ストーカーの件を会社に話したとき、電話の向こうで椅子のひっくり返る音がした。デスクの書類をあちこちへ散らかしながら、慌てふためく社長の姿が目に浮かぶ。
『どうしてもっと早く言ってくれなかったの!』
 子どもを叱る先生みたいな口調でそう言ってから、社長は私に休業の手続きについて教えてくれた。ストーカーの件が落ち着くまでは、仕事に来なくてもいいよということだ。
 でも、うちみたいな零細企業では、私ひとりが抜けただけでも結構な痛手になってしまう。社長と押し問答の末、私の気力が回復するよう一週間お休みをするという形で決着がついた。『ゆっくり休んでね』と穏やかに言われ、少し目頭が熱くなる。
(一週間のお休みか。長いなぁ)
 あまりにも唐突な長期休暇。当然だけど、持て余してしまう。
 大手を振って遊べるわけでもなく、そもそもそんなに遊びたい気持ちでもない。結局椎名くんの家でゴロゴロしていたら、気づけば二日も経ってしまっていた。
「おはよう」
「おはよ」
 寝ぐせでぼさぼさのみっともない姿を椎名くんに見られるのも慣れた。
 かすかに漂うコーヒーの香り。ふちに茶色い飲み跡のついたマグカップが、キッチンカウンターにぽつんとひとつ残されている。
 椎名くんの家は、波留くんの職場へは少し遠い。
 自然、ただでさえ早起きの波留くんは、今までよりもっと早朝に出勤していくことになる。彼はきっと、よだれをたらして眠る私を横目に暗い部屋で身支度をして、コーヒーを一杯だけ飲み干すと家を出ていったのだろう。
 この苦い香りは、波留くんの残り香だ。
(波留くん……)
 彼のことを思うと、胸が苦しくなる。
「今日も暇そうだね」
 私の前を横切った椎名くんが、マグカップを水ですすいで食洗機へ放り込んだ。何か飲むかと訊ねられて、私は自分で用意するからと首を振る。
「こんなに長いお休みなんて久しぶりだから、やることも特に思いつかなくて」
「まあ、そうだよね。里野のことを考えると、気軽に外にも出かけられないし」
 彰良への対処として具体的に何をしているのか、波留くんは教えてくれなかった。
 でも裏を返せば、何らかの行動はすでに起こしているということだ。怖い気持ちは少しだけあるけど、私には待つことしかできない。
「中原はさ、何かやりたかったことはないの?」
「やりたかったこと?」
「そう。今までの生活の中で、同居人に遠慮してできなかったこととか。何かあるでしょ、ひとつくらい」
 やりたかったけど、できなかったこと。
 彰良と一緒に住んでいる頃は、仕事と家事で毎日が忙殺されていた。やりたいことを考える暇もなく、やらなくちゃいけないことばかりが毎日重くのしかかっていたと思う。
 波留くんと二人の生活の中では、今度は逆にあらゆる家事が私の手から取り上げられた。それは、私にとっては嬉しいことである反面、一種の物足りなさのようなものを感じていた気がする。
「あ」
 ひとつ思いついた。
 でも、これって可能なの?
