レジを終えると、空は未だにオレンジ色で陽がなかなか落ちることはない。
風は湿気を含んで生ぬるく、冷房で冷やされた肌にはちょうどいいものの、毛穴を塞がれて汗がかけなくなりそうだ。
私と榎本くんは沈黙が降りたまま、未だに公園で遊んでいる子供たちの声を聞きつつ、買い物バッグを提げて歩いていた。
「公園に行く?」
そう言ってきたのは榎本くんだった。レジで並びながらポロポロ泣いている間も、黙って話を聞いてくれた榎本くんに、私は「うん」と言って着いていった。
夕飯をつくる時間までもう少しだけある。今だけは榎本くんと話をすることを許して欲しい。ふたりで口も開かず空いているベンチを探し、そこに腰掛けた。
「……ごめん。私ひとりだけ、悲劇のヒロインごっこして。死んだのはお姉ちゃんで、私は別に可哀想でもなんでもないのに」
「そう? 充分だと思うけど。自分をつくっていたパーツがなくなったら、それが好きとか嫌いとか関係なく取り乱すものだと思う」
「……そうなのかな。ごめん。榎本くん家も大変だったのに、私ばっかりしゃべって」
「俺はまた会いに行けるから。それにばあちゃんは『ボケたくないから電話しろ』『ネット通信用意しろ』ってうるさかったから、ビデオチャットも施設に準備させてもらってきたし、毎晩電話してるから。だから俺のことは変に気を遣わなくっていい」
「うん……おばあさん、いい人だったもんね」
「どちらかというと、ばあちゃんに残された庭木の世話が大変だなあ……あれ全部枯らすのも可哀想だけど、毎日も世話はできねえから減らさないといけねえし。でもばあちゃんにどれを残すか、どれを育てるか、聞いておかないとなあ」
前に榎本くん家を通ったときに見かけた庭木を思い返した。
本当に猫の額ほどの広さの庭にもかかわらず、さくらんぼの樹、家庭菜園と、いろいろ植わっていたように思う。たしかに学校もある榎本くんや仕事もあるご家族では、なかなか全部の世話は難しいだろう。
私は姉とそんな会話ができただろうか。私は「東上雪奈」の妹以外、なにも持っていなかった。姉が少女マンガが好きで、普通や日常に憧れていたことは知っていても、普通からも日常からも外れてしまった私は、それを姉に見せてあげることも、語って聞かせることもできなかった。
「……夏休みだね」
「そうだね」
「……私、これからどうしようって思ってる」
「夏休みなのに?」
「うん、夏休みなのに」
もし忙しさにかまけていたら、もうちょっとだけ悲しさを忘れることもできたかもしれないけれど。姉がいなくなり、もう姉のお見舞いに行く必要もなく、家事だってもうちょっと私の分担を減らすことができるかもしれないけれど。姉がいない。そのピースはなににだって埋められない。
黙って聞いていた榎本くんは、やがて口を開いた。
「俺、今度東上さん家に、手を合わせに行っていい?」
「……ええ?」
「あー……女の子の家に俺が行ったらまずいか。ならご家族がいる日にでも」
「……お父さんは明日からまた仕事だけど、お母さんは多分まだ休みだと思うから、そのときだったら」
「そっか……上手く言えないけど」
ようやっと榎本くんは立ち上がり、空を仰いだ。
蝉の鳴き声が、夜に向けて変わっている。昼間はあまりにけたたましいミンミンゼミだったのに、今鳴いているのはヒグラシだ。
「無理矢理なにかを続けてたらさ、どこかでボキッと折れそうで怖い。でもずっとじたばたしていたところで休んでも、なかなか起き上がれないしさ。ならいっそのこと、俺と歩いてみる?」
「榎本くんと?」
「そう。俺ももう、ずっと介護続けていたからさ、普通は全然わかんないし、忘れた。だからふたりで一緒に途方に暮れない?」
それは不思議な響きのお誘いだった。
私たちは、とっくの昔に普通から外れてしまっている。
今なにが流行っているとか、なにが人気とか、高校生はなにを悩んで、なにを迷って、なにを模索しているのか。もうなんにもわからない。
榎本くんが買い物バッグを左側で全部持ち、空いた右手を差し出した。私は少しだけ迷ったあと、彼の手を握った。ずっと介護を続けていたという彼の手は、私のものよりも大きくって、指の股のひとつひとつが乾燥していた。私だって同い年の女子と比べればハンドクリームが追いつかなくなるくらいに乾燥しているし、爪先だってささくれだってしまって痛いはずだ。
ただ私たちにはこれでよかった。
ひとりじゃない。それだけでなんとかやっていけそうな気がした。榎本くんは姉ではないから、姉の代わりにはならないけれど、私の足りないものを幾許か補える人にはなりそうだ。私は、彼のなにを補えるのかはわからないけれど。
