お互い抱きしめ合い、存在を確認し合う二人。
離れていた期間は一か月にもならない。なのに、何年も離れていた。そんな気がする二人は、お互いの温もりをかみしめ、縋る。すると、一華が涙を拭きながら体を少し離して彼を見上げた。
「あの、黒華先輩。私……」
笑みが浮かぶ彼の表情を見た一華は、伝えたい事、聞きたい事。沢山あるが、言葉がまとまらず繋がらない。
目を泳がし、言葉をまとめないとと焦る。
そんな一華の心情を察した優輝は、いつものように温かい手を一華の頭に乗せ、優しく撫でる。
「ゆっくりでいい。今は、まだ時間がある」
「…………? 今は?」
優輝の言葉に引っかかりを覚え、一華は咄嗟に問いかける。
彼は「あーっと」と、困ったように眉を下げ目を逸らした。
「黒華先輩、大丈夫ですか? まさか、どこか体に痛みなどが――」
聞いたとき、一華は”しまった”と咄嗟に口を閉ざす。だが、優輝には一華の問いかけがしっかりと届いており、悲し気な笑みを浮かべ口を開いた。
「心配してくれてありがとうな」
その言葉の先に続く言葉を、一華はわかっていた。
わかっていたため、すぐに反応する事が出来た。
「俺はだいじょっ――……?」
優輝が言い切る前に、一華が彼の口を左の人差し指で塞いだ。
何故塞がれたのかわからない彼は、目を丸くし、口を塞いでいる一華を見下ろす。
「花吐き病、進行してしまいますよ?」
「っ…………」
一華が言うと、優輝が目を開き、視線を逸らす。口を塞いでいる一華の手を優しく包み込み、そっと離させた。
「やっぱり、知られていたのか」
「偶然ですよ。調べようとしたんですが、黒い薔薇の情報は元々少ないようで」
「そうみたいだな。だから、まぁ。言い伝えの女神を拝みにここまで来たんだけどな」
言うと、優輝はお社へと目を向けた。
「確かに。ここで女神様の封印を解けば、何かわかるかもしれない」
「本当に女神様が居ればの話だけどな」
複雑そうな顔を浮かべる優輝を一華は横目で見て、迷った挙句、問いかけた。
「あの、黒華先輩は今までどこにいたんですか? どうやってここについて調べたんですか?」
「花吐き病が発症した時、運悪く姉貴に見つかってな。自宅療養をしていたんだ。家から出る事は一切禁止されちまってな。だが、家にいる時間が増えたんで色々薔薇について知らべていたら、偶然にも言い伝えについて書かれているサイトがあって。本当かウ嘘かはわからんかったが、来れば分かるだろうと。姉貴の目を盗んでここまで来たんだ」
言いながらも優輝は首を傾げ、何かが腑に落ちないというような表情を浮かべた。
「なにか気になる点があるんですか?」
「あーいや。姉貴、俺をわざと外に出したような気がするんだよな。いつもなら俺がしっかりと家にいるか時間を見つけてはメールしてきていたのに、今日は途中までしかなかった。ちょうど、学校が終わった時間帯からだな。何かあったんだろうかと思ったが、これをチャンスにしようと思ってな。抜け出してきた。まさか、お前がいるなんて思ってなくて正直ビビったけど。結果オーライだ」
肩を落とし言った彼の言葉に、一華は朝花のメール内容を思い出す。
メールでは、優輝を監禁すると言っていた。だが、今の優輝の話では監禁ではなく療養。
家からは出せないようにしていたみたいだから、監禁と言う言葉もあながち間違えてはいない。
一華は朝花の想いを今、知る事となった。
朝花は、優輝を監禁させる気はさらさらなかった。だが、周りの教師達は一華と優輝を引き離さねばならないと言っていた。
優輝の気持ちを一番に考えたかった朝花は、タイミング悪く花吐き病を発症させた優輝を療養と言う単語を使い、自身の家に監禁させた。
もちろん、親には連絡済みであろう。
今回、優輝を外に出すように仕向けたのも、一華達が動き出したのを放送で知ったから。
一度、一華達を止めようとしたのは、まだ悩んでいたから。
これが本当に正解だったのか、一華達に危険な事をさせてもいいのか。だが、それは一華と曄途の言葉によりすべてが吹っ切れ、自分の考えは正しかったと思え一華達に手を貸した。
一華はそう考え、顔を俯かせる。優輝はどうしたんだと顔を覗かせると、彼女の微かに上がる口角を見て目を丸くした。
「何かあったのか?」
「いえ、黒華先輩は、本当に大事にされているなと、再確認が出来ただけですよ」
「なんだぁ? それ…………」
