目次

 プロローグ



 第一幕 第一章 5月1日

     第二章 5月2日

     第三章 5月3日



 第二幕 第一章 5月4日



 エピローグ







プロローグ



 *



 十二月十四日、I県H岳に入山した大学生のグループ七人が落石・滑落事故に遭い、うち女子部員一人(二一)が行方不明になっている。七人が事故に遭ったのは、H岳七合目付近である。H署によると、行方不明になった女子部員は、ザイルで宙づりになった際に一番下にいたとのことであった。荷重に耐えきれなくなって全員が滑落する前に自らザイルを切ったとのことである。

 仮に、生還した六人が、自らの命を守るために行方不明になった学生と六人との間のザイルを切ったとしても、この場合は『緊急避難』となり罪に問われない可能性がある。……(週刊 アフタヌーンマダム一月号より)



 *





第一幕



おもな登場人物

森内 剛(二二) F大学経済学部経済学科 四回生

横井 行基ゆきもと(二一) F大学工学部電気工学科 四回生

世良 久美子(二一) F大学経済学部経済学科 四回生

乾 拓也(二一) F大学経済学部経済学科 三回生

檜山 司(二一) F大学農学部植物化学科 四回生

和泉 侑李(一九) F大学医学部医学科 二回生

龍川 小夜(一九) F大学医学部看護学科 二回生



早見 エメリ(享年二一)F大学農学部植物化学科 当時三回生



鷹野 八郎(五〇)鷹野旅行代理店の店長

降谷 瑛梨(一九)鷹野旅行代理店のスタッフ





第一章5月1日



 13:30



「だいぶ島が大きく見えてきたね」

 東北地方、太平洋に面した小さな漁村を出発して、そろそろ二十分が経つだろうか。

空は快晴。心地よい海風に靡くジャケットの襟を正しながら、横井行基は頬を持ち上げた。身長は平均よりも高く、茶色の髪をラフなモップ・トップに整えている。一重瞼の切れ長の目には、断崖に囲まれた上に黒々とした木々の乗っかった、巨大なマイタケのような島の影が映っている。

「案外早く着くもんだな」

学生が持つにしては高級そうな腕時計に目を遣りながら、森内剛は太い眉の下の目を細めた。ダイヤが埋め込まれた針は十三時三十分を示している。その銀色をひとしきり視線で愛でた後、彼は顔を上げて船内をぐるりと見回した。

小さな漁船である。甲板の上にコの字型に設えられた椅子に腰かけた面々が、思い思いに周囲に視線を向けていた。木箱を逆さにして並べたような簡素な椅子の上に、十名がやっと乗れるくらいの船だった。世良久美子などは、「ストッキングが伝線する」などと愚痴を零していたが、乾拓也に宥められて、今は大人しく腰を落ち着けていた。

しかしそれでも、「髪がべたべたする。磯臭くなるわ」久美子は勝気そうな眉を顰めて、派手なルージュを引いた唇尖らせた。

 船が海風を切って進むのに合わせて揺れる、緩いウェーブのかかった長い髪をかき上げながら、なおもご機嫌斜めな様子の久美子に、隣に腰かけた男から声が挙がる。

「コテージについたらシャワーがありますよ、きっと」

 乾拓也が、両手を胸の前におろおろ差し出しながら、困ったように笑った。彼は、いつも同じ大学、同じ学科の一学年上である森内や、久美子の機嫌を窺ってばかりいる。銀縁の眼鏡に中肉小柄、運動ができなさそうなインドア系のステレオタイプのような見た目をしている男だ。

 乾から見て、久美子を挟んで向こう側に座るのが和泉侑李である。栗色の髪に白い肌、くりくりとした二重の目、小動物のような可憐な顔をしているが、こちらもれっきとした男である。

和泉は久美子から眠たげな視線を外すと、逆隣の長身に声を掛けた。

「どうしたんです、檜山さん、さっきから黙り込んで。船酔いでもしたんですかぁ?」

愛らしいテノールを受け、思いつめたように両足の間を見つめる長身が視線をあげた。

「あ……いや」檜山は眼光を緩めた。「ちょっと考え事をしていただけだ」

「それならいいですけど」

 和泉が気遣うように口元を緩める。淡い色をしたストレートの髪の毛先が耳の上でさらりと揺れた。

それに応えるように檜山も首を竦める。

 檜山司は高校時代バスケット部で全国大会ベスト四まで進んだ経験を持つ。それだけでなく、名門と言われるF大学農学部植物化学科に現役合格する、文武両道を兼ね備えた人物だった。さらに、少し強面ながらも整った顔立ちをしており、高校時代に小さい記事ながらバスケット雑誌に載ったことも相まって、学内、学外問わずファンの女子生徒も多かった。淡い色をした柔らかな髪も彼にかかればお洒落なパーマに見えてくるから不思議なものである。

 じっと上から下までを見回す和泉の視線を知ってか知らずか、檜山は再び視線を宙に浮かべると思考の世界に戻ってしまった。

そんな様子の檜山にも構うことなく、和泉はずいと身体ごと彼の方へ近づけた。船が小さく揺れる。

「河西さんが来られなくて残念ですね」

 和泉の口から出た名前に、檜山の横顔がぴくりと反応した。

 図星だ、と和泉は心の中で小さく拳を握りしめた。彼の考え事の中身は、同じ山岳部仲間の河西瑛介と、その恋人――だった、あの女性のことだろう。

話に出た河西――河西瑛介とは、檜山と同じF大学農学部植物化学科の四年生である。今回の旅行には、都合がつかず、参加が適わなかった。

 その話が耳に届いたのだろう、檜山の隣に座ったおかっぱ頭の小柄な女子もつられて俯く。彼女は姓名を龍川小夜と言った。和泉と同じく、来春には成人式を迎える年齢なのだが、どう見ても高校生くらいにしか見えない。

 船上の客席に腰を下ろす七人と河西瑛介は、F大学の山岳部仲間であった。

「あと五分もすれば着きますよ」

 船頭の鷹野が穏やかな声をあげた。天然の縮毛を海風にたなびかせた、五十絡みの男である。今回山岳部が利用した旅行代理店の添乗員である彼は、器用に船を操りながら、顎の無精ひげを掻いた。

つられて一同示し合わせたように、進行方向に目を向ける。島影はかなり大きさを増しており、先に突き出した桟橋が肉眼でも見えるそうしたところで、突然エンジン音が消えた。

鷹野が目じりに小鳥の足跡を刻まれた目で船上をなぞった。

「ここから先は、潮の流れの関係で放っておいても島に流れ着くんですよ。エンジンを切ってもね」

「エンジンを切っても?」横井が切れ長の目を丸くする。

狙い通りの反応に気分を良くしたのか、鷹野は白い丈夫そうな歯を見せて笑った。

「ええ。ここらは風や潮の流れが、常に島の方に向かって吹いていますからね。小舟を浮かべてみたらわかると思いますよ。釣りをしても浮きが戻ってきますし」

「へえ、面白い」横井も白い歯を見せた。

「ただ、ゴミも一緒に海岸に流れ着くのと、離陸するときに押し戻されそうになるのが悩みどころです」そう苦笑して鷹野はごま塩髭の生えた頬を掻いた。

 そうする間にも島影はどんどん大きくなってきて、桟橋の根元から広がる狭い砂浜が見えてきた。



 *



 崖に囲まれた島だった。東に位置する砂浜を除いて、三方向が大きく切り立った崖に囲まれている。崖の高さは、ビル十階分くらいはあるだろうか。岩石と砂礫とでできた山肌をむき出しにしている。その下には、ごつごつとした岩が乱立しており、絶え間なく波しぶきが上がっていた。崖を垂直に辿って上に目を転じてみれば巨大なブロッコリー群のような黒々とした木々が見える。一行が今日から二泊三日する予定になっているコテージの姿は、海上からは見えないようだった。高い木々に囲まれた中にあるのだろう。

 一行――F大学山岳部は、この『雪女島ゆきめじま』のコテージで、二泊三日を過ごすこととなっていた。四回生の卒業旅行である。時期は毎年五月か六月が多かった。七月になると、大学の前期試験と重なることが多く、八月になると夏休みの帰省で各人の都合がつきにくい。九月、十月になると、今度は翌年の春にかけて三年生の就職活動が本格的に始まる。逆に三月四月は、場合によっては新四年生の中で内定が取れていない人もいる。よって、五月というのが最も卒業旅行に適した時期なのである。

 今年の四年生は皆一様に、一社以上の内定を取っていたため、就職という面では旅行に参加できる状況にあったのだが、うち一人、河西瑛介だけは都合で今回は見合わせとなった。

彼と同じ大学、学部、研究室に所属する檜山司などは、もしかしたら寂しかったりするのかな、などと目の前の整った横顔を上目で見つめながら、和泉は顔にかかる横髪を人差し指で丁寧に払う。否、単独行動のできない誰かさんじゃあるまいし――と、和泉は乾の銀縁眼鏡を横目で見遣り――、檜山に限ってそれはないなと、浮かんだ傍から思考を打ち消した。檜山は、どちらかというと一匹狼気質だろう。ただ、彼の人並みならぬ魅力から、周囲が彼を放っておかないだけで。

 和泉はこっそりその向こうにやや緊張した面持ちで身を小さくするおかっぱ頭――龍川小夜に目を転じた。和泉自身、自他ともに認める童顔であったが、彼女はそれよりも輪をかけて幼い。

 それだけでなく、小夜といえば、声は小さいし、常に何かに怯えたように一歩後ろで佇んでいるし、相手から声を掛けられない限り自発的に誰かと話している光景を見たことがない。医学科と看護学科で学科は違うものの、和泉と同じ学部ではあるため、一般教養の授業で一緒になることもある。そんな時でも、教室の隅でひっそりと授業を受けている姿ばかりが目に入っていた。こんなふうで、将来看護婦になれるのだろうか。和泉は、相変わらず力の入った両腕をまっすぐに両腿にのせているおかっぱ頭を横目でちらりと見て、それからもう目と鼻の先まで近づいた桟橋へと視線を動かした。



14:00



 森内に続いて、横井は桟橋に足を掛けた。

 船の不規則な揺れに身体が慣れてしまったのか、不思議なことに揺れていないはずの桟橋がゆらゆらと揺れているように感じた。

 初夏の陽気に照らされた桟橋は、断続的な波しぶきを受けているにも関わらず、水たまりなどはなかった。そのまま視線を前に移すと、自身よりほんの少し低い位置で森内の頭が、歩調に合わせて揺れている。黒い直毛を短くスポーツ刈りにした頭は、この日差しで地肌までが透けて見えるようだった。

『雪女島』は、F県F村A地区から太平洋沖に向けて十一キロの場所に存在する個人所有の孤島だった。コテージのほかに、バスケットコートがちょうど一面取れる大きさの体育館と、その奥に小さなひょうたん型のプールが隣接している。

この島は、かつて――第二次世界大戦中に、生物化学研究のために整備された島だった。その後終戦を境に放置されていたが、或る時、地元の資産家によって買い取られることになった。資産家の名を井之上重太郎という。その井之上が、バブル期にリゾート地として、島を整備しなおしたものの、バブル崩壊とともに客足が途絶え倒産、そのまま野ざらしにされていた。不幸は重なるもので、二年ほど前に井之上重太郎は脳溢血で倒れた。その際、身寄りのなかった井之上は、孤島及びコテージの管理一切を古くからの友人である鷹野八郎に委ねたのである。

 そこで、元々船舶を利用した小さな旅行代理店を経営していた鷹野は、『船で行く、太平洋リゾートツアー』と冠をつけて、二泊三日のツアーパックを作ったのだった。それを今回利用したのが、F大学山岳部の一行である。

「コテージはこの山道を登った上にあります」

 先頭の鷹野が日に焼けた、節くれだった手で前方を示した。山肌をつづら折りに縫うように丸太を並べた階段が続いている。頂上まで昇るには走っても十分近くかかるだろうか。

横井は首を捻って後方を確認した。ちゃんと全員揃っているか、そういう部分を確認するのは小さいころからの性分だろう。組織の長タイプではないが、副部長、副委員長など補佐役には嫌と言う程縁があった。首を伸ばして確認すれば、ちょうど最後に下船した降谷瑛梨が船を丁寧に係留するところだった。瑛梨は、鷹野旅行代理店のスタッフである。

桟橋の上に無造作に置かれた瑛梨の荷物を、檜山が拾い上げる姿が、横井の目に入った。

いきなり消えた私物に顔を上げた瑛梨が、事態を察して「わ、すみません」と目を丸くしている。ハスキーな声は海風の中でもよく通った。濃い茶色のショートカットをひょこりと揺らして慌てる瑛梨に「波しぶきが。濡れてしまっているので」と、ぶっきらぼうに檜山が言った。

「でも」客に荷物を持ってもらうこと抵抗を覚えたのだろう。瑛梨が眉を八の字に寄せた。

「じゃあ、船を結ぶ間だけでも」檜山は瑛梨の手に握られた、係留用のロープを目で指し示した。そして返事を待つことなく、長い脚で桟橋を渡っていった。

 そうしたところで、山側へ歩いてきた檜山と横井の目が合った。慌てて横井は、くるりと海に背を向けて例の木の階段の埋め込まれた斜面へと向き直る。靴の裏は、いつの間にか湿気を含んだ木の床から、古い石造りのものへと変わっていた。

 一同列をなして、山肌をつづら折りに登っていく。二合目あたりで、瑛梨と檜山が合流した。丸太でできた階段を昇ることに気を取られていたせいで、横井は気づかなかったが、檜山はあのまま瑛梨を待っていたらしい。

檜山といえば、大学では女性からひっきりなしに言い寄られこそしていたが、恋人のうわさなど聞かなかった。だから、横井はてっきり、檜山は女性に興味がないのかと思っていたが、案外そうではないのかもしれない。

よく見ると、瑛梨は整った顔をしていた。機能性重視のジャンパーに、地味な黒ズボン、スニーカーという服装であっても、元の顔立ちの良さがよくわかる。身長は百六十センチに満たないくらいだろうか。体格はほっそりとしていて丸みは感じない。まるで第二次性徴を迎える前の、中学生の運動部の女子のような体型をしていた。

それらを眼下に仰ぎながら、横井はみたび立ちはだかる砦へと視線を戻した。



 14:30



「えー、この度は『太平洋リゾートツアー』をご利用いただきありがとうございます。今から当コテージ並びに、当ツアーにつきまして、少々ご説明を申し上げます」

 左手に抱えた鼠色のバインダーに視線を落とした鷹野が、目を細めて文面を読み上げた。

一同は、荷物を持ったまま、コテージ一階の居間のソファに、めいめい腰を掛けていた。

客たちのそのような様子をぐるりと一望して、鷹野は続けた。

「まず、このコテージは三階建てです。部屋は一階に居間、食堂、シャワー室とトイレがございます。ユニットバスとトイレは各客室にもあり、シャワーは二十四時間いつでも使用することができます。二階と三階は同じ造りになっておりまして、それぞれ客室が五部屋ずつございます。なお、客室の窓は転落防止のため、縦滑り出し窓が三センチ以上は開かないようになっております。また、当館は電話機用を除いて電気が通っていないため電球の類がなく、明かりは全てキャンドルライトになっておりますので、予めご了承ください。蝋燭やマッチの予備は書き物机の引き出しにございます。火の元にはくれぐれもご注意ください。部屋割りにつきましてはこちらでは決めておりませんので、お客様のご自由にお使いください。わたくしは一階の管理人室を、随行スタッフは余った客室を使わせていただきます。鍵は――」と、鷹野は、バインダーから視線をあげて瑛梨を見遣った。「随行スタッフが持っておりますので、後程お受け取りください。なお、合鍵はございませんので、くれぐれもなくされぬようお願いいたします」

「部屋は籤引きにしようぜ」横目に横井を見ながら、森内がにやりと笑った。

「ああ。楽しそうだ」横井も口の端を持ち上げて頷く。

 和泉と乾がそれぞれ視線を彼らに向けた。やがて、客たちの会話が途切れたことを確認して、鷹野が満足げに頷いた。

「部屋割りは後程ごゆっくり。旅の醍醐味ですからな。次に食事についてですが、朝食は朝八時、昼食は正午、夕食は夜八時となります。これから私は管理人室で作業をいたしますので、何かあればお声掛けください。では、瑛梨くん、皆さんにお茶とお部屋のご案内をよろしくね」

 鷹野の視線を受けて、瑛梨が「はい」と短く応えた。

それに、やまびこのようにひとつ頷きを返すと、鷹野は「それでは、失礼します」と、居間の扉の向こうに消えていった。ほんの少し空気が緩んだのがわかる。一拍を置いて、森内がさっそくはしゃいだ声を挙げた。

「部屋割りは籤引きな」

「ああいいよ」と横井が涼しい笑顔を返す。

「名案ですね、流石森内さん」と、乾が続いた。

「お前籤作れ」森内の命令に、乾が「あの……紙とペンがないです」と弱弱しい声を上げた。

「なんだよ! 気が利かねぇな! 紙とペンくらい持ってこいよなぁ」

「わぁ、すみませぇん」森内の肘を喰らいながら、乾は声を裏返して頭を下げた。銀縁の眼鏡がずるりとずれ落ちる。

そんな中、「あ、あの手帳のフリースペースでよければありますよ。カバンの奥のほうにあるので少し待っていただければ」小夜が小さく手を挙げた。

 それらをぐるりと見回して、瑛梨が色素の薄い目を細めて言った。

「では、私はお茶を用意してまいります。皆さまコーヒーでよろしいでしょうか」

 その声に、連鎖するように各々、顔を見遣る。

「それじゃあ、みんなコーヒーをもらおうかな」横井が場の空気をまとめた。

「かしこまりました。それではしばらくお待ちくださいね。コテージは貸し切りですので、特に立ち入り禁止の部屋はございません。ご自由にご利用ください」

瑛梨は愛想よくそう言うと、薄い体をリビングの扉から滑らせた。



14:40



「見て、ピアノよ。グランドピアノ」久美子が黄色い声を挙げた。それから仰々しく小走りに駆け寄ると、艶やかな動作で椅子に腰かけた。「これ、弾いてもいいのかしら」

「聴かせてくれるの?」

 ピアノの上面に片手をついた横井が眉を持ち上げる。

「でも、こういう施設のピアノって装飾が目的で、演奏は禁止されていることも多いわ」

 久美子が眉を八の字にした。

「後で瑛梨さんに訊いてみようか」横井が柔らかく微笑んだ。「せっかく世良さんのピアノが聴ける機会だものね」

「まあ、お上手」

 久美子の艶やかなルージュが、勝気に弧を描く。

その向こう側では、出窓に向かって立つ檜山の後ろ姿があった。そこから南方向に視線を転ずれば、バルコニーで煙草を吹かす森内と乾の姿がある。和泉と小夜の姿はなかった。



 14:50



 やがて、人数分のコーヒーと茶菓子を盆に載せた瑛梨がリビングに戻って来た。気配を察したそれぞれが、自然とソファへと集まってくる。

「瑛梨さんは、これからまだ何か仕事があるの?」横井がカップを一脚手に取り尋ねた。

「夕食の準備までは自由時間です。鷹野さんからの呼び出しがあるので、それまでは」

「じゃあ、一緒にお茶にしようよ」

「そうだな」森内がニカリと丈夫そうな歯を見せて笑った。

すかさず、小夜が腰を浮かして場所をあける。手元には籤引き用と思しき紙片がいくつか畳まれていた。

「よろしいのでしょうか」

 盆を胸の前に、瑛梨は上目遣いに窺った。

一瞬久美子は頬を引きつらせると、「もちろんよ」無理やり作った笑顔を貼り付けて頷いた。

「それでは……」

 控えめな笑顔を浮かべて、瑛梨は小夜の隣のスペースにそろそろと腰を下ろした。

「瑛梨ちゃん、苗字はなんていうの?」森内が四角い顎をカップから上げる。

 瑛梨も勧められるままに、予備のカップを表へ返した。すかさず小夜がコーヒーを注ぎ入れるのに目礼を返して、森内へと視線を向ける。

「降谷です。雨が降るのフルに、タニです」

「降谷瑛梨ちゃん、か。歳は?」

「十九です」

「お! 俺らと同世代じゃん」森内は嬉しそうに笑った。

 乾が大仰に同調する。そんな中で、檜山は相変わらず心の読めない表情で淡々とカップに口をつけ、久美子は引き攣ったような笑顔を張り付けていた。

「アルバイト? 大学はどこ?」

「大学は、その、行かずに。働いています」

「へえ、実家住まい?」

「いえ、実家は九州で。早く自立したくて」

「へえ」森内は上機嫌で、一度ソファに深く腰掛け、再び前のめりになった。「エリって、名前はどんな漢字を書くんだ?」

「瑛梨のエは、王偏に英語の英で、リは山梨県の梨です」瑛梨は宙をなぞった。

「へえ、それで瑛梨ちゃんなんだ」と横井は白い歯を見せた。

「瑛介と一緒だな」と森内が、唐突に檜山に投げかけた。

 檜山は面食らったように一瞬目を大きくして、「そうだな」と小さく答えた。

「エイスケ?」

 瑛梨が首を傾げるのに、森内が豪快に頷いて四角い口を開いた。

「そうそう。俺たちF大の山岳部の仲間なんだけどさ。本当はもう一人、河西瑛介って奴がいるんだよ。だけど、まあ少しワケありでな。今回は一緒には来られなかったんだよ。な、檜山」

 檜山はなんで俺に話を振るんだ、とばかりに、冷めた目を森内に向けた。瑛梨は少し驚いたように目をぱちくりさせた。

そんな瑛梨の反応を受けて森内は顔の前で右手を振った。

「ああ、気にしなくていいぜ。檜山のやつ、普段瑛介と仲良いからさ。今回拗ねてんだ。な? 檜山」

「そうじゃねぇことは、わかってんだろ」檜山が地を這うような声を出した。先ほど、瑛梨の荷物を地面から拾い上げたときとは別人のようだった。

 一同の顔が凍り付く。

檜山は、気にせずそっぽを向いた。「本来、旅行なんかしている場合じゃないんだ」と、ぼそりと呟く。

誰かの喉がごくりと鳴る音がした。

森内の日に焼けた額が紅く染まり、眦がキッと吊り上がる。

「じゃあお前も来なけりゃあ良かっただろ。こんなところまで来てうだうだ言ってんじゃねぇよ。せっかくみんなで盛り上がってんのによォ」

「お前らだけで旅行なんか行かせたら、また、何かあるかもしれねぇだろ」ふっと力を抜くように檜山が口元を緩めた。

「てめェ……」森内の額に青筋が浮いた。

「さ。君たち、その辺にしとかないかい?」横井がピシャリとその場をおさめた。「レディが怖がっているよ」

「そ、そうですよォ。檜山さんも、落ち着いてください。せ、せっかく旅行に来ているんですし、今はあのことは忘れましょう」

乾もおろおろと腰を浮かした。銀縁眼鏡がするりと低い鼻の頭にずり落ちた。

「そうだ。乾の言うとおりだ。辛気臭ぇツラしてんじゃねぇよ、檜山。人生楽しんだモン勝ちだぜ?」森内は、くつくつと喉を鳴らして嗤った。「瑛梨ちゃん、気まずい思いさせてごめんなァ」

「いえ……」瑛梨は強張った表情のまま、笑みを貼り付けた。

「あーあ。アタシ、シャワー室を見に行ってくるわね」

白けたように、久美子が音を立ててソファから立ち上がる。

「あ? 客室にもユニットバスがついているんじゃなかったか?」

先ほどの鷹野の説明を示唆する森内に、「見てみたいのよ。綺麗な方を使いたいじゃない」久美子はツンと顎を上げた。

「なるほど。お供は……流石に必要ないね」隣で聞いていた横井が、肩を竦めた。

 久美子は、しゃなりしゃなりと妖艶に腰を振って扉から出て行った。

 そんなやり取りの中でも、檜山は何か考え込むように膝の上で組んだ指を見つめ、そんな檜山を隣に腰かけた小夜が時折気がかりそうに横目で見ていた。



 15:30



 ほとんどのコーヒーカップの底が見えた頃には、三々五々、散り散りになっていた。

「鷹野さん遅いな……」

全員分のカップを銀色の丸盆に載せた瑛梨が口の中で呟いた。左手首の腕時計を気にしながら、リビングの扉の方をちらちらと見遣る。

「一人で料理を始めているなんてことはないのかい?」横井が首を傾げた。

「いえ、いつも鷹野さんの方から声を掛けてくれるんです。鷹野さん、管理人室で事務作業をしているときに声を掛けられるのが好きじゃないみたいで」

「じゃあ、まだ事務作業をしているのかな」

「うーん……それにしても遅いですよね。私、厨房を見てきます。みなさんお寛ぎの時間にお邪魔しました。お喋りできて楽しかったです」

 ぺこりと頭を下げて瑛梨はばたばたと部屋を出て行った。横井が「またね」と手をひらひらさせる。

しかし、数分もしないうちに再びドアが開き、瑛梨が顔を出した。その眉は困ったように八の字に下がっている。

 横井が「どうかしたの」と席を立った。ソファに深々と腰かけた和泉が、視線でそれを追う。

「いえ、鷹野さん、どこにもいなくて。入れ違いになったのかなって」

「鷹野さんがいない?」横井が首を傾げた。

「ええ」瑛梨は肯いた。「厨房と管理人室と食堂だけしか、まだ確認してきていないですけど、鷹野さんが客室に行く用事はないでしょうし……」

「一緒に上のフロアを探してみようか」横井が一重の目を愛想よく丸くし、唇の端を持ち上げた。

「いいんですか? 申し訳ありません」

「いいのいいの。ちょうど、館内を探索してみたいなって思っていたところだったし」

「森内さん、どうします?」乾が、ちょうど灰皿の前から戻って来た森内の顔色を窺いながら訊いた。

「楽しそうだし行くか」森内が下卑た笑みを浮かべながら、顎を擦る。

横井が、そんな彼らの頭越しに、「君たちはどうする?」と、ソファへ投げた。

「俺はここで待っとく。入れ違いで鷹野さんが戻ってきたら報せに行く」

「僕もここで待ちますよ」

 檜山と和泉に続いて、視線を集めた小夜が慌てて頬を上気させた。

「わ、私も……ここにいます」

「世良はまだシャワー室見物から戻ってないみてぇだから、戻ってきたら伝えといてくれ」

 視線で命令する森内に、檜山は「わかった」と、返して再び物思いに耽った。







「みなさん部屋割りはもう決まったんですか?」

 瑛梨は隣の、赤鬼のような森内の四角い顔を仰ぎ見た。

「ああ、とりあえず世良が戻ってからだな。なんだかんだでタイミング逃しちまってよぉ。あいつがいないところで決めたらうるせぇからな」と、口の片方を持ち上げてにやける森内に、瑛梨は曖昧な笑みを返した。

「では、鍵は森内さんに全てお預けしますね。余った三部屋分の鍵を――そうですね、夕食頃までに返していただければ。私がそのうちのひと部屋を使わせていただきますので」

「オーケイ、任せろ」森内はまんざらでもない顔で、十本の鍵を受け取った。

「今は各部屋とも鍵が開いた状態になっておりますので」

「ああ。ありがとう」

「なかなか洒落たレトロなコテージだよねえ」横井が鼻歌交じりに左右を見回した。「これは客室も楽しみだ」

 階段は蛇腹のように、踊り場を中央に折れ曲がっている。踊り場は、各階の間に一つ存在した。手すりは、ニスの効いた木製のもので、天井に電飾はない。光源は壁に灯ったキャンドルライトだけだった。今は昼間だからそう気にならないが、夜になれば影がゆらめいてなかなか趣のある雰囲気になるだろう。

「向かって右の部屋から反時計回りに二〇一号室、右手奥が二〇二号室、その左の突き当りが二〇三号室、その左、左手奥が二〇四号室、そしてその手前の左手の部屋が二〇五号室でございます。三階は百の位が『三』に代わるだけで、同じ造りです」

 瑛梨が掌でそれぞれの部屋を指し示した。

 森内はまず、向かって左手の部屋のドアに手を掛けた。ノブは丸く、黒ずんだ金色をしていた。

 換気のために少し窓を開けていたようで、通り道ができたことで風がびゅうと吹いた。

「なかなか広い部屋だな」森内はきょろきょろと見回しながら中へ入った。

 天井には同じく電飾はなく、壁に二つと文机の上に一つキャンドルライトがあるだけである。

「キャンドル、マッチともに文机の引き出しの中にございます。予備は十分にございますので、おそらく足りなくなることはないと思いますが、もし足りなくなった場合にはお申し付けくださいね」

 ベッドはフランスベッドで、スプリングのきいた広いものだった。一人掛けのソファが一つと、文机の前に椅子が一脚ある。

 ドアに向かって右側にユニットバスがあった。タイルは白色、居室の地面はクリーム色の絨毯が敷いてある。

「鷹野さんいねーな」森内は呟いて二〇五号室の扉を閉めた。

 続いて二〇四号室のドアノブに手を掛けた。そして、時計回りにまわした。

 その瞬間だった。

「あ、イッテ!」

 森内は飛び上がって手を引いた。次の瞬間――。

「がっ」森内がビクリと身体を反らした。そのまま、ドア脇の壁に頭突きして、うつ伏せに倒れた。

「え、どうした、森内」横井がすかさず駆け寄った。

「え、何? どうしたんですかぁ?」乾が声を裏返して後ずさった。

 瑛梨は目を見開いたまま、愕然と立ち尽くしている。

「があっ」森内は喉を掻きむしりながら、もんどりうってその場に裏返った。陸に打ち上げられた魚のように激しく身体を痙攣させている。

「ええ、瑛梨ちゃん、救急車だ」横井が叫んだ。

「き、救急車ですね」瑛梨は慌てて一階へと駆け下りていった。

その足音を背に、横井は森内をどうにか横向きに寝かせようと苦心する。

「乾も手伝ってくれ」

 授業中に居眠りを指摘された生徒のように、乾がぎくりと身体を揺らした。慌てて傍に腰を下ろす。二人の男が両手で抑えてもなお抑えきれないほど、森内の身体は激しく拍動を繰り返した。



 *



「どうした」

 瑛梨と入れ替わるように、檜山と和泉と久美子が階段を昇って来た。その頃には森内の身体はほとんど動かなくなっていた。

「森内が急病だって?」

「ああ」横井が額に浮いた汗を拭いながら、険しい顔で振り向く。「あれ、小夜ちゃんは?」

「龍川さんは降谷さんと一緒だ。今管理人室で、救急に電話してくれているはずだ」

 檜山が、横井と森内をかわるがわる見ながら答えた。

「和泉、診てわかるか?」横井は、檜山の後ろで顔を引きつらせている和泉に投げかけた。

 和泉はF大学の医学部二回生である。

「まだ基礎ばかりなので、確かなことは言えませんけど……」と、躊躇を見せながらも、和泉は森内の隣に腰を下ろした。そのまま、だらりと体側に延びた、日焼けした手首に二本の指を当てる。「呼吸も心拍も止まっていますよ……。瞳孔は……どなたかライトのようなものはもってないですか?」

 一同は、それぞれの顔を見遣る。手を挙げるものは一人もいなかった。

 和泉は人工呼吸と心臓マッサージを何ターンか繰り返した。しかし、努力の甲斐なく、徐々にその手の動きは弱まり、やがて止まった。

「手遅れでしょうね」和泉が小動物を思わせる二重の目を顰めながらつぶやいた。

「うそっ」久美子が両手で口を覆って一歩後ずさった。「なんで? 病気?」

 辺りに張り詰めた空気が流れる。緊張感と不安がアメーバのように空中で蠢いているようだった。

「森内に持病があったなんて話は聞いてないな」檜山が低く言った。

「ああ」横井がごくりと喉仏を上下させながら肯く。「酒もたばこも気にせずやりたい放題だったしな」

「じゃあ……なんで」久美子が顔面を蒼白にして唇を震わせた。

「の、呪い……! 早見先輩の呪いじゃ……」

 乾の叫びに、一同の表情がぎくりと凍り付いた。

 ほぼ同時に、薄氷の張った空気を破るように、階下から二つの足音が近づいてきた。

「大変です」瑛梨が泣きそうな顔で叫んだ。「電話が繋がらないんです!」

「なんだって」

 平穏という名の薄氷は無残にも打ち砕かれた。



 *



「これは毒殺かもしれないな」

 その声に、一同は弾かれたように音源を探った。

檜山だった。いつのまにか彼は、森内の死体の傍に片膝をついていた。

「なんです?」同じように片膝をついたままの和泉が、その横顔に疑問を投げかける。

「いや……ここ」檜山は森内の右手の平を指さし、「右手の中指の麓に赤い斑点があるだろう。もしかしたら――」と、二〇四号室の慎重にドアノブを捻った。「ああ、やっぱり」

「なんですか?」和泉が目をくりくりと瞬く。

「ドアノブから針が出てきた」

「針?」

「ここ」

「本当だ」和泉に続いて、横井も横から覗き込んだ。「ノブを捻ると針が出てくるようになっている」

「毒針でしょうか」和泉も目を凝らしながら、その細い先端をまじまじと見つめた。

「じゃあ……森内じゃなくて俺が最初にドアを開けていたら、俺が死ぬ可能性もあったということか」そう言って、横井はぶるりと身を震わせた。

「無差別殺人、ってやつですかね?」和泉が暢気な声を上げる。可愛い顔をして、時折平気で場が凍りつくようなことを言うのがこの男の特徴だった。

「あれ? 檜山、他の部屋のノブを調べているのか」横井が遠くに声を投げた。

声の先では、檜山が二〇三号室のドアノブを、人差し指と中指でつまむようにして回していた。「ああ。同じ仕掛けがあるかもしれない。横井、二〇四号室の前に調べた部屋はいくつある?」

