらせるものの正体は、また少し別の性質を持っていた。
それが何かは靄がかかって判然としない。ただ、その恐怖にはどこか既視感があった。
この恐怖を、僕は知っている。
だから……なのかも知れない。僕は顔を上げることができなくなっていた。金縛りのように、目線が地面へと固定されていた。再度、七瀬の顔を見る、表情を伺うことができなかった。
どのくらいそうして居ただろう。
もう時間感覚でさえ遠のいていた時、突如、両頬に衝撃を感じた。
「吉良くん!」
意識が引き戻されると同時に、その大声にハッとした。同時に頭をぐいっと引っ張られる。驚きに見開いた目は、七瀬の顔をしっかりと捉えた。
「もぅ! 何回も呼んでるのに無視しないでよ」
言って七瀬が僕の顔から手を離す。状況が掴めずに居ると、七瀬が続けて言った。
「しんどいの、治ったよ」
「へ?」
間抜けな声が出た。
「だから乗り物酔い、治りましたよ!」
「へぇぇ?」
間抜けすぎる声が出た。
「何でそんなに驚いてるの?」
「は? え、だって君——」
僕が話す前に、七瀬が吹き出した。これでもかというくらい元気に笑っている。
「やっぱり熱中症か何かだと思ってた?」
混乱する僕は、頷くことしかできない。
「だから何回も言ったじゃんか。大丈夫だって。乗り物酔いだからって。必死で聞いてなかったのは吉良くんだよ?」
そう聞いて全身の力が抜けた。そうしたら長くしゃがんでいた影響からの強烈な足の痺れを自覚して、そのまま尻餅をついた。
対する七瀬も笑いすぎて転げた。そして目尻を拭いながら言った。
「でも、本当ありがとね。助かったのは事実だよ」
ようやく状況を飲み込めば、なるほど。さっきの発言にも納得できる。
「薬を飲めば治るってのも、そういうことか……」
「そうそう。なのに吉良くんが話を聞いてくれないから、なかなか飲むタイミングがなくて、この場所を探しに行ってくれた時に、何とか隠れて飲んだんだよ」
自分に呆れた。色々と杞憂だったのは良いけど、安堵よりも変な疲労を強く感じた。
「てか、酔い止めなら先に飲んでおきなよ」
七瀬が分かりやすく困った表情をした。
「あ、あと飲みタイプなんだもん」
「そんな酔い止めあってたまるか……」
聞いて呆れる。だけどまぁ、これがいつも通りの七瀬だった。
今日、何度目かわからないため息を、今日一番長く吐いた。息と一緒に項垂れると、地面に長くオレンジの光が伸びているのに気づいた。
光を辿るように見る。それで気づく。ここは海岸をぐるっと囲む並木だったらしい。必死だから気づかなかった。そして光の正体は、言わずもがな夕日だ。
水平線に沈んでいく輝きを見て、真珠岬と呼ばれる由来に納得した。
「空と海が貝殻で、夕日が真珠。快晴が多く、風が穏やかな、気候に恵まれた風土だからこそ生まれる絶景なんだって」
言って七瀬が僕に向いた。そして続けた。
「ねぇ、もっと海に近づいて見てみようよ」
波打ち際にちょうど良い岩を見つけた。ここに来るまでに自販機で買った、僕の冷たい缶コーヒーと、七瀬の冷たい缶ココアを先に岩へ置いてから、七瀬と隣同士で岩へ腰かけた。ちなみに七瀬がカフェモカにしなかったのは、単にラインナップに無かっただけだ。
岩の座面にあたる部分が少し高い。そのせいか七瀬は足は少し地面から浮いていた。
夕日から少し目を逸らした位置に、海と空へ向かって伸びる縣崖があった。あれが正真正銘の真珠岬だと一目でわかった。
「結局、真珠岬には行けなかったね」
僕が言うと、七瀬が足をぷらぷらとさせながら答える。
「綺麗な景色は今、見れてるから良いよ。それに、あそこは終着点だから。まだ辿り着いちゃいけないの」
「終着点? 何の暗喩?」
「そうだねぇ。ものが……いや、今日の言葉を使うなら、旅の終着点だね」
「つまり、この旅行の終着点って意味?」
「広義ではそうだね」
「広義では……?」
「そう。私さ、今日のこの旅行に意味を探し出すって話をしてたよね」
そんなこと言っていたような気もする。正直、七瀬との数多ある適当な会話に埋もれて忘れていたけれど、とりあえず相槌をうっておく。
七瀬はそのまま続けた。
「ひとまず今日、私にとっての意味は見つかったんだよね」
言って、七瀬が跳ねるようにして上半身から僕に向く。
「今日一日とっても楽しかった。阿古屋もすっごくいい町で、ここでならきっと素敵な修学旅行ができると思った!」
そのまま拳を握り「だから」と続ける。
「もっと頑張ろう。絶対に成功させてやろう。皆を楽し死にさせてやるんだ! ってくらいの気持ちになれた」
その拳を、真珠岬へ向ける。
「今日は、ここから意気込んだ」
拳を開き、今度は真珠岬に指をさす。
「そして最後はあそこ。真珠岬で完全勝利する。今日はまだ辿り着けなかったあの場所でね」
今日までの七瀬を見ていれば、その言葉が嘘でないことがわかる。今日一日を過ごしてみて、彼女がさらにそう意気込めたのなら、下見の甲斐は十分にあったと思った。
七瀬がまた僕に向いた。
「吉良くんは今日、どうだった?」
どうだった? という回答範囲の広い質問に対し、僕はとにかく正直に今日一日に対する感想を一言で述べた。
「大変だったよ。君に振り回されて。でも楽しかった」
七瀬は「おぉぉ!」と感嘆して、頷きながら拍手をした。
しかしすぐにその拍手を止めて「でもぉ」と続け、
「そこは素直に私のおかげでって言いなよ!」と、肩で僕を押してくる。
「ほら言ってみな! 七瀬のおかげだよって!」
未だ嬉々とした表情で捲し立てられる。面倒だから、いっそ望み通り言ってやろうかと少し悩んでみて、今日を思い返し、逆に確信した。
「いいや、『おかげで』とはお世辞でも言えない。『君のせいで』までが譲歩の限界かな」
「全くもって譲ってないじゃ〜ん!」
言いながら七瀬は宙を仰ぎ、そのまま後ろに手を突いて反り返った。
しかしそのまま「まぁでも」と、また口を開く。
「楽しかったって言葉を引き出せたのは収穫だね」
また足をぶらぶらとさせ始めると、こう続けた。
「今なら、今朝、私が言った言葉の意味も理解して貰えるんじゃないかな」
今朝の言葉……生憎それも思い当たる節がなかった。
「どんな言葉だったっけ?」
「旅行は迎えに行くもの」
ゆっくりと、七瀬は言った。
「今日一日、色んな所に行ったでしょ? 計画して、はたまた直感に従って、選択しながらここまで来たんだよ。色んな体験、出会い、風景を自分から迎えに行ったんだ」
言って、七瀬が徐に両手を前に翳す。
「けど、旅には必ず終わりがある。いつかは旅路を引き返す。そんな時には確かに、後ろ髪を引かれる。でも、それでも選択して迎えに行った経験や思い出が逃げていくことはない」
両手の人差し指と親指で四角い枠を作って、その中を覗き込む。その枠を夕日に、空に、海に、木に、あらゆるところに向け、覗き込みながら言う。
「それは私のためだけの私の記憶じゃない。今日出会った人や、その時流れていた時間や、空間や世界が記録して、何より一緒に過ごした吉良くんと共有してる。きっとそこかしこに、私達の存在の残り香がある」
そして砂浜に残る僕らの足跡の後に、今度は僕を覗き込んだ。
「人生も旅によく例えられる。選んで進む。そしたら戻れないけど寄り添ってくれる。それでも寂しければまた進む。そうやってずっと迎えに行くんだよ。自分では逃げたつもりでも、いかなる選択もどこかに、誰かに、何かに繋がる」
枠を解いた七瀬が、僕と目を合わせる。
「今の吉良くんは、それをうざったいと思うはず。でも、これだけは言える。吉良くんはいつだって一人じゃないよ。どんな未来を選び取って、どこに行っても。だから、私と過ごした今日という一日を、いつか温かい思い出だと思えたときには、きっと抱きしめてね」
正直、七瀬の語る理論には、色々とツッコミどころがあると思った。けれど、どれも七瀬らしく眩しいくらいに前向きな言葉だった。聞いていて胃もたれがしそうだった。けれど胃に飲み下したということは、僕はちゃっかりその言葉を飲み込んでいるのだということを自覚した。
「なんか大袈裟なこと言っちゃってる。痛いやつみたいだ」
七瀬が耳を赤くしてはにかんだ。
何を今更と思ったけれど、口には出さなかった。
七瀬がそこでココアのプルタブを開けた。
僕も習ってコーヒーのプルタブに指をかけた。
二回、缶を開栓する音が耳に届いた。そこからは少し、お互いに黙ったまま夕陽を眺めた。
お互いに三口くらい飲んで、缶が半分の重さになったくらいの時、七瀬が唐突に僕の手からコーヒーを取り上げ、それを眺めた。
デザインに特別さはない。僕は何度も知らずのうちに口にしているはずの、青色でどこかの山脈が描かれているものだ。
七瀬が呟いた。
「ブルーマウンテンか」
「何、それなら飲めるの?」
「いや、私はブルーノ•マーズだよ」
「え? どういうこと?」
「あぁ、ブルーノ•マーズ知らないのね。なんかボケを拾って貰えない感じ初めてで、ちょっとダメージが……」
「もっと大衆にわかりやすいネタにすべきだったね」
「うぅぅ」と唸る七瀬が「むしろ大衆に有名なアーティストなんだけど」と言う。
「生憎、僕は音楽に疎いんだ」
「それじゃあ、自己紹介で趣味を発表する時になんて言うの?」
「ありませんって言うよ」
「えぇ、なんか悲しいじゃん」
「むしろ皆が皆、当たり障りなく『音楽を聞くこと』と、とりあえず答えておくことの方が奇妙だと思うけれど」
そう言うと、七瀬が首を傾げる。
「え? 皆、音楽が好きだからそう答えてるだけでしょ?」
こうも価値観の違いで認識が変わるのかと思った。何だか僕の卑屈さが浮き彫りにされたみたいで気に食わなかったから、少し意地悪をすることにした。
「そんな音楽好きの七瀬は、ブルーノ•マーズのどんなところが好きなの?」
「あ、いや、実は私も最近、一曲だけ知って、ハマってるだけでさ『Count On Me』って言うんだけど」
「あれ? 浅はかなんじゃない?」
「でも、すっごい良い歌なんだよ!」
身を乗り出してまで言う七瀬。今度は意地悪じゃなくて、単純に彼女がそこまで言う歌を聞いてみたくなった。
「じゃあ、どんな歌なの? 歌える?」
何の気なしにそう言った。七瀬ならサラッと歌い出しそうだったから。
けれど、七瀬はたじろぐように身を引いた。意外だった。
「い、嫌ならいいけど」
僕がそう言うと一転、緊張した顔をして、鼻息を鳴らした。別に鼓舞したつもりはないのだけれど。
七瀬が一つ咳払いをする。そして一度深く呼吸した後、歌い始めた。英語の歌詞だった。
歌い出しは恥ずかしさからか、声が細くて小さかった。それでも、綺麗で透き通るような声だった。
