目次

 プロローグ



 第一幕 第一章 5月1日

     第二章 5月2日

     第三章 5月3日



 第二幕 第一章 5月4日



 エピローグ







プロローグ



 *



 十二月十四日、I県H岳に入山した大学生のグループ七人が落石・滑落事故に遭い、うち女子部員一人(二一)が行方不明になっている。七人が事故に遭ったのは、H岳七合目付近である。H署によると、行方不明になった女子部員は、ザイルで宙づりになった際に一番下にいたとのことであった。荷重に耐えきれなくなって全員が滑落する前に自らザイルを切ったとのことである。

 仮に、生還した六人が、自らの命を守るために行方不明になった学生と六人との間のザイルを切ったとしても、この場合は『緊急避難』となり罪に問われない可能性がある。……(週刊 アフタヌーンマダム一月号より)



 *





第一幕



おもな登場人物

森内 剛(二二) F大学経済学部経済学科 四回生

横井 行基ゆきもと(二一) F大学工学部電気工学科 四回生

世良 久美子(二一) F大学経済学部経済学科 四回生

乾 拓也(二一) F大学経済学部経済学科 三回生

檜山 司(二一) F大学農学部植物化学科 四回生

和泉 侑李(一九) F大学医学部医学科 二回生

龍川 小夜(一九) F大学医学部看護学科 二回生



早見 エメリ(享年二一)F大学農学部植物化学科 当時三回生



鷹野 八郎(五〇)鷹野旅行代理店の店長

降谷 瑛梨(一九)鷹野旅行代理店のスタッフ





第一章5月1日



 13:30



「だいぶ島が大きく見えてきたね」

 東北地方、太平洋に面した小さな漁村を出発して、そろそろ二十分が経つだろうか。

空は快晴。心地よい海風に靡くジャケットの襟を正しながら、横井行基は頬を持ち上げた。身長は平均よりも高く、茶色の髪をラフなモップ・トップに整えている。一重瞼の切れ長の目には、断崖に囲まれた上に黒々とした木々の乗っかった、巨大なマイタケのような島の影が映っている。

「案外早く着くもんだな」

学生が持つにしては高級そうな腕時計に目を遣りながら、森内剛は太い眉の下の目を細めた。ダイヤが埋め込まれた針は十三時三十分を示している。その銀色をひとしきり視線で愛でた後、彼は顔を上げて船内をぐるりと見回した。

小さな漁船である。甲板の上にコの字型に設えられた椅子に腰かけた面々が、思い思いに周囲に視線を向けていた。木箱を逆さにして並べたような簡素な椅子の上に、十名がやっと乗れるくらいの船だった。世良久美子などは、「ストッキングが伝線する」などと愚痴を零していたが、乾拓也に宥められて、今は大人しく腰を落ち着けていた。

しかしそれでも、「髪がべたべたする。磯臭くなるわ」久美子は勝気そうな眉を顰めて、派手なルージュを引いた唇尖らせた。

 船が海風を切って進むのに合わせて揺れる、緩いウェーブのかかった長い髪をかき上げながら、なおもご機嫌斜めな様子の久美子に、隣に腰かけた男から声が挙がる。

「コテージについたらシャワーがありますよ、きっと」

 乾拓也が、両手を胸の前におろおろ差し出しながら、困ったように笑った。彼は、いつも同じ大学、同じ学科の一学年上である森内や、久美子の機嫌を窺ってばかりいる。銀縁の眼鏡に中肉小柄、運動ができなさそうなインドア系のステレオタイプのような見た目をしている男だ。

 乾から見て、久美子を挟んで向こう側に座るのが和泉侑李である。栗色の髪に白い肌、くりくりとした二重の目、小動物のような可憐な顔をしているが、こちらもれっきとした男である。

和泉は久美子から眠たげな視線を外すと、逆隣の長身に声を掛けた。

「どうしたんです、檜山さん、さっきから黙り込んで。船酔いでもしたんですかぁ?」

愛らしいテノールを受け、思いつめたように両足の間を見つめる長身が視線をあげた。

「あ……いや」檜山は眼光を緩めた。「ちょっと考え事をしていただけだ」

「それならいいですけど」

 和泉が気遣うように口元を緩める。淡い色をしたストレートの髪の毛先が耳の上でさらりと揺れた。

それに応えるように檜山も首を竦める。

 檜山司は高校時代バスケット部で全国大会ベスト四まで進んだ経験を持つ。それだけでなく、名門と言われるF大学農学部植物化学科に現役合格する、文武両道を兼ね備えた人物だった。さらに、少し強面ながらも整った顔立ちをしており、高校時代に小さい記事ながらバスケット雑誌に載ったことも相まって、学内、学外問わずファンの女子生徒も多かった。淡い色をした柔らかな髪も彼にかかればお洒落なパーマに見えてくるから不思議なものである。

 じっと上から下までを見回す和泉の視線を知ってか知らずか、檜山は再び視線を宙に浮かべると思考の世界に戻ってしまった。

そんな様子の檜山にも構うことなく、和泉はずいと身体ごと彼の方へ近づけた。船が小さく揺れる。

「河西さんが来られなくて残念ですね」

 和泉の口から出た名前に、檜山の横顔がぴくりと反応した。

 図星だ、と和泉は心の中で小さく拳を握りしめた。彼の考え事の中身は、同じ山岳部仲間の河西瑛介と、その恋人――だった、あの女性のことだろう。

話に出た河西――河西瑛介とは、檜山と同じF大学農学部植物化学科の四年生である。今回の旅行には、都合がつかず、参加が適わなかった。

 その話が耳に届いたのだろう、檜山の隣に座ったおかっぱ頭の小柄な女子もつられて俯く。彼女は姓名を龍川小夜と言った。和泉と同じく、来春には成人式を迎える年齢なのだが、どう見ても高校生くらいにしか見えない。

 船上の客席に腰を下ろす七人と河西瑛介は、F大学の山岳部仲間であった。

「あと五分もすれば着きますよ」

 船頭の鷹野が穏やかな声をあげた。天然の縮毛を海風にたなびかせた、五十絡みの男である。今回山岳部が利用した旅行代理店の添乗員である彼は、器用に船を操りながら、顎の無精ひげを掻いた。

つられて一同示し合わせたように、進行方向に目を向ける。島影はかなり大きさを増しており、先に突き出した桟橋が肉眼でも見えるそうしたところで、突然エンジン音が消えた。

鷹野が目じりに小鳥の足跡を刻まれた目で船上をなぞった。

「ここから先は、潮の流れの関係で放っておいても島に流れ着くんですよ。エンジンを切ってもね」

「エンジンを切っても?」横井が切れ長の目を丸くする。

狙い通りの反応に気分を良くしたのか、鷹野は白い丈夫そうな歯を見せて笑った。

「ええ。ここらは風や潮の流れが、常に島の方に向かって吹いていますからね。小舟を浮かべてみたらわかると思いますよ。釣りをしても浮きが戻ってきますし」

「へえ、面白い」横井も白い歯を見せた。

「ただ、ゴミも一緒に海岸に流れ着くのと、離陸するときに押し戻されそうになるのが悩みどころです」そう苦笑して鷹野はごま塩髭の生えた頬を掻いた。

 そうする間にも島影はどんどん大きくなってきて、桟橋の根元から広がる狭い砂浜が見えてきた。



 *



 崖に囲まれた島だった。東に位置する砂浜を除いて、三方向が大きく切り立った崖に囲まれている。崖の高さは、ビル十階分くらいはあるだろうか。岩石と砂礫とでできた山肌をむき出しにしている。その下には、ごつごつとした岩が乱立しており、絶え間なく波しぶきが上がっていた。崖を垂直に辿って上に目を転じてみれば巨大なブロッコリー群のような黒々とした木々が見える。一行が今日から二泊三日する予定になっているコテージの姿は、海上からは見えないようだった。高い木々に囲まれた中にあるのだろう。

 一行――F大学山岳部は、この『雪女島ゆきめじま』のコテージで、二泊三日を過ごすこととなっていた。四回生の卒業旅行である。時期は毎年五月か六月が多かった。七月になると、大学の前期試験と重なることが多く、八月になると夏休みの帰省で各人の都合がつきにくい。九月、十月になると、今度は翌年の春にかけて三年生の就職活動が本格的に始まる。逆に三月四月は、場合によっては新四年生の中で内定が取れていない人もいる。よって、五月というのが最も卒業旅行に適した時期なのである。

 今年の四年生は皆一様に、一社以上の内定を取っていたため、就職という面では旅行に参加できる状況にあったのだが、うち一人、河西瑛介だけは都合で今回は見合わせとなった。

彼と同じ大学、学部、研究室に所属する檜山司などは、もしかしたら寂しかったりするのかな、などと目の前の整った横顔を上目で見つめながら、和泉は顔にかかる横髪を人差し指で丁寧に払う。否、単独行動のできない誰かさんじゃあるまいし――と、和泉は乾の銀縁眼鏡を横目で見遣り――、檜山に限ってそれはないなと、浮かんだ傍から思考を打ち消した。檜山は、どちらかというと一匹狼気質だろう。ただ、彼の人並みならぬ魅力から、周囲が彼を放っておかないだけで。

 和泉はこっそりその向こうにやや緊張した面持ちで身を小さくするおかっぱ頭――龍川小夜に目を転じた。和泉自身、自他ともに認める童顔であったが、彼女はそれよりも輪をかけて幼い。

 それだけでなく、小夜といえば、声は小さいし、常に何かに怯えたように一歩後ろで佇んでいるし、相手から声を掛けられない限り自発的に誰かと話している光景を見たことがない。医学科と看護学科で学科は違うものの、和泉と同じ学部ではあるため、一般教養の授業で一緒になることもある。そんな時でも、教室の隅でひっそりと授業を受けている姿ばかりが目に入っていた。こんなふうで、将来看護婦になれるのだろうか。和泉は、相変わらず力の入った両腕をまっすぐに両腿にのせているおかっぱ頭を横目でちらりと見て、それからもう目と鼻の先まで近づいた桟橋へと視線を動かした。