「二〇五号室だけだ」と、横井は答えた。

「じゃあ、残りの部屋も同じように調べる必要がある。二〇五号室に仕掛けがなかったからといって、他の部屋に仕掛けがないとも限らない」

「これからは、ドアノブだけじゃなくて、無意識に手で触れそうな場所全てに気を付けた方がよさそうですねぇ」和泉がのほほんと言った。

 他のメンバーは、ただ地面に足の裏を縫い付けられたように硬直していた。

と、「こわいわ、アタシ!」久美子が突然甲高い声をあげた。

「世良さん」隣に立っていた乾が宥めるように腰を折る。

 そんな乾をキッと睨むと、久美子はヒステリックに叫んだ。

「だって、そんなこと言ったら手元だけじゃなく、足元にだって針が突き出ているかもしれないんでしょう? ベッドにだって、安心して横になれやしない!」

「頭いいですね、世良先輩」和泉が場違いな横手を打った。

「軍手があったはずです」瑛梨がハスキーな声で言った。「軍手なんかじゃ、心もとないかもしれないけれど、ないよりはマシかもしれませんよ」

 久美子は、食いつき気味に飛びついた。「どこにあるの? 貸してちょうだい」

「い、一階のキッチンに」瑛梨は少しびっくりしたように、一歩後ずさった。

 一連の流れをじっと眺めていた横井が、森内の死体に目を落として呟いた。

「でも一体、誰が……」

「この島に殺人犯がいるっていることですよねぇ」和泉が事も無げに声をあげた。

「やっぱり早見先輩の呪いなんですよ……!」

「乾、落ち着けよ」頭を掻きむしる後輩を、横井が諫めた。

「だって森内先輩だったじゃないですか! H岳で早見先輩のザイルを――」

「乾くん!」久美子がぴしゃりと誡めた。そして、ゆっくりと背後を振り仰ぐ。「瑛梨ちゃんが聴いているでしょう?」

 檜山はうんざりしたように二〇一号室から戻ってくると、「森内をベッドに寝かせよう」横井に耳打ちした。

「そうですね」未だ、森内の死体の傍に片膝をついていた和泉も賛同を示す。

「この二〇四号室のノブは今後触らない方がいいね。森内を安置したら出入り禁止にしよう」横井も同じように腰を下ろしながら言った。

「ああ、森内を運んだら、俺は三階もドアノブを確認してくる。鷹野さんは結局見つかっていないんだろう?」檜山が、森内の頭に手を添えながら尋ねた。

「ああ」と、横井も胴体部分を持ち上げる。

 和泉が残った足を持って「せーの」で死体を持ち上げた。

「俺も行くよ。単独行動は危険だろう?」

 横井が言うのに、檜山は首を緩く横に振った。

「お前は彼女たちについてくれていていい。四回生がばらける方がいいだろう」

「じゃあ檜山さんには、僕がついて行きますよ」黙って話を聞いていた和泉が口を開いた。「僕はご覧の通り細っこいですし、女性を守れるほどの格闘要員にはなれそうにないですから」和泉は嫌味なくへらりと笑う。

四回生二人は曖昧に頷きながら、「せーの」でベッドの上に森内の死体を下ろした。

檜山は「んじゃ、行ってくる」とだけ言って、部屋を出た。廊下には顔を蒼くした久美子と乾、呆然とした瑛梨と、小さく震える小夜が半円状に立っていた。

それらを脇目に、檜山は長い脚で廊下を横切る。

「檜山さんたちも軍手をしませんか」瑛梨が詰まりながら、遠ざかる背中に投げかけた。

「俺は大丈夫だ」檜山は振り向きざまに答えた。そして、三階へと続く階段へ足をかける。

和泉はその背を追う足を止めて、瑛梨を見た。「僕も軍手は結構です。それより、武器になるもの借りられませんか?」

「倉庫にはロープがありますけど、それ以外となるとキッチンの包丁やフライパンくらいしか」

「あー、なら、いいや。いざとなったら檜山さんと二人で戦おう」

 そう言い残して、和泉の小柄な背中も階上へと消えた。

 

 *



 一階のフロアの扉が開いた。

 先刻のティータイムとは打って変わって、静まり返った部屋の中、青白い顔をした五対の目が入口へと集中する。

「三階にも人っ子一人いなかった。針の仕掛けもなかった」

 檜山は眉間に縦皺を刻んで息を吐いた。

「僕が廊下でフロア全体を監視して、檜山さんが部屋のドアを片っ端から開けていったけれど、本当に誰もいませんでしたよ」

檜山は背後の和泉が部屋に入るのを見届けてから扉から手を離すと、部屋の中へと向き直った。

「世良がさっき言っていたが、仕掛けはドアノブに限らないかもしれない。各人じゅうぶんに注意した方がいいだろうな」

「そうだなぁ」横井が白い顎に人差し指の第二関節をあてながら俯いた。「しかし、鷹野さんはどこに行ってしまったんだ……」

「とりあえず船のところへ行ってみませんか?」

和泉の提案に、久美子が噛みついた。

「いやよ。またあの山を上り下りするの?」

「でも、本土と連絡が取れない、鷹野さんもいないってなると、あとは船でどうにかするしかなくないですかぁ?」和泉が、きょとんと首を傾げる。小悪魔然とした雰囲気があった。

「船の鍵はあるのか?」檜山が瑛梨を見た。

「管理人室にあるか、そうじゃない場合は鷹野さんが」

「じゃあ、今すぐ見てきてよ」久美子に言われて、瑛梨が「はい」と扉の方へ向かった。

それを見た檜山が、すぐさま「俺も行く」と身を翻して扉を開けた。

「鍵があったところで誰が運転できるっていうのよ」久美子が眉間に皺を寄せた。

「どうにかなるんじゃないか?」横井が肩を竦める。「少なくとも、それしか方法はないみたいだしさ」

「転覆したら死んじゃうのよ」

「でも、このままここにいても助けがいつになるかわからないんだよ」横井が穏やかに言い聞かせる。

 そうしたところで、リビングのドアが開いて、影が戻って来た。

状況を聞くまでもなく、張り詰めた瑛梨の表情を見れば、事態は察することができた。

「もしかして」横井がソファから腰を浮かせた。

 瑛梨はこくこくと顎を引いた。「ないんです、鍵が」

 瑛梨の背後から姿を現した檜山が頭を掻いた。「こりゃあ、鷹野さんを探し出すしかねぇな」

「船のところへ降りましょうよ」和泉が平然と提案する。

「いやよアタシはいかないわ」

「じゃあ、世良さんだけ残ればいいじゃないですか」和泉があっけらかんと言った。

「一人で残れって言うの? こんな人死にが出た場所に!」

「ぼ、僕が一緒に残りますから」乾が震える声を出した。

「あんた一人じゃ頼りないわよ!」

「じゃあ、きっと龍川さんも……ねえ?」

「え」突然名前を呼ばれた小夜は、びくりと背を揺らした。「は、はい……」きょどきょどと、視線を左右に揺らした後、小夜は身体を小さくして消え入りそうな声を出した。

「無理強いはよくないよ」横井が割って入る。「それに、あんなことがあった以上、まとまって行動した方がいい。それこそ、針を仕掛けた犯人が潜んでいるかもしれないだろう?」



 *



桟橋に着いた一行を待ち受けていたのは、係留された船の隣で波間に漂う、鷹野八郎の変わり果てた水死体だった。

衣服から辛うじて鷹野だとわかるものの、まるで巨人の手で押しつぶしたような惨い有様だった。手足はあらぬ方向に折れ曲がり、左手の肘から先は千切れてなくなっている。衣服も原型を留めないほどに破れており、まるでただの赤黒い塊だった。

誰かのうめき声が波音に混じる。乾が草むらに蹲って喘いでいた。

「誰がやったの?」久美子が突如背中から取り出した包丁を、前に突き出して叫んだ。

その場が一瞬ぎくりと凍り付く。

「今名乗り出たら、縛るだけで許してあげる。瑛梨ちゃん!」

「は、はい」

「倉庫にロープがあるって言ったわよね。犯人を、それで縛るわ」

 久美子は蛇のような目で、一同を順番にねめつけた。

 辺りにサッと緊張が走る。

 と、おもむろに檜山が大きなため息をついて、後頭部をがりがりと掻いた。

「犯人探しもだが、どうやって本土に連絡を取るかが問題じゃねぇか? 船の鍵は行方不明だし、電話は通じないし。泳ぐっつったって水温的にも距離的にも無理だ。疑い合う前に協力しねぇとまずいことになるぞ」

「檜山の言う通りだね。まずは殺人鬼から身を守ることが先決だ」横井が賛同を示す。

しかし、久美子は眦を吊り上げると、激しい口調で言い返した。「だから、その殺人鬼がこの中にいるかもしれないって話をしているのよ」

「こ、この中に……?」乾が、頭を上げて、袖口で唇を拭った。「い、いや、やっぱり呪いなんですよ……! 早見先輩の呪いなんだ……」

「黙りなさい!」久美子の声が、乾の脳天に突き刺さる。

 その声に、乾は完全に委縮してしまったようだった。

 うんざりと言った様子で、和泉がのんびりと瑛梨を見据えた。

「島からの連絡が途絶えたり、予定の日に帰ってこなかったりした場合に、会社の他のスタッフが様子を見に来るなんてことはないんですか?」

「それが……スタッフはアルバイト職員がもう一人いるんですけれど、常駐しているわけじゃないんです。小さな漁村の旅行代理店ですから、毎日ツアーの予定があるわけじゃなくて……次に出勤してくるのは、確か五月二十五日土曜日だったかと」

「三週間後か。三連休もしばらくないですし、そんなもんなんですかね」

「島に他に船とか、ボートの類はないのか?」檜山が続いて質問した。

「ポンプ式の二人乗りモーターボートがありはするんですけれど、それも鍵を鷹野さんが持っていたので……」瑛梨は沈痛そうに視線を下げた。

 そのときだった。

「アタシ、緊急用の小さなゴムボートを見つけたわよ」久美子が、あっけらかんと言い放った。

 突然の申し出に、一同唖然とする。

「は?」

「どういうことです?」和泉が訝しげに眉を寄せた。

「どこで?」横井も珍しく戸惑いを見せた。

 そんな面々を前に、あろうことか自慢げな態度で久美子は高らかに謳った。

「シャワー室の確認ついでにあちこち探索していたときに、倉庫で見つけたのよ。今は別の場所に隠してあるわ」

「さっすが世良先輩! これで助かりますね!」乾がすかさず賛辞を呈した。

「確かに使えるのか?」

「なぁに、疑うの? 横井くん。間違いないわよ」

「じゃあ、どうするか、ボートの運転ができる奴は……」早速横井が、皆に向き直る。

「森内先輩が運転していましたよね。こないだ釣りに連れて行ってもらったときに、先輩の親父さんのボートを借りて」乾も先ほどまでとは打って変わって、みるみる顔色が良くなった。

「居ない人の話をしても意味ないでしょう」和泉にも、表情に余裕が、口調に辛辣さが戻る。

「檜山、運転できねぇの?」横井が檜山に投げかけた。

「やったことねぇよ」

「お前なんでもできそうだろう」

「無茶言うな……」

「十キロちょっとだし、まっすぐ進めばなんとかなりますよきっと」

横井と檜山の会話に、和泉が割り込んだ。

和らいだ空気を醸し出す男子を、顎をつんと持ち上げて一望した後、久美子は小さく息を吸いこんだ。

「ちょっと待って」久美子は嬉しそうに唇を持ち上げた。それから六対の目が自身に向くのをじっくりと堪能して、高調子に告げた。「あなたたち、アタシがボートの場所を教える前提で話しているけれど、誰が教えるなんて言ったかしら?」

「えっ」乾の靴底がずさっと後方に滑る。同時に銀縁眼鏡が小さな鼻の頭にずり落ちた。

 横井も困り顔で、両手の平を広げて一歩前にでた。

「冗談だろ、世良さん。今はそんなこと言っている場合じゃあ」

「何? アタシに逆らうの? はい、脱落ね。横井くんはボートに乗せてあげない」

「は?」横井が眉をひそめた。

場の動揺を満足そうに味わった後、久美子は左の頬に手を当てて唇を持ち上げた。

「まだわかっていないの? あなたたちの命の行方はね、今アタシの機嫌ひとつで変わるのよ」

「何を言っているんだ……」

「アタシは本気よ、横井くん」久美子はぴしゃりと言い放った。右手の包丁を目線の高さに持ち上げ、一音一音を粒立てて言った。「さあ、犯人は、野垂れ死にたくなかったら早く名乗り出なさい」

 辺りに呆然とした空気が流れる。

 眉を八の字にした小夜が胸の前で、ぎゅっと手を握りしめた。

 そんな一同の混乱を前に、久美子は恍惚と続けた。

「わかったわ。では、あなたたちに課題を与えます」そして、不穏な空気を舌の上で転がすように、じっとりと場を見回した。「殺し合いなさい。優勝した一人とアタシで本土に戻るの」

 誰からともなく「え」と、戸惑いを示す声があがった。

横井は肩を竦めて右手を上げた。「世良さん、一体どうしてしまったんだい。そんなくだらない牽制で無駄に時間を過ごしたら、全員本当に餓死するぞ」喋りながら語気が段々強まっていく。

「くだらないって何?」久美子はカッと刮目して横井を睨んだ。

「ぼ、僕は世良先輩……いえ、久美子先輩に従いますよ!」乾が眦を決して、宣言した。

 檜山は呆れたように背中を向けた。

小夜が二者間をおろおろ見遣る。

「檜山くん!」久美子が引き締まった背中に怒りをぶつけた。

 檜山は黙って立ち止まった。

「どこにいくの?」

「鷹野さんの遺体を寝かせるんだよ。流石にあのままじゃ気の毒だろう」

「いやよ、こっちに近づけないで胸が悪くなるわ」

「俺も手伝おう」横井が構わず袖をまくりながら、歩き出した。

 結局、檜山と横井と和泉の三人で鷹野の遺体を引き上げた。極力傷まないように、木の麓の日陰を選んで横たえる。

「後でコテージから毛布でも取ってくるか」

 濡れた両手を軽く振って、檜山は丸太造りの階段へと足を掛ける。

「今度はどこに行くのよ」世良がその背を睨みつけて、包丁を伸ばした。

「狼煙を上げるんだよ」檜山は剣呑と振り向いた。「原始的かもしれねぇけど、それくらいしか、俺の頭じゃ思いつかねぇ」

「あなたが犯人かもしれないんだから、単独行動はよしてちょうだい」

「一体誰にこんなところまで、鷹野さんを殺しに来る時間があったってんだ」檜山はぐるりと一同を見回した。「それこそ、世良くらいしかいないんじゃねぇか?」

 その挑発的な態度に、世良の耳が真っ赤に染まる。

「アタシじゃないわ」

「犯行の時間があったかどうかの話をしているんだ。人を根拠なく、無暗に疑うもんじゃないってことが言いたかっただけだから」

「アタシじゃないんだから。でも、じゃあ、誰なのよ。みんなには犯行の時間がなかったっていうんだったら、誰が犯人だっていうのよ」

「さあな」

「徹底的に話し合って犯人を特定すべきよ」

「材料が足りない」

「アリバイ、ってやつか?」世良と檜山の応酬に、横井が割って入った。

「世良先輩以外には、アリバイがあると」和泉は反撃とばかりに、久美子を見据えると、握り拳の裏で唇の両端を持ち上げる。

「だから、アタシじゃないって」久美子は癇癪を起こした子供のように包丁を持った右手を小さく振りまわした。

「大丈夫、わかったから」横井が胸の前で、両掌を何度か下へ振った。「全員こんなところで突っ立って話し合うより、まずはコテージに戻らないかい?」

「僕もシャワーを浴びて着替えたいです。濡れちゃったし」和泉が海水と血のついた衣服を示した。

檜山が顎を縦に引く。「食料の確認と配分、安全の確保だな。そして原始的に、狼煙だ。乾、ライター持っているよな? 貸してくれ」

「わ、わかりました」

「そ、そうですね。冷蔵庫には食料が二泊三日分と、非常食が数日分はあるはずです」瑛梨が指を折って、力強く頷いた。

「それまでに救助が来てくれることを祈ろう」横井が唇を真一文字に引き締めた。

「世良が心変わりしてくれりゃあ、何もないんだがな」

 と、既に丸太の階段を昇り始めている檜山が皮肉を零した。一瞬迷いを見せた小夜が、続けて丸太に足をかけた。瑛梨がその背中に続く。和泉もしばし考え込んで、檜山のあとを追った。

それらを見届けた横井が、ちらりと久美子の様子を窺い、「行こう」と促す。面白くなさそうに目を吊り上げた久美子と、それを追うように乾もついてきた。



17:00



「しかし、誰が二人を……森内さんがこ、殺されたドアノブなんて、回避不能な罠じゃないですか」乾が唇を戦慄かせて、頭を抱え込んだ。

「確かに予備知識がないと無理だな……檜山が試してみたのを、俺と和泉も見たが、丸ノブを回転させると、ノブの空気孔から針が出るという仕組みだった。それが手に刺さって森内は死んだ」横井は髪を拭いながら言った。

「空気孔はどの部屋のノブにもあるものなんですよね?」

「ああ。おそらくこのコテージだけじゃなく、ドアノブそのものにあるんだと思う」

 久美子は視線を転じていった。その手の包丁は、横井が言い聞かせて台所に戻させた。

「檜山くんは、なぜドアノブの仕掛けに気づいたの?」

「森内の手の平に赤い斑点があったからだ」

「間違いないです。僕も見ました」濡れた髪の毛を手櫛で梳きながら、和泉は肯いた。

「最初から知っていたんじゃないの? 檜山くん」

「……やけに突っかかるじゃないか」檜山は生乾きの髪をかき上げた。それから、真正面から久美子を見据えて、唇を持ち上げた。

 久美子はいきり立って言い返した。

「だって、H岳のあの事故の時、現場にいなかったのは、河西くんとあなたしかいないじゃないの」

「俺が早見の復讐をしているとでもいうのか」

「そうよ」

「なぜ?」

「知らないわよ。好きだったんじゃないの? あの子、見た目だけはよかったじゃない」久美子は悪意のある言い方をした。

「それならば、鷹野さんはなぜ死ななければならないんだ」

「それは」久美子がしどろもどろと言葉を詰まらせた。

「僕たちをこの島に閉じ込めるため、ですか」和泉が悪戯っぽく唇を持ち上げた。

「なるほどな。筋は通る」檜山も好戦的な顔で肯いた。「でも、俺にはそんな時間はなかった。一人になった時間がないからな。物理的に不可能だ」

「そうですねぇ。僕と龍川さん、途中からはシャワー室から戻って来た世良さんも、檜山さんと一緒にいましたよね。アリバイ成立、じゃないですか?」

「……そうね」久美子が不満げにそっぽを向いた。

「だから、僕たち全員がグルである可能性を除けば、檜山さんはシロだと言うことになりますよぉ」和泉はにこにことソファに腰を下ろした。

「俺たちも、乾と森内と瑛梨ちゃんで一緒にいたしな」横井は頭からタオルを剥がしながら、

「船着き場まで往復するにはどのくらいかかったかな」と、瑛梨へ尋ねた。

「一応、お客様に説明する際には、昇り二十五分下り二十分と説明しています」

「じゃあ、歩いたら往復五十分程度はかかるってことだね」

「走ったらどうでしょうか」和泉が首を傾げた。

「一番足が早い檜山に試してもらうか」

 横井の視線を受けて、檜山は少し考えるように視線をずらした。

「やってみてもいいが――鷹野さんの亡骸に毛布もかけてぇしな――だが、流石に一人じゃ危ねぇからもう一人付き合え」

「檜山先輩にも怖いものはあるんですね」乾が素っ頓狂な声を挙げた。

「お前が行ってもいいんだぞ」

「か、勘弁してください」

「相手は何を持ってるかわかんないですもんねぇ」和泉が飄々と言った。

「茶化すのは不謹慎だったね、乾。二人も亡くなっているんだ」乾を柔らかく窘めた後、横井は檜山に向き直った。「同行者、俺でもいいけど、なんだっけ? 戦闘要員はバラけた方がいいとかなんとか言っていたよね」

「そうよ。横井くんと檜山くんは分かれるべきだわ」久美子が口を尖らせた。

「お二人より身長の高い人なんて、そうそうはいませんもんね」乾がすかさず同調する。

「俺はせいぜい百八十ってところだけどね。檜山は百八十いくつだっけ?」

「細かい数字はいいだろう」檜山は、恥じらいを隠すようなムスッとした表情を見せた後、一同へ視線を投げかけた。「誰がついてくる?」

「じゃあ、僕行きますけど、檜山さんのペースじゃあ確実に置いて行かれますよ、僕」和泉が左手を挙げた。

「俺は毛布を抱えていくつもりだから、多少は遅くなるだろうがな。途中までで引き返していいから。二人でいるだけでも犯人への牽制になる」

「今後何か事件があったときの、檜山さんのアリバイ証明にもなりますしね」

「不吉なこと言わないでよ、和泉くん」久美子が甲高い声を挙げた。

「冗談のつもりはありませんよ」和泉は淡々と笑顔で返す。

 そんな二人のやりとりがおさまるのを待って、檜山は立ち上がった。

「とりあえず。毛布を取ってきてからスタートだ。時間測っといてくれ」



 17:40



 二十分後、息が上がった二人を、一同は玄関のフロアで出迎えた。

「おつかれ。往復約十八分か」

横井が檜山と和泉の背中に手を当てて、順に中へ招き入れる。

「下り八分、昇り十分だ」檜山が腕時計に視線を落とした。

「さすがバスケ部のエース」

「エースじゃねぇよ」

「ちゃんと檜山先輩が、桟橋にタッチして戻ってくるのを確認しましたよぉ」

和泉は肩で息をしながら、足を投げ出した。ソファに深く身を埋める。

「オッケー。じゃあ、鷹野さんを殺害する時間を含めて、どんなに急いでも二十分は必要だってことになるね」

横井が、瑛梨から水の入ったグラスを受け取り、二人の前に差し出した。

そのまま、居間のソファへとぞろぞろ連れたって流れてくる。

「檜山さんの足で最低二十分なので、普通の人だと三十分はかかると思いますけどね」

 和泉は受け取った水を半分くらい飲み干した。

「でも、じゃあ全員、その、アリバイ、ですか? あることになりますよね」

瑛梨がウォーターサーバーを傾け、和泉のグラスを再び満タンに浸す。

「席を外したのは、世良とあと誰だっけ」横井が髪をかき上げて尋ねた。

「私がみなさんのコーヒーを淹れるために……そうですね、十分くらいでしたか」

 瑛梨が顎に人差し指をあてて、天井を見た。

「ぼ、僕もコーヒーをもらう前と後、煙草を吸いに森内さんとデッキに出ましたけど、それも十分そこそこだったと思います」乾が食いつき気味に言った。

「僕はトイレに行ったけど、五分もかかってないよ」和泉はあっけらかんと答えた。

「わ、私も同じです」ソファの後ろに立ったままの小夜が、消え入りそうな声で言った。

「アタシもシャワー室は見に行ったけど、二十分程度だったわよ」ソファに深く腰をかけ、足を組んだ久美子が右手の平をひらりと動かした。

「そうですね。二十分程度ですからね」和泉がにこにこして強調した。暗にアリバイがグレーゾーンであることを主張しているのだろう。

「アタシが檜山くんと同じペースで走れるわけないじゃない」久美子が和泉の暢気な声に被せるように噛みついた。

「それはわかっていますよ。そもそもハイヒールですしね、世良さん」和泉が笑顔を向けた。

 沈黙が場を支配する。探るような視線が互いの間に幾重にも交錯した。

「じゃあ」瑛梨が沈黙を切り裂いた。

「……全員にアリバイがあるのか」横井が皆の心を代弁した。



 *



「ところで、ドアノブに針を仕掛けたのはいつのことなんでしょうね。それこそ、降谷さんがあらかじめ……」和泉は無邪気に瑛梨を見上げた。

「ええっ。コテージの鍵はご覧の通り、全室掛かっておりませんから、船さえあればどなたでも中へ入ることはできますよ」瑛梨は慌ててかぶりを振った。

「そっか」

「それに、私、まだ船の運転はまかせてもらったことないですし、鷹野さんが船の鍵は管理していましたので」

「瑛梨ちゃんも俺らと同じ条件というわけか」横井が頷いた。「俺ら山岳部のメンバーも、この島に来ることは当然わかっていたんだから、こっそり忍び込んで細工をすることは可能だ」

「そもそも、森内さんの事件と鷹野さんの事件は、同一犯なんでしょうか」瑛梨が場に投げかけた。

「この島に殺人鬼が二人もいるというの? やめてよ」久美子が両手で両の二の腕を擦りながら、甲高い声を挙げた。

「パターンとして同一犯であるケースと、別々であるケースの二つがあるってことは事実でしょう」和泉が飄々と久美子の顔を覗き込んだ。

「それはそうだけど」

「ところで世良さん、例の二人乗りボートの鍵は今も身に着けているの?」横井がソファの背に体重を預けて問うた。

「いいえ」途端に久美子の口調が尊大になった。「とあるところに隠したわ。だから、アタシから力づくで、鍵を奪おうとしても無駄よ」得意げに顎をつんと上げる。

「いや、そんな野蛮なことはしないよ」

「食料の分配はどうします? 五日分程度はあるとして、も、もしも……もし、救助がそれ以上来なかったら……」乾が顔を蒼くした。

「各自手持ちのものをテーブルの上に出そう」横井が背もたれから背を浮かせて提案した。「奪い合いが起きないためにも、一度集めて食事のたびに配るのがいい」

 荷物はリビングのステージの端に置いたままになっていた。各自旅行かばんを手に戻ってくる。

「でも、食料を一か所に集めたところで、誰かがこっそり独り占めしたらどうするのよ」久美子がイライラと組んだ足を揺らしながら言った。

「四桁の暗証番号式の金庫が各部屋にあります。そこに入れておけば」瑛梨があっと目を見開いて発案した。

「誰がその暗証番号を決めるのよ」久美子が不機嫌そうにねめつける。

「それは……」

「決めた人が、独り占めしないとも限らないでしょう?」

 場を重苦しい空気が支配する。窓の外では本土の黒い影に日が沈もうとしていた。

 誰かの頭が動いた。

「暗証番号の一桁ずつを別々の奴が覚えておけばいいんじゃないか?」檜山だった。色素の薄い髪の毛が夕日に透けて普段よりも明るく見えた。

「それは妙案だな」横井がすかさず同意を示す。

「でも……」続いた和泉の言葉に、一瞬で場が凍り付いた。「もし、その四人のうちの誰かが殺されたら、永遠に中身が取り出せなくなりますよ?」

「た、たしかに……」乾が顎に右手の爪を立てて呻いた。

「縁起でもないわ」久美子がぴしゃりと苦言を呈する。「そ、それにねぇ、アタシはお菓子なんてもってきていないし、たとえ持っていたとしても出さないわよ」

「そんなこと言わずに」横井が両手を胸の前に差し出した。ジェスチャーが多いのは彼の癖のようなものなのだろう。

「だって、よく考えたらおかしいじゃないの。私物なのになんで公平に分配しなきゃいけないの?」

「それは……なあ。争いを減らすために」

「もっとはっきり言ったらどうですか?」和泉が横井に無邪気な声を投げかけた。「平等のバランスが崩れたら、それこそ力づくで独り占めしようと殺し合いになりかねませんよ」

「こ、殺し合い……」顔面蒼白の乾が、そわそわと上体を揺らした。

「と、とりあえず、アタシは食べ物なんて持ってきてないの。部屋で落ち着きたいから、部屋割りをさっさと決めましょう」

「世良さん、そんなこと言わずに」瑛梨が、柔らかく久美子を窘める。小夜の作った籤が、寂しく机の隅に纏められていた。

「鍵は?」久美子はそれらを忌々し気にねめつけ、顎をツンと持ち上げて、瑛梨に右手を差し出した。

「……森内さんに全部渡しました」

「森内が放り出した鍵は、拾って玄関の脇に置いたよ」と、横井は足早にリビングの外に出て行き、鍵束を手に戻って来た。「これ」

「アタシ、二階は嫌よ。いくら森内くんと言っても、死体の近くに寝るなんて絶対にごめんだわ」久美子が整えた眉を吊り上げて唇を歪めた。

「いずれにせよ、二〇四室は森内の遺体があるから使えないな」横井が視線を落としながら息を吐いた。

「二部屋は余るんだし、二〇三号室も空けましょうか」和泉が横井と檜山を順番に見つめた。

「誰が二〇五号室と二〇二号室を使うのよ。アタシ、絶対いやよ」

「俺いいよ」と、横井が挙手した。

「俺もいい」檜山がそれに続く。

「じゃあ、俺と檜山で二〇五号室と二〇二号室を使うか」

「待ってよ。それじゃあ、三階にもしも犯人が襲ってきた場合、誰が助けに来てくれるのよ」久美子は既に三階が自分の所有物であるかのように言った。「檜山くんと横井くんは分かれるべきだわ」

 辺りにぴりぴりとした空気が流れる。

 部屋は、明かりなしでは細部が見えないくらい、暗くなってきた。

「じゃあ、私でいいです」小さな声が挙がる。

「龍川さん」横井が気遣うように名前を呼んだ。

「怖くないですよ」小夜は小さな口を無理やり歪めて笑みの形を作った。

「じゃあ、俺が二〇五号室を使うから、龍川さんは二〇二号室でいいかい?」横井は眉を下げて小夜の小さな顔を覗き込んだ。

 その様子を、久美子はさもつまらなさそうな冷めた目で一瞥して、派手なルージュを引いた唇を開いた。

「アタシは一番入口と死体から遠い三〇二号室がいいわ。あとは……そうね、和泉くんが三〇一号室で、檜山くんが三〇五号室ね」

「別にいいですケド」和泉はあっけらかんと受け入れた。

「アタシが叫んだらすぐに助けに来てね」

「ぼ、ボクは……その、森内先輩には申し訳ないですけど、遺体の真上はちょっと」乾が背中を丸めて、消え入りそうな声を挙げた。

「でしたら、私が三〇四号室を使いますので、乾さんは二〇一号室を使ってください」瑛梨がさりげなくフォローを挟んだ。

 そうしたところで、ここまでの流れをメモしていた檜山が顔を上げた。

「これで決まったな」

 指の長い綺麗な左手の甲が、全員に向いている。その手には、茶色の革製の手帳が乗っていた。

横井がその手元を覗き込む。手帳のフリースペースに、簡単な島の地図と、コテージの間取り図がフリーハンドで書いてあり、そこに部屋割りが記入されていた。

「お、すげぇな。間取り図まで書いてある」

「書かねぇと、覚えきれねぇからな」

「さすが檜山。じゃあ、書いてくれた図に従って早速鍵を配ろう」横井が手元の鍵束をじゃらじゃらと探った。すっかり日の暮れた室内はキャンドルライトをつけたところで薄暗く、かなり目に近づけないと、鍵に刻印された番号が見えないほどであった。

 二〇一号室の乾から順に鍵を受け取ると、各人、三々五々に部屋へと荷物を置きに戻った。

 最後三〇五号室の鍵を檜山の大きな掌に乗せながら、横井は小さくため息を落とした。

「とりあえず俺らの中で犯行可能だった人物がいないのは確認できたが、あれこれやっていたら日が暮れてしまったな。これじゃあ狼煙は明日におあずけだな」



19:00



 荷物を置き、一服したところでやることもなかったのだろう。あるいは、一人薄暗い部屋で時間を過ごすことに恐怖を覚えたのかもしれない。徐々にリビングに人の影が増え始めた。時計は十九時を指している。

「食事、どうしますか?」

 瑛梨は、傍で窓の外を眺めていた横井に尋ねた。その視線の先を追うように、瑛梨も同じ方向をぼんやりと眺めてみる。

 窓の外、すぐ見える低い位置には、都会にはない、真の暗闇が広がっていた。その少し上に目を転ずれば、満天の星空がお椀のように島を包んでいる。

「何日かかるかわからないので、食事の量も半量ずつとか調整した方がいいでしょうか」

 瑛梨は窓から目を外し、再び横井を見た。横井の切れ長の目と空中でかち合う。

「そうだね……約五日分食事はあるんだよね?」

「そうですね」

「半量ずつの一日二回にしてみようか。それであと十五日分はある。残りの十日は各自の持つお菓子でやり過ごすことになるけど、それで、その、アルバイトスタッフが出社してくるという五月二十五日まで持つよな? どう思う、檜山」

「そうだな。俺は構わねぇが」檜山は目を伏せた。長い睫毛が下瞼に影を落とす。

その向こう側、蝋燭の焔の不規則な光源の中、部屋の隅には闇の靄が棲んでいるように見えた。

横井は、無理やり視線を数メートル先のソファに座る檜山の横顔に戻した。

「まあ、作りすぎて怒られるより、少なすぎて怒られる方が、取り返しがつくだろう。反対意見が出たときはそのときにまた考えようか」

「わかりました」瑛梨の頭の影が、こくりと揺れた。

「俺も手伝うよ」

「でも」

「鷹野さんが、その……あんなことになって、瑛梨ちゃんも大変だろうし」

「横井さん……」立ち上がった横井の向こう側に檜山の長身をみとめて、瑛梨はその端正な顔を仰ぎ見た。「え、檜山さんも、手伝ってくれるんですか?」

「緊急事態だ。もう、スタッフも客も関係ねえよ」

 部屋の奥側、ピアノの前に位置する一人掛けのソファでは、世良久美子が面白くなさそうに、大きなため息を吐いた。

 三人の視線がそちらへと向く。横井が「気にしなくていいよ」とばかりに、瑛梨の方を向いて一つ頷いた。

「僕も手伝いますよ。たぶん、龍川さんもそうかな?」

 いつの間にか傍に来ていた和泉の問いかけに、同じく立ち上がっていた小夜はこくりと頷いた。

こうして二人が加わり、五人で厨房へ向かうことになった。



 *



 廊下には各階共にこげ茶色の絨毯が引かれており、足音は全てその柔らか生地が吸収してくれる。壁に点々と灯されたキャンドルライトの心もとない光に沿うように、一向は向かいの厨房へと足を踏み入れた。ドアは引き戸になっており、下部には金属のレールが敷かれているので、音もなくスムーズに開いた。