七瀬が耳を真っ赤にして、少し潤んだ目で僕をチラッと見る。僕が真面目な顔で頷いて返すと、また前を向いて少し安定した声で歌い出した。
英語の発音は多分、良くはなさそうだった。けれど、得意がった感じがなくて、とても良い意味で、七瀬小春が口ずさむメロディになっていた。
一番を歌い切った後、僕は正直に感想を述べた。
「いい歌だね」
七瀬はまだ赤みを残した顔のまま、強がるように顔を上げて、「そうでしょ」と言った。
「歌詞はどんな意味なの?」
「広義では友情の歌だよ。僕が駆けつけるからって」
「狭義では?」
「私が居るよって吉良くんに歌ってあげたの」
「……へぇ、そうですか」
いつもいつも、そういう風にするから、締まるところが締まらないのだと思うけれど、何だかそれも七瀬らしくて、七瀬小春のプチコンサートとしてはお馴染みの終幕だった。
七瀬が僕から取り上げたコーヒーを、自分のココアと共に並べて眺めながら言った。
「浜辺で洋楽を口ずさみ、ここでコーヒーでも飲めたら、格好がつくんだけどね」
そして、徐にコーヒーに無断で口をつけた。
一度喉が上下して、口を離すと、下唇を裏返すようにして言った。
「私は大人に成れないや」
言った後、七瀬は緩く笑った顔で僕にココアを渡してきた。僕もココアを飲んだ。
「甘い。舌がシガシガする」
「大人だねぇ〜。でも、いつか吉良くんにココアを美味しいと言わせたいよ」
「別に不味くはないけどね。それよりも先に、君がコーヒーを飲めるようにならないと」
「コーヒーを飲めるようになるのは『成長』ココアを飲めるようになるのは『気付き』だよ。凝り固まった認識を改めないと」
「それはどちらにだって言えるだろ」
僕の反論に対し、七瀬は首を振った。
「私は今日、先に一つの認識を改めたから。気付きを得た」
「何だよ。どんな気付き?」
七瀬は、まだ手の中に握っているコーヒーを見つめながら言った。
「ヒロインが死んでもいい小説もありだなって思ったの」
そして残りのコーヒーを一口であおった。
「生き方を旅と言うなら、死に方も旅。終わり方にも迎えの行き方があるんだなってことに気付いた」
そう言うのなら、なんだかさっき七瀬が言った言葉と、色々と矛盾する所がある気がした。
それでも、勝手にそう心変わりがしただけなら知ったこっちゃない。ただ一つ、危機感を覚えるのは——
「劇の台本も変わるの?」今更劇の内容を変えられては困る。
焦るように言った僕に対し、七瀬は何食わぬ顔で僕を見つめ、ふふんと笑った。
「安心して。内容は変えないよ。あくまで私の気付きってだけ。むしろ文化祭は私の希望であって欲しいから。やっぱりヒロインには死んでほしくないし、ヒロインだって死にたくないよ」
回りくどい言い方だっただけに、解釈に時間がかかった。ようやく理解して、安堵した。
「……はぁ、びっくりさせるようなこと言わないでよ」
「ごめん、ごめん」
思ったより僕が真面目に反応したからだろう。七瀬があやすように僕の肩を叩いて謝った。
そして、そのまま七瀬は今度こう言った。
「必ず成功させようぜ。な、ブラザー」
小さい拳が僕に伸ばされる。その拳の背景に、七瀬のTシャツが。つまり僕らのお揃いのTシャツが映った。
呆れた。またため息が出そうだったけれど、押さえ込む。ここは拳を合わせておくのが賢明だった。
どのみち、どうせまた振り回されるであろう未来を予想しながら、僕は言った。
「まぁ、やるからには成功を目指そう」
言ってから、締まらない返答だと言われそうだと思った。けれど七瀬は満面の笑みで拳を衝突させた。
「「痛っ」」
二人同時に言った。七瀬の力加減が相変わらずバカだった。
二人で拳を摩りながら、七瀬は伺うように。僕は睨むように、お互いを見つめた。
そうして二人それぞれの神妙な顔は、もはやお約束のようにほぐれた。
ひとしきり笑った後、また雑談をした。そして程なくして、夕陽は沈んだ。
帰りは疲れもあって寄り道はしなかった。むしろ帰りの電車の記憶はほとんどない。
ふと目が覚めて、隣を見ると七瀬が寝息を立てている。そんな確認を三回くらいしたことしか覚えていない。
夕食は駅前の牛丼屋で腹を満たした。そこでようやくお互い目が覚めたらしい。
「「これはこれでいいよね」」
そう、どちらともなく言って、あっというまに平らげた。
最後はまた、いつもの交差点で別れた。
七瀬が例のあこやん缶バッチを翳した。
「じゃあ、またね〜」
再度見ても、僕はその奇妙なキャラクターを好きにはなれなかった。
「じゃあ」
それだけを言って歩き出すと、七瀬が「もぉ〜!」と声を上げていた。
本当、仕方ないなと思った。そう。もうリュックに付けられてしまっているのなら、仕方がなかった。
わざと体を左右に揺らした。ちゃんと缶バッチのついた左側を軸にして。
そしたら、後ろから七瀬がワントーン上がった声で言った。
「また明日ね!」
もう見えるかどうかわからないけれど、大袈裟に頷いて答えておいた。
家に帰ると九時を回っていた。身支度を済ませたら、自然と布団に潜っていた。
しばらく今日の記憶が鮮明に頭の中を駆け回っていた。日に焼けた体も妙に熱を帯びていたから、ほぼ無意識でタオルケットを放った。寝付くには大変な夜だなと思った。
けれど、それがその日最後の記憶。いつの間にか、でも結構早々に、僕は眠りに落ちていた。
夏休みも、残すところあと一日となった。旅行委員については着々と用意が進んでいた。
毎週水曜日は学校で。それ以外の日でもよく顔を合わせていた。勿論、いつも通りの無理矢理な感じで……ほぼ拉致に違い時もあった。
でも、その『おかげで』と言うか、その『せいで』、あとは休み明け初日の明日、クラスで内容を発表し、実際に動き始めるのみという具合だった。
ある意味、全てが順調だった。
だからこそ、以前のような僕や七瀬の問題とか疑問は、些細なものにしか感じていなかった。
「七瀬さん!?」
だけれど夏休みの最終日。バイト中に七瀬が突然倒れた。
店長を含めて社員の慌てようを見るに、以前に聞いた貧血ではなく、只事ではない様子だった。だから僕は「七瀬に何があったんですか?」と聞いた。店長はこう返答した。
「以前にも何度かあったことらしいから、心配しなくて大丈夫だそうだ。だから詳しいことは、僕から君に話すことはできないよ」
妙な言い回しだった。だけれど救急車も呼ばず、七瀬は控室で寝かされていたから、少なくとも、いや絶対に深刻というほどではないだろうと思って、胸を撫で下ろした。
ただ、妙なことはさらに続いた。
「小春!?」と叫び、七瀬を迎えに来たのは北島だった。彼は控室で横になる七瀬に駆け寄り「無茶すんなって言っただろ!」と言った。『無茶』から『負担』という幾度か聞いた七瀬に関する単語を思い出す。それが七瀬にとって一体何を表すのか、尋ねようと北島に近づいた時、僕は後ろ向きに倒れていた。
衝撃で体が浮き上がったところをキャッチするように、北島が僕の襟首を掴み上げる。
「小春に何かあったら許さないって、俺、言ったよな?」
突然の事態に未だ混乱している。でも流石にここまでの横暴さには黙っていられない。
「その何かが先にわかったら苦労してない。体調が悪いなら先に言ってくれてれば——」
「浮かれてんじゃねぇよ」
浮かれてる? 僕が? 意味がわからない。でも、なぜかその一言で頭に血が昇った。
「僕が浮かれてる? 馬鹿言わないでくれるかな。北島こそ、勘違いしてんだろ」
言い返すと、北島の顔が一層歪む。僕の襟を掴む手が震えだした。
「勘違いだと? ならお前、勘違いで十年もこの重さに耐えられるってのかよ‼」
重症だ。彼は何かに酷く酔っているらしい。
「そんな所こそ、お前が度を超えた勘違い野郎だって証拠じゃないのかよ!!」
北島の怒号に張り合うように叫ぶ。だけれどそうした時、僕は不思議な浮遊感を覚えた。
確かに直後の北島の拳を僕は今、顔面に受けているけれど、でも、それが原因じゃない。
この浮遊感は、激しく憤る自分を客観的に見て、自分で自分に疑問を感じているからだ。
「ちょっと、やめてよ……」
しかし、北島が拳を振り抜いた直後、そう七瀬の声が聞こえた。声量は小さかったけれど、その声は僕を冷静にさせ、北島を止めた。
「こんなことをしている場合じゃないだろ」
店長が言った。すると北島は、「だから一万発のところを二発で終えただろ」と、そう返して、七瀬を負ぶう。そのまま北島は呟くように、でも確実に僕に向けてまた言った。
「浮かれてんじゃねぇ」
もう一度言われて、僕は再び血が沸くのがわかった。そうだ。僕はさっきもこの言葉に反応して熱くなったんだ。
北島が立ち上がると、「待って」と、七瀬がそう言い、さらに続けた。
「私ね、気候の変化に敏感でさ、こうして貧血で倒れちゃうことがあって……。だから、そう。今日はこの後雨が降るよ……」
そこで一旦、七瀬は言い淀んだ。彼女の迷いは、いつもと変わらずにわかりやすい。
「あはは。じゃなくて……明日が休み明け初登校日クラスへの報告会だね。絶対に私——」
また七瀬が口を開いてそこまで言った時、僕が続く言葉を奪った。
「僕がやる。僕だけでやってみせるよ」
「え?」
「ここまで二人で形にしてきた。情報の共有も理解もできてる。だから僕に任せてよ。僕だってある程度、真剣に向き合ってきたんだ」
言って未だ不安げな七瀬を一目見てから北島に向いた。彼は横目で僕を睨み、それから歩き出した。その背中で七瀬が言った。
「……わかった」
二人が職員用通路から消えると、暫くしてエンジン音が聞こえ始め、そして遠ざかった。完全に音が聞こえなくなった時、僕は店長に肩を叩かれ、今日は帰るようにと促された。
帰り道、七瀬の言った通り、雨が降った。傘をさそうとは思わなかった。
翌日、正直、僕は朝から落ち着かなかった。それでもやることは変わらない。これまでのことを説明し、順調に事を進めれば——
「劇ってセリフ覚えるってわけ? そんで、ロミオとジュリエット?」と誰かが言った。
クラスが騒つく。良い反応ではないことは僕でもすぐにわかった。
「台本はできてるし、準備の時間は十分にある。内容だって凝って作り替えたんだ……」
そう言ってはみるものの、僕に目を向けている者は居ない。教壇の上に立っているのに、言いようの無い疎外感を覚える。
だけれど、元から僕はそうだ。そう生きてきたんだから仕方がない。だから。
「七瀬が考えたんだ……よ?」
こう言えば、ヒロインの名を出せば——、
「だから?」だけれど、また誰かがそう言う。
「小春が考えたからって」「劇は劇だしな」と、声が続いた。蝉の声が遠く聞こえ、蒸し暑さが異常に僕に纏わりついて耳鳴りがする。