 ちらと椎名くんの表情を伺う。彼は私の顔をじっと見つめて、特に返事をするわけでもなく、ただ笑顔でうなずいた。


 波留くんが帰ってくるのは、いつもだいたい九時半頃。
 時間が遅すぎるからと言って、夕飯はほとんどコンビニで済ませているらしい。
「じゃあ、迎えに行ってくるから」
 そう言って椎名くんが出て行って、けっこうな時間が経った。ひとりでテレビを眺めながら、時計の針が進むのを待つ。六時、七時、八時……。
 道路はきっと渋滞しているだろう。電車を乗り継いで帰るよりは早くなると思うけど、それでもやっぱり時間がかかることに変わりはない。
 お腹が空いた。
 でも我慢。
 やがて、うとうととまどろみ始めた頃、玄関の方から鍵の開く音が聞こえた。ただいまー、と椎名くんの明るい声がして、二人分の足音が近づいてくる。私は慌ててテレビを消すと、バタバタと髪を直して立ち上がった。
「ただい、ま……」
 スーツ姿で疲れた顔の波留くんは、ダイニングの入り口に立つ私の姿と、その傍らのテーブルとを見比べる。
 さばの塩焼き。
 さやえんどうを入れた根菜の煮物。
 小松菜のお浸しと、クルトンたっぷりのシーザーサラダ。
 茄子とわかめのお味噌汁。
 そしておまけに、真新しいベージュのエプロン姿の私。
「……これは……」
 右往左往した視線が再び戻ってくるのを待って、私は気恥ずかしさを隠して精一杯の笑顔を見せた。
「お、おかえり!」
 唖然としたままの波留くんの背中を、椎名くんがぐいぐいと押す。奪われるようにジャケットを脱がされ、ネクタイも放り出された波留くんは、促されるまま奥のダイニングチェアに腰かける。
 ちょっとテーブルが狭く感じる、三人分の食卓。
 椎名くんから連絡を貰って大急ぎで温めなおしたから、一応全部ほかほかのはずだ。
「あー、腹減った。じゃあ、手を合わせてください!」
 懐かしい、小学校の給食当番だ。思わず噴き出した私に、椎名くんも一緒になって笑う。
 波留くん一人が戸惑ったまま、でも一緒になってきちんと手は合わせてくれる。
「いただきます!」
「い……いただきます」
 勢いよく食べ始める椎名くんの隣で、波留くんは並んだお皿をまじまじと見つめている。波留くんの苦手なものはこの中に入っていないはずだけど、お口に合うかは未知数だ。味に関しては、椎名くんにたくさん味見してもらったから、問題ないと思いたい。
「えっと……波留くん、いつも帰り遅いから」
 彼の動かないお箸を見ながら、私はしどろもどろに言う。
「土日くらいしか一緒にご飯食べる機会がないなって思って。それで」
「……全部、中原が?」
「うん。一応」
 椎名くんに付き合ってもらって、スーパーで材料をすべてそろえた。このエプロンはおまけだと言って、椎名くんに買ってもらったものだ。
 久しぶりの料理は少し緊張したけど、作っていくうちにだんだん楽しさの方が勝っていった。やっぱり私、知らない間にずいぶん料理好きになっていたみたい。
「早く食べなよ。せっかく中原が作ってくれたんだから」
 波留くんは椎名くんのお椀をちらと見て、それから自分の煮物へとお箸を伸ばす。いかにも育ちのよさそうな丁寧な箸使いで、小さなれんこんが口元へと運ばれる。
 少ない咀嚼で飲み込んだ波留くんは、私のほうへ目を向けると、
「美味しい」
 と言って、ほんのかすかに微笑んだ。
 思わず漏れる安堵のため息。波留くんが作るお料理には及ばないかもしれないけど、この煮物は実家のお母さんから作り方を習った自信作だ。
(よかった。美味しいって言ってもらえた)
 安心したら空腹を思い出して、私も自分で作った料理に箸をつける。うん、悪くない。むしろ彰良と同棲していた頃より遥かに美味しく感じるのだから、人間って不思議なものだ。
「聞いたよ。お前、今まで中原に包丁すら握らせなかったんだって? こんなに料理上手なんだから、色々手伝ってもらえばよかったのに」
「……そうだな」
「俺も少し手伝ったけど、手際もかなり良かったよ。中原さえよければ、明日もお任せしようかなって思ってるんだけど」
 空っぽになったお皿を前に、椎名くんが満足そうに笑う。
 波留くんもすべてのお皿を丁寧に空にしてから、両手を合わせて「ごちそうさま」を言うと、
「あのな」
 いつもよりワントーン低い声で、滲み出す棘を隠さずに言った。
「今日はお前が迎えに来るなんて言うから、無理をして仕事を切り上げてきたんだ。明日はたぶんこの時間には帰れない」
「……あ、そう」
「俺の分はいいから、夕飯は二人で食べてくれ」
 立ち上がった波留くんが、空の食器を重ね始める。全部きれいに食べてある。でも、部屋の温度と私の心は凍りついたように冷たい。
 途中で私の顔を見た波留くんが、思い出したように小さな声でお礼を言った。私は慌ててかぶりを振り、
「食器そのままでいいよ。私やるから」
 と、波留くんの手から重ねたお皿を取り上げる。
 波留くんはもう一度お礼を繰り返し、それからふいと目を逸らすと、喉元のボタンを外しながら廊下の方へと去っていく。奥の部屋のドアがバタンと閉まる音がして、私はようやくお腹に溜まった冷たい吐息を吐き出した。
 どうしよう。
 ショックだ。
(思ったより……ぜんぜん、喜んでもらえなかった)
 いったい何がいけなかったんだろう。献立? 味付け? それとも仕事で疲れているんだから余計な気を遣わせるなってこと?
