前後左右、どこを見ても人ばかりで、この中から誰がどこにいるかを見つけるのはどんなかくれんぼ絵本よりも難しいと思っていた。
ザワザワしていて、声すら通らないこの中で。
でも彼女だけは違ったんだ。
まるで透視メガネをかけているみたいに、まるで彼女にだけスポットライトが当たっているかのように、一瞬にしてどこにいるのかが分かる。
そしてまっすぐ彼女に向かって手を伸ばせば、この一瞬は僕たち二人しかいない空間になったかと錯覚してしまうほど、簡単に手を取れる。
名前を呼んでも、対静かな空間で電話をしているのかと思うほど、一度も曲がることなく一直線に彼女の元へと届く。
人生初めての恋はわからない事だらけで、きっと何度も傷つけてしまうようなことをしてきたと思う。
でも今日、どうしても伝えたいことがある。
大事な指輪が入ったシックで頑丈な、黒くて小さい紙袋を片手に、彼女の待つ家へと急いだ。
如月紗綾。今日から十七歳。
朝起きて一人で暮らすには広い家の扉を開けては閉めていく。やっぱりお母さんは、帰ってきていなかった。
今年も、誕生日は一人だ。
賃貸マンション桜町西ヒルズの六〇二号室。2DK。この世に生まれてからずっと住み続けている我が家。
実質一人暮らし。母子家庭の『母』は、彼氏の家に入り浸っていて帰ってくるのは月に一回あるかないか。きっと私の誕生日なんて、もう覚えていない。
早起きしてやることは、洗濯にお弁当作り、時間があったら軽く掃除機をかけて、残りの時間でヘアメイク。
私はきっと、同級生の中で一番主婦力がある。
やることを全て終わらせて制服に着替えるとき、ボタンがめんどくさいブラウスはスカートで隠れてしまう下二つくらいはいつも留めない。きちんとする日は、身なり検査くらいだ。
紺色のスカートを履いて開きっぱなしのボタンが見えていないかを確認する。
大丈夫そうだ。
男子よりも短めのピンク色のネクタイを締めて、八時ピッタリに家を出る。
四月十九日。気温は涼しめ。ピンクで溢れていた桜の木は、もうすっかり緑色に変わっていた。
みんながローファーで地面をたたく中、私は安売りされていた旧作の薄ピンクの運動靴。
可愛いけど洗うときにめんどくさい、あれ。
「紗綾、おはよう」
十五分ほど歩くと、幼馴染の家がある。
坂入奏真。男子。
「おはよー」
待ち合わせは八時十五分。奏真の家の玄関前。
彼は去年まで同じマンションの六〇三号室に住んでいて、お隣さんだった。
一戸建て注文住宅に住み始めて、はや一年。
幼馴染というこの関係は、変わることなく続いている。
「母さんがうちで夜ご飯食べないかって言ってたよ」
「え!いいの?」
奏真ママは私のお母さんとは違って優しい。優しくて、息子である奏真を大切にしているのがよくわかる。
「うん。おばさん、今日は帰ってきてた?」
去年の誕生日と同じことを聞かれる。
私の答えは分かっていたから、彼も奏真ママも私のことを食事に誘ってくれている。
「んー、多分私の事なんて、頭の片隅にもないよ」
もう慣れたことだから、となんでもない会話をするときと同じように、笑って返した。
「じゃー行くってメールしとく」
奏真もいつもみたいに普通にしてくれる。
それがすごく心地よくて、救い。可哀想な女の子じゃなくて、同じように生きている一人の人として見てもらえているような気がするから。
「帰りさ、ちょっとだけ寄り道してもいい?」
「いいよ。奏真が寄り道なんて珍しいね」
「ちょっと欲しいものがあって」
木曜日。職員会議があるから、弓道部もサッカー部もお休みの日。
久しぶりに奏真と学校帰りに寄り道ができる、少し特別な誕生日。
「今日一日、これだけで乗り切れそう」
朝から夜まで、奏真と一緒。
十四年間片思いしている好きな人と放課後デート。
無意識にスキップをしてしまうほど、重いカバンの重量なんて忘れてしまうほど、今日の私は気分がいい。
「オレも」
ははっ、と幼い頃から変わらない笑い方をして、もう人が集まりかけている教室に並んで入った。

大型ショッピングモール。出入りする人の中には、同じ制服に身を包んだ人達が少しだけいた。
「何買うの?」
「イヤホン。この前ミスってハサミで切った。左耳が真っ二つ」
そういえば、今日は昼休みに昼寝をするとき、イヤホンをつけていなかった。いつもは周りが騒がしくて眠れないからとイヤホンをつけてシャットアウトするのに、今日は珍しいなと思っていた。こういうことだったのか。
「買ったげるよ」
彼にとっては必需品のイヤホン。
プレゼントできたらどれだけ喜んでくれるんだろう。……いや、それは自己満足だな。
「じゃあ誕生日まで我慢しないと」
「遠っ」
ケラケラと笑う彼はCDショップに、私は隣の雑貨屋に。少しの間、別行動。
ハンカチ、マグカップ、アクセサリー。
キラキラしたものたちが私を囲む。
「本日お誕生日の方は半額キャンペーンやってまーす」
綺麗な店員さんの声に耳がピクっと反応する。
貼り紙を見ると、どうやらこのお店の一号店の誕生がこの日らしい。なんだか今日は、ついている。
いつもは買わないような、自分用のフタ付きマグカップ。フタにはクマの耳。可愛い。
誘惑と半額に負けてカゴに入れて、最近売り始めたばかりのサブレアソートも一箱。
動物型が特徴の、手のひらサイズのサブレ。
プレーン、ココア、抹茶、ラズベリー、きな粉と味も豊富。
これはお招きされたから、奏真ママへの手土産。甘いものと可愛いものが好きな奏真ママは、きっと喜んでくれる。
レジでお会計をするとき、学生証を出した。
少し大人になったみたいで、なんだかくすぐったかった。
パステルカラーの花柄包装紙で綺麗にラッピングをしてもらって、お渡し用の特別感のある紙袋にサブレの箱は入れてもらった。
マグカップは、教科書が詰まったリュックの中に隙間を作って押し込んだ。
背負ったとき、確実に重みを感じた。
「お、なんか買ってる」
「いい買い物した。奏真は欲しいの買えた?」
ちょうどお店を出たとき、彼もCDショップからでてきた。こういうときはいつも同じようなタイミングになる。
同じ歩幅で人生を歩んでいる、みたいな、付き合って五年は経ったカップルみたいな。
それほど、お互いのことはよく分かっているつもり。
話し方とかで、ほとんどのことは分かっているつもりだったのに。
同じ階に入っている店舗に入るや否や、目的のブースまで言葉もなく歩く。
「どっちにつく?」
帰る前に寄った本屋。どっちにつく?というのは、現代社会で行うグループ討論の議題の話。
『わかりやすいLGBTのこと』
オレンジ色の文字で書かれたタイトルの本を二人で立ち読みしながら、明日までに決めないといけない自分の立場を考える。
議題は『同性愛者同士の結婚はありかなしか』。
「私は『あり』につくかな」
「なんで?」
驚いた目つきで、食い気味に聞いてくる。
どうやら奏真は『なし』側につくみたいだ。
「恋愛も結婚も、異性とじゃないといけないなんて思ってないし、異性でも同性でも一生連れ添って生きていきたい相手ができるって素敵だと思う。それに性別なんて関係ないでしょ?」
これは本を読む前から決まっていた、自分の率直な意見。ただ、なにかに関係するわけでもない学校の討論会だから、人前で発表するのが苦手な私は発表できない人ばかりだったら『なし』に移動するつもり。
「オレも『あり』につくかな」
「えっ?うそ、なんで?」
私の予想は間違っていた。
でもあの話し方は、絶対『なし』だと思ったんだけどなぁ。久しぶりに外した。
「なんでだと思う?」
「私の熱弁に惹かれたとか?」
ふざけて言ってみるけど、どうやら彼なりの考えがあるらしい。空気を含んだ笑い方をするときは、だいたい私のおふざけに気付いて、図星じゃなかったとき。
「ううん。色んな夫婦の形があるっていいなって思ったから。同性愛でも普通に『いい夫婦だね』って言い合える世界になってほしいからさ」
ペラ、と一枚ページをめくる手を眺めながら、想像してみる。
女性同士の夫婦、男性同士の夫婦、男女の夫婦。手を繋いで、腕を組んで、みんなが幸せそうに笑っている世界。
そんな世界になったら素敵だな、と思った。
自分たちの立場がきちんと固まってショッピングモールを出ると、空はオレンジ色に染まっていた。ここから帰ってご飯をご馳走になるには、ちょうどいい感じの時間。
「紗綾に相談があるんだけど」
特にかしこまった感じもなく、紙袋を片手に奏真の家に帰る道中。彼から相談があるなんて珍しい。
「どうしたの?」
歩く足は止めずに、奏真の顔を見上げる。
何か覚悟を決めたような顔つきをしていた。
「告白しようと思うんだ。来月末の体育祭の日に」
「え、好きな人いたの?」
彼の発言は、結構ショックだった。好きな人なんていないと思っていた。
「いるよ。ずっと好きな人」
幸せそうに口角を上げる姿は、今までで見た事のないような、恋をする人の顔。
「どんな人?誰?」
固有名詞がでたらもう、奏真のことをまっすぐ見ることなんてできなくなる。見てきた感じ女子と親しく話している様子はなかったから、尚更。
「いつも一緒にいる人。休み時間も一緒にいることのが多いかも」
休み時間、いつも一緒にいる女の子。
そんな人、全然思い浮かばなかった。というのも、奏真と休み時間を過ごす女子は私しかいないから。
「ふーん。そっか。叶うといいね。応援してる」
抑えきれないにやけ顔を見られないように、誕生日にお祝いをしてもらって口元を両手で包み込む女の子を真似る。
嬉しい、嬉しい、嬉しい。
十四年の長い片想い。両思いまで、あと一ヶ月ちょっと。
「ありがとう。紗綾ならそう言ってくれると思ってた」
最高の誕生日プレゼントをもらった気分だ。
だからかな。彼の家で食べたご飯が、いつにも増してキラキラと輝いていて、美味しく感じたのは。
「ごちそうさまでした。私の好きなオムライスにケーキまで。幸せな誕生日になりました」
帰るとき、玄関先でお見送りまでしてくれる。奏真ママが本当のお母さんだったらって何度考えたことか。
きっと奏真ママはお母さんよりも私の好物を知っている。私もお母さんより奏真ママの好きなものの方が詳しい。
「あ、ちょっと待って」
何かを思い出したかのようにリビングへと引っ込んでいく奏真ママ。
この場には奏真と二人きり。
「これ、誕生日プレゼント。十七歳おめでとう」
小さい箱。春らしい桜のラッピングが可愛らしい。これを奏真が買ってきてくれたんだと考えると、それだけで胸があったかくなる。
「なんだろ。あけてもいい?」
「遅いから帰ってからみて。多分ここであけると一時間は玄関にいることになるから」
う、確かに。
ラッピングの話、プレゼントの話。そこから広がった全然関係のない話。
「ごめんごめん、おまたせ。紗綾ちゃん、お誕生日おめでとう」
紙袋に入った、これまた小さい箱。黒い箱に薄ピンクのリボンがよく映えている。
「え!ありがとうございます!」
「そんなに嬉しそうにしてくれるとおばさん嬉しいな。またいつでもおいで」
「はい!おじゃましました」
パタン、と閉まる扉。ここから十五分、奏真と一緒だ。
「あけていい?」
「帰ってからな」
待ちきれない私をみて楽しそうに笑いながら、それでも開けさせてくれない。
「ちぇっ」
いじけたように言うと、彼はまた笑った。
私も笑った。
「また明日ね」
「おう」
手を振って、扉を閉める。カチャン、と鍵をかけると、一気に寂しさに襲われた。
スニーカーを脱いだそのままの足で自分の部屋に向かって、もらったばかりのプレゼントをドキドキしながら開けてみる。
奏真ママからいただいた、スー、と布地同士が擦れる音がしたあとに出てきたものは、素敵なネックレス。
私が桜の花が好きだと知ってくれているからか、本物をそのまま小さくしたかのような白に近いピンクの花びらに、中心は赤くなっているのが可愛すぎる。
この一瞬で、この子は出かけるときの必需品になった。
奏真からのプレゼントは、丁寧にラッピングを剥がすとすぐにわかった。
少し厚く触り心地もいい紙の白い箱。スマホの入っている箱を小さくしたような、防御力の高そうなしっかりした箱。それにパステルピンクのワイヤレスイヤホンの写真が表面に載っていた。私の好み、ドストライク。
自分の家庭は周りから見るとそんなにいい家庭ではないけれど、いつか彼の家に嫁入りすることを考えたら、何も気にせず親の手を離すことができるのはメリットだと捉えられる。
こんな心の内がバレたら気が早いって笑われるかな。
でもずっと夢みてきたこと。幼稚園の頃から、ずっと。
体育が大嫌いなのにこんなに体育祭が待ち遠しいなんて、彼のせいだ。

『桜崎祭一日目、これよりスタートです!』
十時ちょうど。生徒会長がアナウンスをする。
三日にかけて行われる桜崎祭。
一日目二日目が文化祭、三日目が体育祭。年に一度の大きな盛り上がりを見せる学校行事。
うちのクラスは『甘味処 桜崎』。
和装で和のスイーツを提供する、カフェに分類されるところ。
実行委員が校内で四クラスのみの高い高い壁を乗り越えてくれたおかげで、今楽しくあんみつを袴でお席まで運ぶことができている。
茶色の生地に赤やピンク、白の花柄の着物。それに黄色い袴を合わせている私の衣装。
明日は別の衣装が一人ひとり用意されている。
ここまで本格的な衣装が着れたのは、クラスメイトの家が呉服のレンタルをしているから。
今日明日は定休日で、明後日はクリーニングをするためにおやすみにするらしい。
本当に彼女の家には頭が上がらない。
「紗綾!グリーンティーフロート一個とお抹茶パウンドケーキ二つ」
紺色の着物に身を包んだ奏真が、教室の片隅にある厨房から顔を出した私に伝えてくれる。
「了解。グリーンティーフロート一個とお抹茶パウンドケーキ二つお願いします」
まるで伝言ゲー厶のように、奏真が聞いてきた注文を厨房係の人に伝える。
「ごめん、出てきたからつい」
「いいよいいよ」
こんな些細な会話ですら幸せを感じられる。
だって明後日は待ちに待った体育祭だもの。少しくらい浮かれてもいいでしょ?
「交代したら一緒に回らない?」
「あー、いいね。ちょうどシフトも一緒だし」
「じゃあ決定!あ、ご注文お伺いいたします」
可愛い女の子と、少し背の高い男の子。お互いのネクタイを交換していて、まさに憧れのカップル像そのもの。
私も明後日には、奏真とこんな風になれるのかな。なれるといいな。
「あの、このカップルメニュー、お願いします」
ドキドキが声から伝わってくる。まだ付き合い始めて数ヶ月なのかな。いいなぁ。
「かしこまりました。カップルメニューですね。少々お待ちください」
今回一番気合いの入ったメニューであるそれは、大きめのワンプレートに抹茶ロールケーキ。その上に生クリームを絞り、いちごをトッピング。丸いいちごアイスもロールケーキの隣にのせて、その上に『I wish you happiness forever』と書かれたハート型のピックが刺してあるもの。
最大の特徴は、スプーンがひとつ。フォークもひとつ。お互いに『あーん』をし合うように、と実行委員が熱弁していた。
「お待たせいたしました。カップルメニューでございます」
机の上に優しく置くと、目を輝かせる彼女さん。それをみて幸せそうに微笑む彼氏さん。
どうか末永くお幸せに。
「あ!いたいた!紗綾!」
心穏やかに定位置に戻ると、どうも忙しない百笑の声。
「え、なに?どうしたの?」
「大ピンチ!ちょっと来て!」
いや、ちょっと来てと言われても。こっちはこっちで仕事中だ。そう簡単には抜けられない。
「ごめん、まだ私仕事中だから……」
「あ、いいよ。如月さんもう交代でしょ?あと二分だし、大丈夫だよ」
そう言われて時計を見ると、交代の十二時まであと二分だった。うそ、びっくり。もうそんなに時間が経っていたなんて。
「でも……」
「お願い!」
ここで行っちゃうと、奏真と文化祭を回るのは困難に近い。というのも、明日は私と交代するのが彼だから。それに私はクラスの仕事が入っていないときは部活の出し物で今日入らない代わりに明日はきっちり入っている。
「わかった。ちょっと待ってて」
恋より、友情。男より友達。
自分に言い聞かせて、残念な心を閉じ込める。
まぁ、来年があるし。いっか。
「奏真ー。ごめん、一緒にまわれなくなった」
私が言うと、彼は「そっか」と笑った。
「じゃあオレは陽高と回るかなー」
「うん。陽高くんと楽しんで」
最後にもう一度「ごめん」を置いて、百笑のところへ走る。袴で走るのは慣れている。
「どうしたの?」
「人が足りないの。男子部長が体調不良で帰っちゃって」
なるほど。それなら仕方ない。
今年の弓道部の出し物は射的。
ゴム鉄砲とかじゃなくて、二本の割り箸をくの字にしたものに輪ゴムをくっつけた弓と、紙で羽根を付けた半分サイズの割り箸め作った矢。
それらを机の上に置かれた、的代わりの紙の番号表に当てる。
弓を引いて矢を放つ。これを体験してほしくて、射的に決まった。
射的というより、的当てゲームといったほうがわかりやすいかもしれない。
「紗綾ー!ありがとうー!」
弓道場に入ってそうそう、部員たちの声が聞こえる。でもそれより、意外と人が入っていることに驚いた。
普段は入れない弓道場に、この際だから入ってみようと思って来た人が多そうだ。
「こんなふうになってるのか」「意外と広いんだね」という声が聞こえてくる。
「袴、着替えたほうがいいよね?」
みんなの格好は、弓道袴。私はクラスの出し物のレンタル袴。更衣室に明日忘れないようにと昨日置いて帰ったから、着替えることはできる。
ただ、仕方ないとはいえ脱ぐのは勿体ないと思ってしまう。脱ぐのは袴。着るのも袴。漢字にしてしまえば一緒だけど、パッと見たときの綺麗さが大きく違うのだ。
「できれば……」
「わかった。着替えてくる」
ここはもう、折れるしかない。女子部長として、ここはしっかりやり遂げないと。
綺麗な借り物の袴を丁寧にたたみ、白と黒の袴に着替える。着崩れないようにしっかりと帯をしめると、脱ぐときの解放感がすごい。あれは結構、気持ちいい。
「お待たせ。じゃあ午後からも頑張ろう」
みんなに呼びかけるけど、ほとんど自分に言い聞かせているだけ。頑張ろう。
的の合計点数を計算し、景品を渡す。
外れた矢を拾い、机の上に綺麗に並べておく。
お客さんから一回の料金である百円を受け取り、ケースにしまう。しまったら正の字を書いていく。
部員の休憩とクラスのシフトも把握して、順番に回していかないといけない。
明日もやることを考えたら、帰ってくれて良かったかもしれない。結構ハードだ。
「紗綾、おつかれ」
十五時をまわり、残すところ一時間になった頃、奏真と陽高くんが遊びに来てくれた。
「おつかれー。楽しんでる?」
聞かなくても、イキイキした表情で楽しんでいることはよくわかる。でも本当は私が陽高くんの立ち位置にいたはずなのに……。なんか悔しい。
「まぁ。はい、これ差し入れ」
ガサガサと音を立てながら渡してくれたのは、透明なパックに入った焼きそば。サッカーボールのかまぼこが入っているから、サッカー部で買ってきたことは一目瞭然だった。
「え、ありがとう。いいの?」
「うん。昼飯食ってないだろ?空き時間になんか食べないと帰りまでもたないよ」
「奏真ぁー。す」
やばっ。好きって言っちゃうところだった。
いいけどね、明後日には晴れて両思いなら、今日も明日もそんなに変わらない。
でもやっぱり、告白されたいって考えたらあと少しだけ我慢しよう。
「す?」
あ、聞き返しちゃう?やっぱり?そうだよね。
「す、す……っごい嬉しい!ありがとう」
「そう?ならよかった」
何かを疑う様子もなく、「一回づつお願いします」と二人で百円づつ手渡してくれた。
「じゃあ奏真は一番、陽高くんは二番に進んでください」
案内をしたあと、隠れて少し熱くなった頬を包み込む。喜びと恥ずかしさとでもうお腹はいっぱいだ。
本当はずっと飾っておきたいサッカー部の焼きそばは、今日の夜ご飯にしよう。
この喜びに浸りながらご飯を食べて、また明日も頑張る力をもらおう。
そっと足元に袋をおいて、次の人の百円玉を受け取った。

ジリジリと照りつける太陽。雲ひとつない空。
団カラーであるオレンジ色のハチマキをつけてグラウンドの日向にならんで体操座り。
「皆さんの日頃の行いがよく、天気に恵まれ……」
こういうとき、校長先生は決まって天気と日頃の行いを結びつけようとする。
体育祭も遠足も、球技大会もそうだった。
言うことなすこと何一つ変わらない、「僕たち、私たちは」の選手宣誓も終えて、放送部のアナウンスがかかる。
『それでは第一種目、準備体操です』
プログラムに準備体操を入れるのは、正直小学生までだと思っていた。
中学は入っていなかったから、去年三年ぶりにプログラム内の準備体操といらない再会を果たしたところだ。
ただ、それでさえも素敵だと思えてしまうのは、奏真パワーだろう。
告白されるためにいつもより髪型をこだわり、トーンアップの日焼け止めを念入りに塗りたくってきた。メイク禁止なのが痛いけど、校則を破るのは嫌だからここはすっぴんで。
音楽がかかるとみんな一斉にラジオ体操を始める。まるで小学生の夏休みみたいに。
最後の深呼吸を終えると、やっと教室から一生懸命運んできたテントの中の椅子に座ることができた。
開始二十分。身体を動かしたのは三分くらいなのに、首周りの汗はもう既に滝のよう。
百メートル走、男女別・男女混合リレー、障害物競走。あとは綱引きに玉入れ。
午前中のプログラムは、結構ガチガチに運動系。それに引替え午後はレクリエーション系が多い。
『玉入れに出場する選手は……』
午前中最後のプログラムである玉入れは、運動が苦手な人が集まる競技。
もちろん私もその中の一人で、何か一つ出ればあとは何も出なくていいというのがうちの体育祭のいいところ。
「よーい、ピッ」
笛の音と共に、落ちた玉を広い、投げる。
網を通り越したり、何故か後ろに飛んでいったり。やっぱり体育祭の良さというものは、いくつになっても分からない。
決まった時間になると、また笛の音が鳴り、終了を教えてくれた。
いーち、にーい、さーん。
ドーン、ドーン、ドーン。
カゴの柱を押さえていた先生が、太鼓の音に合わせて玉を外へ投げていく。
にーじゅし、にーじゅご、にーじゅろく。
ここでオレンジ団の玉はなくなった。
結果は下から三番目。いいか悪いかといわれたら、あんまりよくない方だ。
「おつかれ。相変わらず面白いな、紗綾は」
テントに戻ると、頭に手をぽん、と乗せられる。じわじわと奏真の手の温かさが頭から伝わってきて、少し暑かった。それなのに、ずっとこのままでいてほしいと思った。
「運動音痴の腕の見せどころだからね」
「弓道部部長なのに運動音痴とか、ギャップすごいよな」
手渡される冷たいペットボトル。喉に流し込むと、火照った身体がじわじわと冷えていって気持ちよかった。
「昼だって。行こう」
桜崎祭の日だけは、外での食事が許される。
グラウンドや中庭で食事をする青春シチュエーションが叶うのは、年にこの三日くらいだ。
教室にお弁当を取りに行き、奏真と二人で中庭のベンチに腰掛ける。校舎の影になっていて、少し涼しかった。
「紗綾はあとなににでるんだっけ?」
「えっと、部活動対抗リレーと借り物競走」
今年の体育祭は、昨日と同じくらいハード。
部活動対抗リレーは部長だから必ず出ないといけないし、借り物競走は出る人がいないからとハズレくじを引いてしまった。
「オレも一緒だ。頑張ろうな」
「うん」
奏真からの頑張ろうの一言で、食事よりも力が湧いてくる。背筋がシャンと伸びた気がした。
同じオレンジ色を身にまとった彼は、ご飯を食べている姿でさえいつもより輝いている。
「そろそろ行くかぁ」
午後の集合時間に間に合うように行かないと、午後一の借り物競走に遅刻して怒られてしまう。
キュッとハチマキを結び直して、もうぬるくなってしまった汗かきのペットボトルから水分を補給した。
テント内での十分前点呼で数を数えられ、レクリエーション種目だからと奏真と話しながらスタート地点へ向かった。
『第八種目。借り物競走です』
放送部のアナウンスがかかる。
レクリエーション種目だからか、玉入れよりも心做しか身軽な気がした。
「位置について、よーい……」
パンッ!とスターターピストルの音が響く。
選手全員が円になって並んでいたのが、一斉に走り出した。
次々に真ん中に置いてある紙を取り、開いて借りに行く中、足が遅い私は残り一枚の紙を手にした。
『団旗を一本』
そう書かれたお題の通り、オレンジ色の団旗を片手にゴールまで走る。
誰かとゴールして盛り上がるものだと思っていたけど、こういうお題もあるみたいだ。
「それでは一位から順番にお題に沿っているか見ていきましょう」
一位でゴールテープを切った人は、青団の三年生。先生のスマホがお題だったらしく、校長先生のスマホを借りてきていた。すごい。
八位でゴールした奏真のお題は『大事な人』。陽高くんと並走してゴールしていた。
それに引替え、下から三番目にゴールした私はプレートと団旗を見られて終わり。変に発表しなくていいと思えば、ものすごく救われた気分になった。
自分が出る競技は最後の部活動対抗リレーのみとなった今は、暑さと戦っている。
先生たちのリレーを見るのは楽しいけど、昼の暑さには敵わない。暇さえあれば水分を流し込んで暑さを和らげることに必死だ。
「紗綾ー!そろそろ行こー」
百笑がまあまあ大きな声で叫んで、手を振っていた。高い位置で揺れるポニーテールは、まさにスポーツ系女子って感じで爽やか。
「んー」
惜しみなく最後の一滴まで飲み干し、空になったペットボトルを片手に弓道場の更衣室へと向かう。通り道にある自販機横のリサイクルボックスに、本体と蓋を分けたペットボトルを捨てておいた。
三日目の袴。汗くさくないか心配になるほど、このバタバタの三日間、確実に汗をかいているのに洗濯すらできていない。
こういうのを無念というのか。
「お、一昨日ぶり」
「さっきぶりー」
着替えてグラウンドへ戻ると、サッカー部の青色にピンクのラインが入ったユニフォームを着た奏真とばったり会った。
どうやら隣のレーンらしく、すこし心がくすぐったい。それと同時に、染み付いた汗の匂いが彼の方まで漂っていないかということで頭がいっぱいだ。
「やっぱ紗綾、和装が似合うよな。普段は可愛いのに、一瞬で綺麗になるギャップがすごい」
それは褒め言葉として受け取っていいものなのか。綺麗、可愛いと嬉しい言葉ばかり飛んできて、正直暴れたい。キャーって叫びたい。
「ありがとう。奏真もユニフォーム着るとかっこいいよ」
「着るとって、いつもはそうでもないってこと?」
「そうじゃなくて、いつもの何倍もって意味」
「ありがと」
キラキラの笑顔を向けられる。私の大好きな彼の笑顔。
私より先にサッカーボールというバトンが渡った彼は、ボールを蹴りながら先へ先へと進んで行った。
なんだか彼が少しだけ遠く感じた。
これからもっと長い時間、一緒にいるのに。
なにかの予感のように、この一瞬で私の心は小さい穴があいた。

