夏休みの最初に一週間は、なんとか家事をやり、仕事に行かないといけない両親の食事の世話をしてやり過ごしたし、夏休みの宿題もさっさと終わらせることができた。
 でも、二週間目には、突然体が動かなくなってしまい、冷房のついた部屋で寝込んでしまった。熱はないし、水も摂っていたから脱水症状でもない。虚脱症状というものらしかった。
 姉の葬儀のためにバタバタし、姉の遺品整理、仏壇の設置などで時間を消費し、まともに悲しむことも休むこともなく、予定を詰め込み過ぎたのが原因らしかった。
 そんなこと言われても。と思う。
 私とお父さんお母さんの距離感はすっかりと壊れてしまい、姉を挟んでいたからこそ上手くいっていたものが、姉がいなくなってしまって以降、どうにもよそよそしくなってしまった。
 それを見てやはり叔母さんはなにか言いたげだったけれど、私は慌てて「別にいいから。なにもかまわなくていいから」と言って、そのままにしていた。
 徹くんは大学受験勉強中なのだから、これ以上叔母さん一家を巻き込みたくないし、私はいつも姉の妹という扱いを受けていたのだから、今更娘として扱われても、こちらも距離感が掴めないから困ってしまう。
 結局はなあなあでいくしかなかったのが、仇となってしまったのだ。
 お腹は空いているような空いていないような。かろうじて水と塩分は摂っていたものの、カロリーを詰め込む余裕もなく、私は布団を転がっていた。
 寝ているような、起きているような、体が動かなくって頭だけがクリアな状態。起きてなにかをしたい訳でもない私がぼんやりと過ごしている中。
 スマホのメッセージアプリがピコンと音を立てて、私はベッドの中で跳ねる。普段から担任がつくったクラスのグループ以外のメッセージが来ることが滅多になく、大雨の中警報が出たかどうかくらいの確認しかしていなかったけれど。これは私個人宛のメッセージだった。
 担任は夏休みまでまめまめしく連絡をしてくる性分でもなく、私にメッセージをくれたのは榎本くんだった。

【お姉さんに手を合わせに行って大丈夫?】

 そう言われて、私は慌てる。
 ずっと寝たまんまだったために、寝間着のまんまだった。どうしようどうしよう。ひとまず私はメッセージを送る。

【ごめん、寝てた】

 呆れたんだろうか。来るのやめるんだろうか。それはそれで少しだけ寂しいけれど。私がそうやきもきしていたら、意外な言葉が返ってきた。

【この時期に寝てたら体危ないけど。食べられそうなものある? 持っていくけど】

 ……そうかあ。私は普段から美術室でご飯を食べ、他愛ない会話を繰り返していたことを思い返す。私は姉の体の関係で、ひと一倍健康に気を遣わなければいけなかった。姉の免疫不全が原因で、ただの風邪ですら命を落としかねないものだから、体調管理は自然と人よりもよくしていた。
 それを知っている榎本くんからしてみれば、既に昼になりかけている頃合いまで寝ている私は、体調不良に見えるんだなあ。
 少しだけ嬉しくなりながら、なにを食べたいのか考えるものの、本当になにも入らないことに気付いてしょんぼりとする。

【今、匂いのきついものはあまり食べられない。お腹もあまり空いてない。水と塩分はかろうじて摂っているけれど、それ以外のものはあんまり】
【コンビニでアイス買おうかと思うけど、アイスは食べられそう?】
【多分アイスだったら食べられると思う】
【わかった】

 そのメッセージのあと、私はどうにか起き上がり、風呂場まで重い体を引き摺って歩いて行く。冷水でシャワーを浴びたあと、急いで着替えた。そうは言っても、榎本くんは私の私服を普通に知っているから、せいぜいTシャツとデニムといういつも通りの格好だったけれど。髪をドライヤーでなんとか乾かして待っていたら、チャイムが鳴った。

「はい」
「榎本です」
「どうぞ」

 うちにやってきた榎本くんは、案の定Tシャツにデニムという、私と大して変わり映えのない格好をしていた。それでも、シャツは前は着ていなかったと思うスポーツメーカーのものだし、気のせいかスニーカーもピカピカしている。
 私が「こんにちは」と頭を下げると、私のほうを心配そうに覗き込んだ。

「東上さん、体大丈夫? 寝てたんじゃ……」
「急いで起きたから……平気」
「朝ご飯ちゃんと食べた?」
「食べられてない……もうずっと寝てた」
「疲れてたんだね。本当にお大事に」

 そう言いながら、私が玄関に招き入れると、おずおずと中に入っていく。
 リビングまで案内すると、肩に提げていた保冷付きエコバッグから、アイスを取り出してくれた。有名メーカーの定番バニラアイスだった。これなら食欲が本当に落ちている私でも食べられるだろう。
 私が「ありがとう……」と言いながらスプーンを取ってきて手を合わせていただきますとしていたところで、普段からぼんやりとした表情をしている榎本くんが、珍しく顔をしかめた。

「……もしかして、今日親御さんいないの?」
「お母さん、仕事だって。この間から復帰してる。お父さんも」
「……あのね、東上さん。そういうの、よくないと思う。俺も親御さんがいるときに来たかったのに」

 そう言いながら、何故か耳までを榎本くんは真っ赤にしてしまった。私は意味がわからず「どういう意味?」と聞きながらアイスをいただいた。
 冷えている分だけ匂いがなく、つるんと食べられて食欲のない私でもどうにか平らげられそうだった。バニラアイスってすごいな。ひとりでそう思っていたら、榎本くんはゴニョゴニョと口を動かす。