一華の返答に納得出来ていない優輝は唇を尖らせ、ふてくされる。
そんな彼に、一華は顔を上げクスクスと笑った。
「黒華先輩、今回の件が終わったら、少しお時間いただいてもいいですか?」
「ん? それは問題ねぇが、どうしたんだ?」
「いえ、もう、離れ離れにならないための約束ですよ。黒華先輩はまた、何も言わずに私の前から姿を消しそうですし」
「俺を何だと思ってんだよ…………」
はぁとため息を吐き、一華はまた笑う。
彼女がクスクスと笑ったため、優輝も仕方がないというように口角を上げ、やれやれと肩を落とす。
再度目を合わせると、二人は同時にお社を見た。
古く、今にも崩れ落ちてしまいそうな小さなお社。
この中に、女神が封印されていると聞いて来たが、改めて見てみると疑ってしまう。
こんな古く、ぼろぼろなお社に女神が封印されていると誰が思うか。
一華は眉間に皺を寄せ、お社をまじまじと怪しむような目で見る。そんな中、優輝がお社に近付きドアに触れた。
埃が付いており、撫でたところだけ色が変わり、ぼろぼろと木くずが落ちる。
お社を見ている優輝の隣に立ち、彼の顔を覗き込んだ。
「どうしたんですか?」
「いや、本当に女神が封印されてんのか怪しくてな」
優輝も一華と同じく、こんな古いお社に女神がいまだに封印されているなんて思えていなかった。
それでも、二人にはもうお社のドアを開けるしか道は残されていない。お互い顔を見合せ、一華が最初に頷く。次に、優輝が小さく頷いた。
「んじゃ、開けるぞ」
「はい」
優輝がお社のドアに手を伸ばし、勇気を振り絞って勢いよく開いた。
一気に開かれたことにより、お社に付着していた埃が舞い上がり二人は思いっきり咳き込んでしまった。
「ごほっ!! げほっ!!」
「ごほっ!! おい、本当に女神が封印されてんのか!?」
怒り交じりに叫び、お社の中を見る。そこには、予想外の物が入っており二人は唖然とした。
中には小さい女神の像がポツンと置かれていた。
手は胸元で祈るように組まれており跡ように見え、一華はそっと手を伸ばした。
「これって、本物なのでしょうか」
「それを確認するには、封印を解かんとならんだろう」
「封印を……解く……」
横にいる優輝を見上げ問いかけると、顎に手を当て考えている彼と目が合う。
まさか目が合うとは思っておらず、一華はさっと目を逸らし女神の方を見た。
頬を少し染めている彼女を見て、優輝はいたずらっ子のように笑いだした。
「なんだ? 真剣に考えている俺の顔に見惚れてたか?」
「ちょ、今そんなこと言っているっ――」
いつもの調子でからかってくる優輝に、一華も返そうとするが、一度言葉を止めた。
今まで会えなかった、今のように話せなかった。
不安があるのに、いつもの調子で話す事が出来る。ワクワクすらしている自分に気づき、一華はほくそ笑む。
「だったら、悪いですか?」
「っ、え?」
「見惚れていたら、悪いですか?」
強気な表情で言い切った彼女の言葉に、優輝は目を開き、意外な言葉に顔を赤く染めた。
驚いて言葉が出てこず、赤くなった顔を隠すように逸らし手で覆った。彼の様子を見てくすくすと笑う一華は、目を細め女神の像を見た。
「女神様はただ、今の私達のように過ごしたかっただけなんだと思います」
封印されてしまった女神を憂うように言う彼女を、優輝はちらっと見た。
「女神様はただ、好きな人と共に居たかっただけだと思うんです。好きな人と話したい、遊びたい、一緒に居たい。だた、その想いが爆発してしまって、好きな人に呪いをかけてしまった。今の私も同じだから、少しだけわかります」
「同じ?」
「はい。私は紫炎先生、真理、白野君、侭先生を巻き込んで、黒華先輩を探して今、ここに居ます。みんな、これからどうなるかわからないのに、ただ私が黒華先輩に会いたい。その気持ちだけなのに、みんな、協力してくださったんです」
目を伏せ、女神の像に触れる。すると、女神の像の瞳が、微かに赤色に光る。
「っ、え、何?」
「今、一華に女神像が反応した?」
二人は顔を見合せ、再度女神像を見る。
おずおずと、もう一度触れようと一華が右手を伸ばそうとした時、緑の弦がぴくっと、動き出した。
右手を前に伸ばしたことにより、優輝は一華の手のひらから出てきている薔薇の弦が目に入る。
「おい、それなんだ?」
「え?」
優輝が問いかけると同時に、女神の像に反応したように弦が急に動き出した。
――――――――バッ!!!
