「最初は――結婚式で、中原に再会したときだった」
 美咲の結婚式のことだ。私たちが数年ぶりに再会した、あの披露宴。
「椎名が里野の名前を出したとき、中原の様子がおかしかった。顔色が優れず、言葉の歯切れも悪い。まるで里野のことに触れられたくないみたいに、話を逸らして席を立とうとする。帰りに多少の寄り道もできず、かといって少しでも早く帰りたいという顔でもない。何かあるだろうとは思ったんだ」
 キラキラ輝く新婚の美咲と、汚いワンルームのアパートに帰る私。あの日は彰良と暮らす自分の姿が、惨めで情けなくて仕方なかった。
「次に橋本(美咲の旧姓)たちとケーキを食べに行った時。ここですべての事情を知って、はらわたが煮えくり返ると思った。中原を家政婦のように扱う里野にも、自分の現状を幸せなものだと思い込もうとする中原の姿にも。奪ってやろうと思ったのはその時だ。そのために、できることはすべてやった」
 ――百合香、本当に幸せなの?
 美咲の声が昨日のことのように鮮明によみがえってくる。好きな人と一緒に過ごせるなら、それが幸せだと思っていた私。好きという気持ちに消費期限があると知らなかった頃の私。
 苦い気持ちを嚙み潰す私を見つめたまま、波留くんは淡々と続ける。
「まず里野のことを調べた。里野の警察学校時代の同期がこの春何人か出世して、そのうち一人は里野の勤務する交番の署長に決まったらしい。里野自身は昇任試験を受けることすらできず、出世レースでは完全に出遅れている。最近はいつもイライラしていて、仕事帰りの風俗通いも目撃されている。いずれ中原と破局するのは目に見えていた」
 彰良の顔を思い出し、胸が少し苦しくなる。彼はそんなこと、私には一言だって相談してくれなかった。
「そうすると中原は同棲している家を出ていくことになるが、きみの性格上、逃亡先として新婚の橋本の家は選べない。実家は新潟で気軽に行き来できる距離ではない。ホテルに連泊できるような給料でもない。だからここで俺を選んでもらうために、叔父に……不動産屋を営んでいる椎名の父に頼んで、2LDKのマンションを急いで借りた」
「俺たち従兄弟なの。知らなかったでしょ?」
 場違いなくらい無邪気な笑顔で、椎名くんがひらひらと手を振る。
「家具家電を買い替えて、中原が転がり込みやすい環境を整えながら、しばらく機を伺った。いずれ俺から里野に接触するつもりだったが、結果としてそうする前に、中原は自ら里野の元を飛び出し俺を頼ってくれた」
 そこで一旦言葉を切り、波留くんは少しだけうつむくと、嬉しかった、と小さな声で付け加えた。
「中原は……俺の想定より荒れていた。あの夜は本当に里野を殺してやろうと思ったよ。心の傷は深く、回復には時間がかかりそうに見えた。だからそれまで、中原が俺に頼りやすい状況を維持する必要があると思った。言葉と態度と行動を尽くして、きみへの好意を徹底して伝えた。きみの存在が決して俺の負担ではないと、理解してもらう必要があったからだ」
 波留くんの優しさは、何から何まで過分だった。料理でも掃除でも、これまでひとりでやってきたことを、波留くんはすべて私から取り上げ何も言わずにこなしてしまった。
 気後れするほどの優しさの波に飲み込まれながら、私は波留くんの意図を探りかねていたように思う。彼の言葉を信じていいものか、自分で判断ができずにいた。
「はじめて中原の部屋に入ったとき、パソコンに不動産サイトが映っていたから焦ったよ。あれだけ尽くしてもきみの真面目さには敵わないのかと、正直なところ驚いた。普通これだけ尽くす男がいれば、たとえ付き合う気がなくても都合よく利用してやろうと考えないか?」
「ははは……」
 思わず乾いた笑いが漏れる。波留くんを利用するだなんて、そんな恐ろしいこと私にできるはずないでしょう。
「でも俺が見た限り、中原の心の傷は癒えたというにはほど遠い状況だった。家の中では遠くを見ながらよくため息を吐いていた。会社の同僚と深酒をして帰ってきたこともある。こんな状態で中原を一人にしたら、今度は里野より性質の悪い男が近づいてくるかもしれない。だから悪いと思ったが、引っ越しをする気がなくなるよう、アマチュアの劇団を雇ってちょっとした芝居を打ってもらった」