「……ばあちゃんもよく言ってたから。好きな子ができたときは、遊びに行くときは絶対に家族がいるときにしろって。人間、いつどんなときに魔が差すかわからないから気を付けろって」
「…………っ」

 スプーンを取り落としそうになり、私は慌てて掴んだ。
 二重の意味で、自分が考えが足りな過ぎたことに気付いた。
 さんざん好意をもらっていたのに、どちらも特になにも言っていなかったせいで、今の関係について名前がなかったということがひとつ。
 一学期の間はずっと一緒にいたから今更だったけれど、私は女で榎本くんは男。その意味でもおばあさまの言葉はなにも間違ってはいないということ。
 私が慌てふためいている中、榎本くんは顔を真っ赤にして、「スマホ」と指差した。

「なにかあったらすぐに警察呼べるようにして……」
「なにもないのに?」
「しないけど。本当にしないけど……魔が差すってどういうときか、俺も自信がないから」
「……うん」

 とりあえず、ふたりでなにかあったときのためと、クーラーを緩くかけつつも窓は開けておいた。なにかあっても外に聞こえるように。あとスマホに警察の電話番号も登録しておいた。その当たりは榎本くんが心配性な気がするけれど、私たちはそもそも付き合ってもいない。だったら心配かけさせてはいけないと思ったんだ。
 私が仏壇に案内しようと、姉の部屋に向かう。姉の部屋の不自然な広さに少しポカンとしたあと、榎本くんは慣れた仕草で座布団に座り、ちりんを鳴らして手を合わせた。そこで姉の写真と目が合った。
 姉は私よりも身長が伸びず、体も薄いままだったけれど、顔立ちだけは血が繋がっているのかと驚くほど整っていた。血色はお世辞にもよろしくはなく、死ぬ間際になったら、体は痛々しいほどにいろんなものを繋いでいたけれど、それでも姉の端正な顔つきだけは、ちっとも変わらなかった。
 榎本くんは姉をまじまじと見た。

「これが東上さんの言っていたお姉さん?」
「うん……お姉ちゃん」
「優しそうな人だね」

 それに、私は少しだけほっとした。
 姉の話をすると、大概は私が被害者扱いされるか、加害者扱いされるかのどちらかだった。
 姉が病気だからとなんでもかんでも我慢して可哀想と言う人たちと、姉が病気なのだからなにもかも諦めなさいと説く人たちと。
 榎本くんだけは、どちらの言葉も口にしなかった。

「お姉ちゃんは、自分を可哀想だと思われるのが嫌だったの」
「うん」
「だから……自分に千羽鶴を送られてきても捨てちゃうし、可哀想と言ってきた人に対して、見向きもしなかった……それでも、お姉ちゃんは不満を人に直接ぶつける真似だけは、絶対にしなかった……こっちが申し訳なくなるくらいに、優しく対応する人だったの……そうすることで、嫌な人だったと忘れられるんじゃなく、泣きたくなるほど優しい人だったと覚えてもらえるって……」

 私は姉に優しくなんてできなかった。嫌いになりたくても、最後まで嫌いになれなかった今の人生ガタガタになった元凶だとわかっていても、それができずに苦しかった。
 とうとう私がべそをかきはじめたのに、榎本くんはずっと付き添ってくれていた。

「家族って、本当に嫌いだったら逃げてもう会わなくなるし。でも嫌いじゃなかったら、そう簡単に離れられないから。そして東上さんはお姉さんが好きだったんだから、嫌いにならないとと考えなくってもいいと思う」
「うん……」
「俺はそういう東上さんでいいと思うよ。本当に苦しかったら、一緒にまた美術室に行けばいいし、そこでだったら美術の先生もいるし」
「うん……」
「……あと、流されたから聞くけど」
「うん……」
「……さっき、ポロリと言ったけれど。好きな子が、泣いているのは……困る」

 流れとして、これは流していいのか、よくないのかわからず、触れなかったことだ。やっぱり触れるんだなあというのが半分、一緒にいて楽しかったから、今一緒にいる理由に名前がついちゃうんだなあとしんみりするのが半分。
 私はべそをかいたまま、小さく頷いた。

「……榎本くん、ごめんなさい」
「……ごめん、こちらこそ」
「今の関係が、本当によかったから、なにも言わなくて、ごめんなさい」
「うん?」

 私はそもそも榎本くんをフる気はこれっぽっちもなく、どうにか意識を総動員する。普段から自分の中に溜め込みがちで、言葉で表現するのはとことん苦手だった。

「私は、榎本くんと一緒にいたいです。それが……恋かどうかは……ちょっとわからないけど」
「……うん」
「私が疲れてたの見て声をかけてくれたのも、しんどくて寝込んでいたときにアイスをくれたのも、嬉しかったから……」
「でも、それは俺が東上さんからもらったものだけれど」
「……私、大したことは」
「でも、俺を美術室に呼んでくれた。匂いがどうとか、学校に来ないのがどうとか、そんなの関係なしに……嬉しかった」
「……うん」

 お姉ちゃんの前だった。仏壇の前で、私たちはただ、互いに正座して俯いていた。
 なにもはじまってはいない。ただ、気持ちを確かめ合っただけ。それなのに、どうしてこうも満たされるんだろう。