なんとかするんだ。何か言わなければ。
「僕だって——」
嫌にタイミングが噛み合った。クラスの喧騒の継ぎ目に、僕の声が通った。そして続く言葉を発声しようとしてハッとした。僕は今、何と言おうとしていた? いや、言おうとしたのは僕自身だ。わかっている。
『僕だってやりたくない』そう言おうとした。
一瞬でも逃げようとした自分に唖然とする。
だけれど……「仕方がないじゃないか」とそう言ってしまいたくなる。だって、僕はヒロインじゃない。主役じゃないから——。
それに、さっき七瀬の名を出しても皆の賛同は得られなかった。それならこの話はそもそも最初から……。
「お前自身がやる気ねぇならやめちまえよ」
だけどその時、そう北島の声が聞こえた。反射的に目を向ける。彼は昨日と変わらない目で僕を見ていた。いや、彼は僕の目の奥までもを見抜き、そう言ったのかもしれない。
『浮かれてんじゃねぇ』と、昨日の言葉が頭に蘇る。また血が湧き立つのを感じる。
違う。僕は浮かれてなんていない。やりたくないなんて、思っていない。
すると、僕の頭の中にあの声が一閃する。
『やってみたいって理由以外に何か必要ですか?』
あの日の七瀬の声。北島とあの奥山を振り切ったあの声。そこには何があったか。
それは、もう僕自身が彼女を通じて知った。
そして、そう思った時には声が出ていた。
「やりたいんだっ!」
クラスの皆の視線が僕に集まった。でも、怯んだりはしない。言葉も勝手に溢れてきた。
「どうしてもやりたいんだ!」「どうすれば面白くなるか、七瀬と沢山考えた」「だからお願いします!」「僕も全力を尽くすから!」
一息にここまで言い切ったから、もう一言でも発声すればむせ返るとわかる。「だけど」、それでも、僕はもう言葉を止められない。
「一緒にやろうよ!!」
言い切った途端、案の定ひどくむせて、同時に息継ぎを挟まなかった代償にも襲われる。
それでも、そんな苦しさよりクラスの反応の方が気になって、無理やり顔を上げた。
だけどその瞬間に、教室の扉が突然に開く。
「いいぞ澄人! 俺もやりたいぞ!」
そう雄叫びを上げ、奥山が飛び込んできた。
まだ息は苦しい。でも僕はたまらず言った。
「うるせぇ!! 僕らがやるんだ! 僕らがやりたいんだ! 修学旅行は、僕らのもんだ!」
言い切った時、熱が引くみたいに、教室がシンと静まった。すると、声を堪えて小さく笑う声がどこからか聞こえてきた。笑っているのは、北島だった。彼はひとしきり笑ってから、袖で目を拭っていた。
クラスの皆が、あの北島が笑っている。と、動揺しているのがわかった。
すると、青葉が突然に立ち上がって言った。
「そうだよな。修学旅行ってのは俺たちのもんだ。先公に無理やり言い包められたままの修学旅行なんてのは偽物だ」
そのすぐ後に、引き継ぐように朝井が言う。
「そんな偽物を、吉良と小春の、あんたらの考えた劇なら、本物にできるって?」
朝井がそう言うと、皆の視線が僕に集まる。
なんと返すのが正解だろう。七瀬ならどう言うだろう。と、そう考える必要はもうない。この状況下において、七瀬も僕もお互いに言うことは変わらないはずだ。だって僕らはここまで、二人で最善を尽くしてきたのだから。
「僕らは最高の準備を進めてきた。だから、本物にできるかどうか、後は演者次第だ」
言い切ると、朝井がニヤリと笑った。
「受けて立とうじゃないの」
朝井の言葉がきっかけとなり、クラス中から「やってやろうぜ!」「下剋上だ!」「修学旅行を取り戻すぞ!」と次々に声が上がる。
きょとんとしていた奥山も、いつの間にか「盛り上がってきたぁ!」とまた叫んでいた。
かくして、紆余曲折あったものの、僕と七瀬の夏の努力が、まず一つ報われたらしい。
緊張から解放されると、体が重くなったようなひどい疲労を感じたけれど、でも昨日からの妙な浮遊感はなくなっていた。
「小春やっぱすっごい良いよ! 可愛すぎ!」
授業終わりに劇の準備をクラスで進めるようになった。結局、あの日の三日後に学校に顔を出した七瀬は、クラスの活気に驚いていた。でも、もちろんそれは僕の手柄じゃない。
現に、準備が始まってからの七瀬の働きようは変わらず真剣そのもので、また時には、お遊びでジュリエット役の衣装やメイクを施されたり……は、初めてのことだった。
クラスから歓声が上がっていて、さすがの七瀬もそれには居心地が悪そうだった。
「ったぁ。やっと抜け出せた!」
七瀬が教室から飛び出てきた。
「災難だね」と、僕が言うと、
「そ〜う〜だねっ」と言うのをフェイントに、七瀬は僕の背後に回り込み、パシャリ。
音に向けば七瀬のスマホが。画面には僕と七瀬が映り込んでいた。
「いっただき〜」そう言い残し、七瀬が教室へ戻って皆を鼓舞し始める。ひったくりに会ったかのように放心していると、スマホが震える。今撮ったツーショットが「どう? 可愛い?」という文言と共に送られて来ていた。
不覚にも一瞬の隙を突かれた。と、思いながらも、意志とは裏腹。親指の行方に迷う。
「おぉい! リーダーがオサボリですか?」
その時、突然クラスの男子に肩を組まれた。心臓が止まるかと思った。慌てて取り繕う。
「ごめん。ちょっと、ぼうっとしてたよ」
「なになに? 七瀬を見て、ぼうっとか?」
「違うよ。君たちをどう上手く使ってやろうかって考えてたのさ」
「ひぇぇ、リーダーおっそろしぃ。そんじゃあ俺らの演技も辛口審査してもらおうか!」
彼の背中を見送りながら、親指の行方を定める。因みに、文言については無視した。
ところで僕もいつしか忙しくなっていた。今のように、いつの間にかリーダーだなんて呼ばれていて、今の僕は、これまでの僕には想像もできないだろうし、嫌悪した姿だろう。
だけれど僕は、今のこの時間の一瞬一瞬が単純に楽しかった。
そしてそれは秋を通り過ぎ、冬に差し掛かってきた頃になっても変わらなかった。クラスの準備も、隔日くらいの頻度で行っていたから、些細な問題は幾度かあれども、順調に、活気も大きくは損なわず、ここまで来られた。
ただ一方で、旅行委員として奮闘する代わりに、七瀬との接触は減った。と、言うよりも、彼女自身が学校に来る頻度が日を追うごとに少なくなった。
倒れた件のこともあるから、一度その理由を問うた時には『貧血に冬の朝は天敵なんだよ。午後からの練習には出るから安心して』なんて言っていた。言葉の通り、当時は放課後の劇の練習にだけ参加していたけれど、その頻度さえも徐々に少なくなっていった。
そのことに関して、僕は別に無責任だなんて思わない。七瀬はここまで誰よりも頑張ってきた。だから、七瀬が居ないのなら、その分は僕が支えれば良いだけの話だった。
ただ、ただ普通に僕は心配になった。それで魔が差した。
『君は冬眠でもしてるの?』
ある朝。まだ布団の中でスマホを触っていると、気づけば僕はそう七瀬に送信していた。
返答は、思いの外、すぐに返ってきた。
『ずっと寝てられるのは甘美だけれど、断食となると辛いね』
そんなことを聞いてるんじゃないという意味で、僕は『はい』と、わざと淡白なユーモアを醸して返信した。でもそのコンマ数秒前に、七瀬からのメッセージが割り込んできた。
『今から会えない?』の後に、僕の『はい』が続いた。
「あっ」と思った時には遅かった。
『じゃあ、タコ公園に集合ね』
七瀬はそう、そんな公園が存在していることも、それを僕が認知していることも至極当然というような言種だった。
ただ、公園とタコ。想像してみると、一つ思い当たる節があった。それは、僕がまだ小学校に入る前に何度か通った公園。そこにはタコを模した滑り台があった気がする。
だから僕は『わかった』と返して身支度を始めた。学校を休むことになるけれど、午後の練習に参加できれば問題ないだろう。僕は朝露に濡れた、湿った曇天の朝へ飛び出した。
公園に着くと、タコの滑り台の上で七瀬が、
「ガォォォォォ!!」と、そう両手を顔の前に広げ、大きく口を開いて言った。
「どう? 冬眠って言うから、クマの真似」
「元気そうで何よりだよ」
僕はそう返して、七瀬の隣まで登った。
体調は大丈夫なのかと聞こうと思っていたけれど、様子を見ていれば大丈夫そうで、何より久しぶりに会ったのだから、少し雑談を先にしても良いだろうと思った。というか、まぁ先に話し始めるのは七瀬なんだけれど。
何分そうして話していただろう。他愛もないことを言い合って、それもひと段落ついた時、七瀬は「ところで」という風に言った。
「よくこの公園がわかったね」
「小さい頃、この近くに住んでたから」
「あら偶然。私の家もすぐそこなんだよ」
「本当に!?」
と、僕だけ声を上げてしまい七瀬はカラカラと笑った。いつもなら、七瀬の方が大袈裟に反応しそうなものだけれど。
「じゃあ私たち、昔ここでも会ってたかな」
「可能性はあるね」
「ここで出会うシナリオもあったんだね」
シナリオってまた物書き症が出てる。と言おうとしてやめた。今、なぜかそう言ってはいけない気がした。対し、七瀬はこう呟いた。
「ここで何回すれ違ったかな」
あれ。と思う。元気そうだと思っていた七瀬の顔に影が差している。同時に途端、天候が悪化して分厚い雲が辺りを暗くする。ここはタコの頭を模した屋根の中。洞穴状だから、余計に七瀬の表情が見えなくなる。
「この公園は小高い丘になってて、ここは公園で一番高い場所。小さな町を見下ろせる」
七瀬の目線を追う。暗所にいるから、外に見える町の景色が明るく映る。
「同じ町に住む人でも。こうして見渡せる景色の中にも、大勢の人が生きていて、その中でもう出会わない人もいる」
「……七瀬?」
「私たちは出会えた。その事実があるよね」
七瀬は景色を見ながら微笑む。微かに。本当に微弱に、表情と共に彼女自身が霞む。
「ねぇ、もしもの話だけどさ……」
七瀬が言う。すると雨音が聞こえ始める。
「私が、転校するって言ったらどうする?」
「……どうするって?」
「雨、降ってきたね」聞き返した僕には答えず、七瀬はそう独りごつ。でもすぐにまた、
「じゃあ今日は離れ離れになるカップルごっこ。そういう設定でいこう」と、言った。
またふざけて妙なことを言い出したよ。と呆れていたら、七瀬は徐に立ち上がって言う。
「参考に観たい映画もあるから、家に来なよ」
その七瀬の声色を聞いて確信した。今日の七瀬は、やっぱりどこかおかしかった。
言われるがまま七瀬の部屋に上げられる。見るからに女の子の部屋だ。壁一面に並ぶ書籍だけがクラスメイトの女子の部屋という印象から逸脱しているから、目のやり場に困った僕はそこだけを一点集中で眺めていた。
「えっちな本は、そこにはないよ」