「な、何!?」
「一華!!!」
突如、薔薇の弦が勢いよく伸び、彼女を包み込もうと動き出す。
「黒華先輩!!」
助けを求めるように一華が左手を伸ばし、優輝も手を伸ばし掴む。一気に自身へと引き寄せ、抱きしめた。
だが、一華を包み込もうとしている弦は優輝もろとも徐々に包み込む。
二人はお互い離れないよう抱きしめ合い、弦は二人を完全に包み込んでしまった。
・
・
・
・
・
・
・
一華は閉じていた目を開き、自身を守るように抱きしめてくれている優輝を見上げた。
「黒華先輩、大丈夫ですか?」
「あぁ、俺は大丈夫だが、一華は大丈夫か?」
「私も大丈夫です」
お互い確認し合うと、おそるおそる離し周りを見回した。
何があってもいいように手を繋ぎながら周りを警戒していると、何もない闇の空間に放り込まれた事に気づく。
「ここって、どこ?」
「わからない。けど、迂闊に動かない方がいいような気はするな」
不安そうにしている一華に優輝が返すと、闇が広がる空間に、一人の女性が姿を現した。
赤色の腰まで長い髪、隻眼の瞳。古代ギリシアの服飾を身に纏っている女性が闇の中から姿を現し、二人は困惑。お互い身を寄せ合い、突如現れた女性を見た。
「だ、誰?」
「あの髪、服装。もしかしてだが、あれが、女神…………なのか?」
一華を守るように優輝は彼女をきゅっと抱きしめ、息を飲む。油断する事なく、女神と目を合わせた。
すると、女神は急に両手で顔を覆いその場に蹲ってしまう。
『――――ごめん、なさい』
透き通るような美声で放たれたのは、謝罪の言葉。
急に女神が謝罪を口にしたのか、何故その場に崩れ落ちてしまったのか。優輝と一華は顔を見合せ、女性におそるおそる近付いて行く。
近付かなければわからない程小さな声で、女神は懺悔の言葉を呟いていた。
『ごめんなさい、ごめんなさい。私は、好きになってはいけなかった。人を、好きになってはいけなかったのに…………。我慢ができず、ごめんなさい、ごめんなさい』
何度も苦し気に謝罪を繰り返す女神の前に一華は座り、両手を伸ばし顔を上げさせた。
「貴方は何に対し、何故何度も謝っているのでしょうか」
『私は、想いを抑えきる事が出来ず、人に女神の力を与えてしまった。感情のままに、力をふるってしまった。ごめんなさい、ごめんなさい』
またしても顔を俯かせてしまった女神を見て、一華は優輝にどうすればいいのかわからず見上げた。
彼もどうすればいいのかわからず考えるが、すぐに女神の隣に座り声をかけた。
「なぁ、人間に引き継がれているお前の力、個性の花をなくす事は可能なのか? あと、薔薇にかけられている呪いのような力も」
優輝から問いかけられた女神は、顔を埋めたまま伝える。
『赤い薔薇と黒い薔薇が交わる事が出来れば、発動してしまった赤い薔薇の力は消す事が出来ます。個性の花をなくすには、白い薔薇も一緒でなければなりません』
赤い薔薇、黒い薔薇、白い薔薇。これは、個性の花の始まり。女神が感情のままに人間に下してしまった力の軸となる物。この三つを混じらわせる事により、個性の花を消す事が出来る。
「個性の花がなくなったことにより、この世に何か、災いは起きるのか?」
『ありません。個性の花自体が、この世に降り注いでしまった災いなので、これ以上のものはありません』
「わかった。ありがとう」
女神の背中をさすり、立ち上がる優輝を女神が見上げた。
「一華、まずはここから脱出しよう。個性の花を消すには白野君の協力も必要らしいから、そいつにも声をかけねぇとな」
「で、でも、白野君が今、どこにいるのかわからないよ。それに、無事かどうかもわからない…………」
一華が俯いていると、優輝が安心させるように彼女の頭を撫で笑みを零した。
「大丈夫だ、あいつは強い。いや、強くなった。だから、信じてやれ」
「…………うん」
優輝が言うが、一華の不安はぬぐえない。
優輝を探すため、一華は色んな人に協力してもらい、犠牲となってもらい、ここまで来た。
普通に戻っても、絶対に物事はスムーズに進まない。それが頭の中を過り、恐怖が彼女の胸を締め付ける。
彼女の様子に優輝は眉を下げ、何を言えば一華が安心するか考えていると、女神が立ち上がり二人を見つめた。
『安心してください。ここまで迷惑をかけてしまったので、手を貸します』
女神が闇の中を歩くように二人に近付いた。その顔には涙の痕が残っているが、もう泣いてはいない。悲しんでもいない。
二人に手を伸ばし、優しく触れた。
『ごめんなさい、ごめんなさい。いくら謝罪しても、私が行ってしまった罪は消えません。何をしても許されるとは思っていません。ですが、罪滅ぼしだけでも、させてください。少しでも、ほんの少しでも、協力してください』
