波打ち際にちょうど良い岩を見つけた。ここに来るまでに自販機で買った、僕の冷たい缶コーヒーと、七瀬の冷たい缶ココアを先に岩へ置いてから、七瀬と隣同士で岩へ腰かけた。ちなみに七瀬がカフェモカにしなかったのは、単にラインナップに無かっただけだ。
 岩の座面にあたる部分が少し高い。そのせいか七瀬は足は少し地面から浮いていた。
 夕日から少し目を逸らした位置に、海と空へ向かって伸びる縣崖があった。あれが正真正銘の真珠岬だと一目でわかった。
「結局、真珠岬には行けなかったね」
 僕が言うと、七瀬が足をぷらぷらとさせながら答える。
「綺麗な景色は今、見れてるから良いよ。それに、あそこは終着点だから。まだ辿り着いちゃいけないの」
「終着点? 何の暗喩?」
「そうだねぇ。ものが……いや、今日の言葉を使うなら、旅の終着点だね」
「つまり、この旅行の終着点って意味?」
「広義ではそうだね」
「広義では……?」
「そう。私さ、今日のこの旅行に意味を探し出すって話をしてたよね」
 そんなこと言っていたような気もする。正直、七瀬との数多ある適当な会話に埋もれて忘れていたけれど、とりあえず相槌をうっておく。
 七瀬はそのまま続けた。
「ひとまず今日、私にとっての意味は見つかったんだよね」
 言って、七瀬が跳ねるようにして上半身から僕に向く。
「今日一日とっても楽しかった。阿古屋もすっごくいい町で、ここでならきっと素敵な修学旅行ができると思った!」
 そのまま拳を握り「だから」と続ける。
「もっと頑張ろう。絶対に成功させてやろう。皆を楽し死にさせてやるんだ! ってくらいの気持ちになれた」
 その拳を、真珠岬へ向ける。
「今日は、ここから意気込んだ」
 拳を開き、今度は真珠岬に指をさす。
「そして最後はあそこ。真珠岬で完全勝利する。今日はまだ辿り着けなかったあの場所でね」
 今日までの七瀬を見ていれば、その言葉が嘘でないことがわかる。今日一日を過ごしてみて、彼女がさらにそう意気込めたのなら、下見の甲斐は十分にあったと思った。
 七瀬がまた僕に向いた。
「吉良くんは今日、どうだった?」
 どうだった? という回答範囲の広い質問に対し、僕はとにかく正直に今日一日に対する感想を一言で述べた。
「大変だったよ。君に振り回されて。でも楽しかった」
 七瀬は「おぉぉ!」と感嘆して、頷きながら拍手をした。
 しかしすぐにその拍手を止めて「でもぉ」と続け、
「そこは素直に私のおかげでって言いなよ!」と、肩で僕を押してくる。
「ほら言ってみな! 七瀬のおかげだよって!」
 未だ嬉々とした表情で捲し立てられる。面倒だから、いっそ望み通り言ってやろうかと少し悩んでみて、今日を思い返し、逆に確信した。
「いいや、『おかげで』とはお世辞でも言えない。『君のせいで』までが譲歩の限界かな」
「全くもって譲ってないじゃ〜ん!」
 言いながら七瀬は宙を仰ぎ、そのまま後ろに手を突いて反り返った。
 しかしそのまま「まぁでも」と、また口を開く。
「楽しかったって言葉を引き出せたのは収穫だね」
 また足をぶらぶらとさせ始めると、こう続けた。
「今なら、今朝、私が言った言葉の意味も理解して貰えるんじゃないかな」
 今朝の言葉……生憎それも思い当たる節がなかった。
「どんな言葉だったっけ?」
「旅行は迎えに行くもの」
 ゆっくりと、七瀬は言った。
「今日一日、色んな所に行ったでしょ? 計画して、はたまた直感に従って、選択しながらここまで来たんだよ。色んな体験、出会い、風景を自分から迎えに行ったんだ」
 言って、七瀬が徐に両手を前に翳す。
「けど、旅には必ず終わりがある。いつかは旅路を引き返す。そんな時には確かに、後ろ髪を引かれる。でも、それでも選択して迎えに行った経験や思い出が逃げていくことはない」
 両手の人差し指と親指で四角い枠を作って、その中を覗き込む。その枠を夕日に、空に、海に、木に、あらゆるところに向け、覗き込みながら言う。
「それは私のためだけの私の記憶じゃない。今日出会った人や、その時流れていた時間や、空間や世界が記録して、何より一緒に過ごした吉良くんと共有してる。きっとそこかしこに、私達の存在の残り香がある」
 そして砂浜に残る僕らの足跡の後に、今度は僕を覗き込んだ。
「人生も旅によく例えられる。選んで進む。そしたら戻れないけど寄り添ってくれる。それでも寂しければまた進む。そうやってずっと迎えに行くんだよ。自分では逃げたつもりでも、いかなる選択もどこかに、誰かに、何かに繋がる」