「そ、そんなの探してないよ。そ、そう小説。君の書く小説を盗み見てやろうとしたんだ」
「いやんっ。吉良くんのえっち」
「はぁ!? なに——」と僕が慌てると、
「そんなのダメだよ〜ん」とテレビの裏の配線を探りながら、七瀬がそう軽く言った……。
僕はその違和感から目を逸らすように、七瀬が机に二本置いたチョコバーを見て言った。
「あと、箱買いしたチョコバーも探してた」
「箱買いはしてない」と七瀬が手を止める。
「いつ食べなくなるか、わかんないからね。親は食べないからさぁ。だから迂闊にはね。いつかはしてみたいよ。うん。夢ではある」
七瀬はそう言って立ち上がり、そのまま、
「コーヒー、紅茶、お茶」と言う。
「いつもので。君は?」と僕。「同じく。いつものオリジナルを頂くよ」と七瀬。
コンビニでのお約束の文言。その後、気さくなおじちゃん店員が「ガッテン!」と言う。七瀬のそのモノマネの腕はいつも通りだった。
「そう言えば、カフェモカは吉良くんが教えてくれたね。いつかパリ辺りで、一級品のカフェモカに舌鼓を打ってみたいものだね」
七瀬がコーヒーに粉末のココアを溶きながらそう言った。「起源は米国だよ」と僕が言うと「フフン」とだけ言って躱された。
その後、七瀬はコーヒーを僕側に寄せると、クッションを渡してきた。礼を言って床に置き、座る。そしたら色違いのクッションが僕のすぐ隣にポフっと音を立てて落ちた。
「シュチュエーション遂行。恋人ごっこ」
温もりが伝わる左半身がこそばゆい。七瀬は構わず部屋を暗くする。その動作の弾みで肩が触れ合う。体温に直接触れた。柔い感触が体を伝わり心臓を揺らす。そしたら高鳴りがまた全身に反響した。
「暑いよ」と、僕が言うと、
「私は寒い」と言って、すぐ七瀬が大音量で映画を再生したから、僕は何も言えなかった。
王道の恋愛映画。出会い育まれるあれこれ。恋愛とは人間として生きれば誰もが知る高揚と絶望。それだけの繰り返し。けれど僕も今、隣の体温をひどく意識してしまっている。
移り変わる場面の光が、七瀬を照らす。そのせいか七瀬が霞んで見える。すると、これまでに何度か七瀬が言った言葉を思い出す。
『覚えていて』と、思い起こせば、ふと僕の視線に気づいた七瀬と目が合う。七瀬は緩く、にっと笑ってまた画面に戻った。
綿毛のようなまつ毛、優しい瞳……その横顔。僕はこの瞬間を覚えていられるだろうか。思うと怖くなって、また七瀬を見つめて——
「集中力が切れ始めたかな?」
ふと思考を遮られた。
「そろそろ最後の別れのキスシーンだし、気合い入れ直すとしますか」
言って、七瀬は停止ボタンを押し、コップを持って立ち上がる。その拍子にティースプーンが床に転がり、僕の方に飛んできたと思ったら、ベッドの下へ潜り込んでしまった。
僕は自然に身を捩り、床に顔を付け、ベッドの下へと手を伸ばした。
瞬間、七瀬が「あっ」と声を漏らす。僕は本当に如何わしい本でもあるのかと思い、あるわけないと覗き込んだ。迂闊だった。
そこで僕は、所狭しと置かれた妙な機器を見た。物々しいそれらは女子の部屋とか以前に、似つかわしい場所が思いつかない。強いて言うなら昔の——と思考し青ざめた。
即座に不気味な光に照らされたスプーンを掴み身を引いた。そしたら振り返りざまに、ドンっと勉強机の角に額をぶつけてしまった。
「あっあぁ。やっちゃったね大丈夫?」
「大丈夫だよ」痛くない。何も見ていない。絶対に大丈夫だ。と思い込んで顔を上げた。
すると、七瀬と寸分の距離で目が合った。
一瞬、時が止まった。止まった時間の中で、七瀬の顔はどこか泣き顔のように見えた。
七瀬が徐に近づいてくる。額に感触がある。二人の額が重なる。唇に吐息が触れる。思い出すのは『痛みを半分こ』『思い出に私が残れば嬉しいし』という言葉。
七瀬の額が、呼吸が離れる。見つめ合い、引き伸ばされる一瞬に、七瀬の声が震えた。
「ねぇ。私たちもキスすれば、何かが変わってくれるかな……?」
七瀬の紅潮した頬と、悲しげな目元に潤む瞳。そして桜の花弁のような、その唇……。
顔が熱い。耳に言葉が籠って離れない。何も言えない。何が起きたかさえ曖昧だった。
七瀬が唇を結ぶ。その口角が下がる。そしたらまた上がって、
「今日は、お開きにしよっか……」と言った。
「……うん」と、ようやく口を開いた僕は、それだけしか言えなかった。
その後、僕らは淡々と片付けをして「さよなら」と言う七瀬に「うん」と返して別れた。
僕は唇に触れた吐息の感触を、一日中、忘れられなかった。けれど次の日の朝には、曖昧になって霞んでしまっていた。
日々は目まぐるしく過ぎていった。
七瀬はあの日以来、練習にも顔を出さなくなった。
それでも僕の役目は変わらない。僕は皆の要望には全て答えたし、可能な限りの変更は幾度も繰り返した。七瀬の分も必死に補って、できることなら何でもやった。
そして気づけば修学旅行の二日前になった。ここまでは本当、一瞬の出来事のようだった。
でも、そんな一番大切な時期に、僕の時間は失速した。朝の目覚めと同時、異様な体の重さに気づき、冬ならば妥当と思える寒さと、しかし冬には異常な火照りを感じた。
「嘘だろ……?」
漏れた声が掠れた。ひどく喉が痛んだ。
自覚した途端に、絶望と焦燥に襲われる。
「まだやる事が、沢山あるんだぞ……」
それでも力は入らない。起き上がれない。
体と思考に必死に足掻く。けれどついに目の前が暗くなり、意識が飛んだ。そして呑気にも、僕はそのまま夢を見た。
場所は病院。それで母さんの夢だとわかった。母さんは看護師として病院で働いていた。だから僕は幼い頃、その病院の託児所で過ごしていることが多かった。
母さんはよく働く人だった。だからこそ僕は読み聞かせのことを、母さんと過ごせる数少ない夜を印象的に覚えているのだろう。
すると母さんの声が聞こえ始め、断片的な記憶が幾度か過ぎ去ると、突然、開けるように記憶が鮮明になって当時の感覚が蘇った。
うつ伏せになり、頬に擦れる感触と匂いからしてシーツはリネン。部屋は暗いけれど、そこかしこで薄く色々な色が光っている。
「澄人、今日のことは内緒だからね?」
そう母さんの声が聞こえるけれど、僕はなぜか母さんとは反対側に向いている。
母さんがゆっくりと読み聞かせを始める。内容は夢十夜の第一夜だった。
ここで僕は気づいた。この夜が、夢十夜が僕と母さんの最後の記憶であったことに。
気づいてしまった途端、隣にあった温もりが離れていく。『行かないで』とは声は出ず、代わりに僕の声は、夢十夜を読み上げている。
隣には誰かが居た。でも、母さんじゃない。それでも僕は熱心に隣の誰かに向けて、夢十夜を読み聞かせていた——。
底が抜けるような浮遊感で目が覚めた。
「七瀬っ!」
頭を振る。嫌な夢をみた。と、思うけれど、意志とは裏腹に、僕はこの記憶のすぐ後に父さんからこう告げられたことを思い出した。
「母さんは、しばらく帰ってこない」
そして、その『しばらく』が半年になったある日に、学校から帰ると家の玄関で見知らぬ女性と鉢合わせた。
その翌日が授業参観。僕の絵が晒され、ウサギの髪留めの少女に現実を突きつけられる。
そうだ。当時、癇癪を起こした僕は、
「母さんが居なくなったのは、父さんのせいだ!!」と、こう叫んだんだった。
その一件の三日後くらいから、父さんは家に引きこもるようになった。
でも、そう言ったことを悪いとは思えない。だってそうだろう? 父さんは母さんが居ない間に他の女を家に連れ込んでいたんだ。
そんな節操のない人だから、母さんは愛想を尽かして出て行ったに違いない。
怒りのまま力を込めると、体を起こせた。
部屋はもう薄暗い。けれど目線の先の仏壇の祖父母の写真はうっすら見えて、そこから目線を少しずらせば、母さんが使っていた鏡台に、当時の化粧品がそのまま並んでいる。
鏡台をじっと見つめていると、物音がした。音は隣の風呂場から。それで初めて、平日の夕方は父さんが起きている時間だと気づいた。
急激に胃液が逆流してくる。鉢合わせることへの危惧じゃない。父さんが、なぜ今、風呂に入るのかを激しく疑問に思った。
偶然じゃない。初夏あたりから、父さんは夕方に風呂に入ることが増えた。さらに、こういう日には、決まってリビングに来客用のグラスが使われた痕跡があった。
夏以降、幾度かこれに気づくことはあった。でも、これまでは気にしないようにできていた。なのに、今日はなぜかダメらしかった。
未だ頭は重い。だけれど僕はそれ以上考える事なく、制服とスクールバックだけを掴み、家を飛び出した。体調はまだすこぶる悪いけれど、このまま家に居る方が危険だと思った。
その夜、僕は初めてアルバイトを無断欠勤した。こんな時にこそ役立つ時間潰しのバイトのはずだった。けれど、それが突然に空虚に感じられて、たまらなくなってしまった。
だから僕はもう、近所の公園のベンチで体を丸めて眠ることしかできなかった。
朝を迎えた。十二月十七日。修学旅行前日の朝だ。当然、一睡もできなかった。
体調も当然に悪化。酷くふらつきもするけれど、自分を騙しながらでも学校へと向かう。
でも学校に着いた瞬間、僕は頭をさらにバットで殴られるような衝撃を受けた。
「あんさ、この劇にあーしら要らなくない?」
登校早々、数人の女子がそう言ってきた。
「いや、全員が一度は舞台に上るよう——」
「だかんさ、それが必要あんのって」
彼女達は、あまり劇をよく思っていない子達だった。そういう人も中には居ることは把握していた。本番に近づくにつれ、そういう人達との乖離が深まることも理解はしていた。
配慮もしてきた。でも、それが十分だったかと言われれば自信を持って返事はできない。ただ正直、今、彼女達にはこう思ってしまう。
「本番は明後日だ。今更そう言われても——」
「明後日だから言ってんでしょ。別にあーしら台詞も当日の仕事もないんだからさ、なんか下手に混じるだけ違和感じゃない?」
言って、リーダー格と思われる女子が貧乏ゆすりを始める。そんな彼女を下手に刺激しない方が良いことくらい、僕もわかっている。
「逆に言えば、君達は一番楽な役回りだろ」
なのに僕は、そう角が立つ言い方をした。
「何あんた、最近、浮かれてんじゃないの」
言い争いがしたいわけでは決してない。なのに僕はまた、包み隠さずに言葉を——
「おっはよ〜う。久しぶりだねぇ明美ぃ」
しかしそこで、ちょっとした懐かしささえ感じる声で七瀬が現れた。彼女は明美と呼んだ女子の前に立ち、彼女と手と手を合わせた。
「なになに? 何の話をしてたのかなぁ?」
おちゃらけた様子で会話に水を差した七瀬の行動は、状況を察しての配慮だとわかる。
