さて。
波留くんと正式にお付き合いをしていくにあたり、私は三つの条件を課した。
「ひとつ。何か行動を起こすときは、必ず事前に相談すること」
行動? と、きょとんとする波留くんに、以前もらったものを差し出す。金色の糸で『悪縁切』と刺繍されたお守り。その口を指先でこじあけて、波留くんの手のひらに中身を突きつける。
「こういうGPS発信機とか……なんかこう、劇団とか! そういう変な行動をしたいなって思ったら、ちゃんと先に相談してってこと!」
「……そんなに嫌か? GPS」
心の底から不思議そうな顔をする波留くんを見ていると、まるで私の方がおかしいような気持ちになってくる。いや待て待て、そんなはずはない。だいたいコレってストーカー対策というより、ストーカー本人が使うもののはずでしょうが。
波留くんはスマホを片手に何やらアプリの検索をしている。『カップルで位置情報を共有』みたいな文字が横切ったけど、見なかったことにして次へ行く。
「ふたつ。椎名くんと三人でいるときは、友達同士に戻ること」
「えっ」
波留くんが目を見張る。でもこれは仕方のないことだ。
「友達同士って……それだと、何もできないだろ」
「何もしないよ」
「本当に何も? キスは?」
「だめだよ。手を繋いだりもなし」
……呆然と虚空を眺める波留くん。どうやら、思ったよりも大きなショックだったらしい。
確かに、彰良の件がきちんと片付くまで、私たちは椎名くんの家でお世話になり続けるだろう。そうするとどうしても、ほとんどの時間を三人で過ごすことになるわけで。
(恋人らしいことができるのは、当分先になるだろうなぁ)
でも椎名くんの目の前でべたべたくっついてこられたら、恥ずかしい思いをするのは私の方だ。寂しい気持ちをぐっと飲み込み、三本目の指を立てる。
「みっつ。椎名くんに優しくすること!」
五秒ほどたっぷりの間を置いて、波留くんがこてんと首を傾げた。
「椎名に……優しく……?」
「従兄弟同士っていうのは聞いたけど、波留くんはちょっと椎名くんへの配慮が足りないよ」
「……配慮……?」
なんで急に日本語ワカリマセンみたいな顔をするのかな。
これはある意味一番大事だ。ここ最近の様子を見た限り、波留くんの椎名くんへの扱いはなかなかにひどいものばかり。もちろんその、やきもちを焼いていたというのも少しはあるだろう。でも、今の私たちは椎名くんの優しさに甘えている真っ最中なのだ。
椎名くんがいるであろうお風呂場の方を一瞥し、私は再び波留くんへと向き直る。
「ただでさえ私のせいで、椎名くんにたくさん迷惑かけてるんだから。私も気をつけるけど、波留くんにももっと椎名くんに優しくしてほしいの」
波留くんはしばらく難しい顔をしていたけど、やがて根負けしたみたいに「わかった」と低くうなずいた。
とりあえず、今話しておかなきゃならないことはこれですべてかな。私がひと段落ついたのを見て、ここぞとばかりに波留くんが背筋を伸ばす。
「じゃあ、俺からふたつ」
なんだろう。GPSアプリなら嫌だなぁと身構えたけど、
「ひとつ。名前で呼び合いたい」
思ったよりもまともな提案に、正直拍子抜けしてしまった。
ああ、そうか。恋人同士だもの。昔お付き合いしていた頃は、確かにお互い名前で呼び合っていた気がする。
期待のまなざしで見つめられて、少しお尻がむずむずする。
「い……つき、くん」
「百合香」
切れ長の瞳を弓なりに細め、波留くんは……樹くんは、心から嬉しそうに微笑んだ。
たったこれだけのことなのに、私の顔がみるみる桃色に染まっていく。どうしてだろう。昔はもっと、自然な感じで名前で呼び合っていたはずなのに。
「ふたつ。遠慮しないで、いつでも俺を頼ってほしい」
これはもう、今まで何度も繰り返し言われていたことだった。
遠慮しすぎない。卑屈にならない。甘えるときはきちんと甘える。
私たちはただの友達から、恋人に逆戻りした。今までよりもずっと堂々と頼りあっても良い間柄だ。
「わかった。何かあったら、きちんと相談する」
「ああ」
「樹くんもだからね。ちゃんと私に相談してね」
「そうさせてもらう」
扉の開く音がして、濡れた髪をタオルでまとめた椎名くんがリビングへ来た。向かい合って座る私たちへ目をやり、隣を素通りして冷蔵庫からビールを取り出す。
「条件のうち3分の2が俺ってちょっと笑えるね」