****
暑いからさっぱりしたものを食べたい。でも暑い日にあまりたくさん買うことができず、結局は豚肉をお酒を入れたお湯にさっとくぐらせてざるに上げ、冷やしたきゅうりとネギソースと一緒に冷やしゃぶにすることにした。
冷やしゃぶ自体はさっぱりしているのに、台所で一生懸命豚肉に火を通しては冷ましていると、水を飲みながら作業をしないと倒れそうなくらいに暑い。
お母さんはあれだけずっと泣いていたものの、やっと泣き止んでお父さんと一緒にビールを飲んでいる。
「蛍……」
「お母さんは明日から仕事、大丈夫?」
「……行っても大丈夫?」
お母さんはどうにも私をひとりで置いていくのが心配らしい。私、ずっと放っておかれていたはずなのに。そう思いながらも私は考える。
「お姉ちゃんに花を生けるし、果物も供える。夏休みの宿題もするから……ああ、でも。友達が手を合わせに来たいって」
それにお母さんだけでなく、お父さんも少し驚いたように顔を上げた。
「……蛍、初めてじゃない? 友達連れてくるの」
友達を家に連れてくるのを禁止していたのはお母さんのほうじゃないか。そう思ったものの、お母さんが震えているため、言うに言えなかった。私は頷いた。
「うん。だから心配しないで」
幸いにも、叔母さんや満美ちゃんが来てくれたおかげで、姉のもろもろの片付けは終わってしまったから、あとはお墓に連れて行くまでの間、毎日私が面倒を見ればいいだけの話だ。
それに。お母さんは姉が本当に大切だったせいで、いろんなものを失ってしまっている。
恨んでないとはお世辞にでも言えない。ただしょうがないと諦めてもいる。でも、一緒に暮らしている中、ずっとただ一緒に住んでいるだけの気まずい関係のままは嫌だった。
冷やしゃぶと豆腐。あとナスとトマトのごまドレッシングサラダを出して、皆でいただいた。
夜になって、私はお風呂を済まし、髪を乾かしてからベッドでスマホに触れていた。榎本くんとIDをやっと交換したから、メッセージを送ることだってできるし、電話することもできる。
送ってみようかなと思ったものの、それはすぐに引っ込めた。
明日会ってから考えよう。家の場所は教えたから、多分来られると思う。スマホの電源を落として、眠りについた。
思えば、お通夜のときから私の眠りは浅かったけれど、久々に深く眠り、夢さえも見なかった。
風は湿気を含んで生ぬるく、冷房で冷やされた肌にはちょうどいいものの、毛穴を塞がれて汗がかけなくなりそうだ。
私と榎本くんは沈黙が降りたまま、未だに公園で遊んでいる子供たちの声を聞きつつ、買い物バッグを提げて歩いていた。
「公園に行く?」
そう言ってきたのは榎本くんだった。レジで並びながらポロポロ泣いている間も、黙って話を聞いてくれた榎本くんに、私は「うん」と言って着いていった。
夕飯をつくる時間までもう少しだけある。今だけは榎本くんと話をすることを許して欲しい。ふたりで口も開かず空いているベンチを探し、そこに腰掛けた。
「……ごめん。私ひとりだけ、悲劇のヒロインごっこして。死んだのはお姉ちゃんで、私は別に可哀想でもなんでもないのに」
「そう? 充分だと思うけど。自分をつくっていたパーツがなくなったら、それが好きとか嫌いとか関係なく取り乱すものだと思う」
「……そうなのかな。ごめん。榎本くん家も大変だったのに、私ばっかりしゃべって」
「俺はまた会いに行けるから。それにばあちゃんは『ボケたくないから電話しろ』『ネット通信用意しろ』ってうるさかったから、ビデオチャットも施設に準備させてもらってきたし、毎晩電話してるから。だから俺のことは変に気を遣わなくっていい」
「うん……おばあさん、いい人だったもんね」
「どちらかというと、ばあちゃんに残された庭木の世話が大変だなあ……あれ全部枯らすのも可哀想だけど、毎日も世話はできねえから減らさないといけねえし。でもばあちゃんにどれを残すか、どれを育てるか、聞いておかないとなあ」
前に榎本くん家を通ったときに見かけた庭木を思い返した。
本当に猫の額ほどの広さの庭にもかかわらず、さくらんぼの樹、家庭菜園と、いろいろ植わっていたように思う。たしかに学校もある榎本くんや仕事もあるご家族では、なかなか全部の世話は難しいだろう。
私は姉とそんな会話ができただろうか。私は「東上雪奈」の妹以外、なにも持っていなかった。姉が少女マンガが好きで、普通や日常に憧れていたことは知っていても、普通からも日常からも外れてしまった私は、それを姉に見せてあげることも、語って聞かせることもできなかった。
「……夏休みだね」
「そうだね」
「……私、これからどうしようって思ってる」