「いや、そういうのいいから。てか、小春は久しぶりすぎでしょ。あんた何してたの?」
だけれど、明美達の怒りは収まらないようで、七瀬の繋いだ手は振り払われてしまった。
「休んじゃってたのはごめんなんだけどさ、でもまぁ、あと二日じゃん? それに明美達がいてくれれば花になるしさぁ?」
「あんさぁ小春。正直さ、あんま顔出してすらいない奴にそんなこと言われんのも癪だわ」
明美の声は震え、髪をかき上げて、睨むような目を泳がせている。七瀬の登場は、完全に火に油を注ぐ結果となってしまっていた。
「委員になる時に言ってた、皆が楽しめる旅行にとかなんとか、その責任はどうしたのよ」
だけれど、明美達は何もわかっていない。七瀬がどれだけ頑張ってきたか。責任なんて七瀬はとっくに十二分か、それ以上に果たしてきた。バイトがその顕著な例で、稼いだお金は全額、劇の費用に補填されている。
だから七瀬が練習に来ないのは、よっぽどの理由があるに違いないというのに——、
「あはは。ごめん。実は……うん。なんかもう面倒臭くなっちゃって」
けれど、直後に聞こえてきた七瀬の声は、そんな言葉を語っていた。僕は耳を疑った。今の声は本当に七瀬のものだったのか。確認するために七瀬に向く。悲しげな表情を隠し切れていない。僕にはそれがわかった。
「ちょっと待てよ。なんでそんな嘘を——」
「嘘じゃないよ。私って結構飽き性なんだ」
また、七瀬は嘘を言った。
「ははっ何? 正体を表したってわけ? でも、それにしても小春。あんた人を巻き込んでおいて、その言い草は流石にないでしょ!」
明美の手が伸びて、七瀬の肩を押す。すると、びっくりするくらい軽いもののように七瀬が倒れてくる。僕は咄嗟にそれを支えた。
「はぁ? 何? 今度はか弱いふりなわけ?」
七瀬を抱えて、その異様な軽さに戦慄する。以前の映画館の時と、明らかに違う。そして改めて顔を覗き込めば、整った綺麗な顔立ちに、しかしはっきりと窶れが見てとれた。
心臓が激しく鼓動する。焦燥感を自覚する。それがまた僕を混乱させた。
「何とか言いなさいよ!」
そして、また七瀬に明美の手が伸びた時、僕はついに叫んでしまった。
「やめろ! お前に七瀬の何が——」
しかし、続く言葉は途中で途切れる。
「もういいよ吉良くん。庇わなくていい。私なんかとは……もう関わらない方がいいよ」
目前で七瀬がそう言う。表情には隠し切れない憂いが滲んでいる。でも彼女は今、本気で僕に『関わらない方がいい』と言った。この半年、関わってきた僕だからそれがわかる。
なぜ七瀬は突然にそんなことを言い出すのか。なんというか、とにかく僕は色々とわからなくなってしまって、全身の力が抜けた。
明美が嫌悪を交え、呆れたように言う。
「そこでもう芝居でもやってるわけ?」
「うん。私はずっと物語の中で演じてきた。でも、それはもう本当に、終わりなんだ」
七瀬がそう返すのが聞こえると、明美達は「話になんない」と言い捨てて去って行った。
静かになった廊下で、痛いくらいの静寂と寒さに心が震える。
「七瀬、なんであんなことを言ったの?」
「あんなこと? まぁ何であっても本音だよ」
「待って。今は二人だろ。何でまだ嘘を——」
「二人だから何だって言うの?」
言って、七瀬が僕の瞳の奥を抉るように見つめる。僕は背骨が浮くような感覚になった。
「二人って、私達の関係って何?」
冷たい声。今は彼女の手に小説はない。等身大の彼女がそう僕に問いかけてきている。
「七瀬?」
「答えられないなら、そういうことでしょ」
続けてそう言った七瀬は、そのままここを去ろうとする。僕は焦って言った。
「どんな関係かは現時点だけで判断できないんだろ。なら大事なのは僕の感情だ」
目線の先で七瀬が足を止める。
僕は今だと覚悟して、続けて言おうとして、
「僕は君が……」でも、言葉に詰まった。
「君が何?」
七瀬がこちらに向かずに言う。僕は幾度も口を開いた。でも肝心な言葉は声にならない。
「答えられないなら、答えはないんだよ」
七瀬はそう言い、それからまた続けて、
「じゃあ、さよなら。私帰るから、委員も後はよろしく」と言って、立ち去った。
その背中に僕は最後まで何も言えなかった。
その後、僕はもうどこに行く気力もなかった。でも人の喧騒からは離れたかったから、人気のない校舎の隅の階段に腰をかけた。
そのままぼうっとしていると、さっきの七瀬の言葉がひたすら頭の中で回っていた。
今日の七瀬は変だ。いや、彼女はずっと変だった。でも、今日はその性質が変わった。彼女は決して自分から人を遠ざけるようなことは言わなかった。なのにさっきはなぜ?
そう七瀬の謎を辿るように思考すれば、結局、最後にはどうしても例のアラームと、修学旅行までと定めた時間、その二つの時間制限に行き着いた。でも僕はそこに行き着くと、必ず思考を中断し、振り出しへと戻した。
次第に辺りが暗くなり始めた。もうそろそろ学校での最後の劇練習が始まる頃だろう。
帰ろうとは思わないけど、教室へは足が向かない。言い訳だけを必死に考えてしまう。
劇は青葉がムードメーカーになって、統括は朝井が意欲を出してやってくれている。
それなら僕が行かなくても……。
「二日連続でサボるのか」
思考を断ち切る声。北島だとわかる。こういう都合が悪い時、なぜか彼はいつも現れる。
「別に僕が居なくたって練習は回るだろ」
「いつから義務になったんだよ」
「は?」
「甘えんな。劇はお前がやりてぇって言ってクラスを鼓舞したんだろうが」
「甘えて……ないよ」
「じゃあ何でさっき、何も言えなかった?」
彼の言うさっきとは、時間の経過を加味しても朝の七瀬との出来事のことに違いない。
「お前は小春に甘えて縋ってんだよ」
「縋ってる?」
その言葉の、今における意味を理解できない。なのに、突きつけられている気になる。
「お前、小春のことが好きなんだろ」
瞬間、突きつけられていたものが刺さった気がした。心に鈍い痛みが滲んできた。
「でもお前の好きは甘えだ。小春に縋ってるだけ。『七瀬が好き』。それで自分を支えてる」
動揺が体に染み渡る。粘っこい黒くぬるい液体が血管から身体中に広がっていく。
「お前は自分に言い訳をしないと、全てに理由を付けないと息ができない。そして勿論、その理由に自分自身の意思や願望を素直に当て嵌められないから、いつも息苦しい」
聞いていると、本当に呼吸が乱れ始めた。
「だからそこに小春を、好きな人というフィルターを一つ用意して、そこにだけ目を瞑っておけば『七瀬のために』と言い聞かせるだけで、自由に心の声を聞いて、楽に息ができるんだ。そうして安心して、一番、大事なことから必死で目を逸らしてるだろ」
北島がそこで一度言葉を切ったから、僕はやっと息を吸えた。そして呼吸を繰り返しながら、今の話を否定できる言葉を探って言う。
「北島、君の話には矛盾がある。だって——」
「あぁ。自分の意思や願望を素直に聞くことができないのに、なぜ『七瀬のために』と行動することができるのかって事だろ?」
途中で奪われた言葉は、僕が言いかけた言葉と同じで……。そして彼は続けてこう言う。
「恋は意思や願望なんかより、もっと手前の制御できない場所で生まれてくるからだよ」
北島が一拍挟み、少し悲しそうに笑う。
「だから盲目になるんだ」
言われて、僕は頬に何かが伝うのを感じた。まさかとは思ったけれど、それは涙だった。その涙が何よりの証明だというのに、それでも僕は涙を隠すように拭って、惨めに足掻く。
「君が僕の何を知ってるっていうのさ」
しかし、そう言った僕へ、北島は言葉ではなく、代わりに何かを取り出し、突き出した。
「悪いが、読ませてもらった」
それは七瀬の小説だった。なぜ彼が? なぜ僕に? だけどより不可解なのは——。
「なぜ僕に『悪いが』と謝るんだろうって? 答えは、この小説に書かれている事のほとんどがお前についてだからだ。だから俺は、お前の事をお前が思う以上には知っている」
「言ってる意味が……わかんないんだけど」
「ここには十年前からの、お前と小春の事が書かれている」
「だから意味が——」
「わからないならそれを読めばいい。そこにはお前の疑問への答えの全てが書かれてる」
「読めって、それは七瀬のだ。勝手に……」
そこまで言った時、言い終わるのを待つ北島の神妙な表情を見て、続く言葉を失った。
「あぁ。読めば責任が生まれる。お前は目を背けているもの全てに向き合わなければいけなくなる。ここにあるのはそんな過去だ」
突拍子もない話に未だ理解が追いつかない。
でも『責任』と『向き合うべきもの』は、僕がこの数ヶ月間ずっと考えないようにしてきた、七瀬に関する二つの時間制限と、そして……七瀬との勝負の答えなのだとわかる。
「もう、タイムリミットなんだよ」
北島が僕から目線を外し、でもどこを見るともなく、ぽつりと言う。タイムリミット。僕の直前の思考と、彼の言葉が重なる。
北島はまた僕に目線を戻して言った。
「俺とお前は似てるんだ」
また何を言い出すのかと思ったけれど、直後、彼は手を音が鳴るほどに強く握り直して、
「でも一緒じゃない。俺じゃダメなんだ」
と、そう呟くように言ってから、
「だからお前には甘えてほしくないんだ!! 勝手だってわかってるけど、それでもっ!!」
と、何かに取り憑かれたかのように叫んだ。
廊下に声が木霊する。彼の叫びは怒号に聞こえたけれど、反響して幾度か繰り返した声は、悲痛の叫びに聞こえた。
そして自身の声の響きが止むと、北島はまた突拍子もなく僕に頭を下げてこう言った。
「頼む。お前が『七瀬小春』を救ってくれ」
裏返ったその声を残し、北島は僕に背を向け、肩を震わせながらもう一度、「頼む」と掠れた声で言って、走り去って行った。
しばらく僕は北島からノートを受け取り、握り直しもしないまま呆然と立ち竦んでいた。
そして数分後、そんな停滞した僕を動かしたのは、背後からの冷たい突風だった。
「うわっ! さっぶぅぅぅ」
振り返ると、朝井がこの廊下の唯一の窓を開けていた。彼女はそのままこう言った。
「劇の本番も寒いらしいからさ、最後の練習は同じような環境でやることにしたんだよ」
「あぁ、そう……」
「ははっ、反応薄ぅ。まだ体調悪い?」
何も言えずにいると、朝井が続けて言う。
「まぁ無理が祟ったのかな。明日からに備えて、遠慮なく今日も休んだ方がいいよ」
そう言って朝井がこちらを見る。
「劇なら、北島も手伝ってくれるしさ」
朝井の複雑な表情から、さっきの僕と北島との出来事を察して言っているらしかった。
「北島は不良じゃないよ。不良が劇の衣装を全部縫うなんて、想像できないでしょ?」
「……え?」