「聞こえてたの?」
「まあ。そんなに気を遣われなくてもいいけど、中原が俺に優しくしてくれるならちょっと期待しちゃおうかな」
言いながら椎名くんの視線は樹くんへ。これは間違いなく、私をからかうふりをしながら樹くんをおちょくっている顔だ。
そして案の定、樹くんはこめかみにわかりやすく青筋を立てて椎名くんをじいっと睨んでいる。でも一応、これは我慢している方なのかな? 椎名くんに優しくしてねと、しつこく言ったのが多少は効いているのかもしれない。
「料理でも掃除でもなんでもやらせていただきますとも」
私が両手で力こぶを作ると、椎名くんは少し苦笑して濡れた前髪をかきあげた。
*
「それじゃあおやすみー」
椎名くんが部屋の電気を消す。
三人同時に布団に入るのは、なんだかちょっと新鮮だ。今まではどうしても生活リズムのずれがあって、みんなの寝る時間は基本バラバラ。特に樹くんは帰りが遅いから、たいていの場合は私が先に眠ることが多かった。
壁にぴったり張り付いて静かに耳を澄ませていると、少しもしないうちに椎名くんの小さな寝息が聞こえてくる。これは最近知ったことだけど、椎名くんはすごく寝つきがいい。少しのお酒で朝までぐっすり。ある意味うらやましい体質だ。
(でも、私が椎名くんの立場だったら、緊張して眠れないかも)
そう思いかけた瞬間、この状況の妖しさに気づき、全身にじわりと汗がにじんだ。薄暗い部屋。隣り合わせで眠る恋人。右側から漂う空気が夏のアスファルトみたいに熱い。
「百合香」
かすれた声。
振り返ってはいけないと、わかっているのに逆らえない。
「椎名が寝た」
「……寝た、ね」
波打つシーツに頬をうずめて、樹くんは甘えるように言う。
「そっちに行きたい」
私は無言で唾を飲み込む。確かに彼が横になる位置は、二枚のマットレスのふちが当たってとても寝づらい場所だ。どうせ眠るなら平たい場所がいいのは当然のことだろう。
でも、これはそういう話じゃない。
そんなことくらい、私にもわかっている。
「百合香」
椎名くんがいるからだめだよ、と。
本当は言わなくちゃいけない。でも早打つ心臓の音に急かされ、私は気づけば小さくうなずいていた。
軽く起き上がった樹くんの身体が、少しずつ距離を縮めてくる。シーツを擦る音。マットレスの軋み。うつむく私を覆う暗闇がよりいっそうの濃さを増して、薄暗い視界がただひとり、樹くんでいっぱいになる。
額が温かな胸元に触れ、次に背中を抱き寄せられた。頬までぴったり彼の胸板におしつけられて、薄いシャツ越しに心臓の音が聞こえてくる。
ふいに吸い込んだ空気に混ざる、樹くんのにおい。鼻から直接脳へ届いて、触れられたら困るところをダイレクトに揺さぶってくる。
熱い。
「わ……わたし」
「ん?」
「手、どうしたら、いい……?」
自分の胸の前で小さく閉じたまま、すっかり行き場を失った両手。
樹くんは私の手をちらと見て、それから耳元でいたずらっぽく囁いた。
「触りたいところを、どこでも」
ぎゅうっと唇を噛んだ私の、耳まで真っ赤になった顔を見て、樹くんがくつくつ笑うのがわかった。くやしい。でも、どうやれば仕返しになるのか、茹だった頭では到底思いつきそうにない。
でも私だって、別にピュアな乙女じゃないんだ。少しだけむきになりながら、おそるおそる樹くんの背へ腕を回す。
大きな背中。ごつごつしていて、少ししっとりしていて、触れているだけで彼の熱を感じる。両腕を開いたことであらわになった胸の隙間は、樹くんが私の背中を強く抱き寄せてすぐに埋まった。
ぴたりとくっついた肌と肌が、呼吸に合わせてわずかに上下する。それももう、私の呼吸なのか彼の呼吸なのか、すっかり混ざり合ってわからない。
「こっち」
大きな手に重ねられた手のひらが、樹くんの首筋へと導かれた。そうっと両腕を樹くんの首へ回す。自然、身体が少し上がって、胸と胸とが直接触れ合う位置になる。
間近で絡まる視線。
ひと呼吸おいてから、どちらともなく目を伏せる。
本当にただ触れるだけの、子どもみたいに優しいキスは、自分でも信じられないくらい穏やかで心地よかった。全身に溜まったストレスが溶け出して、身体の中が甘い空気でいっぱいになる。緊張でこわばった四肢が少しずつ緩んでいくのがわかる。
(気持ちいい)