「あっ。食料庫が」

 先頭に立った瑛梨が、高い声をあげた。

 彼女の頭の上から、横井が部屋の中を覗き見る。

声に驚いたようで、小夜がビクリと身を縮ませた。

 食糧庫は、床下収納になっていた。しかし、その扉は開かれ、中は大ぶりの刃物で斬り刻まれ、泥まみれになっていた。

「酷い……」一番に駆け寄った瑛梨が、淵に両膝をついて呻いた。

「犯人は俺たちを根絶やしにするつもりなのか……」その後ろに立った横井が、ため息交じりに言った。

「まだ続くってことですよね」和泉が顎に指を置いて、興味深そうに中を覗いた。

 檜山が横目でそんな和泉をじっと見つめる。

「檜山先輩は気づいているみたいですけど。これで事件が終わりなら、犯人は僕たちを閉じ込めたり、食糧を駄目にしたりする必要がないんですよね。つまり」和泉は下唇を舐めた。「惨劇は、まだ続くと言うことですね」



19:30



 リビングへとんぼ返りした五人を受け入れたのは、久美子の気だるげな声だった。

「あら。もう夕飯ができたの?」

「いえ……それが」

 瑛梨が目を逸らして黙り込んだ。

代わりに横井が話を引き継ぐ。

「それがね、食糧庫が荒らされていたんだよ。中身は全滅だ」

「は?」

 久美子が顔を歪めた。乾もショックのあまり、勢いよくソファから立ち上がる。

「どういうことよ!」

「どういうことも何も。厨房の食糧庫を見てくれば一目でわかるよ。明らかに人為的な荒らされ方だった。何者かが悪意をもってやったことに違いはないね」

「許せないわ……犯人はどこに隠れているというの? 島を端から端まで捜索しましょうよ」

「もう暗いから明日にした方がいいよ」

「明日まで待つの? 時間が経つごとにアタシたちは体力がなくなっていくのよ。どんどん不利になるのよ」

「体力を温存するからこそ、だよ」横井は力なく肩を落として、それから疲れの滲んだ目頭をもんだ。「暗い森を闇雲に動いても体力を消費するだけだ。それよりも、明るくなってから見通しの良いときに捜索した方が、効率がいいと思う」

「そうだな」檜山がどっかりとソファに腰かけた。クッションがぴょんと跳ねる。彼の顔にも、かなり疲れが滲んでいた。

「やっぱり、早見先輩の復讐なんですよ……! 僕たちは皆殺しにされるんだ……!」

「乾くん!」久美子がキッと目を吊り上げた。

「だって、森内さんがザイルを……」

「乾くん、いい加減にしなさい。二度とその名前を口にしないで!」

「世良さん落ち着いて」

「何よ、横井くん。アタシが悪いっていうの?」

「そんなこと誰も言ってないよ」

 久美子の荒い呼吸音だけが、薄暗い室内に響き渡る。

「気分が悪いから、部屋に戻るわ」久美子は、おもむろにソファから立ち上がると、チュールスカートをはためかせてずんずんと部屋の扉へ歩いて行った。そして、「どいてよ」と小夜に怒鳴りつける。

 小夜はビクッと肩を強張らせて、身を引いた。

「待ってくださいよ、久美子先輩」乾がその後を頼りなく追いかけた。

 辺りは、本日何度目かの重い空気に包まれた。



 *



 しばらくの沈黙の後、「ごめんね、瑛梨ちゃん」横井が肩を竦めて、立ちっぱなしの女性陣にソファを勧めた。

「いえ……」瑛梨は目礼を返して、示された椅子へ腰を落ち着ける。「ところで、さっきから乾さんが言っている、早見さんってどなたなんですか?」

 その名が出た瞬間、その場の空気が南極の氷のように凍りついた。

 居間の壁時計の秒針の音だけが、唯一鼓膜に届いてくる。その音さえも、気まずさを助長させるような、そんな重い空間だった。

 やがて瑛梨が、「ごめんなさい……私、何か触れちゃいけないことを……?」と、不安げに謝罪した。

 横井は顔の前で右手を振ると、「いや、気にしないで」と無理やり笑顔を張り付けた。「……早見さんはね……俺たち登山部の仲間だった人なんだ」

「仲間……だった?」

「ああ」

「過去形ということは……今はいらっしゃらないんですか?」

「ああ。……去年の末に、滑落事故で亡くなったんだよ」

「えっ」横井の言葉に、瑛梨は息を呑んだ。「あの、森内さんがザイルを……ってさっき、乾さんが……ザイルって、あの登山用ロープのことですよね。ってことは」

「いや」横井は食いつき気味に否定した。「ごめん、大きな声を出して。森内がザイルを切ったっていうのは、乾の勘違いなんだよ」

「勘違い……」瑛梨が口の中で反芻した。

 和泉は目を逸らし、小夜は下をむいた。檜山は窓の外を眺めている。

「あの日俺たちは七人でH岳に登っていたんだ。当時の三回生が森内、俺、早見さん、世良さん。二回生が乾。一回生が龍川さん、和泉。七人でアンザイレン――ザイルでそれぞれ身体を結びあって登っていたんだ。それで、七合目の絶壁に差し掛かった時にね」そこで横井は小さく息を吐いて、目頭をもんだ。「大きな落石があったんだ。俺たちはザイルを通して宙づりになった」

「ロープだけで、絶壁にぶら下がったということですか?」

「そう。そして……最悪なことに、ザイルが落石で傷いたらしく、ところどころ亀裂が入っていたんだよ」

「そんな……」瑛梨は両手で口元を覆った。

「ザイルは全員の体重を支え切れそうにない。上から、俺、龍川さん、和泉、乾、世良さん、森内の順だった、そして――」横井は目を閉じた。「一番下にいたのが早見さんだった。このままだとザイルが切れて全員が落ちてしまう。そんななかで、早見さんは自ら、森内と自分の間のザイルをナイフで切ったんだ」

「じゃあ……その、早見さんは」

「ああ。クレバス……雪山の割れ目に落ちていった。今でも行方不明だよ」

「え、今でも見つかっていないんですか?」

「見つかっていない。その後俺らはなんとか元のルートに戻ることができて、そのまま下山した。彼女が落下した地点を捜索したけれど、いまだ行方不明さ。かわいそうなのは一人残された弟さんだね」

「他にご家族はいらっしゃらなかったんですか?」

「詳しいことは知らないけれど、俺らが集められた警察署に駆け付けたのは、早見さんの弟一人だったらしい。俺らとは直接会わなかったんだけどね。――事故について、聞いたことはないかい? 当時は報道番組なんかでも取り上げられていたんだけどね」

 瑛梨は眉を八の字にしたまま、視線を宙に彷徨わせた。すぐに、「あっ」と刮目する。

「そういえば……年末にニュースになったような」

「だよね。それで、乾も……本当は世良さんも罪の意識があるんだ。あの時、彼女の命を犠牲にして俺たち六人は助かったんだ、ってね」



 23:00



 乾拓也は割り当てられた二〇一号室のフランスベッドに、着替えもせずにうつ伏せに身を放り出していた。二〇一号室は、二階に上がってすぐ右側にある、独立した部屋である。

 トレードマークの銀縁の眼鏡は、今では書き物机の上に折りたたまれていた。おかげで、視界がかなりぼやけている。

 ――それにしても。と、乾は瞼を閉じた。目の奥がずうんと痛む。本当に長い一日だった。そして、こんな一日をあと何回繰り返せば本土に――元の生活に戻れるのだろうか……。

 臍を曲げてしまった世良久美子は、あの後大きな音を立てて、部屋に閉じこもってしまった。乾は、いつも彼女を怒らせてばかりいる。そういうつもりはないのに、だ。そして、損ねた機嫌を取ろうと焦ってますます火に油を注いでしまう。

 心臓の音がうるさい。胸を下にして寝転がっているのだから、当然と言えばそうなのかもしれないが、妙に速く高いその鼓動は、乾の不安を妙に煽った。

 不安の原因はわかっている。――およそ五か月前の、あの事故だ。宙に放り出された七人の学生たち。乾は下から四番目だった。命綱であるザイルにところどころ裂け目がある。そのことを知った時は、全身の血の気が引く音というものを人生で初めて聞いたものだ。

 眼下を見る勇気はない。クレバスの下には、深い闇が、化け物の口のように延々と広がっている。そのことは見ずとも理解できた。全身の神経が、これでもかと研ぎ澄まされていた。緊張感から一秒間に心臓が何十回も打っているような気がした。だから、すぐ真下で久美子が森内に何事か囁いた声ははっきりと耳に届いていた。

――切って。早く。

――え。

――今なら、誰も見ていないわ。でないとアタシたちみんな死ぬのよ。

耳を疑って、下に目を転じたときには、早見エメリの身体は宙に放り出されていた。そして――久美子の身体越しに見えた森内の右手には、登山用のナイフがしっかりと握られていた。

乾は電流に打たれたように、身体を起こした。――つもりだった。あれ? と思った時には身体に力は入らなかった。身体が鉛のように重い。まるで空気がコールタールにでも変化してしまったかのようだ。

そのまま、乾拓也は耐え難い眠りの底についた。
第二章5月2日



08:00



 雲の多い朝だった。

特にリビングの窓から見える西の空は黒く、朝日の姿も数えるほどしか拝めていない。前日の快晴とはうってかわって、肌寒い夜明けだった。

リビングには、続々と顔が増え始めた。

前日よりも日の光が弱いせいか、同じはずのリビングの壁の色もどこかもどんよりと薄暗く、湿っぽく感じられる。

「乾はまだ寝ているのかな」横井がソファの上で背伸びをした。

 乾以外は、朝の七時半にはリビングに揃っていた。皆一様に、疲れの残った、青白い顔をしていた。

「世良さん、昨日はあの後、そのままそれぞれの部屋に戻ったの?」

「戻ったわ」

「乾はよく引き下がったな」

「しばらく部屋の前でなにやら言っていたけど、取り合わなかったわよ。しばらくしたら、音が消えたから、諦めて自分の部屋に帰ったんじゃない?」

「そうか」横井は白い顎に拳をあてて俯いた。

「いじけちゃっているんじゃないですか?」と、和泉。彼は、青白い面々の中では、もっとも健康そうな顔色をしていた。最も、元から色白なため、変化がわかりにくいだけかもしれないが。

「乾ならあり得るな」横井が苦い顔で肯いた。

「部屋で怯えているかもしれないわよぉ」久美子が茶化した。

「ぐっすり寝入っているのかもしれませんね。案外神経ずぶといですから、あの人」和泉があっけらかんと言った。

「なんにせよ、極力一人でいるのは避けた方がいいのは確かなんだよな。起こしてくるか」

 横井が立ち上がると同時に、檜山もソファから腰を浮かせた。

「全員で迎えにいくか。その方が乾も安心するだろう」



 *



 横井はコンコンコンと、三回扉をノックした。

 うっすらと寒気の蠢く灰色の廊下に、乾いた音が反響する。

「乾ぃー、まだ寝ているのか?」

 横井は、ノックを繰り返しながら、その名を呼んだ。ノックはコンコンから、ドンドンへと徐々に音を変えていく。

「そういえば、あの人、寝起き悪かったですよねぇ」廊下の真ん中あたりで、和泉があくび混じりに暢気な声を出した。「こんな状況でも熟睡できる神経は、素直に感心しますけどねぇ」

 お前もなかなかだろ、という心の声を押し殺し、横井はドアノブに左手を掛けた。

「乾、開けるぞー」

右手の拳で、ドンドンと扉を鳴らしてから、左手にぐっと力を込めた。

ノブが、まわった状態のまま、ドアは閂に阻まれてガンという音を鳴らしただけで、動かなかった。

「鍵が閉まっているんだ」

「様子がおかしくないか?」隣で檜山が眉間に皺を寄せた。「これだけの音で全く反応がないのは」

 面々の表情に緊張が走る。

久美子は両手で自らの頬を包み込み、ぶるりと全身を震わせた。

小夜は脳裏に浮かんできた、森内の物言わぬ躯の映像を振り払うように、おかっぱ頭を強く揺らした。

 その目の前では、依然横井が乾の名前を連呼している。

「こうまでしても起きないなんて変だ」横井が振り返り、突き動かされるような早口で言った。そして、「おい、乾! 乾」咳きこむように、みたび右手で扉にノックを、左手でドアノブを回しながら、ドア一枚隔てた向こう側にいるはずの後輩の名前を連呼した。

「横井」檜山にその名を呼ばれて、横井が振り仰ぐ。「ドアを破るぞ」檜山は気合を込める武人のように、細く深く息を吐いた。

 平均百八十センチ超の男二人が十一回体当たりをした頃、ビシィと音を立てて蝶番が外れた。遅れて二メートル強ある分厚い板がバァンと地面に横倒しになる。

 その瞬間、脳の芯にズンと来るような鋭い臭気が鼻と目を刺した。先頭にいた横井は思わず「うっ」と漏らす。しかし、ひるまず倒したばかりのドアを踏みつけて、中へと足を踏み入れた。

 乾拓也はベッドにうつ伏せたまま全く動かない。入口に向けられた顔は苦悶の表情のまま硬直しており、その目は完全に光を失っていた。

 カーテンの奥の、横滑り出し窓は三枚とも閉まったままになっている。

横井に続いて部屋の状態を確認した檜山がはたっと表情を凍らせて鋭く言った。「ガスだ。全員一旦階下に降りろ」

「えっ」と一同にどよめきが起こる。

「なに、何が起きているの?」部屋の外で久美子がおろおろと顔を揺らした。

「中で乾が死んでいる。この匂い、毒ガスかもしれない」横井が右掌で鼻口を押えて叫んだ。

「空気より重いガスかもしれませんよ」和泉が廊下で首を傾げた。

「わからんからとりあえずみんな外に出た方がいい。――降谷さん、世良と龍川さんを連れてコテージの外で待っていてくれるか?」檜山は瞬時に、瑛梨が一番落ち着いていそうだと判断して指示を出した。

「いやよ、外なんてアタシ」久美子が長い髪を振り乱していやいやと首を振った。

「俺らもすぐに降りるから、頼む」

檜山にここまで言われてはと、久美子もしぶしぶと首を縦に振った。

久美子のその様子に、檜山もほっと顔を緩めた。そして、再び頬を引き締める。

「今から乾を抱えてくるから、外で待っていろ。――横井、和泉手伝ってくれ」

「ああ」

「わかりました」

 パタパタと階下へ消える三組の足音を見届け、檜山は大きく息を吸いこんだ。

「息を止めろよ」

「わかった」

 乾拓也の身体は、男たち三人の手によって、一階の踊り場まで運び込まれた。

「もう駄目です」足を持っていた和泉が、プハァと息を吐いた。「乾さん、もう死んでいますよ、これ」

 踊り場に下ろされた乾の身体は冷たく、完全に動きを止め、硬直は上半身から下半身にまで及ぼうとしていた。

「死後十時間は経っていないと思いますが、少なくとも五時間程度は経っているんじゃないですかねえ」和泉が肩で息をしながら、二人の上級生の顔を仰ぎ見た。

 檜山と横井も、続け様に動きを止めた。

「窓は閉まっていた。とりあえず、乾には悪いが、身体は一度踊り場に下ろそう。俺はもう一度二〇一号室の中に入って、窓を開けてくる」

「二階の窓は全部開け放した方がいいな」檜山に横井が同調した。

「僕も手伝います」

「よし、じゃあ和泉は二〇二号室と二〇三号室を頼む。俺は二〇四号室と二〇五号室だ。開け終わったらとりあえず、外で集合な」横井がてきぱきと指示を与え、三人の男たちは一様に示し合わせたようにこくりと頷くと、それぞれ二段飛ばしで階段を駆け上った。



 *



 それから、二分もしないうちに三人の男たちは皆、コテージの玄関前へと転がり出てきた。

 和泉は床に腰を下ろして、ハァハァと喘いでいる。

 何があったのだろうという目で窺ってくる女性陣に向けて、横井がこちらも肩で息をしながら伝えた。

「窓を……開けてきた……毒ガスだからさ……このままだと、コテージ全体にガスが充満しちゃうだろ」

「三人してぜえぜえと。だらしないわね」

「無茶言うなよ、世良。息を止めたまま全力疾走するの、かなりきついぞ」横井は、左手で胸を抑えながら、呼吸を整える。「俺の使っていた二〇五号室と、森内を寝かせている二〇四号室の窓は開けてきたぞ」

「二〇二号室はドアの鍵が閉まっていました」和泉は地面に足を投げ出したまま、薄い胸を上下させた。

「あ、ご、ごめんなさい」小夜がギクリと顔を強張らせた。「私、鍵を閉めたまま出てきたので……」

「いや、こんな事態、誰も想像していなかっただろう。龍川さんは悪くないよ」横井は胸に当てていた左手をひらりと振った。かなり息が整ってきたようだった。

「その代わり、二〇三号室は開けてきましたよ」和泉もよろりと立ち上がると、パンパンと尻についた砂を落とす。

「乾の使っていた二〇一号室は、カーテンも窓の鍵もきれいにしまっていた。乾の眼鏡は書き物机の上に置いてあった。そのくらいしかわからなかった」檜山は平然とそう報告した。

「密室、ってやつか。犯人はどこからガスを入れたんだろうな」横井が、白い顎に拳をあてた。「とりあえず、ガスが抜けきるまで何時間かかるかわからないけれど、ここで突っ立っとくのももったいない。その間に昨日できなかった島の探索をしようじゃないか」



 08:30



「二手にわかれよう」横井がぐるりと一同の顔を見回した。

「アタシと横井くんと檜山くんがグループね」久美子が間髪入れずに言うのに、「そこ二人は分かれなきゃだめですよ」和泉が口を尖らせて、反論した。

 そこおからグーとパーで久美子、横井、瑛梨のグループと、和泉、小夜、檜山のグループに分かれて行動することになった。

「集合時間は、そうだな」横井が腕時計の文字盤を見て、「十一時でいいか?」檜山に問う。自然と、横井と檜山がリーダーのような役回りになっていた。

「潜伏者を見つけたら、どうしたらいいんですかぁ?」和泉が小首を傾げる。

「そういえば、瑛梨ちゃん、ロープがあるって言っていたよね?」横井がそのまま、瑛梨へと視線を向けた。

「ありますよ。倉庫に」

「じゃあそれを取って来て適当な長さに切り分けよう」

「はい」

「森と船着き場中心の島の南側と、建物や森中心の北側でわかれるか?」横井は、再び檜山に向き直る。

「わかった」檜山は淡々と首肯した。「北側の方が、潜伏できそうな場所が多いから、男が二人いる俺らが見てまわった方がいいかもしれねぇな」



 *



コテージを出て西に向かうとすぐに体育館が見えてきた。バスケットコートが一面取れる程度の小さなものである。オフホワイトの外壁に、赤い屋根、壁の低いところに窓はなく、十メートル以上の高さに大きな硝子窓が並んでいた。その窓にも、分厚い暗幕が張ってある。

施錠されていないと瑛梨から聞いたときには物騒な話だと小夜は感じたが、改めてここが孤島であることを再確認させられた。ここは基本的に、コテージ客とスタッフしかいない島だ。侵入者の影におびえている今の方がおかしな状況なだけで。

体育館の入口は、スムーズに開閉した。金属製の押戸を観音開きにして、三人は中へ入った。入ってすぐは下足箱があり、一段上がったところから、モルタルの床になっている。左手にはトイレがあり、右手には管理人室というプレートがあった。

目の前には、黄色に塗られた金属製の引き戸がある。開いた瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫でた。体育館のフロアは隅々までワックスが行き届いていた。埃もほとんどなく、つるんとしている。コートの仕切りを表わす色とりどりのラインが縦横無尽に引かれていた。

入ってすぐ右手に、縄梯子が下りている。床には、引き上げ式のフックのような突起があった。縄梯子の下端を床の突起に引っ掻けて、ぴんと張ってから二階へ昇るのだろう。

二階へと続くルートは、この北東の角に位置する縄梯子一か所だけのようだった。

二階は幅一メートル強の内向きのベランダ状になっており縦格子の隙間から、二階には誰も隠れてはいなさそうなことが見て取れる。フロアと違ってこちらは埃や虫の死骸が幾つか散見された。

「一応カーテンの裏側も見てみますか?」

「カーテンの裏に誰かが隠れていたら、外から丸見えだろうけど、一応見てみるか」

 外から見る限り、二階部分の暗幕の向こう側は、大きな硝子窓になっているはずである。檜山の言う通り、誰かがそこに隠れていたら、フロアからは見えないが、外から丸見えということになる。

 異論を唱えつつも、檜山が縄梯子に手を掛けた。

「気を付けてくださいね。一応下でロープを張っていますからぁ」和泉が、縄梯子の最下段を足で踏んでピンと伸ばす。

 檜山は、その長身からは想像できないくらいにひょいひょいと軽々しく昇って行った。

 そのまま、暗幕をひらりと捲って見せる。瞬間、肩を揺らして二、三回咳をした。和泉と小夜の背筋がびくりと緊張する。森内のことが二人の脳裏に過ぎっていた。

 檜山はそんな二人の心境を察したのだろう、右手で違う違うとジェスチャーを返した。

「埃がすっごい」暗幕を元に戻して、顔を歪めて見せた。「虫の死骸もすっごい」

 一階のフロアから見た以上に、埃と虫の死骸があるようだった。そのまま、檜山は手際よく、十数枚の暗幕を捲って裏を確認してまわった。やがて――。

「何もなかったぞ」再び軽い身のこなしで、縄梯子から降りてきた。「だいぶ気管がやられたがな」と、肩を竦めて口の端を歪めてみせた。

「体育館が一番クサいと思ったんですけどねえ」和泉が暢気な声をあげる。

「あとはトイレと管理人室と倉庫か」

 管理人室はフロアからは、強化硝子の腰高窓で仕切ってあり、嵌め殺しであった。窓から覗いてみたところ、中に人はいない様子だった。隠れる場所もない。入口は玄関側にあるようで、回り込んで確認したところ、こちらは鍵がかかっていた。

 倉庫はフロア側にあった。黄色の引き戸になっており、中には各種球技のボールとネット、支柱と卓球台、隅にはモップと箒と塵取りがあった。動くものはいない。

 最後にトイレを確認した。個室と掃除用具入れを含めて、こちらも人っ子一人いなかった。

「いませんでしたねぇ、誰も」玄関に戻って来たところで、和泉が残念そうに檜山を振り仰いだ。三人は万一の際に逃げられるよう、土足で体育館の中に上がり込んでいた。「箒借りてきたら、少しは防具になりますかねぇ」

「持ってくるか?」檜山は犯人捕獲用のロープを斜め掛けにしているため、これ以上の荷物は遠慮したいのだろう。和泉は前に向き直って、唇を歪めた。

「埃が降ってきそうですね」

「そうだな」檜山は苦笑を浮かべた。先ほどの暗幕トラップを思い出したのだろう。「その代わり、使えそうなものが一つあったな」と、ぱちんと指を鳴らすと、檜山はフロアに戻っていった。

 二人は慌ててその長身の影を追う。

 檜山はすぐさま、右手に赤い筒を抱えて戻って来た。

「非常灯だ」

 そう言って、スイッチをスライドさせて、明かりがつくのを確認して、黄色い引き戸を滑らせた。

「次はプールだな」



 *



 プールは、ヒョウタンの形をした、二十畳ほどのものだった。六畳ほどの更衣室が男女それぞれに用意されており、その脇に男女兼用のトイレが一つ。シャワー室が一つあるのみだった。

 プールの水は、深緑色の藻と、虫の死骸で濁っていた。

 こちらにも犯人の姿はない。床に積もった砂利に刻印されている足跡も、三人分だけだった。

「まあ、プールに潜伏するくらいなら体育館に潜伏しますよねえ」和泉が間延びした声を上げる。「コテージとの往復もラクだし、雨風もしのげるし。ここがハズレなら、誰もいないんじゃないですかぁ?」

「誰もいないってことは、犯人が俺たちの中にいるってことだぞ」

「そうですねぇ」和泉は口を尖らせた。「檜山さんは誰が怪しいと思っているんですか?」

 檜山はほんの一瞬身体を固くしたようだった。が、すぐに、元通りに長い脚でゆっくりとプールサイドの苔を踏みしめる。

「わかんねぇな。森内の事件は全員に犯行が可能だったし、鷹野さんの事件は逆に全員に犯行が不可能だ。乾の事件に至っては、どうやって毒ガスを部屋に充満させたのかわからない」

「檜山さんがお手上げなら、みんなお手上げでしょうね」和泉は宙に吐息した。

プールのフェンスは格子状の白い金網になっていた。その周りを反時計回りにぐるりとまわっていたところ、プールの西側に枯れ井戸を見つけた。周囲一メートルに四角くロープが張ってあり、木に黒のマジックで手書きした立ち入り禁止の札がぶら下がっている。

「井戸ですよ」和泉がロープの前に立った。「木の蓋がしてありますね」そして、背後の長身を振り仰ぐ。

 檜山も和泉の横に並ぶようにして、中を覗き込んだ。

 直径一メートル強はありそうな大きめの丸いコンクリート製の井戸に、把手付きの丸い木の蓋がはまっている。

「蓋が汚れていないな」檜山がロープを跨いだ。

「え、檜山さん? 危なくないですかぁ」和泉が目を丸くする。

 背後で小夜もこくこくと頷いていた。

 檜山は制止の声に構うことなく、しかし、落とし穴や地面に腐った箇所がないか、慎重に足場を探りながら、井戸の脇に立った。そして、唐突に背後に向かって問いかけた。

「井戸は何のためにある?」

「水をくむためでしょう」和泉は一瞬面食らった表情を見せたが、すかさず答えた。

「そう」檜山は顎を引いた。「じゃあ、井戸を立ち入り禁止にするようなことがあるとしたら、その理由はなんだと思う?」

「それは……」和泉は顎に左手の人差し指をあてて、少し考え込んだ。「水道が整備されたから、いらなくなった、とか? あるいは、転落事故でもあったか」

「なるほどな」と、答えると同時に、檜山は木の蓋をずらして中を覗き込んだ。

和泉も興味津々に首を伸ばした。しかし、ロープの外からでは中は見えない。

 蓋をずらしたまま、一向に言葉を発する様子のない檜山に焦れて、和泉は「檜山さん?」と目を瞬かせた。

「蓋がある」

「蓋?」

「木の蓋の中に、もう一つ」

 その言葉に、和泉もたまらずロープの中へ足を踏み入れた。その気配を察した檜山が完全に木蓋を取り去って、場所を開けた。

 中には、ここにもまた把手のついた、四角いシェルターの入口のような蓋があった。

「開けてみるか」

「横井さんたちと合流してからにしません? この中絶対防空壕跡か何かですって。犯人いそうですよ」

「どう思う?」檜山はロープの外に立ったままの小夜を振り返って尋ねた。

「行ってみましょう」小夜は凛とした声で返答した。

 その返答に、和泉は目を丸くし、檜山は勝気そうに頷いた。

「龍川さんまで……。もう、知りませんよぉ」

「一人見張りに立つ必要があるが、二対一にわかれることになるな。どうわかれようか」

「やっぱり、横井さんたちが戻ってからがいいですよ」和泉は、普段になく焦ったような声を出した。

「私が一人で見張りをします」小夜がきっぱりと言い放った。

「ってことは、僕と檜山さんが中に行くんですね、はぁ」和泉は大仰に肩を落として見せた。

 その様子を見て、檜山は穏やかに言った。「お前も残っていてもいいぞ。俺一人で中へ行く」

「そんなわけにはいかないでしょう。もしもここが犯人の巣だった場合、中で檜山さんがやられたら次は僕たちなんですから。そうなったら絶対勝てませんよ。こうなったら一蓮托生です」

「俺の安全より、龍川さんを一人で残すことに抵抗があるんだが」檜山は、ロープの向こうの小柄な影に目を転じた。

「私は一人でも大丈夫です。こう見えて、幼馴染の子とはチャンバラして遊んでいましたから」

 小夜も頑として譲る様子はない。檜山はしばらく逡巡した後、「わかった」と小夜の目の奥を見て頷いた。

「何かあったら大声で叫ぶんだぞ。すぐ飛んでいくから。逆に俺らの方が犯人に襲われた場合は、大声で報せる。そうなったら走って船着き場の方へ逃げるんだぞ。横井たちと合流することだけを考えろ。いいな?」

「わかりました」小夜は力強く頷いた。

 内蓋は、思ったよりも静かに開いた。最近、誰かが油をさしたものと思われた。

 中はセメント作りの壁でひんやりとしている。壁から生えた、コの字型の把手上の階段を降りると、案外すぐに足の裏が地面を捉えた。檜山は懐中電灯で上を照らす。和泉の尻がすぐ目の前まで下りてきていた。降りた空間を隅々まで照らすと、一片が二メートルほどの真四角の部屋になっていた。その面の一つ――西側の一面に、再び金属製の扉があった。

「開けるぞ」檜山が、慎重にその把手に手をかけた。

 背後で和泉がごくりと喉を鳴らした。

 扉はギギと微かな音を立てて、しかし割とスムーズに開いた。西洋の城にありそうな、古い堅牢な扉だった。

扉を手前に引いて、中に懐中電灯を向ける。黴臭い冷気が全身を撫でた。

中は、研究室になっていた。医療用具一式に、くすんだ薬瓶がいくつか並んでいる。アルコールランプやマッチもあった。

「誰もいませんね」檜山の背後からそっと顔を覗かせた和泉が、小声で囁く。「医学部の研究室みたい」

「アルコールランプとマッチは狼煙につかえそうだな。マッチはコテージに行けば山ほどあるが」

「他に役に立ちそうなものはなさそうですね。行き止まりみたいですし」和泉がぐるりと顔ごと部屋を見回して、最後に檜山の横顔を仰ぎ見た「戻ります?」

「そうだな。長いこと龍川さんを一人にするのも心配だ」檜山がくるりと踵を返した。

「龍川さーん、だいじょうぶー?」和泉が外へ声を掛けると、「だいじょうぶですー」と凛とした声が返って来た。今まで聞いた小夜の声の中で一番の声量かもしれない。

 和泉、檜山の順に階段を昇ると、わかれたときと変わらない様子の小夜が出迎えてくれた。

「おかえりなさい」

「中は小さな研究室が一部屋あるだけだったよ」和泉が、全身についた錆びや埃を払いながら伝えた。

「怖かったろ」檜山は、箱型の穴倉から顔をだして、目の前のおかっぱ頭に微笑みかけた。

「はい」小夜は正直にこくりと頷いた。

「ごめんな。危ない目に遭わせて。今考えればやっぱり軽率だった」檜山は四角の扉と、木蓋を順に閉めて、軽快に地面を踏んだ。

「私が言い出したことなので、大丈夫です」小夜は力強く頷いた。



 *



三人は、一度コテージの玄関前を通り、今度は東方向へと足を向けた。

薄暗い森である。木々が折り重なるようにして群生していた。その一角に、木のトンネルがある。そこだけは下草もなく、人一人が通れるくらいの獣道が遠くへ続いていた。層になった木枝や熊笹に阻まれて、その道がどこに繋がっているのかは判然としない。

自然のアーチをくぐる前に、「一雨くるかもしれませんね」和泉が、森から見てコテージの向こう側、西の空を見上げて言った。

空は前日と比べて半分もないのではないかと思えるほど、低い位置に来ていた。墨汁に水を混ぜたような灰色の雲が、空一面に広がっている。風もだいぶ出てきた。先ほどから木々のざわめきが木霊のように両耳の鼓膜を順番に叩いた。

そんな中、時々低木に服を撫でられながら、三人は一列に小道を進んだ。

木々のドームを潜り抜けたその突き当りは、断崖絶壁の崖になっていた。

振り返ると、こんもりとしたブロッコリーのような常葉樹の群れが見える。その奥にはコテージの屋根があるはずであるが、青々と生い茂った樹木郡に遮られて見えなかった。

「潮の流れが速そうですね」崖から海を覗き込んだ和泉が、顔を引きつらせた。

「ああ」

「ごつごつした岩だらけだ。落ちたらひとたまりもないですねぇ」



 09:30



「なんでアタシたちがよりによって南側なのよ」

 久美子が水色のチュールスカートの裾をはためかせた久美子がぶつくさと呟いた。これでもう何度目かわからない。丸太製の階段は、ヒールではさぞかし降りにくいことだろう。

「不服だったのかい?」横井が振り仰いで尋ねた。

「この長い階段をまた昇らないといけないんでしょう?」

「すみません」なぜか瑛梨が頭を下げた。

「階段が長いのは瑛梨ちゃんのせいじゃないよ」横井は瑛梨から、再び久美子に視線を移した。「それに世良さん、体育館やプールの更衣室に犯人が潜んでいる可能性が高いと思わないかい?」

「どういうことよ」

 気幻想に眉を顰める久美子に、横井は一度周囲をきょろきょろと確認して小声で言った。

「コテージまでの往復に時間がかかる上に、壁も屋根のない島の南側で過ごすよりも、海風をしのげる屋内に犯人が潜んでいる可能性が高いってことさ」

「島の北側の探索の方が危険だってことですか?」瑛梨が目を丸くした。

「そういうこと」

「じゃあ、それをわかっていて横井くんはアタシを南側のグループに分けてくれたってわけ?」久美子の足取りが急に軽くなった。

「どう捉えるかはお任せするよ」横井は茶目っ気たっぷりに肩を竦めてみせた。

「ふふん。横井君、あなたもなかなかずるがしこいわね」

「誉め言葉と受け取っておくよ。――ところで」と、横井は視線の先を指さした。ギャアギャアという耳障りな鳴き声が先ほどから鼓膜を震わせていた。「あの鳥が群がっているところって、昨日鷹野さんの遺体を安置した場所だよね」