「小春がやりたいって言った劇だけど、そこには吉良も居る。だから隠れて劇に協力できる形で、でも異常なくらい頑張ってんの」
朝井は呆れて、でも優しい笑みを浮かべる。
「あんたらの関係にさ、私が口を挟むのも野暮だけど、でもこれだけ言わせて」
そして今度は、僕をまっすぐ見て言った。
「北島は、小春のことになると本当に真剣。だからあいつがもし本気で何かを吉良に頼るようなことがあれば、受け入れろとは言わない。でも、一度ちゃんと考えてやってほしい」
そう言い、朝井は僕にも笑いかけた。
「それじゃ、私は戻るね。あぁそれと、いつも小春と仲良くしてくれてありがとう」
朝井は最後にそう言い残すと、小さく手を振って、そのまま教室へ向かって行った。
朝井が居なくなると、窓からまた突風が吹き込んできた。
すると丁度、僕の両手の上で小説のページが捲られて、目を落とすと、いつかのように、僕はまた、その第二章を目にした。
気づくと、自然と目が文章を追っていた。
そして数行も読み進めると、僕は、その内容に戦慄し、そして北島が言った通り、これまでの七瀬に関する謎の全てに合点がいった。
そうして僕は、とても悲しい真実を知った。
少女は七歳の時に、自身の頭に巣食う病の存在を知った。その病は簡単に言ってしまえば脳の腫瘍。しかし良性の小さな腫瘍であり、一見は緊急性も危険性もないものに思えた。
ただ、その腫瘍は存在する場所が悪かった。
簡単に言えばその腫瘍は、摘出手術を行うにあたり、命を失う可能性は低いものの、一方でこれまでの記憶の全てを失ってしまう可能性を非常に高くする。そんな場所にあった。
腫瘍も年月と共に成長する。悪性腫瘍と比べ、スピードは遅いものの、十年も放っておけば神経を圧迫し、身体の自由と命に影響を及ぼす。つまりは早期の摘出が望ましいとされ、それは記憶を観点にしても同じだった。
だが、七歳までの記憶ならまだ安いと、そう容易に決断できるかは難しい問題だった。
記憶を失った後の自分は、手術をして生き残る自分は、果たして自分と言えるだろうか。
七歳の少女であっても、医者から迫られる決断とその説明は、自分の命を見ず知らずの他人に譲り渡すことと何も変わらなかった。
少女の葛藤と共に、徒に時間だけが過ぎた。
しかし決断の時は、ある日突然やってきた。
きっかけは『夢十夜』という小説と『笹村澄人』という少年であった。
少女の病室に突然現れた見ず知らずの少年は、断りなく少女に小説を読み聞かせた。
そして、そんな突拍子もない、たった一度の出会いが、少女の暗く苦しい日々と未来に、一筋の大きな希望の光を照らしたのだった。
『私もこの小説のような恋をしたい。どうせ消えるのなら、この女性みたいに生きてからがいい。そして、こんな素敵な小説を私も書いてみたい。そしてそして、そうして書いた小説を、いつか私が澄人くんに読ませたい』
悲しいかな、少女の現実は夢十夜に投影しやすかった。それも影響しただろう。
少女はその数分で、初めて知った小説というものの魅力に飲まれ、同時に初恋を知った。
そして、その二つの大きな衝撃が、少女に目標を与え、それを達成するまで、体が許すまで、今のままで、今のままの『七瀬小春』として生きることを決断させたのだった。
小説は、そんな過去を始点として始まっていた。全体の体裁としては、当時の七歳の七瀬が将来的に僕と再会し、その後の関係を築いていくエピソードを創作した、いわば理想の物語が描かれるのが、小説としての本筋。
またそれとは別に、その理想の物語を実現させようと試みた上での、結果と当時の心境を綴った日記のようなものが並列するという、ある種の二部構成となっていた。
僕は少女とのことを忘れていたわけではない。ただ嫌な思い出に、母さんとの最後の夜に重なってしまうから、記憶に蓋をせざるを得なかった。でも、少女が七瀬だったなんて、本当に今日まで微塵もわからなかった。
「七瀬小春の病室はどこですか」
「あなたは?」
「友人です。友人の、吉良澄人です」
僕の苗字が変わったのは、母さんが居なくなったから。つまり父さんは婿養子だった。だから僕の苗字は七歳まで『笹村』だった。
だからこそ、七瀬はあの時、授業参観の時にあんな反応をしたのだろう。
小学一年になる直前に病気が発覚した七瀬は、入学から半年も学校に来ていなかった。だから彼女がいざ登校し始めた時、皆は七瀬を転校生として認識していた。
彼女自身も病気の説明をするより、そっちの方が都合が良かったのだろうし、田舎者の皆の期待に乗せられ、東京から来たことになっていたとなれば、一度しか会ったことのない、名前も知らない少女に、僕が気づけなかったのも仕方がないだろう。
そんなお互いの状況があって、僕らはすれ違った。
『澄人くんって、お母さん居ないの?』
この発言を、七瀬はとても後悔しているらしいけれど、当時の七瀬からすれば『あの男の子と姿と名前は同じ。でも苗字が違う』そんな僕の違和感を説明してくれるような出来事だったのだから仕方がない。言い方に配慮をしろというにも、まだ幼すぎた。
ただ、その出来事がきっかけで父さんへの不満が爆発し、不登校になり、転校してしまった僕も同じように仕方がないと言いたい。
受付で聞いた病室が少し先に見えたため、残りの距離は息を整えながら近づく。
七歳当時の七瀬の病室に押し入って、夢十夜を読み聞かせたその動機は思い出せないけれど、僕の単なる思いつきであっても、七瀬の人生に影響を与えた責任は大いにある。それを忘れていたなんて、やっぱり僕はなんて薄情な奴なんだろうと自分を呪った。
ただそう思っているにも関わらず、僕は並列して別の個人的な疑問を持ち合わせていた。
「今朝なんで吉良にあんなことを言った?」
部屋の中からそう北島の声が聞こえた。その内容は、偶然にも、僕の疑問を代弁してくれるものだった。それもあって、僕は扉の前で立ち止まってしまう。
「なんで今になって、お前は澄人を自分から遠ざけ、小説さえも書かなくなった?」
小説を書かなくなった。確かに小説は、あの日の教室での七瀬の発言通り、当時から唐突に、途切れるようにして終わっていた。
「諦めるタイミングなんて、これまでにもいっぱいあっただろ」
そう言う北島の声は、怒気を孕んでいる。
「小一の授業参観が最初。そもそも、そこでお前は一回諦めた。でも、だらだらと小説を書くことはやめられず、思いを引きずった」
北島はそのまま、矢継ぎ早に話し続けた。
「そして去年だ。症状が顕著に現れ始め、安全に手術ができるのも最後と言われたから、お前は高校進学を諦め、手術を受ける決心をしたはずだった。でも、当日に逃げ出した」
その時、掠れて震えた七瀬の声が言う。
「迷惑をかけたとは思ってる。高校の名簿を勝手に見たのも悪いと思ってるよ」
でも、その余音を北島は容赦なく遮った。
「謝ってほしいんじゃねぇ。話を逸らすな」
そしてまた北島が、高ぶる感情のまま、指折り数えるように言葉を並べていく。
「高校の名簿に見つけた『吉良澄人』に会うため、お前は一転、高校へ編入した。でも一年もグズグズして、ようやく半年前に行動し始めたと思ったら、旅行委員なんて役職を担って、肝心なことを後回しにしたまま、また時間を食い潰して——」
北島は独り言のように言いながら怒りを募らせ、最後は呆れたように言う。
「それで今度は、吉良を遠ざけるって?」
そう言った北島の声は、複雑にしゃがれた。
「なぁ、俺はもうお前がわかんねぇよ」
「ごめん」
「だから謝れって言ってんじゃねぇよ」
「わかったから、ごめん」
「わかったってお前——」
「うるさいんだって!!」
七瀬の声が病室に響く。抑え込んでも、それでも上蓋を押し上げ、漏れ出してしまった。そんな声だった。僕はこんなに感情的になった七瀬の声を初めて聞いた。
直後、今度は、北島の本気の怒号を聞いた。
「これまでと同じ考えをしちゃいけねえんだぞ! お前はもう、記憶も命も失うことを覚悟した上での選択を、残った時間の中で遂行していくしかねぇ。そこまで来たんだ!」
「そんなの嫌だ!!」
七瀬の叫びが、喉の震えで力無く揺れる。
「そんなの……やだよ……」
萎れて落ちるような七瀬の声が病室に溶けると、北島も何も返せなくなったらしい。
会話が途切れると、現実を訴えかけるかのように心電計の電子音が響いた。それを隠すかのように、七瀬が口火を切った。
「でも……嫌だけど、わかってる。わかってるからこそ私は吉良くんを遠ざけたいの……」
声のトーンが落ち着いた代わりに、しゃくりが混じった。そして留められない涙と共に、
「高校に編入して、吉良くんを見てすぐ、そうじゃないかなとは思ってたんだ」
そう前置いて、七瀬はゆっくり語り始めた。
「確信に変わったのは、私が『夢十夜』の思い出を語ったとき。途端に吉良くんの様子がおかしくなったのを見て、彼が本当にあの人で間違いないのだとわかった。でも同時に、それはあの授業参観で、私が本当に吉良くんを傷つけていたことの証明でもあった。
委員というチャンスを掴んで、やっと吉良くんとお話できて、私は浮かれて盲目になってた。だからその時やっと私は反省して、決心した。この再会は私のためじゃなく、吉良くんへの恩返しのために使わないとって。
だから旅行委員は、恩返しのための道具にした。私がお膳立てをした後、徐々に吉良くんに仕事を任せてクラスに溶け込ませる。人との関わりと、居場所を作ってあげる。そしたら私は逆に、吉良くんから離れていくの」
たくさん悩んで、時にはしゃいで、とにかく一生懸命に取り組んでいた旅行委員が、七瀬にとって、いつしか僕に与えるためのものになっていたなんて、悲しかった。
ただ、七瀬としての理屈はわかった。うん。それはよくわかった。けどその上で——、
「お前が居なくなる必要性は無いだろ」
また僕の感想を北島が代弁してくれた。けれど、少し時間を置いてからの七瀬の返答は、問いへの素直な回答ではなかった。
「勝負の答えがわかっちゃったから」
「は? 吉良が委員をやりたくない理由なんて、お前は最初から、わかってたはずだろ」
小説を読めば、僕以上に七瀬が僕を論理的に見ていたとわかる。だから僕も、北島と同じことを思った。でも、次の七瀬の一言目は「ううん」と否定から始まる。
「勝負の答えは相手に依存する。今の吉良くんの思いが変われば、答えも変わるんだ」
「じゃあ、今の吉良への回答は何なんだ?」
七瀬が返答に言い淀んだ。僕はそれで気づいた。僕が気づいたと言うのは変かもしれないけれど、とにかく七瀬が言い淀む回答に、僕は丸をつけることができると思う。
『僕が、七瀬のことが好きだから』——それが答えだ。
「吉良がお前を好いているから……?」