少しずつ角度を変え、深さを変え、ただひたすら唇を押し付けあう。それだけでもう、あたたかな海の中でぼんやりと浮かんでいるみたいに快い。
(このまま、眠って、しまいそう……)
鼻でゆっくりと呼吸しながら、おだやかな睡魔に抗うように、ほんの少しだけまぶたを開ける――
瞬間、間近に見えた切れ長の瞳が孕む欲の熱っぽさに、私は思わずハッと目を見開いてしまった。
私の驚きを読み取ったのだろう、樹くんは目元で少しだけ笑うと、唇を唇で塞いだままゆっくりと体勢を変えた。抱かれた背中がマットレスに沈み、首に絡めていたはずの腕は彼の両手に縫い付けられる。
いつきくん、と言いかけた刹那、唇がひらくのを待っていたように舌先が中へ侵入した。逃げる舌が絡めとられて、唾液がちゅ、と音を立てて混ざり合う。とっさに傍らの椎名くんを見ようとしたけれど、咎めるみたいに両手で顔を掴まれた。
――今は、俺だけ。
燃え上がるような熱い瞳にまっすぐに見つめられて、自分の足先がシーツを蹴って軽く跳ね上がったのがわかった。
嚙みつきあう唇の隙間から濡れた吐息がこぼれ落ちる。
触れられてもいない下腹部が何かを待ちわびるように揺れる。
だめだと叫ぶ理性を無視して身体は素直に悦び悶える。
(のみこまれる)
もう無理――と思ったとき、ふいに唇が離れたと思うと、身体を起こした樹くんがぐいと手の甲で口元を拭った。冷たい空気が肺へ一気に流れ込む。私も彼も荒い呼吸で、ただ静かに見つめあう。
「ごめん」
切なく陰った表情は、熱の終わりを如実に物語っていた。
ほっとした反面、身体の奥ではやっぱり灯火がくすぶっていて、私は自分をごまかすように少し内腿をすり寄せる。
「樹くん、もう少しだけ……」
「わかってる」
私の頬にキスをして、樹くんは苦しそうに微笑んだ。
「今までずっと耐えてきたんだ。もう少しくらい我慢できる」
……このときの私の気持ちを、どう言い表せばいいだろう。
わかってない。わかってないけど、どうしようもなく彼は正しい。
樹くんの節くれだった指先が、汗で少し湿った私の髪を軽く撫でる。それから椎名くんの寝姿を確認して、彼はゆっくりと立ち上がると廊下の方へと歩いて行った。
どこにいくの、なんて野暮なことを聞く気はない。私は壁際に寄って、彼の寝る方へ背中を向けて丸くなる。
我慢、我慢。椎名くんと三人でいるときは、友達同士に戻ること。
私が言い出した条件だ。もちろん忘れてなんかいない。でも。
(身体が熱い)
今夜は私の方が――眠れないかもしれない。
*
樹くんは――
一生懸命『待て』をしている。
こういうと恋人を犬扱いしているのかと言われてしまいそうだけど、実際私は時々樹くんが大型犬か何かに見える。椎名くんに茶化されたときは、私の方をちらと見やって振り上げたこぶしをそっと下ろす。私と視線が絡み合ったときに椎名くんがやってきたら、むっと険しい顔をしながらも渋々目線を逸らしていく。
彼なりに精一杯の我慢をしてくれているというのが、見ているだけで手に取るようにわかるから少し面白い。そして、そのおあずけされている餌というのが私自身のことだと気づき、恥ずかしくなるところまでがワンセットだ。
ほら、今も。
「百合香」
囁くような声につられて顔を向けてみれば、切れ長の瞳を少しだけ下げた樹くんと目が合う。椎名くんはトイレへ立って、今このリビングは二人きり。
「すぐ戻ってくるよ」
「大丈夫」
大きなビーズクッションを挟んで、肘と肘がぶつかりあう。一瞬だけ視線が絡み、トン、と触れるだけのキス。
そしてまた再び前を向く。映画CMの銃撃戦が、派手なフラッシュで色づく頬を隠してくれる。
ささいな、幸せ。
たったこれだけで不思議なくらい満たされた気持ちになるのだから、私も単純な人間だ。
「ねえ、誰か共用メモに『トイレットペーパー』って入れといて……ん?」
椎名くんの声と重なって響いた、けたたましいアラーム音。
日曜朝のニュースの上に流れているのは、緊急地震速報の文字。震度は4、場所は北陸……と、その中に馴染んだ地名を見かけて目が覚める。
「新潟だって。中原、実家だよね?」
「うん。ちょっとお母さんに電話してみるよ」
「俺の部屋使っていいよ」
椎名くんに一言お礼を告げて、スマホを片手に彼の私室へお邪魔した。カーテンの閉じられた薄暗い部屋には最新型のゲーム機がずらり、パソコンのモニターは三つ。コードがあちこちでぐちゃぐちゃになって、ちょっとお掃除が大変そうだ。
