第二幕



登場人物



河西 瑛介(二十一)F大学 農学部 四回生

冷泉 誠人(十九)T大学 二回生 剣道部

白峰 瑞樹(十九)T大学 二回生 剣道部 龍川 小夜の幼馴染

藤間 エーリク(十二) 早見 エメリの弟



第一章 5月4日



09:00



 小夜が帰ってこない。

白峰瑞樹はこの連休を利用して、実家に帰っていた。彼が生まれ育った東北A県にある四神村は、昨夏のとある事件の後に閉鎖された。よって、今は、瑞樹の両親――白峰夫妻は、瑞樹の大学の近く、S市にある賃貸マンションで、夫婦一緒に暮らしていた。

同じく四神村に住んでいた小夜の父、龍川医師も、小夜と一緒に賃貸のアパートに住んでいる。そんな折に、小夜の父から小夜が、帰宅予定の日になっても旅行先から帰ってこないとの連絡を受けて、白峰瑞樹は小夜の家を訪ねたのだった。

彼の友人、冷泉誠人も一緒である。冷泉誠人もまた、昨夏の四神村の事件において、巻き込まれた当事者の一人だった。彼の出身は日本の首都、T都である。

「帰宅予定の日は過ぎたのに、小夜が帰ってこないんです。何か聞いていませんか?」老医師の不安げな声が、受話器の向こうで頼りなく揺れる。

「旅行ですよね、山岳部の」

「ええ。本来なら昨日の夜には家に着くはずなのに、戻ってきていなくて、ですな……」

「それは心配ですね」

「ええ。もう今年二十歳にもなる娘です。少しは自由にさせるべきかと思いますが、昨年の事件がどうも脳裏から離れなくて」

「そうですよね。僕も心配です。こちらでも調べてみますから。何かわかればご連絡差し上げます」

 龍川医師からの電話を受けて、瑞樹はまず小夜の大学へと電話をかけてみた。そこで山岳部の部室の直通電話を紹介してもらい、一人の学生に行き当たった。

「はじめまして、河西といいます」

 受話器を通して聞こえてきた声に、瑞樹は頭蓋を刺されるような既視感を覚えた。しかし、すぐに脳が拒否反応を示すように、その不安定な感情は心の隅へと追いやられる。

それから、部員全員の連絡先を知るという河西から、各人に向けて連絡を取ってもらうことにして、瑞樹と冷泉は彼からの連絡を待った。

再び白峰家の電話が鳴ったのは、それから二十分後のことだった。

「あれから部員の寮や下宿先、実家に電話をかけてみたのですが、誰一人まだ帰って来ていないようです。一人や二人というなら、まぁ彼らも子供ではないことですし、そういうこともあるのかなとは思いますけど」

「心配ですね」

「――ええ」

「河西さんは、彼らの旅行先をご存知なんですか?」

「もちろん」

「でしたら……今から僕たち、そこへ行ってみようと思うので、お手数ですが住所と連絡先を教えてくれませんか?」

「ああ、それだったら僕も同行します」河西は食いつくように言った。「それが、白峰さんに電話をかける前に、旅行を取り仕切っている『鷹野旅行代理店』に電話をしてみたんだけど、つながらないんです」

「つながらない……?」瑞樹は柳眉を歪めた。

「スタッフも戻っていないなんて、さすがにおかしいと思って。だからご迷惑じゃなければ、白峰さんに同行したいなって。レンタカーを借りていきましょう。僕が運転しますから」



 *



 瑞樹と冷泉、河西は互いの住んでいるちょうど中間地点にあたる、T市で待ち合わせをすることになった。

バスターミナルのベンチで瑞樹は足を曲げたり伸ばしたり、肩を上げ下げしたりとそわそわ落ち着かない様子だった。一方の冷泉は、目的地の漁村のパンフレットを、切れ長の目を険しくして食い入るように熟読している。

そんなちぐはぐな二人のもとへ、一台の軽自動車が近づいてきた。

「お待たせしました」

 そう言って運転席の扉から、頭を出した河西の顔を見るなり、冷泉と瑞樹は揃って顔を凍り付かせた。――彼は、瑞樹と小夜の生まれ育った四神村で、昨夏、出会った青年によく似ていた。

 そんな二人の様子に、首を傾げながらも、河西は後部座席のドアを開けて、中を示した。

「どうぞ。そちらの方はご友人ですか?」と、冷泉の方へ向き直る。

「申し遅れました。白峰瑞樹の大学の同輩で、冷泉誠人と申します。二回生です」

「ああ、はじめまして。白峰くんから聞いていると思うけれど、僕は河西っていって、小夜ちゃんと同じ大学の四回生だよ」二学年下だとわかったからか、河西の口調が途端に砕けた。

 これからF県の漁村まで、数時間の車旅になるのだから、いつまでもよそよそしいよりはいい。瑞樹はほんの少しだけ肩の力が抜けたのを感じた後、冷泉に続いて後部座席へと身を滑らせた。



14:00



 最短ルートと思しき道程を選びこそしたものの、初めての道はやはり慣れないものである。目的の村の錆びた標識が見えた頃には、時計の針も午後二時を指そうとしていた。

 防波堤に沿って車を走らせる。村に入って五分も経たないうちに、『鷹野旅行代理店』の簡素な看板が目に入ってきた。

 近くの駐車場にとめて、その扉を叩く。ドアはガタガタと音を立てて開くのを拒んだ。古びた建物である。扉も古い木の枠に、磨り硝子がはめ込まれている、横スライドのドアだった。硝子戸ではあるものの、苔色のカーテンがぴっちりと閉まっていて、中を覗くことはできない。

 しかし、少なくとも現在開店状態にないことだけは、誰の目にもわかった。

「ごめんください」

 河西がノックをすると、ガンガンガンと硝子のたわむ音がした。

 予想はできていたが、返事はない。

「弱ったな……藤間君の家に行ってみようか」

「藤間君?」

「ああ。車で話した去年亡くなった女子部員――早見エメリの弟だよ。訳あって苗字は違うけどね」

「この街に住んでいるんですか?」

「ああ。『鷹野旅行代理店』で月に何度かアルバイトをしているんだよ」



14:30



 三人は車を有料駐車場にとめなおして、そこから歩いて藤間エーリクの家に向かった。

「弟さんはご家族と住んでいるんですか?」瑞樹は小声で尋ねた。

「いや……一人だよ。エメリと藤間くんの両親は十年前に離婚したんだ。エメリが十二歳、藤間くんが二歳の頃にエメリは父方に、藤間くんは母方に引き取られた。それからエメリが中学を卒業する年にエメリの父親は蒸発し、藤間くんのお母さんは二年前に病気で他界したんだ。それからは、お互い一人暮らししながら、時々会っているみたいだよ」

「ご親戚の方は……いなかったんでしょうか」

瑞樹が言葉を選びながら尋ねた。

「いないって言っていたよ」

「姉弟で一緒に暮らすことは……できなかったのでしょうか」

「そうだね……エメリ側からは、だいぶ藤間くんに声を掛けたみたいだけどね。もう十年も別々に暮らしているし、エメリにとっては弟でも、当時二歳、記憶のほとんど残っていない藤間くんにとってはやっぱり、ね。思春期だしね」

「そんなもんなんですかね」瑞樹は足元に視線を落とした。

「まだ学生であるエメリに迷惑をかけたくなかったんじゃないかな。内職をしたり、『鷹野旅行代理店』でのアルバイトをしたりして頑張っているみたいだよ」

藤間の家は木造の二階建てアパートで、築数十年といった風に見えた。その一階の角部屋が藤間の部屋だった。

 ベルを押すと、音の外れた間抜けな音がする。バタバタと足音がして、中から坊主頭の少年が顔を出した。ほんの少し異国の血を感じさせるような、目鼻立ちのくっきりした少年だった。身長は、百七十五センチ弱の瑞樹よりも、十五センチほど小さいだろうか。

「河西さん……」

 藤間は長い睫毛で縁どられた目を丸くした。

「久しぶり。事前連絡もなしに、突然押しかけてごめんね」

「いえ、どうしたんですか?」

 藤間は河西の肩越しに背後の二人に視線を向けながら、首を傾げた。

「それがさ、『鷹野旅行代理店』の社長さんたちと連絡が取れないんだけど、何か事情を知らないかな」

「社長ですか? 確か昨日帰ってくる予定だったと思うんですけど」

「そう聞いていたんだけどね、旅行客もろとも行方がわからないんだ」

「旅行客って、河西さんの大学のお友達ですよね」

「そう。だから、ちょっと気になって。店も閉まっていたから、藤間くんなら何か知っているかなと思って来てみたんだけどね」

「それは心配ですね」藤間は、ドアを開けて中を示した。「立ち話もなんですから、中へどうぞ。――そちらの方は?」

「申し遅れました。旅行客の友人の冷泉と申します」

「同じく白峰です。突然押しかけてしまってごめんなさい」

 藤間は、二人の言に合わせてゆるやかに相槌を挟んだ痕、玄関の扉を全開にした。

「藤間エーリクです。中へどうぞ」



 *



 六畳一間の狭い部屋だった。しかし、無駄なものがなく、また掃除も隅々まで行き届いており、そんなところからも家主のしっかりした性格が伺えた。

 テレビはないが、小さな棚があった。その上には写真が三枚飾ってある。一枚は、二十歳くらいの女性の写真。そしてもう一枚はその女性と、藤間が二人で写っている写真。最後の一枚は、同じ場所で藤間が一人で写っている写真だった。