「酷い匂い……」久美子が鼻口を両手で覆って、嫌悪を示した。

「鷹野さんのご遺体もだいぶ腐敗が進んでいるようだね」

「アタシ、こわいわ。死体も鳥も怖い! これ以上近づきたくない」久美子が大仰に両手で身体を抱いて身震いした。

「仕方ないな……じゃあ、ここから先は、二手にわかれるか?」

「なにそれ。女子二人ここに残れってこと? いやよ」

「でも先には行きたくないんだろう?」

「当然よ。死体の傍を通るなんて、鳥肌が立つわ」

「世良さん、選択肢は二つだ。三人で島の南端まで見てまわるか、瑛梨ちゃんと二人でここに残るか。この二つに一つだ」横井が感情の読めない顔の前に、人差し指と中指を立てて示した。

「じゃあ、行くわ。行くわよ。行けばいいんでしょう!」

「ありがとう」わかればいいと、満足げに横井は両手を下に下ろし半身を翻した。

「でも、船と南端まで見たら、引き返してコテージに戻るからね。もうアタシ疲れちゃったわ」



11:00



 横井たち三人が丸太を昇り切った辺りで、ちょうどコテージの前に立つ、三人の姿が目に入った。ロープも分かれたときとそのまま、束になって床に置かれており、暗に不審者に遭遇することはなかったのだということが察せられた。

「潜伏者はいませんでしたよー」和泉の高めのテノールが響く。

やまびこのように横井も艶のあるテノールを張り上げた。「こっちもだ」

「換気ってもう充分ですかね」

「何の毒物か、濃度はどれくらいなのかわからない以上、何とも言えないな」

 横井は額に滲んだ汗を拭いながら、コテージを仰ぎ見る。初日に見たときは学生なりの贅沢の象徴だったその建物も、今では二人の命を奪った魔の要塞である。

「正午過ぎくらいまでは、体育館で過ごした方がいいんじゃないですかね」瑛梨が息を切らしながら言った。

「そうだなあ」横井も賛同を示す。

「じゃあ、その間に俺は狼煙をあげてみる」檜山が日陰に並んだ小瓶を拾いあげて言った。

「なんだそれ」すかさず横井が尋ねる。

「アルコールランプ、それとマッチ箱。プールの向こう側に、地下研究室があった。そこから借りてきた」

「地下研究室? そんなものがあったのか」

「行ってみるか? プールの向こうの古井戸の中にあった」

「いや……」横井は背後の女性二人を見遣る。だいぶ疲労の滲むその表情を確認して、檜山に向き直った。「今はやめとくよ」

「そうか」そう言うと、檜山は早速、コテージから東の方角へと向かった。

「東の森を抜けたところに、見晴らしの良い丘があった。そこがいいだろう」

「なるほど。アルコールランプを燃料にするのか。へえ」横井が切れ長の目を丸くして関心を示した。「俺もついていくよ」

「私も行きます」瑛梨も右手を小さく上げた。それに、小夜も続く。

「アタシは疲れたわ」世良がその場にしゃがみ込んで口を尖らせた。

 その様子をやれやれと言った表情で一瞥した後、和泉が肩を竦めて言った。

「じゃあ、僕、世良さんと体育館で待機していますよ」

「異論ないか?」

横井の質問に反論する者はいなかった。さすがの久美子も、どうやら戦闘員を寄越せとの悪態をつく元気もないらしい。

「じゃあ、くれぐれも気を付けろよ」

 そうして、四人は東へ、二人は西へとそれぞれ別の道を進んでいった。



11:30



 四人は道中、枯れ枝を拾い集めながら、東の断崖を目指した。檜山を先頭にところどころ藪をかき分けながら、前へ進む。一度通った道だったため、先刻よりもスムーズに目的地へ着くことができた。

「どうして枝を拾っていくんですか?」瑛梨が小声で横井のうなじに問うた。

「生木だと、幹に水分が残っていて、うまく火がつかないんだよ、確か」

「へえ」瑛梨は感心したように、何度も頷いてみせた。

 四人は古いタオルと折れた大木の幹で白旗を作り、その隣に火を焚いた。

「本当はシーツの方が目立つんだけどな」檜山が、はためくハンドタオルに視線を落として言った。

「ないよりはマシさ。それよりも、運よく船やヘリコプターが通ればいいけどな」

「ただの焚火だと思われたら意味がねぇしな」

「言い出しっぺが悲しいことを言うなよ」横井は肩を竦めておどけてみせた。

「ンだよ……」

「や、でも、これで駄目ならお手上げだからなあ。俺たち、二十五日まであと三週間以上もここに缶詰めだぞ」

「河西が不審に思って通報してくれることを祈ろうか」檜山が水平線を眺めながら言った。灰色の空と、鉛色の海。その境界線はあまりにも遠いところにあり、曖昧にぼやけている。

「ああ。河西を信じようじゃないか」横井が元気づけるように、背後の女性陣を振り返った。それから、「おなか減ったなあ……」と、引き締まった腹をさする。

 瑛梨も首肯して、眉を下げた。

「どうすればいいんでしょうね……このままじゃ本当に餓死してしまいます」

 暗雲がそのまま大気に混じったような、重く湿った空気がその場に立ち込めた。なんだか、朝よりも気温が下がった気がする。瑛梨はぶるりと身体を震わせた。単に、汗が乾いただけだろうか。

そうしたところで、思いつめたように、横井が口火を切った。「なあ、檜山。俺たちの中に犯人がいると思うか?」

 檜山は、一度横目で横井の双眸を見遣った後、再び空と海の中間点へと視線を戻した。

 横井も一歩前へと踏み出し、ほんの少し高い位置にある茶髪に肩を並べる。「俺だって理由もなく仲間を疑っているわけじゃないよ。島に潜んでいる人間がいないとなると、それ以外に考えられないと思ってさ」

「まあ、そうだな」檜山は視線を足元へ落とした。「考えたくないけど」

 横井は自分から言い出したというのに、檜山の返答にショックを受けた様子だった。はっきりと目に見える形で引導を渡されたような気分になったのだろう。

「そんな……」瑛梨が眉を八の字に顰めた。

「でも、昨日の鷹野さんの事件の時に、私たちの中には犯行が可能な人がいないって」小夜がか細い声で反論した。

「そうなんだよな」横井は半身を翻して、小夜の白い顔を見た。「それに、今日の乾の事件も」

「ああ」檜山がため息混じりに首肯した。

「あれは完全に密室だった」横井は唇を噛む。

「ドアは俺と檜山で体当たりするまで鍵がかかっていた。間違いなくこの手で確認したんだ」横井は広げた両手をまじまじと見つめた。「窓も閉まっていた。どこから毒ガスを入れたってんだ」

「ドアの下に隙間はなかったんですか?」小夜が尋ねる。肩の上で切りそろえられた黒髪が揺れた。

「そんな隙間なかった」横井に代わって檜山が答えた。「昨日鷹野さんを捜索するときに全部屋ざっと仕掛けがありそうなところを調べてまわったんだ。その時、ドアの下も確認したが、チューブはおそらく入らねぇ。入るとしたら縫い針一本くらいのもんだろうよ。和泉も一緒に確認している」

「縫い針一本じゃあ、人一人殺せるだけのガスは無理くさいな……」横井が、ふうむと唸った。

「ユニットバスの換気扇はどうですか?」瑛梨がはっと瞠目した。「ダクトで天井裏が繋がっているのなら、そこからホースか何かで」

「なるほど。それで、そのチューブなりホースなりをずるずると回収した、と」横井が刮目して肯いた。

「でもよ、各部屋エアダクトで繋がっているんなら、エアダクトを介して二階中にガスが充満するんじゃねぇか?」檜山が異論を唱える。

「確かに」横井が白い顎に手を当てて俯いた。「俺や小夜ちゃんの部屋とか、二〇一号室の隣だもんな」

「あ、そうですよ」瑛梨が横手を打った。「忘れていました。各階一号室と五号室は、エアダクトが孤立しているんでした」

「そっか」横井は残念そうに唇を舐めた後、「あっ」と目を丸くして檜山の横顔を見上げた。「それならば、外の通風孔から、それこそホースやチューブを差し込むことはできないのかな」

「二階だぞ」

「梯子か何かで」

「梯子が島のどこかに隠されているっていうのか」

「確かに……そんな大きな梯子があったら気づくよねえ……」横井ががりがりと形の良い頭を掻いた。議論は再び暗礁に乗り上げてしまったようだ。

「投げるのはどうですか?」再び瑛梨が、拳で掌を打つ。

「投げる?」横井が片方の眉を持ち上げた。

「ホースかチューブかの端に重りをつけて、通風孔に投げ入れるんです」

「発想は面白いけどね、野球部でも難しい気がするよ」

「失敗したら音で気づかれそうだしなあ」瑛梨と横井のやり取りに、檜山も加わった。「窓を使う方法はねぇのかな」

瑛梨は「うーん」と顎に手を当てて唸った。「窓を開閉した人ならわかると思いますが、鍵はレバー式で結構な力を入れないと動きません。窓自体も縦滑り出し窓で転落防止に三センチしか開かないようになっています」

「そうか」檜山は肩を落として、息を吐いた。「確かにあの鍵は糸やテグスなんかじゃ開きそうになかったな。しかし……その数センチを利用する方法くらいしか、外からチューブを入れる方法を思いつかないんだよな……」

そこで、「くしゅん」と瑛梨がくしゃみを零した。ぶるりとその身体を震わせる。

「寒くなって来たね」横井も同じように両手で肘を抱いた。「上着を取りに行こうか。小夜ちゃんは大丈夫?」

小夜は小さく首肯した。「大丈夫です」

「じゃあ……俺と瑛梨ちゃんで行ってこようか。檜山、火の番、少し任せてもいい?」

「ああ。だが、コテージにはガスがまだ残っているかもしれねぇ。気を付けろよ」

「任せて。そう長居はしないさ」



12:50



 悪路とは言え、来た道を戻るのには五分と掛からなかった。

 コテージの玄関に足を掛けたところで、横井の発案で、一度体育館の様子を見に行く流れにになった。

 体育館の、正面玄関の入口をあけて、続けざまに黄色いスライドドアを開ける。

 中には久美子一人の姿しか認められなかった。

「あら?」久美子がマスカラで囲まれた両目を丸くする。「てっきり和泉くんかと思ったら。あなたたちなの?」

「和泉はどうしたんだ?」

横井は、一人冷たい体育館のフロアに座る久美子へと歩み寄った。もちろん、三人とも土足のままである。土足厳禁の、ワックスのきいたフロアを汚すことに罪悪感はあるが、保身には代えられなかった。

「それがトイレに行くって出て行ったまま戻らないのよ。もう十分くらいになるかしらね? 男子トイレだから様子を見に行くのも恥ずかしいし」

「なら、俺が見てくるよ」

 横井が踵を返したところで、背後の黄色いスライドドアが開いた。

「あれ? 横井さんに降谷さん」和泉が胸を擦りながら出てきた。「胃の調子が悪くて」

「大丈夫か」横井が少し下の位置にある、後輩の額に右手を当てた。「熱はないようだな」

「額に手を当てられたのなんて、十五年ぶりくらいですよ」和泉はにやりと唇を持ち上げた。「もう大丈夫ですから、心配いらないですよ」

「ならいいが」横井はくるりと反転して、久美子と和泉をかわるがわる見遣った。「それはそうと、俺たち上着を取りにコテージに戻るんだけど、君たちは大丈夫?」

「アタシ、それならシャワーを浴びたいわ」久美子が立ち上がった。

「シャワーはまだ無理じゃないか? 毒ガスが残っているかもしれないし、長居はまだやめた方がいい」

「あら。アタシの部屋、三階だから大丈夫よ、きっと」

 そう言いきると、久美子は返事も待たずにスライドドアの方へに歩いて行ってしまった。コツコツとヒールの音が、広いフロアに響き渡る。

 横井は肩を竦めて、和泉とアイコンタクトを交わした。

「どうする? 独りになるのが嫌だったら、先に女性陣を向かわせてもいいが」

「アタシはもう一人ぼっちはいやよ! 横井くんもついてきてくれなきゃ」

 入口から聞こえてきた久美子の大声に、和泉は肩を竦めて言った。

「いいですよ。僕、しばらく一人で留守番していますから」



 *



 横井行基は、洗面台に両手をつき、備え付けの鏡をじいっと見つめていた。

 鏡の世界では自分と同じ顔をした自分が、彼のことを見据えている。

 ――あれは十一月も暮れに差し掛かった日のことだった。

横井は森内に乞われて、早見エメリを誰もいない部室へと呼び出した。「何やら森内が相談したいことがあるらしい」横井がそう伝えると、エメリは四分の一スウェーデン人の血の混じったほんの少し堀の深い、人のよさそうな綺麗な顔を心痛そうに歪ませて二つ返事で快諾した。疑う素振りは一つもなかった。

「エメリに告白をしたい」

 森内からは、そう聞いていた。横井は、エメリがこっそり河西瑛介と付き合っていることに勘づいていた。だから、森内のそれが望みのない恋だということもわかっていた。実際――。

――横井は目を閉じて、深くため息をついた。

森内は深く傷ついた様子だった。彼は市議会議員の息子で、聞くところによると小さいころから裕福な家庭で何不自由なく育ったらしい。父を早くに失くし、女手一つでここまで育ててもらった横井とは、住む世界の違う男だった。

おそらく、それまでの人生において、挫折というものをほとんど知らない男だ。そんな男が同級生にフられた。平気なふりをしていたが、あれは虚勢だと横井は見抜いていた。そして――。そんな見えないクレバスを抱えたまま、自分たちはあのH岳に登った。

横井は目を開いた。瞬間、鏡の向こうの覆面と目が合った。

 咄嗟に声が出なかった。

 次の瞬間、硝子製のおおぶりの灰皿が、横井の頭部目掛けて振り下ろされた。



13:10



「お二人とも遅いですね」

 両膝を立て、両太ももの裏を両腕で抱えたまま、瑛梨が顔を上げた。視線の先には体育館の黄色い引き戸が口を閉めたまま立ちはだかっていた。

「一緒に行ったのに、別々に帰ってきたんだ?」和泉が、袖口についた糸くずを指でつまみながら尋ねた。顔色はすっかりいいようである。

 瑛梨は一つ首肯して口を開いた。

「横井さんとは二階までは一緒でした。二人で乾さんの遺体を二〇三号室に運び入れて、横井さんの部屋、二〇五号室の前でわかれました。一応、私が部屋を出てくるときに、二〇五号室をノックして声を掛けたんですけどね。反応がなかったので、誰もいない廊下で待つのも怖くて出て来ちゃいました」

「トイレか何かじゃないの? さっきの僕みたいに。世良さんはシャワーだからもうしばらくかかるだろうしね」

「世良さんにもあまり長居しない方がいいですよーって、横井さんが言ってはいたんですけどね。毒ガスが残っていないとも限らないからって」

「世良さんは、お風呂長いからね」

 苦虫を噛みつぶしたような顔で和泉が言った。

「そうなんですか?」瑛梨が目を丸くする。

 慌てて和泉は両手を顔の前で振った。

「ああ、えっと、親しい関係ってわけじゃないよ。山岳部のみんなで、旅館とかさ、泊まったりするだけで」

「へぇ、楽しそうですね」

「どうだろうね」和泉は悪戯そうに笑った。「降谷さんは、趣味は?」

「趣味、ですね……私基本的にインドアなので、読書だったり、絵をかいたり、そういう自分の世界の中に入る方が好きなんです」

「ふぅん、なんだか芸術家っぽい」

 和泉の言葉に、瑛梨は頬を掻いて照れ臭そうに笑った。

「そんな立派なものじゃないですよ。だから、みなさんみたいにアウトドアでばりばり活動している人たちのことは、少し憧れます」と、揃えたつま先を見る。底の擦れた黒い大ぶりのスニーカーだった。

「今度どこかの山に登ってみようか」

「いいんですか?」

「もちろん」和泉は純粋な笑顔を浮かべて言った。「まずは生きて帰らなきゃね」

「そうですね」瑛梨もつられてはにかみ顔を浮かべた。

 状況を忘れてしまえば、ごく平和なやり取りだった。穏やかな時間が流れる。この島で初めてのことのように思えた。

 やがて、和泉が右手首に嵌めた時計を見つめて顔を上げた。時計の針は十三時十五分を指している。

「横井さんと世良さん流石に遅いね。僕見に行ってこようかな」

「もう十五分くらい経ちますよね。……あ」と、瑛梨が目を丸くした先で、黄色い引き戸が音もなく開いた。

「世良さん」

 髪をターコイズブルーのリボンでポニーテールに束ねた久美子だった。彼女は、きょろきょろと尻尾を揺らして、室内を見回した。

「横井くんまだなの?」

「おなかでも壊したんですかねぇ」

「和泉くん、あなたじゃああるまいし」

「繊細なんですよぅ、僕は」和泉が唇を尖らせてみせた。

「おなか壊すようなもの食べたのかしらね。こっそり」久美子がツンと顎を上げて言った。空腹で気が立っているらしい。

 なんとなく、張り詰めた空気が流れ始める。

 暗幕の降りたままの体育館の中は薄暗く、時折湿っぽい香りが鼻腔をついた。

「僕も上着、取ってこようかなぁ」和泉が反動をつけて立ち上がった。「ついでと言ったら先輩相手に失礼だけど、横井さんの様子を見てきますよ」



 *



「皆さん、性別も年齢もいろいろなのに、とても仲がいいんですね」

 両膝を立てて座った瑛梨が、黒いチノパンツの裾をいじりながら言った。泥が乾いて、らくだ色の粉がフロアに落ちる。

「あら、そう見える?」

「違うんですか?」瑛梨は顔を上げた。

横座りをした久美子が「どうかしらね」と、肩を竦めた。

「見えない火花はあったんじゃないかしらね」

「見えない火花」

「ええ。例えばね……森内くんは……、最初に死んだ彼ね、彼は、檜山くんにライバル意識バリバリだったわ。檜山くんってば、高校時代はバスケで全国大会ベスト四だし、今も農学部で新種の薔薇の研究とかやっちゃっているし。就職もこの不景気の中で、大手の内定ばんばんもらっちゃうエリートなのよ。顔も少し不愛想だけど、ハンサムだしね。本当は優しいし」

「そうなんですね」頬を綻ばせた久美子の横顔に、瑛梨はほんの少しだけ寂しそうな笑顔を向けた。

 久美子は、まるで自分の自慢話のように嬉しそうだった顔から一転、冷たい顔で続けた。

「乾くん――眼鏡の、毒ガスにやられた彼ね。彼は、森内くんの腰巾着だったわ。森内くんのお父様が市議会議員で、乾くんのお父様は市役所職員なのよ。別にどっちが偉いとか、そういうの、関係ないのにね」

「そう思います」瑛梨は曖昧に相槌を打った。

「横井くんは飄々としているけれど、彼、高校時代に怪我でバスケを断念しているのよね。だから、全国大会にまで出場しておきながら、あっさりと高校でバスケやめちゃった檜山くんのことを、少しうらやんでいるんじゃないかしらね」

「へえ……」人が複数人集まればいろいろあるものだなあ、という言葉を飲み込んで、瑛梨はほんの少し話の矛先を変えた。「お二人とも身長高いですもんね」

「そうね。スタイル抜群よね」

「ええ。横井さんは、今はもう怪我は大丈夫なんでしょうか」

 瑛梨の髪がさらりと肩口にかかる。人形のようなきれいな烏の濡れ羽色をしていた。

 久美子も、肩口に落ちた黒い髪の毛を、後ろへ払った。ウェーブのかかったポニーテールが艶やかに揺れる。

「日常生活に支障はないみたいよ。スポーツだって種目によってはできるし、登山も大丈夫」

「登山もハードそうですもんね」瑛梨は、一日前のアリバイ検証のとき、横井が檜山を実験係として、桟橋まで往復させた理由はそこにあったのかもしれない、と心の中で思いついた。

「その分、山頂からの景色は写真では味わえない感動があるけれどね。まるで、地図を上から見下ろしているような気分よ」

「いいなあ――龍川さんは大人しい方ですね」

 瑛梨は華奢なおかっぱ頭を思い浮かべて口元を緩めた。とても同い年とは思えない。高校生と言われても全く違和感がないほど若く見えた。

 久美子もつられるようにふわりと華やかなルージュを引いた唇を持ち上げた。

「小夜ちゃんはね、おとなしくて、本当にいい子よ」

「そんな感じがします。純粋そうで」

「あら」久美子は目を丸くして悪戯そうに笑った。「純粋なのは確かね。でもね、彼女、ちゃんと恋はしているのよ。河西くんに憧れて山岳部に入ったみたいなの。あ、今回来られなかった四回生ね」

「へえ」

「優しいのよ、河西くんは。それに、彼女の初恋の人に似ているとかなんとかで。聞いた話よ? 本人を問い詰めても顔を真っ赤にして教えてくれないんだもの」

「そうなんですね」瑛梨は薄く調子を合わせた。いない人のうわさ話は、なんとなく昔から罪悪感があるのだ。

 しかし、久美子は自分の世界に入り込んでいるようで、瑛梨のそんな反応はおかまいなしに熱っぽく話を続けた。

「河西くんはね、檜山くんと同じ研究室なのよ。頭がいいの。それで優しいんだから、そりゃあ小夜ちゃんも惚れるわよね」

「そんなに素敵なんですね。お会いしてみたかったです」

「彼、ちょっと今落ち込んでいるからね」

「そうなんですか?」瑛梨にとっては、相槌の一つだったが、彼女の言葉を聞いた途端、久美子の顔色がサッと変わった。

「ええ――」と、気まずそうに目を泳がせる。そして、話を逸らすように、「あ、そうそう」と横手を打った。「和泉くんはね。彼は、小動物みたいな可愛い顔して、医学部医学科のエースなのよ。将来は間違いなく医者でしょうね。少しあまのじゃくで毒舌だけれどね。と、ちょうど戻って来たわ」

 久美子の発話対象が、急に遠く飛んだのに、瑛梨も髪を揺らして振り向いた。

 黄色い引き戸が開いている。

 薄暗いフロア内からは、外光を背負ったその影は真っ黒に見えた。

「――一人なのォ?」

「駄目です。横井さん、部屋から出てきません。鍵も閉まっています」和泉が顔の前で手を横に振った。

「ちょっと……やだ、本格的に危ないんじゃないの?」久美子が顔を顰めた。

「檜山さんたちに声かけてきましょうか」瑛梨が腰を浮かせる。フットワークの軽い女性だ。

「ばらけないほうがいい。一緒に行きましょう、世良さんも」和泉が場を制し、三人は連れたって東の崖へと急いだ。



13:50



 二〇五号室の扉は和泉の証言した通り、鍵が掛かっていた。

「またかよ……」檜山が奥歯を噛みしめた。「和泉、一緒に開けるぞ」

 これには和泉も不平を零さなかった。もう、その場にいる男性は和泉と檜山の二人しかいない。

 二人が息をそろえて十五回程扉にタックルした瞬間、メキメキと蝶番が音を立てて扉が中へ倒れた。

 倒れたドアの上部が、何かに当たる。

 横たわった横井行基の足だった。

 横井は、部屋から入ってすぐ左にある浴室に上半身を突っ込んだ状態で、仰向けに倒れていた。はみ出した下半身に、破れた扉が覆いかぶさったという具合だった。

 久美子の甲高い悲鳴が薄暗い廊下に響き渡る。

「またガスですか?」瑛梨が反射的に顔を強張らせた。

「いや」いち早く遺体のそばに腰を下ろした檜山が、瑛梨を仰ぎ見た。「ガスではなさそうだ」

 瑛梨はほっと胸を撫でおろし、その安堵感を打ち消すように首を小さく振った。罪悪感が胸にじわりと広がる。室内へ一歩入ったことで、横井の上半身があらわになった。横井は顔を蒼白にして、後頭部から血を流していた。

そして、「首のところ……」瑛梨が指さした先、陶磁器のように真っ白になった横井の右の首筋には赤い針孔のような点があった。そのまま視線を手前――横井の胴体と腕と転ずれば、右手の内肘にも同じような点がある。

「撲殺……いや、失血死か?」針孔から血を抜かれたものとみて、檜山は和泉を振り仰いだ。

 和泉は白い顔を蒼くしながら、不承不承死体の傍に膝をつく。

「殴って昏倒させた後に血を抜かれたのか、それとも撲殺されてすぐに血を抜かれたのか……見ただけでは、わからないですね、ちょっと。ただ――針孔から出血しているから、生きている間に血液を抜かれた可能性が高いと思います」

 和泉は首を捻った。

「血を抜かれているの?」

 廊下で目隠しをした久美子が叫んだ。

「たぶんそうでしょうね」

「どうやって血を抜いたって言うのよ!」

「地下研究室にありましたね。採血器具」

「和泉くんが殺して血を抜いたんじゃないの? 医学部だし。さっきも自分から横井くんの様子見って言って出て行ったじゃない」

「それなら龍川さんだって看護学科でしょう」和泉が心外だと反論した。

突然矛先を向けられた小夜が、おかっぱ頭をふるふると左右に振って後ずさった。「そ、そ、そんな! わ、私じゃないです……!」

「龍川さんは俺と一緒にずっと狼煙の番をしていたぞ」すかさず、檜山が救いの手を差し伸べた。彼の視線は、横井の死体にある。

「それに、また密室ですよ。僕が犯人だとしても、十五分そこらで、横井さんを殴り殺して血を抜いて、挙句密室まで作り上げるなんて芸当、とてもできませんよ」

 和泉が柄になく、少々焦ったような様子で言った。

 瑛梨も「うーん」と、顎に指を当てて賛同する。「確かに、和泉さんが離席していたのは十五分そこそこでしたね。私、横井さんのことが気になっていたので時計は気にしていました」

「それに僕が犯行可能だって言うんだったら、横井さんと一緒にコテージに向かった世良さんと降谷さんにだって、犯行は可能だってことになりますよね」

瑛梨が刮目して否定した。「私だって十分そこそこで戻ってきましたよ」

「僕に可能であれば、の話であって、誰が犯人でも十分で横井さんを殺害して、密室を作って、戻ってくるなんて芸当できないってことを言いたいんだよ」和泉が左手の平をひらりと上へ向けた。先ほどの興奮は少しおさまっているように見える。

そんなあわただしいやり取りの中、しばらく黙って遺体を眺めていた檜山が言った。「和泉が犯人ならおかしなところもある。横井の後頭部の傷を見たら、右から殴られている」

「何がおかしいのよ」久美子が片方の眉を吊り上げた。

「和泉は左利きだ」

「あ!」久美子が顎をがくりと下げる。

 和泉が力水をもらったように、生き生きと付け加えた。「血も右首筋と右腕から抜かれているじゃないですか。これも、僕が犯人じゃない証拠になりますよね」

「いや」檜山は淡々と首を横に振った。「血を抜くこと自体は、死体の、向かって右側に座って手を伸ばせば、右半身から左手で血を抜くことだってできる。まあ、針が差し込まれている角度なんかを警察で詳しく調べれば、左右どちらの手を使ったものか判明するのかもしれないがな。でも、自分より身長の高い人間を殴り殺すには流石に利き手じゃないと難しそうだから、和泉は除外できると思う」



15:00



コテージを出て左手――東側には、青々と茂った広葉樹が思い思いに折り重なっている。並木には、獣道ができており、人一人が通れるほどの土色が一筋、断崖に向かって伸びていた。

 木々のアーチをくぐり、その突き当たりの断崖まで檜山と小夜は歩いた。もう、すっかり歩き慣れた道だ。

 獣道の終わりは、そのまま宙に続いており、真下は波しぶきの上がる海が広がっていた。海面から足元までの距離はかなりのものがあり、崖の淵から下を覗くだけで、心臓がひゅんと竦みそうなほどであった。波しぶきに洗われて角のだいぶ取れた岩と、突き出た鋭利な岩石を、無茶苦茶に積み上げたような様子である。

「あ」

 不意に突風が吹き、空き缶が転がって下に落ちた。

 と、その流れをじっと見つめていた檜山がぼそりと呟いた。

「離岸流か?」

真下に落ちた空き缶は一瞬沈んで再び浮かび、ひゅっと沖へと流れて行ったのである。

 リガンリュウ――小夜はその言葉がどういう字を書くのかわからず、頭の中で思い浮かべてみた。そんな様子の小夜に、檜山は、視線は眼下にとどめたまま、説明した。

「離岸流っていうのは、離れる岸でリガン、流れるでリュウという字を書く。簡単に言えば、その字のごとく、岸から沖に向かって強く流れる海流のことを言うんだ。この海は、波が海岸に対して直角に入っているから、離岸流が発生しているのかもしれねぇな」

「そんな現象があるんですね」

「ああ。離岸流は一見してわからないが、人間が一旦巻き込まれると抵抗するすべもなく沖へと流される。それくらい強い」

「じゃあ、この島の周りの海は泳げませんね」

「ああ。荒れていることが多いんだろうな。この崖の下は離岸流だし、桟橋の付近も海流が強いって言っていたし。だからプールが作られているのかもしれねぇ」

「泳ぎたい人のために、ですか?」

「じゃねぇかな。泳ぐ気満々の客の欲求を満たすために」くるりと踵を返して歩き出したところで、檜山ははたと立ち止まった。「待てよ」

 小夜が何事かと、上目遣いにその横顔を仰ぎ見る。

離岸流に、いつも桟橋方向に流れる潮。……これがあれば。

檜山は、右肩越しに小夜を見下ろすと、

「龍川さん、少し手伝ってくれないか?」

 そう言って、少年のように目を輝かせた。



 *



 それから二人は一旦コテージの玄関に戻り、そこから木々のアーチをくぐって岸壁まで走り、すぐさま引き返して再びコテージまで戻る。――そのタイムを計測した。

「三分五十八秒、ほぼ四分だな」

 檜山は軽く弾んだ息を整えながら、腕時計をじっと見つめた。

 隣では、小夜が肩で息をしている。性格もおとなしく、口数も少ない。一見文科系に見える小夜だったが、その脚力は流石登山部というだけあって、なかなかのものだった。

 檜山は何かに気づいたのだろうか。小夜がそんな期待の込められた目で頭一つ上にある、整った横顔を見つめていると、それに気づいた檜山が切れ長の目を向けてきた。

「これで、鷹野さん殺しの説明がつくかもしれない」

「え」

 何か事件のヒントを得たのだろう、そうはうすうす感じてはいたものの、予想し得なかった名前の登場に、小夜は目を瞠った。

「鷹野さんを殺害するために、あの蛇腹折の階段を使っていたら確かに往復二十分かかるだろう。だが、このルートの往復だったら女性の足でも四分で往復できる。鷹野さんを殺害して、崖から遺体を突き落とす、もしくはそのまま突き落とす、そうすれば、殺害する時間を入れても五分少々あれば犯行が可能だ」

「ああ!」小夜は小さな両手で口を覆った。「離岸流と、潮の流れ……」

「ああ。まず離岸流で遺体は島を離れ、今度は別の潮の流れによって、桟橋の脇に打ち上げられた。――来るとき鷹野さんが言っていたな。ゴミが打ち上げられて困るって」

「そういえば」

 小夜は、昨日の記憶を呼び起こすべく、虚空を見つめた。

「あの日、五分以上部屋を出たのは誰だったか……」

口の中で言いながら、檜山はジャケットの内ポケットから茶色い革製の手帳を取り出した。そして、付属のボールペンで何事かをさらさらと書き始める。

「厨房でコーヒーを淹れてくれていた降谷さん、トイレに出た和泉、龍川さん、シャワー室を見に行っていた世良に犯行が可能、か」

 と、小夜がじっと彼の手元を見つめていることに気づき、檜山は手帳を彼女の視線の高さまで下げた。

「これか。これな、俺なりに事件のことについてメモしているんだ」

「部屋割のときの」

「ああ、そうだな。昨日部屋割りを決めるときにも見せたっけ。ついでと言っちゃなんだが、後々警察にも事情を聴かれるだろうからな。忘れないようにメモってんだ」

「すごい……」

 小夜は素直に感動を示した。

 どのようにして家へ帰るか、どのようにして生き延びるか、殺人犯が来たらどうしよう。――そんな、即時的な心配で頭がいっぱいだった自身と大きな違いだ。やっぱりこの先輩はすごい。

 そんな小夜の羨望のまなざしを不思議に思ったらしい、檜山が「ん?」と首を捻った。

「わ、私も部屋に、手帳があります」

 小夜の言葉は、いつも少し言葉足らずだ。そんなことは、一年以上も一緒にいればだんだんわかってくる。檜山は脳内で彼女の言葉を補完しながら答えた。

「なら、後で一緒に事件をまとめてみるか? 俺一人じゃ見落としている部分もあるだろうし、その方が客観性も増すだろう」

 極端に口下手な後輩は、満足そうにこくんと首を縦に振った。檜山はほっと胸を撫でおろす。自身もあまり多くを喋る方ではないので、この口下手な後輩と二人きりで話すということは、この島に来るまでほとんどなかった。しかし、話してみれば不思議と居心地は悪くない。ひょっとしたら普段喋らない者同士、ちょっとした親近感があるのかもしれない。

「あ……と。どこで書くか。居間はもう使えるかな」

 乾を死に至らしめた毒ガスはもう消えているだろうか。檜山が左手の甲を険しい顔で眺めながら言った。

 横井が殺された後、檜山と小夜以外のメンバーは拠点を体育館からリビングへと移していた。戻ってみて彼らに異常がないようならば、もう換気は充分済んだと解釈していいだろう。そういう考えが浮かんで、流石にそれはと脳内で打ち消した。彼らを実健動物にしているようではないか。

「龍川さんの手帳を取りに行きつつ、横井の部屋の検分をしてみようか」

 檜山の提案に、小夜はこくりと頷いた。

「その前に、桟橋のところまで行って来てもいいか?」

「桟橋ですか?」

「空き缶が漂着しているか、確認してみたい」



15:45



 浜辺には、いくつかの空き缶とゴミは散見されたものの、崖から転がり落ちた空き缶と同じ色をしたものは見つからなかった。肩を落としつつ、二人は元来たつづら折りの階段を昇った。この二日で幾つもの山を登った後のような疲労感だった。