部屋の隅に寄りかかって、お母さんの携帯へ電話する。数回のコール音の後、聞こえてきたのはいつもと変わらない明るいお母さんの声だった。
『なぁに百合香、どうしたの?』
「あのね、今ニュースで新潟で地震あったって出たから、念のため電話してみたの。そっちはどう?」
『ちょっと揺れたけど全然どうってことないよ。停電もうちは無し』
あっけらかんとしたお母さんの言葉に、少しだけ心がほっとする。ニュースを見た限り大ごとではないだろうと思っていたけど、やっぱり直に言葉を聞くと安心の度合いが違うものだ。
『ただ、あんたのサーレくんの押し花が落っこちちゃっただけだわね』
笑って付け足されたそれは、私にとっては耳慣れない言葉だった。頭の中で二度反復して、それからようやく声に出してみる。
「サーレくん……?」
『なに、忘れたの? 公園で一緒に遊んでた外国人の男の子、サーレくんっていったでしょ? あんたの初恋の相手じゃないの』
「え、そうだっけ? 初恋?」
『思い出しなさいよ! サーレくんがくれたお花だって、山百合持って帰ってきたじゃない。好きな人からもらったものだって一丁前に言うもんだから、お母さんが丁寧に丁寧に押し花にして、ずーっとリビングに飾ってたでしょ』
そこでようやく『サーレくん』はともかく、お母さんの言う押し花があの額縁の山百合のことだと気がついた。でもあの山百合って、初恋の人からの贈り物だったの? 大事な人からもらったものだとは覚えていたけど、まさかそれが初恋の相手で、しかも外国人だったなんて。
「……なーんにも覚えてないな」
『もう、情緒がないんだから。この押し花もいい加減ボロボロになってきたし、あんたがそんななら捨てちゃおうかしら』
電話の向こうでガタガタと額縁を揺らす音がする。とっさに私は「待って!」と声を上げていた。
「お母さん、それ、もうちょっと待って!」
『え、何を?』
「押し花、捨てるの……」
今の今まで記憶の片隅に追いやっていたようなエピソードだ。山百合の押し花も、初恋の人の名前も、結局のところどうでもいいことなのかもしれない。
でもなぜだか私は、それを捨ててほしくなかった。理由をうまく言葉にするのは難しいのだけど、どうしても……その花に、そこに在り続けてほしいような気がしたのだ。
『……あんたがそう言うなら、とっておこうかな。これ、お母さんの自信作だし』
それからひとつふたつ話をして、お母さんとの通話は終わった。長話になりそうなところを途中で切り上げてしまったのは、大したことのない地震に安心したというのもあるけど、一番はあの名前が頭から離れなかったからだ。
初恋の相手、サーレくん。
(名前からじゃどこの国の人なのかもわかんないな)
もやもやとした気持ちを抱えたまま、私は椎名くんの部屋を出た。サーレくん。サーレくん。頭の中でその名を何度も唱えながら、リビングの扉を何気なく開いたときだった。
樹くん。
と、知らない女性。
緩やかなパーマのかかったロングヘアーに、目鼻立ちのはっきりしたインパクトある綺麗な顔。重そうな胸を強調したタンクトップに、ぴたぴたのスキニーパンツがよく似合うプロポーション。
男性向けのいかがわしい漫画からそのまま飛び出してきたような女性が、ビーズクッションに寄りかかった樹くんのお腹に馬乗りになっている。赤いネイルの映える細い指が、彼の頬のシャープなラインをひどくいやらしく撫でつける。
「百合香」
事態が飲み込めず呆然とする私の姿に気づいたらしい。樹くんと、それから女性の目線が一斉に私へ向く。見つめられるとたじろいでしまうほど勢いのある美女の顔に、私は思わずドアノブを握ったまま一歩後ずさりしてしまう。
「し、失礼しました」
「あっ、百合香、待ってくれ」
押しのけようとした樹くんの手を遮り、美女はゆっくり立ち上がった。すっかり逃げ腰の私に向かい、真顔のままずんずんと大股で近寄ってくる。
「ひぎっ!?」
美女の両手がバチンと私のほっぺを包んだ。綺麗な顔がぐんと近づく。なんかすごくいい匂い。
ぎらぎらした大きな瞳があらゆる角度から私を見つめ、やがてふいと逸れたかと思うと、
「この子、玲一の? 樹の? まさか共用!?」
「一華ちゃん変なこと言わないでー」
キッチンから顔を出した椎名くんが、女性に向かってハイボールの缶を投げ渡した。