14:00



 森内に続いて、横井は桟橋に足を掛けた。

 船の不規則な揺れに身体が慣れてしまったのか、不思議なことに揺れていないはずの桟橋がゆらゆらと揺れているように感じた。

 初夏の陽気に照らされた桟橋は、断続的な波しぶきを受けているにも関わらず、水たまりなどはなかった。そのまま視線を前に移すと、自身よりほんの少し低い位置で森内の頭が、歩調に合わせて揺れている。黒い直毛を短くスポーツ刈りにした頭は、この日差しで地肌までが透けて見えるようだった。

『雪女島』は、F県F村A地区から太平洋沖に向けて十一キロの場所に存在する個人所有の孤島だった。コテージのほかに、バスケットコートがちょうど一面取れる大きさの体育館と、その奥に小さなひょうたん型のプールが隣接している。

この島は、かつて――第二次世界大戦中に、生物化学研究のために整備された島だった。その後終戦を境に放置されていたが、或る時、地元の資産家によって買い取られることになった。資産家の名を井之上重太郎という。その井之上が、バブル期にリゾート地として、島を整備しなおしたものの、バブル崩壊とともに客足が途絶え倒産、そのまま野ざらしにされていた。不幸は重なるもので、二年ほど前に井之上重太郎は脳溢血で倒れた。その際、身寄りのなかった井之上は、孤島及びコテージの管理一切を古くからの友人である鷹野八郎に委ねたのである。

 そこで、元々船舶を利用した小さな旅行代理店を経営していた鷹野は、『船で行く、太平洋リゾートツアー』と冠をつけて、二泊三日のツアーパックを作ったのだった。それを今回利用したのが、F大学山岳部の一行である。

「コテージはこの山道を登った上にあります」

 先頭の鷹野が日に焼けた、節くれだった手で前方を示した。山肌をつづら折りに縫うように丸太を並べた階段が続いている。頂上まで昇るには走っても十分近くかかるだろうか。

横井は首を捻って後方を確認した。ちゃんと全員揃っているか、そういう部分を確認するのは小さいころからの性分だろう。組織の長タイプではないが、副部長、副委員長など補佐役には嫌と言う程縁があった。首を伸ばして確認すれば、ちょうど最後に下船した降谷瑛梨が船を丁寧に係留するところだった。瑛梨は、鷹野旅行代理店のスタッフである。

桟橋の上に無造作に置かれた瑛梨の荷物を、檜山が拾い上げる姿が、横井の目に入った。

いきなり消えた私物に顔を上げた瑛梨が、事態を察して「わ、すみません」と目を丸くしている。ハスキーな声は海風の中でもよく通った。濃い茶色のショートカットをひょこりと揺らして慌てる瑛梨に「波しぶきが。濡れてしまっているので」と、ぶっきらぼうに檜山が言った。

「でも」客に荷物を持ってもらうこと抵抗を覚えたのだろう。瑛梨が眉を八の字に寄せた。

「じゃあ、船を結ぶ間だけでも」檜山は瑛梨の手に握られた、係留用のロープを目で指し示した。そして返事を待つことなく、長い脚で桟橋を渡っていった。

 そうしたところで、山側へ歩いてきた檜山と横井の目が合った。慌てて横井は、くるりと海に背を向けて例の木の階段の埋め込まれた斜面へと向き直る。靴の裏は、いつの間にか湿気を含んだ木の床から、古い石造りのものへと変わっていた。

 一同列をなして、山肌をつづら折りに登っていく。二合目あたりで、瑛梨と檜山が合流した。丸太でできた階段を昇ることに気を取られていたせいで、横井は気づかなかったが、檜山はあのまま瑛梨を待っていたらしい。

檜山といえば、大学では女性からひっきりなしに言い寄られこそしていたが、恋人のうわさなど聞かなかった。だから、横井はてっきり、檜山は女性に興味がないのかと思っていたが、案外そうではないのかもしれない。

よく見ると、瑛梨は整った顔をしていた。機能性重視のジャンパーに、地味な黒ズボン、スニーカーという服装であっても、元の顔立ちの良さがよくわかる。身長は百六十センチに満たないくらいだろうか。体格はほっそりとしていて丸みは感じない。まるで第二次性徴を迎える前の、中学生の運動部の女子のような体型をしていた。

それらを眼下に仰ぎながら、横井はみたび立ちはだかる砦へと視線を戻した。



 14:30



「えー、この度は『太平洋リゾートツアー』をご利用いただきありがとうございます。今から当コテージ並びに、当ツアーにつきまして、少々ご説明を申し上げます」

 左手に抱えた鼠色のバインダーに視線を落とした鷹野が、目を細めて文面を読み上げた。

一同は、荷物を持ったまま、コテージ一階の居間のソファに、めいめい腰を掛けていた。

客たちのそのような様子をぐるりと一望して、鷹野は続けた。

「まず、このコテージは三階建てです。部屋は一階に居間、食堂、シャワー室とトイレがございます。ユニットバスとトイレは各客室にもあり、シャワーは二十四時間いつでも使用することができます。二階と三階は同じ造りになっておりまして、それぞれ客室が五部屋ずつございます。なお、客室の窓は転落防止のため、縦滑り出し窓が三センチ以上は開かないようになっております。また、当館は電話機用を除いて電気が通っていないため電球の類がなく、明かりは全てキャンドルライトになっておりますので、予めご了承ください。蝋燭やマッチの予備は書き物机の引き出しにございます。火の元にはくれぐれもご注意ください。部屋割りにつきましてはこちらでは決めておりませんので、お客様のご自由にお使いください。わたくしは一階の管理人室を、随行スタッフは余った客室を使わせていただきます。鍵は――」と、鷹野は、バインダーから視線をあげて瑛梨を見遣った。「随行スタッフが持っておりますので、後程お受け取りください。なお、合鍵はございませんので、くれぐれもなくされぬようお願いいたします」

「部屋は籤引きにしようぜ」横目に横井を見ながら、森内がにやりと笑った。

「ああ。楽しそうだ」横井も口の端を持ち上げて頷く。

 和泉と乾がそれぞれ視線を彼らに向けた。やがて、客たちの会話が途切れたことを確認して、鷹野が満足げに頷いた。

「部屋割りは後程ごゆっくり。旅の醍醐味ですからな。次に食事についてですが、朝食は朝八時、昼食は正午、夕食は夜八時となります。これから私は管理人室で作業をいたしますので、何かあればお声掛けください。では、瑛梨くん、皆さんにお茶とお部屋のご案内をよろしくね」

 鷹野の視線を受けて、瑛梨が「はい」と短く応えた。

それに、やまびこのようにひとつ頷きを返すと、鷹野は「それでは、失礼します」と、居間の扉の向こうに消えていった。ほんの少し空気が緩んだのがわかる。一拍を置いて、森内がさっそくはしゃいだ声を挙げた。

