第二章5月2日



08:00



 雲の多い朝だった。

特にリビングの窓から見える西の空は黒く、朝日の姿も数えるほどしか拝めていない。前日の快晴とはうってかわって、肌寒い夜明けだった。

リビングには、続々と顔が増え始めた。

前日よりも日の光が弱いせいか、同じはずのリビングの壁の色もどこかもどんよりと薄暗く、湿っぽく感じられる。

「乾はまだ寝ているのかな」横井がソファの上で背伸びをした。

 乾以外は、朝の七時半にはリビングに揃っていた。皆一様に、疲れの残った、青白い顔をしていた。

「世良さん、昨日はあの後、そのままそれぞれの部屋に戻ったの?」

「戻ったわ」

「乾はよく引き下がったな」

「しばらく部屋の前でなにやら言っていたけど、取り合わなかったわよ。しばらくしたら、音が消えたから、諦めて自分の部屋に帰ったんじゃない?」

「そうか」横井は白い顎に拳をあてて俯いた。

「いじけちゃっているんじゃないですか?」と、和泉。彼は、青白い面々の中では、もっとも健康そうな顔色をしていた。最も、元から色白なため、変化がわかりにくいだけかもしれないが。

「乾ならあり得るな」横井が苦い顔で肯いた。

「部屋で怯えているかもしれないわよぉ」久美子が茶化した。

「ぐっすり寝入っているのかもしれませんね。案外神経ずぶといですから、あの人」和泉があっけらかんと言った。

「なんにせよ、極力一人でいるのは避けた方がいいのは確かなんだよな。起こしてくるか」

 横井が立ち上がると同時に、檜山もソファから腰を浮かせた。

「全員で迎えにいくか。その方が乾も安心するだろう」



 *



 横井はコンコンコンと、三回扉をノックした。

 うっすらと寒気の蠢く灰色の廊下に、乾いた音が反響する。

「乾ぃー、まだ寝ているのか?」

 横井は、ノックを繰り返しながら、その名を呼んだ。ノックはコンコンから、ドンドンへと徐々に音を変えていく。

「そういえば、あの人、寝起き悪かったですよねぇ」廊下の真ん中あたりで、和泉があくび混じりに暢気な声を出した。「こんな状況でも熟睡できる神経は、素直に感心しますけどねぇ」

 お前もなかなかだろ、という心の声を押し殺し、横井はドアノブに左手を掛けた。

「乾、開けるぞー」

右手の拳で、ドンドンと扉を鳴らしてから、左手にぐっと力を込めた。

ノブが、まわった状態のまま、ドアは閂に阻まれてガンという音を鳴らしただけで、動かなかった。

「鍵が閉まっているんだ」

「様子がおかしくないか?」隣で檜山が眉間に皺を寄せた。「これだけの音で全く反応がないのは」

 面々の表情に緊張が走る。

久美子は両手で自らの頬を包み込み、ぶるりと全身を震わせた。

小夜は脳裏に浮かんできた、森内の物言わぬ躯の映像を振り払うように、おかっぱ頭を強く揺らした。

 その目の前では、依然横井が乾の名前を連呼している。

「こうまでしても起きないなんて変だ」横井が振り返り、突き動かされるような早口で言った。そして、「おい、乾! 乾」咳きこむように、みたび右手で扉にノックを、左手でドアノブを回しながら、ドア一枚隔てた向こう側にいるはずの後輩の名前を連呼した。

「横井」檜山にその名を呼ばれて、横井が振り仰ぐ。「ドアを破るぞ」檜山は気合を込める武人のように、細く深く息を吐いた。

 平均百八十センチ超の男二人が十一回体当たりをした頃、ビシィと音を立てて蝶番が外れた。遅れて二メートル強ある分厚い板がバァンと地面に横倒しになる。

 その瞬間、脳の芯にズンと来るような鋭い臭気が鼻と目を刺した。先頭にいた横井は思わず「うっ」と漏らす。しかし、ひるまず倒したばかりのドアを踏みつけて、中へと足を踏み入れた。

 乾拓也はベッドにうつ伏せたまま全く動かない。入口に向けられた顔は苦悶の表情のまま硬直しており、その目は完全に光を失っていた。

 カーテンの奥の、横滑り出し窓は三枚とも閉まったままになっている。

横井に続いて部屋の状態を確認した檜山がはたっと表情を凍らせて鋭く言った。「ガスだ。全員一旦階下に降りろ」

「えっ」と一同にどよめきが起こる。

「なに、何が起きているの?」部屋の外で久美子がおろおろと顔を揺らした。

「中で乾が死んでいる。この匂い、毒ガスかもしれない」横井が右掌で鼻口を押えて叫んだ。

「空気より重いガスかもしれませんよ」和泉が廊下で首を傾げた。

「わからんからとりあえずみんな外に出た方がいい。――降谷さん、世良と龍川さんを連れてコテージの外で待っていてくれるか?」檜山は瞬時に、瑛梨が一番落ち着いていそうだと判断して指示を出した。

「いやよ、外なんてアタシ」久美子が長い髪を振り乱していやいやと首を振った。

「俺らもすぐに降りるから、頼む」

檜山にここまで言われてはと、久美子もしぶしぶと首を縦に振った。

久美子のその様子に、檜山もほっと顔を緩めた。そして、再び頬を引き締める。

「今から乾を抱えてくるから、外で待っていろ。――横井、和泉手伝ってくれ」

「ああ」

「わかりました」

 パタパタと階下へ消える三組の足音を見届け、檜山は大きく息を吸いこんだ。

「息を止めろよ」

「わかった」

 乾拓也の身体は、男たち三人の手によって、一階の踊り場まで運び込まれた。

「もう駄目です」足を持っていた和泉が、プハァと息を吐いた。「乾さん、もう死んでいますよ、これ」

 踊り場に下ろされた乾の身体は冷たく、完全に動きを止め、硬直は上半身から下半身にまで及ぼうとしていた。

「死後十時間は経っていないと思いますが、少なくとも五時間程度は経っているんじゃないですかねえ」和泉が肩で息をしながら、二人の上級生の顔を仰ぎ見た。

 檜山と横井も、続け様に動きを止めた。

「窓は閉まっていた。とりあえず、乾には悪いが、身体は一度踊り場に下ろそう。俺はもう一度二〇一号室の中に入って、窓を開けてくる」

「二階の窓は全部開け放した方がいいな」檜山に横井が同調した。

「僕も手伝います」

「よし、じゃあ和泉は二〇二号室と二〇三号室を頼む。俺は二〇四号室と二〇五号室だ。開け終わったらとりあえず、外で集合な」横井がてきぱきと指示を与え、三人の男たちは一様に示し合わせたようにこくりと頷くと、それぞれ二段飛ばしで階段を駆け上った。



 *



 それから、二分もしないうちに三人の男たちは皆、コテージの玄関前へと転がり出てきた。

 和泉は床に腰を下ろして、ハァハァと喘いでいる。

 何があったのだろうという目で窺ってくる女性陣に向けて、横井がこちらも肩で息をしながら伝えた。

「窓を……開けてきた……毒ガスだからさ……このままだと、コテージ全体にガスが充満しちゃうだろ」

「三人してぜえぜえと。だらしないわね」

「無茶言うなよ、世良。息を止めたまま全力疾走するの、かなりきついぞ」横井は、左手で胸を抑えながら、呼吸を整える。「俺の使っていた二〇五号室と、森内を寝かせている二〇四号室の窓は開けてきたぞ」

「二〇二号室はドアの鍵が閉まっていました」和泉は地面に足を投げ出したまま、薄い胸を上下させた。

「あ、ご、ごめんなさい」小夜がギクリと顔を強張らせた。「私、鍵を閉めたまま出てきたので……」

「いや、こんな事態、誰も想像していなかっただろう。龍川さんは悪くないよ」横井は胸に当てていた左手をひらりと振った。かなり息が整ってきたようだった。

「その代わり、二〇三号室は開けてきましたよ」和泉もよろりと立ち上がると、パンパンと尻についた砂を落とす。

「乾の使っていた二〇一号室は、カーテンも窓の鍵もきれいにしまっていた。乾の眼鏡は書き物机の上に置いてあった。そのくらいしかわからなかった」檜山は平然とそう報告した。

「密室、ってやつか。犯人はどこからガスを入れたんだろうな」横井が、白い顎に拳をあてた。「とりあえず、ガスが抜けきるまで何時間かかるかわからないけれど、ここで突っ立っとくのももったいない。その間に昨日できなかった島の探索をしようじゃないか」



 08:30



「二手にわかれよう」横井がぐるりと一同の顔を見回した。

「アタシと横井くんと檜山くんがグループね」久美子が間髪入れずに言うのに、「そこ二人は分かれなきゃだめですよ」和泉が口を尖らせて、反論した。

 そこおからグーとパーで久美子、横井、瑛梨のグループと、和泉、小夜、檜山のグループに分かれて行動することになった。

「集合時間は、そうだな」横井が腕時計の文字盤を見て、「十一時でいいか?」檜山に問う。自然と、横井と檜山がリーダーのような役回りになっていた。

「潜伏者を見つけたら、どうしたらいいんですかぁ?」和泉が小首を傾げる。

「そういえば、瑛梨ちゃん、ロープがあるって言っていたよね?」横井がそのまま、瑛梨へと視線を向けた。

「ありますよ。倉庫に」

「じゃあそれを取って来て適当な長さに切り分けよう」

「はい」

「森と船着き場中心の島の南側と、建物や森中心の北側でわかれるか?」横井は、再び檜山に向き直る。

「わかった」檜山は淡々と首肯した。「北側の方が、潜伏できそうな場所が多いから、男が二人いる俺らが見てまわった方がいいかもしれねぇな」



 *



コテージを出て西に向かうとすぐに体育館が見えてきた。バスケットコートが一面取れる程度の小さなものである。オフホワイトの外壁に、赤い屋根、壁の低いところに窓はなく、十メートル以上の高さに大きな硝子窓が並んでいた。その窓にも、分厚い暗幕が張ってある。

施錠されていないと瑛梨から聞いたときには物騒な話だと小夜は感じたが、改めてここが孤島であることを再確認させられた。ここは基本的に、コテージ客とスタッフしかいない島だ。侵入者の影におびえている今の方がおかしな状況なだけで。

体育館の入口は、スムーズに開閉した。金属製の押戸を観音開きにして、三人は中へ入った。入ってすぐは下足箱があり、一段上がったところから、モルタルの床になっている。左手にはトイレがあり、右手には管理人室というプレートがあった。

目の前には、黄色に塗られた金属製の引き戸がある。開いた瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫でた。体育館のフロアは隅々までワックスが行き届いていた。埃もほとんどなく、つるんとしている。コートの仕切りを表わす色とりどりのラインが縦横無尽に引かれていた。

入ってすぐ右手に、縄梯子が下りている。床には、引き上げ式のフックのような突起があった。縄梯子の下端を床の突起に引っ掻けて、ぴんと張ってから二階へ昇るのだろう。

二階へと続くルートは、この北東の角に位置する縄梯子一か所だけのようだった。

二階は幅一メートル強の内向きのベランダ状になっており縦格子の隙間から、二階には誰も隠れてはいなさそうなことが見て取れる。フロアと違ってこちらは埃や虫の死骸が幾つか散見された。