二人に触れた指先が明るく光る。その光は温かく、綺麗。
「なに、これ」
『私の封印は、もう解かれてしまいます。そうなれば、私の力が自然と個性の花に注がれ、暴走。人がどうなってしまうのか、想像が出来ません。なので、少しでも貴方達が物事をスムーズに進められますように時間を止めます』
女神から放たれた言葉に、二人は驚愕し、女神を凝視した。
『ですが、時間は止められて数分。すぐに解けます。個性の花が暴走を始めてしまいますので、その前に白い薔薇の方を見つけてください』
「あんたが力を抑えることは出来ねぇのか?」
『出来ます、ですが、時間がかかり、被害が拡大するでしょう。被害が拡大しないよう、協力をお願いします』
光が弱まると、女神は二人から離れた。
『どうか、お願いします、お願いします』
最後に腰を折り姿を消した女神。まだ握られている感覚が残っている手を見下ろし、一華は目を細める。
ぎゅっと握ると、一華は顔を上げ優輝を見た。
同じく優輝も一華を見てにやっと笑う。
「んじゃ、やるか」
「はい!!」
二人が言うと、一華は右手を、優輝は左手をお互いに差し出す。すると、個性の花である黒い薔薇と赤い薔薇が二人の手のひらから光と共に作り出した。
微笑み合い、安らかな気持ちで出された薔薇は、それぞれの色に輝き、重なっていく。
光に包まれた二輪の薔薇、赤と黒の花びらが舞い上がり二人の周りを舞い踊る。
包まれていた二輪の薔薇は一輪になり、赤と黒の花びらが交互に広がっていた。
一華が一輪になった薔薇を掴むと同時に、突風が二人を襲い、花びらが渦を巻くように周りを舞い上がった。
目を輝かせ、舞い上がる赤と黒の花びらを見上げていると、闇の空間に亀裂が入る。
徐々に亀裂は広がり、白い光が中にいる二人を照らし出す。
「ここからが、勝負だぞ」
「うん、頑張ろう、黒華せんぱっ――」
何時ものように名前を呼ぶと、優輝は人差し指を彼女の口元に添える。
「一華」
一言、名前を呼んだ優輝に一華は頬を染め目線をさ迷わせた。だが、すぐに優輝が何を言いたいのか理解し、再度口を開く。
「頑張ろう、優輝!!」
「あぁ、絶対に、個性の花を消し、普通の日常を取り戻すぞ」
白い亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、辺りが一気に白い光に包まれ、二人は思わず目を閉じた。
強い光に包まれ、目を閉じた数秒後、辺りが暗くなり一華は目を開けた。同時に優輝も目を開け、辺りを見回した。
「ここは、森の中?」
辺りを見回すと、緑に囲まれている場所に立たされている事に気づく。
足で地面を踏みしめ、暗雲が立ち込める空を見上げる。本当に戻ってこれたのか疑っていると、後ろでゴソゴソと動いている優輝に気づいた。
「優輝?」
お社の前でしゃがみ、何かをしている優輝の横に立つと、砕けてしまった女神の像が目に付く。
体は粉砕、顔部分は素少しだけ形が残されてはいるが、もう女神様には見えない。
優輝が拾い上げ、お社の中に戻していた。
「これは?」
「封印が解かれたのか、女神自身が死んだのか。わからねぇが、もう女神はここに居ない。せめて砕けたもんを一つにしようとしたが、これは無理だな」
地面を見ると、細々と砕けてしまっている女神像の欠片。細かくなりすぎていて、すべてを拾う事はできそうにない。
「気にしていても意味はねぇか。ひとまず、早く行こう」
「あ、うん!!」
二人はお互い頷き合い、森の外へと走り出した。
残された女神像の欠片が淡く光り出し、上空にゆっくりと上る。一つに集まると、女性のような形になった。
暗雲が立ち込める空が、女神の想いに答えるように動き始める。
辺りを暗くしている雲が動き、道を作るように開かれた。
光が一つの線となり降りそそぎ、子供のような形をしている光が四つ、女性へと近付いて行く。背中に羽のようなものが生え、揺れていた。
子供のような光は、真っすぐ両手を伸ばしている女性に近付き、周りを囲い踊るような動きを見せた。
少し踊ると、一人の子供が合図のように手招き。答えるように、他の子供と中心にいた女性が共に空へと舞い上がる。
子供に連れられるように空へと舞い上がり、雲の上へと姿を消した。
同時に、月明りを隠していた暗雲が徐々に流れ、時が止まっている花鳥街を明るい未来へと導くように、光が照らされた。
森を走っている二人は、一華が道に迷わないようにつけた目印を辿り、無事に森を出る事が出来た。
「こ、これは…………」