「夏休みなのに?」
「うん、夏休みなのに」
もし忙しさにかまけていたら、もうちょっとだけ悲しさを忘れることもできたかもしれないけれど。姉がいなくなり、もう姉のお見舞いに行く必要もなく、家事だってもうちょっと私の分担を減らすことができるかもしれないけれど。姉がいない。そのピースはなににだって埋められない。
黙って聞いていた榎本くんは、やがて口を開いた。
「俺、今度東上さん家に、手を合わせに行っていい?」
「……ええ?」
「あー……女の子の家に俺が行ったらまずいか。ならご家族がいる日にでも」
「……お父さんは明日からまた仕事だけど、お母さんは多分まだ休みだと思うから、そのときだったら」
「そっか……上手く言えないけど」
ようやっと榎本くんは立ち上がり、空を仰いだ。
蝉の鳴き声が、夜に向けて変わっている。昼間はあまりにけたたましいミンミンゼミだったのに、今鳴いているのはヒグラシだ。
「無理矢理なにかを続けてたらさ、どこかでボキッと折れそうで怖い。でもずっとじたばたしていたところで休んでも、なかなか起き上がれないしさ。ならいっそのこと、俺と歩いてみる?」
「榎本くんと?」
「そう。俺ももう、ずっと介護続けていたからさ、普通は全然わかんないし、忘れた。だからふたりで一緒に途方に暮れない?」
それは不思議な響きのお誘いだった。
私たちは、とっくの昔に普通から外れてしまっている。
今なにが流行っているとか、なにが人気とか、高校生はなにを悩んで、なにを迷って、なにを模索しているのか。もうなんにもわからない。
榎本くんが買い物バッグを左側で全部持ち、空いた右手を差し出した。私は少しだけ迷ったあと、彼の手を握った。ずっと介護を続けていたという彼の手は、私のものよりも大きくって、指の股のひとつひとつが乾燥していた。私だって同い年の女子と比べればハンドクリームが追いつかなくなるくらいに乾燥しているし、爪先だってささくれだってしまって痛いはずだ。
ただ私たちにはこれでよかった。
ひとりじゃない。それだけでなんとかやっていけそうな気がした。榎本くんは姉ではないから、姉の代わりにはならないけれど、私の足りないものを幾許か補える人にはなりそうだ。私は、彼のなにを補えるのかはわからないけれど。
****
暑いからさっぱりしたものを食べたい。でも暑い日にあまりたくさん買うことができず、結局は豚肉をお酒を入れたお湯にさっとくぐらせてざるに上げ、冷やしたきゅうりとネギソースと一緒に冷やしゃぶにすることにした。
冷やしゃぶ自体はさっぱりしているのに、台所で一生懸命豚肉に火を通しては冷ましていると、水を飲みながら作業をしないと倒れそうなくらいに暑い。
お母さんはあれだけずっと泣いていたものの、やっと泣き止んでお父さんと一緒にビールを飲んでいる。
「蛍……」
「お母さんは明日から仕事、大丈夫?」
「……行っても大丈夫?」
お母さんはどうにも私をひとりで置いていくのが心配らしい。私、ずっと放っておかれていたはずなのに。そう思いながらも私は考える。
「お姉ちゃんに花を生けるし、果物も供える。夏休みの宿題もするから……ああ、でも。友達が手を合わせに来たいって」
それにお母さんだけでなく、お父さんも少し驚いたように顔を上げた。
「……蛍、初めてじゃない? 友達連れてくるの」
友達を家に連れてくるのを禁止していたのはお母さんのほうじゃないか。そう思ったものの、お母さんが震えているため、言うに言えなかった。私は頷いた。
「うん。だから心配しないで」
幸いにも、叔母さんや満美ちゃんが来てくれたおかげで、姉のもろもろの片付けは終わってしまったから、あとはお墓に連れて行くまでの間、毎日私が面倒を見ればいいだけの話だ。
それに。お母さんは姉が本当に大切だったせいで、いろんなものを失ってしまっている。
恨んでないとはお世辞にでも言えない。ただしょうがないと諦めてもいる。でも、一緒に暮らしている中、ずっとただ一緒に住んでいるだけの気まずい関係のままは嫌だった。
冷やしゃぶと豆腐。あとナスとトマトのごまドレッシングサラダを出して、皆でいただいた。
夜になって、私はお風呂を済まし、髪を乾かしてからベッドでスマホに触れていた。榎本くんとIDをやっと交換したから、メッセージを送ることだってできるし、電話することもできる。
送ってみようかなと思ったものの、それはすぐに引っ込めた。
明日会ってから考えよう。家の場所は教えたから、多分来られると思う。スマホの電源を落として、眠りについた。
思えば、お通夜のときから私の眠りは浅かったけれど、久々に深く眠り、夢さえも見なかった。