「部屋割りは籤引きな」

「ああいいよ」と横井が涼しい笑顔を返す。

「名案ですね、流石森内さん」と、乾が続いた。

「お前籤作れ」森内の命令に、乾が「あの……紙とペンがないです」と弱弱しい声を上げた。

「なんだよ! 気が利かねぇな! 紙とペンくらい持ってこいよなぁ」

「わぁ、すみませぇん」森内の肘を喰らいながら、乾は声を裏返して頭を下げた。銀縁の眼鏡がずるりとずれ落ちる。

そんな中、「あ、あの手帳のフリースペースでよければありますよ。カバンの奥のほうにあるので少し待っていただければ」小夜が小さく手を挙げた。

 それらをぐるりと見回して、瑛梨が色素の薄い目を細めて言った。

「では、私はお茶を用意してまいります。皆さまコーヒーでよろしいでしょうか」

 その声に、連鎖するように各々、顔を見遣る。

「それじゃあ、みんなコーヒーをもらおうかな」横井が場の空気をまとめた。

「かしこまりました。それではしばらくお待ちくださいね。コテージは貸し切りですので、特に立ち入り禁止の部屋はございません。ご自由にご利用ください」

瑛梨は愛想よくそう言うと、薄い体をリビングの扉から滑らせた。



14:40



「見て、ピアノよ。グランドピアノ」久美子が黄色い声を挙げた。それから仰々しく小走りに駆け寄ると、艶やかな動作で椅子に腰かけた。「これ、弾いてもいいのかしら」

「聴かせてくれるの?」

 ピアノの上面に片手をついた横井が眉を持ち上げる。

「でも、こういう施設のピアノって装飾が目的で、演奏は禁止されていることも多いわ」

 久美子が眉を八の字にした。

「後で瑛梨さんに訊いてみようか」横井が柔らかく微笑んだ。「せっかく世良さんのピアノが聴ける機会だものね」

「まあ、お上手」

 久美子の艶やかなルージュが、勝気に弧を描く。

その向こう側では、出窓に向かって立つ檜山の後ろ姿があった。そこから南方向に視線を転ずれば、バルコニーで煙草を吹かす森内と乾の姿がある。和泉と小夜の姿はなかった。



 14:50



 やがて、人数分のコーヒーと茶菓子を盆に載せた瑛梨がリビングに戻って来た。気配を察したそれぞれが、自然とソファへと集まってくる。

「瑛梨さんは、これからまだ何か仕事があるの?」横井がカップを一脚手に取り尋ねた。

「夕食の準備までは自由時間です。鷹野さんからの呼び出しがあるので、それまでは」

「じゃあ、一緒にお茶にしようよ」

「そうだな」森内がニカリと丈夫そうな歯を見せて笑った。

すかさず、小夜が腰を浮かして場所をあける。手元には籤引き用と思しき紙片がいくつか畳まれていた。

「よろしいのでしょうか」

 盆を胸の前に、瑛梨は上目遣いに窺った。

一瞬久美子は頬を引きつらせると、「もちろんよ」無理やり作った笑顔を貼り付けて頷いた。

「それでは……」

 控えめな笑顔を浮かべて、瑛梨は小夜の隣のスペースにそろそろと腰を下ろした。

「瑛梨ちゃん、苗字はなんていうの?」森内が四角い顎をカップから上げる。

 瑛梨も勧められるままに、予備のカップを表へ返した。すかさず小夜がコーヒーを注ぎ入れるのに目礼を返して、森内へと視線を向ける。

「降谷です。雨が降るのフルに、タニです」

「降谷瑛梨ちゃん、か。歳は?」

「十九です」

「お! 俺らと同世代じゃん」森内は嬉しそうに笑った。

 乾が大仰に同調する。そんな中で、檜山は相変わらず心の読めない表情で淡々とカップに口をつけ、久美子は引き攣ったような笑顔を張り付けていた。

「アルバイト? 大学はどこ?」

「大学は、その、行かずに。働いています」

「へえ、実家住まい?」

「いえ、実家は九州で。早く自立したくて」

「へえ」森内は上機嫌で、一度ソファに深く腰掛け、再び前のめりになった。「エリって、名前はどんな漢字を書くんだ?」

「瑛梨のエは、王偏に英語の英で、リは山梨県の梨です」瑛梨は宙をなぞった。

「へえ、それで瑛梨ちゃんなんだ」と横井は白い歯を見せた。

「瑛介と一緒だな」と森内が、唐突に檜山に投げかけた。

 檜山は面食らったように一瞬目を大きくして、「そうだな」と小さく答えた。

「エイスケ?」

 瑛梨が首を傾げるのに、森内が豪快に頷いて四角い口を開いた。

「そうそう。俺たちF大の山岳部の仲間なんだけどさ。本当はもう一人、河西瑛介って奴がいるんだよ。だけど、まあ少しワケありでな。今回は一緒には来られなかったんだよ。な、檜山」

 檜山はなんで俺に話を振るんだ、とばかりに、冷めた目を森内に向けた。瑛梨は少し驚いたように目をぱちくりさせた。

そんな瑛梨の反応を受けて森内は顔の前で右手を振った。

「ああ、気にしなくていいぜ。檜山のやつ、普段瑛介と仲良いからさ。今回拗ねてんだ。な? 檜山」

「そうじゃねぇことは、わかってんだろ」檜山が地を這うような声を出した。先ほど、瑛梨の荷物を地面から拾い上げたときとは別人のようだった。

 一同の顔が凍り付く。

檜山は、気にせずそっぽを向いた。「本来、旅行なんかしている場合じゃないんだ」と、ぼそりと呟く。

誰かの喉がごくりと鳴る音がした。

森内の日に焼けた額が紅く染まり、眦がキッと吊り上がる。

「じゃあお前も来なけりゃあ良かっただろ。こんなところまで来てうだうだ言ってんじゃねぇよ。せっかくみんなで盛り上がってんのによォ」

「お前らだけで旅行なんか行かせたら、また、何かあるかもしれねぇだろ」ふっと力を抜くように檜山が口元を緩めた。

「てめェ……」森内の額に青筋が浮いた。

「さ。君たち、その辺にしとかないかい?」横井がピシャリとその場をおさめた。「レディが怖がっているよ」

「そ、そうですよォ。檜山さんも、落ち着いてください。せ、せっかく旅行に来ているんですし、今はあのことは忘れましょう」

乾もおろおろと腰を浮かした。銀縁眼鏡がするりと低い鼻の頭にずり落ちた。

「そうだ。乾の言うとおりだ。辛気臭ぇツラしてんじゃねぇよ、檜山。人生楽しんだモン勝ちだぜ?」森内は、くつくつと喉を鳴らして嗤った。「瑛梨ちゃん、気まずい思いさせてごめんなァ」

「いえ……」瑛梨は強張った表情のまま、笑みを貼り付けた。

「あーあ。アタシ、シャワー室を見に行ってくるわね」

白けたように、久美子が音を立ててソファから立ち上がる。

「あ? 客室にもユニットバスがついているんじゃなかったか?」

先ほどの鷹野の説明を示唆する森内に、「見てみたいのよ。綺麗な方を使いたいじゃない」久美子はツンと顎を上げた。

「なるほど。お供は……流石に必要ないね」隣で聞いていた横井が、肩を竦めた。

 久美子は、しゃなりしゃなりと妖艶に腰を振って扉から出て行った。

 そんなやり取りの中でも、檜山は何か考え込むように膝の上で組んだ指を見つめ、そんな檜山を隣に腰かけた小夜が時折気がかりそうに横目で見ていた。



 15:30



 ほとんどのコーヒーカップの底が見えた頃には、三々五々、散り散りになっていた。

「鷹野さん遅いな……」

全員分のカップを銀色の丸盆に載せた瑛梨が口の中で呟いた。左手首の腕時計を気にしながら、リビングの扉の方をちらちらと見遣る。

「一人で料理を始めているなんてことはないのかい?」横井が首を傾げた。

「いえ、いつも鷹野さんの方から声を掛けてくれるんです。鷹野さん、管理人室で事務作業をしているときに声を掛けられるのが好きじゃないみたいで」

「じゃあ、まだ事務作業をしているのかな」

「うーん……それにしても遅いですよね。私、厨房を見てきます。みなさんお寛ぎの時間にお邪魔しました。お喋りできて楽しかったです」

 ぺこりと頭を下げて瑛梨はばたばたと部屋を出て行った。横井が「またね」と手をひらひらさせる。

しかし、数分もしないうちに再びドアが開き、瑛梨が顔を出した。その眉は困ったように八の字に下がっている。

 横井が「どうかしたの」と席を立った。ソファに深々と腰かけた和泉が、視線でそれを追う。

「いえ、鷹野さん、どこにもいなくて。入れ違いになったのかなって」

「鷹野さんがいない?」横井が首を傾げた。

「ええ」瑛梨は肯いた。「厨房と管理人室と食堂だけしか、まだ確認してきていないですけど、鷹野さんが客室に行く用事はないでしょうし……」

「一緒に上のフロアを探してみようか」横井が一重の目を愛想よく丸くし、唇の端を持ち上げた。

「いいんですか? 申し訳ありません」

「いいのいいの。ちょうど、館内を探索してみたいなって思っていたところだったし」

「森内さん、どうします?」乾が、ちょうど灰皿の前から戻って来た森内の顔色を窺いながら訊いた。

「楽しそうだし行くか」森内が下卑た笑みを浮かべながら、顎を擦る。

横井が、そんな彼らの頭越しに、「君たちはどうする?」と、ソファへ投げた。

「俺はここで待っとく。入れ違いで鷹野さんが戻ってきたら報せに行く」

「僕もここで待ちますよ」

 檜山と和泉に続いて、視線を集めた小夜が慌てて頬を上気させた。

「わ、私も……ここにいます」

「世良はまだシャワー室見物から戻ってないみてぇだから、戻ってきたら伝えといてくれ」

 視線で命令する森内に、檜山は「わかった」と、返して再び物思いに耽った。







「みなさん部屋割りはもう決まったんですか?」

 瑛梨は隣の、赤鬼のような森内の四角い顔を仰ぎ見た。

「ああ、とりあえず世良が戻ってからだな。なんだかんだでタイミング逃しちまってよぉ。あいつがいないところで決めたらうるせぇからな」と、口の片方を持ち上げてにやける森内に、瑛梨は曖昧な笑みを返した。

「では、鍵は森内さんに全てお預けしますね。余った三部屋分の鍵を――そうですね、夕食頃までに返していただければ。私がそのうちのひと部屋を使わせていただきますので」

「オーケイ、任せろ」森内はまんざらでもない顔で、十本の鍵を受け取った。

「今は各部屋とも鍵が開いた状態になっておりますので」

「ああ。ありがとう」

「なかなか洒落たレトロなコテージだよねえ」横井が鼻歌交じりに左右を見回した。「これは客室も楽しみだ」

 階段は蛇腹のように、踊り場を中央に折れ曲がっている。踊り場は、各階の間に一つ存在した。手すりは、ニスの効いた木製のもので、天井に電飾はない。光源は壁に灯ったキャンドルライトだけだった。今は昼間だからそう気にならないが、夜になれば影がゆらめいてなかなか趣のある雰囲気になるだろう。

「向かって右の部屋から反時計回りに二〇一号室、右手奥が二〇二号室、その左の突き当りが二〇三号室、その左、左手奥が二〇四号室、そしてその手前の左手の部屋が二〇五号室でございます。三階は百の位が『三』に代わるだけで、同じ造りです」

 瑛梨が掌でそれぞれの部屋を指し示した。

 森内はまず、向かって左手の部屋のドアに手を掛けた。ノブは丸く、黒ずんだ金色をしていた。

 換気のために少し窓を開けていたようで、通り道ができたことで風がびゅうと吹いた。

「なかなか広い部屋だな」森内はきょろきょろと見回しながら中へ入った。

 天井には同じく電飾はなく、壁に二つと文机の上に一つキャンドルライトがあるだけである。

「キャンドル、マッチともに文机の引き出しの中にございます。予備は十分にございますので、おそらく足りなくなることはないと思いますが、もし足りなくなった場合にはお申し付けくださいね」