「女神が言っていたことは本当だったらしいな」
森の外にいるのは、銅像のように動かなくなった人達。
朝花はパトカーに乗せられて、不安そうに森を眺め、他の警察官達は森の中に入ろうとしている形で固まっている。
試しに一人の警察官に優輝が触れるが、反応はない。
「優輝、早く行こう。時間がない!」
「…………あぁ、行こう」
また二人は、住宅街へと走り出す。
「白野がどこにいるのか知ってんのか?」
「現状、どこにいるのかわからない。だから、私と別れた所に行こうと思ってる。その付近を探せばもしかしたらいるかもしれない。当てずっぽうよりはまだマシだと思う」
住宅街を走るが、周りには動かなくなっている警察官や教師達の姿。今にも動き出しそうに見え、焦りが二人に襲う。
真っすぐ前を見て走り続けていると、公園にたどり着いた。
「はぁ、はぁ。い、いつの間にか、通り過ぎてたみたい」
「つまり、付近にはいないという事か?」
「うん…………。どうしよう…………」
まったく人の気配はなかった。近くに曄途がいないとわかり、一華はまた違う方法を探る。だが、焦りが頭を占めており思考が回らない。
「どうしよう」と言う単語だけが口から零れ落ちた。
「なぁ、確かだが。赤い薔薇には、他の薔薇を引き寄せる力がなかったか? 個性の花自体は消えていない、もしかすっと見つけてもらう事が可能じゃねぇか?」
「え、あっ……」
優輝の言葉に、一華はハッとする。だが、すぐに目を伏せ自信なさげに俯いた。
「でも、私意識したことが無いから、どうすればいいのかわからないよ」
今にも泣き出しそうな一華を見て、優輝は眉間に深い皺を寄せ考える。
「…………こういう時って、結構周りの情報を全て遮断して、一つの神経に集中する場面が描かれることが多いよな。漫画やアニメとかだと」
「それを私にやれって? 無理だよ?」
「やってみなきゃわかんねぇだろ。ひとまず目を閉じ、頭の中に白野の事を思い浮かべてみろ。本当は嫌だけど……」
最後の言葉を目を逸らし言った優輝に、一華は顔を引きつらせる。同時に疑うような目を向けた。
「ひとまずやってみろ。その間に他の方法考えっから」
「…………はい」
自信がないというように顔を俯かせてしまった一華を横目に、優輝は何か思いついたような顔を浮かべた。
「なら、これならどうだ」
「っえ、ちょっ!!」
いきなり優輝が一華の後ろに回り、抱き着く形で目元を覆った。
突然抱き着かれ、反射で振り向こうとした一華を固定。優輝が彼女の耳元に口を近付かせた。
「俺の心音に集中してみろ」
意味が分からないと思うが、一華は言われた通りに優輝の心音に集中した。
トクン トクン
走ったため鼓動は早いが、それでも規則正しくなっている心音が耳に届く。
一華は心音を聞くと、自然と肩の力が抜け、頭の中を埋め尽くしていた焦りや不安、恐怖などがすぅっと流れ落ち、なくなった。
頭の中がすっきりとし、一華の呼吸も落ち着き始める。
トクン トクン
優輝の心音に集中する。落ち着く、安心する音。
自然と耳が優輝の心音に集中され、他の音が聞こえなくなった。
――――――――刹那
「――――――――っ!! あっちから人の気配を感じる」
「お、よっしゃ!! 行くぞ!!」
なにかを見つけた一華は、先ほど自分達が走ってきた道を指さした。
すぐに優輝は手を離し、一華の手を握り走り出した。
住宅街を走っていると、前方からもこちらに向かってきている人の影が見え始めた。
「――――白野君!!!!」
「蝶赤先輩!!!」
無事に曄途と合流ができ、膝に手を置き息を整える。
優輝も流れ出る汗を拭いながら口角を上げ、曄途の肩に手を置いた。
「無事に合流出来たな」
「まったく、人にここまで心配かけておいて、平然とした顔を浮かべないでください」
「へぇ、お前も俺の心配をしてくれていたのか? それは嬉しぃねぇ」
いつものようにおちゃらけた感じに言う彼に、曄途は迷うことなく大きく頷いた。
「当たり前です!! 僕の、大切な友人なんですよ。心配します!!」
素直な言葉で怒られた優輝は一瞬きょとんとするが、なんと返せばいいのかわからず舌打ちを零しそっぽを向いた。
黒髪から覗き見える耳は赤く染まっており、二人は笑った。
「素直じゃないんだから」
「うるさい。早く、この一輪の薔薇に白薔薇を入れ込むぞ」
優輝がポーチの中にしまい込んだ、赤と黒の薔薇を取り出し、曄途へと渡す。だが、今までの話が分からない彼は、何故赤と黒が混ざっているのか、何故渡されたのかわからず困惑。
一華が優輝を睨みながらも、ため息を吐き女神様との話を簡単に説明した。
「わかりました。では、これに僕の白い薔薇を足せばいいのですね」