波留くんと正式にお付き合いをしていくにあたり、私は三つの条件を課した。
「ひとつ。何か行動を起こすときは、必ず事前に相談すること」
行動? と、きょとんとする波留くんに、以前もらったものを差し出す。金色の糸で『悪縁切』と刺繍されたお守り。その口を指先でこじあけて、波留くんの手のひらに中身を突きつける。
「こういうGPS発信機とか……なんかこう、劇団とか! そういう変な行動をしたいなって思ったら、ちゃんと先に相談してってこと!」
「……そんなに嫌か? GPS」
心の底から不思議そうな顔をする波留くんを見ていると、まるで私の方がおかしいような気持ちになってくる。いや待て待て、そんなはずはない。だいたいコレってストーカー対策というより、ストーカー本人が使うもののはずでしょうが。
波留くんはスマホを片手に何やらアプリの検索をしている。『カップルで位置情報を共有』みたいな文字が横切ったけど、見なかったことにして次へ行く。
「ふたつ。椎名くんと三人でいるときは、友達同士に戻ること」
「えっ」
波留くんが目を見張る。でもこれは仕方のないことだ。
「友達同士って……それだと、何もできないだろ」
「何もしないよ」
「本当に何も? キスは?」
「だめだよ。手を繋いだりもなし」
……呆然と虚空を眺める波留くん。どうやら、思ったよりも大きなショックだったらしい。
確かに、彰良の件がきちんと片付くまで、私たちは椎名くんの家でお世話になり続けるだろう。そうするとどうしても、ほとんどの時間を三人で過ごすことになるわけで。
(恋人らしいことができるのは、当分先になるだろうなぁ)
でも椎名くんの目の前でべたべたくっついてこられたら、恥ずかしい思いをするのは私の方だ。寂しい気持ちをぐっと飲み込み、三本目の指を立てる。
「みっつ。椎名くんに優しくすること!」
五秒ほどたっぷりの間を置いて、波留くんがこてんと首を傾げた。
「椎名に……優しく……?」
「従兄弟同士っていうのは聞いたけど、波留くんはちょっと椎名くんへの配慮が足りないよ」
「……配慮……?」
なんで急に日本語ワカリマセンみたいな顔をするのかな。
これはある意味一番大事だ。ここ最近の様子を見た限り、波留くんの椎名くんへの扱いはなかなかにひどいものばかり。もちろんその、やきもちを焼いていたというのも少しはあるだろう。でも、今の私たちは椎名くんの優しさに甘えている真っ最中なのだ。
椎名くんがいるであろうお風呂場の方を一瞥し、私は再び波留くんへと向き直る。
「ただでさえ私のせいで、椎名くんにたくさん迷惑かけてるんだから。私も気をつけるけど、波留くんにももっと椎名くんに優しくしてほしいの」
波留くんはしばらく難しい顔をしていたけど、やがて根負けしたみたいに「わかった」と低くうなずいた。
とりあえず、今話しておかなきゃならないことはこれですべてかな。私がひと段落ついたのを見て、ここぞとばかりに波留くんが背筋を伸ばす。
「じゃあ、俺からふたつ」
なんだろう。GPSアプリなら嫌だなぁと身構えたけど、
「ひとつ。名前で呼び合いたい」
思ったよりもまともな提案に、正直拍子抜けしてしまった。
ああ、そうか。恋人同士だもの。昔お付き合いしていた頃は、確かにお互い名前で呼び合っていた気がする。
期待のまなざしで見つめられて、少しお尻がむずむずする。
「い……つき、くん」
「百合香」
切れ長の瞳を弓なりに細め、波留くんは……樹くんは、心から嬉しそうに微笑んだ。
たったこれだけのことなのに、私の顔がみるみる桃色に染まっていく。どうしてだろう。昔はもっと、自然な感じで名前で呼び合っていたはずなのに。
「ふたつ。遠慮しないで、いつでも俺を頼ってほしい」
これはもう、今まで何度も繰り返し言われていたことだった。
遠慮しすぎない。卑屈にならない。甘えるときはきちんと甘える。
私たちはただの友達から、恋人に逆戻りした。今までよりもずっと堂々と頼りあっても良い間柄だ。
「わかった。何かあったら、きちんと相談する」
「ああ」
「樹くんもだからね。ちゃんと私に相談してね」
「そうさせてもらう」
扉の開く音がして、濡れた髪をタオルでまとめた椎名くんがリビングへ来た。向かい合って座る私たちへ目をやり、隣を素通りして冷蔵庫からビールを取り出す。
「条件のうち3分の2が俺ってちょっと笑えるね」