お祭りが終わった教室、前から回ってくるくじ引きの箱。
一枚引いて開くと、『帰宅』と書かれていた。
四十枚入っているくじ引きの中の十枚は片付け係に任命されるハズレくじが入っている。
数からしたら、そっちのが当たりかもしれないけど。
「ごめん紗綾。オレ片付け係になっちゃったから先に帰ってて」
いいよ、終わるまで待ってるよ。
そう言いたいところだけど、私が残ったところで邪魔者になるのは目に見えている。
「わかった。頑張ってね」
それだけを言い残して、大量の着替えを持って教室を出る。
大丈夫。まだ今日は終わっていない。
奏真のことだから、やっぱりもうちょっと寝かせるってこともないとはいえない。
「うん。ありがとう。気をつけてね」
見慣れた制服姿に、小学生の頃憧れたゴミを逃がさないホウキ。それだけで絵になるって、なんなの。イケメンなの?……イケメンだよ。
モテるかどうかといわれたら、別に普通の男子高校生だけど、好きな人はかっこよく見える。
昼までは奏真の彼女になるのは私だと自信たっぷりだったのに、あの部活動対抗リレーの一瞬で、一分一秒が過ぎていくごとに自信がなくなっていく。
休み時間。よくよく考えたら、放課後の間違いかもしれない。
奏真ママは愛知県出身で、愛知県の人は方言で休み時間のことを『放課』と言うらしい。奏真もたまに無意識で使っていることがあって、休み時間と放課後がごちゃごちゃになっていることもある。後者に関しては何度も。
こういうことがあると思うと、実は放課後の部活で一緒に活動しているマネージャーが片思いの相手ということもないとは言いきれない。
……あー、なんか一気にモヤモヤしてきた。
考え事をしていたら三十分なんてあっという間に歩き終わって、気づいたらもう、家の前。
鍵を開けて大荷物を玄関に置いて、また鍵をかけた。家にいてもずっと同じことの繰り返しなら、いっそのこと出かけようと思ったのだ。
制服のまま、最寄り駅前のまあまあ栄えている場所まで歩く。
家から学校へ向かうより少し距離があるから、いつもはめんどくさいと思うことが大半。でも映画館もおしゃれなカフェも、落ち着いた雰囲気が可愛い雑貨屋さんもあって、めんどくさいながらもよく行く場所。
そういえば二年生になってからはまだ一度も行っていなかったな。
『まもなく一番線に……』
駅に近づくと、ホームからこぼれるアナウンスが音楽と共に聞こえてくる。なんだか少し遠出しているような、これからどこかへ行くような。そんな気分になれるから、好き。
駅の真向かいにあるカフェ。先にカウンターで注文する方式で、ココアフロートとレモンのバスクチーズケーキを注文した。
白い店内にドライフラワーが飾ってある、イマドキ風な店内。
セルフサービスのお水には輪切りレモンが入っていて、見た目が可愛らしく、味も爽やか。
窓からは、夕日と夜空が混ざったピンク色の雲がよく見えた。恋愛運が上がったような、そんな気がした。
「お待たせしました」と運ばれてくる糖分たちは、きっと目に入れても痛くない。眼福とはまさにこのことだ。
スプーンですくって食べるソフトクリーム。フォークで運ぶバスクチーズ。ストローを伝う甘み少なめのココア。
一人で食べても十分幸せで、奏真のことを一度忘れるために来たと言っても過言ではないのに、奏真にも食べてほしいな、と思ってしまうのは彼に対してはっきりと恋心があるから。
ソフトクリームと氷と、その隙間に入り込んだココアが凍ってシャリシャリになったところが好き。
何度も彼に熱弁して、それでもまだ理解は得られていない。アイスはアイス、ドリンクはドリンクとわけるタイプだから仕方ないかもしれないけど。
半分くらい胃の中へ消えたころ、ブー、ブーとスマホが震えた。
画面には『奏真』の二文字。
「もしもし」
いつもより小さい声で出ると、優しい笑い声が聞こえた。
「今出かけてる?」
「うん。駅前まで来てるよ」
電話をするのは久しぶりだ。いつも直接話して終わりだった。主に私が寝るまでの間にやることがありすぎてしたくてもできなかったのだけれど。
夕飯を作って、帰ってすぐに取り込んだ洗濯物をたたみ、課題も終わらせる。
奏真と電話をしたいのは山々だけど、あまりできた試しがなかった。
「どうしたの?」
奏真もそれを知っているから、電話はあまりかけない。珍しいな。
「今日ご飯食べに来ない?紗綾の好きなトマト煮込みのハンバーグなんだけど」
「え!行く!」
奏真ママのハンバーグはトマト煮込みとデミグラスソースの二種類がメインで、旨みがぎゅっと詰まっていて美味しい。奏真はデミグラスソース派らしいから、これは多分、本当に私のためのメニュー。
「すぐ行く。準備する」
「迎えに行くよ。いつものカフェ?」
駅前まで、としか言わなかったのに、彼は見ているかのように私の居場所を簡単に当てた。
「うん。じゃあ待ってる」
それだけ言ってプツリと切れた電話。正直もう腹五分目くらいまで来ているけど、大好物は別腹だ。それにこれから歩くから、きっとお腹も空くだろう。
ペロリとたいらげた残骸のお皿をそのままに、お迎えがやってくるであろう時間より少し早く店を出る。奏真が店に入るだけ入って、そのまま出ていくのはなんだかお店の人に申し訳ない。
ピンク色だった空模様も、もうオレンジと藍色でぼんやりわかれてしまっていた。あれは長い一日の中のほんの一瞬だった。
冷たい風は、アイスココアをソフトクリームと共に味わった私には少し寒く感じる。
「お、いたいた」
聞こえてくる大好きな声。
手を上に伸ばして彼と落ち合うと、いつもみたいに車道側を歩いてくれている。
「ありがとう、来てくれて」
まるで彼女みたいなことを言ってみた。
飲み会でお酒を飲みすぎて、彼氏に迎えに来てもらった彼女みたいなことを口走ってみる。
「いいよ。オレがやりたくてやってることだから」
目の前の信号待ちをするのにちょうどいいベンチがある、階段で言う踊り場みたいなところ。そこをまっすぐ眺めながら奏真は言った。本当に彼氏みたいだ。
でも彼がまっすぐ見ている先は、定位置を動くことのないあのベンチの隣にあぐらをかいた、ギターを持っている男の人。
ケースから取り出しているから、これから路上ライブをするのかもしれない。
茶色の丸いひょうたん型。初めて見るギターは、よくSNSで見るような形をしていた。
「今から歌うのかな」
「ぽいよね」
だからといって、聴いていくつもりはない。
これから美味しいハンバーグを食べるという大事な予定が入っているから。
信号が青に変わった。
眺めていたその人は、もう左を向いたらそこにいるくらいの距離まできていた。
立ち止まる人なんて全然いないのに、その人はギターを弾いて、誰もが知っているような有名な恋愛ソングを歌いはじめた。
音符が宙を浮いているような、歌声が私に向けられているような。透き通るような声がまっすぐ私の心へと届いた。
何度も本人の声で聴いたことがあるその歌は、まるで初めて聴いたかのような感覚。正直、こっちのが好きかもしれない。
「この曲だけ、聴いていこうか」
青信号を目の前に立ち止まった私の心の内に気づいたらしく、そう言ってくれた。
「うん」
優しい笑顔で愛の歌を声にするその姿は何故か一段と輝いて見えた。
「ありがとうございます」
一曲歌い終えた彼は、私と奏真を交互に見て、嬉しそうに微笑んだ。
若干左に流れている黒い髪、吸い込まれそうな茶色い瞳。整った顔立ちで、肌は白よりの肌色。一言で表すなら、圧倒的清潔感、がピッタリ合うかっこいいお兄さん。
「歌声、素敵です。歌手ですか?」
「いえ、普通の大学生です。もしよければ、たまにやっているのでまた聴きに来てください」
そう言った彼は、信号を渡りきった私たちを手を振って見送ってくれた。
歌う声より、喋り声のが低いところにギャップを感じた。そんな彼の歌声が、頭にこびりついて離れてくれない。
美味しいハンバーグを口にしているとき、まるで大好きで何度も何度もリピートして聴きまくっている音楽のように、スーパーのお魚売り場で手足がついているスピーカーから流れているBGMみたいに、ずっと流れている。
「送ってく」
食べ終わって少し楽しくおしゃべりをしたあと、彼はガタン、と音を立てて腰を上げた。
「ありがとう」
本当はこの時間がやってくることが少し怖かった。
今日告うと決めていた彼からの告白を受ける側になれるのか、それとも既に終えた告白の結果を話されるのか、はたまた今日はやめてまた別の機会にすると決意を揺るがせたのか。
知りたいような、知りたくないような。
でも、だからといって、一人で帰るのは奏真ママに心配をかけるから、この家を出るときはいつも奏真とふたりきり。今日も例外ではない。
「おじゃましました」
玄関で見送ってくれている奏真ママにそれだけ告げて、玄関の戸をしめる。
途端、いつもとは違う静かな空気が広がった。
「ちょっと寄ってかない?」
少し歩いて、彼はいきなり懐かしい公園を指さして言った。私の家と彼の家のちょうど真ん中あたり。そこは幼いころからの思い出がめいっぱい詰まった小さい公園がある。
「いいね」
ちょっと考えようかと思ったときには、もう口はそう言い放っていた。
この公園に寄るってことは、なにか大事な話をされるということで、多分今回は、今日の告白のことを話される。
自販機で、水でもジュースでもなく、もうすぐ自販機から消えるであろうコーンポタージュを人差し指だけで購入する。
缶と金属がぶつかった、クォン、という変な音を聞き流し、思うがままに振って封を開ける。
もう満腹の胃の中に流し込むと、さすがに胃もたれがしそうになった。
「この前話した、告白のことなんだけど」
開けっ放しのコンポタを片手に、幼いころから変わらない座る面が赤く塗られているブランコに腰掛けた。
これでもう、話を聞く体制は完璧。
「うん。どうしたの?」
あなたのことはただの幼馴染としてしかみてないよ。そういうオーラを五割。
あなたのことがずっとずっと好きなんだよ。そういうオーラを、五割。
どちらに傾くこともない天秤みたいに、気持ちを均等に保ちながら彼の声に耳を傾ける。
「明日、告うことにした」
「えっ」
今日がダメだったら、てっきり次は秋の修学旅行までお預けだと思っていた。それに明日ってことは、きっと……。
「今日、掃除当番引いちゃったから。だからきっと、神様が告白する前に紗綾に伝えておく時間をくれたんじゃないかと思って」
キィ……と隣で小さく鎖が軋む音が聞こえる。
彼の体重が、全てブランコにかかった音。
仲良く手を繋いでこの公園に来ていた頃から何年という長い時間が経った音。
「なに、を……?」
この時点で、もうはっきりわかってしまった。
彼の好きな相手は、私じゃない。
横に座っているのをいいことに、俯いたまま会話を続ける。
こぼれそうな涙をこらえるために、下唇を噛みしめながら。
「オレの好きな人のこと、聞いてほしい」
「……うん」
泣くのは帰ってから。一人になってから。
下唇を噛む強さを少しづつ強めながら、二文字だけは頑張って、平気な声で絞り出した。
気付かれないように、これからも幼馴染として変わらず隣にいられるように。
……奏真に彼女ができたら、私なんてただのお邪魔蟲なのかな。今日でこの関係を終わりにするためにここに寄ったのかな。
頭に浮かぶのはネガティブなことばかりだ。
「オレの好きな人、陽高なんだ」
じわっと滲んできた涙が引っ込んだ。
どれくらい可愛い名前なんだろうと、一方的に影で勝負していた逆恨みの気持ちはどこかへ行ってしまった。
「陽高って、古池陽高くん?」
冗談かと思って聞いてみるけど、「うん」と言う声はいたって真剣だった。
「オレの恋愛対象は、男なんだ。『ゲイ』ってやつ」
ぽつりぽつりと、でも一言一言確実に、自分のことを伝えてくれた。
今まで一度も女性を好きになったことがないこと。男同士の恋バナも理解できなかったこと。幼馴染である私に、理解してもらえるか怖かったこと。両親にも、まだこのことを話せていないこと。
話してくれたのは、あの討論の話し合いで私が『あり』についたかららしい。
「こんなこと、知りたくなかったならごめん」
「ううん。知れてよかった。教えてくれてありがとう」
彼の方を向くと、安心した表情でこちらを見て微笑んでいた。それに応えるように私も口角を上げる。
コンポタは、結局減らないまま温かさだけがどこかへ逃げていった。
送ってもらって「また明日」と扉を閉めたあと、きちんと笑えていたか不安になった。
玄関に腰掛けると、無意識にこらえていた涙が静かに頬を伝いはじめた。
私は完全に失恋した。当たる前に玉砕した。
女である以上、一生彼の隣を恋人として歩くことができないと遠回しに言われたようなものだ。
奏真に可愛いと思われたくてやってきたヘアメイクも、ずっとずっと無意味だったということ。
こんなに男に生まれたかったと強く思ったのは生まれて初めてだ。だってそうじゃないと、彼の恋人にはなれないから。
止まらない涙をそのままに、私は壁にもたれかかるようにそのまま玄関で寝てしまっていた。

奏真と出会ったのは、幼稚園に入る前だった。
桜町西ヒルズの六〇二号室で暮らす私と、六〇三号室で暮らす奏真。
これが幼馴染という名の腐れ縁と、私の片思いの原点。
「さあちゃん、あーそーぼー」
ベランダの薄い壁越しに声をかけられると、ベランダへ出て「うん!」と答える。
雨の日も風の日も、雪の日も関係ない。お互いの家を行き来して、同じようなことを何回も、何日も繰り返していた。
親が外に出られるときは公園へ行くことがほとんど。お砂場だったり滑り台だったり、ブランコに揺られたり。二人なのに鬼ごっこをしてずっと走り回っていたのが今でも懐かしい。
お母さんが優しい笑顔を向けてくれていたのが、もう遠い昔みたいだ。
ある春の日、奏真と私は同じ幼稚園に行くことになった。男女関係なくパステルイエローのスモックを着て、紺色に赤いリボンが巻かれている帽子をかぶった。それにレモンカラーのポシェット型のカバンを掛け、お迎えに来たバスに乗り込む。
ひまわり幼稚園のりんご組。年少さん。
年中さんはあかね組で、年長さんはうめ組。
奇跡なのか先生の配慮なのか、私と奏真はずっと同じ組で、その中でもずっと一緒だった。
遊ぶときも、お昼寝のときも、給食のときも。もちろん帰りのバスも隣同士に座って、隣同士の家に帰っていた。
「ただいまー!」
「おじゃまします!」
「紗綾おかえり。あら、今日は奏真くんも一緒なのね」
今思えば、あの頃はちゃんとお母さんはお母さんだった。働きに出ているとはいえ、子どもを愛す母親だった。
専業主婦である奏真ママは、たまに自分のお母さんのところへ出かけることがあった。それは奏真ママのお母さん。奏真のおばあちゃんが入院していたから。
そのときは、よく奏真はうちに来て一緒にご飯を食べて、そのまま半お泊まりコース。完全にお泊まりじゃないのは、仕事を終えて帰ってきた奏真のお父さんが迎えに来ていたから。
一緒に寝たはずなのに、朝起きたら隣に奏真がいないことで何回泣いたかわからない。
彼のおばあちゃんは、私たちが小学一年生の秋に空へと旅立った。
私のお母さんはこれくらいのときから、少しづつおかしくなっていった。おかしくなったのか、化けの皮を剥がしたのかはわからないけど、家に帰る時間が少しづつ遅くなっていった。
それでも関係は変わることなく、仲がこれ以上深まるわけでも浅くなるわけでもなく。強いて言えば、私がよく奏真の家におじゃまするようになったくらい。
彼のことをよく知っていきながら、何度も季節が巡っていた。
中学に上がる頃には、今と同じ生活が既に身に付いていた。
「紗綾、映画でも行かない?」
公園で遊ぶのは小学生で終わった。
以来、公園に行くのはしっかり聞いてほしい話があるときに足を運ぶ場所へ、自然と変わっていった。
「いいね、行こう」
今何がやっているのか、そういう情報もほとんどないまま、駅前の映画館へ向かう。
初めて二人で観に行った映画は、少女漫画が原作の恋愛映画。
男女の青春が描かれていて、発売部数は五百万部を越えていた、『雨の日は、君とふたり』。高校二年生になった今も尚、月間漫画雑誌で連載が続いている有名な作品。
出会いは雨の日。田舎の、バス停の小屋で雨やどりをしている高校生の優真と、傘を忘れて走ってそこへ辿り着いた別の高校の早柚。
ふたりは自然とそのバス停でお互いのことを探すようになり、雨の日はバスを一本見送って二人で話すのが日常になっていった。
ひそかに楽しみにしていたある雨の日。早柚はこの日、優真に告白しようとしていた。
それなのに一向に彼が現れず、心配になった早柚は彼の高校の門の前まで足を運んだら、可愛い女の子と相合傘をしている彼が歩いてきているのが目に入って、ギリギリ間に合ったバスに乗り込んで泣きながら帰ってしまう。
それでも優真が好きなのは早柚だったから、走ってバス停に向かうも彼女はもういない。
何度もすれ違い、やっと会えて話したとき、数ヶ月越しに誤解がとけた。
苦しいときも乗り越えて、晴れて恋人になってこの先もずっと、雨の日も晴れの日も、ふたりで幸せに生きていくお話。
『目が会った瞬間、君から目が離せなくなった』
二人の声で聞こえるその言葉は、まだ開始五分も経っていないのに、いい方の意味で鳥肌が立った。漫画から実写への、珍しい成功例。
「恋ってむずかしいんだな」
映画館をでると、ボソッと彼が言った。
「そうだね、タイミングっていうもんね」
私たちにはいつ、ベストなタイミングが訪れるんだろうって、このときはずっと思っていた。
夢に出てくるほど、ずーっと。
結局、タイミングも何もなかったけど。
机の本棚に置いてある外身だけの初めてふたりで観た映画だからと買ったDVD。中身だけいつでも観れるようにDVDプレイヤーの中に入っている。
ご飯を食べながら、家事をしながら。あとはお風呂から出てストレッチだったりマッサージをするときに。
ほとんど毎日テレビで流れていた。
映画が流れると同時に時も流れ、あっという間に高校受験。志望校は、合わせる気がなくても同じところだった。今通っている、桜崎高等学校。
「高校でもよろしくな」
「こちらこそ。よろしくね」
入学式の日に、私と奏真の家の間で頭を下げる。この日、ここで立ち話をするのは最後になった。一週間後には一年前から商談を続けていた注文住宅が建って、そっちに引っ越したから。
隣の家は、すぐにに空き家になって、未だに誰かが入居する様子もない。
それが少し、安心できたりもする。まだ思い出だけはそこに残っているみたいで、「さあちゃん!」と私の名を呼ぶ幼い頃の奏真の声が、まだどこかで聞こえてくるような気もした。
そして気づけばふられて、私、これからどう生きていけばいいんだろう。
考えることさえ、苦しかった。

近くで、何かが鳴っている。目覚ましではない、なにか。
ゆっくり目を開けると、まだ辺りは暗かった。
懐かしくて懐かしくない、まるで余興ムービーの失恋バージョンみたいな夢を見た。これはきっと、結婚式というより離婚式のほうがピッタリだ。結婚どころか告白さえもできなかったけど。
鳴り響くスマホを見ると、奏真からの着信。放っておいたら一度切れて、それなのにまたかかってくるから仕方なく応答ボタンをスライドさせる。
「紗綾今どこ?」
少し焦りが混じった声が、スマホ越しに耳へと届く。
「家」
寝起きに加えて振られたばかりで話す気も湧かない。少し冷たかったかな。そう思うと、ちょっと心苦しい。
「もう八時二十分過ぎてるけど、母さんに車だしてもらう?」
へー、八時二十分かぁ……。
……え、八時二十分?
耳からスマホを離し、左上に表示されている時計を見る。間違いなく八時二十分だった。
「ごめん、昨日頑張りすぎたみたいで頭痛いから今日休むんだ。言い忘れてた」
咄嗟についた嘘。
ただ奏真と顔を合わせると泣いてしまいそうってだけ。少し時間を置いて、踏ん切りがつけられてからにしないと。
「そっか、ゆっくり休んでね」
今日休めば、明日も明後日も休み。
土曜日はいつも部活があるけど、今週は学園祭があったおかげで土曜日曜共におやすみだ。
「うん。ありがとう」
そう伝えて電話を切り、硬い床で寝てガチガチの身体を起こす。
制服のまま寝ていた。最悪。
目尻は涙が固まってパリパリしているし、お風呂に入っていないから汗臭い。体育祭だったから余計に。
気になることは多いけど、とりあえず学校に電話しないと。
「はい、桜崎高等学校の江崎です」
電話に出たのは知らない先生。ついてる。
「二年三組の如月紗綾の母なんですけど……」
先生は私が一人暮らしということを知らない。
去年の担任いわく、仕事が忙しい人というイメージらしい。親が行かないといけない三者面談も奏真のお母さんに出てもらっているし、入学式にも顔を出していない。
お母さんの顔を知っている先生は、きっと誰もいないだろう。
「はい。いつもお世話になっておりますー」
社会人の電話のルールなのか、江崎先生はその言葉を口にした。
「いつもお世話になっております。今日なんですけど、娘が頭痛がするとのことでおやすみさせますので、よろしくお願いします」
「かしこまりました。娘さんにお大事にとお伝えください」
バレてない。大丈夫そうだ。
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
先生からの「失礼いたします」を聞いて、電話を切った。
三連休を勝ち取り、役目を終えてポケットにしまったスマホは、もう充電が残り三十パーセントを切っていた。
いつまでも玄関にいるわけにいかないから、重い身体を持ち上げて洗面所の鏡と向き合う。
目がしっかり腫れていた。自分でもこんなになるほど泣いたのかと思うほど、赤く腫れていた。
これは休んで正解だった。
奏真にも、もしかしたら変な罪悪感を感じさせたかもしれないから、そういうんじゃないからね、と伝えておかないと。
「うぇー、きもちわるっ」
脱いだ靴下の中から、砂。
少し触ったふくらはぎから、砂。
試しに触ってみた腕から、やっぱり砂。
一晩グラウンドの砂と一緒に過ごしたらしい。
どうせ一人だし、いいや。
一昨日の夜用意しておいたバスタオルが脱衣所のカゴに入っていることを確認して、服を脱いでシャワーを浴びる。
ただお湯が皮膚に当たるだけなのに、汚れが取れていく感覚がして気持ちいい。
今日は何をしようか。お弁当もつくらなくていいし、洗濯物も二日にいっぺんだから、明日回せばいい。
電車に乗って、少し遠出をしよう。
奏真のことを忘れるくらい、楽しいことをしたい。
甘いものをいっぱい食べよう。
甘いものは、私の心を満たして幸せにしてくれるから。
一日でも早く奏真への恋心をなくしたい。
……そうだ。髪、切ろうかな。胸下あたりまであるのを、肩までバッサリ。
昔の人は失恋をしたら髪をバッサリ切るって聞いたことがあるし、髪と一緒にこの気持ちもサヨナラしよう。
ロングの髪を乾かし、体操服と袴を洗濯機に入れる。
茶髪のストレートヘア。生まれつきもっている、自分の一番好きなところ。
柔らかくサラサラな髪の毛は、扱いやすくて自慢。
「いってきまーす」
ICカードを入れた小さいベージュのリュック。去年、自分の誕生日プレゼントで一目惚れして買ったやつ。
お昼頃、もう電車は空いていた。
もう少し早く出るつもりだったけど、掃除機をかけてメイクをして、一番お気に入りの薄紫でウエストがきゅっとしまっているワンピースに着替えていたら、気づいたらもうこんな時間。
電車で二駅。SNSで結構人気のある美容室。
今日はもう、綺麗に髪を切ってもらおうと決意したのだ。もう、揺るぎはない。
チリンチリン、と金属の棒が触れ合う音。
「いらっしゃいませー」と、若い男性の声が聞こえた。
全く知らないし、今回限りの美容師さん。覚えるつもりはない。
「予約している、如月です」
初めてのお店でドキドキしながら名前を伝えると、お兄さんはニコッと微笑んでシャワーへと案内してくれた。
「どのようにしますか?」
「肩までバッサリ、お願いします」
言った。言ったぞ。
お兄さんがハサミを持つのが、鏡越しに見える。
慣れたハサミさばきによって、私の髪がどんどん短くなっていく。
地毛が茶髪なんですか?とか、学生さんですか?とか、色々聞かれる質問に適当に答えていると、あっという間に時間は経ち、あっという間に髪は肩につくくらいになった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございましたー。またお待ちしています」
カットで七千円、飛んで行った。いい美容室は高いなぁ、やっぱり。
これからはいつも行っているところにしよう。
そのままの足で、近くのカフェに入った。
パフェが有名な『Cafe Parfaitrian』。
いちごのパフェを頼んだ。細いグラスに入った、大きいいちごが乗ったいちごパフェ。
手元に来たものは、想像より大きかった。
中にさくらんぼとブルーベリーが入っていて、爽やかなレモンクリームが初夏を連想させた。
一番上に飾られているいちごは何よりも魅力的で、フルーツ界のトップって感じ。
でも私が一番好きなフルーツは桃。桃の中でも缶詰はNG。生の桃で、白桃が一番好きだ。
七月になったら丸ごと桃のパフェがでる予定らしいから、また来よう。今度は奏……じゃなくて、友達と一緒に。
カフェを出るころには、もう空は赤く染まり、温かい色味で世界を照らしていた。店を出る私とは裏腹に、今から入店する制服を着た女の子たち。白シャツに、紺色のベストに赤いネクタイ。うちの高校と負けず劣らずの可愛さだ。
えらいな、ちゃんと学校行って来たんだ。
自己肯定感、だだ下がり。
「帰ろう」
ボソッと口からこぼれる独り言。
さすがに夜ご飯は食べていく気にはならなかった。
家に帰って手洗いうがい。その流れのまま合い挽き肉を解凍させた。そろそろ使わないと新鮮味が失われるキャベツがいるから、ロールキャベツでも作ろうと歩きながら思ったのだ。
電子レンジの便利で地味に長い解凍機能を使っている間に玉ねぎをみじん切りにして炒める。
飴色に染まった玉ねぎを冷ましながら、ボウルにパン粉と牛乳。ついでに調味料ボックスから塩コショウとナツメグを取り出しておいた。
タネはハンバーグとすこし作り方が違ったような気がしたけど、詳しい作り方は調べる気にもならなかったからハンバーグのタネを小麦粉をまぶしたキャベツで巻いていく。
爪楊枝を刺して固定して、鍋の中へ並べていくと、銀色の鍋底が緑色になっていくのが見ていて少し、笑えた。
味はもちろんトマトスープ。リコピンが取れて、なおかつ温かいトマトは美白効果があるとどこかで聞いたことがあるから。
トマト缶を二缶と、一缶分のお水。砂糖と塩を少々にコンソメを加える。
チチチチチ……と火をつける音。
静かな空間だからか、よく響く。
いつもは音楽を流すけど、今日は聴く気にもなれなかった。心にぽっかりと空いた穴は、体育祭の最中に空いたそれが伝染したストッキングみたいに時間が経つごとにその隙間を広げていく。
弱火に近い中火でグツグツと煮込むこと三十分。
部屋にいい匂いが漂うなか、私の食欲は失せる一方。いつもは作っている最中につまみ食いを必死に我慢するほどお腹が空くのに、パフェを食べたからなのか、全然お腹が空かなかった。
ふと見上げた時計は、十七時四十五分。
まだ奏真は部活中だ。
せっかく作ったのに食べないのは勿体ないから、奏真が帰ってくる前に奏真ママにおすそわけしに行こう。
坂入家の毎週金曜日の夕食はサボりデーだから、恐らくお茶漬けか納豆ご飯。
金曜日にご飯が作られている日は、次の日にお弁当が必要な日か、家族の誕生日の日だけと年一で聞かされているし、迷惑にはならないだろう。
そうと決まれば鉢合わせないうちに持って行って、帰ってこよう。
密閉力の強い大きめのタッパーに一人二つづつ食べられるように詰めて、タッパーごとビニールで包む。
やばい、部活が終わるまであと十分だ。
生身のビニール包みタッパーと鍵を手に家を出る。
風が冷たくて、涼しかった。
すっかり腫れが引いた目元は、もう風の感じ方はほかと変わらない。
「え、紗綾?」
「え?」
マンションのロビーを出ると、数メートル先から聞こえる君の声。聞きたくなかった声。
「ちょ、出歩いて大丈夫かよ。……どうした?」
いつもはこっちに向かってくる彼に手を振るのに、無言の私を見て心配そうな目が私を覗きんでくる。
泣きたくないのに、ツーっと頬を伝う涙。
彼は私の涙の対処法をよく知っているけど、今日は確実に効果なし。
親指で優しく拭ってそっと抱き寄せてくれるけど、それが私の傷口に塩を塗る行為だと彼は分かっていないし、これから先、知ることもないだろう。
「あくび。あとドライアイ?……そうだ、告白どうだった?」
必死に誤魔化して、話題を変える。方向性は完全に間違えたけど。
「付き合うことになった。誰にも話す気はないけど、ちゃんと紗綾には報告する許可もらってきたから」
グサッと、心にナイフ。
なにそのいらない許可。
でもそっか、二人は両思いだったんだ。
「おめでとう。なんか、私も嬉しい」
思っていないことを口にする。刺されたままのナイフが、じわじわと傷口をさらに広げていく。
痛い、痛い。辛いよ。
昨日の夜からずっと、私も男に生まれたかったという思いは変わらないまま。それなのにベリーショートにもできなかった。所詮、それくらいの気持ちなんだ。きっと。
そう思わないと、十四年の長い片思いに終止符を打つことは何年経っても無理だ。
「それより、どうしたんだよ。髪も切ったし、大丈夫か?」
気付いてくれた。嬉しい。
まだ踏ん切りのついていない私の心は、それだけで少し、傷が回復した。
これじゃあ髪を切った意味がなくなるのに。
「気分。じゃあ私、帰って寝るね。これ、お祝い。みんなで食べて」
押し付けるようにロールキャベツを渡して、逃げるようにエレベーターへ乗り込んだ。
必死に止めた涙は枯れることなく溢れてくるから、きっと明日も目は赤く腫れている。
彼の幼馴染に戻れる日は来るのかな。来ないかもしれない。
それでも幼馴染としてでもそばにいたいという私の気持ちは、誰が聞いてもきっと呆れられてしまう。
それくらい、苦しいけど好きなんだよ。
短くなった髪の毛に触れながら、拭うことなく涙を流した。