 枠を解いた七瀬が、僕と目を合わせる。
「今の吉良くんは、それをうざったいと思うはず。でも、これだけは言える。吉良くんはいつだって一人じゃないよ。どんな未来を選び取って、どこに行っても。だから、私と過ごした今日という一日を、いつか温かい思い出だと思えたときには、きっと抱きしめてね」
 正直、七瀬の語る理論には、色々とツッコミどころがあると思った。けれど、どれも七瀬らしく眩しいくらいに前向きな言葉だった。聞いていて胃もたれがしそうだった。けれど胃に飲み下したということは、僕はちゃっかりその言葉を飲み込んでいるのだということを自覚した。
「なんか大袈裟なこと言っちゃってる。痛いやつみたいだ」
 七瀬が耳を赤くしてはにかんだ。
 何を今更と思ったけれど、口には出さなかった。
 七瀬がそこでココアのプルタブを開けた。
 僕も習ってコーヒーのプルタブに指をかけた。
 二回、缶を開栓する音が耳に届いた。そこからは少し、お互いに黙ったまま夕陽を眺めた。
 お互いに三口くらい飲んで、缶が半分の重さになったくらいの時、七瀬が唐突に僕の手からコーヒーを取り上げ、それを眺めた。
 デザインに特別さはない。僕は何度も知らずのうちに口にしているはずの、青色でどこかの山脈が描かれているものだ。
 七瀬が呟いた。
「ブルーマウンテンか」
「何、それなら飲めるの?」
「いや、私はブルーノ•マーズだよ」
「え? どういうこと?」
「あぁ、ブルーノ•マーズ知らないのね。なんかボケを拾って貰えない感じ初めてで、ちょっとダメージが……」
「もっと大衆にわかりやすいネタにすべきだったね」
「うぅぅ」と唸る七瀬が「むしろ大衆に有名なアーティストなんだけど」と言う。
「生憎、僕は音楽に疎いんだ」
「それじゃあ、自己紹介で趣味を発表する時になんて言うの?」
「ありませんって言うよ」
「えぇ、なんか悲しいじゃん」
「むしろ皆が皆、当たり障りなく『音楽を聞くこと』と、とりあえず答えておくことの方が奇妙だと思うけれど」
 そう言うと、七瀬が首を傾げる。
「え? 皆、音楽が好きだからそう答えてるだけでしょ?」
 こうも価値観の違いで認識が変わるのかと思った。何だか僕の卑屈さが浮き彫りにされたみたいで気に食わなかったから、少し意地悪をすることにした。
「そんな音楽好きの七瀬は、ブルーノ•マーズのどんなところが好きなの?」
「あ、いや、実は私も最近、一曲だけ知って、ハマってるだけでさ『Count On Me』って言うんだけど」
「あれ? 浅はかなんじゃない?」
「でも、すっごい良い歌なんだよ!」
 身を乗り出してまで言う七瀬。今度は意地悪じゃなくて、単純に彼女がそこまで言う歌を聞いてみたくなった。
「じゃあ、どんな歌なの? 歌える?」
 何の気なしにそう言った。七瀬ならサラッと歌い出しそうだったから。
 けれど、七瀬はたじろぐように身を引いた。意外だった。
「い、嫌ならいいけど」
 僕がそう言うと一転、緊張した顔をして、鼻息を鳴らした。別に鼓舞したつもりはないのだけれど。
 七瀬が一つ咳払いをする。そして一度深く呼吸した後、歌い始めた。英語の歌詞だった。
 歌い出しは恥ずかしさからか、声が細くて小さかった。それでも、綺麗で透き通るような声だった。
 七瀬が耳を真っ赤にして、少し潤んだ目で僕をチラッと見る。僕が真面目な顔で頷いて返すと、また前を向いて少し安定した声で歌い出した。
 英語の発音は多分、良くはなさそうだった。けれど、得意がった感じがなくて、とても良い意味で、七瀬小春が口ずさむメロディになっていた。
 一番を歌い切った後、僕は正直に感想を述べた。
「いい歌だね」
 七瀬はまだ赤みを残した顔のまま、強がるように顔を上げて、「そうでしょ」と言った。
「歌詞はどんな意味なの?」
「広義では友情の歌だよ。僕が駆けつけるからって」
「狭義では?」
「私が居るよって吉良くんに歌ってあげたの」
「……へぇ、そうですか」
 いつもいつも、そういう風にするから、締まるところが締まらないのだと思うけれど、何だかそれも七瀬らしくて、七瀬小春のプチコンサートとしてはお馴染みの終幕だった。
 七瀬が僕から取り上げたコーヒーを、自分のココアと共に並べて眺めながら言った。