 玄関からコテージに戻る。居間には、瑛梨と久美子、和泉の三人がいるはずだった。単独行動はやめるよう、互いに確認し合ったばかりである。

 報告と確認がてら、居間に寄ることにする。ドアを開けると、予想にたがわず、薄暗い部屋の中三つの影がバラバラにあった。

 一番手前の和泉が振り返り、「おかえりなさい」と口端を持ち上げる。彼は入口に背を向けた、コの字型の手前側に位置するソファに腰かけていた。「何か収穫はありましたか?」

「いや……」檜山は濁す。

その様子を、小夜が不安げに仰ぎ見た。

檜山も小夜の視線に気づいたようで、空中で視線がかち合う。

そんな様子から、和泉は何かを察したようで、「そうですか。残念」と彼のほうから話を切り上げた。――きっと、収穫はあるものの、犯人がこの場にいる可能性が高い以上、下手に情報を漏らせないと、檜山は思っているのだろう。――ということに、和泉は勘づいただろうことが、檜山にはわかった。

しかし、ここは後輩の気遣いに甘えさせてもらうことにする。

「ちょっと、横井の部屋見てくる。夜にはここに降りてくるから」

 檜山は三人の顔を順々に見渡してから、居間の扉を閉めた。



16:00



 二〇五号室の敷居を跨いだ瞬間、血と死の香りが鼻腔から胸へと広がった。

 先ほど壊した扉は、二〇五号室の入口の壁に立てかけてある。

 横井の亡骸は、他の犠牲者同様、ベッドの上に安置されている。――檜山と和泉と瑛梨が協力して持ち上げたものだった。

「この部屋も鍵が掛かっていた。横井は、十三時から発見された十三時四十分の間に頭を殴られ、血を抜かれた」

檜山は、ペンの尻で髭の薄い顎をつつきながら口の中で呟いた。

小夜も、先ほど自室から取って来た手帳に何事かを書き込み始めていた。

「密室と、アリバイ。二つの謎があるんだなあ」檜山は腕組みをして椅子にもたれかかった。「部屋に何か仕掛けはないか、もう一度調べてみるか」

 檜山は反動をつけて椅子から立ち上がった。

 横井の荷物が目に入った。何かしらを漁った跡があった。

 大方、一階にいる誰かが、横井の荷物に食糧が残っていないか確認したのだろう。ハイエナのような行為を咎めるつもりはなかった。みんな生きることに必死なのだ。

 気づけば、すぐ傍に小夜が来ていた。手帳は、ソファと対になっている丸テーブルの上に開いたままになっている。

「龍川さんも部屋を捜索するのか?」檜山が尋ねると、「はい」と鈴の音のような声が返って来た。

 まず、横井が倒れていたバスルームから調べることにする。換気口は堅く溶接してあり、開く気配がない。バスタブの淵に昇って奥まで覗いてみたが、めぼしいものは何もなかった。

 このコテージはトイレとバスが同室になっており、床は白いタイル張りである。そのタイルひとつひとつを指で押したり、こすったりしてみたものの、動きそうなものはない。バスタブの栓、そのチェーン、そして手洗い場の下の壁、便器の裏――全てを探ってみたものの、抜け道のようなものは一つとしてなかった。

「これで何もなければ、とんだ現場荒らしだな」

 檜山が自嘲気味に言った。彼は、手袋も何もせずにべたべたと犯行現場を探っている。指紋を調べられたら、そこここに山ほどの檜山の指紋が浮かび上がることだろう。

 しかし、警察が来るまで、自らの命の保証があるとは限らない。檜山はこれ以上の犠牲を出さないためにも、何かヒントを得ようと躍起になっていた。

 横井の頭があった部分は、白いタイルが赤黒く汚れていて、先ほどの惨劇を思い起こさせた。そのままバスルームから出て、右手に折れる。次は、部屋の扉を調べることにした。

 扉もまた、全室同じ造りのようで、木製のドアをサムターン錠で施錠できるようになっている。ノブは金属製の丸ノブである。横倒しに立てかけられているその板を丁寧にコンコン、と拳で叩いてみた。すると――、「あっ」ある一か所を叩いた瞬間、扉の下半分がペコリとお辞儀をした。

 ――隠し扉である。

 扉の中に、もう一つ小さな扉があったというわけだ。

 檜山と小夜は顔を見合わせた。

「犯人はここを使って出入りしたんだ。もしかしたら、入る際には横井に声を掛けてドアを開けてもらったかもしれないけど」

「でも、横井さんの頭の傷は後頭部についていたんですよね」

「ああ」

「ドアを開けてもらって、出会い頭に殴りかかったのなら……」

 小夜は、そこで言葉を止めてしまった。

「前頭部に傷があるんじゃないかってことだよな」

「はい」小夜はこくこくと頷いた。

「それはそうだと思う。ただ、ドアを横井に開けさせて、それから横井が逃げようと部屋の中へターンした瞬間に襲い掛かったとしたら」

 小夜が怯えたように、目を瞑った。

 檜山は「すまん」と顔の前で右手を立てる。

「そのケースの場合、傷は後頭部につくかなって。まあ、入る時にこの抜け穴を使ったか、横井に鍵を開けてもらったかは外部犯か、内部犯かの判断材料になると思うが、どちらの方法を取ったとしても時間的にはそう変わらないだろうな」

「内部犯か外部犯かの判断材料……というのは、外部犯――知らない人が尋ねてきても、横井さんはドアを開けないだろうから、ですか?」

「そう。ただ、入り口をノックして鍵を開けてもらうとなると、他の人物に声を聴かれる可能性が出てくるよな」

「他の人物、ですか?」

「例えば、世良が犯人の場合には、降谷さんに、ノックや会話の声を聴かれるリスクのことだ。逆の場合もまたしかりだ」

 二人は、一度部屋の奥にある文机と一人掛けのソファへと戻って、ここまでのことを書き連ねた。十五分ばかりそうしていただろうか。小夜のペンが止まったのを見計らって、檜山が背伸びをした。

「誰か見ていそうで落ち着かないですね」

 小夜は、二〇五号室の入口へと視線を向けた。

 ドアを破ったため、階段や廊下から丸見えになっていた。

「じゃあ、一度居間に戻るか」檜山が手帳をパタンと閉じて立ち上がった。

「そうですね。あまり、現場で過ごしているところを見られると、よくないかもしれないですからね」

「内部犯だったら……ってことか?」

 小夜は肯いた。

「まあ、そうだな……ああ、長いこと現場にいるのが気になるってんなら、その、俺の部屋を使ってもいいが……ええっと……」

 檜山は、ほんの少し気まずそうに目を逸らした。男女が二人きりで密室に籠ることを意識したらしい。

そう感づいた小夜は、慌てて両手を顔の前で振った。白い首筋がほんのり桜色に染まっている。

「ああ、大丈夫です大丈夫です。なんなら、私の部屋でも」

「いや、流石に女性の部屋には」

「でも、三階の檜山さんの部屋よりも、何かあったときに二階の私の部屋にいた方が逃げやすいです、きっと」

 小夜は流暢に言った。

「確かに、龍川さんの言う通りだな。龍川さんがそれでいいなら、だけど」

「構いません。檜山さんのことは信頼していますから」



17:00



 二人は黙々と各々のノートに向き合った。

 小夜が一人掛けのソファと丸テーブルを使い、檜山が備え付けの書き物机を使っている。

 小夜は檜山の字が好きだった。憧れる河西瑛介を目で追う中で、自然と最も仲の良い友人である檜山のことも目に入ることが多かった。

河西瑛介は、小夜の初恋の人にそっくりだった。去年の四月、入学式の日に山岳部のブースで河西を見たときの衝撃たるや。世の中に似ている人間は三人いると聞くが、まさにそうちの一人だと思った。

小夜は東北の小さな村出身であり、そこで共に育った年上の男性に淡い恋心を抱いていた。訳あって、彼とはもう一緒にはなれないが、今でも彼のことを敬愛している。自分が好きなのは彼で合って、河西瑛介ではないと頭ではわかっていても、気づけは山岳部の入部希望届に名前を記入していたし、気づけば一緒に山に登っていた。

 彼には、早見エメリという彼女がいた。どうやら、二人が付き合っていることは部内では内緒のようだったが、小夜は、――いや、河西瑛介を常に目で追っている小夜だからこそ、気づいていた。二人は愛し合っている、と……。

 昨年の十二月初旬、H岳で落石に遭い、小夜たち山岳部の七人は底の見えないクレバスの真上で宙づりになった。その日は農学部の実習と重なったとのことで、当該授業を受講している河西と檜山は登山に同行していなかった。

アンザイレンしていた七人のうち、エメリが一番下に吊り下がっていた。彼らを結ぶザイルは、想定以上の激しい落石に傷つき、今にも千切れそうであった。このままだと、全員が助からない。

 直上の横井を見上げたときだった。

「あっ」という誰かの声に、再び下を見ると、エメリと森内の間のザイルがぷつりと切れていた。エメリの遠ざかっていくエメリの身体と強張ったその表情。その顔は小夜の脳裏から消えず、何日も悪夢に悩まされた。

 あの時、あの瞬間、自分は何を感じ、考えたのだろう。

 小夜は自問自答する。

 空いた河西の隣。そのぽっかりと開いた穴を見て、小夜は何を感じているのだろう。

 死んだ人には勝てない……。

 彼の中で、増えることのない彼女の思い出は、どんどん美化されていくことだろう。



 がくんと上体が折れて、机で額を打つ。痛みに顔を顰めながら顔を上げた小夜の目の前に、心配そうに椅子ごと振り向いた檜山の顔があった。

「大丈夫か?」

 そう言って、目をきょとんとさせている。

「寝ていました……」

「疲れたんだろう。寝ていてもいいぞ」

 檜山は再び背を向けてノートにペンを走らせ始めた。彼なりの気遣いのつもりだろう。有難くその気遣いを受け入れて、小夜は少しだけ机に伏せることにした。



19:00



 コンコンコン……ノックの音で、小夜は目を覚ました。

 一瞬ここがどこだかわからなくなる。文机から上体を反らして真後ろに位置する扉を見遣る檜山の横顔を見て、ようやく自身の置かれている状況を思い出した。

 檜山は一瞬躊躇するような表情を見せた。小夜の方を一度窺う。小夜は肯いた。犯人かもしれない。そう思うと、掌がじわりと熱くなる気がした。

「誰だ?」外に向かって堅い声を出す檜山の緊張感に反して、外からは聞き慣れた声が間髪入れずに帰って来た。

「え、檜山くん? ここって小夜ちゃんの部屋でしょう? 二人で何してんのよ」

 扉一枚隔てているので多少くぐもってはいるが、間違いなく久美子の声だった。

 檜山は扉に身体を隠すようにして、慎重にノブを引く。

 久美子が不機嫌そうな顔で立っていた。その奥に瑛梨が控えている。

「横井くんの部屋を調べるとか言って出て行って戻ってこないから何してんのかと心配したのよ」

「ああ、悪かった。――和泉は?」と、そこに和泉の姿がないことに、檜山は首を傾げた。

「そう、そうなの。和泉くんがね、戻らないの」

「一緒じゃなかったのか?」

「トイレに行ったきり帰ってこないのよ。また具合でも悪くしたんじゃないかと思って探してみたんだけど」

「いないのか」

「一階の共用トイレにもいないし、お部屋にもいませんでした」瑛梨が心配そうに廊下を見回した。

「その帰りに横井くんの部屋にも寄ったけど、二人ともいないものだから。アタシびっくりしたわよ。まさか……ねえ」

 久美子が目を伏せ、にやりと笑う。

「妙なこと言うんじゃねぇよ」檜山は、穏やかにきっぱりと断りを入れた。「それより和泉がいないって方が心配だ」

「一応三階と二階はざっと探してみましたが、どこにも」瑛梨がため息交じりに答えた。

「外に行ってみるか。龍川さんも行こう」

 すぐ傍まできていた小夜を振り返ると、小夜は不安げに「はい」と頷いた。

小夜の部屋を出て、「あ」檜山が立ち止まった。一瞬躊躇を見せたが、一見してわかることだったので情報を開示することにする。「そうだ。横井の部屋の入口に抜け穴を見つけたんだ」

ちょうど小夜の二〇二号室から出たところで、二〇五号室が目に入ってくる。入口の扉は壊れているため、開けっ放しの隠し扉も丸見えになっていた。

瑛梨がこくこくと小刻みに顎を縦に引いた。

「さっき檜山さんたちを探しにきたときに世良さんと見つけて、びっくりしました。他の部屋にももしかしたら、こういった仕掛けがあるかもしれないですよね」瑛梨が隠し扉に視線を落として呟いた。「さすがに隠し扉は軍手じゃ防げないし、扉の前にバリケードでも作ればいいんでしょうか」

「扉以外に抜け道があったときに、バリケードがあると逃げ場がなくなるっていうリスクもあるから、一概には言えない」檜山が難しい顔をした。

「そうですね……もうどうしたらいいのか」瑛梨が片方の手を頬に当ててため息を吐いた。「各自一人になるときは注意した方がいいですね」

「自室にいても殺されるなんて、もう、どこにも安全な場所なんてないじゃないの」久美子が両手で身体を抱きしめ、身を震わせた。

「再三言うが、単独行動はしない方がいいな」



19:30



 体育館に入った瞬間、むわっと噎せ返るような血の匂いが鼻腔を刺した。

 檜山は懐中電灯を片手に、玄関とフロアを仕切ってある黄色の引き戸をスライドさせる。ドアは滑らかに開いた。

 その明かりがフロアをなぞった途端、「きゃあああ」甲高い久美子の悲鳴がその場を切り裂いた。

 和泉侑李の死体は、血にまみれてゆらゆらと揺れていた。

 ロープで胴体を縛られて、二階の柵から吊り下げられている。足元には夥しい量の血痕があった。

「和泉さん……! 降ろさなきゃ」小夜が呟いた。そして、二階への階段を探す。二階へ行くための唯一のルートである梯子は、二階で巻き取られたままになっていた。

「他に二階へ行く方法はないのか?」檜山は瑛梨に尋ねた。

「いえ……管理室に行けば、スイッチがあるんですけど、事故防止のためにフロア内にスイッチはないんです」

「管理人室はどこなの?」久美子のポニーテールが鞭のようにしなる。

「ここに」管理人室は、フロアから見て、ガラス張りのブースのようになっていた。「鍵が掛かっていて開かないようなっています」

 玄関側についたドアは金属製のもので、これはとても体当たりで壊せそうになかった。

「じゃあ、犯人はどうやって二階から降りたんだ」

 檜山は和泉の無残な亡骸を仰ぎ見ながら口の中で呟いた。

「『どのように』もそうですけれど、『いつ』『誰が』も謎ですよね。龍川さんと檜山さんが一緒にいて、私と世良さんは一緒にいたわけで。そんな中で和泉さんを殺すことができる人物っていないんじゃないですか?」瑛梨が、檜山の横顔に真剣なまなざしを向ける。

「……じゃあ、やっぱり、誰かこの島に潜んでいるのよ!」久美子が半狂乱に叫んだ。

 顔を手で覆ってすすり泣く久美子の肩を瑛梨がそっと抱いた。

「一旦コテージに戻りましょう。ここじゃあ寒いですし」



20:00



「もういや。殺人鬼が棲んでいる島だったのよ!」

 瑛梨に支えられるようにしてコテージ戻った久美子は、そのままソファに座り込んでさめざめと涙を流した。

「殺人鬼か……だいぶ島は探したけどな」檜山がすっかり日の暮れた外を見遣る。良く晴れていた前日に比べて、本土の明かりが少しぼやけているように感じられた。空気中の湿気が多いせいだろうと無理やり納得する。

「どこかに潜んでいたのよ。気づかなかったんだわ」久美子が、両手の奥、くぐもった声で咽び泣いた。

 瑛梨は久美子の隣でその背を抱く。傍に立った小夜も困ったような顔で心配そうに泣きじゃくる先輩を見つめていた。

 檜山はその向かいのソファに静かに腰を下ろすと、両の太ももに両肘をついて、手の甲に顎を乗せた。

「なあ、世良。頼むからボートと鍵のありかを教えてくれないか?」

「……嫌だって何度言ったらわかるの?」世良の手が外れ、泣きはらした顔があらわになる。涙で取れたマスカラが、黒い涙の川を作っていた。

「なんで嫌なんだ? このまま犯人と餓えに怯えて救助を待つほうが嫌じゃないのか」

「嫌よ。殺人鬼はこの中にいるかもしれないのよ。殺人鬼と二人で船に乗って本土まで行くと思うとおぞましいことだし、逆に殺人鬼と二人で島に残されるかもしれないと思うとそれも恐ろしいわよ」

「……だから、人数の多いうちに頼んでいたんだがな」檜山はいら立ちを隠すこともなく明後日の方向を向いた。視界の端に籤引きの紙片が映る。部屋割りの際に結局使われることのなかった、七枚の紙片が。

「終わったことを嘆いてもしょうがないじゃない!」久美子が見当はずれな反論を口にした。

「確かに」瑛梨が落ち着いた声を発した。「この中に犯人がいるとしたら、二人組にわかれるのは危険ですね。犯人じゃない二人で組めた方のグループはいいですけど、犯人と組んだ方は危険です」

「というより、こうなると全員で一か所に留まる方がいい。外部犯なら頭数は多いに越したことはないし、内部犯でも相互監視した方が安全だろう。横井の部屋に抜け穴があった以上は一人で部屋に閉じこもるのが安全だという保障もない」

「アタシは嫌よ」

「世良ぁ」檜山は頭をがしがしと掻いて、正面の久美子の双眸を鋭く見据えた。「頼むから。協力してくれよ。いったい何が気に入らないんだ?」

「何もかもよ! 誰も信用できないんだから、当然でしょう」

 久美子はやけになったように喚いきたてた。

「この中の一人が犯人だとしても、二人は犯人じゃないんですよ」瑛梨が、駄々っ子を宥める母親のような声を出した。

「もしも島に犯人が潜んでいないんだとしたら、あとは檜山くんと龍川さんの共犯説しかないじゃない」

久美子の言葉に、ぎょっとして、檜山と小夜は目を見合わせた。

「そうよ。それなら横井くんの事件にだって説明がつくわ。あなたたち、二人で狼煙の見張りをしていたっていうけれど、二人きりだったのなら、他のだれにも証明できないじゃない。二人で横井くんの部屋に行って彼を殺したのよ!」

「酷い……!」小夜が喉を絞るようにして呻いた。「私たち、そんなこと……」

「酷いのはあなたたちでしょう!」

「世良、落ち着けって」檜山がぴしゃりと諫める。

「どうして落ち着いていられるのよ。犯人だからじゃないの?」久美子はポニーテールを振り乱した。「二人で襲い掛かられたらかなわないわ」

「動機は何なんだよ。俺と龍川さんが、みんなを殺してまわる動機は」

「あの子の復讐とかじゃないの!」

「あの子?」

「早見エメリよ」

 その場の空気が一瞬で凍った。

 山鳩の声が遠くに聞こえる。ガサガサと木の葉の擦れる音、波の音、それら一通りが鼓膜を賑わし終わった頃、久美子が刺すような声で詰った。

「檜山くん、あなた、早見エメリと新種の薔薇の研究をしていたそうじゃない。彼女がいなくなって研究が頓挫でもしたんじゃないの?」

 空気が過冷却の水のように張り詰める。ほんの少しの衝撃でぴきぴきと凍り付いてしまいそうな緊張感だった。

「……復讐されるようなことをしたのか」檜山が無感情に問うた。

 その様子にカッと額を赤くした久美子が、その場で立ち上がった。自然と、彼女の肩を抱いていた瑛梨が弾き飛ばされる形になる。

「し、していないわよ! 失礼ね! でも、逆恨みってこともあるじゃない! 現に、あのH岳からアタシたちは帰ってきた、あの子は帰ってこなかった」

「それだと、龍川さんに動機はないじゃないか」

「知らないわよ!」久美子は真っ白になるほど握りしめた拳をその場で振り回した。「とにかく。アタシは部屋に戻るからね。降谷さんも、そうした方がいいと思うわよ」



21:00



結局、久美子が部屋に戻るのにつられるようにして、瑛梨も自室へと籠ってしまい、後には檜山と小夜の二人が残された。

机の上には、誰かが食べたのだろう、空になった菓子のパッケージがのこっていた。

「どうする? この場に残るか、それとも部屋に戻るか」檜山が肩を竦めた。

 小夜ははたと目を瞠ると、怯えるように眉を八の字に歪めた。

「一人はいやです。怖いです」

「俺もだ。幸いにも俺らは互いに互いが、横井の事件と和泉の事件の実行犯でないことを知っている。少しは安心できる相手じゃないか?」

「そうでなくても、怖くないです。檜山さんは」

 小夜の必死な様子に、よほど一人になることを恐れているのだろうと、檜山は落ち着かせるように「そうだな」と努めて優しく声を掛けた。

「俺も独りは怖いから、よかったら一緒にまた事件の整理をしようか」

「お願いします……」

小夜は消え入りそうな声でこくりとおかっぱ頭を揺らした。



 *



 小夜の割り当てられた二〇二号室に向かう途中、檜山の提案で乾が殺された二〇一号室を調べることになった。換気口に、毒ガスを注入する隙間がないかを調べるためである。

「本当に世良さんは、私たちが犯人だと思っているんでしょうか」

 換気扇の蓋をなんとか取り外せないか思考錯誤している檜山の背中に、小夜の不安げな声が刺さる。

檜山は、視線はそのままに声だけ後ろに返した。

「さあな。空腹や不安で気が立っているのもあるんだろう」

「そうだったらいいんですけど……」

 蓋は開かないし、換気扇の奥はフィルターがかかっていてチューブやホースを通す隙間がない。それを確認した檜山は、壁に手を当てたまま、バスタブの淵から慎重に降りた。

「本当はバラバラにならない方がいいんだがな」

「どうにか説得する方法はないんでしょうか」

「んー、まぁ、少なくとも世良は疑心暗鬼に陥っているからな。俺たちは俺たちにできることをしよう」

 と、檜山は胸ポケットから例の手帳を取り出して、ペンの蓋を開けた。さらさらと手帳にペン先を走らせる。

「付き合わせて悪かった」

「いえ。もういいんですか?」

「ああ、充分だ」

 言って檜山は倒れかけた二〇一号室の扉を置きなおして廊下へ出た。小夜もそれに続く。蝋燭の付け替えをする者のいなくなった廊下は、真の闇に包まれぽっかりと口を開けた巨人の口の中のようだった。

 小夜は逃げるように二〇二号室のドアの前へと走った。指先が震えて、鍵がうまく鍵穴へと入らない。と、檜山の右手が小夜の目の前に差し出された。小夜が首を捻ると、檜山は見たこともないようなやさしい顔をしていた。普段の仏頂面と柔和な面、どっちが彼の本当の顔なんだろう。小夜は場違いなことを考えながら、反射的に彼の手に鍵を渡した。

 檜山は落ち着いた手つきで鍵を捻ると、小夜を先に室内へと入れてくれた。小夜はとにかく闇と無音が怖かったので、遠慮することも忘れて中へと駆けこんだ。

 檜山はドアを閉める前に一度廊下をじっと見遣ってから、ドアを、それからサムターンを回して内側から鍵を閉めた。個室の鍵はシリンダー箱錠と呼ばれる種類のものだった。

それから二〇二号室の鍵に添えて、内ポケットから黄色い小さな箱を取り出すと、小夜の手に握らせた。エナジークッキーの箱だった。

小夜は驚いて顔を上げた。

「え、いいんですか?」

 檜山は肯いた。

「遠慮はいらないさ。今日はだいぶ付き合わせてしまったし」

「半分こしましょう。二本入りって書いてあります」

「俺は部屋に戻ればもう一つあるから。嫌いじゃなければ全部食べて」

「ありがとうございます……」

 小夜は俯いて唇を噛みしめた。檜山のことを、不愛想で少し怖い先輩だと思っていた自分の過去を今すぐ塗りつぶしてしまいたかった。彼は、この島に閉じ込められてからこちら、ひたすらに全員の安全と不安の解消を意識してくれている。

 もう一度目の前の長身を見上げたら、安心させるように小さく笑いかけてくれた。そういえば――檜山には、小夜と同じ年齢の双子の弟妹がいると聞いたことがある。小夜は一人っ子だったため、きょうだいというものを知らないが、兄がいたらこんな感じだったのかな……そう、小夜はこちらを向いた、引き締まった大きな背中を見つめた。

「明日、もう一度今日落ちた空き缶が浜辺に漂着しているか確かめに行こうか」

声に合わせて、淡い茶色の髪が揺れた。

こくりと頷いた後、慌てて小夜は口をぱくぱくさせた。

「……はい!」

 壁に向かって手帳にペンを走らせている檜山からは、小夜がいくら首を縦に振ったところで見えていないのだ。その背中を見ていたら、急に初恋の――四つ年上の彼のことを思い出した。

 もう会えないけれど、また会いたい人だった。そして、幼馴染の同級生、白峰瑞樹。彼は同じ年齢だったけれど、引っ込み思案で内気な小夜のことをいつも気に掛けてくれていた。去年の夏の悲しい出来事の後も、自分も傷ついたはずなのに、ずっと小夜のことを気にして定期的に電話をかけてくれたり、会いに来てくれたりしていた。



23:00



 背中の向こうで小夜の小さな寝息が聞こえてくる。

檜山はベッドから毛布を拾ってきて彼女の背にかけた。小夜は小さく身じろぎをしたが、再び呼吸は規則正しいものにかわる。――無理もない。こんな極限状態に追いやられているのだ。仲間ですら信じてはいけないような気の抜けない状況である。寧ろ、その意味では、少なくとも小夜だけは横井殺しと和泉殺しの実行犯ではないということが判明している自らは、マシなほうかもしれない。世良と瑛梨は大丈夫だろうか。

しかし――森内剛、鷹野社長、乾拓也、横井行基、和泉侑李――。

彼らはなぜ命を落とさねばならなかったのだろう。共通点は何なのか。いったい誰が。

檜山はこっそりと深い息を吐いた。目の前には、自らの字で埋め尽くされた手帳がある。まるでダイイング・メッセージじゃないか。――そういう考えがふっと浮かんで、慌てて掻き消した。縁起でもない。まだ、やるべきことはある。親より先に死ぬなどという、親不孝をするわけにもいかない。

檜山は新しい頁を捲った。それから、頭の中を時系列順に整理してみる。

 森内殺しについては、事前に犯人がドアノブに仕掛けをしておいたものだろう。その仕掛けに引っかかったのが森内だった。そう考えるのが、現段階では最も無理がない。

鷹野殺しのアリバイトリックと方法は――おそらく――わかったが、動機が不明である。こちらは森内殺しのときとは違って、無作為に鷹野を殺してしまったというわけではあるまい。明確に鷹野を狙ったものである。

次に乾殺しについてだ。朝起きてこなかった乾の部屋を全員で訪れた。部屋の鍵は掛かったままになっており、ドアの下に隙間はない。ユニットバスについている換気扇は部屋ごとに独立しており、蓋もしっかり固定されていた。窓もハンドル式の鍵は堅く、縦滑り出し窓は、数センチ以上は開かない造りである。こちらは、夜間の犯行であったため、Whenという観点からは誰にでも犯行が可能だが、Howという観点で行き詰ってしまった。

それから、横井殺しである。この件に関しては、龍川小夜が実行犯でないことが明らかになっていた。横井は、檜山たち二人が狼煙の番をしていた十三時から十三時四十分までの間に、彼の割り当てられた二〇五号室で殺されていた。鍵は閉まっていたが、ドアの下半分に鍵のついていない小さな出入口があった。凶器については発見されていないが、鈍器で右後頭部を殴られ、右の首筋と右腕から血液を抜かれて死んでいた。床には数滴の血痕があった。

 和泉殺しについては、その後、檜山と小夜、瑛梨と久美子の二グループに分かれている間に起きた。檜山と小夜は当然ながら、瑛梨と久美子が共犯である可能性を除けば、犯行可能な人物が一行の中にはいないということになる。彼は体育館の二階の柵からロープで吊るされていた。死体には近づいていないため、直接の死因は定かでなかったが、床に夥しい量の血痕があったこと、また和泉の遺体が紅く染まっていたことから、なんらかの刃物で動脈を切られたものと思われた。

 窓の外を見遣る。小夜に割り当てられた二〇二号室は、今はカーテンが閉められている。蝋燭の明かりに照らされて、自らと小夜の影が壁一面にゆらゆらと不気味に揺れていた。目が痛い……。檜山は、ペンを握っていない左手で目をこすった。光量が少ないため、どうしても目が疲れやすくなる。

 立ち上がって、思い切り背を伸ばしてみた。首がぽきっと渇いた音を立てる。部屋をぐるりと一周歩きがてら、なんとなしにカーテンを開けて外を眺めてみた。右の端、――西の方角、遠くに薄ぼんやりと本土の明かりが見える気がする。一見すぐそこに見えるのに、果てしなく遠い。檜山はカーテンを閉めた。

夜はまだ長い。


第三章5月3日



4:00



 どうやら、考えごとをしているうちにうとうとしていたらしい。檜山は遠くでキーンという金属音がするのに、慌てて目をこじ開けた。目の前がぼんやりとして思考が纏まらない。これは――、

「龍川さん、息を止めて窓を割れ」檜山は鋭い目をして短く言った。

「……え?」

同じく、机に伏せていた小夜が弾かれたように寝ぼけ眼をあげる。

「毒ガスだ、椅子で窓を割るんだ。換気」普段になく慌てた様子でそう声をあげると、檜山は大股でドアの方へ向かった。

ドアの下にも、鍵穴にも毒ガスの管が差し込まれている形跡はなかった。

何故だ? 首を捻りながら、とにかく換気をと、左手でドアをあけた瞬間、何かが放物線を描いて振り下ろされた。咄嗟に右へ逃げる。ツルハシだった。切っ先が赤黒く濡れていた。一瞬遅れて、左腕に鋭い痛みが走る。確認するまでもなく、ツルハシでやられたのだろうことがわかった。薄ら開いたドアの隙間から、ガスマスクに黒い合羽姿の人物が見えた。

反射的に檜山は、無事なほうの右肩で黒合羽の腹にタックルをお見舞いした。くぐもった低い声が帰ってくる。右手で必死にガスマスクの頭頂部を抑えつけた。

「逃げろ!」檜山は、振り向きざまに叫ぶ。バスケット部を引退して以来、初めての大声だった。

その視線の先で、目を見開いて首を振る小夜の姿があった。

「檜山さん後ろ!」

 絹を切り裂くような小夜の悲鳴と同時に、檜山の右の肩甲骨に焼けるような鋭い痛みが走った。檜山は、弾かれるように上体を反転させながら、視線を犯人に戻した。その途端に呼吸ができなくなった。肩を大きく上下させて喘ぐ傍からひゅうひゅうと空気が漏れる。呼吸に合わせて筋肉が動くのに、背中じゅうで激しい痛みが駆け回った。――背中に何かが刺さっている。犯人が隠し持っていた刃物を、檜山の背中に向けて突き立てたのだろう。

「俺はぁ……いいから……ッ、逃げろ」

それだけを言うのに、水中から陸の上に向かって叫ぶような労力を要した。空気と共に苦い液体が口から飛び出す。そのあまりの熱さに、喉の奥の管の形がはっきりわかった。目の前の犯人の黒い胸元と、震える自身の足元に鮮やかな染みが拡がる。

「逃げ、てくれ……ッ、飛び降りろッ!」

檜山は、犯人に縋りつく恰好で、首だけを捻じってあらん限りの声を振り絞った。再び焼けるような痛みと共に、鉄臭い熱い液体が口内を満たす。

 鋭い熱さと共に、背中の異物感が消えたと思うと、再びどっという衝撃がそのすぐ下あたりを襲った。堪らず黒合羽を握りしめたまま、右の膝から崩れる。その重みで左腕に、右の肩甲骨に、そして右の腰に、稲妻が走った。

 暗闇を背負った窓の向こうに、華奢な背中が消えたのを確認して、檜山は再び黒合羽に視線を戻した。

 黒合羽は右足を振り上げると、足の裏で檜山の腹を思い切り蹴り飛ばした。檜山はあえなく黒合羽から引きはがされ、あおむけに倒れ込む。背中に刺さった刃物が深くめり込み、たまらず背中を地面から剥がして、身体をくの字に折り曲げて喘いだ。

 持久戦になると不利だ。檜山は右手一本で起き上がると、黒合羽の右手に向かって再びタックルを試みた。ツルハシさえ落としてしまえば、まだ勝機はある。しかし、当然ながら黒合羽はその手のツルハシで檜山の側頭部目掛けて一閃した。懐に飛び込み、寸でのところで急所は回避したものの、柄の部分が直撃したこめかみからは赤い筋が滴った。

 檜山は残る力を振り絞り、目の前のガスマスクへと手を伸ばした。

 が、その指先は二度、三度痙攣をした後、半円を描いて地面へと崩れ落ちた。

 びゅうびゅうと水分混じりの風切り音と、初夏の夜風が室内を行き来する。小夜が割った窓から吹き込む潮騒が、喘ぐ檜山の横顔を撫でた。右背部からの傷は、肺まで達しているのだろう。息を吸った傍から全て霧散しているかのようだった。

 墨汁を垂らすように、じわじわと靄が外から滲んでくる視界の中、檜山は瞼を持ち上げた。左目は血液が入ったのだろう、激痛を伴い何も見えなくなっていた。右目は瞼が痙攣したが、針の先程度は開いてくれた。

 黒合羽な何か言っている。が、渦を巻いて遠ざかる音に、その意味を理解することができない。必死の思いで、翻訳された台詞。それが、檜山司が聴いた最後の言葉だった。

「綺麗な爪をしている」



4:05



 暗い森の中を、小夜は走っていた。二階のベランダから飛び降りた際についた両足が酷く痛む。割れた硝子で引っかけた脛からは血が溢れ出し、体重を支え切れずについた両手の指の甲には血が滲んでいた。右肩もじくじくと痛み、噛んだ舌と内頬も痛い。口の中には苦い鉄の味が広がっていた。