「聞こえてたの?」
「まあ。そんなに気を遣われなくてもいいけど、中原が俺に優しくしてくれるならちょっと期待しちゃおうかな」
言いながら椎名くんの視線は樹くんへ。これは間違いなく、私をからかうふりをしながら樹くんをおちょくっている顔だ。
そして案の定、樹くんはこめかみにわかりやすく青筋を立てて椎名くんをじいっと睨んでいる。でも一応、これは我慢している方なのかな? 椎名くんに優しくしてねと、しつこく言ったのが多少は効いているのかもしれない。
「料理でも掃除でもなんでもやらせていただきますとも」
私が両手で力こぶを作ると、椎名くんは少し苦笑して濡れた前髪をかきあげた。
*
「それじゃあおやすみー」
椎名くんが部屋の電気を消す。
三人同時に布団に入るのは、なんだかちょっと新鮮だ。今まではどうしても生活リズムのずれがあって、みんなの寝る時間は基本バラバラ。特に樹くんは帰りが遅いから、たいていの場合は私が先に眠ることが多かった。
壁にぴったり張り付いて静かに耳を澄ませていると、少しもしないうちに椎名くんの小さな寝息が聞こえてくる。これは最近知ったことだけど、椎名くんはすごく寝つきがいい。少しのお酒で朝までぐっすり。ある意味うらやましい体質だ。
(でも、私が椎名くんの立場だったら、緊張して眠れないかも)
そう思いかけた瞬間、この状況の妖しさに気づき、全身にじわりと汗がにじんだ。薄暗い部屋。隣り合わせで眠る恋人。右側から漂う空気が夏のアスファルトみたいに熱い。
「百合香」
かすれた声。
振り返ってはいけないと、わかっているのに逆らえない。
「椎名が寝た」
「……寝た、ね」
波打つシーツに頬をうずめて、樹くんは甘えるように言う。
「そっちに行きたい」
私は無言で唾を飲み込む。確かに彼が横になる位置は、二枚のマットレスのふちが当たってとても寝づらい場所だ。どうせ眠るなら平たい場所がいいのは当然のことだろう。
でも、これはそういう話じゃない。
そんなことくらい、私にもわかっている。
「百合香」
椎名くんがいるからだめだよ、と。
本当は言わなくちゃいけない。でも早打つ心臓の音に急かされ、私は気づけば小さくうなずいていた。
軽く起き上がった樹くんの身体が、少しずつ距離を縮めてくる。シーツを擦る音。マットレスの軋み。うつむく私を覆う暗闇がよりいっそうの濃さを増して、薄暗い視界がただひとり、樹くんでいっぱいになる。
額が温かな胸元に触れ、次に背中を抱き寄せられた。頬までぴったり彼の胸板におしつけられて、薄いシャツ越しに心臓の音が聞こえてくる。
ふいに吸い込んだ空気に混ざる、樹くんのにおい。鼻から直接脳へ届いて、触れられたら困るところをダイレクトに揺さぶってくる。
熱い。
「わ……わたし」
「ん?」
「手、どうしたら、いい……?」
自分の胸の前で小さく閉じたまま、すっかり行き場を失った両手。
樹くんは私の手をちらと見て、それから耳元でいたずらっぽく囁いた。
「触りたいところを、どこでも」
ぎゅうっと唇を噛んだ私の、耳まで真っ赤になった顔を見て、樹くんがくつくつ笑うのがわかった。くやしい。でも、どうやれば仕返しになるのか、茹だった頭では到底思いつきそうにない。
でも私だって、別にピュアな乙女じゃないんだ。少しだけむきになりながら、おそるおそる樹くんの背へ腕を回す。
大きな背中。ごつごつしていて、少ししっとりしていて、触れているだけで彼の熱を感じる。両腕を開いたことであらわになった胸の隙間は、樹くんが私の背中を強く抱き寄せてすぐに埋まった。
ぴたりとくっついた肌と肌が、呼吸に合わせてわずかに上下する。それももう、私の呼吸なのか彼の呼吸なのか、すっかり混ざり合ってわからない。
「こっち」
大きな手に重ねられた手のひらが、樹くんの首筋へと導かれた。そうっと両腕を樹くんの首へ回す。自然、身体が少し上がって、胸と胸とが直接触れ合う位置になる。
間近で絡まる視線。
ひと呼吸おいてから、どちらともなく目を伏せる。
本当にただ触れるだけの、子どもみたいに優しいキスは、自分でも信じられないくらい穏やかで心地よかった。全身に溜まったストレスが溶け出して、身体の中が甘い空気でいっぱいになる。緊張でこわばった四肢が少しずつ緩んでいくのがわかる。
(気持ちいい)