『少し会ってお話しませんか?部長』
彼女からそうメッセージが届いたのは、体育祭から二週間ほど経った日曜日。
『いいよ。どこにする?』
百笑はたまに私のことを名前ではなく、部長と呼ぶことがある。それでそれは、何かを相談したいときが大半。あとは面白がっているとき。
『とりあえず紗綾の最寄り駅まで行くね』
指先ひとつで送られてくるメッセージ。
数十分経つと、『電車に乗ったよ』と、行きます!スタンプと共にメールが送られてきた。
百笑の最寄り駅から私の最寄り駅まで、十分ちょっと。
赤信号でちょうど立ち止まっていたから、向かってます、のスタンプを親指で送っておいた。
電車が着く頃に私も到着できそうだ。
改札前の駅特有の白い椅子に座って彼女を待つ。
ちらほら人が改札をくぐるのを見送って、次の電車かな、と思い始めたころに無表情でICカードをかざす彼女が目に入った。
白シャツにデニムのショーパン。細い脚がよく映える。
「いやー、やっと髪切った紗綾に慣れてきたよ」
開口一番、ここ最近のいつもの一言。
「どうせ次会ったときも同じこと言うくせに」
「だってまだ私の中の紗綾は髪の長い紗綾だから」
笑いながら話していると、駅員さんの視線がこちらに向いている。女子高生二人の会話はうるさいのかもしれない。顔が怪訝そうに歪んでいる。
「どこ行く?」
「んー、甘いもの食べたいかも」
あ、じゃあ前のカフェに。
そう思ったけど、電車に乗ってきてもらってまた来た方向へ行く電車に乗せるのはさすがに酷だ。
「じゃあとりあえず、カフェに入る?」
駅前のカフェ。ここからも見える、すぐそこのお店を指さした。
「うん!」
頷いた彼女を横目に、軽く駅員さんに頭を下げながら外へ出る。
日の光がジリジリと肌を照らす。あと二週間もすれば七月になる。夏本番目前だ。
木の扉を開けて中に入るとエアコンの効きがいい感じで、火照った身体を冷やしてくれる。
「ご注文お決まりになりましたらお声がけ下さい」
レジの前で、二人してメニューとにらめっこ。
ドリンクはもちろんココアフロートだけど、スイーツメニューは誘惑だらけだ。
「これと、これ、お願いします」
サクッと決めた百笑は、サクッと注文を済ませてしまった。
「じゃあ私は、これとこれで」
ちゃんとメニューに書いてある名前で言うつもりだったけど、彼女につられてこれこれしてしまった。
「かしこまりました」
店員さんの優しい声。
お会計を済ませて、窓側のソファー席に腰掛けた。
「どうしたの?なんかあった?」
少し間をおいて話を聞く体制にはいる。今日の一番の目的はこれだ。
「うん。大丈夫?紗綾」
「え、なにが?」
「そろそろ聞いてもいいかなって。髪切った本当の理由とか、しょっちゅう目が赤かった理由とか」
スイーツよりも先に来たクリームソーダを飲みながら言った。
相当心配をかけていたみたいだ。
というのも、そろそろとか言いながら、まだ少し聞きづらそうだから。
「失恋、したの。小学生のころからずーっと奏真のこと好きだったから、結構ダメージ大きくて。心配かけてごめんね」
正直まだまだ大好きだし、頭の中は奏真でいっぱいだけど、そればっかりにとらわれてたら生きていけない。
それにありがたいことにお母さんが家にいないからこそ私がやることが溢れていて、そのおかげで少し気が紛れている。
料理、洗濯、掃除、あと勉強。
恋にうつつを抜かして成績が落ちるとかよく言うけど、来週から始まる一学期の期末テストは今までで一番いい点が取れそうだ。
「そっか、もう大丈夫なの?」
「万全な状態ではないけど、いつかは新しい恋をして私も奏真に負けないくらい幸せになりたいって思ってるよ」
そのいつかは何十年も先になるかもしれないし、こんなに奏真のことを思っている私を振ったことを後悔させることもできないけど。
まだまだ未練タラタラだけど、いつか。いつかきっと。誰かに言って聞かせられるような、人生経験のひとつとして恋をしたい。
「ちなみにさ、奏真くんのどんなところが好きだったの?」
それはまだ失恋していないときに聞くことだろうに。こんなこと話したら、まだまだ引きずっていくことになりそうなのに。
「心配性で、すっごく優しいの。だから私、あの体育祭の日まで一人で帰ったことはなかったし、奏真に話せないのは恋心だけだった」
お腹がいたくて一瞬顔を歪ませただけでも気付いてくれて、寝かせてくれたりした。
寒さで手をポケットに入れていたら、コンビニのひとつの肉まんとふたつの温かい紅茶を買ってきてくれて、肉まんはふたりで半分こ。少し大きい方を、いつも私にくれた。
問題が解けなくて先生に「もういいよ」と言われて泣きそうだったとき、屋上へ連れ出してくれて涙を流す私の肩をさすってくれていた。
肝試しも私が怖いのが嫌いって分かっているから、幼稚園の頃から手を繋いで少し前を歩いてくれていた。
かっこ悪いところもあるけど、いいところが山ほどあって、それを幼い頃から一番近くで見てきたんだ。惚れずにいるのは不可能な話。
「そうなんだ。そんなに幸せそうに奏真くんのこと話せるなら、出会えてよかったし恋をしてよかったってことだよ。無理に忘れなくても、少しづつ前を向けばいいんじゃない?」
いつの間にか運ばれてきたナッツとキャラメルソースのクロッフル。新商品。
初めて食べたクロッフルは、クロワッサンをワッフルにしただけあって結構バター感が強かった。結構重かった。私には。
未だに心を占める奏真への思いくらい、重かった。
「ありがとう。百笑がいなかったら私、奏真に恋したこと後悔してたかもしれない」
それでも今、救われた。百笑の言葉に。
自分でも嫌だと思うほど重い気持ちも、なんだか少し、そこまで好きでいられる自分が好きになれた気がした。
「てかさ、ごめん、私文化祭のとき紗綾の邪魔してたよね?」
ハッと思い出したかのように口を開く。
「なにがなにが?」
正直がむしゃらで、二日間しっかり働いたことしか覚えていない。部長という責任感で、必死に働いていただけ。
「シフトの時間がって気にするとき、今考えたら奏真くんの方見てたなーって。一緒に回る約束してた?」
そういえばそんなこともあった。
今思えば、変なことを口走らなくてよかったからある意味助かったのかも。
「ううん、全然。一方的に一緒に回れたらなって思ってただけだよ」
「そっか」
一に沈黙、二に沈黙、三に沈黙。
「この前弓助さん来てたじゃん」
先に謎の沈黙を破ったのは百笑だった。
「あー、そうだね」
弓助さんは学校でお世話になっている弓具店で、握り革だったり弦だったりを定期的に売りに来てくれる。大会前とかは特に。
「透明の中に金箔が入ってる筈があって、すっごく可愛かったの」
たまに弓助さんはオリジナルの商品を作って持ってきてくれることがある。
弦巻も、どこにでもあるものかと思えば内側に『弓助』と印字されていたことがあった。
「買ったの?」
「買えなかった。お財布忘れちゃってさ」
残念そうに、アイスとブルーハワイが混ざって薄い水色になったクリームソーダを軽くストローで混ぜていた。
「じゃあ次だね」
「うん。次こそは絶対ゲットする」
そんなどうでもいいような話をして、数時間。
ママ友並にドリンクとデザートだけで話し込んでいると、彼女のスマホが着信画面に切り替わった。
「あ、ちょっとごめん」
私に一言伝えると、耳元にスマホを押し当てる。
「うん、うん。あー、わかった」
百笑が電話している声を聞きながら、すっかり薄味になったココアを吸い上げる。氷がもう溶けてしまっただけあって、ココア風味の水を飲んでいるような感覚になった。
「ごめん紗綾、先帰る」
電話を終えると、荷物をまとめながら言った。
「いいよ。どうかしたの?」
「今日従姉妹が泊まりに来るんだけど、お母さん残業になっちゃって。鍵開けないといけないんだよね」
「大変じゃん!早く帰ってあげて」
「ありがとう」
たまに時計を見ながら残りのドリンクを飲み終えると、「ほんとにごめんね!また明日!」と急に来た嵐のように帰って行った。
「お母さんかぁ」
別にNGワードではないし、奏真にさえも本当のことは話していないけど、少し羨ましいと思ってしまう。本当に、一ミクロンくらいだけど。
「帰ろ」
空っぽになったお皿たちをそのままに、荷物を持って店を出る。ムワッとした暑い空気が直接肌に触れた。
日に日に日が長くなっていて、吹いている風からは正真正銘夏のにおいがした。
このまま帰るのもなんだか勿体なくて、隣の隣にあるアイス屋さんに寄ってテイクアウトの抹茶ストロベリー味のアイスを買った。
夏の草原に赤い花が咲いたような、綺麗な色合いにパステルイエローのスプーンが刺さっている。
食べながら歩いていくと、ギターを弾いているあのときのお兄さんがまた、同じ場所で歌っていた。
口から紡がれるバラードの、ゆったりした音調がよく似合っている。
一曲歌い終わると、今度は知らない曲が彼の手元から流れ始めた。
一曲聞き終わって横断歩道を渡ろうとする足がピタッと止まった。私だけ時間が止まったかのように、動けなかった。
初めて聴く歌に、驚くほど心が吸い寄せられていた。

ごめんね
君のことはなんでもわかっているつもりだった
ずっと繋がっているはずの運命の赤い糸
プツンと切れた日はまだ忘れられない
荷物は全部手元から消えたのに
頭の中に残る思い出だけは
もとから取り付けてあったかのようにその場を動かないんだ

二人で笑いあった日々は本物なのに
今まで思い出すだけで幸せだったのに
今はこんなに苦しいよ
雪が散るあの日
二人で分け合った肉まん
君の方が多く食べていたけど
美味しいって笑うその笑顔が
僕にとって最高の幸せなのに

ごめんね
『別れてほしい』その言葉に
『別れたくない』って駄々を捏ねたあの日
君は涙を滲ませながら困ったように笑ったよね
告白が成功して嬉しすぎたあの日
僕が大きな声でガッツポーズをしたときとおんなじ顔だった

二人で過ごした日々は本物だから
出かけるたびに思い出すよ
夕日が綺麗なデート帰りの定番のカフェ
君のお気に入りのケーキ屋
二人で楽しいと笑いあった思い出が
今でも僕の頭と心を君でいっぱいにするんだ
今でも愛おしい君の笑顔が

向かいの道路
ふいに見つけた君の姿
久しぶりに見た君
隣には新しい恋人
もう違う人が君のことを守っているんだね
僕もいつかこの恋に終止符を打てるように
ありがとう。いい恋だった
そう思えるように
今はこっそり
君を想って涙を流すよ
ごめんね。ありがとう
____さようなら。僕の恋心

全てを聴き終わる頃には、目からボロボロとおかしいくらい涙が溢れていて、手元をひんやりと冷やしてくれるアイスはドロドロに溶けてしまっていた。
「……えっ、大丈夫ですか?」
歌い終えて顔を上げたお兄さんは、ギョッとした目で私を見て勢いに任せて立ち上がった。
「すみません、すごく心に響いて……」
私と奏真をそのまま当てはめたような、そんな歌だった。
「ありがとうございます。えっと、とりあえずどこか入りますか?」
ギターを片手にあわあわとしているお兄さん。
「……はい」
せっかくなら、この歌が誰の歌なのか聞いておきたい。あと、こんなに素敵な歌声を聞かせてくれたことへのお礼も。
「ちょっと待ってくださいね、片します」
せっせとギターをケースへしまい、肩にかけた。身体の輪郭から斜めにはみ出るギターケースは、素敵なお兄さんをより素敵に魅せる。
「夜ご飯食べましたか?」
「いえ、まだです」
溶けたアイスはあまり良くないと聞くから、残念だけどしわくちゃのスーパーでお豆腐を入れるようなビニール袋のなかに入れてごめんなさいとさよならをした。
「じゃあ、ファミレス行きますか」
映画館の建物の一階のフロアに入っているお財布に優しいイタリアンレストランへ入る。
久しぶりに入った。エビ入りのサラダとミートソースドリアが有名なこの店は、どこにでもあるチェーン店。安くて美味しい、お馴染みの味が楽しめるのがいいところ。
「あの、お兄さん」
席へ案内されてそうそう、机の上に丁寧に置かれたメニューには目もくれず、お兄さんに話しかけた。
「ん?」
慣れた手つきで縦長のメニューを開くお兄さんは、優しい笑顔でこちらを見た。
「あの、さっき歌ってた『ごめんね』から始まる歌、誰が歌ってるやつですか?」
もう一度聴きたい。なんならアラームにしたい。
もしかしたらお兄さんの声で聞いたから心にストンと落ちてきただけで、ご本人様が歌ったら全然違うパターンも有り得るかもしれないけど。
「あー、あれ?あれかぁ……」
右手で首の左側をポリポリと掻きながら、照れたように俯いた。
相当その歌手の人が好きなのかな。推しなのかな。
「実は僕が作ったんだよね。生まれて初めて作詞作曲したやつ」
顔を少し赤く染めて、囁くように口にした予想外の答え。
「え!そうなんですか!最高です!」
口からは明らかにびっくりマークが単語ごとに付いていると分かるほど、興奮してしまった。
これは、もう。無意識に足を止めてしまうくらいなら、もう。
「私、お兄さんのファンになっちゃいました」
胸の内にしまっておくつもりが、普通に声に出して伝えてしまった。
恥ずかしくて、顔が熱い。
「ありがとう、嬉しい」
そう答えるお兄さんの顔も、さっきよりも真っ赤になっている。
「僕、若草惟人っていいます。大学一年、十九歳です」
「私、如月紗綾です。高校二年の、十七歳です」
二人して頬を染めながら、お互いの名前と年齢を知った。
クーラーの効いた騒がしい教室で机に体重を預ける。机と鼻の距離はゼロで、ほんのり木と鉛筆の芯の香りがした。
顔を上げた先には絶対奏真がいて、その隣には彼氏なのか彼女なのか、立ち位置はよく分からないけど彼の恋人の陽高くん。
現実から逃げるように目を閉じると、お兄さん、惟人さんの歌は、あれから何日も過ぎた今でも相変わらず頭の中でリピートされる。
あの日、ご飯を食べてまっすぐ家に帰った私たちは、そのあと「ありがとう」を伝えることなく別れてしまった。
名前を教えあったなら、連絡先くらい聞いておけばよかったなんて少しだけ後悔した。
それ以来、惟人さんとは会っていない。
もう七月がやってきて、あと少しで夏休み。
きっとこのままあっという間に時間が過ぎて、高校二年生なんてすぐに終わってしまう。
もう一度あの声が聴きたい。あの歌が聴きたい。
惟人さんは一瞬でお気に入りの歌手ナンバーワンに登りつめていた。
「紗綾、帰るぞ」
荷物を持って、久しぶりに声をかけられる。
「ごめん、陽高くんと先帰って。用事あるから」
嘘をついた。
罪悪感と寂しさと、二人に気を遣った自分。どれも自分のことしか考えていないような気がして胸が痛い。
「サンキュ」
嬉しそうに笑うと、「陽高、帰ろーぜ」と幸せそうな笑顔で声をかけていた。
彼らが門を出るのを窓から確認して、私も校舎を出る。
白シャツにピンクのリボン。変わり映えのしない夏服は、汗ですぐ肌にくっついた。
吹く風は生ぬるくて、空から降る光は日に日に温度を上げていく。この条件でこの道を歩くのは苦痛だ。
一歩一歩に重みを感じながらも確実に前に進み、奏真の家を通り越した。
気持ちも簡単に前に進んで、奏真のことを乗り越えられたらいいのに。
「あれ、紗綾ちゃんだ」
「惟人さん!今帰りですか?」
帰り道、駅に続く十字路がある道でばったり会った。久しぶりに見た惟人さんは、特に変わっていなかった。
「今から夜ご飯食べに行くとこ」
そう話す惟人さんはご機嫌だ。
「何かいいことあったんですか?」
「うん。あ、紗綾ちゃんも一緒に来る?」
「行きたいです!」
気づいたらそう答えていて、まっすぐ行くはずの十字路を左に曲がって駅の方へと歩いていた。
「誘っといてあれだけど、お母さんとかご飯作って待ってるよね?大丈夫?」
少し歩くと、心配そうに足を止めた。
どうしよう。なんて言おう。出会いたての人に話すのは重すぎる。私の家庭事情の話。
「全然大丈夫です。話すと重くなっちゃうんですけど……」
何言ってるんだ、私。
言わないと決めてそうそう、ボロが出てしまった。こんなの、遠回しに聞いてほしいと言っているようなものだ。
「……そっか。ご病気?」
少し考える素振りをしたあと、遠慮気味に問いかける。
どうやら亡くなっていると思っているらしい。
「いえ、生きてます。多分普通に元気です」
じゃあなんだろう、と首を傾げている。
また失敗した。いっその事死んだことにしておけば……。いや、重いことには変わりないか。
「あの、なんでそんなに知ろうとしてくれるんですか?」
重い話なんて誰もが嫌がるはずで、奏真にも百笑にも、先生にも話していないのに。
知りたいのは私に興味があるわけじゃなくて、勿体ぶるから好奇心が湧いてくるという可能性もあるのかな。
「紗綾ちゃん、寂しそうで、なんだか聞いてほしそうだったから、かな。言いにくいなら、無理に聞かないから安心して」
惟人さんはそう、私の頭をポンポンと撫でると、ガラガラと引き戸を開けてレトロな家に入った。
「ここ、惟人さんのお家ですか?」
「ご飯食べに来たんだよ。ほら、入って入って」
手招きをされて、ドキドキしながら戸をくぐる。
落ち着いた雰囲気の店内は、昔ながらの食堂のよう。
「お、惟人くん!いらっしゃい!今日は彼女も一緒か!いいねぇ」
威勢のいいおじさんが親しげに惟人さんに話しかけていた。
「彼女じゃなくて、友達です。おじさん、紗綾ちゃんびっくりしてるから」
「ごめんごめん。じゃあ二人ね。空いてる席座りな」
惟人さんのあとに続いて座った窓際の席は、綺麗な花が夕日に照らされていた。
「よく来るんですか?」
「うん。お隣さんが教えてくれて。初めて来たときは普通の一軒家だから変にドキドキしたけど、今はもうすっかり常連さん」
話を聞くと、知る人ぞ知る隠れ家食堂らしい。
看板もなければ店の名前もない。今まで普通に横並びになっている家のひとつとしてしか見てこなかった。
「惟人さんのおすすめはなんですか?」
今日は質問ばかりしてしまう日だ。まだ、相手のことを全然知らないからなおさら。
「アジフライ定食が美味いよ。昼だとおにぎりランチがあるんだけど、それも絶品。だから今度は昼、一緒に来よう」
メニューを見る限り、ここは和食専門らしい。
ご飯は白米、玄米、雑穀米の三種類、お味噌汁は白味噌、赤味噌の二種類から選べる定食がメイン。
定食メニューは生姜焼きに照り焼きチキン、サバの味噌煮にブリの煮付け。唐揚げ、焼肉、トンカツ、エビフライ……。
それに日替わりで副菜の小鉢がふたつと漬物がついてくる。
これは知らないのがもったいない。
とりあえず今日は、おすすめのアジフライ定食で玄米と白味噌のお味噌汁にした。
惟人さんはサバの味噌煮定食に、白ご飯と白味噌のお味噌汁。
注文を受けてもらうのと同時にいただいたお水の氷がカラン、と涼しげな音を響かせる。
「あの、聞いてください。私の家の話」
この人になら話してもいいかなって思った。変に気を遣わずに聞いてくれるような気がした。
「うん。聞かせて」
机の上に出ている手を膝上にしまって、パチッと目が合う。
人生で初めて家族の話をするというのに、不思議とあまり緊張しなかった。
「母子家庭なんです。うち。産まれた時から父親がいなくて、母とふたりでマンションに住んでたんです」
プツプツとコップが汗をかきはじめた。
それに意識を向けていないと、まともに話せる気がしなかった。
「うん」
「小学一年生までは、普通の母親だったんですけど、奏真……幼馴染のお母さんが常に家に居るようになってから変わっちゃって」
手のひらをぎゅっと握りしめた。食い込む爪が、自分を保たせてくれている。
そうじゃないと、辛くも悲しくもないのに泣いてしまいそうだった。
「彼氏の家に遊びに行って寝泊まりすることが増えて。今はもう、そのまま帰ってこなくなりました」
言った。言ったぞ。誰にも話していない、お母さんのことをとうとう口にした。
話したあとの方が、謎に緊張してドクドクと血液を過剰に送り出している音が聞こえた。
コップがかいた汗は、つーっと流れて机の上に丸い跡を残している。それを見て、私の鼻もツンと痛くなった。
「でも今は、家事は完璧にこなせるし、嫌なことがあっても踏み込まれずに必死にやることが常にあるのでありがたいんです。花嫁修業も完璧だし、いいことづくめだなーって」
必死で誤魔化して、辛くないことをアピールするけど、きっとこれがあるから更に辛そうに見えるんだろう。
聞いていた惟人さんも、なんだか泣きそうな顔をしていた。
「さば味噌定食とアジフライ定食ね。お姉ちゃん、辛いときは耐えないでこいつに吐き出していいんだよ。手もそんな強く握りしめてたら綺麗な手に跡がついちゃうだろ?」
黒いお盆に乗った定食と共に言葉をおいて、バシバシと惟人さんの肩を叩くと厨房へと戻って行った。
「なんかすみません」
「いいのいいの。あの人いつもだから」
楽しそうに笑う声。惟人さんのそんなに重く捉えていない感じが、私の不安をあっさりと取り除いた。
「まぁ人それぞれ何らかの事情を持って生きてると思うし、泣きたいときは僕のこと呼び出してくれてもいいからさ。紗綾ちゃんはよく頑張ってると思うよ」
そんなこと、初めて言われた。
勝手に、親がそんなだから……とか、かわいそうな子って何かにつけて親のせいにされるものだと思っていたけど、この人は違った。
「ていうか、呼び出してとか言っときながら連絡先知らないじゃんね。QRコードでいい?」
「はい。ありがとうございます」
お互いの定食の、お味噌汁の湯気が立ち込める中、チャットアプリのアカウントを使って連絡先を交換した。
「よし、じゃあ食べるか!」
パタン、とスマホを伏せて置き、手を合わせる惟人さんは見ていてすごく微笑ましかった。
上手に箸を使って骨を避けながらおかずを口にする姿に、焼き魚にしなくてよかったと心底思った。
箸で掴んでかぶりつくだけの私は、一口目はお好みでかけるようにつけてくれたとんかつソースをかけずにそのまま。
サクサクッと衣の音が耳に届くと、ふわふわの身と旨みが口いっぱいに広がった。
「ん、おいひい」
心の中に抑えておくことが難しいほどの美味しさに、一個なんてあっという間にお皿から消えてしまう。
小鉢に入った胡麻豆腐とほうれん草のおひたしも食べたいけど、アジフライから動くことが難しい。
「紗綾ちゃんは将来の夢とかあるの?」
お茶碗をもったまま、ご飯を口に運ぶことなく言葉が飛んでくる。
昔はいっぱいあった将来の夢。
ケーキ屋さんとかお花屋さんとか、パン屋さんもあったかな。動画クリエイターという時代ではなかったから、現代っ子の返答は無理そう。
「まだ決まってないんです。何をしたいのか、どんな仕事をしてこの先の人生を歩んでいきたいのか、全然わかんなくて」
夏休みが終わると、もう何回目かも分からない進路希望調査が配られる。そろそろ地に足をつけて書かないといけない時期がやってきた。
「そっか。だいたいそういうもんだよ。僕もこれって決まったの、高校二年生の冬だったし」
なんだ、それまで悩んでいいんだ。
実体験の話を聞くと、期限が伸びたみたいで少しゆとりを感じる。
「何に決めたんですか?」
やっぱり歌手だろうか。
そうじゃなくても、音楽系の道に進みそう。
「高校の先生になりたいなーって」
予想の斜め上の回答に、少しフリーズしてしまった。
「そんな驚く?」
ふはっと空気を含んだ笑い声をこぼしながら、器用に胡麻豆腐をつまみ、口に運んだ。
「はい。だってあんなに歌が上手くて素敵な歌詞がかけるのに、音楽の道じゃなかったので」
惟人さんならそれで生きていけそうだけど、それほど人生は甘くないということだろう。
「あれは趣味だからね。趣味を仕事にできるっていいことだと思うけど、僕は趣味は息抜き程度にできるものにしてるから」
すごく大人な回答だと思った。
趣味は秀でていれば仕事になって、主にそれを目指している人ばかりだと、勝手に思っていた。
「音楽のこと、嫌いになりたくないから。これを仕事にして、辛くなってもうできないっていうのはどうしても避けたくて。ある意味弱虫なのかもしれない」
食べながら話すのが上手な人だな。
口の中に食べ物が入ったまま話しているわけでもないし、くちゃくちゃと嫌な音がするわけでもない。
それに比べて私は、「そうなんですか?」「へー、すごいですね」なんて相槌を打っているだけなのに、口に運ぶタイミングがイマイチ掴めない。
「だから今できることで極めたいことがあるならそれを将来の仕事にしようとするのもありだと思うよ」
それだけ言って、満足したようにずっと手をつけられていなかったお味噌汁を飲んだ。
もう、湯気は消えて無くなっていた。
「ちなみに、なんで惟人さんは先生になろうと思ったんですか?」
正直、学校の先生に魅力は感じない。口にはしないけど。
何十人もの生徒の顔と名前を覚え、授業をし、問題が起これば解決し、その場に応じて怒る。
もちろん行事はいくつになっても楽しいものかもしれないけど、一年の二、三回のために暑い日も寒い日も、大勢の前で教育活動をするなんて私には理解できない。
「高校二年生のときの担任がすごくいい人でさ。二者面談のときにどんなに希望が薄くても悲観的な言葉は一切口に出さないの。お前ならできる、やれるの一点張り」
そういう先生はあまりいないかもしれない。
適当に少し上の大学名を書いたら、『もう少し低いところがいいんじゃないか?』と遠回しにお前には無理だ、と言うのがうちの担任だ。
「それで、できるって信じて勉強したら定期テストでまさかの上位二十番以内に入れちゃって。それで、僕も人の背中を押せる教師になりたいって思ったんだよね」
やはり人に夢を与えられる人はいい人に限るらしい。嫌な人は、夢を与える前にわずかな希望も打ち砕く。
「でも確かに、先生みたいです。惟人さん」
進路の話を親身に聞いてくれるところとか、自分語りのやり方とか、生徒からの信頼を得ている先生と同じような感じだ。説得力がある。
「……そ?なら嬉しい」
肩を竦めて笑う姿が、どこか可愛らしかった。