 包丁の飛ぶ痴話喧嘩、脱走するピットブル、壁を突き抜ける歌い手の声。
「芝居の内容は完全に任せたんだが、まさかあんな奇人変人の演技をされるとは思わなかったな」
「ピットブルを脱走させる田中さんなんて人は、本当は存在しないんだね……」
「そういうことだ。俺としては、中原が引っ越しを諦めさえしてくれれば理由は別になんでもよかった」
 どうか俺の家で暮らしてほしいと、頭まで下げる波留くんの姿を思い出す。
 私は何も知らなかったけど、あの一連のくだりはすべて予定調和だったというわけだ。
「あとは少しずつ時間をかけて、中原が元気になってくれればそれでよし。その上で改めて俺とのことを考えてもらえれば、と……その矢先に、里野が再び現れた」
 波留くんと二人でショッピングモールへ出かけた帰り道。
 突然の彰良の登場に、私はほとんど震えることしかできなかった。それでも毅然とした態度で拒絶できたのは、隣に波留くんがいてくれたからだ。
「実は里野の復縁の申し出は、可能性の一つとしてあり得なくはないと思っていた。警察官は交際関係を職場へ申告する必要がある。里野が中原と別れたことも、いずれ奴の上司の耳に入るだろう。先ほども言ったように、里野は出世レースに出遅れている。上司との面談で余計なマイナスイメージを持たれるのを恐れ、面談前に中原に復縁を迫りに来るかもしれない」
「そうだったんだ……」
「ただ、これについては里野が上司に嘘をつけばなんとでもなることだ。だから可能性としては低いと考えていたんだが、奴は結局現れた。あの頃はちょうど、きみが心を開きかけてきてくれていた矢先だったから、本気であいつを恨んだよ」
 ふ、と波留くんは小さく笑う。
 それから視線を床へ逸らし、ため息交じりに声を落とした。
「先に言っておくが、対里野において俺はほとんど後手に回っている。まず俺は今勤めている事務所を辞めて、弁護士として独立事務所を立ち上げようと思った。そこで中原を事務員として雇えば、いつでも俺が傍にいられる。でも結局、俺が独立に手間取っている間に、里野の方は俺の家まで突き止めた」
 突然の彰良の来訪。大丈夫だと強がる私に、波留くんは無理やり仕事を切り上げて走って帰ってきてくれた。
 後手に回っていると言うけど、波留くんはできる範囲で本当にたくさん私のことを助けてくれたと思う。それは身体的な危険だけじゃなくて、精神的な恐怖についても同じこと。家に帰れば彼がいる。その事実が、どれほど私の心を支えてくれたことだろう。
「中原は中原で病院に駆け込んだり、きみなりに工夫して里野から逃げているのはわかっていた。だが警察はやはりあてにならないし、このまま永遠に逃げ続けるわけには……」
「ちょ、ちょっと待って。なんで私が病院に逃げてたこと知ってるの? 一度も話してないよね?」
 慌てて話を遮る私に、波留くんはちょっと首をかしげると、
「言い忘れていたが、きみに渡したお守り。あの中にGPS発信機が入っている」
 と、なんてことのないように付け加えた。
「あそこは石川(美咲の旦那)が看護師として勤めている病院だろ。だから頼ったと思ったんだが、違ったか」
「……ええと、まあ……」
 どっと脱力してしまい、私はその場でうなだれる。私の鞄にずっとついている『悪縁切』のお守りのことだ。
 お守りを受け取ったときに感じた重みは神様パワーなんかじゃなくて、中に詰め込まれたGPSの重みだったらしい。彰良に腕を掴まれたとき、ピンポイントで駆けつけてくれたのもきっとコレのおかげなんだろう。
 なんだか急に疲れてしまい、桂さんのことを説明する気力もなくなってしまう。石川くんが働いている病院だなんて知らなかったよ、私。
「それで当面の対策として、椎名に避難先の提供と中原の送迎を頼み……今に至る」
 視線が自然と椎名くんの方へ向く。椎名くんはニコと笑って、ビールの缶に口付けた。
「これですべてだ」
「本当に?」
「…………」
 いやな沈黙。
 心の中で深呼吸をして、私は波留くんをまっすぐに見つめた。