少しずつ角度を変え、深さを変え、ただひたすら唇を押し付けあう。それだけでもう、あたたかな海の中でぼんやりと浮かんでいるみたいに快い。
(このまま、眠って、しまいそう……)
鼻でゆっくりと呼吸しながら、おだやかな睡魔に抗うように、ほんの少しだけまぶたを開ける――
瞬間、間近に見えた切れ長の瞳が孕む欲の熱っぽさに、私は思わずハッと目を見開いてしまった。
私の驚きを読み取ったのだろう、樹くんは目元で少しだけ笑うと、唇を唇で塞いだままゆっくりと体勢を変えた。抱かれた背中がマットレスに沈み、首に絡めていたはずの腕は彼の両手に縫い付けられる。
いつきくん、と言いかけた刹那、唇がひらくのを待っていたように舌先が中へ侵入した。逃げる舌が絡めとられて、唾液がちゅ、と音を立てて混ざり合う。とっさに傍らの椎名くんを見ようとしたけれど、咎めるみたいに両手で顔を掴まれた。
――今は、俺だけ。
燃え上がるような熱い瞳にまっすぐに見つめられて、自分の足先がシーツを蹴って軽く跳ね上がったのがわかった。
嚙みつきあう唇の隙間から濡れた吐息がこぼれ落ちる。
触れられてもいない下腹部が何かを待ちわびるように揺れる。
だめだと叫ぶ理性を無視して身体は素直に悦び悶える。
(のみこまれる)
もう無理――と思ったとき、ふいに唇が離れたと思うと、身体を起こした樹くんがぐいと手の甲で口元を拭った。冷たい空気が肺へ一気に流れ込む。私も彼も荒い呼吸で、ただ静かに見つめあう。
「ごめん」
切なく陰った表情は、熱の終わりを如実に物語っていた。
ほっとした反面、身体の奥ではやっぱり灯火がくすぶっていて、私は自分をごまかすように少し内腿をすり寄せる。
「樹くん、もう少しだけ……」
「わかってる」
私の頬にキスをして、樹くんは苦しそうに微笑んだ。
「今までずっと耐えてきたんだ。もう少しくらい我慢できる」
……このときの私の気持ちを、どう言い表せばいいだろう。
わかってない。わかってないけど、どうしようもなく彼は正しい。
樹くんの節くれだった指先が、汗で少し湿った私の髪を軽く撫でる。それから椎名くんの寝姿を確認して、彼はゆっくりと立ち上がると廊下の方へと歩いて行った。
どこにいくの、なんて野暮なことを聞く気はない。私は壁際に寄って、彼の寝る方へ背中を向けて丸くなる。
我慢、我慢。椎名くんと三人でいるときは、友達同士に戻ること。
私が言い出した条件だ。もちろん忘れてなんかいない。でも。
(身体が熱い)
今夜は私の方が――眠れないかもしれない。
*
樹くんは――
一生懸命『待て』をしている。
こういうと恋人を犬扱いしているのかと言われてしまいそうだけど、実際私は時々樹くんが大型犬か何かに見える。椎名くんに茶化されたときは、私の方をちらと見やって振り上げたこぶしをそっと下ろす。私と視線が絡み合ったときに椎名くんがやってきたら、むっと険しい顔をしながらも渋々目線を逸らしていく。
彼なりに精一杯の我慢をしてくれているというのが、見ているだけで手に取るようにわかるから少し面白い。そして、そのおあずけされている餌というのが私自身のことだと気づき、恥ずかしくなるところまでがワンセットだ。
ほら、今も。
「百合香」
囁くような声につられて顔を向けてみれば、切れ長の瞳を少しだけ下げた樹くんと目が合う。椎名くんはトイレへ立って、今このリビングは二人きり。
「すぐ戻ってくるよ」
「大丈夫」
大きなビーズクッションを挟んで、肘と肘がぶつかりあう。一瞬だけ視線が絡み、トン、と触れるだけのキス。
そしてまた再び前を向く。映画CMの銃撃戦が、派手なフラッシュで色づく頬を隠してくれる。
ささいな、幸せ。
たったこれだけで不思議なくらい満たされた気持ちになるのだから、私も単純な人間だ。
「ねえ、誰か共用メモに『トイレットペーパー』って入れといて……ん?」
椎名くんの声と重なって響いた、けたたましいアラーム音。
日曜朝のニュースの上に流れているのは、緊急地震速報の文字。震度は4、場所は北陸……と、その中に馴染んだ地名を見かけて目が覚める。
「新潟だって。中原、実家だよね?」
「うん。ちょっとお母さんに電話してみるよ」
「俺の部屋使っていいよ」
椎名くんに一言お礼を告げて、スマホを片手に彼の私室へお邪魔した。カーテンの閉じられた薄暗い部屋には最新型のゲーム機がずらり、パソコンのモニターは三つ。コードがあちこちでぐちゃぐちゃになって、ちょっとお掃除が大変そうだ。
