リビングの半分、以前はどうやら畳の部屋だったらしいエリアに、分厚いマットレスが二枚ぴったりと横並びに敷かれている。
 そして立ちすくむ私たち。二枚のマットレスに対し、人間三人。男、男、女。
「中原、真ん中で寝る?」
「却下だ」
 私が口を開くより早く波留くんが真ん中に寝転んだ。二枚のマットレスのちょうど境目の位置に背中が来ていて、少し寝づらそうに見える。
「えー、なんで波留が?」
「椎名は信用できない」
「人の家まで押しかけてきてそんなこと言う?」
「言う」
「……中原、こいつなんとかしてよ」
 ええっと、なんとかしてよと言われても。
 私は横たわる波留くんの頭の方へ回り込み、そっと顔を覗き込んでみた。波留くんは少しだけ顔を持ち上げ、それから私の襟元を指でトントンする。
「ボタン」
「え?」
「一番上まで閉じてくれ」
 見ると、前かがみになったせいだろう、開きっぱなしのパジャマの襟元からナイトブラの紺色のレースが少しだけ見えていた。慌ててボタンを留めた私を見て、椎名くんが軽く肩をすくめる。
「そんなに露骨に警戒されると、俺もちょっと傷つくんですけど」
「あっ、私そんな、椎名くんを警戒してるわけじゃ」
「中原じゃなくて波留だよ。なに? もしかして俺が中原に手を出すと思ってるの?」
「思ってる」
 いやいやいやいやそれはない。
 波留くんとは違うベクトルだけど、椎名くんだって見た目も性格も相当高レベルなハイスぺ男子。お金だってたくさん持っているタワマン暮らしの元社長さんが、わざわざ私みたいなのに手を出すはずがないだろうに。
 慌てる私を完全に無視して、波留くんと椎名くんはじっとりした眼で睨みあっている。この二人、こんなに仲悪かったっけ? いや、むしろこれは仲良しなのか?
「だったらお二人さん、ここで一枚のマットレスで寝ますかぁ? それなら俺は一枚だけ持って自分の部屋に戻るけど?」
 波留くんの横に屈んだ椎名くんが、横たわる波留くんの身体を両手で奥へと転がした。ごろんと転がった波留くんの顔が、ちょうど私の目の前に来る。なんとなしに見つめあう目と目。同時に赤面、どちらともなく目を逸らす。
「……あーもうっ、勝手にしろっ!」
「ち、ちがっ、椎名くん! 三人で! 三人で寝よう! 川の字で!」
「波留が真ん中なら『川』じゃなくて『小』の字だよ!」
 身長170cmちょいの椎名くんは、心の底から悔しそうに枕をマットレスへ叩きつけた。


 結局この日は、椎名くん、波留くん、私の順番で、三人並んで寝ることになった。
 お酒がだいぶ入っていた椎名くんは、さんざん文句を言いながら一番最後に布団に入り、今では誰よりも早く穏やかな寝息を立てている。
 私はできるだけ壁際に寄り、どうにも冴えて落ち着かない頭で必死にひつじを数えていた。目の前には波留くんの背中。大きな身体を小さく縮めて、見るからに窮屈そうに寝そべっている。
「……波留くん?」
 ほんの小さく声をかけると、波留くんはゆっくりと私の方へ向き直った。いつもどおりの綺麗な顔は、髪の流れる向きが違うだけで、少しあだっぽく、妖艶に見える。
「どうした」
「真ん中、狭くない?」
「平気だよ」
「でも、マットの端がでこぼこしてるよ。背中、痛いんじゃない?」
 薄いシーツを敷いた程度では、マットレスの縁のでっぱりまでは隠せない。きっと寝心地が悪いはずだ。
 困ったように笑う波留くんに、私は小さく深呼吸をすると、できるだけ自然な調子を作って言った。
「こっち……来る?」
 波留くんはたぶん、言葉の意味をすぐには理解できなかったのだろう。きょとんと丸くなった瞳が、意図を理解すると同時にじわじわと形を変える。結んだ唇が一瞬開き、でもなんの言葉も言わないまま噛みしめるように口を噤む。
 胸のあたりへ伏せられていた視線が、伺うように、確かめるように、私のもとへと戻ってくる。もう一度目が合うのを待って、私はこくりとうなずいた。
 波留くんは私をじっと見つめたまま、マットレスに肘をついて上体をわずかに持ち上げた。大きな身体がにじり寄ってくる。1センチ、2センチと距離が縮まっていくにつれ、視界を覆う影の大きさと、自分のものではない、でも決して嫌ではない男性のにおいが、どんどん色濃くなっていくのがわかる。
 なんだか、くらくらする。
「中原」
 無意識のうちに身体を丸めていた私の頭上から、かすれた声が降り注ぐ。
「眠れるか?」
「わ……かんない」
 低い声が頭の中で反響する。まるで、くちびるで耳をふさがれてしまっているみたい。
 ふ、と小さく笑ってから、波留くんは囁くように言った。
「俺は、眠れそうにない」
 身体の奥がジンと熱くなる。
 おそるおそる顔を上げると、想定よりもずっと近い位置に波留くんの顔があった。ほんの少しでも身じろぎしたら、鼻先が触れてしまうほどの距離。互いの吐息が混ざり合い、溶け合ってしまいそうな距離。
 心臓の音がいつもの何倍も大きく聞こえる。これは私の鼓動? それとも波留くんの? 肌はどこも触れ合っていないのに、彼の胸の動きが、血潮の流れが、胸の中でうずく情動の熱が、手に取るように感じられる。どくん。どくん。
 どくん。