「波留くんは大学の頃、私に嫌がらせをしてきた女子を二人退学させたよね。そういうことを、今回も……里野彰良にやっているの?」
 波留くんは一瞬、嫌な記憶を思い出したように形の良い眉を寄せた。
 それからゆっくりと間を置いて、私の方へ視線を向ける。彼の切れ長の瞳の中に、覚悟を決めた私の顔が映っている。
「俺は里野を殺してやりたいと思っている」
 言い淀むことなく、彼は言った。
「でも、もう追い詰めるような真似はしない。きみが喜ばないと学んだからだ」
 その言葉は――
 たぶん彼が思っている以上に、私の心を安心させた。ほぅと吐息を漏らした私を見て、波留くんは怪訝な顔をする。私は別に彰良の無事を安心したわけじゃない。波留くんが他人を陥れるような、危険な行為に手を染めなかったことにほっとしたのだ。
「具体的にどんなことをしようとしているか、教えてはくれないの?」
「今は言えない。でも、きみに迷惑はかからないし、不快な思いもさせないはずだ」
 私は少し考えて、結局追及するのをやめた。波留くんがそういうのであれば、信じようと思ったからだ。
 重い沈黙が部屋の空気を蒸し暑いものに変えていく。波留くんはしばらく床を見下ろしていたけど、やがて力強く顔を上げると、
「中原」
 挑むような、なじるような視線で、私の瞳を貫いた。
「きみが好きだ」
 心臓を掴まれたような感覚に、私は知らずつばを飲み込む。
「きみが望もうが望むまいが、俺は死ぬまできみが好きだ。きみに幸せでいてほしい。つらい思いはさせたくない。だから俺は自分にできる範囲で、徹底してきみを守るよう努めてきた」
「…………」
「驚かせてしまったのは申し訳ないと思っている。でも、俺の行動はすべてきみの幸せのためだと知ってほしい」
 少し目を逸らし、声を落として彼は言う。
「それだけは、信じてほしい」
 ……空気が重い。
 息を吸っても肺まで入っていかないのがわかる。
 私の額ににじんだ汗が、こめかみを通って首筋へ落ちる。何も見えない、聞こえない中で、汗の流れる感覚だけが別物みたいに過敏に感じる。
 頭が痛い。
「波留くん、……」
 続く言葉は舌先にかすみ、ぼやけた視界から唐突に波留くんの姿が消えた。
 重たいものが落ちる音がすぐ耳元で反響する。私の頭が床にぶつかったんだと、気づいたときにはもう目の前が真っ白になっていて。
「中原? ……中原!!」
 彼の焦った声だけが、はるか遠くに薄れていく。





 目が覚めたとき、身体は妙に軽かった。
 白い天井に固いベッド。細いチューブを吊るす見慣れないスタンド……あれ? 私、椎名くんの家に泊めてもらっていたはずだけど……?
「起きた?」
 ハッとして傍を見ると、丸椅子で足を組んだ椎名くんが眠そうな目で私を見ていた。おはよう、と言いかけた口が、そのままあくびを嚙み殺す。
「脱水症だって。アルコールの過剰摂取と、汗のかきすぎ。あとは疲れも溜まってたんじゃないかって言われた。気分はどう? 調子は?」
「悪くない、と思う」
 軽く部屋を見回してみる。白いカーテンで仕切られたここは、たぶん病院の一室だろう。昨日波留くんと話している最中、私は意識を失って倒れてしまったのだ。
 もしかして椎名くんは、一晩中付き合ってくれていたのかな。ありがたさと申し訳なさで胃のあたりが重くなってくる。
「波留くんは……?」
「仕事行ったよ」
「そう……」
 昨日の話は、結局きちんと終わらないまま有耶無耶になってしまった。
 波留くんは今、どんな気持ちで仕事に向かっているのだろう。昨夜の切実な眼差しを思い出し、つきりと胸が痛んでくる。
「目が覚めたなら帰ろうか。体調不良で2,3日休むって会社に連絡しておきな」
 椎名くんは立ち上がると、タクシーを呼んでくると言ってカーテンの外へ出ていった。


 椎名くんの家について、敷きっぱなしのマットレスに横たわった。
 ダイニングテーブルの上には、近所のドラッグストアの袋がそのまま残されている。中に入っているのは経口補水液のペットボトル。昨日のうちに二人が買ってきてくれたのだろう。
 二人の優しさが身に染みるとともに、やっぱり心のどこかで違和感が顔を覗かせる。彼らは優しい。でも、私はこのままで大丈夫なの?