北島が呟く。彼も話の筋から予想できたらしい。ただ、その上で彼は続けてこう言った。
「でも、だったら、なおさらじゃねぇか。お前の目的は吉良を救うこと。なら、お前が吉良から離れることはその一番の矛盾になる」
衣擦れの音が往復した。七瀬が頭を振ったのがわかった。
「違うの。場所を与えるだけじゃ足りないんだ。吉良くんを本当に救い出すなら、過去の自責から解き放ってあげないといけない」
「……あいつの母親のことか?」
「そう。吉良くんは、お母さんの顔を思い出せないことに自責を感じてる。それが、あの授業参観にも表れてた。そして、そこで傷跡を膿ませたのが私なんだ……」
そこまで言うと、七瀬がゆっくりと呼吸を繰り返す。気持ちを整えるというより、息を整えるというような呼吸音が、彼女が本当に病を患っているのだということを意識させる。
しばらくして、喉の奥を開く呼吸の音がした。
「お母さんと話し合えなかった。なのに誰も感情に向き合ってくれなかった。怒りも不満も寂しさも整理できない。そんな環境が、吉良くんを孤独に、人を嫌うまでにさせたんだ」
シーツが擦れる音がする。膝を抱え込んでシーツに埋まったのだろう。次に七瀬の「だから」と続けた声は籠って聞こえた。
「私じゃないといけないの。私には吉良くんの自責を助長した責任がある。その上で吉良くんの自責を生んだ『大切な人との別れ』その経験に上書きできる可能性を持ってるから」
「自責への上書きって、それってお前——」
「私との別れで、感情的にぶつかってもらうの。それを私は全部受け止めるから。だから、もう絶対『何も言わず勝手に死なれる』その経験だけは吉良くんにはさせちゃいけない」
ズキリとした。『死』という単語が嫌に鋭く聞こえ、その響きは心臓までもを貫いた。
しかし「勝手に死なれる経験?」と北島が尋ねる声の後、すぐに言った七瀬の言葉に、僕はさらに追撃を受けることとなった。
「吉良くんのお母さんはね、実はもう亡くなってるの」
息が止まる。母さんが死んだ? そんな話は知らない。小説にも記述はなかったはずだ。
「その事実は吉良くんには告げられてない。私が知ったのは、夢十夜を読み聞かされた後、偶然に覗き込んだ病室が静かに慌ただしくて、『あの子にはまだ酷な話だから黙っておいて下さい』っていう会話が聞こえてきたから。後々考えて、その意味がわかったんだ」
戦慄した。母さんの死を現実的に捉えられない一方で、七瀬の話が本当なら、それは僕のこれまでの全てをひっくり返す事実だ。
視界が歪むほどの動揺を初めて経験する。
だけれど、その混沌とした頭の中で一つ、すうっと浮かんできた思考があった。すぐに思考に転換できたのは、小説のおかげで、これまでの僕を整理できたからかもしれない。
つまり、母さんが亡くなっていた。それが事実なら、これまでの僕、七瀬が救う対象としている僕は虚像だということになる。
「吉良の母親が死んでた? そんなら話がひっくり返る。その事実だけをお前が伝えてやれば、話はそこで終わりじゃねぇか」
「いいや。その権利は私にはないよ」
「……権利? なら、その選択を放棄して、お前のシナリオを選ぶって? そんなの、そんなのお前があまりにも報われねぇ!!」
北島の声が涙に潤み、続けて言った。
「お前はなんでそこまで……吉良に固執すんだよ……」と呟き落とした声が掠れて消える。
七瀬のゆっくり湿った呼吸。その息の使い道を悩むような間隔の後、こう聞こえた。
「本当……なんでこんなに好きになっちゃったんだろうね」
言い終わった後、七瀬の声は堰を切ったように嗚咽に変わった。そして、ついに。
うあぁぁぁぁぁ——と、子供のように。溢れる感情に飲まれるように声を上げて泣いた。
僕もその悲惨な声を聞きながら、壁に背を付け、息を殺して泣いた。全身に力が入らず、ただ次々に溢れる涙を拭った。
でも僕は今、動かなければいけない。今、涙が流れるのなら、僕は七瀬に救われてはいけないんだ。そして、そのためには僕が今、ここに居ることを七瀬に知られてはいけない。
重い足をなんとか一歩、踏み出す。その拍子に足元の消火器を蹴り倒した。病室から北島の声。扉を開く音。僕は必死に駆けた。
これから僕は父さんに会って、母さんの死の真相を聞き出す。そうすれば七瀬の目的は彼女の意図せぬ形で達成され、つまり、もう七瀬が僕を遠ざける必要はなくなるのだから。
勢いよく玄関扉を開けた。リビングには明かりが点いている。でも躊躇なく乗り込んだ。
「うおぁ!!」と低く唸るような悲鳴を漏らした男は、僕が知る父よりも随分、小さかった。
「なんで母さんが死んだことを黙ってた!?」
そんな貧弱な姿を見て、余計に、僕の中でどうしようもない怒りが湧き上がってくる。
「なんでそれを……」
驚嘆する一方どこか気まずそうな表情を浮かべるのを見て、僕はたまらず掴みかかった。
「言えよ、薄情者!!」
だけれどそうして顔を近づけて睨んでやると、丸くなっていた目がキッと吊り上がった。
「真実を聞いて、お前が耐えられたかよ!!」
不意をつかれて掴み返される。でも、その力は弱く、拳も震えていた。
「言い訳すんな! 逃げんなよ!」
と、僕がそこまで言った時だった。
「……逃げたのは、お前も一緒だろ」
「は……? な、何言って……」
突然にトーンを落として言われた一言に、僕はなぜか酷く怯んだ。理由はわからない。
一方で、父さんは僕から手を離し、その手を自身の目元を覆うように当てて話し始めた。
「病気が見つかり、余命一ヶ月との宣告通りに母さんは死んだ。母さんは死をお前に伝えることを望む一方で、お前はまだ幼かった。そして俺も、お前の悲しむ顔を母さんには見せたくなかった。だから、母さんが死んだ後、俺から真実を伝えると、そう約束した」
「でも事実、今日まで話さなかった!!」
「お前がっ!! お前は……当時、母さんに会いに行く時だけ楽しそうにしていた。母さんと別れる夕方にはいつも泣き喚いた。でもある時からお前は母さんに会いたがらなくなった。いつしか会っても顔さえ見なくなった」
父さんは一拍置いてから、こう言った。
「母さんが死ぬ。それを、お前も幼いながらに察していたんだ」
「そ、そんなの勝手な想像だろ……」
しかし、そう言った僕の声は、なぜか自然と尻すぼみになった。
「想像じゃない。なぜならお前は、母さんが死ぬ直前に病室を抜け出した。それ自体は勘に近い何かで、ここに居るのが嫌だと察したんだろう——」
父さんはそこまで言って一瞬だけ沈黙を挟んだ後に「でも、その後だ」と続けた。
「お前はその後、近くの病室の女の子に、前日に母さんから読み聞かされた夢十夜を読み聞かせていた。その行為にはお前なりの理由があったはずだ」
その時、僕の中でカチャリと何かが音を立てて嵌った気がした。直前の違和感が一気に僕を包み込み、あの日の記憶を呼び起こした。
病室で夢十夜を読み終えた母さんが言った。
『澄人。少しだけでいい。こっちを向いて』
言われて僕は母さんに向いた。そうだ。僕は日に日に窶れ、機器を取り付けられていく母さんの顔を見るのが怖かった。母さんが母さんじゃなくなって行くのが怖かったんだ。
僕は、この後に続く母さんの言葉を思い出した。そして今やっとわかった。母さんが僕に夢十夜を読み聞かせたのは、言葉にしてはいけない。でもそれでも伝えたかった、『忘れないで』という思いからだったのだと。
『お母さんは、澄人が大好きだよ』
母さんが悲しく、でも優しく温かく笑う。
僕はそうして十年ぶりに母さんの顔を思い出す。何も怖くない。僕だって大好きだった。
その上で、僕が七瀬に夢十夜を読み聞かせた理由がわかった気がする。
それは僕が母さんの死という事実を否定する、忘れるための無意識な抵抗から生まれた。
僕は一人で抱えきれなかった。かと言って父さんにそれを言えば母さんの死が確定する。
でも、忘れるには夢十夜が邪魔をした。つまり、その足掻きが、見知らぬ七瀬に夢十夜を読み聞かせるという結果を招いたのだった。
そう。僕は夢十夜を七瀬に押しつけたんだ……。
回想が終わると、父さんの声が聞こえた。
「真実を伝える事は、お前の傷口を抉るだけに思えた。だから明言できなかったんだ……」
全てを思い出して、理解した。でも、それでも僕は、惨めにも、続けて言った。
「じゃあ、知らない女が家にいたのは!?」「今日まで、ずっと引きこもってきたのは!?」
感情が——怒りが、悲しみが、枯れない。
でもその時、意図せぬ声が聞こえた。
「吉良。もうやめとけ。そこまでだよ」
振り向くと、玄関になぜか北島が居た。
「話が母親から逸れただろ。じゃあもうお前は話を飲み込めてんだよ。あとは甘えだ」
なぜ君にそんなことを言われなくてはならないのか。と、思うけれど、感情とは裏腹に僕の手の力は抜けて、父さんを解放していた。
「分かってんだろ。親父さんも苦しんだ。お前の分まで背負って苦しんだんだ」
だからなぜ北島がそれを言うのかと思うけれど、思ってしまうのは言われていることが図星であるからだとも理解できてしまった。
でも、それでも最後にこれだけ聞きたい。
「……最近、家には誰が来てるの? 今日も来たから、父さんはリビングに居るんだろ?」
僕が言うと、父さんは無言のまま、年季の入ったノートパソコンを持ってきた。
「半年前から、お前の進路を気にして、定期的にお話に来てくださっていたんだ。そして今日、これをお前に見せるようにとも言われていた。けど、こっちが取り込んでる間に終わったみたいだ……」
父さんが言って見つめる画面には、動画サイトのライブ映像が流れていて、そこには顔面から血を流した奥山がリングに立っていた。
『俺は今日、長年、夢見たプロボクサーを諦めます。そう、引退試合で見事にボロ負け。でも、俺はこのボロボロの姿を誇って見せたい奴がいる』
画面の中の奥山が、サムズアップをする。
『頑張るってのは結果を夢見るが、叶わずとも実る事が全てじゃない。頑張ったってのは未来の自分への証明であり、心の居場所だ』
そして、奥山はその手で、僕を指差した。
『澄人。頑張っている自分に誇りを持てよ。そうして過去となった自分は、きっと未来のお前を裏切らないぞ』
画面の中の奥山が言い終わった。対して僕が何も言えずにいると、徐に父さんが言った。
「お前は、いい人たちに恵まれたな」
言って見つめる先には、北島が居る。僕もそちらへ目線をやると、北島は僕に一言、「面貸せよ」とだけ言って外へ歩いて行った。
父さんとの話がまだ終わってない。けれど、
「おいっ、待てよ」僕をつけてきた理由も問いたいから、その後を追った。
玄関の外にはバイクが停まっていた。それに北島は跨り、僕も後ろへ乗るように促した。