「お願い」
左手に黒と白の薔薇を持ち、右手を添える。息をゆっくりと吸い、曄途は個性の花である白い薔薇を出した。
光と共に一輪の白い花が右手からゆっくりと出され、黒と赤の薔薇に重なった。
――――――――カサッ
「あれ?」
「ん?」
「交わらない…………?」
出てきた白い薔薇は黒と赤の薔薇に入り込むことはなく、カサカサと音を鳴らすだけ。何度か重ねるが結果は同じ。
「なんで? 私達の時は重なったのに」
「新たに作り出さないと出来ないとかではないですよね?」
「え、マジ?」
三人が顔を見合せていると、人の声が微かに聞こえ始めた事に気づく。
「っ、女神の効果が切れたんだ」
「まずい、早くしないと!!」
一華と曄途が焦る中、優輝は冷静に右手を前に出した。
「さっきの、やるしかねぇ。三人で同時に薔薇を出すぞ」
優輝の言葉に二人は力強く頷いた。
三人は右手を前に出し、頷き合う。準備が整ったこと確認すると、一華が代表して音頭を取った。
「行くよ。三、二、一!!」
一華の音頭に合わせ、三人は一斉にそれぞれの色の薔薇を光と共に出した。
三人の薔薇は中心に花咲き、重なり合う。すると、強い光が放たれ、突風が吹き荒れた。
吹き飛ばされそうな一華を優輝が支え、曄途は地面を踏みしめ耐えた。
「何ですかこれ!!」
「耐えろ!!」
突風が三人を襲い、吹き飛ばされないようにするので精一杯の三人。何とか耐えていると、薔薇を包み込んでいる光から、黒、赤、白の薔薇の花びらが舞い上がり始めた。
「っ。これは――――」
「これって、優輝!!」
「あぁ、成功したらしいな」
曄途が舞い上がる花びらを見上げ目を輝かせ、一華が優輝に向けて笑みを浮かべる。
二人が見た、先程の光景と同じ。舞い上がった花びらは、三人を労うように星空を舞い踊り、中心の光は徐々に落ち着き、中からは三色の薔薇が姿を現した。
「これ――――あっ」
一華が薔薇を見た後、二人を交互に見る。すると、自然と三色の薔薇は淡い光により空中へと浮かぶ。
上へと舞い上がった赤と黒、白の花びらを追うように三色の薔薇は街を見下ろせる高さまで上がると、四方に飛び散った。
流れ星が落ちているような光景に目が奪われる。
三色に光る花びらが街に降り注ぎ、辺りを明るくした。
先程まで殺伐としていた街は静かになり、警察や教師達、街人は星空から降り注がれる光に目を奪われていた。
「これで、個性の花は無くなるんだよね?」
「女神が言うにはな」
「なら、これで優輝は嘘をつかなくても良くなるね」
満面な笑みを浮かべた一華に見上げられ、優輝は唇を尖らせ顔を逸らし、頬をポリポリと掻く。
照れている彼を横目に、曄途は面白そうに笑った。
「素直なのは大事ですよ、黒華先輩」
「黙れ」
二人の会話を見て、一華はお腹を抱え笑い出した。
彼女の笑い声を聞き、二人はお互いにらみ合うが、すぐに笑いが込み上げ一緒に声を上げ笑いだした。
その時、一華は思い出したかのようにポケットからある物を取り出し、優輝に渡す。
「そういえばこれ、路地裏で拾ったの。毎日つけているから大事な物なのかなって」
「ん? あ、これか」
一華が取り出したのは、リング状になっているピアス。
優輝がそれを受け取り、お礼を言って耳に付けていると、一人の足音が聞こえ始めた。
三人が音の聞こえた方に顔を向けると、そこには、一人の燕尾服を着た男性が、ぼさぼさな白髪交じりの髪を、ぐしゃぐしゃと掻きむしりながら立っていた。
「じ、じぃや?」
「坊ちゃん、今の話は、なんでしょうか? 個性の花が、なくなる? そんなこと、あってはなりませんよ。個性の花がなくなってしまえば、貴方の価値はガクンと下がってしまいます。時期社長として、それはあってはならない事なんですよ。坊ちゃん?」
俯かせていた顔を上げると、三人は驚愕。恐怖で体が動かず、震えてしまう。
顔を上げた執事は、気が狂ってしまったかのように焦点の合っていない目、土色に近い肌色。憔悴しきっているような顔を浮かべ、曄途を見ていた。
「坊ちゃん、だめです。さぁ、こちらに来なさい。貴方はまだまだ前に進めます。私を信じてください、昔のように――……」
「ひっ!?」
曄途に手を伸ばし近づいて来る執事に、一華は小さな悲鳴が口から零れる。同時に、優輝が執事に向かって走り出した。
「黒華先輩!?」
「優輝!!」
二人の声を背中で聞き、優輝は執事に向かい走り、手を伸ばした。
「悪いが、あいつは俺達の友人だ。お前の人形にするわけにはいかねぇな!」
伸ばした手で執事の胸ぐらを掴み、力任せにぶん投げた。
――――――――ダンッ!!!