 瑞樹の視線の動きを察してだろう、藤間が言った。

「姉です。真ん中の写真は僕と姉で、去年のゴールデンウィークにA県のY岳に登ったときの写真。もう一枚はついさっき現像したばかりの写真です」

「あ……そうでしたか」

 瑞樹は唇を閉じた。促された木製のちゃぶ台の脇に腰を下ろす。

 早見エメリが昨年末に山で事故死したことは、車の中で河西から聞かされていた。一年前に姉と登った思い出の山で、今年は一人写真を撮った十二歳の少年のことを想えば、胸が痛んだ。

「さっき現像されたのですか?」冷泉は、お構いなしと言った様子で口を挟む。

 その視線の先、狭い台所で三杯分の麦茶を注ぎながら、藤間が顔だけ居間を振り返った。

「はい。A県から、昼過ぎに戻ってきました」

「じゃあ、お昼ご飯もまだなんじゃないですか?」

「お昼は電車の中で済ませてきました。九時二十六分の電車でしたかね、確か。帰りに写真の現像まで済ませて、ついさっき帰ったところなんですよ」

「じゃあ、あと一時間早ければすれ違いになっていたね」

 河西が腕時計に視線を落としながら言った。

「そうですね。――それで、そのご友人と社長たちがまだ戻らないって話ですけれど……どうしたらいいでしょうか。警察に連絡ですか」藤間は不安げに眉を寄せた。

「警察か……」河西は腕組みをして唸った。

「昨日の波の状態が悪かったとかいうことはないでしょうか」冷泉がグラスから目をあげて、尋ねた。「F県はどうかわかりませんが、僕の住んでいるM県はかなり風が強かったし、寒かったです」

「なるほど。波が高くて船を出せなかった可能性か。あり得るな」

「とりあえず、店まで行ってみましょう」藤間が左手首に視線を落として言った。「一日戻りを遅らせただけでしたら、行程的にはそろそろ帰ってくる頃ですよ」



 *



 玄関を出たところで、隣の部屋の玄関のドアが開いた。中から、よく日に焼けた人のよさそうな男性が出てくる。

「何かあったのかね」

 小豆色の毛糸の帽子を耳まで被った、骨太の中年男性だった。髭には白いものがだいぶ混じっている。

「船長さん」

 藤間は間違いなくそう呼んだ。センチョウ――その音に漢字を当てはめるとしたら、瑞樹の知るところでは、『船長』くらいしか思いつかない。船乗りだろうか。そうアタリをつけてよくよく観察してみると、なるほど、全体的によく日に焼けており、手なども武骨な漁師のそれに見えた。

「すみません、うるさかったですか?」

「いいや、声までは聞こえなかったよ。ぞろぞろ家の中から人が出てくるなんて、なにごとかと思っただけさ」

 船長は、優しそうな声で言った。しかし、その声はとても大きい。ひょっとしたらほんの少し耳が悪いのかもしれなかった。

「ならば、よかったです。いえ、それがですね……鷹野社長が島から戻ってこないんですよ」

「鷹野さんが? 島って雪女島だろう」

「ええ」

「いつ戻りの予定だったんだい」

「昨日です。波が高かったんでしょうかね」

「いやぁ、昨日は船出せたよ? うちは」

「ええぇ……じゃあ……」

 藤間は不安そうに河西を振り返った。

河西が一歩前へ出る。

「初めまして、船長さん。僕は藤間くんの知人の河西と申します。こちらが、冷泉くんと白峰くん。――みんな、鷹野社長と同行している旅行客の知り合いです」

「それは心配だな。船出そうか?」

「え、いいんですか?」瑞樹が食いつき気味に言った。

「いいよいいよ。困ったときはお互い様だ」



 15:00



 それから三十分もしないうちに、四人は太平洋の上にいた。波はやや高いらしい。慣れない揺れに、瑞樹は最初緊張した面持ちをしていたが、十五分もすればすっかり慣れてしまったようで、周囲を見回す余裕ができたようだった。

「そうか。藤間くんのお姉さんのボーイフレンドなのか」

 船長は、今しがた藤間から聞いた情報を反芻した。

「こっそりと付き合っていました」

「なんで隠していたんだい」

「いえ……所属していた山岳部は男女混合の部活でしたから。その、部員の間でそういうものがあると、みんなも何かと気を遣うかなと思って」

「サンガクブ?」

「山岳部、登山をする集団です」

「ああ、山岳部ね」船長はうんうんと無精ひげの生えた顎を縦に揺らした。「それで、お姉さんは山の事故で……か。かわいそうだったね」

 藤間と河西の間に、何とも言えない沈黙が下りた。

「俺もね、海で長年仕事していたら、海での事故なんかも何度かあったよ。その度に、心が千切れそうな思いだった。でもね、人生ってのは、出会いと別れの繰り返しなんだな。自分が先に逝くか、相手が先に逝くかの二択だからね。それを乗り越えて強く生きなきゃいけないんだよね。辛いね」

 藤間は白い顔をふいと背けた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいるようだった。

「そうですね……」河西は重い息を落とした。



16:00



 島影が大きくなるにつれて、妙な黒い物体が桟橋を揺らしていることに気づいた。否、目を凝らしてよく見ると、桟橋が揺れているのではない。桟橋の隣で黒い塊がゆらゆら波間に揺蕩っているのだ。

「何だ?」瑞樹が身を乗り出して瞬きを繰り返した。

 冷泉も同じように、何度か目の表面を潤す。それでもはっきりと像を結ばないのに焦れて、バッグからハーフリムの眼鏡を取り出してかけた。

――船だ。黒焦げになった船が陸に向かって体当たりするように、繰り返し打ち上げられている。隣接した桟橋も途中から黒く焦げて、陸に触れる部分は一部炭化していた。

「あれは……会社の船だ」藤間が立ち上がった。バランスを崩した船が大きく揺れた。

「どうしてあんなことに……」冷泉は口の中で呟いた。

 隣の瑞樹を見遣れば、目を剥き、青ざめた唇を小さく戦慄かせている。

「船が……船が故障したのか?」

「いや」冷泉も視線を船に戻して、「岸までは辿り着いているんだ。きっと上陸して、救助を待っているんだろう」自らに言い聞かせるように言った。

 不安を滲ませる四人に、船長は追い打ちをかけるようなことを言った。

「いや、この島は潮と風の関係で、潮は島に向かって流れるようになっているはずだ。だから、海上で難破したとしても、自然とあの桟橋の近くに流れ着く」

「そんなことがあるんですか」冷泉は風切音がしそうな勢いで振り返った。

「あの様子じゃあ、船は係留されてないだろう。もし、されていたとしても綱ごと燃えちまっているよ。それでも、船があの場から動かないのが何よりの証拠さ」

「それじゃあ」

河西が目を剥くのに、漁師は小さな目をぱちくりさせながら頷いた。

「途中で炎上して難破した可能性もないわけじゃないな。……こりゃあまずいことになったぞ……」

「そんな」河西が端正な顔を歪ませた。

「じゃあ、鷹野さんと降谷さんも……」

藤間も連鎖するように、柳眉を歪める。

 流行病のように伝染する恐怖に待ったをかけるべく、冷泉がぴしゃりと言い放った。

「まだわからない」しかし、その額にも冷や汗が滲んでいた。「わからないぞ、まだ……」

「望みはあるよね」瑞樹が泣きそうな声を挙げた。

 冷泉は深く一つ頷いた。

「船長、今乗せていただいているこの船では、旅行客と乗員全員が本土に帰ることはできません。それに、炎上した船を牽引する必要もあるでしょう。場合によっては、怪我を負っている人もいるかもしれません。申し訳ありませんが、島についたら僕たちをその場に残して本土へ引き返していただけませんか? そして、警察に通報してください」