「ッッッあっくしょーい!!」


 熱っぽい空気を丸ごと吹き飛ばすほどの男らしいくしゃみで、私は一瞬で我に返ると弾かれたように背を向けた。
 椎名くんはむにゃむにゃと口を動かしながら、なんだかよくわからない寝言を上機嫌で吐いている。波留くんは……どんな顔をしているだろう。ちょっと怖くて、振り返られない。
「ご、ごめんね波留くん。私すみっこで全然平気だし、寝やすいように寝てくれていいからね」
「……ああ……」
 明らかにテンションの下がった波留くんの声に気づかないふりをして、私は胸に手を当て大きく深呼吸を繰り返す。
 危ない危ない。うっかり雰囲気に流されてしまうところだった。いや、流されても特に問題はないんだけど、……あれ? 問題なんてないんだっけ?
 いろんな疑問が浮かんでは消える私の脳内に、ひつじが一匹、ひつじが二匹、ぴょんとジャンプしては消えていく。色々な疲れが全身から泥のように流れ出して、ついでに私の身体も一緒にドロドロ、ドロドロ、溶けていく。
 鼻先にかすかに残る波留くんの残り香が、私の夢を昔日の思い出で塗りつぶし始めていた。





 18歳の春、新潟の実家を出て神奈川の大学へ進んだ私は、無駄に広い大学の敷地をひとりでうろついていた。
 多くの大学生にとって勉強と同じくらい、いやそれ以上に大切なのがサークル活動。賑やかで楽しそうなテニスサークルとか、居心地のよさそうな文芸サークルとか、数えきれないほどの選択肢の中で、私が選んだのはひとつだけ。
 弓道部だ。
 中学も高校も弓道部がなくて、好奇心だけを育てながら今日までずっと耐えてきた。大学に入ったら、私もあの弓道着を着て格好良く弓を引いてみたいと、ずっとずっと思ってきたのだ。
 容赦のない日差しに汗をかきながら、アスファルトを歩いてそれらしい建物を探す。やがて、うっそうと生い茂る木々の向こうに、それはあった。
 整えられた芝生の道と、赤茶の土を固めた土手。そこに押し込められた白い的の上に、黒色の円が三重に描かれている。
 あけ放たれた射場では、白い胴着と黒い袴をきっちりと着こなした青年が、分厚い手袋のついた右手で弦をぎりぎりと引き絞っている。
 静止した空間。
 魔法をかけられたみたいに時が止まったその中で、ふいに青年の右手が一文字を描いて外へ放たれた。
 その瞬間、


 パァンッ――


 耳鳴りがするほど軽やかな音とともに、解き放たれた矢が一直線に飛んでいく。そして一度の瞬きを終えた時、それはすでに的の中央の黒点を射抜いていた。
 青年は両手を広げたまま、嬉しくもなんともないような顔で的をじっと眺めている。そして、すっとその手を腰へ戻すと、射場の奥へと消えていった。
(すごい……!)
 テレビや動画でしか見たことのなかった本物の弓道の姿に、私はすっかり心を射抜かれていた。リュックの肩ひもを両手で押さえ、ばたばたと弓道場へ駆け寄る。焦る思いで引き戸を開けて、靴だけはきちんと揃えてから、震える足でそっと射場に踏み込んだ。
「あのっ!」
 広い射場の中にはただ一人、胴着の青年だけが立っていて、右手の皮手袋を外そうとしているところだった。さっきの彼だ。
「私、中原百合香って言います。文学部一年生です! 弓道部に入部したくて来ました!」
「えっ」
 彼は軽く目を見張ると、私の顔を凝視した。それから落ち着かない様子で辺りを見回し、更衣室の方へ向かって「先輩」と声をかける。
 更衣室からは人の笑い声こそ聞こえるものの、人が出てくる様子はない。仕方なく彼は手袋をつけたまま、真っ白な足袋で床板をかすかに軋ませながら近づいてきた。
「法学部一年、波留樹です」
 えっ、同い年?
 驚く私に、波留くんはほんの少しだけ頬を染めると、
「……よろしく」
 と言って、花開くように微笑んだ。