 ベッドはフランスベッドで、スプリングのきいた広いものだった。一人掛けのソファが一つと、文机の前に椅子が一脚ある。

 ドアに向かって右側にユニットバスがあった。タイルは白色、居室の地面はクリーム色の絨毯が敷いてある。

「鷹野さんいねーな」森内は呟いて二〇五号室の扉を閉めた。

 続いて二〇四号室のドアノブに手を掛けた。そして、時計回りにまわした。

 その瞬間だった。

「あ、イッテ!」

 森内は飛び上がって手を引いた。次の瞬間――。

「がっ」森内がビクリと身体を反らした。そのまま、ドア脇の壁に頭突きして、うつ伏せに倒れた。

「え、どうした、森内」横井がすかさず駆け寄った。

「え、何? どうしたんですかぁ?」乾が声を裏返して後ずさった。

 瑛梨は目を見開いたまま、愕然と立ち尽くしている。

「があっ」森内は喉を掻きむしりながら、もんどりうってその場に裏返った。陸に打ち上げられた魚のように激しく身体を痙攣させている。

「ええ、瑛梨ちゃん、救急車だ」横井が叫んだ。

「き、救急車ですね」瑛梨は慌てて一階へと駆け下りていった。

その足音を背に、横井は森内をどうにか横向きに寝かせようと苦心する。

「乾も手伝ってくれ」

 授業中に居眠りを指摘された生徒のように、乾がぎくりと身体を揺らした。慌てて傍に腰を下ろす。二人の男が両手で抑えてもなお抑えきれないほど、森内の身体は激しく拍動を繰り返した。



 *



「どうした」

 瑛梨と入れ替わるように、檜山と和泉と久美子が階段を昇って来た。その頃には森内の身体はほとんど動かなくなっていた。

「森内が急病だって?」

「ああ」横井が額に浮いた汗を拭いながら、険しい顔で振り向く。「あれ、小夜ちゃんは?」

「龍川さんは降谷さんと一緒だ。今管理人室で、救急に電話してくれているはずだ」

 檜山が、横井と森内をかわるがわる見ながら答えた。

「和泉、診てわかるか?」横井は、檜山の後ろで顔を引きつらせている和泉に投げかけた。

 和泉はF大学の医学部二回生である。

「まだ基礎ばかりなので、確かなことは言えませんけど……」と、躊躇を見せながらも、和泉は森内の隣に腰を下ろした。そのまま、だらりと体側に延びた、日焼けした手首に二本の指を当てる。「呼吸も心拍も止まっていますよ……。瞳孔は……どなたかライトのようなものはもってないですか?」

 一同は、それぞれの顔を見遣る。手を挙げるものは一人もいなかった。

 和泉は人工呼吸と心臓マッサージを何ターンか繰り返した。しかし、努力の甲斐なく、徐々にその手の動きは弱まり、やがて止まった。

「手遅れでしょうね」和泉が小動物を思わせる二重の目を顰めながらつぶやいた。

「うそっ」久美子が両手で口を覆って一歩後ずさった。「なんで? 病気?」

 辺りに張り詰めた空気が流れる。緊張感と不安がアメーバのように空中で蠢いているようだった。

「森内に持病があったなんて話は聞いてないな」檜山が低く言った。

「ああ」横井がごくりと喉仏を上下させながら肯く。「酒もたばこも気にせずやりたい放題だったしな」

「じゃあ……なんで」久美子が顔面を蒼白にして唇を震わせた。

「の、呪い……! 早見先輩の呪いじゃ……」

 乾の叫びに、一同の表情がぎくりと凍り付いた。

 ほぼ同時に、薄氷の張った空気を破るように、階下から二つの足音が近づいてきた。

「大変です」瑛梨が泣きそうな顔で叫んだ。「電話が繋がらないんです!」

「なんだって」

 平穏という名の薄氷は無残にも打ち砕かれた。



 *



「これは毒殺かもしれないな」

 その声に、一同は弾かれたように音源を探った。

檜山だった。いつのまにか彼は、森内の死体の傍に片膝をついていた。

「なんです?」同じように片膝をついたままの和泉が、その横顔に疑問を投げかける。

「いや……ここ」檜山は森内の右手の平を指さし、「右手の中指の麓に赤い斑点があるだろう。もしかしたら――」と、二〇四号室の慎重にドアノブを捻った。「ああ、やっぱり」

「なんですか?」和泉が目をくりくりと瞬く。

「ドアノブから針が出てきた」

「針?」

「ここ」

「本当だ」和泉に続いて、横井も横から覗き込んだ。「ノブを捻ると針が出てくるようになっている」

「毒針でしょうか」和泉も目を凝らしながら、その細い先端をまじまじと見つめた。

「じゃあ……森内じゃなくて俺が最初にドアを開けていたら、俺が死ぬ可能性もあったということか」そう言って、横井はぶるりと身を震わせた。

「無差別殺人、ってやつですかね?」和泉が暢気な声を上げる。可愛い顔をして、時折平気で場が凍りつくようなことを言うのがこの男の特徴だった。

「あれ? 檜山、他の部屋のノブを調べているのか」横井が遠くに声を投げた。

声の先では、檜山が二〇三号室のドアノブを、人差し指と中指でつまむようにして回していた。「ああ。同じ仕掛けがあるかもしれない。横井、二〇四号室の前に調べた部屋はいくつある?」

「二〇五号室だけだ」と、横井は答えた。

「じゃあ、残りの部屋も同じように調べる必要がある。二〇五号室に仕掛けがなかったからといって、他の部屋に仕掛けがないとも限らない」

「これからは、ドアノブだけじゃなくて、無意識に手で触れそうな場所全てに気を付けた方がよさそうですねぇ」和泉がのほほんと言った。

 他のメンバーは、ただ地面に足の裏を縫い付けられたように硬直していた。

と、「こわいわ、アタシ!」久美子が突然甲高い声をあげた。

「世良さん」隣に立っていた乾が宥めるように腰を折る。

 そんな乾をキッと睨むと、久美子はヒステリックに叫んだ。

「だって、そんなこと言ったら手元だけじゃなく、足元にだって針が突き出ているかもしれないんでしょう? ベッドにだって、安心して横になれやしない!」

「頭いいですね、世良先輩」和泉が場違いな横手を打った。

「軍手があったはずです」瑛梨がハスキーな声で言った。「軍手なんかじゃ、心もとないかもしれないけれど、ないよりはマシかもしれませんよ」

 久美子は、食いつき気味に飛びついた。「どこにあるの? 貸してちょうだい」

「い、一階のキッチンに」瑛梨は少しびっくりしたように、一歩後ずさった。

 一連の流れをじっと眺めていた横井が、森内の死体に目を落として呟いた。

「でも一体、誰が……」

「この島に殺人犯がいるっていることですよねぇ」和泉が事も無げに声をあげた。

「やっぱり早見先輩の呪いなんですよ……!」

「乾、落ち着けよ」頭を掻きむしる後輩を、横井が諫めた。

「だって森内先輩だったじゃないですか! H岳で早見先輩のザイルを――」

「乾くん!」久美子がぴしゃりと誡めた。そして、ゆっくりと背後を振り仰ぐ。「瑛梨ちゃんが聴いているでしょう?」

 檜山はうんざりしたように二〇一号室から戻ってくると、「森内をベッドに寝かせよう」横井に耳打ちした。

「そうですね」未だ、森内の死体の傍に片膝をついていた和泉も賛同を示す。

「この二〇四号室のノブは今後触らない方がいいね。森内を安置したら出入り禁止にしよう」横井も同じように腰を下ろしながら言った。

「ああ、森内を運んだら、俺は三階もドアノブを確認してくる。鷹野さんは結局見つかっていないんだろう?」檜山が、森内の頭に手を添えながら尋ねた。

「ああ」と、横井も胴体部分を持ち上げる。

 和泉が残った足を持って「せーの」で死体を持ち上げた。

「俺も行くよ。単独行動は危険だろう?」

 横井が言うのに、檜山は首を緩く横に振った。

「お前は彼女たちについてくれていていい。四回生がばらける方がいいだろう」

「じゃあ檜山さんには、僕がついて行きますよ」黙って話を聞いていた和泉が口を開いた。「僕はご覧の通り細っこいですし、女性を守れるほどの格闘要員にはなれそうにないですから」和泉は嫌味なくへらりと笑う。

四回生二人は曖昧に頷きながら、「せーの」でベッドの上に森内の死体を下ろした。

檜山は「んじゃ、行ってくる」とだけ言って、部屋を出た。廊下には顔を蒼くした久美子と乾、呆然とした瑛梨と、小さく震える小夜が半円状に立っていた。

それらを脇目に、檜山は長い脚で廊下を横切る。

「檜山さんたちも軍手をしませんか」瑛梨が詰まりながら、遠ざかる背中に投げかけた。

「俺は大丈夫だ」檜山は振り向きざまに答えた。そして、三階へと続く階段へ足をかける。

和泉はその背を追う足を止めて、瑛梨を見た。「僕も軍手は結構です。それより、武器になるもの借りられませんか?」

「倉庫にはロープがありますけど、それ以外となるとキッチンの包丁やフライパンくらいしか」

「あー、なら、いいや。いざとなったら檜山さんと二人で戦おう」

 そう言い残して、和泉の小柄な背中も階上へと消えた。

 

 *



 一階のフロアの扉が開いた。

 先刻のティータイムとは打って変わって、静まり返った部屋の中、青白い顔をした五対の目が入口へと集中する。

「三階にも人っ子一人いなかった。針の仕掛けもなかった」

 檜山は眉間に縦皺を刻んで息を吐いた。

「僕が廊下でフロア全体を監視して、檜山さんが部屋のドアを片っ端から開けていったけれど、本当に誰もいませんでしたよ」

檜山は背後の和泉が部屋に入るのを見届けてから扉から手を離すと、部屋の中へと向き直った。

「世良がさっき言っていたが、仕掛けはドアノブに限らないかもしれない。各人じゅうぶんに注意した方がいいだろうな」

「そうだなぁ」横井が白い顎に人差し指の第二関節をあてながら俯いた。「しかし、鷹野さんはどこに行ってしまったんだ……」

「とりあえず船のところへ行ってみませんか?」

和泉の提案に、久美子が噛みついた。

「いやよ。またあの山を上り下りするの?」

「でも、本土と連絡が取れない、鷹野さんもいないってなると、あとは船でどうにかするしかなくないですかぁ?」和泉が、きょとんと首を傾げる。小悪魔然とした雰囲気があった。