「わかった」

 船長は真剣な顔で顎を引いた。

「怪我人がいたとしても、医学科の和泉と、看護学科の龍川さんがいるからきっと応急処置くらいは……」

 河西が、同意を求めるように冷泉に視線を向けた。

冷泉は祈るように首肯して、重い息を吐いた。



16:30



 岸に近づくにつれ、ガソリンの匂いに混じって、腐敗臭が段々と濃くなってきた。

「これは……人為的に燃やされた可能性もありますよ」

 冷泉は堅い声を出した。

 異常事態を察した瑞樹がぶるりと身体を震わせる。

「ガソリンの匂いがしやがる……」船長は丸い鼻を、丈夫そうな右手で覆って船を止めた。

 乗って来た漁船を係留して、五人は一人ずつ陸へと上がった。

 鼻を衝く異様な匂いのもとを辿ったところで、一同は毛布を被せられ、大きめの岩で重石をされた遺体を発見した。

 河西は完全にその場に硬直し、藤間と船長は「ひっ」と各々喉を引きつらせて後ずさりをした。瑞樹は泣きそうな顔で冷泉の横顔を見た。

 毛布には丸々と肥えた蠅がたかっている。

 冷泉は羽織っていたジャケットを脱いで、まずそれらを追い払うと、そっと傍にしゃがみ込み、重石のうちの一つを外して毛布を捲ってみた。

 赤い肉塊だった。

 背後で船長と藤間が「わああ」と声をあげて、たたらを踏むのがわかる。

 海鳥にでも啄まれたのか、顔かたちの判別は難しそうだったが、服装から男性であろうことは辛うじてわかった。

「これは……」と、冷泉は背後を振り返り、「河西さんわかりますか?」冷泉のすぐ後ろに来ていた河西を仰ぎ見る。

 河西は、口元を左手で覆ったまま、青い顔をふるふると横に振った。

「と、とりあえず、大変なことになっている。急いで警察だ」

船長が罅割れた唇の端に泡を吹きながら、つっかえつっかえ言った。

「全員で一度戻った方がいいんじゃないですか?」

 藤間が色素の薄い目を険しくして言った。

「いや、みなさん、助けを待っているかもしれない。」瑞樹が即答した。そして、「藤間さん、宿泊所はどこにあるんですか?」今にもその場から駆け出しそうな勢いで尋ねた。

船長は、乗って来た漁船を目掛けてよたよたと駆け出していた。

「そ、それじゃあ、なるべく早く警察連れてくるから。きみたちも気を付けるんだよ」

 息つく暇もなく、船長は冷泉たち四人を島に残し、とんぼ返りで本土へと戻っていった。

 目の前には、完全に炭化した船が浅瀬でざぶざぶと泳いでいた。

 恐る恐る中へ目を向けるが、人がいる様子はなかった。それから四人は連れたって、つづら折りの階段を二段飛ばしで駆け昇って行った。



 *



 コテージの玄関の鍵は開いていた。ホールに足を踏み入れた瞬間、ひんやりと冷たい空気が内から外へ動いた気がした。音も匂いも何もない。

「小夜……小夜ちゃん! 小夜ちゃんどこだ!」

 その瞬間、瑞樹が何かに突き動かされるように駆け出した。河西、冷泉、藤間とそれに続く。瑞樹は、すぐ左手の居間の扉を勢いよく開けた。

 目の前に三人掛けのソファが三脚、コの字型に置かれている。その中心にある机の上には、クッキーの小袋が一つと、折り曲げられた十個ほどの紙片が無造作に置かれていた。

「誰かがここにいたんだ」

 瑞樹は口の中で呟いて、弾かれるように部屋の奥を見回した。

冷泉も同じように、ぐるりと部屋を一望した。内部をよく見ようと電気のスイッチを探したものの、それらしきものが見つからない。不思議に思いつつも、まだ明かりがなくとも支障はないと、冷泉はそのまま部屋の中へと足を踏み入れた。

ソファの向こう側には大きな窓があり、そこからウッドデッキに出られるようになっている。右方の奥にはグランドピアノと、ステージだろうか、小さな段差があった。

 瑞樹は、夢遊病者のように危なっかしい足取りで、厨房、管理人室、宴会場、トイレ、シャワー室と順に覗いて回った。それを先頭に、三人もそれぞれが音のない箱の中を駆けまわる。

瑞樹が二階に続く階段に足を掛けるのを見て、冷泉も後を追った。そして、階段の最後の数段まで来たときに「あ!」っと声を挙げた瑞樹の背に飛びつくようにして肩を並べた。

昇ってすぐ、左右に位置する客室のドアはどちらとも破られていた。

思わず、二人は顔を見合わせる。しばらく、沈黙を経た後、瑞樹がやや迷うような動作を示して右側の部屋へと足を踏み入れた。

入ってすぐ、二〇一号室と書かれた扉が破られ、部屋の内壁に立てかけられていた。その奥には口の開いた黒い旅行鞄が置いてあり、またベッドのシーツはくしゃくしゃになっており、誰かが使ったような形跡が見受けられた。

対面の二〇五号室も扉が壊されており、同じように内壁に立てかけられていた。しかし、二〇五号室の扉に限っては、下半分にもう一つの小さな扉というべき開き戸があり、それが開いたままになっていた。

「隠し扉か?」

 先に廊下へと出て、二〇五号室を覗き込んでいた冷泉が、眼鏡の蔓に手を掛ける。

 二〇一号室から出てきた瑞樹は、立ち尽くす冷泉を抜き去り、恐る恐る二〇五号室の敷居を跨いだ。その瞬間、むわりと鉄臭い匂いが鼻腔を突いた。入ってすぐに点々と血痕があり、その奥のベッドの上に、毛布をかけられた長い塊があった。手前側に足の裏がつき出ている。明らかに男性の靴だった。

匂いで何があるのか察したのだろう、「もうやだ」と、藤間が階段を昇ったあたりで嘆く声がした。

 河西が瑞樹の背に手を添えるようにして、前へ出る。そして、そっと毛布をめくった。

「うわあ、横井――!」



 *



 それから二〇四号室のベッドの上に森内の死体と、それから二〇三号室のベッドの上に乾の死体を発見した。それぞれ腐敗が進んでいるようで、なんともいえない臭気を発していた。二〇三号室の突き当りの窓は外側から破られたようで、扉を開けた瞬間、風が通ってカーテンがそよいだ。

「何があったんだ……」河西は蒼白な顔で唇を震わせた。

 藤間は、階段を昇ったあたりで、影を地面に縫い付けられたように立ちすくんでしまっていた。

 次に二〇二号室の扉に手を掛けた瞬間、瑞樹が「えっ」と声を挙げ、扉を閉めた。何ごとかと、河西と冷泉が続く。

「何かが引っかかっている」

 ノブはまわるものの、開けた瞬間、突風に襲われたところで障害物に当たった。

「誰かいるのか? 河西だ。助けに来たぞ」

 河西が良く通る声を、扉の向こう側へと投げかける。

 冷泉は一度背後を振り返り、藤間の姿を確認した。彼は依然青白い顔で、震える両手を薄い上体に巻き付けていた。

「誰もいないようだ」

 河西は、瑞樹に目を向けた。瑞樹は頷き返した。そして、再びノブを回した。

こちらも二〇三号室と同様に、しかし内側から窓が破られていた。そして、すぐにドアに引っかかっていたものの正体が判明した。河西が、慌てて扉の影から中を覗き込んで、ひときわ大きな声を上げた。

「檜山!」

 扉に引っかかっていたのは、長身の男の左腕だった。右の背中の中央部に大ぶりの登山ナイフが刺さっており、その上にも深い傷がある。左腕と左側頭部にも赤黒い痕があった。

 河西は、へなへなと力を失うようにその亡骸の傍に腰を下ろした。

「あ。小夜ちゃんのバッグだ」

 冷泉の隣で、瑞樹が早口に呟いた。彼の視線の先には、薄茶色の旅行鞄があった。瑞樹は、彼女の名を呼びながら、肩を落とす河西をよけるようにして部屋の中へとふらふら入っていった。

 目の前の死体と河西、瑞樹の背中へとかわるがわる視線を向けながら、冷泉も部屋の中へ足を踏み入れた。

「誰もいない」冷泉は息を呑んだ。

「ここは小夜ちゃんが使っていた部屋だったのか?」瑞樹が独り言のように口の中で言った。

「窓に血が」冷泉は大きく破られた窓硝子から、首だけを出して外を覗いてみた。

そこには一メートルほどのバルコニーと、散らばった硝子片、それからいくつかの血痕が見えた。

「誰かがバルコニーに出たんだ。冷泉は、振り返って瑞樹の目を見た。「この椅子を使って」と、足の傷ついた椅子を持ち上げて揺すった。窓硝子を破った際に傷がついたのだろう。

瑞樹は泣きそうな顔で、冷泉の目を見つめ返した。

「でも、二〇三号室に、生きている人は誰もいなかった」

「ああ。あの部屋に小夜さんはいなかった」

「二〇三号室のドアの鍵は開いていた。二〇二号室の窓を破って逃げた小夜ちゃんは、二〇三号室を通って、廊下へと逃げたのかもしれない」

「それは……」

 冷泉は横目でベランダの白い手すりを見た。そこには赤黒い筆で掃いたような痕があった。怪我を負った小夜は、二階の窓から飛び降りたのかもしれない。しかし、そのことを気持ちが昂っている瑞樹に伝えるのは憚られた。

「そうだよ。二〇三号室から逃げたんだ、きっと……」

 瑞樹は、ふらふらと二〇二号室の入口へと戻った。

 流血するほど怪我を負った小夜が二〇三号室を通ったのなら、それなりの血痕があるだろう。それに、二〇三号室はバルコニー側から部屋の内側に向かって窓硝子が割られていた。が、道具が見当たらなかった。また、怪我を負った小夜が何かしらを振りかぶって、窓硝子を割ったのだとしたら、血痕の一つや二つ落ちているのが自然に思える。――冷泉はその思考を脳内で噛み殺して彼の背中を追った。

 三階は荷物やシーツの乱れ具合から誰かが寝起きした気配こそあれど、もぬけの空だった。瑞樹と冷泉が三階を降りてきた頃になって、ようやく河西が二〇二号室からふらふらと出てきた。藤間は相変わらず二階の廊下の中央で震える身体を抱きかかえて直立している。