「がはっ!!」
投げられた執事は、背中を地面に強く打ち付けたため、目を見開き動かなくなる。優輝はそんな彼を蔑んだ瞳で見下ろした。
目を細め、動かなくなったことを確認すると、ポケットに手を入れ背中を向ける。
「個性の花で、これ以上人生を狂わされてたまるか」
誰に言う訳でもない言葉は、誰の耳にも届くことなく虚空に消えた。
一華達へと戻る優輝。二人は彼に怪我がないか不安そうに見上げている。
「優輝、怪我は?」
「ん? あぁ、だいじょっ――……」
何時ものように”大丈夫”と言おうとした優輝だったが、一華の顔を見て言葉が止まる。
不安そうに、本気で心配してくれている一華と曄途に、優輝はいつものように言えない。
言おうとすれば、胸が締め付けられ、苦しくなる。
今まで感じた事はなかった、気にしたことはなかった苦しさ。これは、個性の花がなくなるのと関係があるのか。
胸を押さえ、顔を俯かせた彼に、二人は顔を青くして慌てた。
「え、まさか怪我したんですか!?」
「黒華先輩!?」
慌てる二人の声を聞き、優輝は突如お腹を抱え笑い出した。
口を大きく開け、豪快に笑う。なぜ彼が笑い出したのかわからない二人は目を丸くし、お互いに顔を見合せる。
何も言えないでいると、優輝が目に浮かぶ涙を拭き二人を見た。
「あー。いや、悪い悪い」
まだ困惑している二人の頭をなで、笑みを向ける。
「な、な?」
「壊れました?」
「白野、お前俺に対して当たり強くね? 大事な友人なんだよね?」
「普通です」
「そんなことないだろ…………」
今度は自身の頭を掻きながらため息を吐き、立ち直す。
まだ心配している二人を見て、優輝は自身の腕に手を添えた。
「今ついた怪我はない。見てみるか?」
「はい」
「即答かよ」
「優輝の”大丈夫”と”怪我はない”などと言った言葉は信じないと決めたので」
「酷いなぁ」
空笑いを零し、優輝は腕まくりしようと袖を掴む。一瞬、躊躇したが、覚悟を決め、一華達の前で初めて腕をさらした。
「「っ!!」」
優輝は色白の腕には、無数の切り傷。結構前に付けられたものばかりで、痕になり残っていた。
「これって…………」
「まぁ、お前らの予想通りだと思うぞ」
優輝の切り傷は、自分でつけた物。
昔は黒い薔薇と言う理由だけで酷い目にあわされてきた。そのため、精神は安定せず、よく自傷行為をやっていた。
高校生になりだいぶ落ち着いたが、昔行ってしまった行為は消えない。体に消えない傷として刻まれ、一生背負って行かなければならなくなる。
二人は彼の腕を見て、言葉を失った。
そんな二人を見て、優輝は申し訳ないと眉を下げ、袖を下げ腕を隠そうとする。
「わりぃな。気持わりぃもん見せて…………」
悲し気な笑みを俯かせ、袖を下げようとすると、それより先に一華が彼の傷ついた腕を優しく両手で包み込んだ。
「っ、一華?」
「優輝。もう、一人で背負わないで。今は私がいるよ?」
涙の膜が張られている黒い瞳を向け、彼の真紅の瞳と視線を交差させる。
「これからは、優輝の傷は、私も背負う。ずっと、一緒だよ」
一粒の涙を零し、一華が優輝にお願いした。
驚きで開かれた真紅の瞳は、彼女の浮かんでいる優しい笑みを映し、微かに揺れる。
震える唇を動かした優輝の頬には、一華と同じく、一粒の雫が流れ落ちた。
街に降り注いだ花びらは、三人を祝福するように舞い落ちる。
最後に残ったのは、三人の未来を明るくする、笑い声だった。
「きゃぁぁぁぁぁあ!! ちーこーくー!!!!」
白い壁に赤い屋根の一軒家から響く、女性の焦り声。ドタドタと足音が響き、花柄のワンピースを靡かせリビングに向かう一人の影。
赤い髪を後ろに一つにまとめ、リビングのドアを開けた。
「お母さん!!! なんで起こしてくれないのさ!!」
「まったく、大学生にもなって親に頼るんではありません」
キッチンに立つ白いエプロンを付けた女性、葵が振り向き、片手におたまを持ちながら怒る。
水道の近くに飾られているのは、何も入っていない花瓶。その隣に置かれている食パンを、髪を止め終わった女性は慌てて口に詰め込んだ。
「あ、行儀悪い!!」
「ひはんははいお!! っ!! んーーーーー!!!」
詰め込んだ食パンを喉に詰まらせた女性に、葵は慌ててコップに水を汲み渡した。
一気に飲み干し、大きく息を吐いた。
「死ぬかと思った…………」
「そんなこと言っていないで、ほら。お迎えの時間じゃないの?」
言うのと同時に、呼び鈴が鳴らされた。
女性は慌ててリビングの椅子に置かれていた鞄を手に取り、大急ぎで玄関に向かった。
「それじゃ、行ってきます!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
玄関のドアを開けると、目の前には呼び鈴を鳴らした男性が黒い髪を風で揺らし立っていた。
「おーおー。また朝寝坊か? 高校の時から変わらんな」
「うるさいよ、間に合うからいいの!!」
憎まれ口を垂らす男性に文句をぶつけ、当たり前のように隣を歩き始めた二人。