 波留くんは私と、何もかもが正反対の人だった。
 弓道経験者の波留くんと、大学からの初心者な私。実家暮らしの波留くんと、一人暮らしの私。友達が多く先輩からも好かれている波留くんと、基本ぼっちで人と話すのが苦手な私。
 とてもじゃないけど同い年とは思えないようなハイスペックさに、最初は馴れ馴れしく話しかけてしまったことを大いに悔やんだものだった。でも、意外なことに波留くんは気さくに、積極的に私に声をかけてくれた。
 手袋のつけ方、弓を引く姿勢、狙いをつける方法。矢を放つとき左手の親指をしょっちゅう怪我する私に、左手用の皮手袋を勧めてくれたのも彼だった。
 彼の親切は弓道のことに留まらず、土地勘のない私に駅の歩き方を案内してくれたり、時には車を出してくれることもあった。いずれにしても、思い返せば過分な優しさだったように思う。
 それでも当時の私にとって、彼の存在は自然にかけがえのないものになっていった。私は彼を信頼できる友人と感じ、ごくごくシンプルで純な好意を胸の内に育んでいた。


 弓道部の夏合宿は、大学内の古い宿舎で行われる。
 基本は弓道場で弓を引き、朝昼の食事は施設で食べる。午後の練習を終えた後は、射場にお酒とオードブルを並べで連日連夜の大宴会。
 矢道の上に置かれた古いビニールプールの中には、大きな氷やお水と一緒にたくさんの缶チューハイが浮かんでいる。先輩方はここからお酒をとり、好きに飲みながら後輩に絡んでくるわけだ。
 多くの一年生はまだ未成年だから、お酒は飲めずにジュースとオードブルを軽くつつくだけ。日頃は厳しい先輩たちが、あられもなく羽目を外す姿を、私たちは他人事のようにぽかんとしながら眺めていた。
「百合香ちゃーん、飲んでる?」
「わっ」
 射場の隅でポテトを食べていた私の隣に、男の人がどかっと座る。確か経済学部の三年生で、何度か練習を見てもらった先輩だ。
 完全初心者である私は色々な先輩にお世話になっていたけど、この人の指導は特に印象に残っている。握り方がどうのと指を触ったり、背筋がどうのと腰を触ったり、的中したら頭を撫でたり、なんというか……飛びぬけてスキンシップが多かったからだ。
「先輩、私まだ未成年なので飲めないです」
「そっか、あはは! 百合香ちゃんは真面目だね~、そういうところが可愛いんだけど。まあどうぞ、一杯」
「あの、だから私」
「いいじゃん一口くらい。ジュースと変わらないよ? ほら」
 ジュースの紙コップを取り上げられ、代わりに渡された缶チューハイ。
 誰かに助けを求めようと射場を見渡してみるけど、先輩方はみんな大はしゃぎで私に気づく人はいない。一年生は一年生で固まるか、あるいは私のように先輩のおもちゃにされるかで、どちらにしろ助けてもらえるような状況じゃなさそうだ。
「大丈夫! 酔いつぶれたら俺が宿舎まで抱っこで連れてってあげるからさ」
 戸惑う私の膝に手を置き、先輩がチューハイを私の口へと近づける。あまりにも強いお酒のにおい。逃げようとした肩を掴まれ、無理やり上を向かされた、そのとき。
「……なんだよ、波留」
「…………」
 強引な手が急に離れ、解放された私はその場にへたり込んだ。私を掴んでいた先輩の腕を、ほとんどねじるように握る波留くん。先輩は苛立たしげに波留くんを見上げ、乱暴にその手を振り払う。