 あれこれ悩む私の手から、お皿がさっと奪い取られる。椎名くんは波留くんが消えた廊下の方へ目をやりながら、
「めんどくせえ男」
 と呆れた顔で毒づいた。





 昨夜から降り始めた細雨はお昼を過ぎても止むことはなく、重苦しい暗雲が立ち並ぶビルに覆いかぶさっている。
 向こうに見えるのは桂さんがいる病院かな。もうずいぶんお見舞いに行けていないけど、彼はまだあの部屋に一人でいるのだろうか。
 今日は、一週間ぶりの出勤日。
 多大なご迷惑をおかけして、会社で浮いてしまわないかと少し心配していたけど、みんな今までと変わらない温かさで私を迎え入れてくれた。
「それじゃあ、帰ります。お疲れさまでした」
「うん。気をつけてね、百合香ちゃん」
 いつもの鞄を肩にかけ、おじいちゃん社長に挨拶する。私以外の社員たちも皆それぞれに仕事を終えて、他愛ない雑談をしながら帰りの支度を始めている。
(今日の夕飯は何にしようかな)
 ぼんやり考えながら曇天を見上げる。ここ最近、私は椎名くんの家のキッチンで好きなように料理をやらせてもらっていた。料理はやっぱりストレス発散になる。それに、常に家に誰かがいてくれるという安心感も、メンタルの維持にうまく繋がっているのだと思う。
 でもやっぱりあの日以来、私と波留くんはほんの少しだけぎこちない。
「う、わっ」
 ごちゃごちゃ考えながら階段を下りていたせいか、私は途中で段を踏み外すと危うく地面に転びそうになった。ビルの入り口にいつもの赤い車が停まっている。椎名くんはいつも、私が外で待たずに済むよう少し早めに迎えに来てくれるのだ。
 転びかけたところ、見られてたかな。恥ずかしい気持ちを横にやりつつ、椎名くんの車へ駆け寄る。
「椎名くん、おまた、せ……?」
 運転席を覗き込んだ私は、窓の向こうに見えるその顔に目を丸くした。なんで、とこぼしかけた言葉を、静かな圧力におされて飲み込む。
 ハンドルを握った波留くんは、それが当然のことみたいに、隣に座るよう私を顎で促した。


 聞き慣れない洋楽。変わらない信号。沈黙の車内。
 唇を固く結んだ波留くんの横顔が、渋滞する道路を静かに睨み据えている。さっきから彼は一言も口を開かないまま。耳底に響くエンジン音だけが車内に静かに続いている。
(波留くん、怒ってる……?)
 どうして彼が何も言ってくれないのか、私はそればかりを気にしていた。もちろん、なぜ椎名くんではなく波留くんが迎えに来てくれたのかも気にはなる。でも、それ以上に不安を煽るのはこの沈黙と表情だ。
 形の良い眉を険しくひそめ、ため息と呼吸の中間みたいな吐息をふぅと漏らしながら、波留くんはどこか遠くをじっと睨みつけている。
(そういえば、波留くんと二人きりって久しぶりだな……)
 この一週間、私はずっと椎名くんと二人で過ごしていた。疲労回復という名目で海外ドラマを一日中見たり、椎名くんが持っているゲームを借りたり、あらゆる娯楽を山のように享受してぐうたら生活をしていたと思う。
 そしてその間、波留くんはいつもどおり毎日仕事に出かけていた。ハードワークをこなす彼が、だらけきった私の姿を見て何を思うかは想像に難くない。
 三人分の夕食を作ったあの夜を思い出し、身体の奥がまだ冷え始める。私が楽しく、かつ波留くんに喜んでもらえればと思って挑戦したことだけど、思い返せばちょっと軽率だったかもしれない。
(うう、胃が痛い)
 私の両手は自然と膝へ。説教を受ける子どもみたいに肩が縮こまってしまう。
「仕事が」
 突然波留くんが口を開いた。
 ワイパーの音にもかき消されるくらい小さく、低い声だった。
「早く終わったんだ。だから迎えに来た」
「そ、そっか。ありがとう」
 再び沈黙。
 どうしよう。すごく気まずい。これ以上話が続かない。
 波留くんも波留くんで会話を繋げようとはせず、揺れるワイパーをただ無言で眺めている。伏せ気味のまつげが微動だにしないのがすごく綺麗で、そして怖い。