「外へ出てみましょう。三階にも誰もいませんでした。ところで、宿泊客は全部で何名いたのですか?」冷泉が尋ねる。

 震える藤間に代わって、河西が「客は七人だよ」と毅然と答えた。

「じ、乗務、員は、二人……社長の鷹野さんと、スタッフの降谷さん……」

 藤間が奥歯をかちかち言わせながら答えた。

「ならば、全部で九名ですね。海岸に一名、コテージに四名と、合わせて五名の遺体が発見されていますが、まだ四名はいるはずです。急いで外を探しましょう」

 冷泉が気丈に提案するのに、瑞樹が右胸に左手を当てて力なく頷いた。



 *



コテージのリビングからバルコニーへ出た一行はそのまま二〇二号室の真下へと来た。

そこには明らかに血の痕と見て取れる斑点があった。

「二階から飛び降りたんだ」ようやく気がついたらしい瑞樹が口の中で呟いた。「でも、ここに倒れていないから、ここからどこかへ逃げたんだ……」

 そして「小夜ちゃーん」と声を張り上げた。反響する山もない島の上では、その声はそのまま沖の向こうへ消えていった。

「他に人が隠れられそうな場所を知りませんか?」

 冷泉は藤間に尋ねた。旅行代理店スタッフならば、施設には詳しいだろう。そう思っての問いだった。

「た、体育館と、あとプールが」藤間は、なおも青い顔で唇を震わせながらたどたどしく答えた。

「体育館とは、あの建物のことですね」視線の先に、バスケットコート一面分ほどのやや小ぶりな建物があった。「順に行ってみましょう」冷泉は気合を入れるように、一つ息を吐いた。

「小夜ちゃんは、犯人から隠れているんだ、きっとそうだ……俺たちが助けに来たことを知らないんだ……」

 瑞樹は固く目を閉じ、額に手を当てる。そして誰にともなくぶつぶつとつぶやいた。長い睫毛がふるふると揺れている。

「ま、待ってください。心の準備が」藤間が三人に向けて震える声で懇願した。

三人は思い思いに頷いた。河西がそっと彼の肩に手を添える。藤間は涙を堪えるような表情でこつんと頭を下げた。まるで魔王の根城へと乗り込む勇者のような気分だった。



 *

 

体育館の入口のドアは開いていた。中へ踏み出すと、微かに鉄臭い匂いが鼻腔を突く。冷泉の背後で藤間が息を詰めるのがわかった。

 河西が「またか」と地面を見つめる。

 冷泉は意を決したようにフロアの中へ続く黄色い引き戸を開け、中へと足を踏み入れた。見回すまでもなく、右側の床に乾いた大きな血だまりの痕があり、一同の視線はそこに釘付けになった。そのまっすぐ上には幅一メートル強ほどの内向きのベランダ状の二階があり、鉄格子の隙間からぞんざいに纏まったロープが見える。

「梯子がある」

河西がフロアの隅を指さした。

 その二階に昇るための唯一の手段である、縄梯子が下りたままになっていた。

「誰かいるかもしれない。昇ってみよう」

 そう言って、河西が縄梯子に手を掛けた。揺れる縄梯子の裾を慌てて冷泉が固定する。

しかし、頂上まで昇った河西は緩く首を振った。「何もない」

「でも、ここで誰かが大量の血を流したことだけは確実なようですね」冷泉が眉間に皺を寄せて唸った。それから、何かを見つけたように一直線にフロアの隅へ歩いてしゃがみ込むと、「非常灯がある」設置されていた非常用の懐中電灯を拾い上げた。

立ち上がってぐるりと確認すれば、体育館の四隅に一つずつ備え付けられているのが見て取れる。うち一つは、設置台のみが備え付けられていて、肝心の懐中電灯本体はなくなっていた。

「もうじき日が沈みます。これだけでは心もとないですが」

 それから、四人は連れたって体育館の裏へとまわった。

 途端、先頭を歩いていた河西が、息を呑んで一歩後ずさりをした。

 藤間が電流にでも打たれたように、体育館の角の裏へ身体を隠す。そのまま蹲って「もういやだ」と、頭を抱えてしまった。

「和泉……」河西が、忍び足で恐る恐るその傍へ腰を下ろす。

 そこには頭の左上半分を失った、華奢な男が倒れていた。赤黒い大きな陥没は背中にも見られ、両腕は体側に捻じれた形で放り出され、両足はぞんざいに伸びている。割れた頭からは脳梁が飛び散り、頭と背中の下に暗赤色の染みが広がっていた。

 辛うじて残った右目は真上を向き、灰色に濁っている。土気色の唇からはちろりと舌の先が見えていた。

 冷泉は河西の肩にそっと手を置くと、悲痛に歪む顔を覗き込んだ。

「あとの三人を、探しましょう」



 *



 世良久美子の死体は森の奥で見つかった。

 頭に黒いビニル袋を二重巻きにされて首のところで縛られ、両手首と肘、膝と両足首を縄で縛られ、太い木の枝に逆さ吊りにされていた。

 袋を取った顔はぱんぱんに腫れ、元の顔かたちの予想もつかないほどになっている。酸欠か、両手首の切り傷が致命傷になったと見え、流れた血液で上半身と、地面がしとどに濡れていた。

 ここまでくると、河西もただ肩を落とすばかりで、望みのある言葉を口にすることもなくなっていた。瑞樹は依然紙のように白い唇を震わせながら、ただ冷泉の斜め後ろを影のようについてきていた。藤間はというと、河西の上着の裾を握って放さない。死体が発見されるたびに強く目を瞑り、両手で顔面を覆って背けていた。

 冷泉は、斜め後ろの瑞樹を振り返った。

 先ほどから獣道のところどころにぽたぽたと落ちている血痕に、彼も気づいていることだろう。傷を負ったまま、二〇二号室から命からがら逃げ出した何者かが、この森のどこかに今もいるのだ。

 冷泉はふっと天を仰いだ。

 目隠しのように覆いかぶさる木々の隙間から、闇の気配が見下ろしている。

 もうじき夜が来るのだろう。そうなると、捜索作業も難航する。血痕を肉眼で追えるうちに、小夜の居場所に辿り着くことが求められている。

 地面に目を凝らしながら、四人は恐る恐る深い森を進んだ。

 鳥が何羽か、木々の間を、円を描くように飛んでいた。夕日が落ちた方向だった。

やがて、三人の足が止まる。瑞樹だけが、ただ一人ふらりと前へ歩み出た。

少女の身体は、胎児のように丸まり、命の灯を完全に失っていた。

瑞樹はその硬くなった身体をそっと両手で抱きしめた。次第に力が入り、ぶるぶるとその背が震え始めた。すん、と誰かが鼻を啜る音がした。

冷泉は切れ長の目を細めて、眼鏡のレンズ越しに友の静かな慟哭を聞いた。

小夜の身体は、今や野鳥に啄まれ、ところどころ肉や骨の一部が露出していた。

昨夏見た、少女のはにかんだ顔を瞼の裏に思い描く。そして、瑞樹の無邪気な笑顔を。

やりきれない、と、冷泉は小さく首を振った。

「小夜……」

瑞樹は幼馴染の名を、愛しそうに呼んで額を撫でた。

そして、死臭漂う滅びの森で、彼は彼女の額に最初で最後のキスをした。

 冷泉はそっとその場に背を向けた。

 辺りは一段と暗さを増した。この森の中に今でも殺人鬼が潜んでいるかもしれないと思うと、男四人で固まっているとはいえ、戦慄が踵から背骨に沿って頭の天辺へと駆け巡る。

「降谷さんはどこへ行ってしまったんだろう……」

 藤間が掠れた声をぽつりと零した。彼女もこの森のどこかにいるのだろうか。

 冷泉がぐるりと周囲を見回したときだった。「あれは……」視界に白いものが入り、駆け寄ってみる。

 木のうろの中に、二冊の手のひらサイズの冊子があった。

「本か? 二冊あるぞ」

 両方ともA5サイズより一回り小さい。厚さ一センチほどのノートブックだった。一冊は透明のビニールカバーがかかった花柄のもので、もう一冊は茶色の革張りのものである。

「これは見たことがある。檜山のものだ」

 うち茶色の方の冊子を覗き込んだ河西が、呻くように言った。

 手帳のようだった。前半はスケジュール帳のようで、ところどころに予定が書きこんである。後半のフリースペースには、少し右肩上がりの小さな文字がぎっしりと詰まっていた。

 差し出された河西の手にその革製の冊子を渡して、冷泉は、「もう一つは」と、花柄の冊子を捲ってみた。こちらも、後半のフリースペースには、ぎっしりと筆圧の薄い文字が書きこまれてあった。

ひとまず、持ち主のヒントはないかと、冷泉は再び前半のスケジュールの頁へと巻き戻してみる。そこで、決定的な文字列を見た。

『199*年5月25日 AM 瑞樹くん』

「これは……」冷泉は弾かれたように瑞樹を振り返る。ストレートの黒髪が針のように宙に舞った。

 なおも瑞樹は項垂れたまま、物言わぬ小夜の亡骸を抱きしめていた。泣き止まぬ赤子を大事にあやす母親のように。

「これは事件の記録だぞ、冷泉くん」

 鋭い声に視線を転ずれば、目を剥いた河西と視線が合う。

 冷泉はお辞儀をするように、彼の手元を覗き込んだ。

それは、紺色のボールペンで克明に綴られた事件記録だった。

「それじゃあ、こっちも」

 冷泉は、みたび自らの手元の手帳の、フリースペースへ頁を送る。

 こちらも黒のボールペンで克明に綴られた事件の顛末だった。ページは湿気で柔らかくなっているものの、読めないほどではない。

 慌てて冷泉は、河西に言った。

「これは、大事な証拠品です。警察が来るまで大切に保管しなければなりません。僕たちは四人で固まってコテージまで戻り、この二冊の手記を守る義務があります」

 これはいわば命を賭したダイイング・メッセージだ。この島に未だ潜んでいるともわからない犯人から、死者の意志を守らねばならない。

「しかしまずは生き残った人物の保護です。森を一周して、降谷さんを探しましょう。犯人が潜んでいるかもしれないので、絶対に離れないでください」冷泉は、前半は河西に、後半は藤間に向けて力強く言った。「行こう」そして、瑞樹に視線を落として言った。