「一応カーテンの裏側も見てみますか?」

「カーテンの裏に誰かが隠れていたら、外から丸見えだろうけど、一応見てみるか」

 外から見る限り、二階部分の暗幕の向こう側は、大きな硝子窓になっているはずである。檜山の言う通り、誰かがそこに隠れていたら、フロアからは見えないが、外から丸見えということになる。

 異論を唱えつつも、檜山が縄梯子に手を掛けた。

「気を付けてくださいね。一応下でロープを張っていますからぁ」和泉が、縄梯子の最下段を足で踏んでピンと伸ばす。

 檜山は、その長身からは想像できないくらいにひょいひょいと軽々しく昇って行った。

 そのまま、暗幕をひらりと捲って見せる。瞬間、肩を揺らして二、三回咳をした。和泉と小夜の背筋がびくりと緊張する。森内のことが二人の脳裏に過ぎっていた。

 檜山はそんな二人の心境を察したのだろう、右手で違う違うとジェスチャーを返した。

「埃がすっごい」暗幕を元に戻して、顔を歪めて見せた。「虫の死骸もすっごい」

 一階のフロアから見た以上に、埃と虫の死骸があるようだった。そのまま、檜山は手際よく、十数枚の暗幕を捲って裏を確認してまわった。やがて――。

「何もなかったぞ」再び軽い身のこなしで、縄梯子から降りてきた。「だいぶ気管がやられたがな」と、肩を竦めて口の端を歪めてみせた。

「体育館が一番クサいと思ったんですけどねえ」和泉が暢気な声をあげる。

「あとはトイレと管理人室と倉庫か」

 管理人室はフロアからは、強化硝子の腰高窓で仕切ってあり、嵌め殺しであった。窓から覗いてみたところ、中に人はいない様子だった。隠れる場所もない。入口は玄関側にあるようで、回り込んで確認したところ、こちらは鍵がかかっていた。

 倉庫はフロア側にあった。黄色の引き戸になっており、中には各種球技のボールとネット、支柱と卓球台、隅にはモップと箒と塵取りがあった。動くものはいない。

 最後にトイレを確認した。個室と掃除用具入れを含めて、こちらも人っ子一人いなかった。

「いませんでしたねぇ、誰も」玄関に戻って来たところで、和泉が残念そうに檜山を振り仰いだ。三人は万一の際に逃げられるよう、土足で体育館の中に上がり込んでいた。「箒借りてきたら、少しは防具になりますかねぇ」

「持ってくるか?」檜山は犯人捕獲用のロープを斜め掛けにしているため、これ以上の荷物は遠慮したいのだろう。和泉は前に向き直って、唇を歪めた。

「埃が降ってきそうですね」

「そうだな」檜山は苦笑を浮かべた。先ほどの暗幕トラップを思い出したのだろう。「その代わり、使えそうなものが一つあったな」と、ぱちんと指を鳴らすと、檜山はフロアに戻っていった。

 二人は慌ててその長身の影を追う。

 檜山はすぐさま、右手に赤い筒を抱えて戻って来た。

「非常灯だ」

 そう言って、スイッチをスライドさせて、明かりがつくのを確認して、黄色い引き戸を滑らせた。

「次はプールだな」



 *



 プールは、ヒョウタンの形をした、二十畳ほどのものだった。六畳ほどの更衣室が男女それぞれに用意されており、その脇に男女兼用のトイレが一つ。シャワー室が一つあるのみだった。

 プールの水は、深緑色の藻と、虫の死骸で濁っていた。

 こちらにも犯人の姿はない。床に積もった砂利に刻印されている足跡も、三人分だけだった。

「まあ、プールに潜伏するくらいなら体育館に潜伏しますよねえ」和泉が間延びした声を上げる。「コテージとの往復もラクだし、雨風もしのげるし。ここがハズレなら、誰もいないんじゃないですかぁ?」

「誰もいないってことは、犯人が俺たちの中にいるってことだぞ」

「そうですねぇ」和泉は口を尖らせた。「檜山さんは誰が怪しいと思っているんですか?」

 檜山はほんの一瞬身体を固くしたようだった。が、すぐに、元通りに長い脚でゆっくりとプールサイドの苔を踏みしめる。

「わかんねぇな。森内の事件は全員に犯行が可能だったし、鷹野さんの事件は逆に全員に犯行が不可能だ。乾の事件に至っては、どうやって毒ガスを部屋に充満させたのかわからない」

「檜山さんがお手上げなら、みんなお手上げでしょうね」和泉は宙に吐息した。

プールのフェンスは格子状の白い金網になっていた。その周りを反時計回りにぐるりとまわっていたところ、プールの西側に枯れ井戸を見つけた。周囲一メートルに四角くロープが張ってあり、木に黒のマジックで手書きした立ち入り禁止の札がぶら下がっている。

「井戸ですよ」和泉がロープの前に立った。「木の蓋がしてありますね」そして、背後の長身を振り仰ぐ。

 檜山も和泉の横に並ぶようにして、中を覗き込んだ。

 直径一メートル強はありそうな大きめの丸いコンクリート製の井戸に、把手付きの丸い木の蓋がはまっている。

「蓋が汚れていないな」檜山がロープを跨いだ。

「え、檜山さん? 危なくないですかぁ」和泉が目を丸くする。

 背後で小夜もこくこくと頷いていた。

 檜山は制止の声に構うことなく、しかし、落とし穴や地面に腐った箇所がないか、慎重に足場を探りながら、井戸の脇に立った。そして、唐突に背後に向かって問いかけた。

「井戸は何のためにある?」

「水をくむためでしょう」和泉は一瞬面食らった表情を見せたが、すかさず答えた。

「そう」檜山は顎を引いた。「じゃあ、井戸を立ち入り禁止にするようなことがあるとしたら、その理由はなんだと思う?」

「それは……」和泉は顎に左手の人差し指をあてて、少し考え込んだ。「水道が整備されたから、いらなくなった、とか? あるいは、転落事故でもあったか」

「なるほどな」と、答えると同時に、檜山は木の蓋をずらして中を覗き込んだ。

和泉も興味津々に首を伸ばした。しかし、ロープの外からでは中は見えない。

 蓋をずらしたまま、一向に言葉を発する様子のない檜山に焦れて、和泉は「檜山さん?」と目を瞬かせた。

「蓋がある」

「蓋?」

「木の蓋の中に、もう一つ」

 その言葉に、和泉もたまらずロープの中へ足を踏み入れた。その気配を察した檜山が完全に木蓋を取り去って、場所を開けた。

 中には、ここにもまた把手のついた、四角いシェルターの入口のような蓋があった。

「開けてみるか」

「横井さんたちと合流してからにしません? この中絶対防空壕跡か何かですって。犯人いそうですよ」

「どう思う?」檜山はロープの外に立ったままの小夜を振り返って尋ねた。

「行ってみましょう」小夜は凛とした声で返答した。

 その返答に、和泉は目を丸くし、檜山は勝気そうに頷いた。

「龍川さんまで……。もう、知りませんよぉ」

「一人見張りに立つ必要があるが、二対一にわかれることになるな。どうわかれようか」

「やっぱり、横井さんたちが戻ってからがいいですよ」和泉は、普段になく焦ったような声を出した。

「私が一人で見張りをします」小夜がきっぱりと言い放った。

「ってことは、僕と檜山さんが中に行くんですね、はぁ」和泉は大仰に肩を落として見せた。

 その様子を見て、檜山は穏やかに言った。「お前も残っていてもいいぞ。俺一人で中へ行く」

「そんなわけにはいかないでしょう。もしもここが犯人の巣だった場合、中で檜山さんがやられたら次は僕たちなんですから。そうなったら絶対勝てませんよ。こうなったら一蓮托生です」

「俺の安全より、龍川さんを一人で残すことに抵抗があるんだが」檜山は、ロープの向こうの小柄な影に目を転じた。

「私は一人でも大丈夫です。こう見えて、幼馴染の子とはチャンバラして遊んでいましたから」

 小夜も頑として譲る様子はない。檜山はしばらく逡巡した後、「わかった」と小夜の目の奥を見て頷いた。

「何かあったら大声で叫ぶんだぞ。すぐ飛んでいくから。逆に俺らの方が犯人に襲われた場合は、大声で報せる。そうなったら走って船着き場の方へ逃げるんだぞ。横井たちと合流することだけを考えろ。いいな?」

「わかりました」小夜は力強く頷いた。

 内蓋は、思ったよりも静かに開いた。最近、誰かが油をさしたものと思われた。

 中はセメント作りの壁でひんやりとしている。壁から生えた、コの字型の把手上の階段を降りると、案外すぐに足の裏が地面を捉えた。檜山は懐中電灯で上を照らす。和泉の尻がすぐ目の前まで下りてきていた。降りた空間を隅々まで照らすと、一片が二メートルほどの真四角の部屋になっていた。その面の一つ――西側の一面に、再び金属製の扉があった。

「開けるぞ」檜山が、慎重にその把手に手をかけた。

 背後で和泉がごくりと喉を鳴らした。

 扉はギギと微かな音を立てて、しかし割とスムーズに開いた。西洋の城にありそうな、古い堅牢な扉だった。

扉を手前に引いて、中に懐中電灯を向ける。黴臭い冷気が全身を撫でた。

中は、研究室になっていた。医療用具一式に、くすんだ薬瓶がいくつか並んでいる。アルコールランプやマッチもあった。

「誰もいませんね」檜山の背後からそっと顔を覗かせた和泉が、小声で囁く。「医学部の研究室みたい」

「アルコールランプとマッチは狼煙につかえそうだな。マッチはコテージに行けば山ほどあるが」

「他に役に立ちそうなものはなさそうですね。行き止まりみたいですし」和泉がぐるりと顔ごと部屋を見回して、最後に檜山の横顔を仰ぎ見た「戻ります?」

「そうだな。長いこと龍川さんを一人にするのも心配だ」檜山がくるりと踵を返した。

「龍川さーん、だいじょうぶー?」和泉が外へ声を掛けると、「だいじょうぶですー」と凛とした声が返って来た。今まで聞いた小夜の声の中で一番の声量かもしれない。

 和泉、檜山の順に階段を昇ると、わかれたときと変わらない様子の小夜が出迎えてくれた。

「おかえりなさい」

「中は小さな研究室が一部屋あるだけだったよ」和泉が、全身についた錆びや埃を払いながら伝えた。

「怖かったろ」檜山は、箱型の穴倉から顔をだして、目の前のおかっぱ頭に微笑みかけた。

「はい」小夜は正直にこくりと頷いた。

「ごめんな。危ない目に遭わせて。今考えればやっぱり軽率だった」檜山は四角の扉と、木蓋を順に閉めて、軽快に地面を踏んだ。

「私が言い出したことなので、大丈夫です」小夜は力強く頷いた。



 *



三人は、一度コテージの玄関前を通り、今度は東方向へと足を向けた。

薄暗い森である。木々が折り重なるようにして群生していた。その一角に、木のトンネルがある。そこだけは下草もなく、人一人が通れるくらいの獣道が遠くへ続いていた。層になった木枝や熊笹に阻まれて、その道がどこに繋がっているのかは判然としない。