「未成年への飲酒強要は立派な不法行為ですよ」
「つまんないこと言うなって。そんなのノーカンでしょ。ここ、大学の中だよ?」
「大学は治外法権を持ちません」
「だから、そういうんじゃなくて……はあ。もういいわ、萎えた」
 立ち上がった先輩は、私の方すら振り返らずに別の輪の中へと混ざっていった。波留くんは軽蔑するような目でじっと先輩を睨んでいたけど、ふいに視線をこちらへ向け、肩をすくめて苦笑する。
「平気か」
「うん。ありがとう、波留くん」
「いや。先に宿舎へ戻ろうと思うんだが、一緒に来ないか」
「そうだね。もう行こうかな」
 弓道部は上下関係がけっこう厳しい。一人で先に帰るとなるとやはり人目が気になるけれど、二人で一緒に帰るのならば多少気持ちも楽になれそうだ。
 部長と副部長に一声かけて、私と波留くんは弓道場を後にした。真っ暗闇な夜の大学を、二人並んでとぼとぼ歩く。
 いつもの賑やかさも忘れて静まり返った大学の空には、きらきら輝く夏の星々があちらこちらに散らばっている。うんと見上げて歩いていると、波留くんは少し笑って「転ぶぞ」と私の裾を引いた。
「転ばないよ」
「きっと転ぶ」
「転ばないって」
「絶対転ぶ」
「そんなこと……あっ」
 アスファルトの小さな裂け目にサンダルを引っ掛けた私は、のけぞるように空を見上げたまま思い切り前へ倒れかかった――でも、身体は地面にぶつかる前に、待っていたように差し出された腕にぼすんと抱き留められる。
「ほら」
 満天の星空を背景に、波留くんが呆れたように笑っている。
「言っただろ、転ぶって」
「負けました……」
 照れ隠しで笑いながら私は立ち上がり、波留くんの腕の中から離れようとした。でも、できなかった。彼が両手でしっかりと、でも、とても優しく私のことを抱きしめていたから。
「中原」
 そっと私の身体を離し、波留くんは私の手を握った。
 真正面から向き合った彼の、見たこともないくらい真剣な……それでいて、隠しきれないほど緊張した眼差しがまっすぐに私を射抜く。
 熱をはらんだ生ぬるい夏風が、私たちの間を通り過ぎる。波留くんの黒いTシャツが風にめくれて、脇腹に伝う一筋の汗が街灯を反射してきらめいた。
「俺と、付き合ってほしい」
 ――私が育った高校において、恋愛というのは美男美女の特権だった。
 同年代の男女があれだけ集められた狭い部屋で、恋人という称号を手にするのは本当に一握りだけ。スクールカースト真ん中以下では、候補リストに名前がのぼることもない。
 だから波留くんの言葉は、私にとって人生初の告白だった。そして私が唐突な彼の告白に対し、なんの備えも持ち合わせていなかったのは言うまでもない。平たく言えば、私はそれまで波留くんを恋愛対象として見たことがなかったのだ。
 それでも私だって人並みに恋愛に対する興味はあった。少女漫画や恋愛小説を読みながら、いつか私もこんなふうに誰かを好きになってみたいと思いを馳せたものだった。
 だから私は、……今思えばまったく失礼な話なのだけど、波留くんのことを本当に好きなのかもよくわからないまま、彼の告白を受け入れたのだ。