瑞樹はぴくりとも動かなかった。

「瑞樹」

 冷泉は彼の名を呼んだ。瑞樹は薄く頭を振るだけで、頑として動こうとしなかった。そんな彼の腕を、冷泉は手帳を握っていない方の左手で優しく掴んだ。瑞樹の腕は小さく震えていた。頬は幾筋もの涙で濡れていた。瑞樹は、普段は涼しく穏やかな顔を、子供のようにくしゃくしゃにして泣いていた。

「ここにいる」

「瑞樹、危ないよ」

「ごめん、いやだ」

「瑞樹」冷泉は隣に片膝をつき、努めて優しく声を掛けた。

 瑞樹は眉間に皺を寄せて、母親に泣きつく子供のような声を絞り出した。

「小夜はもっと怖い思いをしたんだ。これ以上一人にするのはかわいそうだ」

「瑞樹……」

「俺はいかない。みんなだけで行って」

 瑞樹は懇願するように、声を絞り出した。

 冷泉は河西を見遣った。河西が首を横に振った。

 それからしばらく、三人は瑞樹を囲んで立ち尽くした。

やがて河西は、檜山の手記を真剣なまなざしで読み始めた。辺りは時間が経つごとに暗くなっていく。冷泉は、途中体育館で手に入れた、非常灯を河西に手渡した。

「ライトをつけるということは、不審者が潜んでいた場合、こちらの場所を教えるようなものです。気を受けてください」

 そう言って、河西を見上げると、彼はわかったと深く頷いた。

 十分ほどが経過した頃、河西が冷泉に耳打ちをした。

「読んでみてくれないか」

 その言葉に冷泉は頷き、彼からライトと手帳を受け取る。中には、事の顛末と、檜山なりの個人的見解が書き連ねてあった。

「これは……想像以上ですね。檜山さんというのは、二〇二号室に倒れていた方ですよね」

 冷泉が目をあげて尋ねると、河西は何かを堪えるような表情で肯いた。

「そう」

「小夜さんと一緒にいたのでしょうね。このノートを木のうろに隠したのはおそらく小夜さんだ」

「状況から見ればそうだろうね」

「ええ、それだけではありません」冷泉は河西に花柄の手帳の一頁を示した。「ここに血液が付着しています。この血液を調べれば、誰のものかわかるでしょうが、まず間違いなく、両手に怪我を負った小夜さんが、ここまで走って来て、うろに隠したのだと思います」

「檜山と龍川さんは一緒にいたんだろうか。二〇二号室に」

「おそらくそうでしょう。そこで、犯人の襲撃を受け、小夜さんは窓から脱出した。……檜山さんが倒れていたのは入口付近でしたから、犯人は入口から襲ってきたのでしょうね。そして檜山さんは身を挺して小夜さんを守った、と」

 河西は右手で眉間を抑えた。「そういう奴だよ、檜山は……」

 冷泉は開きかけた口を閉じた。

 すっかり辺りは夜に包まれた。真っ暗な森を、冷泉の手のライトだけが照らし出す。

「小夜さんの手帳と照合してみれば、およそ何が起きたのかわかりそうですね」

冷泉は、瑞樹にちらりと視線を向けた。瑞樹は魂が抜けたように、明後日の方向を凝視したまま動かなかった。腕の中には変わらず、物言わぬ躯と化した小夜があった。



 *



「速報です。今日午後六時頃、F県F村、C地区の海岸に、女性の死体が浮いているのが発見されました。身元は現在調査中とのことで……」

「続報です。今日午前六時頃、F県F村、C地区の海岸で発見された遺体の身元が判明しました。身元は地元のアルバイト、降谷瑛梨さん、十九歳で、死亡したとみられる時刻は五月三日夜十一時から、翌五月四日深夜三時頃とのことです。死因は首を突いた失血死……」

(ニュース ウォッチイブニングより)



 *



 20:00



「船だ」

 昏い森の中、三角座りをした河西が疲れ切った声を挙げた。

 ほぼ同時に、西の空からボトボトというヘリコプターの羽根のまわる音が聞こえてくる。続いて、西の海を幾筋もの光の筋が照らし始めた。



 *



『雪女島殺人事件』事件調書 被害者(九名)

 鷹野八郎(海水による溺死)、森内剛(針による毒殺)、乾拓也(ガスによる毒殺)、横井行基(首筋、肘窩、足の付け根からの失血死)、檜山司(刺殺)、龍川小夜(刺殺)、和泉侑李(撲殺)、世良久美子(窒息死)、降谷瑛梨(刺殺)



 *







エピローグ 



「こんにちは」

 冷泉は目を伏せて首を傾げた。挨拶を受けた男も、微笑みと会釈を返す。

 ある初夏の昼下がりのことである。男は住まいの近くの公園のベンチに一人座って物思いにふけっているところを、冷泉誠人に呼びかけられた。

「少し、僕の話を聞いてくれますか?」

「……なんでしょうか」

 心当たりはあった。けれど男は、綺麗に笑んで小首を傾げてみた。

「事件についてです。三週間前の、あの」

「ああ……」男は足を組みなおした。「……あの。できたらもう忘れたいのですが」

「ええ、そうでしょうね。このまま事件が闇に葬られた方がいい。あなたはそうお思いでしょう」

 男が横目を向けると、冷泉は口元を引き締めた。目は笑っていない。

「犯人はあなたですね」

 冷泉の切れ長の目の奥を、男はじっと見据えた。

「島で降谷瑛梨さんとしてふるまっていたのは、降谷瑛梨さんではなく、藤間エーリクさん、あなただったのです」

 男――藤間エーリクは一瞬目を伏せた。しかし、すぐに長い睫毛を持ち上げて、蠱惑的に笑った。

「僕が? 犯人は降谷さんでしょう。八人を殺害して、自殺した」

「いいえ」

「彼ら八人以外島に誰も潜んでいなかったことは、檜山さんと龍川さんの手記にあったって、警察の方も言っていたじゃないですか。それらしき痕跡だって何も見つからなかったって」

 藤間は淡々と言葉を並べ立てた。

 冷泉はふっと息を吐くように口元を緩めた。

「女装」

「女装?」

「そうです」

「そうです、って」

「あなたは女装をし、“降谷瑛梨”として振舞っていた。旅行客七人からは、あなたは“降谷瑛梨”だと思われていたのですよ」

 藤間は一瞬視線を泳がせてたじろいだ。しかし、すぐに視線を冷泉の両目に戻して勝気そうに目に力を込めて言った。

「僕や降谷さんと面識のない山岳部の人達相手ならまだしも、鷹野さん相手に、僕が『降谷瑛梨です』なんて言ったところで、騙せるわけがないでしょう」

「鷹野さんは、あなたが藤間さんだと気づいていましたよ」

「ですよね」藤間は自らを言い聞かせるように肯いた。「僕の顔を知らない山岳部のメンバーならまだ騙せたとしても、普段一緒に仕事をしている鷹野さんを騙せるとは思えない。降谷瑛梨さんと僕の顔が似ていると思いますか?」

「いいえ、似ていません」

冷泉の返答に、当然とばかりに藤間は一度目を背けた。

「であれば、一目瞭然じゃないですか。言っていることが矛盾していませんか?」

「そうです。鷹野さんは、藤間さんのことを藤間さんだと認識して、接していましたよ」

 藤間はじっと冷泉の両目を見据えたまま答えない。

「鷹野さんは、藤間さんのことを『エリくん』と呼んでいたのではないですか?」

 藤間の頬から一筋の汗が伝った。

 冷泉は構うことなく、続けた。

「現に檜山さんと小夜さんの遺した記録では、鷹野さんは降谷さんのことを『瑛梨くん』と呼んでいます。その呼び名につられた面々も『瑛梨ちゃん』『瑛梨さん』などと呼んでいる。苗字の話題が出たのは、夕方、鷹野さんがいなくなった後のことですよね」

 藤間はなおも、沈黙を貫いた。

 冷泉は、一呼吸挟んで唇を開いた。

「鷹野さんが一番に殺された理由はそこにあったのです。あなたのことを普段から『エリ』と呼ぶ鷹野さんでも、いつ、ぽろっと『藤間』という苗字を漏らすかわからない。彼を生かせば生かすほど、そのリスクは高まりますからね」

 藤間は視線を正面に外して、緩く笑んだ。

「……僕が女性になりすますのは無理があるんじゃないですか」

「いいえ」冷泉は間髪入れずに断言した。「男性にこういうのも失礼かもしれませんが、藤間さんは日本人の父とスウェーデン人の母を持つお母さまに似て、とても綺麗な顔をしていますね。変声期もまだ迎えておらず、身長も百六十センチに達していない。これは、日本人女性の平均身長とそう変わりません。体型と顔と声の問題はそこでクリアできます」