自然のアーチをくぐる前に、「一雨くるかもしれませんね」和泉が、森から見てコテージの向こう側、西の空を見上げて言った。

空は前日と比べて半分もないのではないかと思えるほど、低い位置に来ていた。墨汁に水を混ぜたような灰色の雲が、空一面に広がっている。風もだいぶ出てきた。先ほどから木々のざわめきが木霊のように両耳の鼓膜を順番に叩いた。

そんな中、時々低木に服を撫でられながら、三人は一列に小道を進んだ。

木々のドームを潜り抜けたその突き当りは、断崖絶壁の崖になっていた。

振り返ると、こんもりとしたブロッコリーのような常葉樹の群れが見える。その奥にはコテージの屋根があるはずであるが、青々と生い茂った樹木郡に遮られて見えなかった。

「潮の流れが速そうですね」崖から海を覗き込んだ和泉が、顔を引きつらせた。

「ああ」

「ごつごつした岩だらけだ。落ちたらひとたまりもないですねぇ」



 09:30



「なんでアタシたちがよりによって南側なのよ」

 久美子が水色のチュールスカートの裾をはためかせた久美子がぶつくさと呟いた。これでもう何度目かわからない。丸太製の階段は、ヒールではさぞかし降りにくいことだろう。

「不服だったのかい?」横井が振り仰いで尋ねた。

「この長い階段をまた昇らないといけないんでしょう?」

「すみません」なぜか瑛梨が頭を下げた。

「階段が長いのは瑛梨ちゃんのせいじゃないよ」横井は瑛梨から、再び久美子に視線を移した。「それに世良さん、体育館やプールの更衣室に犯人が潜んでいる可能性が高いと思わないかい?」

「どういうことよ」

 気幻想に眉を顰める久美子に、横井は一度周囲をきょろきょろと確認して小声で言った。

「コテージまでの往復に時間がかかる上に、壁も屋根のない島の南側で過ごすよりも、海風をしのげる屋内に犯人が潜んでいる可能性が高いってことさ」

「島の北側の探索の方が危険だってことですか?」瑛梨が目を丸くした。

「そういうこと」

「じゃあ、それをわかっていて横井くんはアタシを南側のグループに分けてくれたってわけ?」久美子の足取りが急に軽くなった。

「どう捉えるかはお任せするよ」横井は茶目っ気たっぷりに肩を竦めてみせた。

「ふふん。横井君、あなたもなかなかずるがしこいわね」

「誉め言葉と受け取っておくよ。――ところで」と、横井は視線の先を指さした。ギャアギャアという耳障りな鳴き声が先ほどから鼓膜を震わせていた。「あの鳥が群がっているところって、昨日鷹野さんの遺体を安置した場所だよね」

「酷い匂い……」久美子が鼻口を両手で覆って、嫌悪を示した。

「鷹野さんのご遺体もだいぶ腐敗が進んでいるようだね」

「アタシ、こわいわ。死体も鳥も怖い! これ以上近づきたくない」久美子が大仰に両手で身体を抱いて身震いした。

「仕方ないな……じゃあ、ここから先は、二手にわかれるか?」

「なにそれ。女子二人ここに残れってこと? いやよ」

「でも先には行きたくないんだろう?」

「当然よ。死体の傍を通るなんて、鳥肌が立つわ」

「世良さん、選択肢は二つだ。三人で島の南端まで見てまわるか、瑛梨ちゃんと二人でここに残るか。この二つに一つだ」横井が感情の読めない顔の前に、人差し指と中指を立てて示した。

「じゃあ、行くわ。行くわよ。行けばいいんでしょう!」

「ありがとう」わかればいいと、満足げに横井は両手を下に下ろし半身を翻した。

「でも、船と南端まで見たら、引き返してコテージに戻るからね。もうアタシ疲れちゃったわ」



11:00



 横井たち三人が丸太を昇り切った辺りで、ちょうどコテージの前に立つ、三人の姿が目に入った。ロープも分かれたときとそのまま、束になって床に置かれており、暗に不審者に遭遇することはなかったのだということが察せられた。

「潜伏者はいませんでしたよー」和泉の高めのテノールが響く。

やまびこのように横井も艶のあるテノールを張り上げた。「こっちもだ」

「換気ってもう充分ですかね」

「何の毒物か、濃度はどれくらいなのかわからない以上、何とも言えないな」

 横井は額に滲んだ汗を拭いながら、コテージを仰ぎ見る。初日に見たときは学生なりの贅沢の象徴だったその建物も、今では二人の命を奪った魔の要塞である。

「正午過ぎくらいまでは、体育館で過ごした方がいいんじゃないですかね」瑛梨が息を切らしながら言った。

「そうだなあ」横井も賛同を示す。

「じゃあ、その間に俺は狼煙をあげてみる」檜山が日陰に並んだ小瓶を拾いあげて言った。

「なんだそれ」すかさず横井が尋ねる。

「アルコールランプ、それとマッチ箱。プールの向こう側に、地下研究室があった。そこから借りてきた」

「地下研究室? そんなものがあったのか」

「行ってみるか? プールの向こうの古井戸の中にあった」

「いや……」横井は背後の女性二人を見遣る。だいぶ疲労の滲むその表情を確認して、檜山に向き直った。「今はやめとくよ」

「そうか」そう言うと、檜山は早速、コテージから東の方角へと向かった。

「東の森を抜けたところに、見晴らしの良い丘があった。そこがいいだろう」

「なるほど。アルコールランプを燃料にするのか。へえ」横井が切れ長の目を丸くして関心を示した。「俺もついていくよ」

「私も行きます」瑛梨も右手を小さく上げた。それに、小夜も続く。

「アタシは疲れたわ」世良がその場にしゃがみ込んで口を尖らせた。

 その様子をやれやれと言った表情で一瞥した後、和泉が肩を竦めて言った。

「じゃあ、僕、世良さんと体育館で待機していますよ」

「異論ないか?」

横井の質問に反論する者はいなかった。さすがの久美子も、どうやら戦闘員を寄越せとの悪態をつく元気もないらしい。

「じゃあ、くれぐれも気を付けろよ」

 そうして、四人は東へ、二人は西へとそれぞれ別の道を進んでいった。



11:30



 四人は道中、枯れ枝を拾い集めながら、東の断崖を目指した。檜山を先頭にところどころ藪をかき分けながら、前へ進む。一度通った道だったため、先刻よりもスムーズに目的地へ着くことができた。

「どうして枝を拾っていくんですか?」瑛梨が小声で横井のうなじに問うた。

「生木だと、幹に水分が残っていて、うまく火がつかないんだよ、確か」

「へえ」瑛梨は感心したように、何度も頷いてみせた。

 四人は古いタオルと折れた大木の幹で白旗を作り、その隣に火を焚いた。

「本当はシーツの方が目立つんだけどな」檜山が、はためくハンドタオルに視線を落として言った。

「ないよりはマシさ。それよりも、運よく船やヘリコプターが通ればいいけどな」

「ただの焚火だと思われたら意味がねぇしな」

「言い出しっぺが悲しいことを言うなよ」横井は肩を竦めておどけてみせた。

「ンだよ……」

「や、でも、これで駄目ならお手上げだからなあ。俺たち、二十五日まであと三週間以上もここに缶詰めだぞ」

「河西が不審に思って通報してくれることを祈ろうか」檜山が水平線を眺めながら言った。灰色の空と、鉛色の海。その境界線はあまりにも遠いところにあり、曖昧にぼやけている。

「ああ。河西を信じようじゃないか」横井が元気づけるように、背後の女性陣を振り返った。それから、「おなか減ったなあ……」と、引き締まった腹をさする。

 瑛梨も首肯して、眉を下げた。

「どうすればいいんでしょうね……このままじゃ本当に餓死してしまいます」

 暗雲がそのまま大気に混じったような、重く湿った空気がその場に立ち込めた。なんだか、朝よりも気温が下がった気がする。瑛梨はぶるりと身体を震わせた。単に、汗が乾いただけだろうか。

そうしたところで、思いつめたように、横井が口火を切った。「なあ、檜山。俺たちの中に犯人がいると思うか?」

 檜山は、一度横目で横井の双眸を見遣った後、再び空と海の中間点へと視線を戻した。

 横井も一歩前へと踏み出し、ほんの少し高い位置にある茶髪に肩を並べる。「俺だって理由もなく仲間を疑っているわけじゃないよ。島に潜んでいる人間がいないとなると、それ以外に考えられないと思ってさ」

「まあ、そうだな」檜山は視線を足元へ落とした。「考えたくないけど」

 横井は自分から言い出したというのに、檜山の返答にショックを受けた様子だった。はっきりと目に見える形で引導を渡されたような気分になったのだろう。

「そんな……」瑛梨が眉を八の字に顰めた。

「でも、昨日の鷹野さんの事件の時に、私たちの中には犯行が可能な人がいないって」小夜がか細い声で反論した。

「そうなんだよな」横井は半身を翻して、小夜の白い顔を見た。「それに、今日の乾の事件も」

「ああ」檜山がため息混じりに首肯した。

「あれは完全に密室だった」横井は唇を噛む。

「ドアは俺と檜山で体当たりするまで鍵がかかっていた。間違いなくこの手で確認したんだ」横井は広げた両手をまじまじと見つめた。「窓も閉まっていた。どこから毒ガスを入れたってんだ」

「ドアの下に隙間はなかったんですか?」小夜が尋ねる。肩の上で切りそろえられた黒髪が揺れた。

「そんな隙間なかった」横井に代わって檜山が答えた。「昨日鷹野さんを捜索するときに全部屋ざっと仕掛けがありそうなところを調べてまわったんだ。その時、ドアの下も確認したが、チューブはおそらく入らねぇ。入るとしたら縫い針一本くらいのもんだろうよ。和泉も一緒に確認している」

「縫い針一本じゃあ、人一人殺せるだけのガスは無理くさいな……」横井が、ふうむと唸った。

「ユニットバスの換気扇はどうですか?」瑛梨がはっと瞠目した。「ダクトで天井裏が繋がっているのなら、そこからホースか何かで」

「なるほど。それで、そのチューブなりホースなりをずるずると回収した、と」横井が刮目して肯いた。

「でもよ、各部屋エアダクトで繋がっているんなら、エアダクトを介して二階中にガスが充満するんじゃねぇか?」檜山が異論を唱える。

「確かに」横井が白い顎に手を当てて俯いた。「俺や小夜ちゃんの部屋とか、二〇一号室の隣だもんな」

「あ、そうですよ」瑛梨が横手を打った。「忘れていました。各階一号室と五号室は、エアダクトが孤立しているんでした」

「そっか」横井は残念そうに唇を舐めた後、「あっ」と目を丸くして檜山の横顔を見上げた。「それならば、外の通風孔から、それこそホースやチューブを差し込むことはできないのかな」