「……あれ?」
 思わず声が漏れたのは、いつの間にか窓の外を流れる景色が見慣れないものに変わっていたからだ。椎名くんの家へ向かう道でも、波留くんの家につながる道でもない。
「帰り道、こっちじゃないよね」
「そうだな」
「どこか行くの?」
「…………」
 戸惑う私をそのままに、車は海岸線沿いをまっすぐに進んでいく。そうしてやがて、道端にぽつりと作られた駐車場でようやくその足を止めた。海浜公園という名前こそついているものの、遊具もなければ芝生もない、ただ綺麗な浜辺へ降りられるだけの小さな小さな公園だ。
 淡い夕暮れが見渡す限りの水平線に広がっている。人の姿がほとんど見えないのは、たぶんついさっきまで雨が降っていたからだろう。
 波留くんが車を降りたのに倣って、私も濡れたアスファルトに立った。波留くんは私がついてきているのを確認しながら、浜辺の方へと石の階段を下りていく。
 ざあざあと波音。
 雨上がりの少し肌寒い空気が心地よい。
 波打ち際を並んで少し歩いてから、ふいに波留くんは足を止めた。一歩前へと出た私が振り返る。波留くんは、怒るというよりつらそうな、苦しそうな表情で、私の足元をうつむき加減に見つめている。
「いきなり連れてきて、悪かった」
 長いまつげが一旦伏せられ、険しいままにまた開いた。
「二人で暮らしていた時が、本当に楽しかったんだ。ただのルームシェアだとはわかっていたけど、俺にとっては朝起きるだけで幸せで、何もかもが新しくて」
「…………」
「もちろん椎名には感謝しているよ。いきなりだったのに事情も全部飲み込んだ上で、なんでも力になってくれた。本当にありがたいと思ってる。ただ」
 そこで言葉を切り、波留くんはこぶしを小さく握った。
「どうしても……二人きりになりたくて」
 海から吹く冷たい風が、彼の黒髪をざあと巻き上げて消えていく。
 切れ長のまなざしに宿るのは、いつもの余裕ある笑みじゃない。焦り、苛立ち、羞恥……いろいろな感情がないまぜになって、今にも爆発してしまいそうな、少年のような彼の素顔。
 そして、それを見つめる私の顔だ。
「俺が仕事をしている間、きみはずっと椎名と二人でいただろう。仕事を終えてきみの寝顔を見ていると、椎名がいちいち教えてくるんだよ。今日はあんなことをやった、こんな話をして笑ったって」
「うん……」
「それは仕方のないことだと、他意はないんだと、頭では理解できる。でも、気持ちの方はやっぱりつらくて……どうしてそこにいるのが俺じゃないんだろうと、やりきれない思いがした」
 そこで一度言葉を切り、波留くんは軽く目を伏せた。
 胸にわだかまる苦しみの奔流を、必死で抑え込んでいるように見えた。
「運転しながら、ずっと考えていたんだ。このまま真っすぐ家に帰れば、また三人で過ごすことになる。だから、家へ帰らない口実とか、このまま二人で出かける言い訳とか、少しでもいいから何かないかって」
「…………」
「でも何も思いつかなくて、気づいたらこんなところまで車を走らせてた。結局きみに何も言わずに、攫うみたいな真似をして……」
 短い前髪をくしゃとかき上げ、波留くんは声を押し殺すように、低く、短く言い捨てた。
「格好悪い……」
 緩やかなさざ波が、浜辺と海のはざまで寄せては返すを繰り返している。
 その向こうの水平線では、ちょうど夕陽が水面の彼方へと沈み始めたところだった。青い海の奥が橙に染まり、入れ替わりに空から少しずつ夜の帳が降りてゆく。
 私の足元を行き来していた波留くんの瞳が、伺うように、ためらい気味に私の方へと向けられた。私は――もう、ありのままでいいと思った。彼を落ち着かせるための演技とか、帰り道に気まずくならないための芝居とか、そういうのを全部かなぐり捨てて、私の心がそのまま映る素直な感情を言葉にした。
「かわいい」
 それが私の、本音だった。
「か、……え?」
「波留くんのこんなかわいいところ、初めて見たかも」