すると後ろから、父さんの声が聞こえた。
「こいつはね、俺の倅なんですよ。だからよろしくしてやって下さい」
言われた北島は「はい」とだけ返事をしてエンジンをかけた。それに急かされ、僕はまだ良くもわからぬままバイクに跨った。
信号で停まった時、北島が口を開いた。
「母親のことは、納得いったのかよ」
「君がそれを言う?」と言いかけて、でも、あのまま言い合いをして何かが変わるはずもなかっただろう。彼が邪魔をして茶を濁したからこそ、今はそう思えるかもしれない。
「時間をかけて、消化していくよ」
「そうか」
ただ、それでも彼は人の家庭の事情に、文字通り土足で踏み入った。
「君はなぜ七瀬のために不良を演じてるの?」これはそのお返しだ。
信号が青に変わり、バイクが走り出す。排気が安定すると、北島はようやく口を開いた。
「小春に病気が見つかった当時、俺は命が助かるならと、頑なに手術を受けるよう小春を説得した。でもそれは肉体だけの話。だから、その言葉は小春には真逆の意味に聞こえた」
エンジンが、少し唸った。
「幼馴染に、死んだ方がいいと諭すなんて、最低な奴だよ」
「七瀬はそんな風には思ってないよ」
「そうだとしても、それは代わりが現れたから。そいつが小春の命を肯定したからだ」
言いながら、北島は前から僕を横目で見て、それからまた前に向き直ると、続けた。
「だからこれは罪滅ぼしであり、足掻きであり……甘えだ。小春に変な男を寄せ付けないように守れる腕っぷしと、何かあった時に病院へ連れて行けるバイク。それだけ持って、俺は結局、何もしなかったし、できなかった」
「だけど君は今日、僕に小説を読ませた。病院から僕を家までつけたじゃないか」
「ただ時間に押された。取れる選択肢がもう他になかった。それだけだ」
北島の返答は淀みない。僕の言う程度の慰めは、自分の中で幾度も噛み殺したのだろう。だから、僕は七瀬の言葉に置き換えて言った。
「僕が真面目なら、君は生真面目なんだね」
「一緒にすんな。俺はお前とだけは馴れ合いたくねぇ」
まぁ、そう言われるだろうとは思っていた。
バイクは国道を途中で折り返し、行き道をそのまま逆に辿った。そうして少しすると、北島が「ただ——」と、口を開いた。
「一つだけお前に礼を言う。小春を、今日まで七瀬小春を生かしてくれて、ありがとう」
北島は言うや否や、アクセルを強く捻った。僕の返答を聞くつもりはないらしい。
それで僕は思った。邪推だろうけど、でも、彼は七瀬の為を想ったこのバイクに、きっと七瀬を乗せたくはなかったんだ。単気筒。一つの鼓動。一つの命。それは七瀬の非常時が無いことを願い、また七瀬がずっと七瀬小春で居て欲しいという暗示であったのだろう。
無自覚であったとしても、尚更だ。このバイクは北島に似て、とても優しく走った。
だから、僕は続けて叫んだ。
「君は以前に重みと言ったけれど、君はやっぱり七瀬が好きで、そのために足掻いてきたんだ。それの何がいけないの? 君の言う重み、自責こそ、君が七瀬の為を想う証だろ」
返答は、少し遅れてから聞こえた。
「お前にだけは言われたくねぇよ」
北島は実は、ずっと七瀬に手術を受けて欲しかったんだ。その道を望んでいた。七瀬が生きる道を、一人でずっと模索していた。僕はそれに気づいた。だから無視はできない。
バイクは路地を抜け、また僕の家の前へと帰してくれた。
北島がキーを捻ってエンジンを切った時に、僕は言った。
これは蛇足であり、最後の確認だった。
「もし七瀬が手術を受けて、成功して、七瀬の記憶がそのままだったら、君はどうする?」
意外にも、北島は素直に答えた。
「お前を一発ぶん殴って、それから——」そこまで言って、一度口を継ぐんだ北島は、
「いや。とにかく、この頭を黒く染めるかな」と、そう言い直した。彼らしい返答だった。
けれど、北島は「まぁ、そんな話はないけどな」と言った。もっと彼らしい返答だった。
だから僕は、決心して言った。
「僕は七瀬を選ぶよ」
小説を読んだ時から、僕はそう決めていた。
「病院に来た時点で、わかってる」
北島はそう言い、それからまた続けて、彼は彼らしく最後まで淡々と言った。
「七瀬小春を、お前の傍で死なせてやってくれ」
北島は七瀬を生かすことをずっと望んできた。しかしその一方で実際には自責の念から、七瀬の意志を尊重し行動してきた。その苦しみの全てを背負い、噛み殺して、彼は今そう言った。
僕は迷わず頷いた。
七瀬を救う。今そのために取れる選択肢は、もうそれしかない。
七瀬の思惑を捻じ曲げても、最後のシナリオからは、もう逃げられない。
七瀬は死ぬ。物語はもうそこまで進んでしまった。
翌日の早朝。僕は七瀬の病室へやって来た。
「七瀬……?」
しかし、そこに七瀬の姿はなかった。
僕はすぐさま七瀬へと電話をかけていた。通話中にはなった。でも返事がない。
「君、今どこに居るの?」
相変わらず応答がない。僕は嫌な想像に急かされ、叫ぶように言った。
「君の小説を読んで、全て知った。思い出した。その上で僕は、君と話がしたいんだ!!」
怖いくらいの静寂。向こうにはもう、七瀬がいないかのように、思えてしまう。
「七瀬……」と、僕は何かに願うように、泣きつくように、小さくそう漏らした。
すると、やっと七瀬の声が聞こえてきた。
「真珠って、どうやってできるか知ってる?」
「……なんの話? そんなこと今は——」
「まず異物が貝の体を覆う膜を破って入り込む。すると膜がその異物を包み込んで、周りに真珠袋っていう空間を作る。その袋の中では貝殻を作るものと同じ成分が滲み出るから、異物を核として成分が固まり、層が重なっていき、そしていつか輝く真珠が出来上がる」
「いいから普通に会話をさせてくれ!!」
今までで一番強く、七瀬の雑学を拒絶した。今、何の脈絡もない話など聞いてられない。
「だから吉良くん。初めは怖いかもしれない。でも付き合っていくうちに、いつかその人達と居る空間が自分を支える居場所になっていて、気づけば大切な人になっている。友達って、そういうものだよ。そして私は、吉良くんにとっての、その最初の輝く一人であったなら、それでいい。それで十分なんだ」
雑学に脈絡はあった。でも、そんな悲しい納得をさせようとしないでほしい。
「いつでも自分の持つ輝きを忘れないでね。その輝きが、先を歩くための光になるから」
七瀬は僕が病院で話を聞いていたことを知っている。だから諭すような口調で僕を遠ざけて、それで終わりにしようとしている。
たとえそうであっても、そんなありきたりな、世に溢れていそうな言葉で終わらせていいのかよ。そもそも人が死ぬ恋愛小説は嫌いじゃなかったのかよ。いいや、そうじゃない。
なに勝手に終わらせようとしてるんだよ!!
「これは、僕と君の物語だろ!?」
君が勝手に終わらせようとするのなら、僕はそれに抗う。もう僕は手段を選ばない。
僕らには『勝負』がある。なら、その魔法の裏をかいて、僕は七瀬の思惑を破壊する。
そのために必要な言葉は——
「僕は、君が大好きだ!!」
はち切れそうな心からの、本音を叫んだ。そして僕は、間髪入れずに続ける。
「僕が君を好いていること。その事実は勝負において、君が暴くはずの、僕が委員をやりたくない理由に繋がる。つまりこの瞬間、僕は君の回答に先回りして答えを提示した。君はもう勝負の魔法を使い、僕を強制させることはできなくなった。だから、もう誰も僕を止められないんだ」
七瀬は何も言わない。ならさらに僕が言う。
「勝負は絶対だ。指切りもした。なら後は、僕の勝手だ。絶対に君を見つけ出してやる」
そこまで言うと、やっと七瀬が口を開いた。
「悔しいな。こんな形で吉良くんにしてやられるとは思わなかった……」
声が潤んでいる。安心した。まだ彼女に取り付く島はある。そして彼女は続けて言う。
「……でも、そうだね。指切り。も、したもんね? その意味を最後まできっちり理解した上でそう言ってるんなら、仕方ないかもね」
七瀬は確かにそう言った。
「待っててよ。絶対に見つけ出すから」
僕がそう言うと、七瀬は電話を切った。
すると、直後に北島からの着信が来た。
「小春が病院から居なくなったって? どこにいるんだよ!」と、言われて僕は気づく。
「どこにいるか、考えてなかった……」
「は? 取り敢えず、会話の内容は!?」
僕は北島に通話での内容を話しながら、自分の焦りと浅はかさに絶望した。だけれど、活路は北島が見出してくれた。
「小春の最後の甘えが見えたな。あいつもまだ、本心ではお前に会いたんだよ」
「……つまり?」
「小春は真珠の話をした。それでわかんねぇのか? お前、旅行委員だろうが」
「——真珠岬!?」
「とにかく病院で待ってろ。阿古屋ならバイクが一番早く着く。それと最後に確認だ。小春は他に匂わすようなこと言ってねぇな?」
「うん」と、返答しようとしたけれど、僕は眠っていた違和感に今更、気づいてしまう。それは北島が今、『最後』という言葉を使ったことも影響しているかもしれない。
「ねぇ……指切り拳万って、一般的に歌われる歌詞の後に、まだ続きがあるの知ってる?」
「こんな時に何の話だよ。指切り拳万だろ? あの歌は指切ったの後に『死んだらごめん』って歌うんだよ。確か、昔に小春から聞いた」
腰が抜けた。全身の肌が粟立った。
「って、まさか小春がそう言ったのか!? あいつ。この後に及んで、なぜ一人で……」
怖くて返事ができない。とにかく一呼吸する間も勿体無いくらいの焦燥感に襲われる。
「とにかくすぐに向かう。それと、なぜ小春がまだお前を遠ざけるのか、理由はわかるな? 変な気は絶対に起こすなよ」
「わかってる」と返答し北島を待つ。過ぎる時間にこれほど恐怖したことは始めてだった。
僕らを乗せたバイクがとうとう山道へと差し掛かる。急勾配にエンジンが悲鳴を上げた。
「さぁ、最後の一仕事だ」
言って北島がさらにアクセルを開ける。僕らはそのままハイスピードで峠を駆けた。
すると、後ろからサイレンが聞こえ始める。
『前のバイク、スピード出し過ぎ、止まれ!!』
「ド田舎でも、お巡りは細けぇのな!」
言ってさらに北島がスピードを上げた。
景色が一瞬で流れ去る。視界も狭まり、次第に一点に。僕らが見つめる先も一点、真珠岬。後少しだ。もう少し、もうこの先——、
刹那。視界が歪み、次いで投げ飛ばされた。
「走れ澄人!! 真珠岬はこの先だ!!」
その声でハッとした。振り返るとバイクと北島が倒れている。その後ろから警官が来る。すると北島は立って警官に馬乗りになった。
「俺が足止めしてるうちに早く!」
僕は「ありがとう」と心からそう言って、この道の先、真珠岬へと駆けた。