「二階だぞ」

「梯子か何かで」

「梯子が島のどこかに隠されているっていうのか」

「確かに……そんな大きな梯子があったら気づくよねえ……」横井ががりがりと形の良い頭を掻いた。議論は再び暗礁に乗り上げてしまったようだ。

「投げるのはどうですか?」再び瑛梨が、拳で掌を打つ。

「投げる?」横井が片方の眉を持ち上げた。

「ホースかチューブかの端に重りをつけて、通風孔に投げ入れるんです」

「発想は面白いけどね、野球部でも難しい気がするよ」

「失敗したら音で気づかれそうだしなあ」瑛梨と横井のやり取りに、檜山も加わった。「窓を使う方法はねぇのかな」

瑛梨は「うーん」と顎に手を当てて唸った。「窓を開閉した人ならわかると思いますが、鍵はレバー式で結構な力を入れないと動きません。窓自体も縦滑り出し窓で転落防止に三センチしか開かないようになっています」

「そうか」檜山は肩を落として、息を吐いた。「確かにあの鍵は糸やテグスなんかじゃ開きそうになかったな。しかし……その数センチを利用する方法くらいしか、外からチューブを入れる方法を思いつかないんだよな……」

そこで、「くしゅん」と瑛梨がくしゃみを零した。ぶるりとその身体を震わせる。

「寒くなって来たね」横井も同じように両手で肘を抱いた。「上着を取りに行こうか。小夜ちゃんは大丈夫?」

小夜は小さく首肯した。「大丈夫です」

「じゃあ……俺と瑛梨ちゃんで行ってこようか。檜山、火の番、少し任せてもいい?」

「ああ。だが、コテージにはガスがまだ残っているかもしれねぇ。気を付けろよ」

「任せて。そう長居はしないさ」



12:50



 悪路とは言え、来た道を戻るのには五分と掛からなかった。

 コテージの玄関に足を掛けたところで、横井の発案で、一度体育館の様子を見に行く流れにになった。

 体育館の、正面玄関の入口をあけて、続けざまに黄色いスライドドアを開ける。

 中には久美子一人の姿しか認められなかった。

「あら?」久美子がマスカラで囲まれた両目を丸くする。「てっきり和泉くんかと思ったら。あなたたちなの?」

「和泉はどうしたんだ?」

横井は、一人冷たい体育館のフロアに座る久美子へと歩み寄った。もちろん、三人とも土足のままである。土足厳禁の、ワックスのきいたフロアを汚すことに罪悪感はあるが、保身には代えられなかった。

「それがトイレに行くって出て行ったまま戻らないのよ。もう十分くらいになるかしらね? 男子トイレだから様子を見に行くのも恥ずかしいし」

「なら、俺が見てくるよ」

 横井が踵を返したところで、背後の黄色いスライドドアが開いた。

「あれ? 横井さんに降谷さん」和泉が胸を擦りながら出てきた。「胃の調子が悪くて」

「大丈夫か」横井が少し下の位置にある、後輩の額に右手を当てた。「熱はないようだな」

「額に手を当てられたのなんて、十五年ぶりくらいですよ」和泉はにやりと唇を持ち上げた。「もう大丈夫ですから、心配いらないですよ」

「ならいいが」横井はくるりと反転して、久美子と和泉をかわるがわる見遣った。「それはそうと、俺たち上着を取りにコテージに戻るんだけど、君たちは大丈夫?」

「アタシ、それならシャワーを浴びたいわ」久美子が立ち上がった。

「シャワーはまだ無理じゃないか? 毒ガスが残っているかもしれないし、長居はまだやめた方がいい」

「あら。アタシの部屋、三階だから大丈夫よ、きっと」

 そう言いきると、久美子は返事も待たずにスライドドアの方へに歩いて行ってしまった。コツコツとヒールの音が、広いフロアに響き渡る。

 横井は肩を竦めて、和泉とアイコンタクトを交わした。

「どうする? 独りになるのが嫌だったら、先に女性陣を向かわせてもいいが」

「アタシはもう一人ぼっちはいやよ! 横井くんもついてきてくれなきゃ」

 入口から聞こえてきた久美子の大声に、和泉は肩を竦めて言った。

「いいですよ。僕、しばらく一人で留守番していますから」



 *



 横井行基は、洗面台に両手をつき、備え付けの鏡をじいっと見つめていた。

 鏡の世界では自分と同じ顔をした自分が、彼のことを見据えている。

 ――あれは十一月も暮れに差し掛かった日のことだった。

横井は森内に乞われて、早見エメリを誰もいない部室へと呼び出した。「何やら森内が相談したいことがあるらしい」横井がそう伝えると、エメリは四分の一スウェーデン人の血の混じったほんの少し堀の深い、人のよさそうな綺麗な顔を心痛そうに歪ませて二つ返事で快諾した。疑う素振りは一つもなかった。

「エメリに告白をしたい」

 森内からは、そう聞いていた。横井は、エメリがこっそり河西瑛介と付き合っていることに勘づいていた。だから、森内のそれが望みのない恋だということもわかっていた。実際――。

――横井は目を閉じて、深くため息をついた。

森内は深く傷ついた様子だった。彼は市議会議員の息子で、聞くところによると小さいころから裕福な家庭で何不自由なく育ったらしい。父を早くに失くし、女手一つでここまで育ててもらった横井とは、住む世界の違う男だった。

おそらく、それまでの人生において、挫折というものをほとんど知らない男だ。そんな男が同級生にフられた。平気なふりをしていたが、あれは虚勢だと横井は見抜いていた。そして――。そんな見えないクレバスを抱えたまま、自分たちはあのH岳に登った。

横井は目を開いた。瞬間、鏡の向こうの覆面と目が合った。

 咄嗟に声が出なかった。

 次の瞬間、硝子製のおおぶりの灰皿が、横井の頭部目掛けて振り下ろされた。



13:10



「お二人とも遅いですね」

 両膝を立て、両太ももの裏を両腕で抱えたまま、瑛梨が顔を上げた。視線の先には体育館の黄色い引き戸が口を閉めたまま立ちはだかっていた。

「一緒に行ったのに、別々に帰ってきたんだ?」和泉が、袖口についた糸くずを指でつまみながら尋ねた。顔色はすっかりいいようである。

 瑛梨は一つ首肯して口を開いた。

「横井さんとは二階までは一緒でした。二人で乾さんの遺体を二〇三号室に運び入れて、横井さんの部屋、二〇五号室の前でわかれました。一応、私が部屋を出てくるときに、二〇五号室をノックして声を掛けたんですけどね。反応がなかったので、誰もいない廊下で待つのも怖くて出て来ちゃいました」

「トイレか何かじゃないの? さっきの僕みたいに。世良さんはシャワーだからもうしばらくかかるだろうしね」

「世良さんにもあまり長居しない方がいいですよーって、横井さんが言ってはいたんですけどね。毒ガスが残っていないとも限らないからって」

「世良さんは、お風呂長いからね」

 苦虫を噛みつぶしたような顔で和泉が言った。

「そうなんですか?」瑛梨が目を丸くする。

 慌てて和泉は両手を顔の前で振った。

「ああ、えっと、親しい関係ってわけじゃないよ。山岳部のみんなで、旅館とかさ、泊まったりするだけで」

「へぇ、楽しそうですね」

「どうだろうね」和泉は悪戯そうに笑った。「降谷さんは、趣味は?」

「趣味、ですね……私基本的にインドアなので、読書だったり、絵をかいたり、そういう自分の世界の中に入る方が好きなんです」

「ふぅん、なんだか芸術家っぽい」

 和泉の言葉に、瑛梨は頬を掻いて照れ臭そうに笑った。

「そんな立派なものじゃないですよ。だから、みなさんみたいにアウトドアでばりばり活動している人たちのことは、少し憧れます」と、揃えたつま先を見る。底の擦れた黒い大ぶりのスニーカーだった。

「今度どこかの山に登ってみようか」

「いいんですか?」

「もちろん」和泉は純粋な笑顔を浮かべて言った。「まずは生きて帰らなきゃね」

「そうですね」瑛梨もつられてはにかみ顔を浮かべた。

 状況を忘れてしまえば、ごく平和なやり取りだった。穏やかな時間が流れる。この島で初めてのことのように思えた。

 やがて、和泉が右手首に嵌めた時計を見つめて顔を上げた。時計の針は十三時十五分を指している。

「横井さんと世良さん流石に遅いね。僕見に行ってこようかな」

「もう十五分くらい経ちますよね。……あ」と、瑛梨が目を丸くした先で、黄色い引き戸が音もなく開いた。

「世良さん」

 髪をターコイズブルーのリボンでポニーテールに束ねた久美子だった。彼女は、きょろきょろと尻尾を揺らして、室内を見回した。

「横井くんまだなの?」

「おなかでも壊したんですかねぇ」

「和泉くん、あなたじゃああるまいし」

「繊細なんですよぅ、僕は」和泉が唇を尖らせてみせた。

「おなか壊すようなもの食べたのかしらね。こっそり」久美子がツンと顎を上げて言った。空腹で気が立っているらしい。

 なんとなく、張り詰めた空気が流れ始める。

 暗幕の降りたままの体育館の中は薄暗く、時折湿っぽい香りが鼻腔をついた。

「僕も上着、取ってこようかなぁ」和泉が反動をつけて立ち上がった。「ついでと言ったら先輩相手に失礼だけど、横井さんの様子を見てきますよ」



 *



「皆さん、性別も年齢もいろいろなのに、とても仲がいいんですね」

 両膝を立てて座った瑛梨が、黒いチノパンツの裾をいじりながら言った。泥が乾いて、らくだ色の粉がフロアに落ちる。

「あら、そう見える?」

「違うんですか?」瑛梨は顔を上げた。

横座りをした久美子が「どうかしらね」と、肩を竦めた。

「見えない火花はあったんじゃないかしらね」

「見えない火花」

「ええ。例えばね……森内くんは……、最初に死んだ彼ね、彼は、檜山くんにライバル意識バリバリだったわ。檜山くんってば、高校時代はバスケで全国大会ベスト四だし、今も農学部で新種の薔薇の研究とかやっちゃっているし。就職もこの不景気の中で、大手の内定ばんばんもらっちゃうエリートなのよ。顔も少し不愛想だけど、ハンサムだしね。本当は優しいし」

「そうなんですね」頬を綻ばせた久美子の横顔に、瑛梨はほんの少しだけ寂しそうな笑顔を向けた。

 久美子は、まるで自分の自慢話のように嬉しそうだった顔から一転、冷たい顔で続けた。

「乾くん――眼鏡の、毒ガスにやられた彼ね。彼は、森内くんの腰巾着だったわ。森内くんのお父様が市議会議員で、乾くんのお父様は市役所職員なのよ。別にどっちが偉いとか、そういうの、関係ないのにね」

「そう思います」瑛梨は曖昧に相槌を打った。

「横井くんは飄々としているけれど、彼、高校時代に怪我でバスケを断念しているのよね。だから、全国大会にまで出場しておきながら、あっさりと高校でバスケやめちゃった檜山くんのことを、少しうらやんでいるんじゃないかしらね」