「さて。波留は夜まで帰ってこないけど――」
 ダイニングチェアに腰かけた椎名くんは、両手で自分の片膝を抱えて私の方を振り返った。
「何か俺に、聞いておきたいことはある?」
 その言葉とともに、脳に一気に血が巡り出す。
 波留くんがすべてを打ち明けたとき、椎名くんは素知らぬ顔でずっと後ろに座っていた。話の途中にも彼の名前は当然のように現れている。彼が波留くんの共犯(という言葉が正しいのかはわからないけど)であることは疑いない。
「椎名くんは……どこから、どこまで知っているの?」
 曖昧な言葉だったけど、趣旨は十分伝わったらしい。
 椎名くんは前を見たまま、
「うーん、七割くらいかなあ」
 と、相変わらずの軽い調子で答えた。
「全部とは言わないけど、だいたいのことは知ってると思う。相談もよく受けていたしね」
「……私は、波留くんの行動を……普通じゃない、と、思うのだけど」
「うん」
 ちょっと笑って、椎名くんが肩をすくめる。
「俺も同感」
「……だったらどうして手伝ったの? あのマンションを案内したのも、劇団を紹介したのも、みんな椎名くんなんでしょ?」
 椎名くんは微笑のまま首を軽くかしげている。それから、芝居がかった仕草で考え込むふりをして、
「理由は二つある」
 と、右手でピースを作って見せた。
「ひとつは、波留の行動が異常だとしても、想定そのものは正しいと思ったから」
「想定?」
「想定ってのは、例えば中原が里野の家を飛び出したら行き場がなくなるってこととか、傷心の中原は変な男に目をつけられやすいってこととか……直近に起こり得る課題、ってことかな。『今の中原にはこんな危険がある』っていう着眼点自体は正しいと思ったから、解決方法の異常さにはとりあえず目を瞑ることにした」
 ぐ、と私は押し黙る。ここは本当に、否定のしようがないくらい正しい。
 実際問題、波留くんの暗躍のおかげで私はずいぶん助けられている。この椎名くんの家に避難する手立てを整えてくれたのも波留くんだ。
「もうひとつは?」
 訊ねる私に、椎名くんの笑みが深くなる。
「俺は、波留が本気で中原を好きだと知っている」
 身体にじわと火が灯る。
 シーツを握る指先に、自然と力がこもっていく。
「たとえ異常な解決方法でも、決して中原の不利益にはならないだろうと思ったんだよ」
「…………」

 ――きみが好きだ。

 付き合っていた頃までさかのぼれば、何十回、何百回とかけられてきた言葉だった。
 今なら私も断言できる。波留くんは本当に、本当に心から、私のことを愛している。
「波留くんは、どうして……あんなに私を好きでいてくれるの?」
 無意識のその質問は、ほとんど独り言みたいに零れ落ちた。
 椎名くんは背もたれに寄りかかり「哲学的だね」なんて呟く。
「俺は基本、好意っていうのは利益のある相手にしか持ち得ないものだと思ってる」
 利益、と私が繰り返す。
 椎名くんはうなずき、正面を向いたまま続けた。
「彼女が金持ちなら豪遊できる。美女なら連れ歩けばトロフィーになる。相性が良ければ性欲を……まあこんな感じで、言い換えれば利益のない相手を好きになることなんて、基本的にはないと思うんだよ」
「うん」
「つまり中原は、波留にとって大きな大きな利益がある存在だってこと」
 大きな大きな……利益がある?
 私はまったくお金持ちじゃない。波留くんの方が高収入だ。見せびらかして歩けるほどの美女でもない。むしろ波留くんの方がずっと目立つ。相性は……別れて以来そんなこと一度もしていないのだから、利益に上がるはずもない。
「で、心当たりは?」
「まったくないです」
 椎名くんは歯を見せて笑った。
「じゃ、考えるだけ無駄だよ、きっと」
 あっさり突き放されてしまった。
 熱いこめかみをマットレスに押し当てながら、私は真剣に考える。利益。利益。どちらかというと、私なんかを好きになったところで不利益しかないような気もする。
 私は結局、波留くんからたくさんのものを受け取るばかり。私の方からあげられるものなんて数えられるほどしかない。
「利益があるから好きになるってことは、利益がなくなれば好きじゃなくなるってことでしょ?」
「そうだね。あるいは、不利益が利益を上回るか」
「自分の利益が何なのかもわからないのに、どうやってその利益を維持すればいいの?」
 椎名くんは少し目を見開き、それからニヤリと意地悪く笑った。
「維持したいの?」
 私は再び黙り込み、枕に顔を押しつける。ああもう、この人って本当に。
 椎名くんは弾けるような声で笑うと、それからゆっくりと私の方へ近づいてきた。隣に彼が寝転ぶ気配。ほんの少しだけ顔を上げると、いつもより真剣な顔が思ったよりも近くにある。
「ねえ中原。波留のこと、もう一度前向きに考えてやってよ」
「…………」
「昨日も言ってたでしょ? 嫌いな相手を追い詰めることは、中原が喜ばないからもうしない、って。あれから六年も経ってるんだよ。波留だってちゃんと成長してるよ」
 それは私だってわかっている。
 信頼と恐怖に揺れる心が、少しずつ、でも着実に傾いていることも。
「椎名くんって……何者なの?」
 最後の問いに、椎名くんはちょっとだけ驚いた表情をして、
「俺は中原の味方だよ」
 と、うさんくさくウィンクした。