夏が過ぎ、秋も深まっていく。
 私と榎本くんがよくわからない関係のまま、なんとはなしに楽しく過ごすようになり、ときどきよくわからなくなる。
 今まで私は姉との生活で、どこか息苦しかった。圧迫されていた。でも、いざその姉がいなくなり、姉の生活の痕跡がひとつまたひとつと消えていったあと、私は途方に暮れてしまっていた。
 もし、榎本くんが同時期におばあ様の施設行きが決まらなかった場合、どうなっていたんだろうとときどき思う。
 私と榎本くんは、なんとなく環境が似通っていて、それが原因でクラスでも浮いてしまっていた。互いに似たもの同士と思って話しかけていたのに、もしどちらかがイチ抜けてしまった場合、今の関係を維持できたんだろうか。
 わからない。考えてみたけれど、全然わからない。
 仏壇のちりんを鳴らし、姉のために週に一度花を活け替え、スーパーで買ってきた小さなお菓子を供える。生前の姉は正直プリンやシャーベットが好きだったため、スーパーで売っているひと口大の饅頭を供えてもあまり喜びそうもないなとぼんやりと思った。
 私は手を合わせ、たびたび死んでしまった姉に相談するようになった。

「……この先、どうやっていけばいいのか、よくわからない」

 多分生前の姉は、自分自身に相談して欲しかっただろうなと、ポツンと思った。
 思うだけで、もう姉は私の瞼の裏にしかいない。

****

 二学期に入ってから、私と榎本くんはふたり揃って図書委員に選ばれてしまった。
 元々一学期の委員を決めるのは、担任からの指名だ。担任は入試の結果を見て成績優秀者から順番に決めていたらしい。
 私たちが選ばれたのは、単純にふたり揃って家で勉強どころではないからと、試験前は図書室によく通っていたのを勝手に「図書館にいるから」という理由で押しつけられたらしかった。
 テスト前以外に図書室は満員御礼になることはなく、せいぜい本当に本を読みに来た活字中毒者や、授業のために専門書を借りに来る教師ばかりで、図書委員の仕事も拘束される以外は滞りなく過ぎていく。
 私がせっせと図書館の返却ボックスにあった本を本棚に片付けている中、榎本くんは黙って一冊の本に目を通していた。

「榎本くん?」
「あ……ごめん。ちょっと読んでた」
「そりゃ今日は人があんまりいないからいいけど。なに読んでたの?」
「んー……」

 ちょっと気恥ずかしそうな顔で読んでいた本を見て、目をパチリとさせた。
【園芸家のなり方】。どうも趣味の園芸家じゃなく、植木屋や造園業みたいな職を目指すための本らしい。

「園芸の勉強をしたいの?」
「というか、ばあちゃんの家庭菜園の世話をしていて思ったけど。ああいう庭を一生懸命つくったのに、育てきれなくなって手放さないといけなくなったとき、残された人間って大変だから。そういう職業ってないのかなと探してた」
「ああ……たしかに……」

 あの年代の人って、趣味で家庭菜園やガーデニングをやっていて、ベランダや庭を花で埋め尽くしていることが多い。ホームセンターでも園芸コーナーは大きなブースになっているし、世の中ってこんなに植物育てるのが好きな人がいるんだなと勉強になるけど。
 それを残された家族が片付けると言っても、土の捨て方とか、鉢の捨て方。植物の捨て方まで考えると、日常生活だって送らないといけない人たちには厳しいかもしれない。
 姉の場合は専門職の人を呼ぶほども物がなかったけれど、従兄弟たちの中には、遺族の家の片付けが大変過ぎて、専門職の人を呼んで荷物を全部引き払ったという話も聞いている。
 榎本くんはその本の表紙をなぞりながら言った。

「だから、まずは園芸の勉強をして、そういう園芸屋ができたらいいなと思って」
「いいね。それってきっとすごいことだよ」
「まずは大学に入らないと駄目だけどなあ。農業系の」

 榎本くんはすごいなと、私は素直に感動してしまった。私は未だにそこまで切り替えができていない。
 でも。もう私は悲劇のヒロインでもなんでもないし、悲劇のヒロインは姉のほうだ。私もなにか考えないといけないとわかっていても、未だに上手く考えつかない。
 私が黙り込んでしまったのに、榎本くんは怪訝な顔でこちらを見た。

「東上さん?」
「……うん、ごめん。なかなかそこまで考えてなかったなと思ったんだ。もうお姉ちゃん亡くなって、時間も経ってるはずなのにね」
「んー……うちの場合は、ばあちゃんが施設にいるし、定期的にお見舞いに行ってるけど。人が亡くなったときのほうが、そりゃ精神的に負担かかると思うけど。なんかの記事で、精神的負荷がかかっているときは、落ち着いて一日を過ごすのがいいってさ。家族の生死に関わることは、精神的負荷が一番高いからって」
「そうなんだ……やっぱり榎本くんはすごいなあ……」
「じゃあ東上さん、今はなんの目標もないんだったら、まずは俺と一緒の大学を目指すっていうのはどう?」

 そう言われて、私は目を瞬かせた。
 思えば、もうしばらくしたら修学旅行で、そのあとにはすぐに進路相談の季節がやってくる。農業系の大学にだって、他の学科は存在しているだろう。
 今はなんでもかんでもスピーディーで、考える暇を与えてくれない。大学に入ってもただひたすらに忙しいだろうことは想像がつく。その中でも、私はなにがしたいのかを考える時間をもらえないだろうか。