「浜辺で洋楽を口ずさみ、ここでコーヒーでも飲めたら、格好がつくんだけどね」
 そして、徐にコーヒーに無断で口をつけた。
 一度喉が上下して、口を離すと、下唇を裏返すようにして言った。
「私は大人に成れないや」
 言った後、七瀬は緩く笑った顔で僕にココアを渡してきた。僕もココアを飲んだ。
「甘い。舌がシガシガする」
「大人だねぇ〜。でも、いつか吉良くんにココアを美味しいと言わせたいよ」
「別に不味くはないけどね。それよりも先に、君がコーヒーを飲めるようにならないと」
「コーヒーを飲めるようになるのは『成長』ココアを飲めるようになるのは『気付き』だよ。凝り固まった認識を改めないと」
「それはどちらにだって言えるだろ」
 僕の反論に対し、七瀬は首を振った。
「私は今日、先に一つの認識を改めたから。気付きを得た」
「何だよ。どんな気付き?」
 七瀬は、まだ手の中に握っているコーヒーを見つめながら言った。
「ヒロインが死んでもいい小説もありだなって思ったの」
 そして残りのコーヒーを一口であおった。
「生き方を旅と言うなら、死に方も旅。終わり方にも迎えの行き方があるんだなってことに気付いた」
 そう言うのなら、なんだかさっき七瀬が言った言葉と、色々と矛盾する所がある気がした。
 それでも、勝手にそう心変わりがしただけなら知ったこっちゃない。ただ一つ、危機感を覚えるのは——
「劇の台本も変わるの?」今更劇の内容を変えられては困る。
 焦るように言った僕に対し、七瀬は何食わぬ顔で僕を見つめ、ふふんと笑った。
「安心して。内容は変えないよ。あくまで私の気付きってだけ。むしろ文化祭は私の希望であって欲しいから。やっぱりヒロインには死んでほしくないし、ヒロインだって死にたくないよ」
 回りくどい言い方だっただけに、解釈に時間がかかった。ようやく理解して、安堵した。
「……はぁ、びっくりさせるようなこと言わないでよ」
「ごめん、ごめん」
 思ったより僕が真面目に反応したからだろう。七瀬があやすように僕の肩を叩いて謝った。
 そして、そのまま七瀬は今度こう言った。
「必ず成功させようぜ。な、ブラザー」
 小さい拳が僕に伸ばされる。その拳の背景に、七瀬のTシャツが。つまり僕らのお揃いのTシャツが映った。
 呆れた。またため息が出そうだったけれど、押さえ込む。ここは拳を合わせておくのが賢明だった。
 どのみち、どうせまた振り回されるであろう未来を予想しながら、僕は言った。
「まぁ、やるからには成功を目指そう」
 言ってから、締まらない返答だと言われそうだと思った。けれど七瀬は満面の笑みで拳を衝突させた。
「「痛っ」」
 二人同時に言った。七瀬の力加減が相変わらずバカだった。
 二人で拳を摩りながら、七瀬は伺うように。僕は睨むように、お互いを見つめた。
 そうして二人それぞれの神妙な顔は、もはやお約束のようにほぐれた。
 ひとしきり笑った後、また雑談をした。そして程なくして、夕陽は沈んだ。

 帰りは疲れもあって寄り道はしなかった。むしろ帰りの電車の記憶はほとんどない。
 ふと目が覚めて、隣を見ると七瀬が寝息を立てている。そんな確認を三回くらいしたことしか覚えていない。
 夕食は駅前の牛丼屋で腹を満たした。そこでようやくお互い目が覚めたらしい。
「「これはこれでいいよね」」
 そう、どちらともなく言って、あっというまに平らげた。
 最後はまた、いつもの交差点で別れた。
 七瀬が例のあこやん缶バッチを翳した。
「じゃあ、またね〜」
 再度見ても、僕はその奇妙なキャラクターを好きにはなれなかった。
「じゃあ」
 それだけを言って歩き出すと、七瀬が「もぉ〜!」と声を上げていた。
 本当、仕方ないなと思った。そう。もうリュックに付けられてしまっているのなら、仕方がなかった。
 わざと体を左右に揺らした。ちゃんと缶バッチのついた左側を軸にして。
 そしたら、後ろから七瀬がワントーン上がった声で言った。
「また明日ね!」
 もう見えるかどうかわからないけれど、大袈裟に頷いて答えておいた。
 家に帰ると九時を回っていた。身支度を済ませたら、自然と布団に潜っていた。
 しばらく今日の記憶が鮮明に頭の中を駆け回っていた。日に焼けた体も妙に熱を帯びていたから、ほぼ無意識でタオルケットを放った。寝付くには大変な夜だなと思った。
 けれど、それがその日最後の記憶。いつの間にか、でも結構早々に、僕は眠りに落ちていた。