「……髪は? ご覧の通り、僕は坊主ですよ。校則が厳しくて」

 藤間は大仰に肩を竦めて見せた。

「ウィッグを被っていたのではないですか? あなたのいないはずの島に、あなたの毛髪が落ちていれば明らかに不自然だ。そこで、あなたは髪の毛を坊主に剃り、ウィッグを被って犯行に及んだ。ただし、このツアー当日だけウィッグを被っていれば、普段との違いから鷹野さんに不審がられかねません。よって、あなたはこの島での連続殺人計画を思いついた後、日常的にウィッグを被っていたのではないかと思います。もちろん、学校でもね」

「そんなのあなたの想像に過ぎないじゃないですか」

「これはこの春からあなたが通っている中学校の教師や生徒たちにも裏が取れています。藤間さんは事件の前まではショートカットであり、事件の後、髪を短く切ったのだと。そう彼らは証言しました」

「ああ」藤間は今思い出したかのように両手をぽんと重ね合わせた。「そうでした。小学校の校則の感覚のまま、中学にも髪の毛を切らずに行ったら、案外周囲の男子が短いのが多くて。このままじゃ浮くなあと思って、登山に行く前に五厘刈りに剃ったんですよ。旅行先ではドライヤーがないかもしれないとも思いましたし」

「どうして最初からそう言わなかったんです?」

「いつ髪を切ったかなんて、いちいち覚えていませんよ」藤間は、不敵に唇の端を引き上げた。

「まあ、いいでしょう」冷泉は落ち着いた様子で一度息を吐いた。「毛髪を残さないように、それから指紋を残さないようにあなたは細心の注意を払っていました。二番目にドアノブの仕掛けで森内さんを殺害したのも、軍手を着用する理由を作るためですよね。ドアノブの仕掛けで人が殺されたとなると、みなさん何かに触れる際には慎重になります。その心理を利用して、自然な流れで軍手を着用する理由を手に入れた、いえ、作ったのですよ」

「何のために?」

「もちろん、指紋を残さないようにです」

「なるほど。でも、森内さん――だっけ? その人がドアノブの仕掛けで死んだっていうのも、檜山さんと龍川さんの手記に書いてあっただけで証拠もないんでしょう。僕らがコテージを探索したときには、そんな仕掛けはなかったんですから」

「いえ、針を接着した痕が見つかっています。だから、間違いのないことです」

 藤間は一瞬唇を閉じて、黙考してから、慎重に口を開いた。

「それでも、森内さんが二〇四号室を開けたのは偶然でしょう。行動をコントロールするなんて無理な話じゃないですか」

「誰でもよかったんですよ。森内さんじゃなくても。誰もドアノブに触れないまま、自分に二〇四号室が回ってくる確率は十分の一。そう高い確率ではありません。それでも、そうなった場合には、針を回収すればいいだけの話ですからね。元よりあなたは、最終的には関係者を皆殺しにするつもりだったのですから、新たな仕掛けを別の場所に設置すればいいだけのことだったのでしょう」

「じゃあ、他の人たちが殺された事件についてはどうなんです? 密室だなんだって、手記の中にはあったんでしょう? 僕はマジシャンではありませんからね。そんな芸当無理ですよ」藤間は肩を竦めてみせた。

 冷泉は一度唇を引き結び、何事かを熟考した後、唇を開いた。

「いいでしょう。あなたがあくまで犯行を認めないというのでしたら、それについて説明します。

 まず、第一の事件、――鷹野さんと森内さんはどちらを先であるとカウントしていいかわかりませんが、便宜上鷹野さんを第一、森内さんを第二とします――鷹野さん殺しのアリバイトリックについては、檜山さんの手記に書いてあった通りです。あの後警察が実験してみた結果、一時間ほどで桟橋の付近にダミーの死体は流れ着いたそうですよ。

 手記の中の『降谷瑛梨』――藤間エーリクさんは、コーヒーを淹れに五分少々離席しています。また、檜山さんの検証では女性の足でも、四分でコテージの玄関と断崖までの往復が可能であることがわかります。厨房の勝手口からだとそれよりももっと時間は短縮できたことでしょう。

 あなたはあの離岸流の発生する崖の上に鷹野さんを呼び出し、鈍器で気絶させた。その後崖から落としたのです。鷹野さんの死因は溺死でしたので、これが真実でしょう」

「なるほどね。僕も犯行可能だった、ということは認めますよ。でも、他にもアリバイのない人物はいたじゃないですか」

「それについては、事件を紐解いていけば犯人が『降谷瑛梨』――に扮した藤間さん――でしかありえないことが後々絞られます。なので、続けますね。

さて、第二の、森内さん殺しについてです。これはあらかじめ島を訪れ、二〇四号室の扉に毒針の仕掛けを施した。回すと針が飛び出る仕組みですね。そして、森内さんは命を落とした。最後にあなたが島を出るときに、この針は回収したものでしょう。指紋や、何らかの証拠が残っていることを懸念したのですね。そうではないですか?」

「僕に訊かれても」藤間は穏やかに笑い返した。

「では、第三の事件、乾さん殺しですね。乾さんは五月二日の朝、毒ガスによる窒息死と思われる状況で発見されました。現場となった二〇一号室は密室状態であったと、檜山さん、小夜さんの手記にありますね」

「そうだったかな」

「密室だったのですよ」

「どうやって殺したんだい」

「蝋燭です」

 藤間はぎくりと目を見開いた。

「僕がコテージに入って真っ先に違和感を覚えたのは、あのコテージに明かりが全くないことでした。ですが、手記の中にはキャンドルライトという表記がある。そう、明かりはあったのですよ。犯人――あなたは、まさか被害者の手によって手記が残されているなんて思いもしなかったのでしょうね。キャンドルライトごと、全てなかったことにしたんですよ。そこに、手記と実物の齟齬が生まれた」

 藤間は斜め下に目を伏せたまま動かない。

 冷泉はほんの少しばかり首を傾けて続けた。

「なぜ犯人はキャンドルライトを持ち去ったのだろうか。そこを辿って行ったとき、一つの考えが浮かびました。そうです。乾さんは蝋燭の蝋、もしくは芯に塗りこめられた毒によって殺されたのではないかと。

夜に光源の一切ない部屋で過ごす人間は、まず少ないことでしょう。明るい部屋に慣れた現代人でしたら特にね。乾さんも同様に、自室でキャンドルライトを焚いていた。そして、気づかぬうちに毒に侵されていたのです。回収したキャンドルは、ボートと一緒に燃やした証拠品の中にあったのではないですか?」

藤間は答えない。

冷泉は瞬きを一つ落として小さく息を吸いこんだ。

「次に、第四の事件、横井さん殺しについてです。横井さんは、彼が使っていた二〇五号室にあった、抜け穴から侵入した犯人に殴られて昏倒した。そして全身の血液を抜かれて亡くなった」

 藤間の睫毛がぴくりと震えた。

「横井さんは総量の半分の血を抜かれて死んでいたんだろう?」

「はい」

「それだけの血をたった三つの穴から抜くのにどれだけかかると思っているんですか」

「専門的な知識を持った人でも、十分はかかるでしょうね」

「降谷瑛梨が部屋に上着を取りに戻ったのは五分少々なんでしょう? 矛盾しているじゃないですか」

「殴って気絶させるだけなら、五分で充分でしょう」

「何?」

「一連の連続殺人の犯人であるあなたは、横井さんを殴って昏倒させた。その時点で横井さんはまだ生きていたんですよ」

「どうやって血を抜いたんですか?」

「和泉さんですよ」

「和泉さん……?」

「檜山さんの手記にこうありました。横井さんの頭の傷は右の後頭部にあった。血液は右の首筋と、右の肘関節の手のひら側から抜かれていた、と。それから警察の調べて、右足の付け根からも抜かれていたことがわかりました。針の入射角などから、左手に針を持って行われた行為であることがわかっています。これを見て僕は思ったんです。横井さんを殴った人物と、血液を抜いた人物は別なのではないかと」

「犯人は二人いたというんですか」

「そうです。右利きのあなたが横井さんを昏倒させ、左利きの和泉さんが横井さんから血液を抜いた。これなら、五分と十五分で計算が合います」

「そんな……強引な」藤間は視線を左右に揺らした。「だいたい、僕と和泉さんが共犯関係だなんて。そもそも接点がないでしょう」

「ええ。共犯ではないのです」

「どういうことですか?」

「その前に、和泉さんが横井さんの血液を抜いた動機を話しましょう。和泉さんの死体が発見されたのは体育館だった。彼は宙づりにされており、足元には血だまりがあった――そう、檜山さんと小夜さんの手記にはありました。しかし、体育館の血痕は、横井さんのものでした。そして、二階へ上がる縄梯子、および二階の手すりからは和泉さんの指紋が多数検出されています」