「今日ご飯食べに行かない?」
終業式が終わり、部活もないからまっすぐ帰ろうとしたら昇降口で彼女とばったり会った。
「いいよ」
家の都合とか、そういうのに振り回されることのない私は即答だった。
「あ、奏真くんじゃん!奏真くんも一緒にご飯行こうよ」
靴を履き替えようとしたとき、ちょうど階段を一人で降りてくる奏真。最近話していないから一方的に少し気まずいのに、そんなことを知りもしない彼女は元気に声をかけた。
「いいよ」
私と全く同じ回答だったからか、なんだかニヤニヤと口角を上げている。
……これは、もしかして、もしかしなくても。
「どこか美味しいお店ないかなー」
人一倍テンションが高く、行かないなんて言えない状態になってしまった。
「ファミレスでいいよ」
頭に浮かんだ惟人さんと入った食堂を思い出したけど、言わないでおいた。
「そうだね!」
そんなこんなで通り道にあるファミレスに三人で入店した。
隣は百笑。目の前は奏真。
……なんでこうなったんだろう。
「何食べようかなー」
午前中は授業で、午後は終業式で捕まった。
時間的にはまだおやつの時間なのに、見ているページはご飯ものばかりが載っているところばかり。
「私トマトチーズリゾットにする」
そんなに食欲はないし、この状況で食欲が湧くような気もしない。
「じゃあ私ハンバーグプレートにしよー」
育ち盛りとはいえ、この時間帯に制服でご飯を頼むのは少し恥ずかしい。
「オレは……」
奏真がメニューとにらめっこをしているのを見ないようにスマホに目を落とすと、惟人さんからのメッセージが届いていた。
『今からパフェでも食べに行かない?』
三分前。たまにやりとりをするチャットに、お誘いの新規メッセージ。
ナイスタイミング。
「ごめん、私帰るね」
「え、なんで?」
カバンを持って立ち上がると、びっくりした目でこちらを見てくる。さて、なんて言おうかな。
「たまにしか会えない友達と会ってくる」
惟人さんと会う、なんて言っても、誰?から始まるゴールが遠い質問攻めが始まるのは目に見えているから、ここは内密に。
少し残念そうにしていたけどちゃんと解放してくれて、出してくれた水すら口をつけずにファミレスを出る。
『行きます!どこまで行けばいいですか?』
紙飛行機のマークで二件に分けたメッセージを送ると、すぐに既読がついた。
『じゃあいつもの駅集合で』
『はい!』
早歩きで駅まで歩くと、椅子に座って改札口の方を見る惟人さん。タイル状の窓から差し込むキラキラと輝く日差しが彼を輝かせていた。
「お待たせしました」
「全然待ってないよ」
椅子から立ち上がる彼。私より少し背が高いことに、今気づいた。
「惟人さんって身長いくつくらいですか?」
とくに具体的な数字が知りたいわけでもないくせに、改札の向こう側とこちら側、わかれたときに声をかけた。
「え、理想言わないと通らない感じ?」
楽しそうに笑う。
「いえ、なんか、聞いてました」
つられて私も笑う。
「百七十五かな、確か。ここ一年くらい測ってないけど、多分そう」
後を追って改札を通ると、少し考える素振りをして、教えてくれた。
「紗綾ちゃんは?」
「百六十です。この前の体力テストのとき測ったばっかりなので間違いないです」
胸を張って自信満々で答えると、ふはっ、と笑う声。惟人さんだなー、なんて、少し嬉しくなった。
「へぇー。運動とか得意なの?」
「いえ、全然。去年の順位は下から二番目でした」
これはある意味自慢。下から数えた方が早い順位なんて、そうそう取れるものじゃない。
いや、自慢にしてる。笑い話にしたら、この順位も悪くないかなって思えるから。
「意外だな。紗綾ちゃん、スタイルいいから運動得意だと思ってた」
「自分磨きと体育は全くの別物なので」
真面目な顔で答えると、また楽しそうに笑う。
笑ってもらえるとやっぱり嬉しかった。
二駅先で降りて、見覚えのある道を歩く。
「なんかいつも制服で会ってる気がする」
ふと、何かを思い出したかのように彼は言った。
「惟人さんの作った歌を聴いたときは私服でしたよ。でも確かに、会うときはだいたい制服かも」
見下ろすと運動靴と、生脚。あとは紺色のスカート。
それに比べ惟人さんは、白シャツに青い半袖の上着。黒いズボン。見た目からもう、爽やかだ。
大学生の彼の隣を歩くなら、もうちょっと大人っぽくて可愛い服を着たい。
白ブラウスに緑のジャンバースカートとか、袖がふわっと広がったワンピースとか。
「じゃあ今度、休みの日に遊び行こっか」
「はい!」
頭に奏真の顔が浮かんだのは、気付かないふりをした。別に彼氏じゃないし、一方通行の交わることを知らない感情ににしばられていたら何も出来ない。
悪いこと、してないもん。
足を止めた目の前は、『Cafe Parfaitrian』。
今度は友達と来ようと決めたパフェの店。
扉を開けて中に入る。外の暑さに比べて、気持ちいいくらい涼しかった。
「ここ、知ってる?パフェが有名なの」
椅子に座って、そう差し出してくれたメニューに目を落とす。
「はい。この前は一人で来たんですけど、今日は惟人さんと来られて嬉しいです」
丸ごと桃のパフェ。白くま風のパフェ。かき氷の入った珍しいものもある。
だけどここはやっぱり、桃だ。
「決めた?」
どうやら惟人さんは既に決まっていたようで、顔を上げた私の顔を見たらすぐ、そう聞いた。
「はい。桃にします」
「ん、りょーかい」
ベルを鳴らし、スマートに注文を済ませる姿がなんだかすごく大人にみえた。
「紗綾ちゃんは部活とかやってるの?」
「はい。これでも一応弓道部で、部長任されてます」
体育嫌いだからか、信憑性に欠けるんだよな。
きっと惟人さんも、疑いから入るんだろう。
「え!まじ?すごいね」
……あれ?今まで見てきた反応とは正反対だ。
「弓道部ってだけでもかっこいいのに、その上部長とかなに?イケメンなの?」
身体を乗りだして、真剣な目で訴えてくる。
奏真でさえも、紗綾に任せられるの?という方向で真剣に心配性を発揮してきたのに、この人は全然違った。
「下手なんですけどね、腕は」
「いやいや、そんなこと関係ないよ。先生は紗綾ちゃんの真剣さとか真面目さとかに惹かれたんじゃないかな」
うんうん、と頷きながらそう言ったあと、「真剣と真面目ってほとんど同じか」と笑った。
「そんなふうに言ってもらえるの初めてで、嬉しいです」
「お待たせいたしました。丸ごと桃パフェです」
ちょうど話に区切りがついたとき、様子を伺っていたかのようにパフェが届いた。
前のときのオシャレなグラスとは別の、レトロなパフェ容器。
それに下から、桃のコンポート、バニラプリン、ラズベリーのジュレ、桃のコンポート、砕いたビスケット、カスタードクリーム、バニラアイス。その上に桃を丸ごと一つ。
思わず手を叩いてしまうほど、美味しそう。
見た目はもう、スタンディングオベーションレベル。味もきっと、この前のパフェが美味しかったから約束されたようなものだ。
柄が細くて長いスプーンで、頂上の桃を掬った。
繊維が切れて、果汁が溢れてくる。
まだ口にしていないのに、もう美味しい。眼福だ。
口に入れると、みずみずしくてフルーティーな美味しさが口いっぱいに広がって、少しだけついてきたバニラアイスがその美味しさを更に引き立てている。
「来年も、一緒に来たいです」
「そうだね。また来よう」
食べ終わって帰る準備をするときに話すことを、もう既に話し終えた。
当たり前のように来年も来る口約束をして、当たり前のようにその日が来るのを待つのだろう。
「あの、もし良ければ見に来ますか?」
メインの一番上の桃がなくなった喪失感からか、思ってもみないことを口にしてしまった。
「なにを?」
まだ引き返せる。映画とか美術館とか、いくらでも言い換えられる。
「今度の土曜日、市内大会なんです」
奏真でさえも来てほしくないのに、引き返すチャンスは既になくなってしまった。
知り合いが来たら、いつもより緊張してガッチガチになるのは目に見えているのに。
もう、断られることを祈ることしかできない。
「え、いいの?」
完全敗北。
「はい。もしお暇なら、ですけど」
誘っておいて、やっぱりダメです、とは言えなかった。暇なら、と言ったのは、最後の悪あがきだ。
「暇ひま。めっちゃ暇。えー、超楽しみ」
そうだよね。暇じゃないなら、一言目から断るためにごめんとか何とか言うよね、普通。
「いつもより頑張ります」
結果、そう言わざるを得なくなってしまった。
もちろんいつも全力を出してはいるけど、惟人さんに弓道は素敵な武道だと知ってもらえるチャンスだ。もうこの際、ピンチはチャンスだと思うのがいい。
「楽しみだなー」
そう呟きながら、どんどん食べ進めていく。さすが男の人。食べるのが早い。
「じゃあ、詳細のプリント、メールで送っておきますね」
「うん。ありがとう」
てん、てん、てん。のなんだか心地いい沈黙が流れたあと、惟人さんはなにかを思い出したかのようにハッとした顔でこちらを見た。
「そろそろ進路希望調査配られるよね。この前悩んでたけど、大丈夫?」
優しいなぁ、この人は。夢の持ち方さえも優しいもの。
「配られるのは夏休み明けなんですけど、決まらなくて既に悩んでます」
そして、いい人だからこんな話もできてしまう。少し大人な目線で私の話を聞いてくれる、まるでお兄ちゃんのような人。
「紗綾ちゃん、好きなことある?」
もしかしたらきっと、ただのおせっかいに見えるかもしれない。だけど私にとってはこういうことを話せるだけですごく嬉しい。
「音楽を聴くことと、あとマンガ読むの好きです!少女マンガ、読んでると生きてる価値を感じて……。白田亜季先生の『雨の日は、君とふたり』は映画化してて、未だに連載が続いてるんですけどほんとに最高なんです。他にも同じ雑誌で連載してる春井すみれ先生の『初恋イレイサー』とか、胸きゅんのオンパレードで!あとは」
あ、やばい。熱入りすぎた。無意識にスマホの画面を見せたりして、恥ずかしすぎる。
惟人さんはぽかんとしていて、少しするとくすくす笑い始めた。
顔に熱が集中するのがわかった。うちわで仰ぎたいほど熱くて、真っ赤なのは鏡を見なくても一目……いや、ゼロ目瞭然だ。
「ごめんなさい、興味ないですよね」
「いや、全然いいよ。それに、紗綾ちゃんに向いてそうな仕事、一個見つけたし」
まさかの発言に思わず「えっ」と声が出る。
先生も絶対ピッタリだけど、転職エージェントとかにもなれそうだ。
「なんですか?」
少し心が踊る。向いてそうな仕事を誰かに教えてもらうことなんて、ずっとないと思っていたからかな。
「マンガ雑誌の編集者とか、どう?そしたらとりあえず大学に行っておこうっていうよりも未来の目標ができるから毎日がもっと楽しくなると思う。あくまで参考までにだけどね」
心がキラキラした。ワクワクして止まらなかった。
今までマンガ雑誌に関われるのは漫画家さんだけだと思っていた叶わぬ憧れが一気に近づいて、頑張って手を伸ばせば届くような気がした。
「ありがとうございます!惟人さん流石です!」
塞がった道が切り開けた。こう言うのが正しいのかもしれない。
「力になれたならよかった」
満面の笑みで、彼は最後の一口を頬張った。

「よーし!」
大前の百笑が一射目を的中させると、同じ学校の仲間が声を上げる。
二的の私はこの波に乗らないといけない。
弓手を押して、妻手を捻る。手首の力じゃなくて、腕の力で伸びる。
一、二、三、四、五、六、七。離れ。
カンッと弦の鳴る音。スパンッと的紙が破れる音。「よーし!」と耳に届く部員の声。
よかった、なんとかなった。
三人立ちの十二射を午前と午後で二回。
ふわっと吹く風が、黒い袴を優しくなびかせる。
緊張感。でもそれに勝るほど楽しみなのが、惟人さんの反応だ。
メールで詳細の写メを送っただけで、『やばいかっこいい!』と、何に対してそう思ったのか分からないことを送ってきていた。
クスッと笑えるのだ。文面を見たときはもちろんだけど、今少し思い出しただけでも思わず微笑んでしまう。
それが私の過度な緊張を解してくれた。
二本目、外れ。三本目、中り。四本目、外れ。
あみだくじの折り曲げているところみたいな中て方をして、午前は終わってしまった。
次の次で矢取りに行くのが大体の大会のルールで、今惟人さんを探しに行っていると確実に間に合わない。今すぐ探しに行きたい気持ちをグッとこらえて、第一射場と書かれた矢立にさっき放った四本の矢を取りに行く。
掴むと、カシャン、と小さく儚い音が静かな空間に響いた。
変にぶつかるとすぐに歪んでしまうからなのか、いつもは大きく聞こえる矢と矢がぶつかる音がこの瞬間だけ、儚く思えた。
「取ってきたよ」
十二本を持って帰ると、百笑はどこかへ行ってしまっていた。
「ありがとー。百笑ならトイレ行ったよ」
学校じゃないから自由にスマホを触れる空間で、落の彼女はイヤホンを挿して時間まで音楽を聴くのがいつものルーティーン。次も頑張るためのひと工夫だ。
周りにいる他校の人はRPGゲームをしたり、動画配信サイトを見ながらお菓子を食べたりと自由な時間を過ごしている。
そろそろ矢取りに行かないとな、というジャストタイミングで百笑も戻ってきて、三人で第一射場側の小屋へ入る。ぼーっとしていると肩をビクつかせて驚いてしまうほど、大きな音で的中音が聞こえる。
「入ります」
他校の何度か見たことがある知らない先生の声で背筋を伸ばす。
ビー、と少し耳障りな音を鳴らし、赤旗が小窓から出されたあと、ラミネートされた両面印刷B4サイズの『1』『2』と『3』『4』を一枚づつ持って息を吸う。
「失礼します!」
先に出た百笑に続いて大きな声を出し、土の匂いが強い外へ出た。
第一射場、二的。この人の本数は一、二、……あ、ギリギリ三本中ってる。
的の右側から的中本数を確認して、『3』の面を出してまっすぐ立った。
拍手の音があちこちから聞こえてくる。
どうやら誰かが皆中したみたいだ。
射場からの合図で矢を抜いて小屋に戻る。いつもより丁寧に矢を拭き終えて矢立に戻したらご飯の時間が終わるまでは自由だ。
本当は応援に行くべきなんだろうけど、惟人さんを探したいからここは辞退させてもらおう。
「暑いね」「そうだね」の会話を飽きもせず何日も何回も繰り返して、やっとたどり着いた室内はエアコンがしっかり働いているとは到底言いがたいものだった。
ミンミン鳴くセミ。
暑さで歪む景色。
プシュっと誰かが炭酸のペットボトルを開ける数少ない涼しげな音。
「あ、如月、ちょっと」
さて、探しに行こう。そう思ったらガッツリと邪魔が入った。
「なに?なんかした?」
男子部長に手招きされて、逃げてしまいたくなる。
なにかしたっけ、私。もしかして入り方間違えた?
「先生が来いって」
……うわうわうわ、何したっけ。
全然悪いことした記憶はないけど、身に覚えがないのは更に恐怖心を煽る。
「すぐ行く」
知らない人のものをいつもの何倍も慎重に矢立に入れて、招集をするためにホワイトボードの前に立っている先生の所に向かう。
私一人に話があるわけじゃなくて、男女両方の部長に話がある感じなのかな。
ドクドクと鳴っていた心臓は、それだけでちょこっと安心したらしく、少しだけ治まった。
「忙しくて伝えるの頼むことになっちゃうんだけど」
私たちの顔を交互に見て、先生は話し始めた。
「今日は暑いから、熱中症予防のために終わった人から帰ることになりました。決勝進出する場合は出る人だけが残る形で。この旨、みんなに伝えてくれる?」
射場の様子を伺いながら、それでもこちら側には忙しいから早くして、みたいな感情は一切出さずにいつも通りの口調と声色で伝えてくれる。
「はい、わかりました」
先生にそれだけ言って、色んな学校の控え室になっている遠的射場にいる部員に伝えるために先生の言葉を何度も頭の中で復唱する。
「ごめん、ちょっといい?」
ちょうどみんな出番も仕事も終わっていて、おしゃべりに花を咲かせたり、スマホを構っていたりしていた。ラッキー。
ただ、みんなの視線が一気にこちらへ向くのは少し緊張する。なにかの発表をするわけでもないのに、手がじわじわと汗ばんできた。
「どうしたの?」
「先生からの伝言で、今日は暑いから熱中症予防のために、出番と矢取りが終わった人から帰ってくださいだって」
ふーっと細く長い息を吐く。はぁ、緊張した。
「やった!一緒に帰ろ!」
隣に来て嬉しそうに笑う百笑。
彼女だけでなく、みんなが嬉しそうに笑う姿になんだか少しほっとした。
早く帰れる話題のまま昼食を食べ終え、結局惟人さんを探しに行く時間もなく午後の部が始まり、早く帰りたい欲が出たのか一本しか中らなかった。
「帰ろ帰ろ。紗綾も電車だよね」
「うん。でもちょっと待って」
薄ピンクのカバーに包まれた弓と紺色の矢筒を持ち、空いた右手にスマホ。
直に通知の振動が伝わってくるその画面には、『どこにいる?』という惟人さんからのメッセージ。
『弓道場の出入口のところにいます』
苦戦しながらも親指で文を打ち、送信するとすぐに既読マークがついた。
「ここに来る?その人」
メールのやり取りをみているのか、引き止めているから勘づいたのか、彼女はいつも話すときのトーンと同じように口にする。
「うん。だからちょっと待ってほしい」
もうこの際、惟人さんのことも紹介してしまおう。そしたら、今後惟人さんと会うときの誤魔化しも必要なくなる。
「いいよ。あ、そうだ。奏真くんのことだけど」
「……え?」
なんで今、奏真の話?
弓道場の出入口、傘のある日陰のところで横並びになって話す。話題に出してほしくない、彼の話を。
「やっぱり諦めるには早いと思うんだよね」
「え、なんで?」
「この前ファミレスで聞いたんだよね。紗綾のことどう思ってるかって。そしたら「好き」って言ってたよ。きっと失恋は紗綾の勘違いだよ」
思わず「は?」と言ってしまいそうになるのを必死に飲み込んだ。出て行かなかった分、心にモヤモヤと謎の黒いものがほんの少し残った。
そんなことない。私は確実に失恋した。好きな人がいて、それが男の人だっていうことを顔を見てこの耳でしっかり聞いたのだ。
「だからほら、この際髪も切ったことだしイメチェンして振り向かせてみたら?紗綾なら絶対いけるって!」
有無も言わさずにペラペラと要らない世話を焼いてくる。
「……そうかな?」
それだけを口にして、笑顔を貼り付けた。
「そうだよ!無理なわけないって」
その後も髪型を変えてみるとかメイクをしてみるとか、私が両思いを夢みていた頃にやったことがあることを次々と提案してくる。
……あー、鬱陶しいな。
黒いモヤモヤは時間が経つごとに大きくなっていって、加えて癒えはじめようとしていたかもしれない失恋の傷は友人のありがた迷惑な言葉と行動で抉られていく。
「恋愛対象が男性の人をどう振り向かせろって言うの?」
あっ……。
「……え?」
後ろから聞こえてきたその声に、一気に血の気が引いた。振り返らなくてもわかる、話題となっている張本人の声。「なんでいるの?」と聞くことすらできなかった。いつもみたいに驚くことさえ、今の私には難しかった。
もう、これ以上気持ちを隠し通してただの幼馴染として生きていくことはできない。
「……ごめん、先帰る」
声も出ず、ただ俯く百笑。
「紗綾!」
そう私の背中に向かって呼びかける奏真。
少しして、バタバタと後ろから聞こえてくる足音はきっと奏真に違いない。
怒ってる?呆れてる?……もう、嫌われた?
誰にも言いたくない秘密を、勢いでバラしてしまった私の事なんて、憎くなって当然だ。
でも、それでもいつか、この恋心は昔の大切な思い出に変わって、ただの幼馴染として笑顔で隣を歩けたらって思っていたのに。
そんな遠い未来の理想も、もう叶わない。
涙がポロポロとこぼれる。
奏真の方がずっとずっとショックで泣きたいはずなのに、そんな私を責めるように立ち止まることなく聞こえる足音。
「待って、紗綾ちゃん!」
……え?
足を止めて振り向くと、こちらへ向かって走ってくる惟人さん。
「惟人さん、なんで……」
汗を流して息を軽く切らしながら、立ち止まった私の方へ向かってまっすぐ歩いてくる。
惟人さんの姿を見て、ぶわっと涙腺が崩壊した。
「声かけようとしたら一緒のグループでやってた人と頑張って笑顔作りながら話してて、いきなり走ってっちゃうんだもん」
感情移入するタイプなのか、彼も辛そうな顔をして、でも優しい笑顔を向けてくれた。八割は辛そうな表情に呑まれていたけど。
「だってっ」
そこまで声に変えたけど、ひっくひっくとしゃくりあげてしまってそのあとの言葉を繋げられない。ただ喉にやけに冷たい空気がへばりつくだけだった。
「だって、だってっ」
「うん。大丈夫、わかってるよ。……痛いよな」
私の肩をゆっくり擦りながら、本当に苦しそうに、泣きそうになりながら言った。
私はその言葉に、泣きながら何度も頷くことしかできなかった。
「帰ろっか。送ってく」
大事な学校の備品である弓を地面に叩きつけたまま走り出していたらしく、惟人さんが乗ってきた車で待っている間に戻って持ってきてくれた。
「こういうとき、腕を引いて引き止めたりできたらかっこよかったんだろうなー」
運転席でハンドルに腕をかけて体重を預けながら、多分、恐らく、ウケを狙ってくれている。
たかが恋愛の口喧嘩で、関係ない人の励ましに対する愛想笑いさえもできない自分が嫌になる。
「ちょっとお茶でもして帰ろっか」
そう、私のシートベルトを確認して、ゆっくりと車を走らせた。
左端から吹く冷たい風、下の方から聞こえてくるラジオの声。
なにもかもが初めてだった。
誰かの車に乗るのも、シートベルトを締めることも、窓から見える景色が電車よりものんびり移りゆくことも。
意外と硬い背もたれに身体を預けて、そっと自分の心に手を添える。
ズキズキと情けないほど傷んで、このままどこか遠くへ行ってしまいたいような、いつもより寂しさを感じる夜みたいな感覚が私を襲う。
何もやる気が起きなくて、でも寝るのも少し怖いような、そんな感覚。
「ワッフルとパンケーキ、どっちが好き?」
赤信号でゆっくり止まると、前ではなくこちらを向いて、寄り添うように話してくれる。
「……ワッフル好きです」
クロッフルは重かったけど、ワッフルは好き。
優しい甘みと、端っこのサクサク感が好き。
「じゃあワッフル食べに行こう」
そう、左のウインカーを出すと、横断歩道を渡る人がいないことを確認してゆっくり曲がった。
やっと落ち着いてきて、ふと運転席をみると、当たり前だけど集中して運転している惟人さん。
両手でハンドルを握る少し骨ばった手。自分のと見比べても、一目で男の人だなってほんの少しだけドキッとした。
チラッとサイドミラーとルームミラーを見る姿は、なんだかこなれているように見える。
それなのに、無駄にカッコつけてスピードを出したりしないあたりにしっかりと彼の性格が出ている気がした。
「私人生で初めて車に乗りました」
カチカチとウインカーの音が鳴る中で、独り言のようにつぶやいてみる。
「え、まじで?」
「はい、まじです」
目を真ん丸くして驚いている。そうだよね。誰でも驚くよね。この歳になって人生初の車なんて、おかしいったらありゃしない。
「じゃあ今度は高速道路乗ってちょっと遠出しよっか」
てっきりバカにして笑うかと思ったけど、惟人さんはそんな人じゃなかった。それは私もよくよく分かっていた。
「いいんですか?」
高速道路というのは、バス移動がメインの中学の修学旅行で寝ているときに乗っていたくらいで、もうすっかり記憶にない。だからか、まるで記憶喪失になった人みたいに、誰もが当たり前に使ったりやったりすることに新しいことへのワクワクが高まるのだ。
まるで『惟人さん』だけがカラーで、背景もなにもかも全部白黒の世界が一気に色付いたかのように。
「うん。約束」
車のなか、赤信号に見守られながら指切りを交わした。
それでも、見た目からして甘くて美味しそうなワッフルは、あまり味がしなかった。