「いいのかな、そんな簡単なことで進路を決めて」
「というか、仕事なんてお金を得るための手段だし、仕事が目標になったらまずいと思う。俺の場合だって、ばあちゃんの庭の世話がしたいっていうよりも、多分庭の始末に困っている人はいるだろうなあくらいの想像だし」
「うん……そうだね。なんとか頑張って考えてみるよ」

 私たちはそう言い合いながら、一旦本を片付けに戻っていった。
 時間は全然止まってくれないし、私の失ってしまった時間を元に戻すのは不可能だ。ただ、与えられなかったものを、別のもので埋めることだったらできる。
 私と榎本くんの他愛ない会話は、私がずっと渇望していたものだった。
 誰かの物差しで勝手に可哀想だと思われたり、勝手に憐憫を投げかけられても、私の現状は変わらない。ただ、他愛ない会話をして、互いに励まし合って、いろんなことをしてみたかった。
 委員活動が終わったあと、空はすっかりと赤くなっていた。私たちはのんびりと下校路を歩く。

「そういえば、今日は東上さん、真っ直ぐ帰らなくって平気?」
「平気。今日はもう冷蔵庫で残っているもので、なんかつくるから」
「そっか……東上さん」
「なに?」
「俺は、東上さんがなにもないって思わないよ。家事を一生懸命やってて、お姉さんのお見舞いにもずっと通っていた東上さんに、なにもないって思わない。東上さん、なにかあったら俺のことをすぐにすごいって言うけれど。俺からしてみたら、東上さんだって充分すごい人だから」

 そう言って、榎本くんはふにゃりと笑った。
 それに私は困った顔で笑った。

「自分だと、わからないよね。そういうの」
「わかんねえもんだと思うよ。だって、自分のことばっかり考えてたら、そんなのナルシストだ」
「そうかもしれないね」

 家事ができるっていうのは、他の勉強はなにをすればいいんだろう。私たちはどんな大学だったら園芸の勉強ができるのかを、本屋で確認してみることにした。その大学の中で、私が勉強できそうなことを探す。
 そういえば。私はそもそも大学に通えるんだろうか。今までお金はほとんど姉の治療費やら入院費やらに使われていて、私の進路について親が考えてくれているのかさえ、私は知らなかった。
 嫌だけれど。本当に嫌だけれど、この辺りは親に一度確認を取らないといけない。

****

 冷蔵庫の中身を確認する。冷凍庫に入れておいたきのこを味噌汁の具にし、前に安売りのときに買っていた冷凍カレイを醤油とマーマレードで味付けして照り煮にする。あとは漬物を出せば炊飯器のご飯と一緒に完成だな。
 私が慌ただしく料理をしていると、お父さんが「ただいまあ」と帰ってきた。
 皮肉なことに、前よりもお父さんは息を吹き返した。姉の病院代が相当厳しかったらしく、私の記憶にあるお父さんはいつも萎びてしまっていた。今はよれよれのスーツでも、髪の毛がへなってくたびれてしまっていても、にこにこと笑う小さい頃お母さんに八つ当たりされていたのを庇うお父さんに戻っていた。

「お帰りなさい。お酒飲む?」
「今日はいいよ。今は喫煙中」
「なんで?」
「だって、もうそろそろ蛍も受験だからなあ」

 それに私はドキンとする。私は進路問題なんて、家族間で全く話し合ったことがなかった。私は口をパクパクとさせた。

「……お父さん、私。大学に行っていいの?」
「今は厳しい世の中だから、そりゃ大学に入ったほうがいいと思うけど。蛍、まさか専門学校に入っての就職を目指してたのか?」
「ううん。行きたい大学があるけど、学費が……」

 私はスマホで検索し、榎本くんと見ていた大学の何件かを見せてみた。公立大学が一番予算的には助かるけれど、その分試験だって難しくなるし、私の偏差値で入れるかはわからない。でも今までの姉の入院費もろもろを横目で見ていた私は、とてもじゃないけれど市立大学に行きたいと言える勇気はなかった。
 お父さんはそれらをマジマジと見た。

「そっかあ……お父さんは、蛍がやりたいことがあるってわかってほっとしたけどなあ」
「……そうなの?」
「お父さんもお母さんも、お姉ちゃんの話ばっかりしてたからなあ……蛍のことだって忘れてた訳じゃないのに、どうしてもな。雪奈にもずっと『お願いだから蛍のことも見て』と言われ続けてたのになあ」

 姉は本当の本当に、最後の最後まで、私の姉だった。
 じんわりとしたものを覚えながら、「私、どの大学だったら行ける?」と尋ねた。

「お父さん頑張るから」
「……お願いだから、もうこれ以上頑張らないで。お父さんもお母さんも、働き過ぎだから。あんまり無理すると、お姉ちゃんみたいに突然いなくなっちゃいそう」
「……本当に、優しい子に育ったなあ」

 お父さんは本当の本当に嬉しそうな顔をしていた。
 私が優しいかどうかはわからない。多分、一番優しかったのは、思うように動かない体を抱えて、それでも私のことを忘れなかった姉だと思う。
 またひとつ、枷が外れたような、そんな気がした。