「かわいい? ……俺が?」
「うん」
 もしかして、今まで一度も言われたことがなかったのだろうか。波留くんは明らかに戸惑いながら、視線をあちこちに泳がせている。珍しい顔。そこがまた、私の胸を刺激する。
「かわいいよ、すごく。いつもの格好いい波留くんも素敵だけど、こういう波留くんも私は好き。一生懸命考えて、それでもうまくいかなくて、行き当たりばったりで行動して、しかも最後に謝るなんて……もうめちゃくちゃだよ」
 う、と唇を結んだ波留くんが、気恥ずかしそうに目を逸らす。
 私は一歩前に出て、少し背伸びをして腕を伸ばした。波留くんの両頬を手のひらで包み、私の方へ向けさせる。
「波留くんの弱いところを、やっと見せてもらった気がする」
 波留くんの困惑した瞳に、私の顔が映っている。清々しい、素直な微笑み。きっと、ずっと前から心に芽生えていた、後ろ向きで内気な私の本心。
 両手を降ろす。
 無限に広がる水平線に、夕陽が今、飲み込まれようとしている。
「波留くん」
「……はい」
「私のこと、好きですか?」
 一瞬息を飲んだ波留くんが、表情を正して私を見つめた。
「はい」
 いっさいの曇りのない、自信に満ちた言葉だった。


「私も、波留くんが好きです」


 冷たい潮風はいつのまにか止み、あたりは夕凪の静寂に包まれていた。
 夕陽の消えた水平線に橙色の影を残して、空と海とがその両端から深い夜闇に覆われていく。
 波留くんの長い指が、私の頬にそっと触れた。それを合図に、私も少しだけつま先を立てて背伸びする。
 夕陽の名残が消える海を背に、私たちの唇が重なった。





 椎名くんには、あえて話はしなかった。
 でもバレた。速攻だった。
「なんでわかったの?」
「顔に出すぎ」
「私が? 波留くんが?」
「両方だよバカップルめ」
 けっ、なんてつまらなそうに吐き捨てながら、椎名くんは波留くんの膝を踏む。漏れるうめき声。波留くんは今、椎名くんの車を無断で使った罰として、かれこれ二時間正座をさせられている。
 そういえば弓道部では、遅刻や無断欠席、自分の弓具の片づけ忘れがあったときは、罰として道場で正座をさせられていたっけ。懐かしいなと思いつつ、自然と笑みがこぼれてくる。
「丸く収まったならそれでいいけど、俺ん家で変なことしないでよね」
「絶対しないです」
 椎名くんの家の椎名くんのマットレスで椎名くんと三人で寝ながら変なことって、もう物理的にできるはずがない。
 ああでも、私たちだって大人のお付き合いなのだから、当然いつかはそういうことをするようにもなるだろう。そうしたらその、椎名くんの家でできないのは当然として、やっぱりそういうための場所に、行こうとか言われるのかな……。
「…………」
「俺が波留を踏む姿見て顔を赤らめるのやめてくれない?」
 別にそれを見て赤面しているわけじゃない。
「あの……椎名くん」
「なに?」
「ありがとう、色々と」
 彼が背中を押してくれたから、私は素直になることができた。
 椎名くんは軽く微笑んで、それから足に力を込める。悲鳴とも唸り声ともつかない音が、地響きみたいに漏れてくる。
「さて中原。俺は今日猛烈にオムライスが食べたい気分です」
「誠心誠意お作りいたします、部長!」
「部長、俺、そろそろ膝が……」
「お前はあと一時間正座してな」
 椎名くんはビーズクッションを引きずり出すと、これ見よがしに波留くんの目の前で横たわった。私は両腕に腕まくりをして、意気揚々とキッチンへ乗り込む。
 両膝に手をついて小さく震えていた波留くんが、少し顔を上げて私を見た。がんばれ、と唇だけで伝えると、彼も笑って軽くうなずく。
「そこ! いちゃいちゃ禁止!」
 部長の声に蹴っ飛ばされて、私はバタバタとキッチンへ。波留くんは再び真摯な顔で膝の痛みに集中する。
 でも、こんなに清々しい気持ちなのは久しぶり。窓の外に広がる街の夜景が、いつもよりずっとキラキラ輝いて見えた。