「船の鍵はあるのか?」檜山が瑛梨を見た。

「管理人室にあるか、そうじゃない場合は鷹野さんが」

「じゃあ、今すぐ見てきてよ」久美子に言われて、瑛梨が「はい」と扉の方へ向かった。

それを見た檜山が、すぐさま「俺も行く」と身を翻して扉を開けた。

「鍵があったところで誰が運転できるっていうのよ」久美子が眉間に皺を寄せた。

「どうにかなるんじゃないか?」横井が肩を竦める。「少なくとも、それしか方法はないみたいだしさ」

「転覆したら死んじゃうのよ」

「でも、このままここにいても助けがいつになるかわからないんだよ」横井が穏やかに言い聞かせる。

 そうしたところで、リビングのドアが開いて、影が戻って来た。

状況を聞くまでもなく、張り詰めた瑛梨の表情を見れば、事態は察することができた。

「もしかして」横井がソファから腰を浮かせた。

 瑛梨はこくこくと顎を引いた。「ないんです、鍵が」

 瑛梨の背後から姿を現した檜山が頭を掻いた。「こりゃあ、鷹野さんを探し出すしかねぇな」

「船のところへ降りましょうよ」和泉が平然と提案する。

「いやよアタシはいかないわ」

「じゃあ、世良さんだけ残ればいいじゃないですか」和泉があっけらかんと言った。

「一人で残れって言うの? こんな人死にが出た場所に!」

「ぼ、僕が一緒に残りますから」乾が震える声を出した。

「あんた一人じゃ頼りないわよ!」

「じゃあ、きっと龍川さんも……ねえ?」

「え」突然名前を呼ばれた小夜は、びくりと背を揺らした。「は、はい……」きょどきょどと、視線を左右に揺らした後、小夜は身体を小さくして消え入りそうな声を出した。

「無理強いはよくないよ」横井が割って入る。「それに、あんなことがあった以上、まとまって行動した方がいい。それこそ、針を仕掛けた犯人が潜んでいるかもしれないだろう?」



 *



桟橋に着いた一行を待ち受けていたのは、係留された船の隣で波間に漂う、鷹野八郎の変わり果てた水死体だった。

衣服から辛うじて鷹野だとわかるものの、まるで巨人の手で押しつぶしたような惨い有様だった。手足はあらぬ方向に折れ曲がり、左手の肘から先は千切れてなくなっている。衣服も原型を留めないほどに破れており、まるでただの赤黒い塊だった。

誰かのうめき声が波音に混じる。乾が草むらに蹲って喘いでいた。

「誰がやったの?」久美子が突如背中から取り出した包丁を、前に突き出して叫んだ。

その場が一瞬ぎくりと凍り付く。

「今名乗り出たら、縛るだけで許してあげる。瑛梨ちゃん!」

「は、はい」

「倉庫にロープがあるって言ったわよね。犯人を、それで縛るわ」

 久美子は蛇のような目で、一同を順番にねめつけた。

 辺りにサッと緊張が走る。

 と、おもむろに檜山が大きなため息をついて、後頭部をがりがりと掻いた。

「犯人探しもだが、どうやって本土に連絡を取るかが問題じゃねぇか? 船の鍵は行方不明だし、電話は通じないし。泳ぐっつったって水温的にも距離的にも無理だ。疑い合う前に協力しねぇとまずいことになるぞ」

「檜山の言う通りだね。まずは殺人鬼から身を守ることが先決だ」横井が賛同を示す。

しかし、久美子は眦を吊り上げると、激しい口調で言い返した。「だから、その殺人鬼がこの中にいるかもしれないって話をしているのよ」

「こ、この中に……?」乾が、頭を上げて、袖口で唇を拭った。「い、いや、やっぱり呪いなんですよ……! 早見先輩の呪いなんだ……」

「黙りなさい!」久美子の声が、乾の脳天に突き刺さる。

 その声に、乾は完全に委縮してしまったようだった。

 うんざりと言った様子で、和泉がのんびりと瑛梨を見据えた。

「島からの連絡が途絶えたり、予定の日に帰ってこなかったりした場合に、会社の他のスタッフが様子を見に来るなんてことはないんですか?」

「それが……スタッフはアルバイト職員がもう一人いるんですけれど、常駐しているわけじゃないんです。小さな漁村の旅行代理店ですから、毎日ツアーの予定があるわけじゃなくて……次に出勤してくるのは、確か五月二十五日土曜日だったかと」

「三週間後か。三連休もしばらくないですし、そんなもんなんですかね」

「島に他に船とか、ボートの類はないのか?」檜山が続いて質問した。

「ポンプ式の二人乗りモーターボートがありはするんですけれど、それも鍵を鷹野さんが持っていたので……」瑛梨は沈痛そうに視線を下げた。

 そのときだった。

「アタシ、緊急用の小さなゴムボートを見つけたわよ」久美子が、あっけらかんと言い放った。

 突然の申し出に、一同唖然とする。

「は?」

「どういうことです?」和泉が訝しげに眉を寄せた。

「どこで?」横井も珍しく戸惑いを見せた。

 そんな面々を前に、あろうことか自慢げな態度で久美子は高らかに謳った。

「シャワー室の確認ついでにあちこち探索していたときに、倉庫で見つけたのよ。今は別の場所に隠してあるわ」

「さっすが世良先輩! これで助かりますね!」乾がすかさず賛辞を呈した。

「確かに使えるのか?」

「なぁに、疑うの? 横井くん。間違いないわよ」

「じゃあ、どうするか、ボートの運転ができる奴は……」早速横井が、皆に向き直る。

「森内先輩が運転していましたよね。こないだ釣りに連れて行ってもらったときに、先輩の親父さんのボートを借りて」乾も先ほどまでとは打って変わって、みるみる顔色が良くなった。

「居ない人の話をしても意味ないでしょう」和泉にも、表情に余裕が、口調に辛辣さが戻る。

「檜山、運転できねぇの?」横井が檜山に投げかけた。

「やったことねぇよ」

「お前なんでもできそうだろう」

「無茶言うな……」

「十キロちょっとだし、まっすぐ進めばなんとかなりますよきっと」

横井と檜山の会話に、和泉が割り込んだ。

和らいだ空気を醸し出す男子を、顎をつんと持ち上げて一望した後、久美子は小さく息を吸いこんだ。

「ちょっと待って」久美子は嬉しそうに唇を持ち上げた。それから六対の目が自身に向くのをじっくりと堪能して、高調子に告げた。「あなたたち、アタシがボートの場所を教える前提で話しているけれど、誰が教えるなんて言ったかしら?」

「えっ」乾の靴底がずさっと後方に滑る。同時に銀縁眼鏡が小さな鼻の頭にずり落ちた。

 横井も困り顔で、両手の平を広げて一歩前にでた。

「冗談だろ、世良さん。今はそんなこと言っている場合じゃあ」

「何? アタシに逆らうの? はい、脱落ね。横井くんはボートに乗せてあげない」

「は?」横井が眉をひそめた。

場の動揺を満足そうに味わった後、久美子は左の頬に手を当てて唇を持ち上げた。

「まだわかっていないの? あなたたちの命の行方はね、今アタシの機嫌ひとつで変わるのよ」

「何を言っているんだ……」

「アタシは本気よ、横井くん」久美子はぴしゃりと言い放った。右手の包丁を目線の高さに持ち上げ、一音一音を粒立てて言った。「さあ、犯人は、野垂れ死にたくなかったら早く名乗り出なさい」

 辺りに呆然とした空気が流れる。

 眉を八の字にした小夜が胸の前で、ぎゅっと手を握りしめた。

 そんな一同の混乱を前に、久美子は恍惚と続けた。

「わかったわ。では、あなたたちに課題を与えます」そして、不穏な空気を舌の上で転がすように、じっとりと場を見回した。「殺し合いなさい。優勝した一人とアタシで本土に戻るの」

 誰からともなく「え」と、戸惑いを示す声があがった。

横井は肩を竦めて右手を上げた。「世良さん、一体どうしてしまったんだい。そんなくだらない牽制で無駄に時間を過ごしたら、全員本当に餓死するぞ」喋りながら語気が段々強まっていく。