「惟人さーん!」
ブンブンと手を振り、ここにいると全力でアピールする。
愉快な音楽、火薬の香り、賑やかな視界。
去年までは奏真と二人で来ていたこのお祭りに、今年は惟人さんに誘われてここまで来た。
浴衣レンタルのお店で紫色の紫陽花が可愛い浴衣を着せてもらって、神社の鳥居の前で待ち合わせ。
「おまた、せ……」
惟人さんは紺色の浴衣に白い帯を締めている。
スラッとしていて、それでもしっかりとしている骨格になぜか柄にもなくドキドキした。
「……えっと、あの、どうかしましたか?」
お互いの浴衣姿を頭から足先までざっと見合って、バチッと目が合う。
ドキンッと心臓が跳ねる。
「いや、いつにも増して可愛いな、と」
首を触りながら少し目線を逸らして、思ってもみないようなことを言うから「えっ!」とまあまあ大きな声を出して驚いてしまう。
「それを言うなら、惟人さんだっていつもよりかっこいいですよ」
浴衣が良く似合うから、きっとこの姿でギターを弾いて歌ったら確実にモテるだろう。
足を止める人も一人二人なんていう簡単に数えられる人数じゃなくて、何十人というきっとすごく苦労するほどになる。
それならいつも通りでいいや。
浴衣姿の彼を知っているのは、私だけでいい。
「気を遣って言ってくれてるわけじゃない?本音?」
「本音に決まってるじゃないですか。ホントのホントに、浴衣めっちゃ似合ってます」
一歩を踏みしめながら惟人さんに近づいて、身体も一緒に言葉の抑揚を表しながら伝えると、照れたように笑った。
「嬉しい。ありがとう」
少し赤いような彼の頬の色が移りそうだ。
動き出せないまま、王道な待ち合わせ場所である鳥居の前には続々と一人の人が集まり、足を止めてスマホを開いたり鏡を見たりしている。
「行こっか」
「はい」
まるでマンガの中のような会話を交し、神社の境内へと足を進める。
「何食べる?」
焼きそば、たこ焼き、フライドポテト。クレープ、フルーツ飴、かき氷。
色とりどりの屋台を見るだけでわくわくしてしまう。
「どれも美味しそうですよね」
胃のキャパは決まっているから、あれもこれも、食べたいものを全部食べられわけじゃないのが悔しい。
「あ!射的!射的してみたいです!」
奏真と来たときは射的なんてできなかった。もう一回!とその場の景品欲しさに何度も百円を支払う姿が目に見えていたから。お金にズボラだと思われたくなかったから。
「いいね。紗綾ちゃん、上手そう」
「なんでですか?」
「弓道部だからかな?これくらい朝飯前って感じする」
「えー、どうかなぁ」
ふたりしてケラケラ笑い、隣同士でコルクガンを手にする。意外と重たかった。
惟人さんを見ながら、真似をして茶色いところを引いて、先端にコルクを詰める。
引き金を引くと、ポン、と軽い音が鳴って、ぬいぐるみとぬいぐるみの間をすり抜けていった。
「お嬢ちゃん、惜しいねぇ」
ラストの三発目を放ったあと、おじさんが自分のことのように悔しがりながら、チリンチリンとベルを降った。
「お兄ちゃん、大当たり!」
えっ、すご!
おじさんの方を向いている目線を首が取れそうなくらいの勢いで惟人さんのほうへ向けると、彼も目をぱちくりとさせていた。
「大当たりは一泊二日東京旅行のペアチケットだよ」
おぉー!と周りからの驚きの声と拍手が湧き上がる。私も彼も、驚いて何がなんだか分からないまま、つられて拍手をしてしまった。
「彼女と二人で楽しんできな!」
「あ、……ありがとうございます」
受け取ってもいいのかと、キョロキョロと周りを見て、たどたどしくそれを受け取った。
「ありがとね!楽しむんだぞー」
「ありがとうございます」
二人でハモリながらおじさんにお礼を言って、射的の屋台から離れる。
まだ戸惑いは私たちの身体に居座っていて、何かを買って食べるでもなく、空いていた椅子に横並びになって座った。
「どーしよ、これ」
「お祭りって、こんなすごいとこでしたっけ」
射的の大当たりといえば、今流行りのゲーム機とかゲームソフトとか、小さい子が喜ぶようなものが設定されているイメージだったけど、それをいとも簡単に裏切られた。一応、いい意味で。
恐る恐る封を開けてチケットを確認してみると、有名ホテルの宿泊券と、旅行先で使える五千円分の商品券が二枚。
「太っ腹なのか、押し付けられたのか……。すごいな、あの人」
「いやほんとに。ちょっと怖いくらいです」
でも封も開けられていなかったし、お札でいう真ん中の丸いところに野口英世が写ったり、金額のところがキラキラと輝いたりしているから、ニセモノではなさそうだ。
「八月の終盤じゃん。日付」
宿泊券の日付を見た惟人さんは、ちらっと私のほうを見た。
「一緒に行かない?」
「え、私でいいんですか?」
大学の友達とか、彼女とかと行くのかと思ったら、まさかの人選でさらに驚いてしまう。
「うん。紗綾ちゃんがいい」
「じゃあ、行きたいです。東京」
惟人さんと東京に行くという新しい予定をスマホのカレンダーに入力すると、ちょうど出発する日に『奏真とバーベキュー』と既に予定が入っていた。
「私、東京に行く前に幼馴染に気持ち伝えて踏ん切りつけます」
それで、このバーベキューは断ろう。適当にそれっぽい理由をつけて、スッキリした気持ちで大都会へと旅立ちたい。
「……んー、じゃあ僕は学園祭で披露するための新曲を東京行くまでに書き上げる」
すごく騒がしいはずなのに、旅行券に決意表明をした瞬間、まるで世界で二人きりになったような、何も難しいことを考えなくてもいいような、そんな気分になった。
「よし、気合い入れてなんか食べようか」
立ち上がった惟人さんにつられて私も立ち上がり、この世界に引き戻される。
「焼きそば食べたいです」
「よし、探そう」
下駄をカラコロと鳴らしながら、惟人さんの横を歩く。
焼きそば、唐揚げ、ベビーカステラ。他にもたくさん。
両手にいっぱい屋台飯を持って、さっきの椅子に戻る。
「さすがに座ってるよなー」
「ですよね」
幸せそうに顔を合わせるカップルが既に腰掛けていた。
いいな、羨ましい。
まだ自分にそんな感情があるなんて、なんて未練たらしい女なんだろう。
「あ!あっち空いたよ!」
え、と思う暇もなく私の手を取ると、小走りで席へと向かう。
座った席はちょうど花火がよく見える場所で、このまま花火まで見ていこうということになった。
袋から買ったものを取り出して机に広げると、思わず唾を飲んでしまうほど美味しそうだ。
「いただきます」
手を合わせて割り箸を割る。
パシ、と乾いた音が鳴って、片方の持ち手が鋭いお箸が完成した。
はふはふしながら、まだ熱々のたこ焼きを口に入れる。外はカリッ、中はとろーりで、某チェーン店みたいな美味しさだった。
「紗綾ちゃん、ついてる」
自分の右頬を指さしながら、私になにかがついていることを教えてくれる。
左頬を軽く人差し指で拭うと、たこ焼きソースがくっついてきた。
「ありがとうございます」
そう、彼に伝えるのとほぼ同時に、お腹に響くほど大きな音を立てて花火が上がった。
ヒューン、ドンッ!ヒューン、ドンッ!
色とりどりの鮮やかな花が夜空を輝かせる。
ピンク、青、緑、黄色。
真っ暗だった夜空も、まるでお花畑みたいだ。
「万華鏡みたい……」
シュワシュワしたり、色んな色がぎゅっと詰まった琥珀糖の瓶みたいに幻想的でレトロな雰囲気だったり。
色も形も様々な花火はすっかりひと夏の思い出として私の胸に焼き付いた。
でも私が一番好きなのは、たまに打ち上がる冠菊。ラストを飾る、冠菊。
色は他に比べたらそこまで華やかとは言い難いのかもしれないけど、一番大きくて趣があるものだと思っている。
「久々に見たかも。こんなに綺麗な花火」
「私も、今までで一番今日の花火が輝いて見えます」
食べるのも忘れて、話すのも忘れて。
ただ静かに耳をすませて、空を見上げる。
息を飲むほどに華やかで、声も届かないくらいの破裂音。次が上がる前、花火の形で残った煙さえもすごいと感動できる。
つい手を叩いてしまう瞬間が何度も訪れて、その度に顔を見合せて肩を竦めて微笑んだ。
惟人さんと過ごすこの時間がなんだかすごく心が安らいで、息がしやすかった。だけど同時に、ドキドキと脈打つ心で少し息苦しかった。

今日十八時、公園に集合。話したいことある。
頭の中で何度も練習して、メッセージアプリの奏真のプロフィール画面をじっと見つめる。
あとはこの、通話開始ボタンを押すだけ。
電話をする回数が少ないとはいえ、今まで気軽に押せていたこのマークがこんなにも押しづらくなってしまうなんて。
あと一センチ。五ミリ、三ミリ、一ミリ……。
ピーンポーン……。
「うわっ」
驚いて肩を震わせると、スマホは軽く宙を舞い、ゴトン、とお世辞にも軽いとはいえない音を立てながら、呼出音を鳴らしていた。
ピーンポーン……。プルルルル、プルルルル……。
プツッと通話を切って、テレビモニターホンで応答ボタンを押した。
「はい」
「ナイル配送です」
ナイルなんて頼んだっけ?そんな覚えないけど。
「今行きます」
でも仮に予約してあったものだとしたら結局受け取らないといけないから、少し頭を悩ませながらも玄関まで向かう。
扉を開けると、ムワッと暑い空気が部屋の中に入り込んでくる。
「如月真由子様のお荷物ですねー」
如月真由子。久しぶりに聞いた母の名前。
「あ、はい。ありがとうございます」
「失礼しまーす」
それだけ言って配送員は忙しそうにバタバタと去っていった。
受け取った地味に大きな箱を抱えて部屋の鍵を締める。箱が冷えていないから、日用品かなにかだろう。
トントン、と開かずの間と化した母親の部屋を開ける。生活感も何もない、少し埃っぽい空間。
掃除はしない。こういう、今のような、荷物を置きに来るときしか入ってはいけないルールなのだ。
『荷物届いた』
ものすごく大嫌いな同僚と連絡をし合うときでも、もう少し丁寧にメッセージを送るだろう。
『じゃあ、いつもみたいに置いておいて。来週帰るから、そのときに紗綾の進路の話もしよう』
すぐに既読がついて、返信が来る。
『うん』
急いで私も返信をして、惟人さんに電話をかける。
ワンコール分の呼出音を聞き流すと、「はい」といつもより少し低い電話の声。少し耳がくすぐったかった。
「あの、あのあの!」
「どうしたの?いいことあった?」
電波越しにこぼれる優しい笑い声。
「はい!来週お母さんが帰ってくるんです。進路のこと話そうってメールが来て、それでっ!私、ちゃんと将来やりたい仕事決められたから嬉しくて!つい、惟人さんに電話しちゃいました」
息をすることさえ忘れて、子供のように彼に伝える。彼にとっては心底どうでもいいことだろうけど、聞いて欲しかった。
「そうなんだ。よかったね。それで、紗綾ちゃんのやりたい仕事って?」
「少女マンガ雑誌の編集部で働きたいです。仕事内容とか、条件の学歴も全部調べて、気合十分です」
誰にも見られていないからと調子に乗ってガッツポーズまで決めてしまうほど、今の私は幸せの最高潮に立っていた。
「どこ?行きたい出版社って」
「日向堂出版です。ティアラ編集部なんですけど、高望みすぎますかね?」
そりゃあ、マンガ家になりたい!っていう人よりは多少志望者が少ない方に傾いてはいると思うけど、それでも目指す山の頂上は、富士山をゆうに超えて、アルプス山脈に到達するくらい難しいことだと思っている。
「いいじゃん。高望みくらいがちょうどいいとおもうよ。あ、そうだ。じゃあ東京に行ったとき、外観だけでも見に行ってモチベあげようか」
「いいんですか?行きたいです!」
「よし、決まり。じゃああともう三日だし、ちゃんと準備するんだよ」
あと三日。やけにリアルな数字が目の前に突きつけられる。
帰ってきたらすぐに新学期が始まるけど、夏休み課題はもうすっかり終わらせてある。ただ、東京を思う存分楽しむための大きなミッションがまだ終わらせられていない。
「はい。頑張ります」
「頑張って」
じゃあまた、とお互い笑って、電話を切る。
「よし、頑張ろ」
気合を入れてメイクをして、自分の一番お気に入りの服に着替える。
新色の赤みがあるけど淡いピンク色に、控えめで上品なラメが入っているアイシャドウは、これから告白しに行く私にピッタリだったかも。そしたらアイホールはこれ一つでいいから時短にもなるし、何よりも楽ちん。
全身に日焼け止めを塗って、三十分。
好きです。付き合ってください。
こんな王道のドキドキしかない告白は、私にはできないから。
好きだから、奏真の気持ちもわかってるから、これからも今まで通り幼馴染として仲良くしたいってことを伝えたい。
エントランスを出ると青い空から降ってくる暑い日差し。
シュワシュワの氷がたっぷり入ったクリームソーダみたいな空なのに、気温は自分の体温をはるかに超えている。
緊張で手ぶらで出てきてしまって、握る手には家の鍵だけ。日傘すら持ってくることを忘れてしまった。
……あ、メイクキープミストかけてくるの忘れた。
せめて帰るまでは崩れないでいてほしいけど、もう既に額に、首筋に、しっかり汗が滲んで来ているから諦めた方が良さそうだ。
いつもよりゆっくり歩いて、見慣れた一軒家の前に立つ。黒いインターホンを押すだけの、特別でもなんでもない行動を起こすのに五分くらいかかってしまった。
ピーンポーン、ピーンポーン。
あれ、いないのかな?
いつもはすぐに「今行くね」と奏真ママが開けてくれるのに、今日は物音すら聞こえてこない。
……よかった。
心の底でほっとしている自分がいることに、少し嫌気がさす。
このまま目標を達成したことにして行ってしまえばいいか、とか、今当たって砕けなくても別にいつか自然消滅してくれるよね、とか。
この期に及んで甘えた考えばかりが頭の中を行き来する。
「紗綾?どうかした?」
帰ろうと向けた背中から、奏真の声が聞こえた。神様は私に微笑んだのか、意地悪なのか、もうよく分からない。
「公園に行きたい」
久しぶりに会った彼は、部活のせいか少し焼けていた。冬になると夏の気配を綺麗に消し去って雪のように真っ白になるのに、ここまできちんと焼けるそのギャップに毎年必ずときめいてしまう。
「久しぶりだね」
沈黙に耐えられなくて、適当に話題をふった。
こんなこと初めてだった。奏真と歩くとき、何か話さないとと内心焦ってしまうなんて。沈黙がこんなに気まずいなんて。
「うん。夏休み中にこんなに会わないの、初めてだね」
部活が忙しいせいかなー、と体操着の入ったカバンを持ったまま私の右隣を歩く。小学生の頃にはもう、すっかり身についていたこの並び。
こんな些細な胸きゅんポイントも、彼にとっては男女の差別を感じるモヤモヤポイントだったのかな。
「で、どうしたの?」
それでも近場の公園にはすぐにたどり着いて、ブランコに横並びに座って話をする空間は完成してしまった。
なんでこういう日に限って公園で遊んでいる子がいないんだろう。
この暑さだから?外に出るための紫外線予防のひと手間がめんどくさいから?熱中症になる確率が年々上がってきているから?
ミンミンとうるさいくらい鳴くセミも、空気を読んだのかピタッと鳴き止んで静かになってしまった。
「大事な話」
「うん」
お気に入りのスカートをぎゅっとシワがよるほど握って、軽く震える手は力がこもりすぎているからだと自己暗示をかける。
そう。決して告白することに対する緊張とか不安とかじゃない。ただ、弓道部に必要な握力をスカートを握ることで鍛えているだけ。
「私、私ね」
ドキドキしすぎて吐きそうだ。
二日酔いは未成年だから暗示するも何も、感覚すら分からないし、貝にあたったことにしようにも貝類は嫌いだから購入すらしない。
……無理だ。
自己暗示は失敗に終わった。
「私ね、ずっと奏真のことが好きなの。何年も前から、彼女として隣を歩きたかった」
半分諦めで、普段何気ない話をするときみたいに話したら、その方がなんだか落ち着いて話せた。
「……えっと……」
だいぶ困った顔をしながら、申し訳なさそうに頭の中で言葉を選んでいる。
違う、そうじゃない。そんな顔をしてほしいわけじゃない。
そんな顔するなっていうほうが無理なことかもしれないけど、この場で苦しい顔をするのは私だけでいい。
「奏真、お願い。私の事、思いっきり振って。嫌いになれるくらい、思いっきり。そしたら、きっと前を向けるから」
きっと嫌いには、なりたくてもなれないから。
とは、言えなかった。だって、絶対嫌いにならない保証はないから。
「……紗綾、ごめん。ごめんな……」
彼の瞳には涙が浮かんでいた。
透明で、綺麗な涙が。
「大事な恋人がいるんだ。だからオレは、紗綾とは付き合えない。……幼馴染以上に見ることができない。ごめん」
次々と流れ落ちる涙は、ポトポトと地面に落ちて、土の色を変えた。
「ありがとう。困らせてごめんね」
これがなにかに負けたことに対する悔し涙なら、隣に座ってハンカチを差し出すことは容易いこと。
でもそれが出来ないのは、振られた身だから。今、彼の隣に居る権利はないから。
「また、新学期、教室で」
それだけ言い残して、彼の顔をこれ以上見ずに一人で公園を出た。
既に空いた心の穴は、これ以上広がることはなくて、不思議と涙も流れなかった。
そっと振り返ると、断る側の奏真はブランコに座ってまだ泣いているのに。
今日、私は奏真への恋心を砕いて捨てて、失った。完全に『失恋』をした。
お風呂に入ってベッドに寝転がったときに何気なく静かに流れた涙が、この恋の終わりを示しているような気がした。