「へえ……」人が複数人集まればいろいろあるものだなあ、という言葉を飲み込んで、瑛梨はほんの少し話の矛先を変えた。「お二人とも身長高いですもんね」

「そうね。スタイル抜群よね」

「ええ。横井さんは、今はもう怪我は大丈夫なんでしょうか」

 瑛梨の髪がさらりと肩口にかかる。人形のようなきれいな烏の濡れ羽色をしていた。

 久美子も、肩口に落ちた黒い髪の毛を、後ろへ払った。ウェーブのかかったポニーテールが艶やかに揺れる。

「日常生活に支障はないみたいよ。スポーツだって種目によってはできるし、登山も大丈夫」

「登山もハードそうですもんね」瑛梨は、一日前のアリバイ検証のとき、横井が檜山を実験係として、桟橋まで往復させた理由はそこにあったのかもしれない、と心の中で思いついた。

「その分、山頂からの景色は写真では味わえない感動があるけれどね。まるで、地図を上から見下ろしているような気分よ」

「いいなあ――龍川さんは大人しい方ですね」

 瑛梨は華奢なおかっぱ頭を思い浮かべて口元を緩めた。とても同い年とは思えない。高校生と言われても全く違和感がないほど若く見えた。

 久美子もつられるようにふわりと華やかなルージュを引いた唇を持ち上げた。

「小夜ちゃんはね、おとなしくて、本当にいい子よ」

「そんな感じがします。純粋そうで」

「あら」久美子は目を丸くして悪戯そうに笑った。「純粋なのは確かね。でもね、彼女、ちゃんと恋はしているのよ。河西くんに憧れて山岳部に入ったみたいなの。あ、今回来られなかった四回生ね」

「へえ」

「優しいのよ、河西くんは。それに、彼女の初恋の人に似ているとかなんとかで。聞いた話よ? 本人を問い詰めても顔を真っ赤にして教えてくれないんだもの」

「そうなんですね」瑛梨は薄く調子を合わせた。いない人のうわさ話は、なんとなく昔から罪悪感があるのだ。

 しかし、久美子は自分の世界に入り込んでいるようで、瑛梨のそんな反応はおかまいなしに熱っぽく話を続けた。

「河西くんはね、檜山くんと同じ研究室なのよ。頭がいいの。それで優しいんだから、そりゃあ小夜ちゃんも惚れるわよね」

「そんなに素敵なんですね。お会いしてみたかったです」

「彼、ちょっと今落ち込んでいるからね」

「そうなんですか?」瑛梨にとっては、相槌の一つだったが、彼女の言葉を聞いた途端、久美子の顔色がサッと変わった。

「ええ――」と、気まずそうに目を泳がせる。そして、話を逸らすように、「あ、そうそう」と横手を打った。「和泉くんはね。彼は、小動物みたいな可愛い顔して、医学部医学科のエースなのよ。将来は間違いなく医者でしょうね。少しあまのじゃくで毒舌だけれどね。と、ちょうど戻って来たわ」

 久美子の発話対象が、急に遠く飛んだのに、瑛梨も髪を揺らして振り向いた。

 黄色い引き戸が開いている。

 薄暗いフロア内からは、外光を背負ったその影は真っ黒に見えた。

「――一人なのォ?」

「駄目です。横井さん、部屋から出てきません。鍵も閉まっています」和泉が顔の前で手を横に振った。

「ちょっと……やだ、本格的に危ないんじゃないの?」久美子が顔を顰めた。

「檜山さんたちに声かけてきましょうか」瑛梨が腰を浮かせる。フットワークの軽い女性だ。

「ばらけないほうがいい。一緒に行きましょう、世良さんも」和泉が場を制し、三人は連れたって東の崖へと急いだ。



13:50



 二〇五号室の扉は和泉の証言した通り、鍵が掛かっていた。

「またかよ……」檜山が奥歯を噛みしめた。「和泉、一緒に開けるぞ」

 これには和泉も不平を零さなかった。もう、その場にいる男性は和泉と檜山の二人しかいない。

 二人が息をそろえて十五回程扉にタックルした瞬間、メキメキと蝶番が音を立てて扉が中へ倒れた。

 倒れたドアの上部が、何かに当たる。

 横たわった横井行基の足だった。

 横井は、部屋から入ってすぐ左にある浴室に上半身を突っ込んだ状態で、仰向けに倒れていた。はみ出した下半身に、破れた扉が覆いかぶさったという具合だった。

 久美子の甲高い悲鳴が薄暗い廊下に響き渡る。

「またガスですか?」瑛梨が反射的に顔を強張らせた。

「いや」いち早く遺体のそばに腰を下ろした檜山が、瑛梨を仰ぎ見た。「ガスではなさそうだ」

 瑛梨はほっと胸を撫でおろし、その安堵感を打ち消すように首を小さく振った。罪悪感が胸にじわりと広がる。室内へ一歩入ったことで、横井の上半身があらわになった。横井は顔を蒼白にして、後頭部から血を流していた。

そして、「首のところ……」瑛梨が指さした先、陶磁器のように真っ白になった横井の右の首筋には赤い針孔のような点があった。そのまま視線を手前――横井の胴体と腕と転ずれば、右手の内肘にも同じような点がある。

「撲殺……いや、失血死か?」針孔から血を抜かれたものとみて、檜山は和泉を振り仰いだ。

 和泉は白い顔を蒼くしながら、不承不承死体の傍に膝をつく。

「殴って昏倒させた後に血を抜かれたのか、それとも撲殺されてすぐに血を抜かれたのか……見ただけでは、わからないですね、ちょっと。ただ――針孔から出血しているから、生きている間に血液を抜かれた可能性が高いと思います」

 和泉は首を捻った。

「血を抜かれているの?」

 廊下で目隠しをした久美子が叫んだ。

「たぶんそうでしょうね」

「どうやって血を抜いたって言うのよ!」

「地下研究室にありましたね。採血器具」

「和泉くんが殺して血を抜いたんじゃないの? 医学部だし。さっきも自分から横井くんの様子見って言って出て行ったじゃない」

「それなら龍川さんだって看護学科でしょう」和泉が心外だと反論した。

突然矛先を向けられた小夜が、おかっぱ頭をふるふると左右に振って後ずさった。「そ、そ、そんな! わ、私じゃないです……!」

「龍川さんは俺と一緒にずっと狼煙の番をしていたぞ」すかさず、檜山が救いの手を差し伸べた。彼の視線は、横井の死体にある。

「それに、また密室ですよ。僕が犯人だとしても、十五分そこらで、横井さんを殴り殺して血を抜いて、挙句密室まで作り上げるなんて芸当、とてもできませんよ」

 和泉が柄になく、少々焦ったような様子で言った。

 瑛梨も「うーん」と、顎に指を当てて賛同する。「確かに、和泉さんが離席していたのは十五分そこそこでしたね。私、横井さんのことが気になっていたので時計は気にしていました」

「それに僕が犯行可能だって言うんだったら、横井さんと一緒にコテージに向かった世良さんと降谷さんにだって、犯行は可能だってことになりますよね」

瑛梨が刮目して否定した。「私だって十分そこそこで戻ってきましたよ」

「僕に可能であれば、の話であって、誰が犯人でも十分で横井さんを殺害して、密室を作って、戻ってくるなんて芸当できないってことを言いたいんだよ」和泉が左手の平をひらりと上へ向けた。先ほどの興奮は少しおさまっているように見える。

そんなあわただしいやり取りの中、しばらく黙って遺体を眺めていた檜山が言った。「和泉が犯人ならおかしなところもある。横井の後頭部の傷を見たら、右から殴られている」

「何がおかしいのよ」久美子が片方の眉を吊り上げた。

「和泉は左利きだ」

「あ!」久美子が顎をがくりと下げる。

 和泉が力水をもらったように、生き生きと付け加えた。「血も右首筋と右腕から抜かれているじゃないですか。これも、僕が犯人じゃない証拠になりますよね」

「いや」檜山は淡々と首を横に振った。「血を抜くこと自体は、死体の、向かって右側に座って手を伸ばせば、右半身から左手で血を抜くことだってできる。まあ、針が差し込まれている角度なんかを警察で詳しく調べれば、左右どちらの手を使ったものか判明するのかもしれないがな。でも、自分より身長の高い人間を殴り殺すには流石に利き手じゃないと難しそうだから、和泉は除外できると思う」



15:00



コテージを出て左手――東側には、青々と茂った広葉樹が思い思いに折り重なっている。並木には、獣道ができており、人一人が通れるほどの土色が一筋、断崖に向かって伸びていた。

 木々のアーチをくぐり、その突き当たりの断崖まで檜山と小夜は歩いた。もう、すっかり歩き慣れた道だ。

 獣道の終わりは、そのまま宙に続いており、真下は波しぶきの上がる海が広がっていた。海面から足元までの距離はかなりのものがあり、崖の淵から下を覗くだけで、心臓がひゅんと竦みそうなほどであった。波しぶきに洗われて角のだいぶ取れた岩と、突き出た鋭利な岩石を、無茶苦茶に積み上げたような様子である。

「あ」

 不意に突風が吹き、空き缶が転がって下に落ちた。

 と、その流れをじっと見つめていた檜山がぼそりと呟いた。

「離岸流か?」

真下に落ちた空き缶は一瞬沈んで再び浮かび、ひゅっと沖へと流れて行ったのである。

 リガンリュウ――小夜はその言葉がどういう字を書くのかわからず、頭の中で思い浮かべてみた。そんな様子の小夜に、檜山は、視線は眼下にとどめたまま、説明した。

「離岸流っていうのは、離れる岸でリガン、流れるでリュウという字を書く。簡単に言えば、その字のごとく、岸から沖に向かって強く流れる海流のことを言うんだ。この海は、波が海岸に対して直角に入っているから、離岸流が発生しているのかもしれねぇな」

「そんな現象があるんですね」

「ああ。離岸流は一見してわからないが、人間が一旦巻き込まれると抵抗するすべもなく沖へと流される。それくらい強い」

「じゃあ、この島の周りの海は泳げませんね」

「ああ。荒れていることが多いんだろうな。この崖の下は離岸流だし、桟橋の付近も海流が強いって言っていたし。だからプールが作られているのかもしれねぇ」

「泳ぎたい人のために、ですか?」

「じゃねぇかな。泳ぐ気満々の客の欲求を満たすために」くるりと踵を返して歩き出したところで、檜山ははたと立ち止まった。「待てよ」

 小夜が何事かと、上目遣いにその横顔を仰ぎ見る。

離岸流に、いつも桟橋方向に流れる潮。……これがあれば。

檜山は、右肩越しに小夜を見下ろすと、

「龍川さん、少し手伝ってくれないか?」

 そう言って、少年のように目を輝かせた。



 *



 それから二人は一旦コテージの玄関に戻り、そこから木々のアーチをくぐって岸壁まで走り、すぐさま引き返して再びコテージまで戻る。――そのタイムを計測した。

「三分五十八秒、ほぼ四分だな」

 檜山は軽く弾んだ息を整えながら、腕時計をじっと見つめた。

 隣では、小夜が肩で息をしている。性格もおとなしく、口数も少ない。一見文科系に見える小夜だったが、その脚力は流石登山部というだけあって、なかなかのものだった。

 檜山は何かに気づいたのだろうか。小夜がそんな期待の込められた目で頭一つ上にある、整った横顔を見つめていると、それに気づいた檜山が切れ長の目を向けてきた。

「これで、鷹野さん殺しの説明がつくかもしれない」

「え」

 何か事件のヒントを得たのだろう、そうはうすうす感じてはいたものの、予想し得なかった名前の登場に、小夜は目を瞠った。

「鷹野さんを殺害するために、あの蛇腹折の階段を使っていたら確かに往復二十分かかるだろう。だが、このルートの往復だったら女性の足でも四分で往復できる。鷹野さんを殺害して、崖から遺体を突き落とす、もしくはそのまま突き落とす、そうすれば、殺害する時間を入れても五分少々あれば犯行が可能だ」