「くだらないって何?」久美子はカッと刮目して横井を睨んだ。

「ぼ、僕は世良先輩……いえ、久美子先輩に従いますよ!」乾が眦を決して、宣言した。

 檜山は呆れたように背中を向けた。

小夜が二者間をおろおろ見遣る。

「檜山くん!」久美子が引き締まった背中に怒りをぶつけた。

 檜山は黙って立ち止まった。

「どこにいくの?」

「鷹野さんの遺体を寝かせるんだよ。流石にあのままじゃ気の毒だろう」

「いやよ、こっちに近づけないで胸が悪くなるわ」

「俺も手伝おう」横井が構わず袖をまくりながら、歩き出した。

 結局、檜山と横井と和泉の三人で鷹野の遺体を引き上げた。極力傷まないように、木の麓の日陰を選んで横たえる。

「後でコテージから毛布でも取ってくるか」

 濡れた両手を軽く振って、檜山は丸太造りの階段へと足を掛ける。

「今度はどこに行くのよ」世良がその背を睨みつけて、包丁を伸ばした。

「狼煙を上げるんだよ」檜山は剣呑と振り向いた。「原始的かもしれねぇけど、それくらいしか、俺の頭じゃ思いつかねぇ」

「あなたが犯人かもしれないんだから、単独行動はよしてちょうだい」

「一体誰にこんなところまで、鷹野さんを殺しに来る時間があったってんだ」檜山はぐるりと一同を見回した。「それこそ、世良くらいしかいないんじゃねぇか?」

 その挑発的な態度に、世良の耳が真っ赤に染まる。

「アタシじゃないわ」

「犯行の時間があったかどうかの話をしているんだ。人を根拠なく、無暗に疑うもんじゃないってことが言いたかっただけだから」

「アタシじゃないんだから。でも、じゃあ、誰なのよ。みんなには犯行の時間がなかったっていうんだったら、誰が犯人だっていうのよ」

「さあな」

「徹底的に話し合って犯人を特定すべきよ」

「材料が足りない」

「アリバイ、ってやつか?」世良と檜山の応酬に、横井が割って入った。

「世良先輩以外には、アリバイがあると」和泉は反撃とばかりに、久美子を見据えると、握り拳の裏で唇の両端を持ち上げる。

「だから、アタシじゃないって」久美子は癇癪を起こした子供のように包丁を持った右手を小さく振りまわした。

「大丈夫、わかったから」横井が胸の前で、両掌を何度か下へ振った。「全員こんなところで突っ立って話し合うより、まずはコテージに戻らないかい?」

「僕もシャワーを浴びて着替えたいです。濡れちゃったし」和泉が海水と血のついた衣服を示した。

檜山が顎を縦に引く。「食料の確認と配分、安全の確保だな。そして原始的に、狼煙だ。乾、ライター持っているよな? 貸してくれ」

「わ、わかりました」

「そ、そうですね。冷蔵庫には食料が二泊三日分と、非常食が数日分はあるはずです」瑛梨が指を折って、力強く頷いた。

「それまでに救助が来てくれることを祈ろう」横井が唇を真一文字に引き締めた。

「世良が心変わりしてくれりゃあ、何もないんだがな」

 と、既に丸太の階段を昇り始めている檜山が皮肉を零した。一瞬迷いを見せた小夜が、続けて丸太に足をかけた。瑛梨がその背中に続く。和泉もしばし考え込んで、檜山のあとを追った。

それらを見届けた横井が、ちらりと久美子の様子を窺い、「行こう」と促す。面白くなさそうに目を吊り上げた久美子と、それを追うように乾もついてきた。



17:00



「しかし、誰が二人を……森内さんがこ、殺されたドアノブなんて、回避不能な罠じゃないですか」乾が唇を戦慄かせて、頭を抱え込んだ。

「確かに予備知識がないと無理だな……檜山が試してみたのを、俺と和泉も見たが、丸ノブを回転させると、ノブの空気孔から針が出るという仕組みだった。それが手に刺さって森内は死んだ」横井は髪を拭いながら言った。

「空気孔はどの部屋のノブにもあるものなんですよね?」

「ああ。おそらくこのコテージだけじゃなく、ドアノブそのものにあるんだと思う」

 久美子は視線を転じていった。その手の包丁は、横井が言い聞かせて台所に戻させた。

「檜山くんは、なぜドアノブの仕掛けに気づいたの?」

「森内の手の平に赤い斑点があったからだ」

「間違いないです。僕も見ました」濡れた髪の毛を手櫛で梳きながら、和泉は肯いた。

「最初から知っていたんじゃないの? 檜山くん」

「……やけに突っかかるじゃないか」檜山は生乾きの髪をかき上げた。それから、真正面から久美子を見据えて、唇を持ち上げた。

 久美子はいきり立って言い返した。

「だって、H岳のあの事故の時、現場にいなかったのは、河西くんとあなたしかいないじゃないの」

「俺が早見の復讐をしているとでもいうのか」

「そうよ」

「なぜ?」

「知らないわよ。好きだったんじゃないの? あの子、見た目だけはよかったじゃない」久美子は悪意のある言い方をした。

「それならば、鷹野さんはなぜ死ななければならないんだ」

「それは」久美子がしどろもどろと言葉を詰まらせた。

「僕たちをこの島に閉じ込めるため、ですか」和泉が悪戯っぽく唇を持ち上げた。

「なるほどな。筋は通る」檜山も好戦的な顔で肯いた。「でも、俺にはそんな時間はなかった。一人になった時間がないからな。物理的に不可能だ」

「そうですねぇ。僕と龍川さん、途中からはシャワー室から戻って来た世良さんも、檜山さんと一緒にいましたよね。アリバイ成立、じゃないですか?」

「……そうね」久美子が不満げにそっぽを向いた。

「だから、僕たち全員がグルである可能性を除けば、檜山さんはシロだと言うことになりますよぉ」和泉はにこにことソファに腰を下ろした。

「俺たちも、乾と森内と瑛梨ちゃんで一緒にいたしな」横井は頭からタオルを剥がしながら、

「船着き場まで往復するにはどのくらいかかったかな」と、瑛梨へ尋ねた。

「一応、お客様に説明する際には、昇り二十五分下り二十分と説明しています」

「じゃあ、歩いたら往復五十分程度はかかるってことだね」

「走ったらどうでしょうか」和泉が首を傾げた。

「一番足が早い檜山に試してもらうか」

 横井の視線を受けて、檜山は少し考えるように視線をずらした。

「やってみてもいいが――鷹野さんの亡骸に毛布もかけてぇしな――だが、流石に一人じゃ危ねぇからもう一人付き合え」

「檜山先輩にも怖いものはあるんですね」乾が素っ頓狂な声を挙げた。

「お前が行ってもいいんだぞ」

「か、勘弁してください」

「相手は何を持ってるかわかんないですもんねぇ」和泉が飄々と言った。

「茶化すのは不謹慎だったね、乾。二人も亡くなっているんだ」乾を柔らかく窘めた後、横井は檜山に向き直った。「同行者、俺でもいいけど、なんだっけ? 戦闘要員はバラけた方がいいとかなんとか言っていたよね」

「そうよ。横井くんと檜山くんは分かれるべきだわ」久美子が口を尖らせた。

「お二人より身長の高い人なんて、そうそうはいませんもんね」乾がすかさず同調する。

「俺はせいぜい百八十ってところだけどね。檜山は百八十いくつだっけ?」

「細かい数字はいいだろう」檜山は、恥じらいを隠すようなムスッとした表情を見せた後、一同へ視線を投げかけた。「誰がついてくる?」

「じゃあ、僕行きますけど、檜山さんのペースじゃあ確実に置いて行かれますよ、僕」和泉が左手を挙げた。

「俺は毛布を抱えていくつもりだから、多少は遅くなるだろうがな。途中までで引き返していいから。二人でいるだけでも犯人への牽制になる」

「今後何か事件があったときの、檜山さんのアリバイ証明にもなりますしね」

「不吉なこと言わないでよ、和泉くん」久美子が甲高い声を挙げた。

「冗談のつもりはありませんよ」和泉は淡々と笑顔で返す。

 そんな二人のやりとりがおさまるのを待って、檜山は立ち上がった。

「とりあえず。毛布を取ってきてからスタートだ。時間測っといてくれ」



 17:40



 二十分後、息が上がった二人を、一同は玄関のフロアで出迎えた。

「おつかれ。往復約十八分か」

横井が檜山と和泉の背中に手を当てて、順に中へ招き入れる。

「下り八分、昇り十分だ」檜山が腕時計に視線を落とした。

「さすがバスケ部のエース」

「エースじゃねぇよ」

「ちゃんと檜山先輩が、桟橋にタッチして戻ってくるのを確認しましたよぉ」

和泉は肩で息をしながら、足を投げ出した。ソファに深く身を埋める。

「オッケー。じゃあ、鷹野さんを殺害する時間を含めて、どんなに急いでも二十分は必要だってことになるね」

横井が、瑛梨から水の入ったグラスを受け取り、二人の前に差し出した。

そのまま、居間のソファへとぞろぞろ連れたって流れてくる。

「檜山さんの足で最低二十分なので、普通の人だと三十分はかかると思いますけどね」

 和泉は受け取った水を半分くらい飲み干した。

「でも、じゃあ全員、その、アリバイ、ですか? あることになりますよね」

瑛梨がウォーターサーバーを傾け、和泉のグラスを再び満タンに浸す。

「席を外したのは、世良とあと誰だっけ」横井が髪をかき上げて尋ねた。

「私がみなさんのコーヒーを淹れるために……そうですね、十分くらいでしたか」

 瑛梨が顎に人差し指をあてて、天井を見た。

「ぼ、僕もコーヒーをもらう前と後、煙草を吸いに森内さんとデッキに出ましたけど、それも十分そこそこだったと思います」乾が食いつき気味に言った。

「僕はトイレに行ったけど、五分もかかってないよ」和泉はあっけらかんと答えた。

「わ、私も同じです」ソファの後ろに立ったままの小夜が、消え入りそうな声で言った。

「アタシもシャワー室は見に行ったけど、二十分程度だったわよ」ソファに深く腰をかけ、足を組んだ久美子が右手の平をひらりと動かした。

「そうですね。二十分程度ですからね」和泉がにこにこして強調した。暗にアリバイがグレーゾーンであることを主張しているのだろう。

「アタシが檜山くんと同じペースで走れるわけないじゃない」久美子が和泉の暢気な声に被せるように噛みついた。

「それはわかっていますよ。そもそもハイヒールですしね、世良さん」和泉が笑顔を向けた。

 沈黙が場を支配する。探るような視線が互いの間に幾重にも交錯した。

「じゃあ」瑛梨が沈黙を切り裂いた。

「……全員にアリバイがあるのか」横井が皆の心を代弁した。



 *



「ところで、ドアノブに針を仕掛けたのはいつのことなんでしょうね。それこそ、降谷さんがあらかじめ……」和泉は無邪気に瑛梨を見上げた。

「ええっ。コテージの鍵はご覧の通り、全室掛かっておりませんから、船さえあればどなたでも中へ入ることはできますよ」瑛梨は慌ててかぶりを振った。

「そっか」

「それに、私、まだ船の運転はまかせてもらったことないですし、鷹野さんが船の鍵は管理していましたので」

「瑛梨ちゃんも俺らと同じ条件というわけか」横井が頷いた。「俺ら山岳部のメンバーも、この島に来ることは当然わかっていたんだから、こっそり忍び込んで細工をすることは可能だ」