世界がキラキラと輝いていた。
ビルの窓から反射する太陽の光が、まるで日中の星空のよう。
電車の何倍ものスピードで走る新幹線で、大都会である東京に降り立った感動が現在進行形で私を包んでいた。
今風ではなくレトロな外観の駅。
地元に比べると何倍にもなる道路。
いまさっき出ていったかと思ったら、すぐに次がやってくる電車。
迷路のように広すぎる駅の中。
テレビに出ていた有名なスイーツ。
その全てが初めてで、興奮しっぱなしのまま惟人さんの少し後ろを歩く。
隣じゃなくて少しだけ後ろなのは、人の波で少しづつ私たちの距離を広げていくから。
「紗綾ちゃん、遠っ」
そう、こちらへ歩いてきて、慣れた手つきで私の手を取る。
「はぐれちゃうといけないから」
「ありがとうございます」
果たしてこの答えがあっていたのかは分からないけど、恥ずかしいような、少女マンガの展開みたいで少しときめいてしまうような、複雑な感情が私の心を動かす。
「ここから近いみたいだよ」
いつもより少し大きな声量で、さっきよりも近い距離で言われる。
正直、それでもまだ少し、色んな音が混ざりあって彼の声は聞き取りづらかった。
「なにがですかー?」
こちらも、少し声を張って会話を繋げる。
「日向堂出版!」
なんだか夏祭りを思い出す。
なんだかもう懐かしくて、思わず笑みがこぼれた。
東京人は足が早くて、隣の人は入れ代わり立ち代わり、どんどん前へと進んでいく。
やっと出られた外は、背の高い建物では溢れていた。
「ここからまっすぐ歩いて、五分くらいだって」
スマホのマップを見せてくれて、その通りに道を歩く。初めて歩く道でスマホとにらめっこしながらだからか、いつもより会話の量は少ない。
横断歩道を渡った先に、六階建てくらいの黒くてシックなオフィスがあった。
出入口に『日向堂出版』と温かみのある文字で書かれていて、ガラス張りの自動ドアから見える内装は、待ち時間に雑誌や漫画、小説が読めるようになっているのか、受付横には本棚が置かれていた。
「よし、行こう」
「はい。モチベ上がりました」
本当はもう少しだけいて、数年先の未来の自分を想像したりしたかったけど、一人で来ているわけじゃないから仕方ない。
繋がれたままの手は、私の返答を聞いて優しく引っ張られた。
「え、どこ行くんですか?」
惟人さんは、自動ドアの真ん前に立って、開いた扉から中に入った。
手を繋いでいる私も、もちろん建物の中に入る。
「いいんですか?入って」
「うん。予約したからね」
そう、楽しそうに口にする。
「すみません、カフェを予約した若草です」
受付に声をかけると、お姉さんが笑顔で「かしこまりました。それではご案内いたします」と受付ブースから出てきてくれた。
本当はキョロキョロと色んなところを見たいけど、無礼な人とか、変な人とか思われたくなくて、必死で抑え込む。
受付の人に受け入れてもらえた安心感からか、ロビーに柑橘系のアロマのいい香りが漂っていることに気づいた。
「中へお進み下さい」
一階のフロアの一角へ案内されて、開きっぱなしの扉の奥へと進む。
お姉さんは「いらっしゃいませ」ともう一度私たちに声をかけて、さっきの場所へと戻って行った。
「お名前お伺いしてもよろしいですか?」
レトロな雰囲気のワンピースを身にまとったお姉さんが、メニューを片手に惟人さんに声をかけた。
「若草です」
「若草様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
中を進むと、一般のお客さんだったり、首から従業員証を掛けた会社側の人がケーキを食べながら仕事をしていたりと、大企業だからなのか、なかなか自由な社風を感じる。
「お決まりになりましたら、またお声がけください」
ベルで呼ぶ形式じゃないのが、もう都会って感じだ。雰囲気を崩さないためなのか、仕事をしている人がいるからなのか、はたまたほかになにか理由があるからなのか。
「こんなところがあったんですね」
「公式サイト見てたら見つけちゃったんだよね」
得意げな顔をして、どこか嬉しそうに笑っている。
「私も公式サイト見たりしたんですけど、どんな部があるのかとか、採用情報しか見てなかったです」
お堅い文章は苦手だから、必要なところだけしか読んでいなかった。
「いいじゃん、しっかりしてるね」
「ありがとうございます」
惟人さんは人のいいところを見つけるのが本当に得意なんだろうな、と所々で感じ取れる。
「わ、みてみて。この前紗綾ちゃんが話してた『初恋イレイサー』の片想いパフェとかあるよ」
「え、すごい!」
どうやらここはただのカフェではないらしい。
少女マンガも少年マンガに出てくるものとか、それをコンセプトにしたものだけでなく、小説に出てくる食べ物もメニューに載っていた。
少女マンガ『ティアラ』『ラズベリー』その他もろもろ、少年マンガ……とパッと見てわかりやすいように、それぞれ見開き一ページくらいで収められていた。
なにここ。……最高すぎない?居座りたい。普通にここで暮らしていける。
「やば、かわいい」
「え、どれがですか?」
惟人さんが呟く声に、思わず食いついてしまう。語りたい欲がひょっこり顔を出してきた。
「あ、えーっと……。これ」
指さしたのは、『はちみつとドライフルーツ』をモチーフにした、ヨーグルト風味のアイスにはちみつ漬けのドライフルーツがたっぷり乗せてあるもの。
アイスに刺さっている、ヒロイン蜜香のお気に入りのキャラクターである『はにーびー』のプリントクッキーが愛らしい。
どれにしようかなと結構長い時間悩んで、やっと店員さんを呼び止めた。
注文したのは、付属のシロップを入れると色が変わる、『初恋イレイサー』の恋色塗り替えドリンク。『雨の日は、君とふたり』のお話の中にでてきた思い出スモーブロー。私が早柚のを、惟人さんが優真のを。
あとは惟人さんが、『はちみつとドライフルーツ』のヨーグルトアイスを注文して、店員さんはこの場を離れていった。
「ここで働けたら毎日幸せだね」
「はい。最高です」
店内はステンドグラスから差し込む光が素敵で、その上メニューもこんなに素敵なものばかりなんて福利厚生が素晴らしすぎる。
「このあとどこ行こうか」
一足先に来たドリンクの色を紫から鮮やかなピンク色に塗り替えて、早速次の予定を立てる。
といっても、もうお昼はすぎているから、今日行けるところは限られてくるわけだけど。
『東京 観光地』で検索をかけて、画像とともにズラっと並ぶ候補をスクロールしていく。
スカイツリーに東京タワー、動物園、美術館。その中でも一番興味が湧いたのは、薄暗くて水色の写真。
「水族館、行きたいです!」
ペンギンが泳いでいる写真が魅力的で、意外と近いこの場所。ここなら少しでも長く海の生き物を眺めていられる。
「いいね。じゃあ水族館にしよう」
机の上に並んだ料理を写真に収めて見た目も味もじっくり味わって胃に送り込み、水族館へ向かう。
思った以上に人が多かった。ダダ混みだ。
さっきの場所が空いていたからか、余計に人がたくさんいるように見えてしまう。
それでもここまで来たのだからとペンギンの写真が載ったチケットを購入し、ひんやりとした館内に入る。
クラゲ、クリオネ、イルカ。意外と多かったペンギン。
少し薄暗い空間で、のんびり泳ぐ生き物たちを見て癒される。
これが多分、本来水族館に来たときの目的だろう。
でも現実はそんなに理想的なものじゃない。
「すごい人ですね」
「そういえば僕たち夏休みだったね」
目の前にも後ろにも、水槽の前にも人、人、人。小さい水槽は、どう頑張っても水槽すら目に入らないことも多々あった。
いつもの私なら、こんなのいても意味ないし帰りたいって思っていたんだろうけど、今日は違った。上に貼ってある、この水槽にはこの子がいます、という写真をみて、惟人さんと泳ぎ方とか生き方を想像して笑うのが楽しかった。
こんなに笑いが絶えない水族館は生まれて初めてだ。
閉館時間が近づくと、名残惜しさを感じさせるオルゴールが館内全体に流れはじめた。
「そろそろホテルに向かおうか」
「そうですね」
今日泊まるホテルで夜ご飯のビュッフェを食べて、ちょっとだけ夜更かしをして計画を立てたあと、明日に備えて眠る予定。
出版社へ来たときに降りた駅で来た道へ戻る電車に乗り、ガタゴトと縦に横に、お世辞でも空いているとは言えない電車に揺られる。
「先ほど荷物を預けに来た、予約している若草です」
ホテルについて、慣れた手つきでチェックインを済ませて、受け取ったカードキーを少し自慢げに見せてくる。
「惟人さんってたまに可愛さ出してきますよね」
「え、僕ってかわいい系だったの?」
フロントの前にあるアメニティを必要なものだけもらって、エレベーターで十二階まで上がる。どんどん上に上がる感覚がこんなにも長く続いたのは初めてだった。
「可愛いというよりはかっこいい寄りだと思うんですけど、ほら、さっきみたいなのとかは可愛いに分類されるんじゃないですか?」
惟人さんの魅力をエレベーター内で熱弁する日が来るとは、予想外だ。
「そういうギャップがあるところ、私結構好きですよ」
「えっ」
「え?」
少し頬を赤く染める惟人さん。
なんで?と自分の発言を思い返したら、軽々しく「好き」だなんて発していた。
「いやあの、その、友達として!そうです、友達として好きってことです」
私も、なんでこんなに必死に弁解しているんだろう。
別に普通に、奏真と話しているときみたいにその場の流れで人として好きということにしてしまえば良かったのに、奏真のときみたいにわざわざ触れないままでいればよかったのに、なんで?
答えの出ない疑問を心にぶつけるも、「よく分かりません」という回答しか返ってこなかった。
「うわぁ、広い!夜景も綺麗ですね」
窓から見える東京の夜景は、まるで星空の中にいるような感覚に陥る。
下から見上げるのではなく、自分も星屑の一員になって夜空の彩りに加担しているかのような。
「すごいね。地元とは全然景色が違う」
ここまでたどり着くのになんだかんだ、夏なのにもうすっかり暗い時間になってしまった。
「ご飯食べに行こうか」
窓から離れ、カードキーを片手に食事会場へ向かう。
丸いガラス玉に入った電球がとても可愛らしい、落ち着いた雰囲気の席に案内されて、一瞬座ってから料理を取りに行く。
「えぇ、すごい」
思わず口からこぼれるほど、料理の種類が豊富で、美味しそうだった。
ミニトマトのコロッケに、写真でしか見たことがないようなオシャレなサラダ。ローストビーフ、お寿司、ご飯の種類もたくさん。
オレンジ色に光る温蔵庫の中には、ホテル自家製のパンが五種類ほど並んでいた。
「紗綾ちゃん、こっちこっち」
手招きされた方へ行くと、小さいカマンベールチーズが丸ごとひとつ入った、トマトクリームソースのオムライス。包丁を入れると、桃太郎が生まれるときみたいに広がるやつ。
隣にはビーフカレー。お野菜もお肉もゴロゴロ入っているのが食欲をそそる。説明欄に、玉ねぎとトマトの水分で作った無水カレーになります。と書いてあって、初めて聞く単語に少しワクワクした。
別にこういう日くらい、太るとかそういう感情を忘れて楽しもう。
自分磨きが趣味だけど、食べるのも大好きだから、今日は食べる方に天秤を傾けることにした。
机に戻ったときにはもう、全て食べ終わってからでないと飲み物さえ追加で取りに行けないような机が完成した。
オムライスの誘惑に勝てるはずもなく、それでワンプレート。小さめの小鉢に三十穀米とビーフカレー。もちろんサラダも持ってきて、ローストビーフとお刺身も同じお皿に乗せてきた。
最後に持ってきたのは、トマトのクリームグラタン。マカロニの代わりにたくさんのキノコが入っているらしく、炭水化物じゃないならと欲望に負けて連れて帰ってきた。
「紗綾ちゃんってトマト好きなの?」
いただきますをして食べ始めると、惟人さんが私の取ってきた子たちを見て聞いた。
「はい。リコピン取れるし、温めたトマトは美白と美肌効果があるって聞いたことあって。あと単純に美味しいから大好きです」
誰もそこまで聞いていないだろうに、ペラペラと余計なことまで話してしまう。
「え、そうなんだ。リコピンまでしか知らなかった」
すごいすごいと何度も頷いて、最終的にトマトに向かって拍手まで送っていた。
「惟人さんはナスが好きなんですか?」
ナスとトマトのパスタ、ナスの煮びたし、ナスとハンバーグのはさみ焼き。
私のトマトに負けずとも劣らないナスの量。
「うん。ナスの栄養素、ナスニンって言うんだよ。可愛くない?だから好き」
「あ、あと単語に美味しいから、ね」
急いで付け足す姿に少し笑ってしまう。
「惟人さんってやっぱり可愛いとこありますね」
ナスニンが可愛いから好きって、なんだかキュンとしてしまう。
……え、『キュン』?
自分の中の惟人さんへの感情が、最近は少しおかしい。キュンとか、かっこよくて可愛いとか、ついポロッと出てしまう『好き』の言葉とか。
「ごちそうさまでした」
綺麗に平らげて会場を出るとき、ホテルマンの人に一言伝える姿を見て、彼がやけに輝いて見えた。加工アプリのキラキラフィルターをかけたような感じ。
「ここのシャンプーいい匂いだね」
私のあとにお風呂に入り、お揃いの左胸にホテル名が入ったパジャマを身にまとってまだ濡れている髪で出てきた姿。
「明日はどうしようね」
隣で一冊のガイドブックを見ながら明日行く場所を決める、骨ばった手。
「おやすみ」
隣のベッドで寝転がって、こちらに向けられる少しとろんとした眠たそうな目。
「おはよう……」
私より少しあとに起きた彼のぴょこんと揺れる寝癖。
「見てみて、超可愛い!」
最終日の目的地である動物園で、パンダを見てはしゃぐ姿。
パンダももちろん可愛いけど、惟人さんもいい勝負ですよ、とは思ったけど言えなかった。
最後に昨日今日と溜まったお土産をキャリーケースでゴロゴロと運びながらスカイツリーに上り、新幹線に乗った。
「起こすから、寝てていいよ」
窓から差し込むオレンジ色の夕日が眩しくて、カーテンを下ろした。
でも、夕日が照らす惟人さんがやけにかっこよく見えて、なんだか勿体ないような気になった。
「ありがとうございます」
別に疲れてはいないけど、ここで断るのは可愛くないかな、なんて。
ゆっくりとまぶたを下ろして、この東京旅行を一人静かに振り返る。
最大の発見は、私は奏真への恋心を失い、多分、もしかしたら、芽生え始めているこの感情に気づいたこと。
ドキドキと、胸が高鳴る人が変わっているかもしれないこと。
惟人さんは好きな人、いるのかな?
そう思うと、隣に本人がいるのに眠れるわけがなかった。
まだ暑い中、一人で登校する。
かたん、と下駄箱で綺麗に洗った上履きに履き替えると、新学期が始まるんだなと、長期連休明けだからか少し憂鬱な気分になる。
今日明日は学力テストを受けて、帰りは夕方。
明日に関しては午前中にテストをして、午後からは普通に授業があるという地獄の日。
「おはよう」
声色が暗い百笑とは、言葉を交わすのはあの大会以来だ。
「おはよう」
気まずい空気がその場に流れる。
時間が止まってしまったかのように、周りの音は聞こえなくなって、お互い俯いたまま動けなくなっていた。
「じゃあ、私行くね」
パッと顔を上げると、視線の先にはジュースを持った奏真が歩いていた。
百笑越しに見る奏真。
……私、奏真に言い忘れてることがある。
まだ、自分の気持ちよりも先に彼に伝えないといけなかったことがあった。
「奏真!」
百笑を置いて、奏真を呼び止める。
普通の日に別々で登校するのは、もう慣れていた。
「おはよう。どうした?」
「ちょっと来て」
階段を登って、二階の空き教室に入る。
ここは三年生のフロアだからダメだよね、とはわかっていながらも、一分一秒でも早く伝えないといけない。
「ごめん!」
ピシャッと扉を閉めて、思いっきり頭を下げた。
「え、なにが?どうしたの?」
「百笑の前で、奏真の恋愛対象が男の人だって口滑らた。本当にごめん」
私に話すことに凄く勇気を出してくれたのに、私はそれを簡単に百笑に話してしまった。
それを謝ることなく告白をしたことを思い出すと、申し訳なさと自己中さで自分が嫌になる。
「いいよ。オレも結構、笹木の前で軽はずみな発言して結局紗綾のこと困らせたし」
軽はずみな発言なんて、珍しい。どうしたんだろう。
「え?どうしたの?」
「ファミレスで紗綾が帰ったあと、笹木に紗綾のことをどう思ってるかって聞かれたんだよ」
……いやそれ、私が悪くない?私が奏真のことを話したからだよね?
「なんて答えたの?」
答えは分かっているけど、奏真の口から聞きたかった。本当、私ってわがままだ。
「(幼馴染として)好きって。でもそこが抜けてたから勘違いさせて紗綾も苦しむことになったんだよな」
「ううん、そんなことない」
元はと言えば、百笑が恋愛モンスターだということを忘れて伝えたのが間違いだった。
「だからこれでチャラってことで」
私の切羽詰ったような、心苦しいような顔を見て、幼い頃みたいに頭をポンポンと優しく撫でてくれる。
「紗綾はすぐに顔に出るもんなぁ。そんなに苦しい顔しなくても大丈夫だよ。笹木、聞いてなかったみたいだし」
ほら、と手招きをして、彼が先に空き教室を出て、それを追うように私もそこを出た。
少し埃っぽい匂いは、すぐに消えてなくなった。
「幼馴染二人組ー、早く席つかないとアウトにするぞー」
チャイムがなるほんの少し前に一ヶ月ぶりの教室に入ると、夏休み前と全く変わらない担任の先生の姿。
「すみませんっ」
二人してはもりながら謝って、名簿順の席につく。
この机もガチャガチャ鳴る椅子も久しぶりだ。
うちの担任は厳しいところもあるけど、こういうところは少し好きだったりする。
「よし、二学期一発目は遅刻ゼロ欠席ゼロで優秀だ。この調子で冬休みまで頑張ろうな」
出欠確認を終えて今日のスケジュールを夏休み前に配られたプリントを見返しながら先生と確認して、廊下に並ぶ。
これから硬い床に二時間座らされる地獄の始業式が始まるのだ。
「これより、桜崎高等学校第二学期始業式を始めます」
いつもと何ら変わりもない始まり方をして、校長先生の「終業式のときに言ったことは覚えていますか?」に心の中で思いっきり首を横に振る。
とくに何の成果も残らなかった私たちとは裏腹に、一位を取ったり何かしらで賞をもらった部活動の表彰を聞き流して、頭の中はもうすっかりめんどくさい、だるい、帰りたいの三拍子が揃ってくるくる回っている。
やっと教室に戻れたかと思ったら成績に入るのか入らないのか分からない学力テストが待ち構えているし、学期初めはいいことなしだ。
だるいなー、帰りたい。
やけに難しい問題が連なる中、わかるところだけ解いてあとは睡眠の時間に充てる。だってどうせ、分からないところはどう頑張って頭を捻らせても分からないから。
「テストどうだったー?」
「まじやべー」
「再考査がないのが唯一の救いだよね」
二学期になって、というか、体育祭のあとから薄々気付いてはいたけど、奏真がいるからいいやって友達が全然作れていなかった。思った以上に話せる人が居ない。
左を見ても右を見ても、前を見ても後ろを見ても、もうすっかりグループは固まっていて私が入る余地もなかった。
「そんな思い詰めた顔して、もしやテストできなかったのか?」
付き合っている奏真と陽高くんの邪魔はできないからと話しかけに行かなかったのに、あっちから来てくれるなんて。こういうところが罪なんだ。
「いや、別の考えごと。そういう奏真は、テストどうだったの?」
なんだ、いつも通りに話せるじゃん。
完全に幼馴染としてしか見なくなってから、『好きな人』から『一人の人』として見るようになった。
当たり前のことだけど、案外早く乗り切ることが出来たのが救いかも。
「まあまあまあ、普通くらい?」
「うわ、自信満々だ」
嬉しそうに軽く斜め上を見て話すときはちょっとだけ自慢したいとき。
点数が出ていないから少し気が早いとは思うけど、自信があるのはいいことだ。
「今回は文武両道に力入れたからね」
「私は娯楽に力入れたから今回は諦めてる」
別にそこまで課題に熱を注いだわけじゃないし、仮に一桁代の点数を取ってしまったとしても見せる相手がいるわけじゃないから怒られる心配はない。
「どこか行ってきたの?」
「うん。東京行ってきた」
「紗綾が一人で旅行とか、珍しいね」
「一人じゃないよ」
私が言うと、奏真はこちらも驚いてしまうほど目を見開いて、「そーなんだ」と少し嬉しそうに笑った。
「よかった。一緒に遠出できる友達ができて」
「余計なお世話だよ」
無駄に心配性なのは、恋人ができても私が想いを伝えても、変わらなかった。
「そうだ。私、将来の夢見つけたの」
「なになに?花屋?ケーキ屋?あ、ラビットランドのラビちゃん?」
次々と出てくる候補に、思わず笑ってしまう。
というのも、全部私が幼稚園のときの『将来の夢』の欄に書いたり、七夕の短冊に書いたり、奏真に話したりしていたものだったから。
「懐かしいけど、違う」
やっぱりあの頃の夢はその場のノリとか勢いとか、そういうのが大きかったんだと思う。
ショーケースに並ぶケーキも、お店にずらっと並ぶお花も、あの頃の私には異常なほどにキラキラ輝いて見えた。
今は虫が大嫌いだから花屋で働きたいとは一ミリも思わないし、お菓子作りは趣味の範囲内が私にとってちょうどいい。
ラビちゃんは、こちらがお客さんとして出向いて、ハグを求めるのがいいんじゃないかと気付いた。まだ一度も会いに行ったことはないけど。
「じゃあ学校の先生とか?」
「それは惟人さん」
「惟人さん?誰?」
会ったことあるじゃん。酷いな。
そう口に出しそうになって、飲み込んだ。
会ったことはあっても名前は知らないんだった。そしてこのことは、この学校の生徒の中できっと私しか知らないこと。
「秘密。でね、私、少女マンガ雑誌の編集者になるって決めたの」
それにここで、路上でギター弾いてたイケメンのお兄さんだよ、なんて言って、奏真とライバルになるのだけは避けたい。
いくら恋人がいるとはいえ、百パーセント気が変わらないなんてことは有り得ないもん。
……奏真がライバルになるかもって恐れてるんだ、私。
気の迷いとかじゃなくて、もうしっかり好きじゃん。惟人さんのこと。
「へぇ、いいじゃん。好きだもんな、少女マンガ」
「うん」
「じゃあそれ専門の学校行くの?」
「ううん。四大。県立桜麹大学の文学部に行きたい」
そしたら今の場所から歩いて通える。それにもしかしたら、違う可能性ももちろんあるけど、惟人さんと学部は違うけど同じ大学かもしれない。
今度会ったら聞いてみよう。
「そっか。じゃあ初めて学校がバラバラになるんだな」
少し切なそうに言う。
そっか、そうなんだ。お互い志望校に受かったら、別々の学校に行くことになって、こんなふうに休み時間に話をすることもなくなってしまうんだ。
それはなんか、結構寂しいかも。
「奏真はどこの大学行きたいの?」
「オレはね」
「はい、席ついてー。進路希望調査配るぞ」
ガラガラとやけに大きい音を立てて教室に入ってきたかと思ったら、タイムリーな紙を持ってきたらしい。
「期限は来週の金曜日だから、ちゃんと記入して期限内に持ってくるんだぞ」
折り曲げるの禁止、汚すの禁止、無くすの禁止、提出期限に遅れるの禁止という暗黙の了解があるたった一枚の紙。
クリアファイル三枚で左右上下どこからでも折れ曲がりと雨を防げる体制にしておかないと落ち着かない。
というのも、中学三年の春、コーヒーだかジュースだかをうっかりこぼしてしまった同じクラスの男子が、体育で移動したあとの閑散とした教室で体育教師の担任に机を蹴られながら怒鳴られているのを目撃してしまったことがある。
それ以来、四つのルールを守らなかったら私もああいう風に怒られてしまうと思うと気が気じゃないのだ。
先生の話も今日だけは真面目に聞いて、帰りのホームルームが終わる頃にはもう脳はヘトヘト。
「奏真、また明日ね」
「おー。気を付けて帰れよ」
なんだかこのやり取りも自分の中では自然に感じて、まるで新しい関わり方を見つけられたみたいだ。
まだまだ日が長くて、流れる時間も心做しか穏やかで。足取りはなんだか軽やかだ。
今日の夜ご飯、何にしようかな。気分がいいから、ちょっと贅沢にハンバーグにしようかな。
「紗綾!」
正門の前で名前を呼ばれた。思わずビクッと肩が上がってしまう。
「あ、百笑……」
「時間、いい?」
今ここで了承しちゃうと、ハンバーグを作っている時間はなくなってしまう。
でも嫌だと言うと、明日からの部活も夏休み中と同じで気まずい。
「うん、いいよ」
まぁいっか。どうせこのまま帰っても、色々グルグル考えてハンバーグなんて作れないだろうし。
「一緒に帰ろう」
どこかに寄って話すのかと思いきや、駅までの道のりを一緒に歩くだけらしい。
それなのに、もう五分は沈黙のまま足を進めている。
「ごめんね」
もう、ここは私から。意地を張っていないで話さないといけないことは話さなければ。
「……え?」
「私が変に奏真のこと話したから、私のために動いてくれたんだよね」
友達思いの優しい子だってことはよく分かってる。恋愛の話になるとちょっとミーハーになってしまうくらいで、別に悪い子じゃない。
「ごめんっ」
ほんの少しの静かな時間が流れたあと、ピタッと足を止めた百笑が泣きそうな声で言った。
「紗綾がすごく愛おしそうな顔して奏真くんのこと話してたから、どう見ても二人ってお似合いだし、絶対くっついてほしいって気持ちが先走っちゃった」
なんだか複雑だった。お似合いだって言われること、前まですごく嬉しかったのに、今はなんで奏真なのって。
惟人さんとはお似合いじゃない?やっぱり大学生にとって私って、子供っぽいのかな。
「ありがとう。気持ちはすごく嬉しい。でも私、奏真に対する恋心も綺麗さっぱり無くなって、ただの幼馴染に戻ったから」
だから奏真とお似合いだなんて言わないで。できるなら、惟人さんとお似合いだって言ってほしい。
「そっか。本当にごめん。無駄なことして」
「いいよ。ちょっとお節介なところだって百笑の魅力の一つでしょ?」
「ありがとう」
じゃあまた明日、と別れ道で手を振り合う。
今日は悩みが解決したからスッキリいい気持ちで眠れそうだ。
こんな日は惟人さんに会いたいな。あの日のこと、解決したんですって話したい。
駅までの道のりの反対方向。惟人さんが前に歩いてきた道を何となく眺める。
「でさ、ほんとに美味しいんだよ」
ピクッと耳が反応する。
目の前が輝く。
でも、その道を歩く惟人さんを視界に入れたとき、目の前は一気に真っ暗になってしまった。
すごく美人な人が惟人さんと腕を組んでこっちへ向かって歩いてきていた。
どうしよう。会いたくない。
もし会って、「僕の彼女の〇〇です」なんて紹介されたら残酷すぎる。
もうこうなったら走るしか方法はなかった。
カバンの紐をぎゅっと握り、酸素を思いっきり肺に溜めて走り出す。
それなのに、なんでかなぁ。
バサーっと大きな音を立てて、久しぶりに盛大に転んでしまった。
「痛たた……」
「え、紗綾ちゃん?大丈夫?」
すぐそこまで来ていた惟人さんも駆け寄ってきてくれる。
嬉しいはずなのに、嬉しくない。
優しさを向けられているのに、胸を締め付けられているように苦しい。
こんなこと、初めてだ。

「救急箱持ってくるから、ちょっと待ってて」
「紗綾ちゃんだっけ?なんか飲む?お茶でいい?」
惟人さんの住むマンションの部屋の中で、彼女さんが私にお茶を出してくれる。
しかもコルクのコースターの上に丸みを帯びた可愛らしいグラス。もう同棲していたりとか、するのかな。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
ニコッと笑う笑顔が、モデルさんみたいに美しい。確かに今の私は完全に負けているのは目に見えてわかった。
「萩花、ペットボトルに水汲んできて」
「はいはい」
へぇ、萩花さんっていうんだ。お名前まで美人さんで、ちょっと羨ましい。
血が滲む痛々しい膝よりも、心が嫌にモヤモヤして、ズキズキと痛む。
いただいたお茶も、喉を通らないほどに。
「痛かったでしょ。今洗って絆創膏貼るからね」
緑色の救急箱を片手に、隣に腰かけた。
こんなに近かったのは、帰りの新幹線以来だ。
「惟人、はい」
「サンキュ」
ポイッと投げられた、水が半分ほど入った五百ミリリットルペットボトルを華麗にキャッチして、コットンを膝下に添えて膝から少しずつ水を流した。
「痛くない?」「大丈夫?」と声をかけながら膝に残った水滴をふき取って、新しいコットンをセットして次は消毒液を取り出した。
白いパッケージに、青い蓋。そこら辺のコンビニとかでも売ってるような消毒液。
ジュワーっと抜け道が一本しかないジョウロのような音を小さく鳴らしながら、私の膝を濡らしていく。
ピリピリとした痛みが膝から広がる。
「痛いよな、もうちょっと我慢してな」
心做しか少し男らしい言葉遣いの彼に、嫌な感情は増すばかり。
どうやら痛みに耐えていて無言なんだと思っているみたいだ。
だからなのか、いつもより真剣な顔で、丁寧な手つきで綺麗に絆創膏を貼ってくれた。
「ありがとうございます。それじゃあ私、帰りますね」
救急箱を片付けている惟人さんに声をかけると、驚いた様子でこちらを見た。
「え、もう?ついでだしご飯食べていきなよ」
いやいや、気まずいよ。
好きな人の彼女さんと一緒にご飯とか、付き合うことすらできない私でも嫌なのに、彼女さんはきっともっと複雑な気持ちになる。
「いえ、せっかくお二人でどこか行く予定だったところを邪魔しちゃったし、さすがにここはお暇します」
でもなによりも、今ここにいたくないっていう気持ちが勝っているから、七割八割は私の感情だけど。
「えー、紗綾ちゃん帰っちゃうの?もうちょっとお話しようよ」
完全に隣に腰掛けられて腕を組まれたかと思ったら、キラキラした笑顔。いつもだったらただ素敵だと思える笑顔なんだろうけど、今はただただ怖いと感じてしまう。
こういうときに彼女さんに言われることがあるとしたら、「私の彼氏に何してくれてるの?」とか、「私の彼氏のこと弄ばないでくれる?」とか、とりあえず引き離す言葉のナイフが次から次へとあらゆる文脈で飛んでくるのが目に見えている。
「あの、でも今からハンバーグ……を……」
作らないと、なんて言うと料理してますアピールになって火に油を注ぐ形にならないかな?
「オッケー、ハンバーグね。惟人、紗綾ちゃんハンバーグだって」
「んー」
彼女さんと入れ替わりでここではない部屋に用事を済ませに行って戻ってきた彼は、どうやらもう居座ることになったと思い込んでいるらしい。
「でもいいの?紗綾ちゃんこのあと用事とかあったりしない?大丈夫?」
「あ、えっと……」
「ね、もうちょっと。ご飯食べ終わるまででいいから」
……あぁ、断るとめんどくさいタイプだ。
これ、きっと帰ったほうがどういう関係か複雑になるパターンだよね。多分。
「大丈夫、です」
……ご飯食べ終わるまでに何言われるんだろ、私。
「……そ?じゃあハンバーグね。萩花は?」
はい、と彼女さんに向かって手渡されたスマホ。きっとこれは、お互い信頼しているサイン。
そしてなんか、巷で話題の出前アプリで頼むらしい。それには少し、ほんの少し、自分の中の一パーセントの冷静な部分でワクワクを感じた。
「私大葉おろしハンバーグ!紗綾ちゃんはどれにする?私のオススメはチーズかオニオンソースなんだけど……。あ、でもキノコクリームも外せないんだよね」
惟人さんのスマホの画面をピッタリとくっついて見せられる。
いい匂いがした。女性らしい、キツくないふんわりと香る、控えめなお花の香り。
なんかもう、全てに対して負けている気がする。
私、この人に勝てるところ、一個でもある?
高校生だし、子供っぽいし、気分がすぐ顔に出る。もっともっとあるけど、上げだしたらキリがないから、完全にネガティブ思考になる前に止めておいた。
「あ、じゃあオニオンソースにします」
「りょーかい」
表情と声色から滲み出る柔らかい雰囲気は、「了解」なんていう固い感じではなかった。
普段優しい人は豹変すると怖いって言うし、ハンバーグが届いてから本領発揮とかされたらどうしよう。言い訳とか色々、考えておいた方がよさそう。
「ドリンクはどうする?」
「あ、ごかっ……や、えと、なんでも大丈夫です」
脳内で考えていた言い訳の「誤解ですっ」がポロッと出てきてしまった。
どうせ怒らせるのなら、後にあとに引きずって、いっそのことハンバーグをあっという間に平らげてそそくさと帰ってしまいたい。
こんなに早く女性関係のトラブルを経験するとは思わなかったなぁ。
「じゃあこれにしよう。惟人ー、決めたよ」
「僕何にしようかな」
「チーズでいいじゃん」
「でもなぁ」
「そうやって考えて結局いつも王道に戻るんだから、今日はこれにしときなって」
腕を組まれたまま、惟人さんとじゃれあって、彼のことをなんでも知っているように話すこの人が羨ましい。彼女さんは私にはもうたどり着けない場所に立っている。
「ポテトとか頼もうよ!ほら、紗綾ちゃんもいるわけだし!あとはサラダとペッパーグリルチキンとー、あとあと、デザートのプリン!」
たくさん注文したあと、萩花さんに他にほしいものはないかと聞かれたけど、増えれば増えるほど長丁場になりそうだったからやめておいた。
それに、ちょっと胃がキリキリして、食べられるかどうかも分からないし。
「暑かったでしょ。惟人が朝作って冷蔵庫に入れてあるお茶で悪いけど、良ければ飲んでね」
こんなことをサラッと言えてしまうなんて、付き合って何年目になるんだろう。私は多分、仮に小学生の頃から奏真と付き合っていたとしても言える気がしない。
「ありがとうございます。いただきます」
ひんやりと喉を通る麦茶。鼻からほんのり麦の香りが抜けていく。
「ねぇ、ところで紗綾ちゃんって、惟人のことどう思ってるの?」
麦茶を飲みきってグラスを机に置くと、待ってましたと言わんばかりに話が始まる。
「えっと、えっと……」
無駄にワクワクしているのがさらに怖い。
「ちょっと萩花。踏み込みすぎだって」
「いいじゃん。あんたが女の子と仲良くしてるの見るの初めてなんだもん。ちょっとぐらい踏み込んでもいいじゃん。ねー、紗綾ちゃん」
「あはは……」
あなたも女の子ですよね?なんなら彼女ですよね?もう十分仲良くされてますよね?
私にふられても困るんですけど……。
「それより萩花、ちょっとこっち来て」
「んぇー。今紗綾ちゃんと話してるんだけど」
「いいから」
惟人さんは手首が折れそうなほどの勢いで上下に手招きして、萩花さんをキッチンの方へと呼び出した。
渋々立ち上がって彼の方へ向かう後ろ姿でさえ、私とは全然格が違う。
「お酒ないの?フルーツ系の」
「ねーよ。僕まだ十八だし」
さっきまでの話は聞こえていなかったのに、途端に声が大きくなって耳に入る会話。
萩花さんはもう成人済みの大人なんだ。そりゃあ、私とは全然違って当然だよね。惟人さんも惹かれて当然だろう。
魅力が全然違うから。
ちょっとした言い合いでさえ、ただイチャイチャしているように見えてしまって辛い。
恋の神様は、どうしてこんなにも意地悪なんだろう。
「そろそろ着くって。僕受け取ってくるから」
「私行くからあんたはここで紗綾ちゃんと話でもしてなって」
「着払いだからいいって」
「今日くらいお姉ちゃんの私が払うから」
……え?
「あ、えっ?」
びっくりしてスマホを落としてしまった。
ゴトン、という大きい音に、二人の目線がこちらへ飛んでくる。
「どうした?」
「どうしたの?」
ピーンポーン……。
二人の声と、チャイムの音が同時に耳に入って笑ってしまった。
「ちょっと行ってくる」
「だから私が行くってば」
廊下で押し合いをしながら、仲良く玄関まで進む姿は、さっきまでとは違ってなんだか微笑ましい。
「来たよー」
少しボロボロになった二人から受け取ったハンバーグプレートと、果肉がゴロゴロ入っているいちごミルク。ゆで卵が入ったサラダも、一人一つ配られた。
「あの、お金……。いくらでしたか?」
カバンの中を漁ってお財布を取り出すと、萩花さんがお財布を私のカバンの中に戻した。
「いいのいいの。いつも弟がお世話になってるお礼だから、ここはこいつの姉である私にご馳走させて」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
安心からなのか、さっきまでは空く気配のなかったお腹が一気にすっきり空っぽになった気分。
「私てっきり、惟人さんの彼女さんだと思ってました」
「えぇっ」
そう、お互い少し顔を歪ませて嫌そうな顔をした。姉弟って感じがして少し羨ましかった。
「ないない。仮に他人だったとしても、惟人じゃなくて今の彼氏選ぶわ」
プシュっと炭酸が抜ける音を立てて、トポトポとビールをグラスに移しながら言った。
「え、萩花さん彼氏さんいるんですか?」
「いるよー。アメリカで出会った日本人」
「アメリカですか?すごいですね!」
だからこんなにスタイルが良くて綺麗なんだ。
「すごいけど、勘違いされるんだよ。留学から帰ってきてからあっちの距離感が抜けないのか、実家でも街中でも普通に腕組んでくるし」
うわぁ。なんか、見たことない惟人さんだ。
不機嫌そうで、いつものしっかりしてるお兄さんみたいな彼じゃない。萩花さんといると、本当に弟みたいな感じだ。
「でさ、さっきの話の続きなんだけど。惟人のことどう思ってるの?」
「ちょ、その話はもういいだろ?」
「だって気になるじゃん。彼女すらいたことない惟人がやっと女の子と仲良くしてるの見ちゃったらねぇ?」
惟人さんがああ言えば、萩花さんがこう言ってくれるから、どうなんだろうと不安に思っていた気持ちはどんどん解決していった。
「あのあの!惟人さんってどこの大学通ってるんですか?」
ちょっと話を逸らしてみたら、意外と上手くいったみたいで、萩花さんも惟人さんの話に耳を傾け始めた。
「桜麹大学だよ。そこの教育学部。紗綾ちゃんはどこに行きたいか決めたの?」
「私も桜麹大学にしようと思ってるんです」
……あ、違うな。
惟人さんと私の会話の中からちょっとでも関係性探ろうとしてる。今日初めて会ったけど、あの顔は多分そう。
「あそこはね、いいとこだよ。高校と同じくらい行事に力入れてるから楽しみもあるし、学部によってそれ専門の講師の先生の話を聞けたりとか、あとは分からないところはマンツーマンで教えてもらえたりもするし。『夢に向かって前へ』があそこの大学理念だから、どんな夢でもちゃんと応援してくれるのがいいところだよ」
「そうなんですか!なんか、早く大学生になりたいです」
スマホにメモを取りながら、キャンパスライフを送る自分を想像してみる。
自然と隣には惟人さんも立っていた。
「僕も同じ大学に通えることになったら、毎日もっと楽しくなるんだろうな」
萩花さんはそんな私たちを見て、にこにこと笑いながらポテトを食べていた。
「今日はありがとうございました。ご飯を食べさせていただいた上にお家まで送っていただいて、ありがとうございます」
「いいのいいの。私もこれから帰るところだったし。今度は惟人抜きで女子会でもしよう」
その一言をきっかけに連絡先を交換して、萩花さんは車を走らせた。
部屋で明日のテスト勉強をしながら、あの家族の一員になれたら幸せだろうな、なんて、少し重たいことを考えてみたりした。