部屋の隅に寄りかかって、お母さんの携帯へ電話する。数回のコール音の後、聞こえてきたのはいつもと変わらない明るいお母さんの声だった。
『なぁに百合香、どうしたの?』
「あのね、今ニュースで新潟で地震あったって出たから、念のため電話してみたの。そっちはどう?」
『ちょっと揺れたけど全然どうってことないよ。停電もうちは無し』
あっけらかんとしたお母さんの言葉に、少しだけ心がほっとする。ニュースを見た限り大ごとではないだろうと思っていたけど、やっぱり直に言葉を聞くと安心の度合いが違うものだ。
『ただ、あんたのサーレくんの押し花が落っこちちゃっただけだわね』
笑って付け足されたそれは、私にとっては耳慣れない言葉だった。頭の中で二度反復して、それからようやく声に出してみる。
「サーレくん……?」
『なに、忘れたの? 公園で一緒に遊んでた外国人の男の子、サーレくんっていったでしょ? あんたの初恋の相手じゃないの』
「え、そうだっけ? 初恋?」
『思い出しなさいよ! サーレくんがくれたお花だって、山百合持って帰ってきたじゃない。好きな人からもらったものだって一丁前に言うもんだから、お母さんが丁寧に丁寧に押し花にして、ずーっとリビングに飾ってたでしょ』
そこでようやく『サーレくん』はともかく、お母さんの言う押し花があの額縁の山百合のことだと気がついた。でもあの山百合って、初恋の人からの贈り物だったの? 大事な人からもらったものだとは覚えていたけど、まさかそれが初恋の相手で、しかも外国人だったなんて。
「……なーんにも覚えてないな」
『もう、情緒がないんだから。この押し花もいい加減ボロボロになってきたし、あんたがそんななら捨てちゃおうかしら』
電話の向こうでガタガタと額縁を揺らす音がする。とっさに私は「待って!」と声を上げていた。
「お母さん、それ、もうちょっと待って!」
『え、何を?』
「押し花、捨てるの……」
今の今まで記憶の片隅に追いやっていたようなエピソードだ。山百合の押し花も、初恋の人の名前も、結局のところどうでもいいことなのかもしれない。
でもなぜだか私は、それを捨ててほしくなかった。理由をうまく言葉にするのは難しいのだけど、どうしても……その花に、そこに在り続けてほしいような気がしたのだ。
『……あんたがそう言うなら、とっておこうかな。これ、お母さんの自信作だし』
それからひとつふたつ話をして、お母さんとの通話は終わった。長話になりそうなところを途中で切り上げてしまったのは、大したことのない地震に安心したというのもあるけど、一番はあの名前が頭から離れなかったからだ。
初恋の相手、サーレくん。
(名前からじゃどこの国の人なのかもわかんないな)
もやもやとした気持ちを抱えたまま、私は椎名くんの部屋を出た。サーレくん。サーレくん。頭の中でその名を何度も唱えながら、リビングの扉を何気なく開いたときだった。
樹くん。
と、知らない女性。
緩やかなパーマのかかったロングヘアーに、目鼻立ちのはっきりしたインパクトある綺麗な顔。重そうな胸を強調したタンクトップに、ぴたぴたのスキニーパンツがよく似合うプロポーション。
男性向けのいかがわしい漫画からそのまま飛び出してきたような女性が、ビーズクッションに寄りかかった樹くんのお腹に馬乗りになっている。赤いネイルの映える細い指が、彼の頬のシャープなラインをひどくいやらしく撫でつける。
「百合香」
事態が飲み込めず呆然とする私の姿に気づいたらしい。樹くんと、それから女性の目線が一斉に私へ向く。見つめられるとたじろいでしまうほど勢いのある美女の顔に、私は思わずドアノブを握ったまま一歩後ずさりしてしまう。
「し、失礼しました」
「あっ、百合香、待ってくれ」
押しのけようとした樹くんの手を遮り、美女はゆっくり立ち上がった。すっかり逃げ腰の私に向かい、真顔のままずんずんと大股で近寄ってくる。
「ひぎっ!?」
美女の両手がバチンと私のほっぺを包んだ。綺麗な顔がぐんと近づく。なんかすごくいい匂い。
ぎらぎらした大きな瞳があらゆる角度から私を見つめ、やがてふいと逸れたかと思うと、
「この子、玲一の? 樹の? まさか共用!?」
「一華ちゃん変なこと言わないでー」
キッチンから顔を出した椎名くんが、女性に向かってハイボールの缶を投げ渡した。