 藤間の頬から一筋の汗が伝った。

 冷泉は続けた。

「このことから、和泉さんは死んだふりをしたのではないかと推測できます」

「死んだふり?」

「犯人から殺される前に自ら死んだふりをしたわけです」

「どういうことですか」

「檜山さんと小夜さんの手記によると、二日目の朝に檜山さんと和泉さんの二人はプールの奥の枯れ井戸の下で研究室を発見した、とありましたね。ここを見て和泉さんは『医学科の研究室のようだ』と発言しています。実際に、警察が調べた中でも、研究室には採血の道具があったということでした。彼は横井さん襲撃の前にタイミングを見計らって、例の研究室から採血の道具をくすねていたのではないでしょうか。タイミングは、檜山さん、小夜さん、横井さん、降谷さんが狼煙を上げに行った間。この間に、和泉さんは世良さんと二人きりになっています。何らかの理由をつけて、抜け出したのではないかと思われます」

 藤間の瞼がぴくりと痙攣した。

 冷泉は気に留めず、話を続けた。

「これを前提に話を横井さん殺害に戻します。和泉さんは、横井さんを呼びに行った際、部屋の抜け穴を発見した。――抜け穴について最初に触れたのも和泉さんでしたね――そして、頭を殴られて気を失っている横井さんを見つけたんです。和泉さんは絶好の好機とばかりに、横井さんの身体から血液を抜いた。――死んだふりをする際の血糊に使うためですね。そして、横井さんは失血死した。

第五の事件、和泉さん殺しは先ほども言ったとおり、和泉さんの狂言でした。彼は体育館の床に横井さんの血液を撒き、自らの身体にも死に化粧を施した。それから、体育館の二階に昇り、縄梯子を上から巻き取った。――これは、和泉さんの死体を発見した人たちが、死体に近づかないように、です。近づかれると死んだふりがばれてしまいますからね。そして、自らの身体をロープで縛りつけ二階の手すりから飛び降りた。血まみれの和泉さんは宙づりになり、一見殺されたように見えるという絡繰りです」

「へえ、考えたね」藤間が口の端を持ち上げた。

 冷泉もあいまいに頷いた。

「第六の事件、檜山さん殺しは、島で話したのが真実でしょうね。檜山さんと小夜さんは、二〇二号室にいた。蝋燭には睡眠薬か、筋弛緩剤か、なんらかの毒物が仕込まれていたことでしょう。檜山さんの手記によれば、小夜さんは何度もうたた寝をしているようでした。一方の檜山さんが起きていられたのは、個人の体質の差もあるかもしれませんが、一般的に体の大きな人間より、小さな人間の方が薬の効きが速いと言われていることが起因しているでしょう。檜山さんの手記も最後の方は蚯蚓ののたくったような文字になって終わっていますから、意識が遠のいていたのでしょうね。そんな中、犯人は二〇二号室を尋ねた。ノックしたかもしれませんね。そこで体調の異変に気付いた檜山さんは、慌てて換気を促した。――乾さん殺害の時の記憶が、彼にそのような行動を取らせたのでしょうね。それも全部あなたの計算だったのでしょう。

 そして換気のために檜山さんは部屋の入口のドアを開け、小夜さんは椅子で窓をたたき割った。そこで犯人に襲われたのです。檜山さんの身体は執拗に傷つけられていたので、檜山さんはだいぶ抵抗したのでしょうね。しかし、犯人に部屋の中へ追い込まれた檜山さんは、おそらく小夜さんが逃げる時間を稼ごうと、傷ついた左手でドアの鍵を閉めた。そこで力尽きた。現場の状況から察するに、そういう流れだったのではないかと思います。

 部屋に残された犯人は、割れた窓をくぐって小夜さんを追いかけた。しかし、見失った。そこで、小夜さんを犯人に仕立て上げるべく、二〇三号室の窓を外から叩き破って、自らは二〇二号室で檜山さんの死亡を確認した後、堂々と二〇二号室の扉から出て行った」

「犯人はどうして二〇二号室の鍵を閉めたまま二〇三号室からそのままでなかったんですか? それまでの犯行は密室を完成させているというのに。一貫性がなくないですか?」

「二〇二号室の鍵が閉まっていようと、窓硝子が割れている以上は、密室にはならないですよね。二〇三号室の窓硝子も、鍵もあいているのですから」

 藤間は唇を尖らせて言った。「まあ、そうだけども」

「それに、横井さんにとどめを刺し損ねたことは、あなたにとっては相当な衝撃だったはずです。幸い――と言っては語弊がありますが、和泉さんがとどめを刺してくれたからこそよかったものの、そうでなければ犯人の正体をばらされていたかもしれませんからね。その苦い記憶が、あなたを檜山さんのとどめを刺すように差し向けたのだと僕は考えます。

そして第六の事件、小夜さん殺しですね。二〇二号室を出たあなたは、そのまま血痕を辿って森の中で小夜さんを背後から襲った。手記の存在に気づかなかったあなたは、小夜さんが木のうろの中に隠した二冊のダイイング・メッセージを見過ごしてしまったのです。

その後の第七、第八の事件のことは、記録者不在なので全て推測になりますが、世良さんの顔面に巻き付けた袋に和泉さんの毛髪が付着していたこと、二双分の軍手の繊維が付着していたことから一人でなく、二人掛かりでの犯行であることが予想できます。また、手記と違って和泉さんが体育館脇で死亡していたことを鑑みた結果、和泉さんと藤間さんで世良さんを暴行した後に、藤間さんが和泉さんの不意をついて殺害した。――こういう流れになるのではないかと僕は思います」

藤間は、移ろう木漏れ日を浴びながら、目を細めていた。

その横顔に冷泉は事務的に声を続ける。

「ここで興味深いのが、死亡推定時刻が和泉さんの方が世良さんより早いことです。ここから、世良さんは暴行を受けた後、しばらくの間逆さ吊りの状態で生きていたことになります。

強い殺意を感じずにはいられません。

以上が被害者の手記や警察の鑑定結果をもとに組み立てた僕なりの推測ですが、何か訂正することがあればどうぞ」

藤間は、一度居住まいを正し、彫りの深い顔をにっこりと緩めた。

「僕が犯人だとしたら、相当間抜けな犯人ですね」

「そうでしょうか」冷泉は、身体ごと藤間の方へ向き直った。

「軍手だの、髪の毛だの、面倒なことをせずに、コテージごと燃やしてしまえばよかったんじゃないですか?」

冷泉は瞬きがてら一度視線を転じ、一つ頷いて答えた。

「僕もそう思いますけどね。そこは、何かしらの事情があったんじゃないかと思っています。――が、そこまではちょっとわかりません」

 冷泉は淡々と言い切った。

 藤間は何かをじっと考えるように、視線を宙に浮かせた後、再び冷泉の顔を正面から見据えた。

「冷泉さんのここまでの話、よくできていると思いますよ、僕は。でも、僕が犯人であるという部分はやっぱり無理がある。僕にはアリバイがあります。五月一日から四日の間、三泊四日でA県のY岳に登った。証拠の写真だって、見せたでしょう」

「あれは一年前に撮影されたものですよね」冷泉は間髪入れずに答えた。

 藤間の表情がサッと凍った。「違いますよ、今年撮ったものです」

「いいえ、それは嘘です」

「証拠はあるんですか」藤間は、キッと眼光鋭くして尋ねた。「まさか、来ているウェアが同じだからとか、そういう単純な理由じゃないですよね」

冷泉は、静かなまなざしで藤間の両目を見据えたまま、一度唇を固く結んだ。

その仕草に、神経を逆なでされたらしい。藤間の首筋がサッと桃色に染まった。

「大体、写真に日付の刻印がされているわけでもないし、いつ撮影されたものかなんてわかるはずないじゃないですか。あれは今年撮影したものだ」

「それはあり得ないんですよ」冷泉は、かんしゃくを起こした子供に言い聞かせるようにゆったりと言った。「A県には訳あって、俺と瑞樹は昨年夏に訪れました。その際にY岳の麓は電車で通過したんですよ」

「それで? それがどうしたっていうんです」

「ええ。あなたが見せてくれたあの写真の背景に写っていたデパートですがね、昨年の夏に倒産して看板が取り外されたらしいんですよ」

「な……」藤間は絶句した。

「そう。だから、あの写真が今年Y岳から撮られたものであれば、あの角度にあのデパートの看板が見えるはずはないんです」

 藤間は、一気に何歳か老け込んだような顔を俯かせた。唇を小さく噛む。やがて、不敵な笑みを浮かべて冷泉の目を睨んだ。

「……そうだよ。あれは、去年エメリと登山したときにエメリが撮ってくれた写真だよ」

 冷泉は黙って、色素の薄い、少年の両目を見つめていた。

「でも、それだけだ。確かに僕は今年の連休中、ずっと家に籠っていたよ。僕だってただ一人の肉親を亡くしたばかりなんだ。去年、エメリと登山した思い出に浸りながら、ひたすら家でぼうっとしていたんだよ」

「どうしてそれをはじめから言わなかったのですか? 切符まで購入して。わざわざA県までの往復切符を用意したりして」

「それは……」

「あなたの行動はこうですよね。まず五月一日の朝に最寄り駅でY岳の麓駅までの電車と、隣駅までの電車の切符の二枚を買い、それからうち一枚を使って隣駅で下車した。そのまま徒歩で自宅に戻り、本物の降谷瑛梨さんの喉を潰して、自宅の風呂場に監禁。――これは、本物の降谷瑛梨さんがこの連休中にどこかで目撃されるとアリバイが成立してしまうことと、助けを呼ばれると困ることからですね。また、監禁場所に風呂場を選んだのは、監禁の痕跡を比較的容易に掃除することができるからです。両手を縛られたままでも摂れるような水分と食糧は、彼女の口元に置いておいたでしょうね。三日飲み食いしなくても人間はそう簡単に死んだりはしませんが、万一餓死したとなると、死亡推定時刻が合わなくなりますから」