パンフレット、進路希望調査、よし。
お昼ご飯のフレンチトーストに、お母さんが座る方にコーヒー、自分には角砂糖をとかした甘い紅茶。
洗濯物もちゃんと干して、朝のうちに部屋全部に掃除機もかけたから、準備は完璧だ。
進路の話をして、これだけ家のことが出来ていたら、もしかしたら、一緒に住もう、二人でまた手を取り合って生きていこうって言ってもらえるかもしれない。
時計が少しづつ時間を進めていく。
秒針が一周するのが、こんなにも遅いと感じたことはない。
……ガチャ。
約束の十二時ピッタリ。鍵を開け、部屋に入ってくる音がした。
「ただいま」
「お母さん、おかえり」
私の言葉が届いているのか、届いていないのか分からないままお母さんは自分の部屋に入って、ダンボールを玄関に置いて、その上に自分の荷物を置いた。
「これ、紗綾が作ったの?すごいね」
ダイニングに来て、一言。ずっと欲しかった一言がもらえただけで、幸先がいい気がしてしまう。
「ありがとう」
「食べていい?」
早速と言わんばかりに椅子を引き、コーヒーが置いてある方の席に座って手を合わせた。
「いただきます」
私も急いで座って、同じタイミングで声を合わせる。
ナイフで切って、フォークで口に運ぶ。
目の前でお母さんも同じことをしている。
それだけですごく嬉しくて、誰と食べる食事よりも、今が一番幸せで、美味しく感じた。間違いなく、家族の空気がこの場には流れていると確信した。
「ありがとう。美味しかったよ」
綺麗に食べたあとに、こんな言葉までくれるなんて思っていなかった。
「うん。じゃあ私、洗ってくるね」
照れてしまって、少し素っ気ない態度を取ってしまった。
でもそれでさえお母さんの娘みたいで、シンクに向かって抑えきれないニヤけをぶつけてみたりした。
涼しい部屋で、ふわふわと湯気が上がっていた紅茶も、もうほんのり冷えてきたころ。
今日話さないといけない本題に入った。
「これ、みて。学習環境もすごく充実してて、キャンパス内も綺麗なの。分からないところはマンツーマンで先生に教えてもらえるんだって。それにね、外国との交流もあって……」
パンフレットをめくりながら、自分が調べたこと、惟人さんが教えてくれたことをお母さんに話して聞かせる。
これさえ許可がおりたら、あとは勉強を死ぬほど頑張って、夢に向かって走るだけ。
「どう、かな?」
呼吸が少し苦しくなるほど、心臓が働いている。お願いだから、そんなに無駄に働かないで。余計に緊張しちゃうから。
「いい大学ね」
口を開くと、いい言葉が飛んでくる。
この調子なら、きっと許可してもらえる。ボールペンで上書きして、印鑑を押して学校に提出できる。
「じゃあっ」
「でもだめ。あなたは高校卒業したら就職するって決まってるの。どうしてもそこの大学に行きたいなら、お金を貯めてからにしなさい」
なんだか、終わりのないフリーフォールに乗っている気分だ。
上げるだけ上げておいて、とことん落としていく。なんなら、元いた場所よりもっともっと下へと落とされた。
「なんで……」
私のHPはもう、二十に近い。
その理由は他でもなく、家に来てから話を聞くまでの流れが理想的すぎて、全て上手くいくと過信しすぎていたせい。
「紗綾には、高校を卒業したその日にこの家を出て行ってもらわないといけないの」
お母さんの話は理解するのに結構な時間がかかった。体感では十分くらい、思考が停止していた。
お母さんがあたかもそれを当たり前みたいな顔をして話すから余計にだ。
「……なんで?ここは私とお母さんの家でしょ?なんで出て行かないといけないの?」
真剣に聞くと、はぁ、とため息をついて、バッチリ私と目を合わせて口を開いた。
「邪魔なのよ。あんた。あと一年ちょっと経ったら、ここで新しい旦那と、新しいこの子と私とで三人で暮らしていくの。やっと手もお金もかからなくなるってのに、これ以上私の邪魔をしないでくれる?この家に住まわせてたのだって、いつか使えるかもって思ってたからだし、あんたなんか鍵かけてもドアが開きそうなボロアパートとかに住まわせてても良かったのよ?」
つらつらと並べられる強い文字たちに、私は死んでもなお殺され続けている死体になったようだった。
今にもこぼれそうな涙を必死で堪えながら、塞ぐこともできない耳から心の中で思っていたであろう本音を聞いては傷にして残していく。
「こんな甘えたこと書かないで」
ゴシゴシとボールペンで上書きするために持ってきた消しゴムで志望校は綺麗に消されて、就職の所にボールペンで丸をつけられ、事務系と業種の欄に書かれてしまった。
これでもう、私の進路は用紙が何度ここに来ようが、今後一切就職で事務職希望を通すしかない。
私の人生、めちゃくちゃだよ。
心がぐちゃぐちゃになった私を置いて、「次ここに来るときはもうあんたはいないからね」と卒業後にこの家に来ると宣言して、荷物を抱えて家を出て行った。
私の無言の時間が長かったのか、お母さんの話が長かったのか、はたまた私が一人で泣いている時間が長かったのか。
もうカラスは鳴き、空はピンクがかった紫色に染まりつつあった。
本当は明日選択するつもりだったものを早めたのに、これか。
あはは、なんて一人で笑って、適当に荷物を持って外に出る。
暑いも寒いも、今は分からなかった。
一人暮らしのための賃貸って、親いなくても借りられるんだっけ。十八成人だからできるのかな?
でもそれより、なんであんなこと言われないといけないんだろう。私、なにか悪いことしたかな?どんな生き方したら一緒に暮らしてもらえたんだろう。
もっと美味しいご飯を作れるようになってたら よかった?
もっとシャツがピンと伸びるように洗濯物を干せばよかった?
キラキラ光るくらい、床を綺麗にピカピカに掃除できるようになっていればよかった?
もうちょっと遅く、お母さんが満足する濃さと温かさのコーヒーを淹れられる人になっていればよかった?
部活になんて入らずに、学校にバレないようにこっそり裏方とかでバイトして、それだけを頼りに生きていればよかった?
もっともっと勉強ができて、将来も高卒でいい会社に入社して、初任給から生活費全部払って家にお金を入れるくらいの人間になれていればよかったの?
……私なんて、どこかで死んじゃえばよかったのかな。そしたらもう、ずいぶん前にお母さんを悩ませる存在は消えて無くなっていただろうし。
周りがざわついている。きっとここは、人が多い駅前か、ショッピングモールの近くか。それとももう、気付かぬ間に知らない街にたどり着いていたのか。
みんなはこんなに明るく楽しそうに話して生きているのに、なんで私はこんな暗闇の人生を歩いているんだろう。
「……!紗綾ちゃん、止まって!」
とうとう幻聴まで聞こえるようになったみたいだ。後ろから、大声で。惟人さんの声が聞こえてくる。
周りのざわめきは聞こえなくなったのに、まっすぐ彼の声だけが耳に届いた。
「紗綾ちゃん!……紗綾っ!」
グッとお腹辺りにストッパーがかかった。
「うっ」
そのまま引っ張られて、後ろに倒れ込んだ。尻もちをついたはずなのに全然痛みは感じなかった。痛みではなく、ほわほわした優しい温かみが私に伝わってくる。
ガタガタガタッ。
目の前に電車が来て、ゆっくりと減速しながら規定の線までシューッと音を鳴らしながら動いている。
「……死ぬかと思った」
息を切らしながら、私のお腹に手を回した惟人さんが少し低い声で言った。
「惟人さん……なんで……」
彼の顔を見ると、今にも泣きそうな、寂しそうな表情が隠しきれていなかった。
「なに、してんの。一歩遅かったら轢かれてたじゃん」
震える手で私をぎゅっと、大事そうに抱きしめながら、私の肩に顔をうめた。
「……ごめんなさい……」
何も知らない次の電車に乗るためにやってくる人たちは、ホームで座り込んで抱き合っている私たちを不思議そうな目で見ていた。
「紗綾ちゃんの家、行こう。送る」
もう何度目かの惟人さんの車の助手席に乗せられて、車が動く。
なんでかな。まだ、イライラも喪失感も、変形してしまった心も治っていないのに、うとうとと彼の車に乗ると眠くなってしまう。
「寝てていいよ。あ、でも住所だけ教えて」
「桜町西ヒルズの六〇二です」
一秒でも早く眠りにつきたい私は、素直に自分の住処を教えて、椅子に全体重を預けて意識を手放そうとした。
「紗綾ちゃん、着いたよ」
もう寝れるってときに、着いてしまった。
歩くと結構時間がかかる道も、車だとあっという間みたいだ。わかっていたはずなのに、同じくらい時間がかかるものだと思い込んでいた。
「歩きたくない……」
本当は帰りたくないって言おうと思ったけど、さすがにそんなことは言えなかった。
無意識に飛び降りようとしていただけで大迷惑なのに、その上送ってもらっておいて帰りたないというのは気が引けた。
「背中乗れる?」
「……うん」
わざわざ運転席から助手席の方へと回ってきて、軽々とおぶってくれる彼を、ぎゅっと抱きしめてみた。
彼は何も言わずに、エレベーターを上がって、私が無言で差し出した鍵で玄関のドアを開けた。
「何かあったの?」
玄関の一段高くなっているところに私を下ろして座らせると、自分は色んなところをほっつき歩いた靴が行ったり来たりしている一段低いところにしゃがんで、私の頬を流れる涙を親指で優しく拭き取った。
「なんもないです。どうせ惟人さんに言ってもわかんないです」
同じ大学に通えることになったらと、二人して少し浮かれていたのに、こんなこと、言えるわけない。
「でもね、紗綾ちゃん。言わないともっとわかんないよ?」
頭をくしゃくしゃと撫でて、彼は思いついたかのように言った。
「明日、いいとこ連れてってあげる。朝の九時に迎えに来るから。だから今日はもうお風呂入って、ゆっくり休んで。ね?」
いつも通りの優しい笑顔を向けられると、私も思わず少しだけ笑顔になれる。
「はい」とか、「うん」とか、肯定の返事を声にする代わりに、彼から分けてもらった笑顔で縦にゆっくり頷いた。

一人になったら眠気も吹っ飛んで、ベッドの中でゴロゴロしながら東京で撮った写真を眺める。
このときが自分の中で一番幸せな時間だった。
好きなことをして、好きなものを食べて。将来の不安なんか何も考えず、誰かに否定されることすら頭になかった。
無音の時間が流れて、カーカーとカラスが鳴き、しばらくしたらチュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてくる。
結局眠れずに朝になってしまった。
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しくて、そのままゆっくり身体を起こす。
何度も寝返りを打ったからか、髪の毛は実験に失敗した博士みたいになっていた。
いつも通り一人で歯磨きをして、軽く家に掃除機をかけた。洗濯物は、また明日。
朝食もきっと喉を通らないから、散らかした机の上だけ片付けて、綺麗に水拭きした。
だんだん気温が上がってきて、ふと時計を見ると約束の時間まであと一時間もないことに気づいてしまった。
昨日の夜とは裏腹に、穏やかな朝の時間が過ぎていく。
ヘアメイクをして、可愛い服に着替えたら、タイミングよく呼び鈴が鳴った。
戸締りの確認をして、テレビモニターホンには一切手を触れずにドアスコープを覗いた。
ビンゴ。
ドアノブを下げてゆっくりと押す。
外の温かい空気が肌に触れて、段々と惟人さんの姿が見えてきた。
「おはようございます」
「おはよう。ダメだよ、ちゃんとワンクッション挟んでからじゃないと。知らない人だったら危ないし気まづいよ」
まるで恋人のような会話に少しウキウキする。
眠れなかったはずなのに、そんなのまるで嘘みたいに楽しみで胸が踊る。
「よく寝れた?」
車に乗り込むと、シートベルトを締めながら心配そうな声が飛んでくる。
「それが、こう見えて徹夜なんです」
「そっか。昨日ちょっと車走らせてから送ればよかったね」
申し訳なさそうに言うけど、彼は何も悪くない。嘘でも、ちょっとだけど眠れましたとかなんとか言えばよかった。
「惟人さんって、いつ免許取ったんですか?」
少し走り始めたあと、気になって聞いてみる。
「三月だよ。まだ初心者マーク外せないの」
「なんかもっともっと前に取ってるのかと思ってました」
「これでも頑張ったんだよ。毎日車校通って。そのおかげで大学は近いくせに毎日車で行ってる」
少し得意げな顔をした。私の好きな、可愛らしさが隠しきれていない顔。
「車運転できる人って、なんかすごいです。ワンランク上、みたいな」
「なにそれ」
ふはっ、と楽しそうに笑いながら、安全運転で車を走らせる。
たまに黙り込んだり、鼻歌を歌ったり。そんな横顔を見ているだけでドキドキした。
「そういえば、今日どこ行くんですか?」
彼の方を見て聞いてみると、少し悩んだ顔をして、「うーん」と唸った。
「青が綺麗なところかな」
予想外の返事に、今度は私が悩む番だった。
「もうすぐ着くよ」
赤信号で止まっている彼がこちらを見て、私の悩む顔を見てニコニコと笑顔を向けていた。
「さて、どこでしょー」
信号が青に変わり、ハンドルを切った彼は、なんだかいつもよりも落ち着いていて、それなのにどこか無邪気さを感じた。
ピー、ピー、ピー。という、駐車するときのこの音もやっと聞き慣れてきた。
あっちを見て、こっちを見て、窓の外も見て。
色んなところを確認しながら車を下げていく惟人さんは、まるで魔法使いみたいに見える。
「着いたよ」
車のエンジンを切り、二人してぐーっと伸びをする。座って話していただけの私も、思った以上に身体が楽になって少し驚いた。
「寝なくて大丈夫だった?」
車を降りる前、眉を下げて言う。
なんでこんなに、この人は優しいんだろう。
「はい。もしかしたら帰り、寝ちゃうかもなんですけど」
「いいよいいよ。じゃあ行こっか」
嫌な顔一つせずに、目尻を下げて車を降りる。
彼につられて外に出ると、なんだか独特な香りが鼻をかすめる。
「ちょっと歩くけど、大丈夫?」
「はい」
車の鍵を締めた彼の隣を歩くと、涼しい音が聞こえてくる。独特な香りも、きっとそこからだろう。
歩き始めて五分もしないあいだに、人もいなくて閑散とした海辺が目の前に広がった。
石の階段を降りると、砂浜があって、その先は青い海。空も青くて、夏の残り香を目と耳と鼻で感じられる、今の風景。
「すごーい……」
思ったことがすぐに声に変わるほど、心までもを浄化してくれそうな綺麗な景色に心を奪われてしまった。
地球って丸いんだな、と感じさせる水平線。
真夏みたいに入道雲はないけど、もくもく浮かぶ白い雲がよく映える綺麗な青。
ちょっと先を裸足でズボンの裾をまくりながら歩く惟人さん。
「紗綾ちゃーん!めっちゃ冷たい!」
「えぇっ」
冷たくて気持ちいいのかと思いきや、そうでもなかったらしい。
そんな感想を伝えられておきながら、私もつられて靴を脱ぎ、スカートの裾をちょっと上げて惟人さんのところまで走った。
「うひゃっ。冷たい!」
例えるなら美味しく食べられるはずのアイスが知覚過敏のせいで痛いみたいな、そんな感じ。
「夏の終わりに海はいるもんじゃないね」
「そうですね」
それなのに、こんなことを言いながら、二人してギャーギャー騒ぎながら水をかけあったり、服がギリギリ濡れないくらい深いところまで歩いてみたり。
ことある事に冷たい冷たいと言うくせに、お互い海から出ようとしないのがまた面白い。
恋愛ドラマとかでよく見る、「あははは、あははは」と笑いながら砂浜を追いかけっこするわけでもなく、真夏に水着でビーチボールをするわけでもない。
来たときのままの服で、帰りのことなんて考えずに水遊びをするのがこんなにも楽しいのかと何度も思った。
「みてみて、綺麗な貝殻見つけた!」
キラキラしたものが見えてしゃがんでみると、ツヤツヤのピンクの貝殻。
「え、ほんとだ。僕も綺麗な貝殻探そう」
私の些細な一言で、海から上がって貝殻探しにシフトチェンジ。
真っ白だったり、少し黄色っぽかったり。たまにオーロラみたいにキラキラしたものも。
頭がぶつかりそうな距離で、二人して半径一メートルくらいの範囲の貝殻を探す。
「惟人さん、綺麗なの見つけた!」
「紗綾ちゃん、これ可愛い!」
そんなに大声を出さなくても届くのに、ぐんと上がったテンションをそのまま出した結果がこれ。
両手にいっぱい貝殻を拾い集めたあと、私のふと言葉にした「砂でお城ってほんとに作れるのかな?」から今度は集めた貝殻を山盛りにしてお城作りが始まる。
「なんか砂の山みたい」
「いやいや、ここから良くなるんだって!」
「えー、ほんとですかぁ?」
ぎゅっと押し固めて、指で窓を掘ってみる。
「惟人さん、窓つきました!」
「いい感じじゃん!」
いやどこがって思ったけど、先に彼がそう言って笑ったから、私もそのまま笑った。
「はー、笑った笑った」
「あっ」
ちょっと高い波に、途中まで作ったお城なのか山なのか分からないそれは、流されてなだらかな傾斜になって、砂浜へと戻ってしまった。
「ちょっと座ろっか」
降りてきた階段に腰掛けて、リュックからタオルを取りだして私に貸してくれる。
手渡されたタオルはふわふわで、砂をつけるのは少し躊躇したけど、隣でしっかり指と指の間まで拭いていたから私もそれを真似して拭いた。
靴を履いて海を見ると、もう日は傾きつつあった。
「嫌なこと、ちょっとは忘れられた?」
タオルを回収してペットボトルの水を代わりに持たせてくれる彼は、まっすぐ海を見て言った。
「全然、そんなこと頭になかったです。すっかり忘れてました」
奏真と遊んでいても百笑と遊んでも、嫌なこと
がこんなにすっぽり頭から抜けることなんてなかったのに。
「私、死のうとしたわけじゃないんです」
「そうなの?……よかった」
崩れ落ちるように頭を抱えて、はぁーっと長い息を吐いた。
「実は……」
ぽつりぽつりと昨日あったことが自然と口から出ていく。
お母さんに会ったこと。
大学には行けなくなったこと。
高校を卒業したら、就職して新しい住処を探して一人暮らしをしないといけないこと。
話すつもりはなかったのに、お母さんの彼氏さんと、お母さんのお腹の中の赤ちゃんと三人で今の私の家で暮らすことまで。
昨日あの家であったこと、全てを彼に話していた。
「そっか。そんなことがあったんだ」
まるで自分のことのように、私の話を涙を流しながら聞いてくれる。
「でも、せっかく見つけた紗綾ちゃんの夢は?お母さんのせいで諦めちゃうの?」
彼が一番引っかかっているのは、お母さんの素行でも、一緒に大学へ通う小さな楽しみが消えたことでもなかった。
つい最近できたばかりの私の夢をいちばん尊重してくれようとしていた。
「三年生になるまでに後悔しない夢の叶え方を探そうかなって、思いました。別に編集者になるだけが『ティアラ』に関わる仕事じゃないですし」
話しながら、海に写ってブヨブヨと歪な形になる夕日を見ながら、きちんと考えた。
正解は分からないけど、今日、ここに連れてきてもらえたから、ちゃんと考えて、確実にやってくる自分の未来と向き合って出した答え。
「そっか。ちゃんと納得した顔してるし、紗綾ちゃんがそう決めたなら僕は応援するよ」
「ありがとう。惟人さん」
ザザン、ザザン。
波の音しか聞こえないこの時間は、正真正銘この世界で二人きりになったみたいだった。
このまま時が止まればいいのに。そしたら、夕日に照らされる惟人さんも、寂しいときに涙を拭ってくれる惟人さんも独り占めできるのに、なんて、ちょっとヒロインみたいなことを思ってみたりした。
「言おうか迷ったんだけど、強制しないから言ってもいい?」
彼が立ち上がって、「もう帰ろっか」と言ったあと、階段をのぼりきったところで振り返って私に一枚の紙をくれた。
「はい。なんですか?」
暗くなってきていてよく見えない紙はそのまま風で飛ばされないようにように掴んで、彼の目を見る。
「今月末、学園祭があるんだよね」
そういえば、お祭りのときに学園祭で発表する歌を書くって言っていたことを思い出した。
聴きたいなと密かに思っていたのだ。
「もうすぐですね」
「うん。そこで新しく書いた歌、披露するんだけど、もし、もしも嫌じゃなかったら遊びにこない?」
恐る恐る、というのが不安そうな顔ですぐにわかった。
「もちろん行きます。行かせてください」
私の返事が予想外だったのか、彼は少し目をぱちくりさせて、まるで小型犬みたいな可愛らしい反応をした。
「ほんとにいいの?無理させてない?」
「はい。久しぶりに惟人さんの歌声が聴けるのに、行かないわけないです」
前のめりになって返事をすると、彼にも私が彼のために無理しているわけではないことが伝わったみたいで、嬉しそうに笑ってくれた。