 両手で抱きかかえた、檜山と小夜自身二冊分の手記を固く握りしめる。そうすると、まるで蛇口をひねったかのように、両目から涙が溢れてきた。

 檜山を置き去りにして逃げた罪悪感と後悔と心配、そして襲われたことによる恐怖と、一人になってしまった心細さと――、いろんな感情が混ざり合って、小夜の膝はおこりのように震えた。

 走り慣れない夜の森は、まるで両側から靄の歓待を受けているようだった。目の前にあるのは永遠の暗闇が待つ洞穴なのではないかと錯覚する。

「託された……届けなきゃ……届け……」

 右も左も、怪物が手招きをしていた。

「どこに行けばいいの……? 怖いよ」

 森閑たる夜の森の向こうで、小さく波の音がした。お椀のような暗闇のアーチに、小夜のか細い声だけが反響して吸い込まれて消える。

「お父さん…………お父さん!」

 独り、家で待っているだろう柔和な父親の顔が過ぎる。と、盛り上がった木の根に躓いて、小夜は頭からつんのめった。額と鼻の頭に血が滲む。

「逃げなきゃ……死にたくない……怖い……」

 床にぺたんと座り込んで小夜は細い肩を震わせて泣いた。血のにじんだ唇がわなわなと震え、歯がかちかちと音を立てる。

「怖くない怖くない大丈夫大丈夫大丈夫だから」

 小夜は自分に言い聞かせるように、何度も何度も大丈夫と唱えた。

「朝になったらお父さんが助けに来てくれる。お父さんと瑞樹くんが」

 昨夏に起きた悲しい出来事、その時に一緒にいてくれた幼馴染の顔が浮かぶ。その影を追って小夜は顔を上げた。満天の星空だった。小さいころ母に背負われて見た星空だ。

「お空を指で辿りましょう……海にお船を浮かべましょう……」

 母の背中で聞いた童謡が、壊れたオルゴールのようにリフレインして小夜のぼろぼろに傷ついた身体を包み込む。

「嗚呼……嗚呼嗚呼……きっと……いける……大丈夫……」

 震える紅い右手を宙に伸ばした。空まであと少しだ。もう、じきに届くだろう。

 小夜が託された手記は、これで間違いなく次に託された。小夜はほっと息を吐いた。

 木々たちも背後でさわさわと揺れて応援してくれている。規則的に何かを踏む音が鼓膜を叩いたが、もうどうでも良い。関係がなかった。

「星がきれい……流れ星だ……」

 涙が弧を描いて頬を伝う。

「おかあさん……」

 ずんっという衝撃に背を打たれた。淵から順に黒く浸食されていく視界の中で、伸ばした右手が星を捕まえた。



5:00 



「ねぇ、降谷さん……降谷さんいるの? いるなら開けて。世良よ」

 久美子は咳くように早口で、三〇四号室の扉を叩いた。

 東の方角に窓といえば、各階五号室と、あとは厨房の勝手口くらいのものである。そのため、久美子が気づくことはなかったが、東の海には朝日の光がきらきらと反射し始めていた。

 ややあって、部屋の中からごそごそという音が聞こえる。

「世良さん……?」ドア越しに瑛梨の声がした。かなり疲労の色が濃いようだ。

「そうよ」と、久美子は自分の声の大きさにびっくりして、辺りをきょろきょろと見回した。「早く開けて。今にも犯人が廊下から飛び掛かってきそう」

「嫌です……」

「どうしてよ!」

「世良さんが犯人ではない証拠はないじゃないですか」

 久美子は面食らった。額がサッと朱に染まる。

「そんなこと言っている場合じゃないわよ! 階下ですごい物音がしたのよ。争うような。この部屋には聞こえなかった?」

「聞こえませんでした」

「とにかく……もう静かになってしばらく経つから、人殺しを終えた犯人が、次の獲物を求めて徘徊しているかもしれないのよ」

「でも……」

「信じてよ! 和泉くんが殺されたとき、アタシたち一緒にいたじゃない!」

 少しの沈黙を経て、二〇四号室の扉が一センチほど開いた。その隙間に世良が手を差し込んで、大きく開く。

「よかった、信じてくれたのね」

「信じたわけではありません。でも、確かに世良さんは和泉さんの事件の時に私と一緒にいました。だから……でも、念のためにお互いに両手を挙げて、丸腰なのを証明し合いませんか?」

 久美子は一瞬ムッとした顔をした後、「お互いっていうならいいわよ」ツンと顎を上げた。

「それで、物音というのは?」瑛梨は、両手を挙げてその場で一回転して見せた。

 それに倣って久美子もその場で一周まわって見せる。

「二階だと思うのよ。どたばた物音がして、何か壊れる音――硝子が割れるような音がして、それから、またドタバタ音がして。そして静かになったのよ。そうね、一時間くらい前のことかしら」

「硝子ですか?」

「気づかなかったの? 結構な音だったわよ」

「寝てしまっていたものですから……」

「まあ、いろいろあったものね。熟睡していても仕方がないわ」

 互いに丸腰を証明し合ったのち、二人は先を譲り合うようにして、階段へと足を掛けた。

「丸腰なのはいいですけれど、犯人と鉢合わせしたら一たまりもないですよ」

 瑛梨が声を震わせた。

「確かにそうね。戻って椅子でも抱えて来ましょうか」

 それぞれ書き物机と対になっている、木製のアームレスチェアを抱えて廊下へ出てきた。二人揃って、そろりそろりと二階への階段を降りていく。

 一段降りるごとに階下へ耳をそばだてるものの、鼓膜に届くのは早朝の森そのもので時折野鳥の囀りがするくらいのものであった。

 時折椅子を階段に下ろしながら、一段また一段と二階へ近づいていく。

 そうして、五分ほどかけて二階の廊下につま先がついたころには、二人はすっかりへとへとになっていた。

「誰かいるの?」久美子が喉を震わせる。「檜山くん、小夜ちゃん」

 その声は、廊下に反響して消えた。野鳥がクアアアと哭く声がした。

「一階ですかね」

「かもしれないわ」

 二人は同じように、たっぷり時間をかけて一階へと降りた。視線で譲り合った結果、瑛梨が居間のドアを開けた。

「檜山さーん……」

 両開きのドアの隙間からそろりと片目を覗かせてみる。しかし、中はもぬけの殻だった。

「やっぱり、二階なのよ……二階にいたのよ……」久美子が泣きそうな声を挙げる。

「二階には誰もいなかったじゃないですかぁ……」同じく瑛梨がワントーン高い声を返した。

「こ」――殺されているのよ。

 そう言いかけて、久美子はごくんと生唾と一緒に呑み込んだ。「檜山くんの部屋は三〇五号室よね? ということは小夜ちゃんの部屋かしら」

「二〇何号室でしたっけ」

 ツアースタッフにあるまじき失念ではあるが、誰も咎める者はいなかった。

「乾くんの隣よぉ」

「じゃあ、二〇二号室ですね」

 二人は椅子を引きずりながら、二階へと引き返した。

 向かって右側、二〇一号室のドアと、向かい側の二〇五号室のドアは破られ、二〇五号室のドアは下半分が外向きに開いたままになっていた。――昨晩見たままである。

 それらを横目に、二人は揃って二〇二号室へと向かう。

 ドアノブに仕掛けがないかを十分に確認して、瑛梨は時計回りに捻った。

 ドアノブは意外にも、すんなり開いた。そろりと一センチほどまず開いてみる。その瞬間、部屋の中から廊下に向かって突風が吹いた。鉄臭い気がする。

 瑛梨は慌ててドアを閉めた。

「なに、今の」久美子が顔を蒼くした。

「なんですかぁ……?」瑛梨も泣き顔のように顔を歪めた。

「もう一度開けてみるのよ。こっちには、盾があるから」

久美子は椅子をトントンと人差し指で示して見せた。

 再び瑛梨がドアノブを開けた。再び突風と共に、鉄の匂いが鼻腔をつく。

「ああ!」瑛梨が、ドアに張り付いたまま声を裏返した。

 そしてバタンと音を立てて再びドアを閉める。

「なに、なにがあったのよォ!」久美子が地団太を踏んだ。

 瑛梨は蒼白な顔をただ横にふるふると振るだけで、返事をしない。じれた久美子が、勢いよくドアを開けて中へと入った。

「あああ!」久美子の絶叫がコテージに突き抜ける。

 彼は入口に向かって左手を伸ばし、うつ伏せに倒れていた。――檜山司だった。

 目は半分開いたまま。その血まみれの左手の先を辿ってみる。どうやらドアの内面へと続いているらしい。そう気づいた久美子は、瑛梨を廊下に残したまま、ドアを閉めてみた。

 血痕は部屋側のドアノブと、それからサムターンにくっきりと残っていた。それからずるずると大筆で下へと掃いたように延びていき、床で止まっている。その麓には檜山の左手があった。血を流した檜山がサムターンを捻ったことがわかった。

「鍵を開けて逃げようとしたの?」

彼の背中には大ぶりのナイフが突き刺さっている。それとは別にもう一か所、右の肩甲骨の下あたりに、横長の刺し傷があった。血液が高音のマグマのように溢れ出た跡があり、傷がかなり深くまで達していることが窺えた。

「逃げ切れずにこと切れたの? じゃあ、アレは」と、久美子は部屋の内部へと視線を投げた。

 窓硝子が大きく割れ、ところどころに赤黒い筋がついていた。先ほど部屋のドアを開けた際には、スーパーマンのマントよろしく派手にはためいていたカーテンも、今は大人しく真下へ延びている。

「世良さん、世良さん」

 そのとき、コンコンとドアを叩く音がした。軍手をしているため、素手のときと比べて音はかなり鈍い。

 その音ではたと瑛梨の存在を思い出した久美子は、そろりとドアを開けた。再び風が通る。

「世良さん……そこに倒れているの、檜山さんですよねェ……?」

 瑛梨が涙声をあげた。久美子は黙ってこくこくと顎を引く。

「瑛梨ちゃんも入ってちょうだい。中が変なのよ」

「変?」瑛梨は顔を大きく顰めながら、中へ入った。檜山の死体から目を背けるように窓へと視線を向けた。「窓が割れている……」

「そこじゃないわ、こっちよ」久美子は顎でドアの内側をしゃくった。「この血の痕よ」

「鍵を閉めたんですかね?」

瑛梨は久美子と同じ見解を示した。

「でも鍵は開いていたわ」久美子がきっぱりと言った。

「じゃあ……」

「まず犯人は檜山くんを襲った。檜山くんは傷を負ったのね。そして、はきっと、犯人から逃げるために鍵を開けたのよ。そこで力尽きて倒れた」

「ならば、あの窓は」

「そう、犯人が逃げるときに割ったのよ」

「じゃあ、犯人は」

「犯人は龍川小夜よ」



6:00



「犯人は、龍川さん……?」

 瑛梨は驚愕に目を見開いて、久美子の、興奮して上気した顔を穴が開くほど見つめた。

「そう。龍川小夜は、檜山くんを刺し殺して、窓から逃げたのよ」

 久美子は割れた窓ガラスを目で示した。瑛梨もそれに倣って窓を見遣る。

「でも」瑛梨は久美子に向き直った。「なぜわざわざ窓を割ったりしたんでしょうか」

「どういうこと?」

「いえ、檜山さんが力尽きたのなら、檜山さんの……その……遺体を飛び越えて、ドアから普通に出たほうが簡単じゃないですか?」

「それは……」

「わざわざ窓硝子を割って、怪我までして外に出るよりも」

「それはきっと、檜山くんが万一死んだふりをしていた場合、反撃を受けたら困るからよ」

「反撃、ですか」

「そう。檜山くんって、運動神経抜群でしょう? それに身長も大きいし。そんな人の反撃を受けたら、普通の人間はひとたまりもないわ。だから、犯人は用心して窓から逃げたのよ」

「それで……怪我をしたと」

 瑛梨は割れた窓ガラスに垂れた血痕を見ながら言った。

「そうよ」

「うーん」瑛梨は顎に指を置いた。「本末転倒と言うか、なんというか……事件が終わって警察が島に乗り込んできて、鑑定? ですっけ、調査をされたら、捕まっちゃうんじゃないですか?」

「それは……犯人が常に合理的に動くとも限らないじゃない」

「それはそうですけど……」

久美子の勢いに反して、瑛梨はまだすっきりしない顔である。

「そうよ! 小夜は、アタシたちを皆殺しにして、コテージごと焼き払うつもりかもしれないわ!」

「えええ、そんな……」

「たいへん。早く捕まえて縛らなきゃ!」

 久美子はもはや瑛梨の反応などどこ吹く風と言った様子で、まくし立てた。



7:00



 いち早く犯人である龍川小夜を捕らえるべく、二人はまず血痕を追いかけて階下へと降りた。

「ここが小夜の部屋の真下よね。見て、瑛梨ちゃん。点々と血痕が続いているわ」

「本当ですね」瑛梨はしげしげと赤黒いしみのついた地面を眺めた。「本当に龍川さんが犯人なんでしょうか」

「そうじゃないと逃げた理由に説明がつかないわよ」

「犯人から襲われて、檜山さんは捕まったけれど、龍川さんは逃げた。こういう可能性はないんですか?」

「だったら、なぜ鍵が開いていたというの? 檜山くんが犯人を招き入れたとしても、犯人が侵入してきたとしても、わざわざ檜山くんが鍵を開ける意味がわからないわ」

「それは……檜山さんは、廊下から外へ逃げようとしたんじゃ」

「小夜は小夜で、檜山くんを見捨てて窓から逃げたっていうの? それはそれで非道い話じゃない」

「そうですけど……」

 瑛梨はなおもしっくりこないと言った様子だった。

「龍川さんと檜山さんは、横井さんと和泉さんが殺害されたときに一緒にいたって言っていたじゃないですか。それはどういうからくりだと思いますか?」

「それは……」久美子は目を泳がせた。「仲間割れなのかしら……?」

「仲間割れですか? 檜山さんも途中までは共犯だったと」

「そうじゃないと説明がつかないじゃない」

「うーん……龍川さんと檜山さんが共犯であると仮定したら――というより、共犯説でないと説明がつかないですけれど――。根本的に前提そのものが間違っている可能性はないんですか?」

「じゃあ、誰が犯人だと言うのよ。島に残っているのは、アタシとあなたしかいないじゃない。アタシは犯人じゃないなら、もうあなたしか残らないのよ」

「本気でそう言っているんですか? 私と世良さんは和泉さん殺害のときに一緒にいたじゃないですか」

「そうなのよね」

 久美子は頭をがりがりと掻いた。そして、ふと虚空の一点を見つめたまま動かなくなった。

「……河西くん……」

「カサイ……」瑛梨は反芻した。

「前話したでしょう? 独りだけ、今回の旅行に来ていない山岳部員がいるって。その彼よ」

「ああ」瑛梨は何度か顎を引いた。

「ここにいないメンバーで、アタシたちの旅行先を知っている人物――河西くんしかいないわ。河西くんが島に潜んでみんなに復讐しているのよ」

「復讐? 心当たりでもあるんですか」

「それは……」

 そのときだった。久美子の視界の端に黒い影が映った。と思った瞬間、目の前の瑛梨の右側に、白い閃光が走った。

咄嗟に瑛梨は横に飛び退いて攻撃を避ける。

 そこには、いるはずのない人物が立っていた。



8:00 



「なぜ和泉くんが生きているの?」

久美子は驚愕に目を瞠り、唇を戦慄かせた。

 和泉は答えない。果物ナイフを竹刀のように両手で構えたまま、上目遣いに眼光を鋭く光らせながら、片方の口の端を歪めて不敵に笑っていた。

「龍川さんが犯人じゃないの?」続けざまに久美子が問うた。

「龍川さんなら体育館脇で死んでいたよ。背中を斬りつけられてね」和泉は目を細めて答えた。

 瑛梨が小さく息を呑む。

「決着をつけようじゃないか」和泉はすっと右手を引いた。残った左手の先で刃が煌めく。「で、どっちが犯人なんだ?」

 代わる代わる切っ先を向けられた二人は、示し合わせたように身体を固く縮めた。

「いや、もうこの際どっちが犯人だって構わない」和泉が低く笑った。

「ちょっと待ちなさい、和泉くん」久美子が長い髪を振りかざして声を挙げた。

「命乞いなら聞かないぞ」和泉は、久美子に切っ先を向けた。

「大事なことを忘れているわ」久美子は殊更強調するように自らの胸を、平手で強く打った。「アタシはゴムボートの鍵を持っているのよ。アタシを殺したら、ゴムボートを動かす手立てが永遠になくなる。救助が来るまでこの殺人鬼のいる島で待つことになるのよ。わかっている?」

「ちょっと待ってください」瑛梨が言った。「本当に龍川さんは死んでいるんですか?」

「俺の言葉を疑うのか?」和泉のナイフが瑛梨を指した。

瑛梨は引き攣った顔で、自らを奮い立たせるように両足を踏みなおした。

「死体を見るまで私は信じられません。現に亡くなったと思われていた和泉さんは、こうして生きているじゃないですか」

「まさか他にも死んだぶりをした奴がいるってのか?」和泉が唇を歪めて嘲笑した。

「檜山さんの部屋で物音がして、檜山さんが殺されていたんです。あんな大きくて強そうな男性を犯人は倒しているんです。二人がかりかもしれないじゃないですか」

「は?」和泉は目を剥いて動揺を示した。

 負けじと、瑛梨の語気も強くなる。

「龍川さんと和泉さんが共犯かもしれないって言っているんですよ。龍川さんはどこかで生きていて、和泉さんが囮になっている間に、今も私たちを狙っているのかもしれない」

「へぇ、檜山さん死んだんだ」和泉は不敵に顔を歪めて顎を上げた。「ここにいないからそうだろうなとは思っていたけど」

 瑛梨は自らを落ち着かせるように、ゆっくりと頷いた。

「あなたが犯人だったら知っていると思いますが――龍川さんと檜山さんは、昨晩二人で龍川さんの部屋にいたようなんですよ。龍川さんが、檜山さんを油断させて襲い掛かって、背後に隠れていた和泉さんがとどめを刺した。こういうことも考えられるって言っているんです」

「全部可能性の話だろ」和泉が低く言った。

「武器を持っていたとしても、相手は百八十センチを超える体育会系の檜山さんです。世良さんや龍川さんが一人で彼を殺したと考えるよりも、和泉さんと龍川さんが共謀して彼を殺したと考えた方がかなり現実的です」

「そこまで言うんなら、案内してやるよ。龍川さんの死体のところにな」



 *



「見てみろよ」和泉が勝ち誇ったように、顎でしゃくった。

 険しい彼の目が見つめる先には、背中を鋭利な刃物で打ち砕かれた小夜の亡骸があった。何かを守るように丸まった姿は胎児のようだった。

「……でも、私の中で、和泉さん犯人説が消えたわけじゃありません。龍川さんと和泉さんでの共謀説の可能性だって残ります」

「は? 龍川さんは死んでいるだろ」

「二人で檜山さんを殺した後で、用済みになった龍川さんを和泉さんが殺した可能性は残るじゃないですか。口封じのために」

「そんなの、お前らにだって言えるだろ」

「いいえ」瑛梨は毅然と首を左右に振った。「昨晩、檜山さんの部屋から大きな物音がした後、世良さんは私の部屋を訪ねてきました。もし世良さんが犯人であるなら、そこで二人きりになったときに私を……こ……殺すことだってできたはずです」

 瑛梨が横目で久美子を捉えた。久美子はごくりと喉を鳴らして乾いた唇を開いた。

「それなら、瑛梨ちゃんだって同じことよね。アタシと二人きりになるタイミングがあったんだもの」

「……ふざけんじゃねぇぞ……」和泉の白い首筋が、さっと桃色に変わる。「そんなのお前らが口裏合わせていたら関係ねぇじゃねぇか」

「じゃあ、なんで死んだふりなんてしたのよ」

 久美子が長い髪を振り乱して問い質す。

「殺される前に死んだフリした方が賢明だろう」和泉も負けじと見得を切る。

「死んだふりして、アタシたちを殺す機会を狙っていたんでしょう! やっぱりあなたが犯人なんじゃないの」

「うるさい黙れ」

 和泉はナイフを握り直して二人をかわるがわるにらんだ。

「アタシに歯向かうんじゃない!」久美子が後ずさりながら声を荒げた。「ア、アタシはね、鍵を持っているのよ! アタシに少しでも歯向かったら、絶対ボートに乗せてあげないんだからね」

「世良さん……!」と、瑛梨が一歩久美子へ歩み寄って言った。「犯人は和泉さんですよ。一緒に彼を縛り上げて、二人で逃げましょうよ」

「いやよ」

 にべもなく返ってきたその答えに、瑛梨の唇が「え」の形に震えた。

「そんなことしたら、和泉くんから抵抗されて、アタシが怪我するかもしれないじゃない」

「そんな、世良さん」

「やるなら瑛梨ちゃん、あなた一人でやってよ。アタシはやらないわ」

 女性二人の仲間割れを前に、和泉が腹を抱えて笑い出した。

「そうだ。そうだよ。あんたはそういう女だ」と、声を張り上げた和泉は左手のナイフで久美子を指して、刮目した。「自分が一番かわいいんだ」

「誰に物を言っているのよ!」久美子は声を裏返し、髪を振り乱して激高した。

「男に女が力で勝てると思ってんのか?」

「なんですって?」

「お前がボートの鍵を取り出してエンジンかけた瞬間、力づくでボートに飛び乗って、お前を海に突き落としてやるよ」

「そんな……!」

「世良久美子! お前は海の藻屑がお似合いだ」

 和泉は腹を抱えてけらけらと肩を揺らした。

「いいから二人で殺し合いなさい」久美子は顔を真っ赤にして指揮者のように、両腕を振り回した。「鍵は! アタシが持っているのよ」

 その瞬間、均衡が破れた。降谷瑛梨が身体を翻してその場から逃げ出したのだ。和泉は一瞬逡巡を見せたが、瑛梨の背中を追いかけた。

「そうよ、戦いなさい、和泉くん。あの子を殺したその先に、本土へのチケットが待っているのよ!」

 椀状に生い茂った木々のアーチの間を、久美子の引き攣った声が反響した。



 *



 二十分後、戻って来たのは和泉侑李だった。

 世良久美子はうっとりと、拍手で勝者の帰還を出迎える。

「おめでとう」

 和泉は冷めた目で久美子を一瞥した。

「御託はいい。鍵は? 早く鍵をこっちに寄越せよ」

 先刻からの、和泉の態度の変化にも特に反応することなく、久美子は女王然と右手を差し出した。

「その前にそのナイフをこっちに寄越しなさい」

「いいから鍵は? 早く」

「ナイフ」

 和泉はちっと舌を鳴らして、久美子の足元目掛けて果物ナイフを投げつけた。

久美子は飛びつくようにナイフを手に取る。

和泉はその様子を嘲笑うように顎を上げて、口端を持ち上げた。

「さあ、これで文句ないだろ? 早く鍵。どこにあるんだよ」

「ないわ」

「は?」和泉は目を剥いて聞き返した。

そんな和泉を前に、久美子は半ばやけになったように、哄笑した。

「そんなもの、ないわよ!」

「じゃあ、なんのために……」和泉は右手の平で、右目を覆った。「なんのためにみんな死んだんだよ!」和泉の叫び声が重なり合うように生い茂った枝葉に反響した。

「なんのためにみんなを殺したんだよ、の間違いでしょ?」

「犯人は俺じゃない!」

「あなたじゃなければ誰が犯人だというのよ。和泉くん、あんたが鍵欲しさに、全員を殺したんでしょう? アタシに命じられて! アハハハハハ」

「俺じゃない、俺じゃないならお前しか犯人はいないじゃないか」

「でもアタシを殺すのは諦めなさい。丸腰のあなたより、ナイフを持っているアタシのほうが強いわ」

「てめぇ……」和泉は火のつきそうな視線で久美子を炙った。

「救助が来るのが早いか、飢え死にするのが早いか。あなたの運命はそのどちらかなのよ。仲良くしましょう?」

 和泉は整った顔を歪めて、片方の口の端を持ち上げた。

「つくづくおめでたい奴だな」

「誰に向かってものを――」

「自分の顔を見てみろよ」と、和泉は顎でしゃくった。「ちょうどそこにナイフの刃があるじゃねえか。刃に映っているだろう! その醜い顔がな!」

「うるさいうるさいうるさい!」久美子はナイフを放り出して、両手で顔をぐしゃぐしゃと掻きまわした。肌理の粗い肌、低い鼻、腫れぼったい一重瞼の離れた小さな目、分厚くめくれ上がった唇――そのすべてが彼女のコンプレックスの源だった。

「自分でもうすうす勘づいていただろ。目を背けていただけなんだろ。お前に男が優しかったのはな、全部早見さんがいたからなんだよ。お前の隣にいた早見さんに近づくためだ」

「違う!」

「早見さんと友達であることがお前のステータスだったんだろ」

「違う違う!」

「その一方で、お前は早見さんに嫉妬していた。お前と、森内が早見さんを殺したんだ」

「あの子が自分から落ちたのよ。あんたも見ていたでしょう」

「ああ見ていたさ。あんたに唆されて、森内が早見さんのザイルを切るのをな!」

 二人分の激しい吐息が、朝の森の中に溶けては消える。

 和泉と久美子は向かい合って、呼吸を交換した。

 ちゅんちゅん、と遠くで小鳥が囀る。地上では二匹の獣が火のつきそうな目と目で牽制し合っていた。

 不意に、和泉がクツリと喉を鳴らした。肩を揺すって、ひきつけるように笑いを零す。

「降谷さん。早くこのブタやっちゃおうよ」

 久美子は一瞬、目の前の後輩の気が振れたのだと思った。

「瑛梨ちゃん? 瑛梨ちゃんはもう死んだでしょう! 殺したでしょう! あなたが!」

 久美子もつられて引き攣るように、ヒヒヒと喉で笑った。

 和泉は刮目して哄笑した。

「まさか同じ手に二度も引っかかるとはな。つくづく愚かな奴だよ、あんたは」

 その言葉に久美子の顔がはた、と凍りついた。

 そして、先ほど自らが放り投げたナイフに飛びついたが、和泉が一足先に拾い上げて、高らかに笑った。

 久美子はガクガクと唇を震わせて、地面に跪いたまま後ずさりした。

「あなたたち、殺し合ったんじゃなかったの?」

 憎き女の醜態に、侮蔑的な笑みを向けて、和泉はぺちぺちとナイフの腹で右掌を打ち付けた。

 その瞬間、走ってその場から逃げ出そうと、ヒールを脱ぎ棄てた久美子だったが、膝が笑って立ち上がれない様子だった。

「本当にあんた馬鹿だよねえ。手を組んだんだよ。降谷さんは、今の間に武器になりそうなものを取りにいっていたんだよ。お前を殺すためになあ」

 和泉は四つん這いで四肢を震わせる久美子の顎に、右手の人差し指をかけ、緩く持ち上げてねっとりと嗤った。

「お前には罪人に相応しい、死ぬより辛い地獄を味わわせてやるからな」

――後には、ミノムシのように木から吊り下げられた久美子の身体だけが残った。

 手を下した二人は軽やかに、森を後にした。



 9:30



「ときに降谷さん。これから」言いながら、和泉の視覚は、隣の影が引き潮のようにすっと後ろに消えたのを認識していた。それでも慣性の法則に従うように言葉の続きを口にしながら、並行して胃の裏あたりがひゅっと冷たくなるのを感じた。「どうす」

 ずん。

 和泉の視線の高さが一瞬で数十センチ下がった。首が胴体にめり込むような衝撃を覚える。視界が一面赤く染まる。首は動かなかった。身体ごと振り返ると、ツルハシを掲げた瑛梨がいた。日傘でもさしているような何気なさだった。

 頬を触る。腕は米俵でもぶら下げているかのように重く、震えて言うことをきかなかった。左手の指先にぬめっとした感触が広がる。血液だ。そう認識した瞬間、ぶんという音と共に頭の上で、鈍色の半円模様が現れた。それがツルハシの動線だと気づくのに数秒掛かった。和泉の身体は、ツルハシを避けた反動で振り子のように勢いよく踊って、体育館の塀に激突した。頭蓋内で暴れまわる耳鳴りと共鳴して、視界がぐにゃんぐにゃんと揺れる。赤い視界の中で、赤い体育館の壁に、赤い巨大な筆で掃いたような太い模様が浮かび上がった。

 どうっと、背中から胸にかけて強い衝撃を受けて、和泉は顔面を目の前の壁に強打した。鼻腔と口腔に、粘性をもった温い液体が溢れる。開いた唇からは、生理的なうめき声の代わりにどばっと赤い塊が落ちた。ぐしゃっと顎から地面に落ちる。背中が上下するのにあわせてびゅうびゅうと弱い風切り音が鳴った。

「何回でも殺してやる。何千回でも何万回でも何億回でも。たっぷり苦しんで死ね」

 誰の声だろう。ぐわんぐわんと銅鑼の音が反響する蝸牛の内側で渦巻いたその音に、脳の芯を捻じられながら、和泉の意識はゆっくり暗転していった。



 *



 真夜中の太平洋は、まるで蠢くコールタールのようだ。

 その上を、一艘のゴムボートのエンジン音が軽やかに滑り、遠ざかり、やがて消えた。



第二幕



登場人物



河西 瑛介(二十一)F大学 農学部 四回生

冷泉 誠人(十九)T大学 二回生 剣道部

白峰 瑞樹(十九)T大学 二回生 剣道部 龍川 小夜の幼馴染

藤間 エーリク(十二) 早見 エメリの弟



第一章 5月4日



09:00



 小夜が帰ってこない。

白峰瑞樹はこの連休を利用して、実家に帰っていた。彼が生まれ育った東北A県にある四神村は、昨夏のとある事件の後に閉鎖された。よって、今は、瑞樹の両親――白峰夫妻は、瑞樹の大学の近く、S市にある賃貸マンションで、夫婦一緒に暮らしていた。

同じく四神村に住んでいた小夜の父、龍川医師も、小夜と一緒に賃貸のアパートに住んでいる。そんな折に、小夜の父から小夜が、帰宅予定の日になっても旅行先から帰ってこないとの連絡を受けて、白峰瑞樹は小夜の家を訪ねたのだった。

彼の友人、冷泉誠人も一緒である。冷泉誠人もまた、昨夏の四神村の事件において、巻き込まれた当事者の一人だった。彼の出身は日本の首都、T都である。

「帰宅予定の日は過ぎたのに、小夜が帰ってこないんです。何か聞いていませんか?」老医師の不安げな声が、受話器の向こうで頼りなく揺れる。

「旅行ですよね、山岳部の」

「ええ。本来なら昨日の夜には家に着くはずなのに、戻ってきていなくて、ですな……」

「それは心配ですね」

「ええ。もう今年二十歳にもなる娘です。少しは自由にさせるべきかと思いますが、昨年の事件がどうも脳裏から離れなくて」

「そうですよね。僕も心配です。こちらでも調べてみますから。何かわかればご連絡差し上げます」

 龍川医師からの電話を受けて、瑞樹はまず小夜の大学へと電話をかけてみた。そこで山岳部の部室の直通電話を紹介してもらい、一人の学生に行き当たった。

「はじめまして、河西といいます」

 受話器を通して聞こえてきた声に、瑞樹は頭蓋を刺されるような既視感を覚えた。しかし、すぐに脳が拒否反応を示すように、その不安定な感情は心の隅へと追いやられる。

それから、部員全員の連絡先を知るという河西から、各人に向けて連絡を取ってもらうことにして、瑞樹と冷泉は彼からの連絡を待った。

再び白峰家の電話が鳴ったのは、それから二十分後のことだった。

「あれから部員の寮や下宿先、実家に電話をかけてみたのですが、誰一人まだ帰って来ていないようです。一人や二人というなら、まぁ彼らも子供ではないことですし、そういうこともあるのかなとは思いますけど」

「心配ですね」

「――ええ」

「河西さんは、彼らの旅行先をご存知なんですか?」

「もちろん」

「でしたら……今から僕たち、そこへ行ってみようと思うので、お手数ですが住所と連絡先を教えてくれませんか?」

「ああ、それだったら僕も同行します」河西は食いつくように言った。「それが、白峰さんに電話をかける前に、旅行を取り仕切っている『鷹野旅行代理店』に電話をしてみたんだけど、つながらないんです」

「つながらない……?」瑞樹は柳眉を歪めた。

「スタッフも戻っていないなんて、さすがにおかしいと思って。だからご迷惑じゃなければ、白峰さんに同行したいなって。レンタカーを借りていきましょう。僕が運転しますから」



 *



 瑞樹と冷泉、河西は互いの住んでいるちょうど中間地点にあたる、T市で待ち合わせをすることになった。

バスターミナルのベンチで瑞樹は足を曲げたり伸ばしたり、肩を上げ下げしたりとそわそわ落ち着かない様子だった。一方の冷泉は、目的地の漁村のパンフレットを、切れ長の目を険しくして食い入るように熟読している。

そんなちぐはぐな二人のもとへ、一台の軽自動車が近づいてきた。

「お待たせしました」

 そう言って運転席の扉から、頭を出した河西の顔を見るなり、冷泉と瑞樹は揃って顔を凍り付かせた。――彼は、瑞樹と小夜の生まれ育った四神村で、昨夏、出会った青年によく似ていた。

 そんな二人の様子に、首を傾げながらも、河西は後部座席のドアを開けて、中を示した。

「どうぞ。そちらの方はご友人ですか?」と、冷泉の方へ向き直る。

「申し遅れました。白峰瑞樹の大学の同輩で、冷泉誠人と申します。二回生です」

「ああ、はじめまして。白峰くんから聞いていると思うけれど、僕は河西っていって、小夜ちゃんと同じ大学の四回生だよ」二学年下だとわかったからか、河西の口調が途端に砕けた。

 これからF県の漁村まで、数時間の車旅になるのだから、いつまでもよそよそしいよりはいい。瑞樹はほんの少しだけ肩の力が抜けたのを感じた後、冷泉に続いて後部座席へと身を滑らせた。