「そもそも、森内さんの事件と鷹野さんの事件は、同一犯なんでしょうか」瑛梨が場に投げかけた。

「この島に殺人鬼が二人もいるというの? やめてよ」久美子が両手で両の二の腕を擦りながら、甲高い声を挙げた。

「パターンとして同一犯であるケースと、別々であるケースの二つがあるってことは事実でしょう」和泉が飄々と久美子の顔を覗き込んだ。

「それはそうだけど」

「ところで世良さん、例の二人乗りボートの鍵は今も身に着けているの?」横井がソファの背に体重を預けて問うた。

「いいえ」途端に久美子の口調が尊大になった。「とあるところに隠したわ。だから、アタシから力づくで、鍵を奪おうとしても無駄よ」得意げに顎をつんと上げる。

「いや、そんな野蛮なことはしないよ」

「食料の分配はどうします? 五日分程度はあるとして、も、もしも……もし、救助がそれ以上来なかったら……」乾が顔を蒼くした。

「各自手持ちのものをテーブルの上に出そう」横井が背もたれから背を浮かせて提案した。「奪い合いが起きないためにも、一度集めて食事のたびに配るのがいい」

 荷物はリビングのステージの端に置いたままになっていた。各自旅行かばんを手に戻ってくる。

「でも、食料を一か所に集めたところで、誰かがこっそり独り占めしたらどうするのよ」久美子がイライラと組んだ足を揺らしながら言った。

「四桁の暗証番号式の金庫が各部屋にあります。そこに入れておけば」瑛梨があっと目を見開いて発案した。

「誰がその暗証番号を決めるのよ」久美子が不機嫌そうにねめつける。

「それは……」

「決めた人が、独り占めしないとも限らないでしょう?」

 場を重苦しい空気が支配する。窓の外では本土の黒い影に日が沈もうとしていた。

 誰かの頭が動いた。

「暗証番号の一桁ずつを別々の奴が覚えておけばいいんじゃないか?」檜山だった。色素の薄い髪の毛が夕日に透けて普段よりも明るく見えた。

「それは妙案だな」横井がすかさず同意を示す。

「でも……」続いた和泉の言葉に、一瞬で場が凍り付いた。「もし、その四人のうちの誰かが殺されたら、永遠に中身が取り出せなくなりますよ?」

「た、たしかに……」乾が顎に右手の爪を立てて呻いた。

「縁起でもないわ」久美子がぴしゃりと苦言を呈する。「そ、それにねぇ、アタシはお菓子なんてもってきていないし、たとえ持っていたとしても出さないわよ」

「そんなこと言わずに」横井が両手を胸の前に差し出した。ジェスチャーが多いのは彼の癖のようなものなのだろう。

「だって、よく考えたらおかしいじゃないの。私物なのになんで公平に分配しなきゃいけないの?」

「それは……なあ。争いを減らすために」

「もっとはっきり言ったらどうですか?」和泉が横井に無邪気な声を投げかけた。「平等のバランスが崩れたら、それこそ力づくで独り占めしようと殺し合いになりかねませんよ」

「こ、殺し合い……」顔面蒼白の乾が、そわそわと上体を揺らした。

「と、とりあえず、アタシは食べ物なんて持ってきてないの。部屋で落ち着きたいから、部屋割りをさっさと決めましょう」

「世良さん、そんなこと言わずに」瑛梨が、柔らかく久美子を窘める。小夜の作った籤が、寂しく机の隅に纏められていた。

「鍵は?」久美子はそれらを忌々し気にねめつけ、顎をツンと持ち上げて、瑛梨に右手を差し出した。

「……森内さんに全部渡しました」

「森内が放り出した鍵は、拾って玄関の脇に置いたよ」と、横井は足早にリビングの外に出て行き、鍵束を手に戻って来た。「これ」

「アタシ、二階は嫌よ。いくら森内くんと言っても、死体の近くに寝るなんて絶対にごめんだわ」久美子が整えた眉を吊り上げて唇を歪めた。

「いずれにせよ、二〇四室は森内の遺体があるから使えないな」横井が視線を落としながら息を吐いた。

「二部屋は余るんだし、二〇三号室も空けましょうか」和泉が横井と檜山を順番に見つめた。

「誰が二〇五号室と二〇二号室を使うのよ。アタシ、絶対いやよ」

「俺いいよ」と、横井が挙手した。

「俺もいい」檜山がそれに続く。

「じゃあ、俺と檜山で二〇五号室と二〇二号室を使うか」

「待ってよ。それじゃあ、三階にもしも犯人が襲ってきた場合、誰が助けに来てくれるのよ」久美子は既に三階が自分の所有物であるかのように言った。「檜山くんと横井くんは分かれるべきだわ」

 辺りにぴりぴりとした空気が流れる。

 部屋は、明かりなしでは細部が見えないくらい、暗くなってきた。

「じゃあ、私でいいです」小さな声が挙がる。

「龍川さん」横井が気遣うように名前を呼んだ。

「怖くないですよ」小夜は小さな口を無理やり歪めて笑みの形を作った。

「じゃあ、俺が二〇五号室を使うから、龍川さんは二〇二号室でいいかい?」横井は眉を下げて小夜の小さな顔を覗き込んだ。

 その様子を、久美子はさもつまらなさそうな冷めた目で一瞥して、派手なルージュを引いた唇を開いた。

「アタシは一番入口と死体から遠い三〇二号室がいいわ。あとは……そうね、和泉くんが三〇一号室で、檜山くんが三〇五号室ね」

「別にいいですケド」和泉はあっけらかんと受け入れた。

「アタシが叫んだらすぐに助けに来てね」

「ぼ、ボクは……その、森内先輩には申し訳ないですけど、遺体の真上はちょっと」乾が背中を丸めて、消え入りそうな声を挙げた。

「でしたら、私が三〇四号室を使いますので、乾さんは二〇一号室を使ってください」瑛梨がさりげなくフォローを挟んだ。

 そうしたところで、ここまでの流れをメモしていた檜山が顔を上げた。

「これで決まったな」

 指の長い綺麗な左手の甲が、全員に向いている。その手には、茶色の革製の手帳が乗っていた。

横井がその手元を覗き込む。手帳のフリースペースに、簡単な島の地図と、コテージの間取り図がフリーハンドで書いてあり、そこに部屋割りが記入されていた。

「お、すげぇな。間取り図まで書いてある」

「書かねぇと、覚えきれねぇからな」

「さすが檜山。じゃあ、書いてくれた図に従って早速鍵を配ろう」横井が手元の鍵束をじゃらじゃらと探った。すっかり日の暮れた室内はキャンドルライトをつけたところで薄暗く、かなり目に近づけないと、鍵に刻印された番号が見えないほどであった。

 二〇一号室の乾から順に鍵を受け取ると、各人、三々五々に部屋へと荷物を置きに戻った。

 最後三〇五号室の鍵を檜山の大きな掌に乗せながら、横井は小さくため息を落とした。

「とりあえず俺らの中で犯行可能だった人物がいないのは確認できたが、あれこれやっていたら日が暮れてしまったな。これじゃあ狼煙は明日におあずけだな」



19:00



 荷物を置き、一服したところでやることもなかったのだろう。あるいは、一人薄暗い部屋で時間を過ごすことに恐怖を覚えたのかもしれない。徐々にリビングに人の影が増え始めた。時計は十九時を指している。

「食事、どうしますか?」

 瑛梨は、傍で窓の外を眺めていた横井に尋ねた。その視線の先を追うように、瑛梨も同じ方向をぼんやりと眺めてみる。

 窓の外、すぐ見える低い位置には、都会にはない、真の暗闇が広がっていた。その少し上に目を転ずれば、満天の星空がお椀のように島を包んでいる。

「何日かかるかわからないので、食事の量も半量ずつとか調整した方がいいでしょうか」

 瑛梨は窓から目を外し、再び横井を見た。横井の切れ長の目と空中でかち合う。

「そうだね……約五日分食事はあるんだよね?」

「そうですね」

「半量ずつの一日二回にしてみようか。それであと十五日分はある。残りの十日は各自の持つお菓子でやり過ごすことになるけど、それで、その、アルバイトスタッフが出社してくるという五月二十五日まで持つよな? どう思う、檜山」

「そうだな。俺は構わねぇが」檜山は目を伏せた。長い睫毛が下瞼に影を落とす。

その向こう側、蝋燭の焔の不規則な光源の中、部屋の隅には闇の靄が棲んでいるように見えた。

横井は、無理やり視線を数メートル先のソファに座る檜山の横顔に戻した。

「まあ、作りすぎて怒られるより、少なすぎて怒られる方が、取り返しがつくだろう。反対意見が出たときはそのときにまた考えようか」

「わかりました」瑛梨の頭の影が、こくりと揺れた。

「俺も手伝うよ」

「でも」

「鷹野さんが、その……あんなことになって、瑛梨ちゃんも大変だろうし」

「横井さん……」立ち上がった横井の向こう側に檜山の長身をみとめて、瑛梨はその端正な顔を仰ぎ見た。「え、檜山さんも、手伝ってくれるんですか?」

「緊急事態だ。もう、スタッフも客も関係ねえよ」

 部屋の奥側、ピアノの前に位置する一人掛けのソファでは、世良久美子が面白くなさそうに、大きなため息を吐いた。

 三人の視線がそちらへと向く。横井が「気にしなくていいよ」とばかりに、瑛梨の方を向いて一つ頷いた。

「僕も手伝いますよ。たぶん、龍川さんもそうかな?」

 いつの間にか傍に来ていた和泉の問いかけに、同じく立ち上がっていた小夜はこくりと頷いた。

こうして二人が加わり、五人で厨房へ向かうことになった。



 *



 廊下には各階共にこげ茶色の絨毯が引かれており、足音は全てその柔らか生地が吸収してくれる。壁に点々と灯されたキャンドルライトの心もとない光に沿うように、一向は向かいの厨房へと足を踏み入れた。ドアは引き戸になっており、下部には金属のレールが敷かれているので、音もなくスムーズに開いた。