「ああ!」小夜は小さな両手で口を覆った。「離岸流と、潮の流れ……」

「ああ。まず離岸流で遺体は島を離れ、今度は別の潮の流れによって、桟橋の脇に打ち上げられた。――来るとき鷹野さんが言っていたな。ゴミが打ち上げられて困るって」

「そういえば」

 小夜は、昨日の記憶を呼び起こすべく、虚空を見つめた。

「あの日、五分以上部屋を出たのは誰だったか……」

口の中で言いながら、檜山はジャケットの内ポケットから茶色い革製の手帳を取り出した。そして、付属のボールペンで何事かをさらさらと書き始める。

「厨房でコーヒーを淹れてくれていた降谷さん、トイレに出た和泉、龍川さん、シャワー室を見に行っていた世良に犯行が可能、か」

 と、小夜がじっと彼の手元を見つめていることに気づき、檜山は手帳を彼女の視線の高さまで下げた。

「これか。これな、俺なりに事件のことについてメモしているんだ」

「部屋割のときの」

「ああ、そうだな。昨日部屋割りを決めるときにも見せたっけ。ついでと言っちゃなんだが、後々警察にも事情を聴かれるだろうからな。忘れないようにメモってんだ」

「すごい……」

 小夜は素直に感動を示した。

 どのようにして家へ帰るか、どのようにして生き延びるか、殺人犯が来たらどうしよう。――そんな、即時的な心配で頭がいっぱいだった自身と大きな違いだ。やっぱりこの先輩はすごい。

 そんな小夜の羨望のまなざしを不思議に思ったらしい、檜山が「ん?」と首を捻った。

「わ、私も部屋に、手帳があります」

 小夜の言葉は、いつも少し言葉足らずだ。そんなことは、一年以上も一緒にいればだんだんわかってくる。檜山は脳内で彼女の言葉を補完しながら答えた。

「なら、後で一緒に事件をまとめてみるか? 俺一人じゃ見落としている部分もあるだろうし、その方が客観性も増すだろう」

 極端に口下手な後輩は、満足そうにこくんと首を縦に振った。檜山はほっと胸を撫でおろす。自身もあまり多くを喋る方ではないので、この口下手な後輩と二人きりで話すということは、この島に来るまでほとんどなかった。しかし、話してみれば不思議と居心地は悪くない。ひょっとしたら普段喋らない者同士、ちょっとした親近感があるのかもしれない。

「あ……と。どこで書くか。居間はもう使えるかな」

 乾を死に至らしめた毒ガスはもう消えているだろうか。檜山が左手の甲を険しい顔で眺めながら言った。

 横井が殺された後、檜山と小夜以外のメンバーは拠点を体育館からリビングへと移していた。戻ってみて彼らに異常がないようならば、もう換気は充分済んだと解釈していいだろう。そういう考えが浮かんで、流石にそれはと脳内で打ち消した。彼らを実健動物にしているようではないか。

「龍川さんの手帳を取りに行きつつ、横井の部屋の検分をしてみようか」

 檜山の提案に、小夜はこくりと頷いた。

「その前に、桟橋のところまで行って来てもいいか?」

「桟橋ですか?」

「空き缶が漂着しているか、確認してみたい」



15:45



 浜辺には、いくつかの空き缶とゴミは散見されたものの、崖から転がり落ちた空き缶と同じ色をしたものは見つからなかった。肩を落としつつ、二人は元来たつづら折りの階段を昇った。この二日で幾つもの山を登った後のような疲労感だった。

 玄関からコテージに戻る。居間には、瑛梨と久美子、和泉の三人がいるはずだった。単独行動はやめるよう、互いに確認し合ったばかりである。

 報告と確認がてら、居間に寄ることにする。ドアを開けると、予想にたがわず、薄暗い部屋の中三つの影がバラバラにあった。

 一番手前の和泉が振り返り、「おかえりなさい」と口端を持ち上げる。彼は入口に背を向けた、コの字型の手前側に位置するソファに腰かけていた。「何か収穫はありましたか?」

「いや……」檜山は濁す。

その様子を、小夜が不安げに仰ぎ見た。

檜山も小夜の視線に気づいたようで、空中で視線がかち合う。

そんな様子から、和泉は何かを察したようで、「そうですか。残念」と彼のほうから話を切り上げた。――きっと、収穫はあるものの、犯人がこの場にいる可能性が高い以上、下手に情報を漏らせないと、檜山は思っているのだろう。――ということに、和泉は勘づいただろうことが、檜山にはわかった。

しかし、ここは後輩の気遣いに甘えさせてもらうことにする。

「ちょっと、横井の部屋見てくる。夜にはここに降りてくるから」

 檜山は三人の顔を順々に見渡してから、居間の扉を閉めた。



16:00



 二〇五号室の敷居を跨いだ瞬間、血と死の香りが鼻腔から胸へと広がった。

 先ほど壊した扉は、二〇五号室の入口の壁に立てかけてある。

 横井の亡骸は、他の犠牲者同様、ベッドの上に安置されている。――檜山と和泉と瑛梨が協力して持ち上げたものだった。

「この部屋も鍵が掛かっていた。横井は、十三時から発見された十三時四十分の間に頭を殴られ、血を抜かれた」

檜山は、ペンの尻で髭の薄い顎をつつきながら口の中で呟いた。

小夜も、先ほど自室から取って来た手帳に何事かを書き込み始めていた。

「密室と、アリバイ。二つの謎があるんだなあ」檜山は腕組みをして椅子にもたれかかった。「部屋に何か仕掛けはないか、もう一度調べてみるか」

 檜山は反動をつけて椅子から立ち上がった。

 横井の荷物が目に入った。何かしらを漁った跡があった。

 大方、一階にいる誰かが、横井の荷物に食糧が残っていないか確認したのだろう。ハイエナのような行為を咎めるつもりはなかった。みんな生きることに必死なのだ。

 気づけば、すぐ傍に小夜が来ていた。手帳は、ソファと対になっている丸テーブルの上に開いたままになっている。

「龍川さんも部屋を捜索するのか?」檜山が尋ねると、「はい」と鈴の音のような声が返って来た。

 まず、横井が倒れていたバスルームから調べることにする。換気口は堅く溶接してあり、開く気配がない。バスタブの淵に昇って奥まで覗いてみたが、めぼしいものは何もなかった。

 このコテージはトイレとバスが同室になっており、床は白いタイル張りである。そのタイルひとつひとつを指で押したり、こすったりしてみたものの、動きそうなものはない。バスタブの栓、そのチェーン、そして手洗い場の下の壁、便器の裏――全てを探ってみたものの、抜け道のようなものは一つとしてなかった。

「これで何もなければ、とんだ現場荒らしだな」

 檜山が自嘲気味に言った。彼は、手袋も何もせずにべたべたと犯行現場を探っている。指紋を調べられたら、そこここに山ほどの檜山の指紋が浮かび上がることだろう。

 しかし、警察が来るまで、自らの命の保証があるとは限らない。檜山はこれ以上の犠牲を出さないためにも、何かヒントを得ようと躍起になっていた。

 横井の頭があった部分は、白いタイルが赤黒く汚れていて、先ほどの惨劇を思い起こさせた。そのままバスルームから出て、右手に折れる。次は、部屋の扉を調べることにした。

 扉もまた、全室同じ造りのようで、木製のドアをサムターン錠で施錠できるようになっている。ノブは金属製の丸ノブである。横倒しに立てかけられているその板を丁寧にコンコン、と拳で叩いてみた。すると――、「あっ」ある一か所を叩いた瞬間、扉の下半分がペコリとお辞儀をした。

 ――隠し扉である。

 扉の中に、もう一つ小さな扉があったというわけだ。

 檜山と小夜は顔を見合わせた。

「犯人はここを使って出入りしたんだ。もしかしたら、入る際には横井に声を掛けてドアを開けてもらったかもしれないけど」

「でも、横井さんの頭の傷は後頭部についていたんですよね」

「ああ」

「ドアを開けてもらって、出会い頭に殴りかかったのなら……」

 小夜は、そこで言葉を止めてしまった。

「前頭部に傷があるんじゃないかってことだよな」

「はい」小夜はこくこくと頷いた。

「それはそうだと思う。ただ、ドアを横井に開けさせて、それから横井が逃げようと部屋の中へターンした瞬間に襲い掛かったとしたら」

 小夜が怯えたように、目を瞑った。

 檜山は「すまん」と顔の前で右手を立てる。

「そのケースの場合、傷は後頭部につくかなって。まあ、入る時にこの抜け穴を使ったか、横井に鍵を開けてもらったかは外部犯か、内部犯かの判断材料になると思うが、どちらの方法を取ったとしても時間的にはそう変わらないだろうな」

「内部犯か外部犯かの判断材料……というのは、外部犯――知らない人が尋ねてきても、横井さんはドアを開けないだろうから、ですか?」

「そう。ただ、入り口をノックして鍵を開けてもらうとなると、他の人物に声を聴かれる可能性が出てくるよな」

「他の人物、ですか?」

「例えば、世良が犯人の場合には、降谷さんに、ノックや会話の声を聴かれるリスクのことだ。逆の場合もまたしかりだ」

 二人は、一度部屋の奥にある文机と一人掛けのソファへと戻って、ここまでのことを書き連ねた。十五分ばかりそうしていただろうか。小夜のペンが止まったのを見計らって、檜山が背伸びをした。

「誰か見ていそうで落ち着かないですね」

 小夜は、二〇五号室の入口へと視線を向けた。

 ドアを破ったため、階段や廊下から丸見えになっていた。

「じゃあ、一度居間に戻るか」檜山が手帳をパタンと閉じて立ち上がった。

「そうですね。あまり、現場で過ごしているところを見られると、よくないかもしれないですからね」

「内部犯だったら……ってことか?」

 小夜は肯いた。

「まあ、そうだな……ああ、長いこと現場にいるのが気になるってんなら、その、俺の部屋を使ってもいいが……ええっと……」

 檜山は、ほんの少し気まずそうに目を逸らした。男女が二人きりで密室に籠ることを意識したらしい。

そう感づいた小夜は、慌てて両手を顔の前で振った。白い首筋がほんのり桜色に染まっている。

「ああ、大丈夫です大丈夫です。なんなら、私の部屋でも」

「いや、流石に女性の部屋には」

「でも、三階の檜山さんの部屋よりも、何かあったときに二階の私の部屋にいた方が逃げやすいです、きっと」

 小夜は流暢に言った。

「確かに、龍川さんの言う通りだな。龍川さんがそれでいいなら、だけど」

「構いません。檜山さんのことは信頼していますから」



17:00



 二人は黙々と各々のノートに向き合った。

 小夜が一人掛けのソファと丸テーブルを使い、檜山が備え付けの書き物机を使っている。

 小夜は檜山の字が好きだった。憧れる河西瑛介を目で追う中で、自然と最も仲の良い友人である檜山のことも目に入ることが多かった。

河西瑛介は、小夜の初恋の人にそっくりだった。去年の四月、入学式の日に山岳部のブースで河西を見たときの衝撃たるや。世の中に似ている人間は三人いると聞くが、まさにそうちの一人だと思った。