14:00



 最短ルートと思しき道程を選びこそしたものの、初めての道はやはり慣れないものである。目的の村の錆びた標識が見えた頃には、時計の針も午後二時を指そうとしていた。

 防波堤に沿って車を走らせる。村に入って五分も経たないうちに、『鷹野旅行代理店』の簡素な看板が目に入ってきた。

 近くの駐車場にとめて、その扉を叩く。ドアはガタガタと音を立てて開くのを拒んだ。古びた建物である。扉も古い木の枠に、磨り硝子がはめ込まれている、横スライドのドアだった。硝子戸ではあるものの、苔色のカーテンがぴっちりと閉まっていて、中を覗くことはできない。

 しかし、少なくとも現在開店状態にないことだけは、誰の目にもわかった。

「ごめんください」

 河西がノックをすると、ガンガンガンと硝子のたわむ音がした。

 予想はできていたが、返事はない。

「弱ったな……藤間君の家に行ってみようか」

「藤間君?」

「ああ。車で話した去年亡くなった女子部員――早見エメリの弟だよ。訳あって苗字は違うけどね」

「この街に住んでいるんですか?」

「ああ。『鷹野旅行代理店』で月に何度かアルバイトをしているんだよ」



14:30



 三人は車を有料駐車場にとめなおして、そこから歩いて藤間エーリクの家に向かった。

「弟さんはご家族と住んでいるんですか?」瑞樹は小声で尋ねた。

「いや……一人だよ。エメリと藤間くんの両親は十年前に離婚したんだ。エメリが十二歳、藤間くんが二歳の頃にエメリは父方に、藤間くんは母方に引き取られた。それからエメリが中学を卒業する年にエメリの父親は蒸発し、藤間くんのお母さんは二年前に病気で他界したんだ。それからは、お互い一人暮らししながら、時々会っているみたいだよ」

「ご親戚の方は……いなかったんでしょうか」

瑞樹が言葉を選びながら尋ねた。

「いないって言っていたよ」

「姉弟で一緒に暮らすことは……できなかったのでしょうか」

「そうだね……エメリ側からは、だいぶ藤間くんに声を掛けたみたいだけどね。もう十年も別々に暮らしているし、エメリにとっては弟でも、当時二歳、記憶のほとんど残っていない藤間くんにとってはやっぱり、ね。思春期だしね」

「そんなもんなんですかね」瑞樹は足元に視線を落とした。

「まだ学生であるエメリに迷惑をかけたくなかったんじゃないかな。内職をしたり、『鷹野旅行代理店』でのアルバイトをしたりして頑張っているみたいだよ」

藤間の家は木造の二階建てアパートで、築数十年といった風に見えた。その一階の角部屋が藤間の部屋だった。

 ベルを押すと、音の外れた間抜けな音がする。バタバタと足音がして、中から坊主頭の少年が顔を出した。ほんの少し異国の血を感じさせるような、目鼻立ちのくっきりした少年だった。身長は、百七十五センチ弱の瑞樹よりも、十五センチほど小さいだろうか。

「河西さん……」

 藤間は長い睫毛で縁どられた目を丸くした。

「久しぶり。事前連絡もなしに、突然押しかけてごめんね」

「いえ、どうしたんですか?」

 藤間は河西の肩越しに背後の二人に視線を向けながら、首を傾げた。

「それがさ、『鷹野旅行代理店』の社長さんたちと連絡が取れないんだけど、何か事情を知らないかな」

「社長ですか? 確か昨日帰ってくる予定だったと思うんですけど」

「そう聞いていたんだけどね、旅行客もろとも行方がわからないんだ」

「旅行客って、河西さんの大学のお友達ですよね」

「そう。だから、ちょっと気になって。店も閉まっていたから、藤間くんなら何か知っているかなと思って来てみたんだけどね」

「それは心配ですね」藤間は、ドアを開けて中を示した。「立ち話もなんですから、中へどうぞ。――そちらの方は?」

「申し遅れました。旅行客の友人の冷泉と申します」

「同じく白峰です。突然押しかけてしまってごめんなさい」

 藤間は、二人の言に合わせてゆるやかに相槌を挟んだ痕、玄関の扉を全開にした。

「藤間エーリクです。中へどうぞ」



 *



 六畳一間の狭い部屋だった。しかし、無駄なものがなく、また掃除も隅々まで行き届いており、そんなところからも家主のしっかりした性格が伺えた。

 テレビはないが、小さな棚があった。その上には写真が三枚飾ってある。一枚は、二十歳くらいの女性の写真。そしてもう一枚はその女性と、藤間が二人で写っている写真。最後の一枚は、同じ場所で藤間が一人で写っている写真だった。

 瑞樹の視線の動きを察してだろう、藤間が言った。

「姉です。真ん中の写真は僕と姉で、去年のゴールデンウィークにA県のY岳に登ったときの写真。もう一枚はついさっき現像したばかりの写真です」

「あ……そうでしたか」

 瑞樹は唇を閉じた。促された木製のちゃぶ台の脇に腰を下ろす。

 早見エメリが昨年末に山で事故死したことは、車の中で河西から聞かされていた。一年前に姉と登った思い出の山で、今年は一人写真を撮った十二歳の少年のことを想えば、胸が痛んだ。

「さっき現像されたのですか?」冷泉は、お構いなしと言った様子で口を挟む。

 その視線の先、狭い台所で三杯分の麦茶を注ぎながら、藤間が顔だけ居間を振り返った。

「はい。A県から、昼過ぎに戻ってきました」

「じゃあ、お昼ご飯もまだなんじゃないですか?」

「お昼は電車の中で済ませてきました。九時二十六分の電車でしたかね、確か。帰りに写真の現像まで済ませて、ついさっき帰ったところなんですよ」

「じゃあ、あと一時間早ければすれ違いになっていたね」

 河西が腕時計に視線を落としながら言った。

「そうですね。――それで、そのご友人と社長たちがまだ戻らないって話ですけれど……どうしたらいいでしょうか。警察に連絡ですか」藤間は不安げに眉を寄せた。

「警察か……」河西は腕組みをして唸った。

「昨日の波の状態が悪かったとかいうことはないでしょうか」冷泉がグラスから目をあげて、尋ねた。「F県はどうかわかりませんが、僕の住んでいるM県はかなり風が強かったし、寒かったです」

「なるほど。波が高くて船を出せなかった可能性か。あり得るな」

「とりあえず、店まで行ってみましょう」藤間が左手首に視線を落として言った。「一日戻りを遅らせただけでしたら、行程的にはそろそろ帰ってくる頃ですよ」



 *



 玄関を出たところで、隣の部屋の玄関のドアが開いた。中から、よく日に焼けた人のよさそうな男性が出てくる。

「何かあったのかね」

 小豆色の毛糸の帽子を耳まで被った、骨太の中年男性だった。髭には白いものがだいぶ混じっている。

「船長さん」

 藤間は間違いなくそう呼んだ。センチョウ――その音に漢字を当てはめるとしたら、瑞樹の知るところでは、『船長』くらいしか思いつかない。船乗りだろうか。そうアタリをつけてよくよく観察してみると、なるほど、全体的によく日に焼けており、手なども武骨な漁師のそれに見えた。

「すみません、うるさかったですか?」

「いいや、声までは聞こえなかったよ。ぞろぞろ家の中から人が出てくるなんて、なにごとかと思っただけさ」

 船長は、優しそうな声で言った。しかし、その声はとても大きい。ひょっとしたらほんの少し耳が悪いのかもしれなかった。

「ならば、よかったです。いえ、それがですね……鷹野社長が島から戻ってこないんですよ」

「鷹野さんが? 島って雪女島だろう」

「ええ」

「いつ戻りの予定だったんだい」

「昨日です。波が高かったんでしょうかね」

「いやぁ、昨日は船出せたよ? うちは」

「ええぇ……じゃあ……」

 藤間は不安そうに河西を振り返った。

河西が一歩前へ出る。

「初めまして、船長さん。僕は藤間くんの知人の河西と申します。こちらが、冷泉くんと白峰くん。――みんな、鷹野社長と同行している旅行客の知り合いです」

「それは心配だな。船出そうか?」

「え、いいんですか?」瑞樹が食いつき気味に言った。

「いいよいいよ。困ったときはお互い様だ」



 15:00



 それから三十分もしないうちに、四人は太平洋の上にいた。波はやや高いらしい。慣れない揺れに、瑞樹は最初緊張した面持ちをしていたが、十五分もすればすっかり慣れてしまったようで、周囲を見回す余裕ができたようだった。

「そうか。藤間くんのお姉さんのボーイフレンドなのか」

 船長は、今しがた藤間から聞いた情報を反芻した。

「こっそりと付き合っていました」

「なんで隠していたんだい」

「いえ……所属していた山岳部は男女混合の部活でしたから。その、部員の間でそういうものがあると、みんなも何かと気を遣うかなと思って」

「サンガクブ?」

「山岳部、登山をする集団です」

「ああ、山岳部ね」船長はうんうんと無精ひげの生えた顎を縦に揺らした。「それで、お姉さんは山の事故で……か。かわいそうだったね」

 藤間と河西の間に、何とも言えない沈黙が下りた。

「俺もね、海で長年仕事していたら、海での事故なんかも何度かあったよ。その度に、心が千切れそうな思いだった。でもね、人生ってのは、出会いと別れの繰り返しなんだな。自分が先に逝くか、相手が先に逝くかの二択だからね。それを乗り越えて強く生きなきゃいけないんだよね。辛いね」

 藤間は白い顔をふいと背けた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいるようだった。

「そうですね……」河西は重い息を落とした。



16:00



 島影が大きくなるにつれて、妙な黒い物体が桟橋を揺らしていることに気づいた。否、目を凝らしてよく見ると、桟橋が揺れているのではない。桟橋の隣で黒い塊がゆらゆら波間に揺蕩っているのだ。

「何だ?」瑞樹が身を乗り出して瞬きを繰り返した。

 冷泉も同じように、何度か目の表面を潤す。それでもはっきりと像を結ばないのに焦れて、バッグからハーフリムの眼鏡を取り出してかけた。

――船だ。黒焦げになった船が陸に向かって体当たりするように、繰り返し打ち上げられている。隣接した桟橋も途中から黒く焦げて、陸に触れる部分は一部炭化していた。

「あれは……会社の船だ」藤間が立ち上がった。バランスを崩した船が大きく揺れた。

「どうしてあんなことに……」冷泉は口の中で呟いた。

 隣の瑞樹を見遣れば、目を剥き、青ざめた唇を小さく戦慄かせている。

「船が……船が故障したのか?」

「いや」冷泉も視線を船に戻して、「岸までは辿り着いているんだ。きっと上陸して、救助を待っているんだろう」自らに言い聞かせるように言った。

 不安を滲ませる四人に、船長は追い打ちをかけるようなことを言った。

「いや、この島は潮と風の関係で、潮は島に向かって流れるようになっているはずだ。だから、海上で難破したとしても、自然とあの桟橋の近くに流れ着く」

「そんなことがあるんですか」冷泉は風切音がしそうな勢いで振り返った。

「あの様子じゃあ、船は係留されてないだろう。もし、されていたとしても綱ごと燃えちまっているよ。それでも、船があの場から動かないのが何よりの証拠さ」

「それじゃあ」

河西が目を剥くのに、漁師は小さな目をぱちくりさせながら頷いた。

「途中で炎上して難破した可能性もないわけじゃないな。……こりゃあまずいことになったぞ……」

「そんな」河西が端正な顔を歪ませた。

「じゃあ、鷹野さんと降谷さんも……」

藤間も連鎖するように、柳眉を歪める。

 流行病のように伝染する恐怖に待ったをかけるべく、冷泉がぴしゃりと言い放った。

「まだわからない」しかし、その額にも冷や汗が滲んでいた。「わからないぞ、まだ……」

「望みはあるよね」瑞樹が泣きそうな声を挙げた。

 冷泉は深く一つ頷いた。

「船長、今乗せていただいているこの船では、旅行客と乗員全員が本土に帰ることはできません。それに、炎上した船を牽引する必要もあるでしょう。場合によっては、怪我を負っている人もいるかもしれません。申し訳ありませんが、島についたら僕たちをその場に残して本土へ引き返していただけませんか? そして、警察に通報してください」

「わかった」

 船長は真剣な顔で顎を引いた。

「怪我人がいたとしても、医学科の和泉と、看護学科の龍川さんがいるからきっと応急処置くらいは……」

 河西が、同意を求めるように冷泉に視線を向けた。

冷泉は祈るように首肯して、重い息を吐いた。



16:30



 岸に近づくにつれ、ガソリンの匂いに混じって、腐敗臭が段々と濃くなってきた。

「これは……人為的に燃やされた可能性もありますよ」

 冷泉は堅い声を出した。

 異常事態を察した瑞樹がぶるりと身体を震わせる。

「ガソリンの匂いがしやがる……」船長は丸い鼻を、丈夫そうな右手で覆って船を止めた。

 乗って来た漁船を係留して、五人は一人ずつ陸へと上がった。

 鼻を衝く異様な匂いのもとを辿ったところで、一同は毛布を被せられ、大きめの岩で重石をされた遺体を発見した。

 河西は完全にその場に硬直し、藤間と船長は「ひっ」と各々喉を引きつらせて後ずさりをした。瑞樹は泣きそうな顔で冷泉の横顔を見た。

 毛布には丸々と肥えた蠅がたかっている。

 冷泉は羽織っていたジャケットを脱いで、まずそれらを追い払うと、そっと傍にしゃがみ込み、重石のうちの一つを外して毛布を捲ってみた。

 赤い肉塊だった。

 背後で船長と藤間が「わああ」と声をあげて、たたらを踏むのがわかる。

 海鳥にでも啄まれたのか、顔かたちの判別は難しそうだったが、服装から男性であろうことは辛うじてわかった。

「これは……」と、冷泉は背後を振り返り、「河西さんわかりますか?」冷泉のすぐ後ろに来ていた河西を仰ぎ見る。

 河西は、口元を左手で覆ったまま、青い顔をふるふると横に振った。

「と、とりあえず、大変なことになっている。急いで警察だ」

船長が罅割れた唇の端に泡を吹きながら、つっかえつっかえ言った。

「全員で一度戻った方がいいんじゃないですか?」

 藤間が色素の薄い目を険しくして言った。

「いや、みなさん、助けを待っているかもしれない。」瑞樹が即答した。そして、「藤間さん、宿泊所はどこにあるんですか?」今にもその場から駆け出しそうな勢いで尋ねた。

船長は、乗って来た漁船を目掛けてよたよたと駆け出していた。

「そ、それじゃあ、なるべく早く警察連れてくるから。きみたちも気を付けるんだよ」

 息つく暇もなく、船長は冷泉たち四人を島に残し、とんぼ返りで本土へと戻っていった。

 目の前には、完全に炭化した船が浅瀬でざぶざぶと泳いでいた。

 恐る恐る中へ目を向けるが、人がいる様子はなかった。それから四人は連れたって、つづら折りの階段を二段飛ばしで駆け昇って行った。



 *



 コテージの玄関の鍵は開いていた。ホールに足を踏み入れた瞬間、ひんやりと冷たい空気が内から外へ動いた気がした。音も匂いも何もない。

「小夜……小夜ちゃん! 小夜ちゃんどこだ!」

 その瞬間、瑞樹が何かに突き動かされるように駆け出した。河西、冷泉、藤間とそれに続く。瑞樹は、すぐ左手の居間の扉を勢いよく開けた。

 目の前に三人掛けのソファが三脚、コの字型に置かれている。その中心にある机の上には、クッキーの小袋が一つと、折り曲げられた十個ほどの紙片が無造作に置かれていた。

「誰かがここにいたんだ」

 瑞樹は口の中で呟いて、弾かれるように部屋の奥を見回した。

冷泉も同じように、ぐるりと部屋を一望した。内部をよく見ようと電気のスイッチを探したものの、それらしきものが見つからない。不思議に思いつつも、まだ明かりがなくとも支障はないと、冷泉はそのまま部屋の中へと足を踏み入れた。

ソファの向こう側には大きな窓があり、そこからウッドデッキに出られるようになっている。右方の奥にはグランドピアノと、ステージだろうか、小さな段差があった。

 瑞樹は、夢遊病者のように危なっかしい足取りで、厨房、管理人室、宴会場、トイレ、シャワー室と順に覗いて回った。それを先頭に、三人もそれぞれが音のない箱の中を駆けまわる。

瑞樹が二階に続く階段に足を掛けるのを見て、冷泉も後を追った。そして、階段の最後の数段まで来たときに「あ!」っと声を挙げた瑞樹の背に飛びつくようにして肩を並べた。

昇ってすぐ、左右に位置する客室のドアはどちらとも破られていた。

思わず、二人は顔を見合わせる。しばらく、沈黙を経た後、瑞樹がやや迷うような動作を示して右側の部屋へと足を踏み入れた。

入ってすぐ、二〇一号室と書かれた扉が破られ、部屋の内壁に立てかけられていた。その奥には口の開いた黒い旅行鞄が置いてあり、またベッドのシーツはくしゃくしゃになっており、誰かが使ったような形跡が見受けられた。

対面の二〇五号室も扉が壊されており、同じように内壁に立てかけられていた。しかし、二〇五号室の扉に限っては、下半分にもう一つの小さな扉というべき開き戸があり、それが開いたままになっていた。

「隠し扉か?」

 先に廊下へと出て、二〇五号室を覗き込んでいた冷泉が、眼鏡の蔓に手を掛ける。

 二〇一号室から出てきた瑞樹は、立ち尽くす冷泉を抜き去り、恐る恐る二〇五号室の敷居を跨いだ。その瞬間、むわりと鉄臭い匂いが鼻腔を突いた。入ってすぐに点々と血痕があり、その奥のベッドの上に、毛布をかけられた長い塊があった。手前側に足の裏がつき出ている。明らかに男性の靴だった。

匂いで何があるのか察したのだろう、「もうやだ」と、藤間が階段を昇ったあたりで嘆く声がした。

 河西が瑞樹の背に手を添えるようにして、前へ出る。そして、そっと毛布をめくった。

「うわあ、横井――!」



 *



 それから二〇四号室のベッドの上に森内の死体と、それから二〇三号室のベッドの上に乾の死体を発見した。それぞれ腐敗が進んでいるようで、なんともいえない臭気を発していた。二〇三号室の突き当りの窓は外側から破られたようで、扉を開けた瞬間、風が通ってカーテンがそよいだ。

「何があったんだ……」河西は蒼白な顔で唇を震わせた。

 藤間は、階段を昇ったあたりで、影を地面に縫い付けられたように立ちすくんでしまっていた。

 次に二〇二号室の扉に手を掛けた瞬間、瑞樹が「えっ」と声を挙げ、扉を閉めた。何ごとかと、河西と冷泉が続く。

「何かが引っかかっている」

 ノブはまわるものの、開けた瞬間、突風に襲われたところで障害物に当たった。

「誰かいるのか? 河西だ。助けに来たぞ」

 河西が良く通る声を、扉の向こう側へと投げかける。

 冷泉は一度背後を振り返り、藤間の姿を確認した。彼は依然青白い顔で、震える両手を薄い上体に巻き付けていた。

「誰もいないようだ」

 河西は、瑞樹に目を向けた。瑞樹は頷き返した。そして、再びノブを回した。

こちらも二〇三号室と同様に、しかし内側から窓が破られていた。そして、すぐにドアに引っかかっていたものの正体が判明した。河西が、慌てて扉の影から中を覗き込んで、ひときわ大きな声を上げた。

「檜山!」

 扉に引っかかっていたのは、長身の男の左腕だった。右の背中の中央部に大ぶりの登山ナイフが刺さっており、その上にも深い傷がある。左腕と左側頭部にも赤黒い痕があった。

 河西は、へなへなと力を失うようにその亡骸の傍に腰を下ろした。

「あ。小夜ちゃんのバッグだ」

 冷泉の隣で、瑞樹が早口に呟いた。彼の視線の先には、薄茶色の旅行鞄があった。瑞樹は、彼女の名を呼びながら、肩を落とす河西をよけるようにして部屋の中へとふらふら入っていった。

 目の前の死体と河西、瑞樹の背中へとかわるがわる視線を向けながら、冷泉も部屋の中へ足を踏み入れた。

「誰もいない」冷泉は息を呑んだ。

「ここは小夜ちゃんが使っていた部屋だったのか?」瑞樹が独り言のように口の中で言った。

「窓に血が」冷泉は大きく破られた窓硝子から、首だけを出して外を覗いてみた。

そこには一メートルほどのバルコニーと、散らばった硝子片、それからいくつかの血痕が見えた。

「誰かがバルコニーに出たんだ。冷泉は、振り返って瑞樹の目を見た。「この椅子を使って」と、足の傷ついた椅子を持ち上げて揺すった。窓硝子を破った際に傷がついたのだろう。

瑞樹は泣きそうな顔で、冷泉の目を見つめ返した。

「でも、二〇三号室に、生きている人は誰もいなかった」

「ああ。あの部屋に小夜さんはいなかった」

「二〇三号室のドアの鍵は開いていた。二〇二号室の窓を破って逃げた小夜ちゃんは、二〇三号室を通って、廊下へと逃げたのかもしれない」

「それは……」

 冷泉は横目でベランダの白い手すりを見た。そこには赤黒い筆で掃いたような痕があった。怪我を負った小夜は、二階の窓から飛び降りたのかもしれない。しかし、そのことを気持ちが昂っている瑞樹に伝えるのは憚られた。

「そうだよ。二〇三号室から逃げたんだ、きっと……」

 瑞樹は、ふらふらと二〇二号室の入口へと戻った。

 流血するほど怪我を負った小夜が二〇三号室を通ったのなら、それなりの血痕があるだろう。それに、二〇三号室はバルコニー側から部屋の内側に向かって窓硝子が割られていた。が、道具が見当たらなかった。また、怪我を負った小夜が何かしらを振りかぶって、窓硝子を割ったのだとしたら、血痕の一つや二つ落ちているのが自然に思える。――冷泉はその思考を脳内で噛み殺して彼の背中を追った。

 三階は荷物やシーツの乱れ具合から誰かが寝起きした気配こそあれど、もぬけの空だった。瑞樹と冷泉が三階を降りてきた頃になって、ようやく河西が二〇二号室からふらふらと出てきた。藤間は相変わらず二階の廊下の中央で震える身体を抱きかかえて直立している。

「外へ出てみましょう。三階にも誰もいませんでした。ところで、宿泊客は全部で何名いたのですか?」冷泉が尋ねる。

 震える藤間に代わって、河西が「客は七人だよ」と毅然と答えた。

「じ、乗務、員は、二人……社長の鷹野さんと、スタッフの降谷さん……」

 藤間が奥歯をかちかち言わせながら答えた。

「ならば、全部で九名ですね。海岸に一名、コテージに四名と、合わせて五名の遺体が発見されていますが、まだ四名はいるはずです。急いで外を探しましょう」

 冷泉が気丈に提案するのに、瑞樹が右胸に左手を当てて力なく頷いた。



 *



コテージのリビングからバルコニーへ出た一行はそのまま二〇二号室の真下へと来た。

そこには明らかに血の痕と見て取れる斑点があった。

「二階から飛び降りたんだ」ようやく気がついたらしい瑞樹が口の中で呟いた。「でも、ここに倒れていないから、ここからどこかへ逃げたんだ……」

 そして「小夜ちゃーん」と声を張り上げた。反響する山もない島の上では、その声はそのまま沖の向こうへ消えていった。

「他に人が隠れられそうな場所を知りませんか?」

 冷泉は藤間に尋ねた。旅行代理店スタッフならば、施設には詳しいだろう。そう思っての問いだった。

「た、体育館と、あとプールが」藤間は、なおも青い顔で唇を震わせながらたどたどしく答えた。

「体育館とは、あの建物のことですね」視線の先に、バスケットコート一面分ほどのやや小ぶりな建物があった。「順に行ってみましょう」冷泉は気合を入れるように、一つ息を吐いた。

「小夜ちゃんは、犯人から隠れているんだ、きっとそうだ……俺たちが助けに来たことを知らないんだ……」

 瑞樹は固く目を閉じ、額に手を当てる。そして誰にともなくぶつぶつとつぶやいた。長い睫毛がふるふると揺れている。

「ま、待ってください。心の準備が」藤間が三人に向けて震える声で懇願した。

三人は思い思いに頷いた。河西がそっと彼の肩に手を添える。藤間は涙を堪えるような表情でこつんと頭を下げた。まるで魔王の根城へと乗り込む勇者のような気分だった。



 *

 

体育館の入口のドアは開いていた。中へ踏み出すと、微かに鉄臭い匂いが鼻腔を突く。冷泉の背後で藤間が息を詰めるのがわかった。

 河西が「またか」と地面を見つめる。

 冷泉は意を決したようにフロアの中へ続く黄色い引き戸を開け、中へと足を踏み入れた。見回すまでもなく、右側の床に乾いた大きな血だまりの痕があり、一同の視線はそこに釘付けになった。そのまっすぐ上には幅一メートル強ほどの内向きのベランダ状の二階があり、鉄格子の隙間からぞんざいに纏まったロープが見える。

「梯子がある」

河西がフロアの隅を指さした。

 その二階に昇るための唯一の手段である、縄梯子が下りたままになっていた。

「誰かいるかもしれない。昇ってみよう」

 そう言って、河西が縄梯子に手を掛けた。揺れる縄梯子の裾を慌てて冷泉が固定する。

しかし、頂上まで昇った河西は緩く首を振った。「何もない」

「でも、ここで誰かが大量の血を流したことだけは確実なようですね」冷泉が眉間に皺を寄せて唸った。それから、何かを見つけたように一直線にフロアの隅へ歩いてしゃがみ込むと、「非常灯がある」設置されていた非常用の懐中電灯を拾い上げた。

立ち上がってぐるりと確認すれば、体育館の四隅に一つずつ備え付けられているのが見て取れる。うち一つは、設置台のみが備え付けられていて、肝心の懐中電灯本体はなくなっていた。

「もうじき日が沈みます。これだけでは心もとないですが」

 それから、四人は連れたって体育館の裏へとまわった。

 途端、先頭を歩いていた河西が、息を呑んで一歩後ずさりをした。

 藤間が電流にでも打たれたように、体育館の角の裏へ身体を隠す。そのまま蹲って「もういやだ」と、頭を抱えてしまった。

「和泉……」河西が、忍び足で恐る恐るその傍へ腰を下ろす。

 そこには頭の左上半分を失った、華奢な男が倒れていた。赤黒い大きな陥没は背中にも見られ、両腕は体側に捻じれた形で放り出され、両足はぞんざいに伸びている。割れた頭からは脳梁が飛び散り、頭と背中の下に暗赤色の染みが広がっていた。

 辛うじて残った右目は真上を向き、灰色に濁っている。土気色の唇からはちろりと舌の先が見えていた。

 冷泉は河西の肩にそっと手を置くと、悲痛に歪む顔を覗き込んだ。

「あとの三人を、探しましょう」



 *



 世良久美子の死体は森の奥で見つかった。

 頭に黒いビニル袋を二重巻きにされて首のところで縛られ、両手首と肘、膝と両足首を縄で縛られ、太い木の枝に逆さ吊りにされていた。

 袋を取った顔はぱんぱんに腫れ、元の顔かたちの予想もつかないほどになっている。酸欠か、両手首の切り傷が致命傷になったと見え、流れた血液で上半身と、地面がしとどに濡れていた。

 ここまでくると、河西もただ肩を落とすばかりで、望みのある言葉を口にすることもなくなっていた。瑞樹は依然紙のように白い唇を震わせながら、ただ冷泉の斜め後ろを影のようについてきていた。藤間はというと、河西の上着の裾を握って放さない。死体が発見されるたびに強く目を瞑り、両手で顔面を覆って背けていた。

 冷泉は、斜め後ろの瑞樹を振り返った。

 先ほどから獣道のところどころにぽたぽたと落ちている血痕に、彼も気づいていることだろう。傷を負ったまま、二〇二号室から命からがら逃げ出した何者かが、この森のどこかに今もいるのだ。

 冷泉はふっと天を仰いだ。

 目隠しのように覆いかぶさる木々の隙間から、闇の気配が見下ろしている。

 もうじき夜が来るのだろう。そうなると、捜索作業も難航する。血痕を肉眼で追えるうちに、小夜の居場所に辿り着くことが求められている。

 地面に目を凝らしながら、四人は恐る恐る深い森を進んだ。

 鳥が何羽か、木々の間を、円を描くように飛んでいた。夕日が落ちた方向だった。

やがて、三人の足が止まる。瑞樹だけが、ただ一人ふらりと前へ歩み出た。

少女の身体は、胎児のように丸まり、命の灯を完全に失っていた。

瑞樹はその硬くなった身体をそっと両手で抱きしめた。次第に力が入り、ぶるぶるとその背が震え始めた。すん、と誰かが鼻を啜る音がした。

冷泉は切れ長の目を細めて、眼鏡のレンズ越しに友の静かな慟哭を聞いた。

小夜の身体は、今や野鳥に啄まれ、ところどころ肉や骨の一部が露出していた。

昨夏見た、少女のはにかんだ顔を瞼の裏に思い描く。そして、瑞樹の無邪気な笑顔を。

やりきれない、と、冷泉は小さく首を振った。

「小夜……」

瑞樹は幼馴染の名を、愛しそうに呼んで額を撫でた。

そして、死臭漂う滅びの森で、彼は彼女の額に最初で最後のキスをした。

 冷泉はそっとその場に背を向けた。

 辺りは一段と暗さを増した。この森の中に今でも殺人鬼が潜んでいるかもしれないと思うと、男四人で固まっているとはいえ、戦慄が踵から背骨に沿って頭の天辺へと駆け巡る。

「降谷さんはどこへ行ってしまったんだろう……」

 藤間が掠れた声をぽつりと零した。彼女もこの森のどこかにいるのだろうか。

 冷泉がぐるりと周囲を見回したときだった。「あれは……」視界に白いものが入り、駆け寄ってみる。

 木のうろの中に、二冊の手のひらサイズの冊子があった。

「本か? 二冊あるぞ」

 両方ともA5サイズより一回り小さい。厚さ一センチほどのノートブックだった。一冊は透明のビニールカバーがかかった花柄のもので、もう一冊は茶色の革張りのものである。

「これは見たことがある。檜山のものだ」

 うち茶色の方の冊子を覗き込んだ河西が、呻くように言った。

 手帳のようだった。前半はスケジュール帳のようで、ところどころに予定が書きこんである。後半のフリースペースには、少し右肩上がりの小さな文字がぎっしりと詰まっていた。

 差し出された河西の手にその革製の冊子を渡して、冷泉は、「もう一つは」と、花柄の冊子を捲ってみた。こちらも、後半のフリースペースには、ぎっしりと筆圧の薄い文字が書きこまれてあった。

ひとまず、持ち主のヒントはないかと、冷泉は再び前半のスケジュールの頁へと巻き戻してみる。そこで、決定的な文字列を見た。

『199*年5月25日 AM 瑞樹くん』

「これは……」冷泉は弾かれたように瑞樹を振り返る。ストレートの黒髪が針のように宙に舞った。

 なおも瑞樹は項垂れたまま、物言わぬ小夜の亡骸を抱きしめていた。泣き止まぬ赤子を大事にあやす母親のように。

「これは事件の記録だぞ、冷泉くん」

 鋭い声に視線を転ずれば、目を剥いた河西と視線が合う。

 冷泉はお辞儀をするように、彼の手元を覗き込んだ。

それは、紺色のボールペンで克明に綴られた事件記録だった。

「それじゃあ、こっちも」

 冷泉は、みたび自らの手元の手帳の、フリースペースへ頁を送る。

 こちらも黒のボールペンで克明に綴られた事件の顛末だった。ページは湿気で柔らかくなっているものの、読めないほどではない。

 慌てて冷泉は、河西に言った。

「これは、大事な証拠品です。警察が来るまで大切に保管しなければなりません。僕たちは四人で固まってコテージまで戻り、この二冊の手記を守る義務があります」

 これはいわば命を賭したダイイング・メッセージだ。この島に未だ潜んでいるともわからない犯人から、死者の意志を守らねばならない。

「しかしまずは生き残った人物の保護です。森を一周して、降谷さんを探しましょう。犯人が潜んでいるかもしれないので、絶対に離れないでください」冷泉は、前半は河西に、後半は藤間に向けて力強く言った。「行こう」そして、瑞樹に視線を落として言った。

瑞樹はぴくりとも動かなかった。

「瑞樹」

 冷泉は彼の名を呼んだ。瑞樹は薄く頭を振るだけで、頑として動こうとしなかった。そんな彼の腕を、冷泉は手帳を握っていない方の左手で優しく掴んだ。瑞樹の腕は小さく震えていた。頬は幾筋もの涙で濡れていた。瑞樹は、普段は涼しく穏やかな顔を、子供のようにくしゃくしゃにして泣いていた。

「ここにいる」

「瑞樹、危ないよ」

「ごめん、いやだ」

「瑞樹」冷泉は隣に片膝をつき、努めて優しく声を掛けた。

 瑞樹は眉間に皺を寄せて、母親に泣きつく子供のような声を絞り出した。

「小夜はもっと怖い思いをしたんだ。これ以上一人にするのはかわいそうだ」

「瑞樹……」

「俺はいかない。みんなだけで行って」

 瑞樹は懇願するように、声を絞り出した。

 冷泉は河西を見遣った。河西が首を横に振った。

 それからしばらく、三人は瑞樹を囲んで立ち尽くした。

やがて河西は、檜山の手記を真剣なまなざしで読み始めた。辺りは時間が経つごとに暗くなっていく。冷泉は、途中体育館で手に入れた、非常灯を河西に手渡した。

「ライトをつけるということは、不審者が潜んでいた場合、こちらの場所を教えるようなものです。気を受けてください」

 そう言って、河西を見上げると、彼はわかったと深く頷いた。

 十分ほどが経過した頃、河西が冷泉に耳打ちをした。

「読んでみてくれないか」

 その言葉に冷泉は頷き、彼からライトと手帳を受け取る。中には、事の顛末と、檜山なりの個人的見解が書き連ねてあった。

「これは……想像以上ですね。檜山さんというのは、二〇二号室に倒れていた方ですよね」

 冷泉が目をあげて尋ねると、河西は何かを堪えるような表情で肯いた。

「そう」

「小夜さんと一緒にいたのでしょうね。このノートを木のうろに隠したのはおそらく小夜さんだ」

「状況から見ればそうだろうね」

「ええ、それだけではありません」冷泉は河西に花柄の手帳の一頁を示した。「ここに血液が付着しています。この血液を調べれば、誰のものかわかるでしょうが、まず間違いなく、両手に怪我を負った小夜さんが、ここまで走って来て、うろに隠したのだと思います」