「あっ。食料庫が」

 先頭に立った瑛梨が、高い声をあげた。

 彼女の頭の上から、横井が部屋の中を覗き見る。

声に驚いたようで、小夜がビクリと身を縮ませた。

 食糧庫は、床下収納になっていた。しかし、その扉は開かれ、中は大ぶりの刃物で斬り刻まれ、泥まみれになっていた。

「酷い……」一番に駆け寄った瑛梨が、淵に両膝をついて呻いた。

「犯人は俺たちを根絶やしにするつもりなのか……」その後ろに立った横井が、ため息交じりに言った。

「まだ続くってことですよね」和泉が顎に指を置いて、興味深そうに中を覗いた。

 檜山が横目でそんな和泉をじっと見つめる。

「檜山先輩は気づいているみたいですけど。これで事件が終わりなら、犯人は僕たちを閉じ込めたり、食糧を駄目にしたりする必要がないんですよね。つまり」和泉は下唇を舐めた。「惨劇は、まだ続くと言うことですね」



19:30



 リビングへとんぼ返りした五人を受け入れたのは、久美子の気だるげな声だった。

「あら。もう夕飯ができたの?」

「いえ……それが」

 瑛梨が目を逸らして黙り込んだ。

代わりに横井が話を引き継ぐ。

「それがね、食糧庫が荒らされていたんだよ。中身は全滅だ」

「は?」

 久美子が顔を歪めた。乾もショックのあまり、勢いよくソファから立ち上がる。

「どういうことよ!」

「どういうことも何も。厨房の食糧庫を見てくれば一目でわかるよ。明らかに人為的な荒らされ方だった。何者かが悪意をもってやったことに違いはないね」

「許せないわ……犯人はどこに隠れているというの? 島を端から端まで捜索しましょうよ」

「もう暗いから明日にした方がいいよ」

「明日まで待つの? 時間が経つごとにアタシたちは体力がなくなっていくのよ。どんどん不利になるのよ」

「体力を温存するからこそ、だよ」横井は力なく肩を落として、それから疲れの滲んだ目頭をもんだ。「暗い森を闇雲に動いても体力を消費するだけだ。それよりも、明るくなってから見通しの良いときに捜索した方が、効率がいいと思う」

「そうだな」檜山がどっかりとソファに腰かけた。クッションがぴょんと跳ねる。彼の顔にも、かなり疲れが滲んでいた。

「やっぱり、早見先輩の復讐なんですよ……! 僕たちは皆殺しにされるんだ……!」

「乾くん!」久美子がキッと目を吊り上げた。

「だって、森内さんがザイルを……」

「乾くん、いい加減にしなさい。二度とその名前を口にしないで!」

「世良さん落ち着いて」

「何よ、横井くん。アタシが悪いっていうの?」

「そんなこと誰も言ってないよ」

 久美子の荒い呼吸音だけが、薄暗い室内に響き渡る。

「気分が悪いから、部屋に戻るわ」久美子は、おもむろにソファから立ち上がると、チュールスカートをはためかせてずんずんと部屋の扉へ歩いて行った。そして、「どいてよ」と小夜に怒鳴りつける。

 小夜はビクッと肩を強張らせて、身を引いた。

「待ってくださいよ、久美子先輩」乾がその後を頼りなく追いかけた。

 辺りは、本日何度目かの重い空気に包まれた。



 *



 しばらくの沈黙の後、「ごめんね、瑛梨ちゃん」横井が肩を竦めて、立ちっぱなしの女性陣にソファを勧めた。

「いえ……」瑛梨は目礼を返して、示された椅子へ腰を落ち着ける。「ところで、さっきから乾さんが言っている、早見さんってどなたなんですか?」

 その名が出た瞬間、その場の空気が南極の氷のように凍りついた。

 居間の壁時計の秒針の音だけが、唯一鼓膜に届いてくる。その音さえも、気まずさを助長させるような、そんな重い空間だった。

 やがて瑛梨が、「ごめんなさい……私、何か触れちゃいけないことを……?」と、不安げに謝罪した。

 横井は顔の前で右手を振ると、「いや、気にしないで」と無理やり笑顔を張り付けた。「……早見さんはね……俺たち登山部の仲間だった人なんだ」

「仲間……だった?」

「ああ」

「過去形ということは……今はいらっしゃらないんですか?」

「ああ。……去年の末に、滑落事故で亡くなったんだよ」

「えっ」横井の言葉に、瑛梨は息を呑んだ。「あの、森内さんがザイルを……ってさっき、乾さんが……ザイルって、あの登山用ロープのことですよね。ってことは」

「いや」横井は食いつき気味に否定した。「ごめん、大きな声を出して。森内がザイルを切ったっていうのは、乾の勘違いなんだよ」

「勘違い……」瑛梨が口の中で反芻した。

 和泉は目を逸らし、小夜は下をむいた。檜山は窓の外を眺めている。

「あの日俺たちは七人でH岳に登っていたんだ。当時の三回生が森内、俺、早見さん、世良さん。二回生が乾。一回生が龍川さん、和泉。七人でアンザイレン――ザイルでそれぞれ身体を結びあって登っていたんだ。それで、七合目の絶壁に差し掛かった時にね」そこで横井は小さく息を吐いて、目頭をもんだ。「大きな落石があったんだ。俺たちはザイルを通して宙づりになった」

「ロープだけで、絶壁にぶら下がったということですか?」

「そう。そして……最悪なことに、ザイルが落石で傷いたらしく、ところどころ亀裂が入っていたんだよ」

「そんな……」瑛梨は両手で口元を覆った。

「ザイルは全員の体重を支え切れそうにない。上から、俺、龍川さん、和泉、乾、世良さん、森内の順だった、そして――」横井は目を閉じた。「一番下にいたのが早見さんだった。このままだとザイルが切れて全員が落ちてしまう。そんななかで、早見さんは自ら、森内と自分の間のザイルをナイフで切ったんだ」

「じゃあ……その、早見さんは」

「ああ。クレバス……雪山の割れ目に落ちていった。今でも行方不明だよ」

「え、今でも見つかっていないんですか?」

「見つかっていない。その後俺らはなんとか元のルートに戻ることができて、そのまま下山した。彼女が落下した地点を捜索したけれど、いまだ行方不明さ。かわいそうなのは一人残された弟さんだね」

「他にご家族はいらっしゃらなかったんですか?」

「詳しいことは知らないけれど、俺らが集められた警察署に駆け付けたのは、早見さんの弟一人だったらしい。俺らとは直接会わなかったんだけどね。――事故について、聞いたことはないかい? 当時は報道番組なんかでも取り上げられていたんだけどね」

 瑛梨は眉を八の字にしたまま、視線を宙に彷徨わせた。すぐに、「あっ」と刮目する。

「そういえば……年末にニュースになったような」

「だよね。それで、乾も……本当は世良さんも罪の意識があるんだ。あの時、彼女の命を犠牲にして俺たち六人は助かったんだ、ってね」



 23:00



 乾拓也は割り当てられた二〇一号室のフランスベッドに、着替えもせずにうつ伏せに身を放り出していた。二〇一号室は、二階に上がってすぐ右側にある、独立した部屋である。

 トレードマークの銀縁の眼鏡は、今では書き物机の上に折りたたまれていた。おかげで、視界がかなりぼやけている。

 ――それにしても。と、乾は瞼を閉じた。目の奥がずうんと痛む。本当に長い一日だった。そして、こんな一日をあと何回繰り返せば本土に――元の生活に戻れるのだろうか……。

 臍を曲げてしまった世良久美子は、あの後大きな音を立てて、部屋に閉じこもってしまった。乾は、いつも彼女を怒らせてばかりいる。そういうつもりはないのに、だ。そして、損ねた機嫌を取ろうと焦ってますます火に油を注いでしまう。

 心臓の音がうるさい。胸を下にして寝転がっているのだから、当然と言えばそうなのかもしれないが、妙に速く高いその鼓動は、乾の不安を妙に煽った。

 不安の原因はわかっている。――およそ五か月前の、あの事故だ。宙に放り出された七人の学生たち。乾は下から四番目だった。命綱であるザイルにところどころ裂け目がある。そのことを知った時は、全身の血の気が引く音というものを人生で初めて聞いたものだ。

 眼下を見る勇気はない。クレバスの下には、深い闇が、化け物の口のように延々と広がっている。そのことは見ずとも理解できた。全身の神経が、これでもかと研ぎ澄まされていた。緊張感から一秒間に心臓が何十回も打っているような気がした。だから、すぐ真下で久美子が森内に何事か囁いた声ははっきりと耳に届いていた。

――切って。早く。

――え。

――今なら、誰も見ていないわ。でないとアタシたちみんな死ぬのよ。

耳を疑って、下に目を転じたときには、早見エメリの身体は宙に放り出されていた。そして――久美子の身体越しに見えた森内の右手には、登山用のナイフがしっかりと握られていた。

乾は電流に打たれたように、身体を起こした。――つもりだった。あれ? と思った時には身体に力は入らなかった。身体が鉛のように重い。まるで空気がコールタールにでも変化してしまったかのようだ。

そのまま、乾拓也は耐え難い眠りの底についた。