小夜は東北の小さな村出身であり、そこで共に育った年上の男性に淡い恋心を抱いていた。訳あって、彼とはもう一緒にはなれないが、今でも彼のことを敬愛している。自分が好きなのは彼で合って、河西瑛介ではないと頭ではわかっていても、気づけは山岳部の入部希望届に名前を記入していたし、気づけば一緒に山に登っていた。

 彼には、早見エメリという彼女がいた。どうやら、二人が付き合っていることは部内では内緒のようだったが、小夜は、――いや、河西瑛介を常に目で追っている小夜だからこそ、気づいていた。二人は愛し合っている、と……。

 昨年の十二月初旬、H岳で落石に遭い、小夜たち山岳部の七人は底の見えないクレバスの真上で宙づりになった。その日は農学部の実習と重なったとのことで、当該授業を受講している河西と檜山は登山に同行していなかった。

アンザイレンしていた七人のうち、エメリが一番下に吊り下がっていた。彼らを結ぶザイルは、想定以上の激しい落石に傷つき、今にも千切れそうであった。このままだと、全員が助からない。

 直上の横井を見上げたときだった。

「あっ」という誰かの声に、再び下を見ると、エメリと森内の間のザイルがぷつりと切れていた。エメリの遠ざかっていくエメリの身体と強張ったその表情。その顔は小夜の脳裏から消えず、何日も悪夢に悩まされた。

 あの時、あの瞬間、自分は何を感じ、考えたのだろう。

 小夜は自問自答する。

 空いた河西の隣。そのぽっかりと開いた穴を見て、小夜は何を感じているのだろう。

 死んだ人には勝てない……。

 彼の中で、増えることのない彼女の思い出は、どんどん美化されていくことだろう。



 がくんと上体が折れて、机で額を打つ。痛みに顔を顰めながら顔を上げた小夜の目の前に、心配そうに椅子ごと振り向いた檜山の顔があった。

「大丈夫か?」

 そう言って、目をきょとんとさせている。

「寝ていました……」

「疲れたんだろう。寝ていてもいいぞ」

 檜山は再び背を向けてノートにペンを走らせ始めた。彼なりの気遣いのつもりだろう。有難くその気遣いを受け入れて、小夜は少しだけ机に伏せることにした。



19:00



 コンコンコン……ノックの音で、小夜は目を覚ました。

 一瞬ここがどこだかわからなくなる。文机から上体を反らして真後ろに位置する扉を見遣る檜山の横顔を見て、ようやく自身の置かれている状況を思い出した。

 檜山は一瞬躊躇するような表情を見せた。小夜の方を一度窺う。小夜は肯いた。犯人かもしれない。そう思うと、掌がじわりと熱くなる気がした。

「誰だ?」外に向かって堅い声を出す檜山の緊張感に反して、外からは聞き慣れた声が間髪入れずに帰って来た。

「え、檜山くん? ここって小夜ちゃんの部屋でしょう? 二人で何してんのよ」

 扉一枚隔てているので多少くぐもってはいるが、間違いなく久美子の声だった。

 檜山は扉に身体を隠すようにして、慎重にノブを引く。

 久美子が不機嫌そうな顔で立っていた。その奥に瑛梨が控えている。

「横井くんの部屋を調べるとか言って出て行って戻ってこないから何してんのかと心配したのよ」

「ああ、悪かった。――和泉は?」と、そこに和泉の姿がないことに、檜山は首を傾げた。

「そう、そうなの。和泉くんがね、戻らないの」

「一緒じゃなかったのか?」

「トイレに行ったきり帰ってこないのよ。また具合でも悪くしたんじゃないかと思って探してみたんだけど」

「いないのか」

「一階の共用トイレにもいないし、お部屋にもいませんでした」瑛梨が心配そうに廊下を見回した。

「その帰りに横井くんの部屋にも寄ったけど、二人ともいないものだから。アタシびっくりしたわよ。まさか……ねえ」

 久美子が目を伏せ、にやりと笑う。

「妙なこと言うんじゃねぇよ」檜山は、穏やかにきっぱりと断りを入れた。「それより和泉がいないって方が心配だ」

「一応三階と二階はざっと探してみましたが、どこにも」瑛梨がため息交じりに答えた。

「外に行ってみるか。龍川さんも行こう」

 すぐ傍まできていた小夜を振り返ると、小夜は不安げに「はい」と頷いた。

小夜の部屋を出て、「あ」檜山が立ち止まった。一瞬躊躇を見せたが、一見してわかることだったので情報を開示することにする。「そうだ。横井の部屋の入口に抜け穴を見つけたんだ」

ちょうど小夜の二〇二号室から出たところで、二〇五号室が目に入ってくる。入口の扉は壊れているため、開けっ放しの隠し扉も丸見えになっていた。

瑛梨がこくこくと小刻みに顎を縦に引いた。

「さっき檜山さんたちを探しにきたときに世良さんと見つけて、びっくりしました。他の部屋にももしかしたら、こういった仕掛けがあるかもしれないですよね」瑛梨が隠し扉に視線を落として呟いた。「さすがに隠し扉は軍手じゃ防げないし、扉の前にバリケードでも作ればいいんでしょうか」

「扉以外に抜け道があったときに、バリケードがあると逃げ場がなくなるっていうリスクもあるから、一概には言えない」檜山が難しい顔をした。

「そうですね……もうどうしたらいいのか」瑛梨が片方の手を頬に当ててため息を吐いた。「各自一人になるときは注意した方がいいですね」

「自室にいても殺されるなんて、もう、どこにも安全な場所なんてないじゃないの」久美子が両手で身体を抱きしめ、身を震わせた。

「再三言うが、単独行動はしない方がいいな」



19:30



 体育館に入った瞬間、むわっと噎せ返るような血の匂いが鼻腔を刺した。

 檜山は懐中電灯を片手に、玄関とフロアを仕切ってある黄色の引き戸をスライドさせる。ドアは滑らかに開いた。

 その明かりがフロアをなぞった途端、「きゃあああ」甲高い久美子の悲鳴がその場を切り裂いた。

 和泉侑李の死体は、血にまみれてゆらゆらと揺れていた。

 ロープで胴体を縛られて、二階の柵から吊り下げられている。足元には夥しい量の血痕があった。

「和泉さん……! 降ろさなきゃ」小夜が呟いた。そして、二階への階段を探す。二階へ行くための唯一のルートである梯子は、二階で巻き取られたままになっていた。

「他に二階へ行く方法はないのか?」檜山は瑛梨に尋ねた。

「いえ……管理室に行けば、スイッチがあるんですけど、事故防止のためにフロア内にスイッチはないんです」

「管理人室はどこなの?」久美子のポニーテールが鞭のようにしなる。

「ここに」管理人室は、フロアから見て、ガラス張りのブースのようになっていた。「鍵が掛かっていて開かないようなっています」

 玄関側についたドアは金属製のもので、これはとても体当たりで壊せそうになかった。

「じゃあ、犯人はどうやって二階から降りたんだ」

 檜山は和泉の無残な亡骸を仰ぎ見ながら口の中で呟いた。

「『どのように』もそうですけれど、『いつ』『誰が』も謎ですよね。龍川さんと檜山さんが一緒にいて、私と世良さんは一緒にいたわけで。そんな中で和泉さんを殺すことができる人物っていないんじゃないですか?」瑛梨が、檜山の横顔に真剣なまなざしを向ける。

「……じゃあ、やっぱり、誰かこの島に潜んでいるのよ!」久美子が半狂乱に叫んだ。

 顔を手で覆ってすすり泣く久美子の肩を瑛梨がそっと抱いた。

「一旦コテージに戻りましょう。ここじゃあ寒いですし」



20:00



「もういや。殺人鬼が棲んでいる島だったのよ!」

 瑛梨に支えられるようにしてコテージ戻った久美子は、そのままソファに座り込んでさめざめと涙を流した。

「殺人鬼か……だいぶ島は探したけどな」檜山がすっかり日の暮れた外を見遣る。良く晴れていた前日に比べて、本土の明かりが少しぼやけているように感じられた。空気中の湿気が多いせいだろうと無理やり納得する。

「どこかに潜んでいたのよ。気づかなかったんだわ」久美子が、両手の奥、くぐもった声で咽び泣いた。

 瑛梨は久美子の隣でその背を抱く。傍に立った小夜も困ったような顔で心配そうに泣きじゃくる先輩を見つめていた。

 檜山はその向かいのソファに静かに腰を下ろすと、両の太ももに両肘をついて、手の甲に顎を乗せた。

「なあ、世良。頼むからボートと鍵のありかを教えてくれないか?」

「……嫌だって何度言ったらわかるの?」世良の手が外れ、泣きはらした顔があらわになる。涙で取れたマスカラが、黒い涙の川を作っていた。

「なんで嫌なんだ? このまま犯人と餓えに怯えて救助を待つほうが嫌じゃないのか」

「嫌よ。殺人鬼はこの中にいるかもしれないのよ。殺人鬼と二人で船に乗って本土まで行くと思うとおぞましいことだし、逆に殺人鬼と二人で島に残されるかもしれないと思うとそれも恐ろしいわよ」

「……だから、人数の多いうちに頼んでいたんだがな」檜山はいら立ちを隠すこともなく明後日の方向を向いた。視界の端に籤引きの紙片が映る。部屋割りの際に結局使われることのなかった、七枚の紙片が。

「終わったことを嘆いてもしょうがないじゃない!」久美子が見当はずれな反論を口にした。

「確かに」瑛梨が落ち着いた声を発した。「この中に犯人がいるとしたら、二人組にわかれるのは危険ですね。犯人じゃない二人で組めた方のグループはいいですけど、犯人と組んだ方は危険です」

「というより、こうなると全員で一か所に留まる方がいい。外部犯なら頭数は多いに越したことはないし、内部犯でも相互監視した方が安全だろう。横井の部屋に抜け穴があった以上は一人で部屋に閉じこもるのが安全だという保障もない」

「アタシは嫌よ」

「世良ぁ」檜山は頭をがしがしと掻いて、正面の久美子の双眸を鋭く見据えた。「頼むから。協力してくれよ。いったい何が気に入らないんだ?」

「何もかもよ! 誰も信用できないんだから、当然でしょう」

 久美子はやけになったように喚いきたてた。

「この中の一人が犯人だとしても、二人は犯人じゃないんですよ」瑛梨が、駄々っ子を宥める母親のような声を出した。

「もしも島に犯人が潜んでいないんだとしたら、あとは檜山くんと龍川さんの共犯説しかないじゃない」

久美子の言葉に、ぎょっとして、檜山と小夜は目を見合わせた。

「そうよ。それなら横井くんの事件にだって説明がつくわ。あなたたち、二人で狼煙の見張りをしていたっていうけれど、二人きりだったのなら、他のだれにも証明できないじゃない。二人で横井くんの部屋に行って彼を殺したのよ!」