「檜山と龍川さんは一緒にいたんだろうか。二〇二号室に」

「おそらくそうでしょう。そこで、犯人の襲撃を受け、小夜さんは窓から脱出した。……檜山さんが倒れていたのは入口付近でしたから、犯人は入口から襲ってきたのでしょうね。そして檜山さんは身を挺して小夜さんを守った、と」

 河西は右手で眉間を抑えた。「そういう奴だよ、檜山は……」

 冷泉は開きかけた口を閉じた。

 すっかり辺りは夜に包まれた。真っ暗な森を、冷泉の手のライトだけが照らし出す。

「小夜さんの手帳と照合してみれば、およそ何が起きたのかわかりそうですね」

冷泉は、瑞樹にちらりと視線を向けた。瑞樹は魂が抜けたように、明後日の方向を凝視したまま動かなかった。腕の中には変わらず、物言わぬ躯と化した小夜があった。



 *



「速報です。今日午後六時頃、F県F村、C地区の海岸に、女性の死体が浮いているのが発見されました。身元は現在調査中とのことで……」

「続報です。今日午前六時頃、F県F村、C地区の海岸で発見された遺体の身元が判明しました。身元は地元のアルバイト、降谷瑛梨さん、十九歳で、死亡したとみられる時刻は五月三日夜十一時から、翌五月四日深夜三時頃とのことです。死因は首を突いた失血死……」

(ニュース ウォッチイブニングより)



 *



 20:00



「船だ」

 昏い森の中、三角座りをした河西が疲れ切った声を挙げた。

 ほぼ同時に、西の空からボトボトというヘリコプターの羽根のまわる音が聞こえてくる。続いて、西の海を幾筋もの光の筋が照らし始めた。



 *



『雪女島殺人事件』事件調書 被害者(九名)

 鷹野八郎(海水による溺死)、森内剛(針による毒殺)、乾拓也(ガスによる毒殺)、横井行基(首筋、肘窩、足の付け根からの失血死)、檜山司(刺殺)、龍川小夜(刺殺)、和泉侑李(撲殺)、世良久美子(窒息死)、降谷瑛梨(刺殺)



 *







エピローグ 



「こんにちは」

 冷泉は目を伏せて首を傾げた。挨拶を受けた男も、微笑みと会釈を返す。

 ある初夏の昼下がりのことである。男は住まいの近くの公園のベンチに一人座って物思いにふけっているところを、冷泉誠人に呼びかけられた。

「少し、僕の話を聞いてくれますか?」

「……なんでしょうか」

 心当たりはあった。けれど男は、綺麗に笑んで小首を傾げてみた。

「事件についてです。三週間前の、あの」

「ああ……」男は足を組みなおした。「……あの。できたらもう忘れたいのですが」

「ええ、そうでしょうね。このまま事件が闇に葬られた方がいい。あなたはそうお思いでしょう」

 男が横目を向けると、冷泉は口元を引き締めた。目は笑っていない。

「犯人はあなたですね」

 冷泉の切れ長の目の奥を、男はじっと見据えた。

「島で降谷瑛梨さんとしてふるまっていたのは、降谷瑛梨さんではなく、藤間エーリクさん、あなただったのです」

 男――藤間エーリクは一瞬目を伏せた。しかし、すぐに長い睫毛を持ち上げて、蠱惑的に笑った。

「僕が? 犯人は降谷さんでしょう。八人を殺害して、自殺した」

「いいえ」

「彼ら八人以外島に誰も潜んでいなかったことは、檜山さんと龍川さんの手記にあったって、警察の方も言っていたじゃないですか。それらしき痕跡だって何も見つからなかったって」

 藤間は淡々と言葉を並べ立てた。

 冷泉はふっと息を吐くように口元を緩めた。

「女装」

「女装?」

「そうです」

「そうです、って」

「あなたは女装をし、“降谷瑛梨”として振舞っていた。旅行客七人からは、あなたは“降谷瑛梨”だと思われていたのですよ」

 藤間は一瞬視線を泳がせてたじろいだ。しかし、すぐに視線を冷泉の両目に戻して勝気そうに目に力を込めて言った。

「僕や降谷さんと面識のない山岳部の人達相手ならまだしも、鷹野さん相手に、僕が『降谷瑛梨です』なんて言ったところで、騙せるわけがないでしょう」

「鷹野さんは、あなたが藤間さんだと気づいていましたよ」

「ですよね」藤間は自らを言い聞かせるように肯いた。「僕の顔を知らない山岳部のメンバーならまだ騙せたとしても、普段一緒に仕事をしている鷹野さんを騙せるとは思えない。降谷瑛梨さんと僕の顔が似ていると思いますか?」

「いいえ、似ていません」

冷泉の返答に、当然とばかりに藤間は一度目を背けた。

「であれば、一目瞭然じゃないですか。言っていることが矛盾していませんか?」

「そうです。鷹野さんは、藤間さんのことを藤間さんだと認識して、接していましたよ」

 藤間はじっと冷泉の両目を見据えたまま答えない。

「鷹野さんは、藤間さんのことを『エリくん』と呼んでいたのではないですか?」

 藤間の頬から一筋の汗が伝った。

 冷泉は構うことなく、続けた。

「現に檜山さんと小夜さんの遺した記録では、鷹野さんは降谷さんのことを『瑛梨くん』と呼んでいます。その呼び名につられた面々も『瑛梨ちゃん』『瑛梨さん』などと呼んでいる。苗字の話題が出たのは、夕方、鷹野さんがいなくなった後のことですよね」

 藤間はなおも、沈黙を貫いた。

 冷泉は、一呼吸挟んで唇を開いた。

「鷹野さんが一番に殺された理由はそこにあったのです。あなたのことを普段から『エリ』と呼ぶ鷹野さんでも、いつ、ぽろっと『藤間』という苗字を漏らすかわからない。彼を生かせば生かすほど、そのリスクは高まりますからね」

 藤間は視線を正面に外して、緩く笑んだ。

「……僕が女性になりすますのは無理があるんじゃないですか」

「いいえ」冷泉は間髪入れずに断言した。「男性にこういうのも失礼かもしれませんが、藤間さんは日本人の父とスウェーデン人の母を持つお母さまに似て、とても綺麗な顔をしていますね。変声期もまだ迎えておらず、身長も百六十センチに達していない。これは、日本人女性の平均身長とそう変わりません。体型と顔と声の問題はそこでクリアできます」

「……髪は? ご覧の通り、僕は坊主ですよ。校則が厳しくて」

 藤間は大仰に肩を竦めて見せた。

「ウィッグを被っていたのではないですか? あなたのいないはずの島に、あなたの毛髪が落ちていれば明らかに不自然だ。そこで、あなたは髪の毛を坊主に剃り、ウィッグを被って犯行に及んだ。ただし、このツアー当日だけウィッグを被っていれば、普段との違いから鷹野さんに不審がられかねません。よって、あなたはこの島での連続殺人計画を思いついた後、日常的にウィッグを被っていたのではないかと思います。もちろん、学校でもね」

「そんなのあなたの想像に過ぎないじゃないですか」

「これはこの春からあなたが通っている中学校の教師や生徒たちにも裏が取れています。藤間さんは事件の前まではショートカットであり、事件の後、髪を短く切ったのだと。そう彼らは証言しました」

「ああ」藤間は今思い出したかのように両手をぽんと重ね合わせた。「そうでした。小学校の校則の感覚のまま、中学にも髪の毛を切らずに行ったら、案外周囲の男子が短いのが多くて。このままじゃ浮くなあと思って、登山に行く前に五厘刈りに剃ったんですよ。旅行先ではドライヤーがないかもしれないとも思いましたし」

「どうして最初からそう言わなかったんです?」

「いつ髪を切ったかなんて、いちいち覚えていませんよ」藤間は、不敵に唇の端を引き上げた。

「まあ、いいでしょう」冷泉は落ち着いた様子で一度息を吐いた。「毛髪を残さないように、それから指紋を残さないようにあなたは細心の注意を払っていました。二番目にドアノブの仕掛けで森内さんを殺害したのも、軍手を着用する理由を作るためですよね。ドアノブの仕掛けで人が殺されたとなると、みなさん何かに触れる際には慎重になります。その心理を利用して、自然な流れで軍手を着用する理由を手に入れた、いえ、作ったのですよ」

「何のために?」

「もちろん、指紋を残さないようにです」

「なるほど。でも、森内さん――だっけ? その人がドアノブの仕掛けで死んだっていうのも、檜山さんと龍川さんの手記に書いてあっただけで証拠もないんでしょう。僕らがコテージを探索したときには、そんな仕掛けはなかったんですから」

「いえ、針を接着した痕が見つかっています。だから、間違いのないことです」

 藤間は一瞬唇を閉じて、黙考してから、慎重に口を開いた。

「それでも、森内さんが二〇四号室を開けたのは偶然でしょう。行動をコントロールするなんて無理な話じゃないですか」

「誰でもよかったんですよ。森内さんじゃなくても。誰もドアノブに触れないまま、自分に二〇四号室が回ってくる確率は十分の一。そう高い確率ではありません。それでも、そうなった場合には、針を回収すればいいだけの話ですからね。元よりあなたは、最終的には関係者を皆殺しにするつもりだったのですから、新たな仕掛けを別の場所に設置すればいいだけのことだったのでしょう」

「じゃあ、他の人たちが殺された事件についてはどうなんです? 密室だなんだって、手記の中にはあったんでしょう? 僕はマジシャンではありませんからね。そんな芸当無理ですよ」藤間は肩を竦めてみせた。

 冷泉は一度唇を引き結び、何事かを熟考した後、唇を開いた。

「いいでしょう。あなたがあくまで犯行を認めないというのでしたら、それについて説明します。

 まず、第一の事件、――鷹野さんと森内さんはどちらを先であるとカウントしていいかわかりませんが、便宜上鷹野さんを第一、森内さんを第二とします――鷹野さん殺しのアリバイトリックについては、檜山さんの手記に書いてあった通りです。あの後警察が実験してみた結果、一時間ほどで桟橋の付近にダミーの死体は流れ着いたそうですよ。

 手記の中の『降谷瑛梨』――藤間エーリクさんは、コーヒーを淹れに五分少々離席しています。また、檜山さんの検証では女性の足でも、四分でコテージの玄関と断崖までの往復が可能であることがわかります。厨房の勝手口からだとそれよりももっと時間は短縮できたことでしょう。

 あなたはあの離岸流の発生する崖の上に鷹野さんを呼び出し、鈍器で気絶させた。その後崖から落としたのです。鷹野さんの死因は溺死でしたので、これが真実でしょう」

「なるほどね。僕も犯行可能だった、ということは認めますよ。でも、他にもアリバイのない人物はいたじゃないですか」

「それについては、事件を紐解いていけば犯人が『降谷瑛梨』――に扮した藤間さん――でしかありえないことが後々絞られます。なので、続けますね。

さて、第二の、森内さん殺しについてです。これはあらかじめ島を訪れ、二〇四号室の扉に毒針の仕掛けを施した。回すと針が飛び出る仕組みですね。そして、森内さんは命を落とした。最後にあなたが島を出るときに、この針は回収したものでしょう。指紋や、何らかの証拠が残っていることを懸念したのですね。そうではないですか?」

「僕に訊かれても」藤間は穏やかに笑い返した。

「では、第三の事件、乾さん殺しですね。乾さんは五月二日の朝、毒ガスによる窒息死と思われる状況で発見されました。現場となった二〇一号室は密室状態であったと、檜山さん、小夜さんの手記にありますね」

「そうだったかな」

「密室だったのですよ」

「どうやって殺したんだい」

「蝋燭です」

 藤間はぎくりと目を見開いた。

「僕がコテージに入って真っ先に違和感を覚えたのは、あのコテージに明かりが全くないことでした。ですが、手記の中にはキャンドルライトという表記がある。そう、明かりはあったのですよ。犯人――あなたは、まさか被害者の手によって手記が残されているなんて思いもしなかったのでしょうね。キャンドルライトごと、全てなかったことにしたんですよ。そこに、手記と実物の齟齬が生まれた」

 藤間は斜め下に目を伏せたまま動かない。

 冷泉はほんの少しばかり首を傾けて続けた。

「なぜ犯人はキャンドルライトを持ち去ったのだろうか。そこを辿って行ったとき、一つの考えが浮かびました。そうです。乾さんは蝋燭の蝋、もしくは芯に塗りこめられた毒によって殺されたのではないかと。

夜に光源の一切ない部屋で過ごす人間は、まず少ないことでしょう。明るい部屋に慣れた現代人でしたら特にね。乾さんも同様に、自室でキャンドルライトを焚いていた。そして、気づかぬうちに毒に侵されていたのです。回収したキャンドルは、ボートと一緒に燃やした証拠品の中にあったのではないですか?」

藤間は答えない。

冷泉は瞬きを一つ落として小さく息を吸いこんだ。

「次に、第四の事件、横井さん殺しについてです。横井さんは、彼が使っていた二〇五号室にあった、抜け穴から侵入した犯人に殴られて昏倒した。そして全身の血液を抜かれて亡くなった」

 藤間の睫毛がぴくりと震えた。

「横井さんは総量の半分の血を抜かれて死んでいたんだろう?」

「はい」

「それだけの血をたった三つの穴から抜くのにどれだけかかると思っているんですか」

「専門的な知識を持った人でも、十分はかかるでしょうね」

「降谷瑛梨が部屋に上着を取りに戻ったのは五分少々なんでしょう? 矛盾しているじゃないですか」

「殴って気絶させるだけなら、五分で充分でしょう」

「何?」

「一連の連続殺人の犯人であるあなたは、横井さんを殴って昏倒させた。その時点で横井さんはまだ生きていたんですよ」

「どうやって血を抜いたんですか?」

「和泉さんですよ」

「和泉さん……?」

「檜山さんの手記にこうありました。横井さんの頭の傷は右の後頭部にあった。血液は右の首筋と、右の肘関節の手のひら側から抜かれていた、と。それから警察の調べて、右足の付け根からも抜かれていたことがわかりました。針の入射角などから、左手に針を持って行われた行為であることがわかっています。これを見て僕は思ったんです。横井さんを殴った人物と、血液を抜いた人物は別なのではないかと」

「犯人は二人いたというんですか」

「そうです。右利きのあなたが横井さんを昏倒させ、左利きの和泉さんが横井さんから血液を抜いた。これなら、五分と十五分で計算が合います」

「そんな……強引な」藤間は視線を左右に揺らした。「だいたい、僕と和泉さんが共犯関係だなんて。そもそも接点がないでしょう」

「ええ。共犯ではないのです」

「どういうことですか?」

「その前に、和泉さんが横井さんの血液を抜いた動機を話しましょう。和泉さんの死体が発見されたのは体育館だった。彼は宙づりにされており、足元には血だまりがあった――そう、檜山さんと小夜さんの手記にはありました。しかし、体育館の血痕は、横井さんのものでした。そして、二階へ上がる縄梯子、および二階の手すりからは和泉さんの指紋が多数検出されています」

 藤間の頬から一筋の汗が伝った。

 冷泉は続けた。

「このことから、和泉さんは死んだふりをしたのではないかと推測できます」

「死んだふり?」

「犯人から殺される前に自ら死んだふりをしたわけです」

「どういうことですか」

「檜山さんと小夜さんの手記によると、二日目の朝に檜山さんと和泉さんの二人はプールの奥の枯れ井戸の下で研究室を発見した、とありましたね。ここを見て和泉さんは『医学科の研究室のようだ』と発言しています。実際に、警察が調べた中でも、研究室には採血の道具があったということでした。彼は横井さん襲撃の前にタイミングを見計らって、例の研究室から採血の道具をくすねていたのではないでしょうか。タイミングは、檜山さん、小夜さん、横井さん、降谷さんが狼煙を上げに行った間。この間に、和泉さんは世良さんと二人きりになっています。何らかの理由をつけて、抜け出したのではないかと思われます」

 藤間の瞼がぴくりと痙攣した。

 冷泉は気に留めず、話を続けた。

「これを前提に話を横井さん殺害に戻します。和泉さんは、横井さんを呼びに行った際、部屋の抜け穴を発見した。――抜け穴について最初に触れたのも和泉さんでしたね――そして、頭を殴られて気を失っている横井さんを見つけたんです。和泉さんは絶好の好機とばかりに、横井さんの身体から血液を抜いた。――死んだふりをする際の血糊に使うためですね。そして、横井さんは失血死した。

第五の事件、和泉さん殺しは先ほども言ったとおり、和泉さんの狂言でした。彼は体育館の床に横井さんの血液を撒き、自らの身体にも死に化粧を施した。それから、体育館の二階に昇り、縄梯子を上から巻き取った。――これは、和泉さんの死体を発見した人たちが、死体に近づかないように、です。近づかれると死んだふりがばれてしまいますからね。そして、自らの身体をロープで縛りつけ二階の手すりから飛び降りた。血まみれの和泉さんは宙づりになり、一見殺されたように見えるという絡繰りです」

「へえ、考えたね」藤間が口の端を持ち上げた。

 冷泉もあいまいに頷いた。

「第六の事件、檜山さん殺しは、島で話したのが真実でしょうね。檜山さんと小夜さんは、二〇二号室にいた。蝋燭には睡眠薬か、筋弛緩剤か、なんらかの毒物が仕込まれていたことでしょう。檜山さんの手記によれば、小夜さんは何度もうたた寝をしているようでした。一方の檜山さんが起きていられたのは、個人の体質の差もあるかもしれませんが、一般的に体の大きな人間より、小さな人間の方が薬の効きが速いと言われていることが起因しているでしょう。檜山さんの手記も最後の方は蚯蚓ののたくったような文字になって終わっていますから、意識が遠のいていたのでしょうね。そんな中、犯人は二〇二号室を尋ねた。ノックしたかもしれませんね。そこで体調の異変に気付いた檜山さんは、慌てて換気を促した。――乾さん殺害の時の記憶が、彼にそのような行動を取らせたのでしょうね。それも全部あなたの計算だったのでしょう。

 そして換気のために檜山さんは部屋の入口のドアを開け、小夜さんは椅子で窓をたたき割った。そこで犯人に襲われたのです。檜山さんの身体は執拗に傷つけられていたので、檜山さんはだいぶ抵抗したのでしょうね。しかし、犯人に部屋の中へ追い込まれた檜山さんは、おそらく小夜さんが逃げる時間を稼ごうと、傷ついた左手でドアの鍵を閉めた。そこで力尽きた。現場の状況から察するに、そういう流れだったのではないかと思います。

 部屋に残された犯人は、割れた窓をくぐって小夜さんを追いかけた。しかし、見失った。そこで、小夜さんを犯人に仕立て上げるべく、二〇三号室の窓を外から叩き破って、自らは二〇二号室で檜山さんの死亡を確認した後、堂々と二〇二号室の扉から出て行った」

「犯人はどうして二〇二号室の鍵を閉めたまま二〇三号室からそのままでなかったんですか? それまでの犯行は密室を完成させているというのに。一貫性がなくないですか?」

「二〇二号室の鍵が閉まっていようと、窓硝子が割れている以上は、密室にはならないですよね。二〇三号室の窓硝子も、鍵もあいているのですから」

 藤間は唇を尖らせて言った。「まあ、そうだけども」

「それに、横井さんにとどめを刺し損ねたことは、あなたにとっては相当な衝撃だったはずです。幸い――と言っては語弊がありますが、和泉さんがとどめを刺してくれたからこそよかったものの、そうでなければ犯人の正体をばらされていたかもしれませんからね。その苦い記憶が、あなたを檜山さんのとどめを刺すように差し向けたのだと僕は考えます。

そして第六の事件、小夜さん殺しですね。二〇二号室を出たあなたは、そのまま血痕を辿って森の中で小夜さんを背後から襲った。手記の存在に気づかなかったあなたは、小夜さんが木のうろの中に隠した二冊のダイイング・メッセージを見過ごしてしまったのです。

その後の第七、第八の事件のことは、記録者不在なので全て推測になりますが、世良さんの顔面に巻き付けた袋に和泉さんの毛髪が付着していたこと、二双分の軍手の繊維が付着していたことから一人でなく、二人掛かりでの犯行であることが予想できます。また、手記と違って和泉さんが体育館脇で死亡していたことを鑑みた結果、和泉さんと藤間さんで世良さんを暴行した後に、藤間さんが和泉さんの不意をついて殺害した。――こういう流れになるのではないかと僕は思います」

藤間は、移ろう木漏れ日を浴びながら、目を細めていた。

その横顔に冷泉は事務的に声を続ける。

「ここで興味深いのが、死亡推定時刻が和泉さんの方が世良さんより早いことです。ここから、世良さんは暴行を受けた後、しばらくの間逆さ吊りの状態で生きていたことになります。

強い殺意を感じずにはいられません。

以上が被害者の手記や警察の鑑定結果をもとに組み立てた僕なりの推測ですが、何か訂正することがあればどうぞ」

藤間は、一度居住まいを正し、彫りの深い顔をにっこりと緩めた。

「僕が犯人だとしたら、相当間抜けな犯人ですね」

「そうでしょうか」冷泉は、身体ごと藤間の方へ向き直った。

「軍手だの、髪の毛だの、面倒なことをせずに、コテージごと燃やしてしまえばよかったんじゃないですか?」

冷泉は瞬きがてら一度視線を転じ、一つ頷いて答えた。

「僕もそう思いますけどね。そこは、何かしらの事情があったんじゃないかと思っています。――が、そこまではちょっとわかりません」

 冷泉は淡々と言い切った。

 藤間は何かをじっと考えるように、視線を宙に浮かせた後、再び冷泉の顔を正面から見据えた。

「冷泉さんのここまでの話、よくできていると思いますよ、僕は。でも、僕が犯人であるという部分はやっぱり無理がある。僕にはアリバイがあります。五月一日から四日の間、三泊四日でA県のY岳に登った。証拠の写真だって、見せたでしょう」

「あれは一年前に撮影されたものですよね」冷泉は間髪入れずに答えた。

 藤間の表情がサッと凍った。「違いますよ、今年撮ったものです」

「いいえ、それは嘘です」

「証拠はあるんですか」藤間は、キッと眼光鋭くして尋ねた。「まさか、来ているウェアが同じだからとか、そういう単純な理由じゃないですよね」

冷泉は、静かなまなざしで藤間の両目を見据えたまま、一度唇を固く結んだ。

その仕草に、神経を逆なでされたらしい。藤間の首筋がサッと桃色に染まった。

「大体、写真に日付の刻印がされているわけでもないし、いつ撮影されたものかなんてわかるはずないじゃないですか。あれは今年撮影したものだ」

「それはあり得ないんですよ」冷泉は、かんしゃくを起こした子供に言い聞かせるようにゆったりと言った。「A県には訳あって、俺と瑞樹は昨年夏に訪れました。その際にY岳の麓は電車で通過したんですよ」

「それで? それがどうしたっていうんです」

「ええ。あなたが見せてくれたあの写真の背景に写っていたデパートですがね、昨年の夏に倒産して看板が取り外されたらしいんですよ」

「な……」藤間は絶句した。

「そう。だから、あの写真が今年Y岳から撮られたものであれば、あの角度にあのデパートの看板が見えるはずはないんです」

 藤間は、一気に何歳か老け込んだような顔を俯かせた。唇を小さく噛む。やがて、不敵な笑みを浮かべて冷泉の目を睨んだ。

「……そうだよ。あれは、去年エメリと登山したときにエメリが撮ってくれた写真だよ」

 冷泉は黙って、色素の薄い、少年の両目を見つめていた。

「でも、それだけだ。確かに僕は今年の連休中、ずっと家に籠っていたよ。僕だってただ一人の肉親を亡くしたばかりなんだ。去年、エメリと登山した思い出に浸りながら、ひたすら家でぼうっとしていたんだよ」

「どうしてそれをはじめから言わなかったのですか? 切符まで購入して。わざわざA県までの往復切符を用意したりして」

「それは……」

「あなたの行動はこうですよね。まず五月一日の朝に最寄り駅でY岳の麓駅までの電車と、隣駅までの電車の切符の二枚を買い、それからうち一枚を使って隣駅で下車した。そのまま徒歩で自宅に戻り、本物の降谷瑛梨さんの喉を潰して、自宅の風呂場に監禁。――これは、本物の降谷瑛梨さんがこの連休中にどこかで目撃されるとアリバイが成立してしまうことと、助けを呼ばれると困ることからですね。また、監禁場所に風呂場を選んだのは、監禁の痕跡を比較的容易に掃除することができるからです。両手を縛られたままでも摂れるような水分と食糧は、彼女の口元に置いておいたでしょうね。三日飲み食いしなくても人間はそう簡単に死んだりはしませんが、万一餓死したとなると、死亡推定時刻が合わなくなりますから」

 藤間は堅く唇を引き結んで、ただじっと冷泉の双眸を睨んでいた。

「そして、集合時間の五月一日十二時半にあなたは何食わぬ顔で港へ行った。それから、五月一日から五月三日の午前中にかけて全員を殺害。その後、島全体から『藤間エーリクが滞在した』という痕跡を消してまわったあとで、船には火をつけて証拠を隠滅。その際に、凶器やキャンドル、ロープなど足のつきそうなものも全て燃やしたのでしょう。そこからエンジン付きのゴムボートに乗って本土に戻った」

 藤間は何も答えない。

 冷泉は小さく息を吸った。

「そして、人の少ない深夜帯に、藤間さんの自宅から本物の降谷瑛梨さんを運び出す。そして、自殺に見せかけて、喉を一突きにして海に流した。これは喉を潰した傷を誤魔化す目的があったんじゃないかと思います。そして、凶器やゴムボートなど、瑛梨さん殺害の犯行に使用した一式は、一緒に岩場で燃やして海に流した。――どうでしょうか。何か訂正することや、付け加えることはありますか?」

 藤間は口を堅く引き結んだまま、長い睫毛を三度瞬かせた。

「事件を受けて警察が鷹野旅行店の中を調べたそうなんですがね、そこで発見されたシフト表には五月一日から三日までの出勤は降谷瑛梨さんになっており、エーリクさんは五月二十五日まで休暇になっていました。これを差し替えたのもあなたですよね?」

 藤間は目を閉じた。

「本来のシフト表には、五月一日から三日までの出勤がエーリクさんで、休暇になっていたのが降谷さんだったはずです」

 冷泉は詠唱するように、流暢な声で続けた。

「降谷瑛梨さんは、高校卒業後に家出同然でこの地に移り住んでいます。母親は彼女が小さい頃に家を出ており、九州に父親がいるそうですが、もう一年以上連絡を取っていなかったそうですね。それだけじゃない。降谷瑛梨さんはインドア派だった。休みの日は家に籠ってひたすら漫画を読んでいる。三日少々行方不明になろうが、心配する友人もいない」

 藤間はゆっくりと二重の瞼を開いた。

「神は全てお見通しなんだな」

「犯行を認めるのですね?」

「ああ」藤間はフッと力を抜くように、寂しそうに笑った。「――俺が殺した」そして、事も無げに宙へ向けて呟いた。「あの悪魔どもを根絶やしにしてやったんだ」

「動機はやはり……」

「そうだよ。エメリの復讐だ」

「復讐、ですか」冷泉は複雑な表情で、自らの膝に視線を落とした。

「冬のH岳の話は聞いているな? あれが全てだ」藤間は唇を噛んだ。

「あれは……警察の事故記録に載っている、エメリさんが自らザイルを切ったという話は、六人が口裏を合わせた嘘だったのですか」

「そうだ。俺は聞いたんだよ。事故の後、呼び出されたH署の廊下で、森内と世良が話しているのを」

 冷泉は唇を固く閉じて、少年の初夏の空を見つめた。羊雲が西から東に流れている。

「エメリは自己犠牲的なところがあったから。自らザイルを切って仲間の命を守ったっていう話を聞いたときは、俺も……悔しいけど、納得したんだ。でも、その一方で……俺を置いて死んでしまったっていうのが悲しかった。エメリが死んでしまったら、俺は何を心の支えに生きて行けばいいんだよって。仲間を命を守ったのは立派かもしれないけれど、それよりも一人残される俺のことを考えて、何をしてでも生き残ってほしかった。立派じゃなくていいから、生きていて欲しかった」

 藤間は、膝の上で堅く握りしめた両手の拳をじっと睨んだ。

 冷泉は、そんな少年の悲しみに震える横顔を、どこか遠くを見るような目で黙って見つめた。

「だから、あいつらの話を聞いたときは、頭が沸騰した。『本当のことはアタシたちだけの秘密だからね』って。『このまま、事故ってことにしよう』って。あいつら……」藤間はギュッと目を瞑って、奥歯を噛みしめた。「やっぱり、あいつらがエメリのザイルを切ったんだ! 神様が俺に真実を教えてくれたんだ! これは……これは、神からの指令だと俺は思った! 復讐せよって……」

 冷泉も、同じように一度目を閉じた。目の裏に、白い光がチカチカと瞬いている。その光から逃れるように、瞼を持ち上げた。初夏の風がそよそよと頬を撫でる。

「結局それ以上の詳しい話は誰の口からもきくことができなかったよ」

「そればかりはブラックボックスの中ですからね。それこそ、神のみぞ知る真実です」

「だが真相はわかった。詳細なんてどうでもいい。あの六人は生還した。エメリは死んだ。それだけが俺にとっては真実だ」

 冷泉は自身を刺すように射貫く、少年の目に灯る静かな焔を全身で受け止めた。

「遺体のない棺の空虚さがお前にはわかるか……?」

「わかりません」冷泉は淡々と告げた。被害者としての彼の心には寄り添いたいと思うが、加害者としての彼の行為を許すわけにもいかなかった。

「本当はな、河西のことも殺してやろうと思っていたんだ。俺はな、河西が一番憎かったよ。あいつはエメリの一番近くにいたはずなのに、守ることもできなかった。よりによって一番必要なときに、あいつはエメリの傍にいなかったんだ。その上、事故の真相に気づいてすらいなかったなんて、つくづくおめでたい奴なんだ」

 冷泉は、あの、人のよさそうな青年の顔を宙に思い描いた。事件後に聞いた話によると、彼はエメリの死後、ふさぎ込み気味だったらしい。当然と言えば当然だろう。それゆえ、彼らの卒業旅行ともいえる今回の『雪女島二泊三日の旅』も欠席したとのことであった。

「鷹野さんと降谷さんを殺害した動機は何だったのですか?」

「鷹野は……変態親父だった。これ以上は言いたくない」

 藤間は自らの両腕を、両手で抱き込んで、顔を歪めた。それだけの仕草で、冷泉はその裏の事情を察することができた。

「俺も金がなかったからな。中学生活に慣れたら新聞配達も掛け持ちしてどうにか生活していこうと思っていたんだが、流石に小学生の間は無理だった。母が死んでから、最初は親切なオッサンだなと思っていたんだが、そこにつけこんで、奴は……」

「降谷さんは?」

「降谷はな、俺が鷹野に犯されている場面を一度こっそり見ていたんだよ。助けなかったどころか、隠し撮りしていやがった」

「知られたからには、と?」冷泉が尋ねた。

「いや、それだけで殺そうとは思わなかった。――揺すって来たんだよ。別に殺すほどのことでもないだろうとか言われるかもしれないけどな。俺も、別に俺が恥ずかしい思いをする分には、そこまで何とも思っていなかったしな。ただ、山岳部の連中を殺すのに降谷瑛梨の存在は必要だった。奴だって悪人だ。だから殺したんだよ。七人殺すも九人殺すも変わらねぇ。トリックに利用するために殺した」

 藤間はベンチの背もたれにぐっと背中を預けた。鳶色の目に、青い空が映っていた。

「檜山さんは? 確か彼は、H岳の登山には参加していませんよね」

「あいつはエメリの薔薇の研究を盗もうとしていただろう」

藤間はどこか気の抜けた芯のない声で言った。

「青い薔薇ですね。現存する青紫色のものではない、真っ青な色の」

「そう。今年の三月頃だったかな。河西から聞いたんだ。『司とエメリの研究はもうすぐ完成する』って。あいつは、エメリが志半ばで死んだってのに、おかまいなしに新品種の薔薇を学会で発表しようとしている。そんなこと許せるわけがないだろう」

「それが本当の話だったら、ですね」

 冷泉の落ち着いた声音に被せるように、藤間は激しく言った。

「数十年かけて作られるものを、エメリと檜山は僅か三年の研究で成し遂げた。その栄光は等しく与えられるべきものなんだよ。なのに、檜山は独り占めしようとしている。絶対に許せない」

 藤間は、眉間に皺を寄せて奥歯を噛みしめた。

 息を荒げる少年を前に、冷泉はしばし逡巡を挟んだ後、腹を括ったように口を開いた。

「藤間さん。それは違うようなんですよ。もうじきにニュースで目に触れることとなると思いますけど、檜山さんはね」冷泉は、一度自らの膝に視線を落として、再び藤間の顔を正面から見据えた。「檜山さんはエメリさんと連名で薔薇を世に出そうとしていたんですよ。彼女の遺志を継いで、檜山さんは青い薔薇を形にして。薔薇にはエメリと名前をつけて」

「……は?」

「これは確かな情報です。来週の頭には発表されて、情報番組を賑わすんじゃないでしょうか」

 藤間は絶句した。

「ご自分の目で確かめることになると思いますよ」

 冷泉はそれだけ言うと、心痛そうに視線を外して遠くを眺めた。

 海の色にミルクを零したような青い空。綿毛のような白い雲。

 そして、公園の花壇で、薔薇の花が咲いている。

 血のように赤い薔薇が。

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