 藤間は堅く唇を引き結んで、ただじっと冷泉の双眸を睨んでいた。

「そして、集合時間の五月一日十二時半にあなたは何食わぬ顔で港へ行った。それから、五月一日から五月三日の午前中にかけて全員を殺害。その後、島全体から『藤間エーリクが滞在した』という痕跡を消してまわったあとで、船には火をつけて証拠を隠滅。その際に、凶器やキャンドル、ロープなど足のつきそうなものも全て燃やしたのでしょう。そこからエンジン付きのゴムボートに乗って本土に戻った」

 藤間は何も答えない。

 冷泉は小さく息を吸った。

「そして、人の少ない深夜帯に、藤間さんの自宅から本物の降谷瑛梨さんを運び出す。そして、自殺に見せかけて、喉を一突きにして海に流した。これは喉を潰した傷を誤魔化す目的があったんじゃないかと思います。そして、凶器やゴムボートなど、瑛梨さん殺害の犯行に使用した一式は、一緒に岩場で燃やして海に流した。――どうでしょうか。何か訂正することや、付け加えることはありますか?」

 藤間は口を堅く引き結んだまま、長い睫毛を三度瞬かせた。

「事件を受けて警察が鷹野旅行店の中を調べたそうなんですがね、そこで発見されたシフト表には五月一日から三日までの出勤は降谷瑛梨さんになっており、エーリクさんは五月二十五日まで休暇になっていました。これを差し替えたのもあなたですよね?」

 藤間は目を閉じた。

「本来のシフト表には、五月一日から三日までの出勤がエーリクさんで、休暇になっていたのが降谷さんだったはずです」

 冷泉は詠唱するように、流暢な声で続けた。

「降谷瑛梨さんは、高校卒業後に家出同然でこの地に移り住んでいます。母親は彼女が小さい頃に家を出ており、九州に父親がいるそうですが、もう一年以上連絡を取っていなかったそうですね。それだけじゃない。降谷瑛梨さんはインドア派だった。休みの日は家に籠ってひたすら漫画を読んでいる。三日少々行方不明になろうが、心配する友人もいない」

 藤間はゆっくりと二重の瞼を開いた。

「神は全てお見通しなんだな」

「犯行を認めるのですね?」

「ああ」藤間はフッと力を抜くように、寂しそうに笑った。「――俺が殺した」そして、事も無げに宙へ向けて呟いた。「あの悪魔どもを根絶やしにしてやったんだ」

「動機はやはり……」

「そうだよ。エメリの復讐だ」

「復讐、ですか」冷泉は複雑な表情で、自らの膝に視線を落とした。

「冬のH岳の話は聞いているな? あれが全てだ」藤間は唇を噛んだ。

「あれは……警察の事故記録に載っている、エメリさんが自らザイルを切ったという話は、六人が口裏を合わせた嘘だったのですか」

「そうだ。俺は聞いたんだよ。事故の後、呼び出されたH署の廊下で、森内と世良が話しているのを」

 冷泉は唇を固く閉じて、少年の初夏の空を見つめた。羊雲が西から東に流れている。

「エメリは自己犠牲的なところがあったから。自らザイルを切って仲間の命を守ったっていう話を聞いたときは、俺も……悔しいけど、納得したんだ。でも、その一方で……俺を置いて死んでしまったっていうのが悲しかった。エメリが死んでしまったら、俺は何を心の支えに生きて行けばいいんだよって。仲間を命を守ったのは立派かもしれないけれど、それよりも一人残される俺のことを考えて、何をしてでも生き残ってほしかった。立派じゃなくていいから、生きていて欲しかった」

 藤間は、膝の上で堅く握りしめた両手の拳をじっと睨んだ。

 冷泉は、そんな少年の悲しみに震える横顔を、どこか遠くを見るような目で黙って見つめた。

「だから、あいつらの話を聞いたときは、頭が沸騰した。『本当のことはアタシたちだけの秘密だからね』って。『このまま、事故ってことにしよう』って。あいつら……」藤間はギュッと目を瞑って、奥歯を噛みしめた。「やっぱり、あいつらがエメリのザイルを切ったんだ! 神様が俺に真実を教えてくれたんだ! これは……これは、神からの指令だと俺は思った! 復讐せよって……」

 冷泉も、同じように一度目を閉じた。目の裏に、白い光がチカチカと瞬いている。その光から逃れるように、瞼を持ち上げた。初夏の風がそよそよと頬を撫でる。

「結局それ以上の詳しい話は誰の口からもきくことができなかったよ」

「そればかりはブラックボックスの中ですからね。それこそ、神のみぞ知る真実です」

「だが真相はわかった。詳細なんてどうでもいい。あの六人は生還した。エメリは死んだ。それだけが俺にとっては真実だ」

 冷泉は自身を刺すように射貫く、少年の目に灯る静かな焔を全身で受け止めた。

「遺体のない棺の空虚さがお前にはわかるか……?」

「わかりません」冷泉は淡々と告げた。被害者としての彼の心には寄り添いたいと思うが、加害者としての彼の行為を許すわけにもいかなかった。

「本当はな、河西のことも殺してやろうと思っていたんだ。俺はな、河西が一番憎かったよ。あいつはエメリの一番近くにいたはずなのに、守ることもできなかった。よりによって一番必要なときに、あいつはエメリの傍にいなかったんだ。その上、事故の真相に気づいてすらいなかったなんて、つくづくおめでたい奴なんだ」

 冷泉は、あの、人のよさそうな青年の顔を宙に思い描いた。事件後に聞いた話によると、彼はエメリの死後、ふさぎ込み気味だったらしい。当然と言えば当然だろう。それゆえ、彼らの卒業旅行ともいえる今回の『雪女島二泊三日の旅』も欠席したとのことであった。

「鷹野さんと降谷さんを殺害した動機は何だったのですか?」

「鷹野は……変態親父だった。これ以上は言いたくない」

 藤間は自らの両腕を、両手で抱き込んで、顔を歪めた。それだけの仕草で、冷泉はその裏の事情を察することができた。

「俺も金がなかったからな。中学生活に慣れたら新聞配達も掛け持ちしてどうにか生活していこうと思っていたんだが、流石に小学生の間は無理だった。母が死んでから、最初は親切なオッサンだなと思っていたんだが、そこにつけこんで、奴は……」

「降谷さんは?」

「降谷はな、俺が鷹野に犯されている場面を一度こっそり見ていたんだよ。助けなかったどころか、隠し撮りしていやがった」

「知られたからには、と?」冷泉が尋ねた。

「いや、それだけで殺そうとは思わなかった。――揺すって来たんだよ。別に殺すほどのことでもないだろうとか言われるかもしれないけどな。俺も、別に俺が恥ずかしい思いをする分には、そこまで何とも思っていなかったしな。ただ、山岳部の連中を殺すのに降谷瑛梨の存在は必要だった。奴だって悪人だ。だから殺したんだよ。七人殺すも九人殺すも変わらねぇ。トリックに利用するために殺した」

 藤間はベンチの背もたれにぐっと背中を預けた。鳶色の目に、青い空が映っていた。

「檜山さんは? 確か彼は、H岳の登山には参加していませんよね」

「あいつはエメリの薔薇の研究を盗もうとしていただろう」

藤間はどこか気の抜けた芯のない声で言った。

「青い薔薇ですね。現存する青紫色のものではない、真っ青な色の」

「そう。今年の三月頃だったかな。河西から聞いたんだ。『司とエメリの研究はもうすぐ完成する』って。あいつは、エメリが志半ばで死んだってのに、おかまいなしに新品種の薔薇を学会で発表しようとしている。そんなこと許せるわけがないだろう」

「それが本当の話だったら、ですね」

 冷泉の落ち着いた声音に被せるように、藤間は激しく言った。

「数十年かけて作られるものを、エメリと檜山は僅か三年の研究で成し遂げた。その栄光は等しく与えられるべきものなんだよ。なのに、檜山は独り占めしようとしている。絶対に許せない」

 藤間は、眉間に皺を寄せて奥歯を噛みしめた。

 息を荒げる少年を前に、冷泉はしばし逡巡を挟んだ後、腹を括ったように口を開いた。

「藤間さん。それは違うようなんですよ。もうじきにニュースで目に触れることとなると思いますけど、檜山さんはね」冷泉は、一度自らの膝に視線を落として、再び藤間の顔を正面から見据えた。「檜山さんはエメリさんと連名で薔薇を世に出そうとしていたんですよ。彼女の遺志を継いで、檜山さんは青い薔薇を形にして。薔薇にはエメリと名前をつけて」

「……は?」

「これは確かな情報です。来週の頭には発表されて、情報番組を賑わすんじゃないでしょうか」

 藤間は絶句した。

「ご自分の目で確かめることになると思いますよ」

 冷泉はそれだけ言うと、心痛そうに視線を外して遠くを眺めた。

 海の色にミルクを零したような青い空。綿毛のような白い雲。

 そして、公園の花壇で、薔薇の花が咲いている。

 血のように赤い薔薇が。