「そういえばなんですが、優輝は今日一限あるの?」
「俺は二限からだな」
「え、なら私と一緒に行くと時間余らない?」
「別にいんだよ。俺は一華と出来るだけ一緒に居たいんだから。それに、お前みたいな可愛い奴、彼氏である俺が近くにいないと、他の男に目を付けられるかもしれねぇしな」
ケラケラと分かった男性、黒華優輝の言葉に、顔を真っ赤にし俯いてしまった蝶赤一華。
恋人繋ぎをしながら歩き、二人で通っている大学に向かう。
「そんな事平然と言わないで! それと、私は優輝しかいないから、安心してよ」
「俺が嫉妬深いの知ってんだろ? これだけは譲れねぇなぁ」
頬を膨らませている一華を見て笑う優輝。そんな二人を呼ぶ声が後ろから聞こえた。
「一華ー!! 優輝先輩!!!」
「あっ、真理!! 曄途君!!」
振り向くと、私服姿の真理と、制服を着ている曄途の姿。二人は手を振りながら、一華達へと駆け寄った。
「真理もこれから?」
「うん、一限からだよ。優輝先輩も?」
「俺は二限からだぞ。一華に変な虫がつかないように出来るだけ一緒に居るんだ」
「それは確かに大事ですね。一華先輩ならすぐに、優輝先輩などより素敵な方に出会えそうですし」
ケラケラと笑いながら言う曄途に、優輝先輩は口を引きつらせ「悪かったな」と愚痴をこぼす。
「では、僕はこれで」
「あ、曄途、今日私早く終わるから放課後デートしよ!!」
「いいですね。終わり次第大学へ迎えに行きます」
そこで手を振り二人は別れ、真理は一華達と共に大学へと向かった。
「聞いてよ、昨日学校で侭先生がまたしても優輝先輩に会えないって職員室で嘆いていたらしいよ。そこで紫炎先生がまた慰めたんだって!」
「あーあ、だよねぇ。私も優輝に何回も言っているんだよ? 会いに行きなよって」
二人で優輝を見るが、当の本人は口笛を吹き目を逸らし誤魔化す。その様子に呆れ、一華がため息を吐いた。
「まったくもう…………」
三人で笑いながら話しているとすぐに大学についた。
そこで真理と一華は勇気と別れ、校舎の中に。優輝は一人で外を歩き出した。
すれ違う人、ベンチに腰かけている人の話し声などが耳に入るが、誰も個性の花を口にしている人はいない。
個性の花の話は二年前にピタリと聞かなくなり、個性の花の存在すら忘れている。覚えているのは、薔薇の個性の花を持っていた三人だけ。
だが、その三人も余計な事を言わず、誰も口にしない。
今は、なんににも縛られることなく、自由な愛を楽しみ生活をしていた。
優輝が歩いていると、花壇が目に入る。そこには芽が出たばかりの草花が風に揺られ踊っていた。
誘われるかのように優輝は一度足を止め、花壇へと向かう。
前でしゃがみ、右手を花壇に添える。数秒、そのままの態勢で止まっていると、突如空笑いを漏らし立ち上がった。
「馬鹿らしいな。もう、俺は普通の学生だ」
笑いながらまた歩き出すと、途中で呼び止められ振り向いた。
「黒華君! 重たい荷物があるの、手伝ってくれない?」
「あ、はーい」
一人の生徒が優輝に向かって手を振っている。近づくと重たそうな段ボールが隣に置かれていた。
今日は気温が高いため、長そでを着ていた彼は腕まくりをし重たい荷物を運ぶ。
色白の腕には、無数の切り傷の痕。もう薄くなっているが、完全に消えてはおらず残ってしまっていた。だが、今の彼は理解ある友人や教師に囲まれている為、無理に隠す事はしていない。何かを隠そうとすると、すぐに一華に気づかれてしまう為、今では隠し事すらしていなかった。
荷物を指定された場所に置き、額から流れ出る汗を拭う。
「ありがとう、黒華君」
「いえ、これは男の仕事なんで。また何かあれば頼ってください」
それだけ言葉を交わし、女子生徒は去って行く。
残された優輝は、透き通るような青空を見上げ、風により揺れる黒髪を抑える。すると、ちょうど校舎の中、窓側に座る一華が見えた。
気づいてくれないかなぁと見上げていると、タイミングよく彼女が優輝を見つけた。
優輝が笑顔で手を振ると、一華も笑顔で返す。
頑張れと、口パクで言えば、一華は頷いた。
幸せを感じていると、いきなり優輝に向かって突風が吹き荒れ、咄嗟に黒い髪を抑え吹き荒れた方向を見た。
目にゴミが入らないようにとしていると、微かに頬に何かが触れる感覚。目を開けると、赤い薔薇の花びらが目の端に移る。
目を開き振り向くが、先ほど見えたはずの赤い薔薇の花びらはない。
目を丸くし瞬きをしていると、自分に呆れ口角を上げた。
「さぁて、俺は食堂でひと眠りでもすっかな」
背中を伸ばし、優輝は今度こそ食堂に向かった。
彼を見送るように、光に包まれた赤い薔薇が風に乗り、天へと舞い上がる。
透き通るような青空は、花鳥街にいる人達を明るく見下ろし、宝物のように輝かしい光で包み込んでいた。
青空に一つ、女性のような形をしている白い光が映り、街を見下ろし微笑んだかと思えば、周りにいる子供のような形をしている白い光と共に姿を消した。