「酷い……!」小夜が喉を絞るようにして呻いた。「私たち、そんなこと……」

「酷いのはあなたたちでしょう!」

「世良、落ち着けって」檜山がぴしゃりと諫める。

「どうして落ち着いていられるのよ。犯人だからじゃないの?」久美子はポニーテールを振り乱した。「二人で襲い掛かられたらかなわないわ」

「動機は何なんだよ。俺と龍川さんが、みんなを殺してまわる動機は」

「あの子の復讐とかじゃないの!」

「あの子?」

「早見エメリよ」

 その場の空気が一瞬で凍った。

 山鳩の声が遠くに聞こえる。ガサガサと木の葉の擦れる音、波の音、それら一通りが鼓膜を賑わし終わった頃、久美子が刺すような声で詰った。

「檜山くん、あなた、早見エメリと新種の薔薇の研究をしていたそうじゃない。彼女がいなくなって研究が頓挫でもしたんじゃないの?」

 空気が過冷却の水のように張り詰める。ほんの少しの衝撃でぴきぴきと凍り付いてしまいそうな緊張感だった。

「……復讐されるようなことをしたのか」檜山が無感情に問うた。

 その様子にカッと額を赤くした久美子が、その場で立ち上がった。自然と、彼女の肩を抱いていた瑛梨が弾き飛ばされる形になる。

「し、していないわよ! 失礼ね! でも、逆恨みってこともあるじゃない! 現に、あのH岳からアタシたちは帰ってきた、あの子は帰ってこなかった」

「それだと、龍川さんに動機はないじゃないか」

「知らないわよ!」久美子は真っ白になるほど握りしめた拳をその場で振り回した。「とにかく。アタシは部屋に戻るからね。降谷さんも、そうした方がいいと思うわよ」



21:00



結局、久美子が部屋に戻るのにつられるようにして、瑛梨も自室へと籠ってしまい、後には檜山と小夜の二人が残された。

机の上には、誰かが食べたのだろう、空になった菓子のパッケージがのこっていた。

「どうする? この場に残るか、それとも部屋に戻るか」檜山が肩を竦めた。

 小夜ははたと目を瞠ると、怯えるように眉を八の字に歪めた。

「一人はいやです。怖いです」

「俺もだ。幸いにも俺らは互いに互いが、横井の事件と和泉の事件の実行犯でないことを知っている。少しは安心できる相手じゃないか?」

「そうでなくても、怖くないです。檜山さんは」

 小夜の必死な様子に、よほど一人になることを恐れているのだろうと、檜山は落ち着かせるように「そうだな」と努めて優しく声を掛けた。

「俺も独りは怖いから、よかったら一緒にまた事件の整理をしようか」

「お願いします……」

小夜は消え入りそうな声でこくりとおかっぱ頭を揺らした。



 *



 小夜の割り当てられた二〇二号室に向かう途中、檜山の提案で乾が殺された二〇一号室を調べることになった。換気口に、毒ガスを注入する隙間がないかを調べるためである。

「本当に世良さんは、私たちが犯人だと思っているんでしょうか」

 換気扇の蓋をなんとか取り外せないか思考錯誤している檜山の背中に、小夜の不安げな声が刺さる。

檜山は、視線はそのままに声だけ後ろに返した。

「さあな。空腹や不安で気が立っているのもあるんだろう」

「そうだったらいいんですけど……」

 蓋は開かないし、換気扇の奥はフィルターがかかっていてチューブやホースを通す隙間がない。それを確認した檜山は、壁に手を当てたまま、バスタブの淵から慎重に降りた。

「本当はバラバラにならない方がいいんだがな」

「どうにか説得する方法はないんでしょうか」

「んー、まぁ、少なくとも世良は疑心暗鬼に陥っているからな。俺たちは俺たちにできることをしよう」

 と、檜山は胸ポケットから例の手帳を取り出して、ペンの蓋を開けた。さらさらと手帳にペン先を走らせる。

「付き合わせて悪かった」

「いえ。もういいんですか?」

「ああ、充分だ」

 言って檜山は倒れかけた二〇一号室の扉を置きなおして廊下へ出た。小夜もそれに続く。蝋燭の付け替えをする者のいなくなった廊下は、真の闇に包まれぽっかりと口を開けた巨人の口の中のようだった。

 小夜は逃げるように二〇二号室のドアの前へと走った。指先が震えて、鍵がうまく鍵穴へと入らない。と、檜山の右手が小夜の目の前に差し出された。小夜が首を捻ると、檜山は見たこともないようなやさしい顔をしていた。普段の仏頂面と柔和な面、どっちが彼の本当の顔なんだろう。小夜は場違いなことを考えながら、反射的に彼の手に鍵を渡した。

 檜山は落ち着いた手つきで鍵を捻ると、小夜を先に室内へと入れてくれた。小夜はとにかく闇と無音が怖かったので、遠慮することも忘れて中へと駆けこんだ。

 檜山はドアを閉める前に一度廊下をじっと見遣ってから、ドアを、それからサムターンを回して内側から鍵を閉めた。個室の鍵はシリンダー箱錠と呼ばれる種類のものだった。

それから二〇二号室の鍵に添えて、内ポケットから黄色い小さな箱を取り出すと、小夜の手に握らせた。エナジークッキーの箱だった。

小夜は驚いて顔を上げた。

「え、いいんですか?」

 檜山は肯いた。

「遠慮はいらないさ。今日はだいぶ付き合わせてしまったし」

「半分こしましょう。二本入りって書いてあります」

「俺は部屋に戻ればもう一つあるから。嫌いじゃなければ全部食べて」

「ありがとうございます……」

 小夜は俯いて唇を噛みしめた。檜山のことを、不愛想で少し怖い先輩だと思っていた自分の過去を今すぐ塗りつぶしてしまいたかった。彼は、この島に閉じ込められてからこちら、ひたすらに全員の安全と不安の解消を意識してくれている。

 もう一度目の前の長身を見上げたら、安心させるように小さく笑いかけてくれた。そういえば――檜山には、小夜と同じ年齢の双子の弟妹がいると聞いたことがある。小夜は一人っ子だったため、きょうだいというものを知らないが、兄がいたらこんな感じだったのかな……そう、小夜はこちらを向いた、引き締まった大きな背中を見つめた。

「明日、もう一度今日落ちた空き缶が浜辺に漂着しているか確かめに行こうか」

声に合わせて、淡い茶色の髪が揺れた。

こくりと頷いた後、慌てて小夜は口をぱくぱくさせた。

「……はい!」

 壁に向かって手帳にペンを走らせている檜山からは、小夜がいくら首を縦に振ったところで見えていないのだ。その背中を見ていたら、急に初恋の――四つ年上の彼のことを思い出した。

 もう会えないけれど、また会いたい人だった。そして、幼馴染の同級生、白峰瑞樹。彼は同じ年齢だったけれど、引っ込み思案で内気な小夜のことをいつも気に掛けてくれていた。去年の夏の悲しい出来事の後も、自分も傷ついたはずなのに、ずっと小夜のことを気にして定期的に電話をかけてくれたり、会いに来てくれたりしていた。



23:00



 背中の向こうで小夜の小さな寝息が聞こえてくる。

檜山はベッドから毛布を拾ってきて彼女の背にかけた。小夜は小さく身じろぎをしたが、再び呼吸は規則正しいものにかわる。――無理もない。こんな極限状態に追いやられているのだ。仲間ですら信じてはいけないような気の抜けない状況である。寧ろ、その意味では、少なくとも小夜だけは横井殺しと和泉殺しの実行犯ではないということが判明している自らは、マシなほうかもしれない。世良と瑛梨は大丈夫だろうか。

しかし――森内剛、鷹野社長、乾拓也、横井行基、和泉侑李――。

彼らはなぜ命を落とさねばならなかったのだろう。共通点は何なのか。いったい誰が。

檜山はこっそりと深い息を吐いた。目の前には、自らの字で埋め尽くされた手帳がある。まるでダイイング・メッセージじゃないか。――そういう考えがふっと浮かんで、慌てて掻き消した。縁起でもない。まだ、やるべきことはある。親より先に死ぬなどという、親不孝をするわけにもいかない。

檜山は新しい頁を捲った。それから、頭の中を時系列順に整理してみる。

 森内殺しについては、事前に犯人がドアノブに仕掛けをしておいたものだろう。その仕掛けに引っかかったのが森内だった。そう考えるのが、現段階では最も無理がない。

鷹野殺しのアリバイトリックと方法は――おそらく――わかったが、動機が不明である。こちらは森内殺しのときとは違って、無作為に鷹野を殺してしまったというわけではあるまい。明確に鷹野を狙ったものである。

次に乾殺しについてだ。朝起きてこなかった乾の部屋を全員で訪れた。部屋の鍵は掛かったままになっており、ドアの下に隙間はない。ユニットバスについている換気扇は部屋ごとに独立しており、蓋もしっかり固定されていた。窓もハンドル式の鍵は堅く、縦滑り出し窓は、数センチ以上は開かない造りである。こちらは、夜間の犯行であったため、Whenという観点からは誰にでも犯行が可能だが、Howという観点で行き詰ってしまった。

それから、横井殺しである。この件に関しては、龍川小夜が実行犯でないことが明らかになっていた。横井は、檜山たち二人が狼煙の番をしていた十三時から十三時四十分までの間に、彼の割り当てられた二〇五号室で殺されていた。鍵は閉まっていたが、ドアの下半分に鍵のついていない小さな出入口があった。凶器については発見されていないが、鈍器で右後頭部を殴られ、右の首筋と右腕から血液を抜かれて死んでいた。床には数滴の血痕があった。

 和泉殺しについては、その後、檜山と小夜、瑛梨と久美子の二グループに分かれている間に起きた。檜山と小夜は当然ながら、瑛梨と久美子が共犯である可能性を除けば、犯行可能な人物が一行の中にはいないということになる。彼は体育館の二階の柵からロープで吊るされていた。死体には近づいていないため、直接の死因は定かでなかったが、床に夥しい量の血痕があったこと、また和泉の遺体が紅く染まっていたことから、なんらかの刃物で動脈を切られたものと思われた。

 窓の外を見遣る。小夜に割り当てられた二〇二号室は、今はカーテンが閉められている。蝋燭の明かりに照らされて、自らと小夜の影が壁一面にゆらゆらと不気味に揺れていた。目が痛い……。檜山は、ペンを握っていない左手で目をこすった。光量が少ないため、どうしても目が疲れやすくなる。

 立ち上がって、思い切り背を伸ばしてみた。首がぽきっと渇いた音を立てる。部屋をぐるりと一周歩きがてら、なんとなしにカーテンを開けて外を眺めてみた。右の端、――西の方角、遠くに薄ぼんやりと本土の明かりが見える気がする。一見すぐそこに見えるのに、果てしなく遠い。檜山はカーテンを閉めた。

夜はまだ長い。