スマホの地図を見ながら、初めてやってきた大学の門をくぐる。
大学という、ちょこっと敷居が高いところに来たはずなのに、お祭りムードだからか、はたまた綺麗にデコレーションされているからなのか、そこまで抵抗なく中に入れた。
足を進めていくと、そこは高校の文化祭よりも圧倒的に賑やかで、出し物も豪華。
『着きました』
とりあえず惟人さんにメールを送って、いい香りのする模擬店につられてそちらへそちらへとつられて足が動いていく。
お祭りの屋台が出張してきたような、本格的な店舗が並んでいるのが予想外で、思わず写真を撮ってしまった。
『せっかく来てくれたのにごめん!今から当番になっちゃったから、ブラブラ回ってて!』
ちょうど来た彼からの返信は、犬が土下座しているスタンプも一緒に、私の手元に飛んできた。
『了解です!』
そう、敬礼している女の子のスタンプを添えて送って、ポケットの中にスマホをしまった。
この際、もう入れないかもしれない大学の雰囲気をたくさん感じて帰ろう。
グラウンドがあって、そこが駐車場になっていたり、少し開けたところに野外ステージが設置されていたり。
「ミス・ミスターコン!当日飛び入り参加もできますよー」
「日本史サークルの手作り歴史館やってまーす」
「謎解きサークルによる本気脱出ゲーム、参加していきませんかー?」
まるで部活勧誘のような呼び掛けなのに、威圧感がなくてワクワクしてしまう。
「紗綾ちゃん!」
ブンブンと手をふる声の主は、片手にカップに入ったりんご飴を、もう片方の手にはかき氷を持った萩花さんだった。
「萩花さん!お久しぶりです」
手を振り返すと、かき氷の様子を気にしながらこちらへ向かって走ってきてくれる。
あの一件ですっかり若草姉弟が大好きになった私は、次はいつ萩花さんに会えるのかと楽しみにしていたところだった。
「一緒に回ろ!ね、そうしよ!」
りんご飴を手提げのカバンにしまい、ぐっと腕を組んだ。
もう夏並みの気温がなく、ポカポカと服越しに伝わってくる体温がちょうど良くて、心地よかった。
「もちろんです」
グイグイ腕を引かれてやってきたのは、コスプレして写真が撮れるところ。
「ここ見つけたとき、もし会えたら連れてこよって思ってたんだよねー」
そう言いながら、私にかかっている衣装を片っ端から合わせていく。
まるで本当にお姉ちゃんと服を見に来ているみたいで、なんだか嬉しかった。
「紗綾ちゃんの決まり!今度は私の選んで!」
最後のハンガーを戻して、結局どれに決めたのかわからないまま、今度は私が萩花さんのコスプレを選んでいく。
おとぎ話に出てくるようなドレスから、ハロウィンのときによく見るポリスとかナースとかまで、片っ端から合わせていく。
脚が細いから、ミニスカートが良く似合うように感じたけど、鎖骨が綺麗だからドレスもいい。
でもやっぱり、こっちかな。こっちのがしっくりくるかも。
「決まりました」
水色のドレスを手渡すと、彼女がハンガーから取ったのはピンク色のドレス。
「気が合うね、私たち」
そう、嬉しそうに笑ってくれた。
「更衣室こちらになります」
案内された一人一人の簡易的な更衣室で、試行錯誤しながらドレスに着替える。
長いふわふわの裾、お姫様みたいなぷっくりした袖。そのどれもに胸がときめいて、なんだかくすぐったい。
「紗綾ちゃん可愛いじゃん!」
一足先に更衣室から出ていた萩花さんは、恐る恐るそこから出る私を見て、白い歯が良く似合う笑顔で言った。
「ありがとうございます」
萩花さんもよく似合っています。なんて言葉は口からサラサラと出てきてくれなかった。
本当は似合ってなかったとか、そんなんじゃなくて、「似合っている」と一言で言い表してはいけないと思ってしまうほど、萩花さんは綺麗で可愛くて、本当に動物とお話できる世界線を生きるお姫様みたいに見えたから。
「撮りまーす」
結構本格的なカメラと本格的なセットの中で、カメラマンの指示通りのポーズをとる。
萩花さんと背中合わせに座ってカメラから少し目線を外したり、ぷかぷか浮かぶ風船を持ってみたり。
こんな体験、もう一生できないかもしれないから、楽しさを噛みしめながら最後は萩花さんと目を合わせて笑いあった瞬間にシャッターが切られた。
「現像したらお呼び出ししてお渡ししますか?」
着替えたあと、お姉さんが他のお客さんのあいだを抜けて聞きに来てくれた。
「あー、じゃあ、教育学部一年の若草惟人に渡してもらえますか?」
「わかりました。若草惟人さんですね」
「あ、私姉の若草萩花と申します」
萩花さんのテキパキとした話し方とスタッフのお姉さんの対応力が高校生の私からしたらレベルが違いすぎて、聞いていて圧倒された。
私だったら、撮ってもらったくせにどうしたらいいか分からなくて「大丈夫です」って言って逃げるように帰ってしまうのに。
「惟人のところ、行こっか」
「惟人さん何してるんですか?」
慣れたように腕を組み、萩花さんを見上げる。
「小学校のレクを全力でやるんだって」
「へぇ!懐かしい系なんですね」
そんなことを話しながら、教育学部の方へと歩くと、静かな廊下に響く声が聞こえてきた。
「フルーツバスケットっ!」
ガタガタッ!
「まじかよ」
「またー?」
楽しそうな声が聞こえてきて、萩花さんと二人でひょこっと顔をのぞかせる。
あ、惟人さんだ。真ん中に立ってる。
「えーっと、小中高サッカー部だった人!」
彼がそう叫ぶと、男の人が数名立ち上がる。
その隙間をかいくぐって椅子に座った瞬間、惟人さんと目が合った。
「紗綾ちゃん!あ、萩花も」
「なによ、おまけみたいに」
そんな二人の会話に思わず笑ってしまう。
やっぱりこの姉弟、面白い。
私たちの会話が終わったのを見計らってか、クラスメイトの人達が続々と惟人さんの後ろにたって次から次へとものを言う。
まるで学校一の人気者が、たった一人の女の子を呼び出したときみたいだ。
「そっか、紗綾ちゃんは高校生なんだ」
「若草が誘ったんだって?やるじゃん」
そう口々に思い思いの言葉を発し終わったあと、誰かが「せっかくだしちょっと遊んでいきなよ」と教室の中へと招き入れてくれた。
「フルーツバスケット、ハンカチ落とし、チーム対抗の絵しりとり!さあ、どれにする?」
どれも懐かしい響きのものばかり。
でもどれにする?と言われて、ルールが分かるものは絵しりとりくらいしかなかった。
「ハンカチ落とし、やりたいです」
まぁ、やっているうちに思い出すよね。
絵しりとりは二・三人いればできるけど、ハンカチ落としはこれくらいの人数がいないとできないし。
「よし!じゃあ準備するね」
そう、みんな一斉に黒いプラスチック製の椅子を教室の隅に追いやって、まっさらになった床に円になって座る。私たちも一緒に、その円の中に混じった。
「じゃあ最初は若草弟から」
そう、惟人さんがペラペラのハンカチを受け取って、ゆっくりと円の外を回り始めた。
体操座りをして、鬼の動きを見ながらハンカチがあるな、あるなと観察するこの視点でさえ、もう数年前のことで懐かしい。
あ、ちょっと歩くの早くなった。落としたのかな?
そう、後ろを見ないままハンカチがないか確認する。
「惟人、待てやコラぁー!」
ハンカチを持ったクラスメイトの男の人が立ち上がって、楽しそうに走る。
落としては落とされ、逃げれば追われを繰り返しているうちに、気分はすっかり小学生のレクリエーションの時間。
「惟人がそろそろステージの準備で抜けないといけないからラストにしようか」
時計を見た、一番初めにハンカチを落とされた惟人さんの友達の西野さんが言った。
もう軽く二時間もハンカチを落としているのかと考えたら、予想外すぎて笑ってしまう。
「あ、あ、西野さん!」
最後に選ばれたのは私だった。
「うわ、もうバレた!」
もう手に馴染んできたハンカチを握って、落とした主である西野さんの後を追う。
「タッチ!」
意外と近くにいた西野さんの肩を一周しないギリギリのうちに掴んだ。
「じゃあ惟人は、まあ頑張って。お姉さんと如月ちゃんは良かったらまた来てくださいね。来年も時間を忘れて楽しめるような出し物考えるので」
「ありがとうございました。とても楽しかったです」
出入口のドアで西野さんに見送ってもらって、三人でもう日が傾いてきている野外ステージへと向かう。
次の時間まで何もやっていないのか、そこは静かだった。
「あと十分くらいしたらここに上がるから、好きなところで待ってて」
惟人さんはそれだけ言い残して、急いでどこかへと走っていってしまった。
「どうする?屋台とか見て待ってる?」
萩花さんはそう言ってくれたけど、私はここから動く気は全くなかった。
「いえ、最前列で惟人さんの歌い声聴きたいので。ここで時間まで待っててもいいですか?」
せっかく最前列がスカスカなら、場所を取る以外の選択肢がない。
「それはもちろん。じゃあ待とうか」
萩花さんもこの場所を動かない私の隣に立って、惟人さんが出てくるまでの時間、ひたすら喋り倒してくれた。
『大変長らくお待たせ致しました。ただ今から音楽サークルによる野外ライブをスタートいたします』
割と大きめの簡易スピーカーからアナウンスが流れると、最初にステージに上がったのは知らない人達だった。
ギター、ボーカル、ドラム。
バンドの発表らしい。
たまたま持ち合わせていたタオルを回し、聴いたことのある歌を聴きながら、ノっている振りをして頭の中では「惟人さんまだかなー」なんて思っていた。
一組、二組と発表が終わり、六組目でやっと待ちに待った彼が、パイプ椅子とギターを片手に一人でステージに上がった。
「今日は失恋ソングである『恋心』と恋の歌の『月の光』の二曲を披露しようと思います」
セットされたマイク越しに、彼の声が聞こえた。
ジャーン、と静かにギターの音が響いたあと、彼が作詞作曲した失恋ソングである『恋心』が聴こえてくる。
やっぱり「ごめんね」から始まるこの曲は、何度聴いても私の心を震わせて、あの頃ほどではないけど、静かに涙が頬を伝った。
一曲目が終わって少し彼が浅い呼吸を挟むと、また始まる二曲目。この学園祭のために書いた、彼の新曲。

「好き」
そう君に伝えたらどんな顔をするだろう
僕の前で笑った君
叶わない一目惚れ
何度も日々を重ねていくうちに
甘いミルフィーユのように
君への砂糖より甘い思いは積み重なっていく

どこにいても見つけられるんだ
君のこと
目の前を歩いているときに揺れる髪の毛
疲れた顔をしてこっちに向かってくる俯き加減
出会ってまだ日が浅いはずなのに
もうすっかり君名人でしょう?

だから、お願い
僕と付き合って。
絶対に幸せにするから

「好き」
なんてまだ伝えるには早いかな
だってまだ、君の好きだった人に比べたら
同じ時間を共にしたのなんて天と地ほどの差があって
勝手に張り合って
少しでも同じ時間を過ごしたくて誘った夏祭り
君越しに見る花火は
世界で一番綺麗な花火だった

どこにいても支えたいんだ
君のこと
消えたいと思うほど辛いとき
遠くに行きたいと強く強く願うとき
出会ってまだ数ヶ月なのに
もうすっかり気分は君の一番近くにいる人なんだ

あと少し。もう少し
少しでも可能性が高くなってほしい
君が僕の初恋なんだ
だから、今はまだ怖気付いて
いっちょまえに「好きだ」なんて言えないけど
新月の夜に言葉を借りて伝えるよ
「月が綺麗ですね」
そう、月の光を浴びている君へ
いつか届く日が来ますように

すっかり聴き入ってしまって、あとの人の歌声なんて耳に入ってこないまま、ずっと彼の歌が頭の中をループする。
「また泣いてたね」
荷物を全部置いて来た惟人さんの手を取って、無理やり握手した。
「だって、だって惟人さんの歌、最高だもん。新しい曲も胸にジーンって響いて、冗談抜きで生きててよかったって思った」
「ありがとう。僕も紗綾ちゃんに聴いてもらえて、こんなにも笑顔になってもらえて幸せだよ」
そう、握り返してくれた手の温もりを思いっきり感じて、関係者以外は早く帰れと流れ続けるアナウンスの言うことを聞いて、萩花さんと二人でもうすっかり暗くなった帰り道を歩いた。

十月に入って、もうすっかり涼しくなった。
奏真と大事な話をする公園で、今日は惟人さんと待ち合わせ。
ブランコに乗って待っていると、スマホを片手にキョロキョロしている彼がやってきた。
「惟人さん!こっちです!」
「よかった。間違ってたらどうしようかと思った」
よく行っていた公園があるんです、と話していたら、行ってみたい!とイキイキとした一言。
ひょんなことから来ることになったこの公園で積み重ねてきた歴史に、新しい風が吹き込んできたような感覚。
「本当によかったんですか?こんな小さい子が嬉しいような公園で」
大事な場所ではあるけど、それでも高校生にはちょっと色々小さいと思うのが現実だ。
「うん。ほら、このサイズ感とか懐かしい」
滑り始めに手が届いてしまう滑り台。
余裕で足が地面についてしまうブランコ。
軽くぶら下がることさえできない鉄棒に、今は触ることでさえ苦手意識を持つ砂場。
それでも彼は幼い頃の記憶を呼び起こすように、遊具に手を触れ、ゆっくりと目を瞑る。
「今日は大事な話をしに来たんだ。口に出してしまったらもう、あとには引けないような、そんな話」
無邪気な時間をほんの少し過ごしたあと、真面目な顔でまっすぐ私の目を見る。
それはなんだか、覚悟を決めた瞳だった。
「だから今日はカフェとかそんなオシャレなところじゃなくて、自然体で話せるような、こういうところが良かったんだ」
そう、私の隣のブランコにゆっくりと腰掛ける。
キィ……と、子どもの頃には聞こえなかったような金属の音が聞こえてくる。
大事な話って、どんな話なんだろう。
可能性として有り得るのは、告白。
でもそれは自意識過剰かもしれないし、惟人さんと両思いということは考えにくい。
次に有り得るのが、恋人ができた話。
文化祭で見た感じ、惟人さんはどちらかと言うと人気者に分類される人だと一目見てすぐにわかった。
もうひとつは、萩花さんと同じように海外へ留学に行くとか、遠くに行ってしまうという話。
私の思う大事な話はこれくらいだ。
「そんなに思い詰めないで聞いてほしいんだけど、うん。この雰囲気だとそうなるよね」
緊張で黙り込んでしまっている私を見て、はは、と少し自虐気味に笑う。
「僕、人生で初めて恋をしたんだ。一生女性には心が動かないと思っていたから、自分でも驚いた」
そばに置いてある自動販売機の、最近また再販されたコーンポタージュを私に手渡して、自分も同じものを手に隣に座って話し始めた。
彼の初めての恋の話に、温かい缶を両手で握りしめながら耳を傾ける。
「僕の歌を立ち止まって聴いてくれたときから、ずっとしぶといくらい頭の中に居座っていつの間にか僕の中に自分の部屋とか作っちゃったりしててさ」
ねぇ、愛おしそうに話すその相手は誰?
私?それとも、全く知らない誰か?
話し始めてから一度も目が合わないから、全然彼のこちらに対する感情がわからない。
「誰かのために、誰かのせいで、流れる涙でさえすごくすごく綺麗で、こんなこと言ったら不謹慎なのはわかってるんだけど、泣いている姿でさえ、まるでなにかの作品みたいに美しくて、今もずっとずっと頭から離れないんだ」
いつにも増して優しい声色。ふにゃっと垂れる目尻。
その矛先が私に向けばいいのに、なんて、話を聞きながら何度も思った。
私はその人みたいに綺麗には泣けないし、誰かを落とす涙のひとつも持っていない。
彼の心にレジャーシートを引いて居座る図太さも、残念ながら持ち合わせていない。
彼の心を思いっきり揺らす何かを持っているわけでもない。
「どこに行っても、誰との思い出よりも楽しくて、かっこつけちゃうけどふとした瞬間に自然体な自分が出てきちゃうなんて初めてなんだ」
長い長い前置きの末、彼はやっと、小さな間を置いてゴクリと唾を飲み込んだ。そしてまっすぐ、私の方へと視線を向ける。
「好きだよ。紗綾ちゃん」
私ではないと思っていた。ぬか喜びになりたくなくて、期待を感情の奥へ奥へと押し込んでいたけど、今は飛び上がって喜んで、彼に抱きつきたい気分だ。
「私も、惟人さんのことが好き」という、彼の愛のこもった告白にして薄っぺらいかもしれないけど、自分なりの本気の返事をしようと思ったとき、また彼が口を開いた。
「いきなりこんなこと言って、困らせてごめん。もちろん気がないのはわかっているし、こっぴどくふってもらって構わないから」
……カチン。
こんな些細な言葉で、軽く頭にきた。
同時に、本当に恋愛初心者なんだろうな、とも思った。ずっと一人しか好きになってこなくて、やっと次に好きな人ができたばかりの私が思えるようなことじゃないけど。
頭にきたからってもちろん怒るつもりはないし、そんなこと言うなら付き合いません、さようならって帰ることもしないけど。
「あの、ふってもらって構わないって、私、前に惟人さんのことふったりしました?」
肯定でも否定でもない、彼にとっては予想外の言葉に戸惑いが隠せていない。
「ふってくれって言うときは、一度ふられて次の恋に前向きに進むときに、相手を傷つけてでも頼むことですよ。あなたに恋人とか好きな人がいることはわかっている。だけど私もあなたに気持ちがあって、次の新しい扉を開く最後の一歩を踏み出すために、相手を泣かせてでも背中を押してもらうときに頼む言葉なんです」
ごめん、ごめんとこの公園で、泣きながら私をふる奏真を見ているから。
ふってくれって頼むために自分の気持ちを伝えることがどれだけお互いに心を痛めるか知っているから。
初めから諦めたような告白の仕方はしてほしくなかった。
「だって惟人さん、次に好きな人がいて私への気持ちを失いたいわけじゃないでしょ?なんなら、あわよくば両思いで付き合いたいとか思ってる方でしょ?」
ぎゅっと缶を握り締めながら彼に向かって話すと、「はい。その通りです」と真面目な返答が帰ってくる。
今度は惟人さんが黙り込む番だった。
「じゃあ、あの新曲の歌詞みたいに、『だからお願い、僕と付き合って。絶対幸せにするから』でいいじゃないですか。正直、今までで一番情けないですよ」
こんなこと言っておきながら、私も情けないと思う。
せっかく待ちに待った告白に、彼の人生初めての告白に、こんなにも文句ばかり言っている自分が恥ずかしい。
告白される気満々な人みたいになってるじゃん。きっと。
だからここからは心中穏やかにして、私も真面目に話さないと。
ここまで言いたい放題言って、まだ好きでいてもらえる保証はどこにもないけど。でも、私も彼のことが恋愛的な意味で好きなのは事実だから。
「私の中で選択肢って、厚紙の重石を切ったら簡単に空に飛んで行ってしまう風船と同じなんです」
彼にいただきますと一言添えて、熱の抜けたコンポタを振ってプルトップを開けた。
「うん」
彼はわけが分からないというように、少し斜めを向いて頷いた。
「夜ご飯の候補にハンバーグとオムライスが上がったとして、ハンバーグに決めたらオムライスの方の重石を切って空に飛ばすんです」
更に顔をゆがめて、首を傾ける。
でも、この話は自分の中で結構重要な話。
「海、行ったじゃないですか」
「うん。行った」
理解が追いついていないのが目に見える返事を聞き流して、話を続ける。
「あのとき、風船飛ばしたんです。進学の風船と、ずっと変わらずにあの家で暮らす風船。あと、母親を待つ風船」
有効期限は一晩。一晩飛ばしてしっかり考えて、そのまま飛ばしてしまうのか、やっぱりつなぎ止めておくのかを考える。
それがすぎて、やっぱりって思ってももう、手の届かないところにあるからキッパリ諦める理由になる。
あの日手放した三つの風船は、もう手元に戻ることはない、戻せない決断。
「でも、この先もずっと、どんな内容の風船を手放しても、惟人さんだけは手離したくないです。もし仮に空気が抜けてしまったとしても、何に変えても空気、入れ直す自信があります」
散々彼に文句をつけておきながら、私も結構回りくどい返事の仕方をしたと思う。
それこそ本当に、普通に「私も好きです」と言った方が可愛く居られただろう。
ここで「ごめん、やっぱり君とは付き合えない」とふられても仕方ないと頭でも心でも理解していた。
「何年後、何十年後も、一番近くで楽しいことも辛いことも惟人さんと二人で分け合っていきたいです」
相手の気持ちを聞いたあとなのに、相手と同じ自分の気持ちを伝えるのもここまでドキドキするものなのか。
さっきまでは普通だった、コンポタの缶を握る手が震えているのが見なくてもわかる。
「僕も、紗綾ちゃんの隣で一緒に、笑顔になれる道を歩くための風船を一緒に選びたい。この先ずっと、紗綾ちゃんを笑顔にするのは、辛いことを半分こできるのは、僕がいい」
あんなに難しそうな顔をしていたのに、きちんと理解した上で彼は言葉を紡いでくれている。それが嬉しくて、心が通じあったことがますますその気持ちが増していく。
「そのまんまかよって思うかもしれないけど、聞いてほしい」
ブランコから降りて、私の目の前にしゃがんだ彼と目を合わせる。
吸い込まれてしまいそうだった。
その綺麗な瞳に、その瞳からも分かる彼の熱い気持ちに。
「初夏に出会ってから、今日まで。ずっとあなたが好きでした。これからは彼氏として、あなたへの気持ちを積み重ねていきたいです。僕と付き合ってください」
「はい。よろしくお願いします」
全然そのまんまじゃないじゃない。
すごく、すごくまっすぐ飛んでくる彼の気持ちに、ときめきすぎて胸が苦しい。
「やった……!ありがとう、紗綾ちゃん、ありがとう。絶対幸せにする」
ぎゅうっと抱きついてくる、惟人さん。
今日から私の彼氏の惟人さん。
昨日より、つい数分前より、今この瞬間が何百倍も愛おしい。
こんな気持ち、知らなかった。
「私も、惟人さんのこと世界で一番幸せにします」
彼の、思ったより広い背中に手を回した。
甘いいい匂いがして、思わず肩に頬ずりしてしまう。もうこのまま、離れたくない。
五分、十分。もしかしたら、もっと長い時間。
だんだん薄暗くなっていく公園で、静かに抱き合ったあと、ゆっくり離れるときに逃げていく温度が寂しさを感じさせた。
「帰ろっか。送る」
少し照れくさそうに言う彼に、私も少し照れてしまう。
公園を出る前、当たり前のように繋がれた手が、冷えた外の世界でさえも温めてくれた。
それは、星がよく見える新月の夜。大事な公園が運んでくれた、幸せの日。
「本日は卒業おめでとうございます。卒業生の皆さんにおかれましては……」
……
……
……
まだ咲く気配のない桜の木をぼーっと眺めながら、もうくぐることの無い正門を出た。
「紗綾!卒業おめでとう」
ビシッとしたスーツを着た惟人が、待ってましたと言わんばかりに駆け寄ってくる。
いつもよりしっかりした格好で、半分はまるで営業マンみたいでかっこいい。だけど半分は初々しい新社会人みたいだ。
「ありがとう」
ふわっと吹く風は、もうすっかり春の香りがした。新しい人生が始まるカウントダウンが始まっているような、そんな気がした。
「もう、行ってもいいの?」
明日からは母校となる、思い出深い学校をどこか寂しそうに眺めながら、そっと私の手を取った。
「うん。お世話になった人にはちゃんとお礼言ってきたし、奏真とも最後の制服の写真撮ってきたし。もう思い残すことはないよ」
高校三年間、色んなことがあった。
桜崎祭、部活、修学旅行に球技大会。初めての彼氏、初めての就活。
特に濃かったのが、高校二年生。惟人に出会えた、あの一年。
「今思えば、初めて一緒にご飯を食べたあの日にはもう、惟人のことが気になり始めてたのかもしれない」
お兄さんのファンになっちゃいました、なんて言っていたけど、きっともう、心が大きく動いていた。
奏真への気持ちも、十四年間思い続けたから無下にできない、みたいな、執着の気持ちが大きかったんだと思う。ここで折れたら、好きの気持ちが軽いものになってしまうように思えたのかもしれない。
「僕はそのときにはもう好きだったけどね」
得意げに話す彼は、やっぱりどこか可愛らしい。
「前はそうだったかもしれないけど、今は私のが好きだよ」
絶対に負けないよ。この気持ち。
シャンプーとはまた別の、彼の優しい匂い。
メンタルがボロボロになったとき、ガラスに振れるように優しく抱きしめてくれる腕。
キスをしたときの柔らかいくちびる。
運転するときの横顔。
あげたらキリがないくらい、毎日毎日、日付と時間を重ねていくごとに彼のことが大好きになっていく。毎日毎日、知らない自分が顔を出す。
「いやいや、僕のが好きだからね?」
「ぜぇーったい私!」
「なにしてんの、紗綾」
後ろから聞こえる声にびっくりしてしまう。
振り向かなくてもわかる、幼馴染の奏真の声だ。
「あ、奏真。この人、私の彼氏」
少し自慢げに話してみせる。
いいでしょ。こんなにかっこいい人が私の恋人なんだよ?奏真たちより幸せなんだよ?
「え、紗綾ちゃんの彼氏さん?嘘、うちの子よりいい人そう」
綺麗な格好をした奏真ママ。さすが見る目がある。
「若草惟人です。幼馴染の奏真さんの話はよく聞いています。彼女の恋人として、仲良くさせてください」
ちょっと前に出て、食い気味で挨拶をしている。
なんてことしてくれるんだ。奏真がもしドキッとしたらどうしてくれるんだ。
「こちらこそです。あの、駅前でギター弾いてた人ですよね?」
「あー、はい。そうです」
嬉しそうにしないで。その笑顔は男女問わず夢中にさせることを全くわかっていない。
「あ、そうだ。紗綾ちゃん、今日このあとお家にタケノコ持っていってもいい?昨日たくさんいただいたんだけど……」
あっちは男同士で話しているからと、奏真ママはこちら側の話として会話を始める。
「えっと……。実は今日、引っ越すんです。家に行けば母はいると思うんですけど、もう私の家ではないので……」
そうは言ったものの、お母さんとふたりで食べてね、という意味だったら別にこんなこと言わなくても良かったなとあとから気づいた。
「そうなんだ。彼と住むの?」
驚きもしない奏真ママに、疑問を抱いた。
なんでそんなにすんなり受け取れるんだろう。
「驚かないんですか?」
「まぁ、紗綾ちゃんの家庭の事情はなんとなーく察したっていうか。今日までよく頑張ったね。そうだなー、また紗綾ちゃんが暇なときにタケノコ、取りに来てもらおうかな」
奏真ママの、今まで見てきた中で一番優しい笑顔。奏真の成長を嬉しそうに語るときと同じ、優しさと嬉しさと、幸せで満ち溢れた笑顔。
「私、奏真ママのこと、大好きです」
「おばさんも、紗綾ちゃんのことは実の娘だと思って見てきたから、奏真と同じくらい大好きよ」
あぁ、これか。私が親からの愛に飢えて飢えて、分からなくならなかったのは。
きっと実の親と同じくらい愛情を注いでどんなときも迎え入れてくれたから、愛なんて、と思わずに生きてこられた。
「結婚式、おばさんも呼んでね」
「ちょ、気が早いですよ!」
まさかの発言に、思わず声が大きくなってしまった。
「紗綾、そろそろ行こうか」
奏真との話が終わったのか、彼が少しだけ離れたこちらに向かって歩いてくる。
「うん。あの、また遊びに行ってもいいですか?」
「もちろん。いつでも来てね」
「そうだよ。オレも母さんも、紗綾のこと待ってるから」
当たり前、と言わんばかりにニカッと笑う奏真は、この一年で随分成長したように感じた。
「ありがとう」
卒業式の最中に緩んできていた涙腺の限界は、もうすぐそこまで来ていた。
これ以上嬉しいことを言われると、思い切り泣いてしまう未来が目に見えている。
「紗綾ちゃん、卒業おめでとう」
奏真ママのほうを見ると、咲いていないはずの桜の花が綺麗に咲き誇り、お日様の光がキラキラと照らしているような、綺麗な姿。
「ありがとうございます」
潤んだ瞳を見せないように、大きく頭を下げる。
もうすっかり伸びた髪が、春風に乗って優しく私の頬を撫でている。
「もう引越しのトラック着いてますかね?」
「うーん、そろそろかな?」
手を繋ぎ、グラウンドに止まった惟人の車に乗り込む。叶わないと思っていた小さな夢が叶った瞬間。
この春、私は言われた通り家を出た。
私の就職先と惟人の通う大学のちょうど中間地点の二階建て賃貸アパート。2DKの二階の角部屋。
今日からは彼と二人暮しだ。
私の内定が出たその日、春からは一緒に暮らそうと言ってくれたのだ。
「お願いします」「ありがとうございました」
この間約、一時間。
私の勉強机とベッド、あとは惟人の家のもの。
二人で暮らしていくには若干小さめの冷蔵庫も、一人で使うために買ったであろう二人がけのソファも、萩花さんと三人でハンバーグを食べた思い出深いローテーブルも、そのほかの家具も食器も全部、惟人のマンションにあったものだ。
「全部頼る形になっちゃって、すみません。使わせてもらう代わりに家賃とか光熱費とか、しっかり払うので!」
そう言うと、彼は少し不機嫌そうな顔をした。
「家具も食器も、僕のものじゃなくて二人のものだからね。そういうの気にするの禁止」
同棲生活初日、早速優しいお叱りを受けてしまった。
「はい。気を付けます」
「よし」
話して、荷解き。扉を開けたお互いの部屋越しであーだこーだと色んなことを話す。
こんな日々が続くと考えるだけで、心はポカポカして、幸せでいっぱいになれる。
「紗綾、仕事いつから?」
「四月一日から。惟人は?」
「四月七日から」
お互いの春の予定をカレンダーに書き込んで、ダイニングの壁に吊るした。
全てを片付け終えて、疲れを癒すアイスを買いに外に出ると、見上げた空に一番星が輝いていた。
「一番星って、惟人みたいだよね」
ふと、思った。
どんなに人が溢れているところに彼がいようが、すぐに見つけられるから。
彼はキラキラと輝いているから。
「僕も同じこと思ってた。どんな人混みの中でもすぐに見つけられる。僕にとって紗綾は、綺麗に輝いてる一番星みたいな存在だよ」
彼の口から出てくる言葉は、私の頭の中を覗いて言っているのではないかと思うほど、同じだった。
なんだか嬉しくて、そっと彼の手を取って優しく握った。

萩花さんのお下がりのスーツ。
高校のときと変わらないお弁当箱。
卒業記念品の印鑑と、事前に送られてきた必要書類。
プチプラのメイク用品で顔を作って、時計を見たらまだ出発まで三十分あった。
「忘れ物ない?大丈夫?」
「うん。大丈夫。……多分」
出してはしまい、出してはしまいを繰り返していると、三十分なんてあっという間に過ぎていく。
「紗綾、新社会人おめでとう」
玄関で履きなれないパンプスに足を通して、惟人の声を聞いた。
春休み中ずっと二人でいたから、一日離れていると考えると少し寂しさは感じた。
「ありがとう」
そう、彼と長いハグをして、名残惜しさが残ったまま玄関のドアノブに手を添えた。
不安が八割。ドキドキが二割。
今日から社会人として働きながら、新しい夢であるティアラでコミカライズしてもらうことを目標とした小説を書き進めていく日々が始まる。
緊張を逃すように細く長く息を吐いて、ゆっくり扉を開けると、一面春の景色が広がっていた。
私の人生の新章が始まるオープニングみたいに、視界から伝わる温かみがある綺麗な景色。
「いってきます」
久々に声に変えたこの言葉。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
今まで返ってこなかった返事が耳に届く。
「うん」
彼に手を振って、玄関の戸を閉めた。
こんな日々がずっと続くといいな。
そう思いながら、まだまだぎこちない歩き方で未来へと足を進めた。

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