 波留くんとの毎日は、私にとって初めての連続だった。男の人と手を繋ぐのも、キスをするのも、……それ以上も。
 何もかも初心者な私と比べれば、波留くんは、まあ、慣れていた方だと思う。どんな場面でもまごつくだけの私に、波留くんはいつも嬉しそうに微笑みながら、必ずリードして私にすべてを教えてくれた。
 これまたごく自然に、当たり前に、私は彼にどんどんのめり込んでいった。親でもしてくれないようなお姫様扱いをしてもらえて、毎日可愛いと言ってもらえて、好きだと、愛していると囁かれて。それはもう、ものの見事に有頂天になっていたと思う。
 だから私は、気づかなかった。
 自分の足元にどす黒い影が忍び寄っていたことに。


 波留くんはとても綺麗だ。顔立ちも姿も立ち振る舞いも、何もかもが洗練されていてどこに行っても人目を引く。
 後から聞いた話では、彼の存在は入試の時点で話題になっていたらしい。数々のサークルの勧誘を断り弓道部に入部した後も、彼は『王子様』なんて呼ばれて女子の憧れの的だった。
 そんな煌びやかな彼の恋人に収まる覚悟を、当時の私はまったく持ち合わせていなかったと言える。そしてそれは、あまりにも唐突に始まった。
「ない」
「え?」
「私の矢」
 弓道場の倉庫に保管しておいた私の矢が、一本も見当たらない。
 仕方なくその日は美咲の矢を借りて練習に参加した。しばらくして椎名くんが射場の裏に落ちていたと言って、矢羽根がはさみでズタズタに裂かれた私の矢を持ってきてくれた。
 次の日は、弓を包む弓袋が水たまりに捨てられていた。
 その次の日は、私の弓道着が泥まみれで外に投げ出されていた。
 連日続く不可思議な出来事を、私は波留くんには伝えなかった。さすがに鈍感な私でも、これらの悪意の出所くらいは知っていたから。
 彼女たちの名前は……なんだっけ。シオリと、あとはチナツと言ったかな。
 私と同じく二人とも初心者で弓道部に入部した子。髪色が明るくて、お化粧が上手で、高校の頃からずっとクラスの中心にいたであろう彼女たちが、私は最初から苦手だった。
 波留くん目当てで弓道を始めた彼女たちは、素行もあまり真面目ではなかった。二人は練習の日でも、道場に波留くんがいたらずっとくっついてお喋りしているし、波留くんがいない日は「じゃあいいや」と言って帰ってしまうこともよくあった。
 そんなわかりやすい彼女たちだから、私への態度も露骨だった。すれ違いざまの舌打ちや嘲笑。遠巻きに眺めながら容姿を馬鹿にされたり、水場を使う私の足を蹴ってどかそうとしてきたこともある。
 はじめは私も相手にしないよう心掛けていたけど、あまりにも長くこんなことが続いたせいで、頭より先に心が疲弊し始めていた。私は二人の姿を見ると動悸がするようになり、人の多い日中の道場から足が遠のくようになっていった。


「百合香、変な噂を聞いたんだが」
 波留くんの方から彼女たちの話を持ち出されたのは、私の部屋で二人で過ごしていたときだった。
 安物のソファで膝を抱えたまま、私は無表情にテレビを見る。その隣で、波留くんは真摯に私の瞳を見つめている。
「ただの噂だよ」
「…………」
「そんな心配されることはないって。大丈夫」
 笑顔を作って波留くんの方へ目を向けたとき、私は思わず息を呑んだ。
 その瞳に映るのは、まったく底の見えない暗闇。どうあがいても救えない悲しみ。長ったらしい言葉で修飾したって、決して言い表せないような、深く深く深い絶望。
 どうして波留くんがここまで思い詰めているのか、……あるいは彼が何に絶望しているのか、正直私にはわからなかった。頬に重い陰影を残し、波留くんは独り言のように続ける。
「まだ、頼ってくれないのか」
 底冷えするような、亡者のうめきのような声だった。
「樹くん」
「できることは全部やってきた。思いつく限り……それでもまだ、百合香は俺に本心すら打ち明けてくれないのか」
「違う、樹くん」
 私は焦った。彼の肩を揺さぶり、うつむく顔を覗き込む。
 そうしながら、彼の悲しみが私に乗り移ってしまったみたいに、胸の奥から黒いものが溢れ、涙となって漏れ出した。
 突然泣き始めた私を見て、今度は波留くんが驚く番だった。彼は戸惑いながらも私に声をかけ、そっと背中を抱きしめてくれる。
 彼の胸に顔をうずめながら、私は本音を洗いざらいぶちまけた。あいつら嫌い。大っ嫌い。あんなことを言われた。こんなことをされた。つらい。苦しい。消えてほしい。
 普段だったら言えないような汚い言葉もたくさん使って、私は胸に巣食っていた淀みを全部波留くんに見せつけてしまった。……自然と涙が止まるとともに、顔がさっと青ざめていく。最愛の恋人に、なんて醜い姿を見せてしまったんだろう。
「いつきくん、ごめん」
 嫌いにならないで、と続けようとした唇が、まるで言葉を遮るように彼の唇でふさがれた。
 流れる涙をすくい取りながら、キスはどんどん深みを増して、私の吐息さえ飲み込んでいく。自然と押し倒された身体がソファの上で仰向いて、覆いかぶさる波留くんの顔が逆光で暗く妖しく見えた。
「いいよ」
 唇を伝う銀糸の唾液を舌先で絡めとりながら、波留くんはうっすらと微笑んだ。
「俺が全部叶えてあげる」


 授業帰りに大学の外を歩いているとき、突然後ろから肩を引っ張られた。
 振り返った先にいたのは、例の二人組の片割れ、チナツ。
(久しぶりに嫌な奴に会ったな)
 つい嫌な顔をしてしまった私だけど、彼女の様子はいつもと無礼な笑みとは違って、恐れるような、怯えるような、蛇に追われる小動物みたいな顔をしている。
「あんた、あの男に何させたの!?」
 私の襟首を掴むなり、チナツは大声で言った。
「あの、男……?」
「波留君だよ! 波留樹!」
 言われた意味がまったくわからず、私は目を白黒させる。
 構わず、チナツは続けた。
「最近ずっとシオリが学校休んでて。部活にも来ないから何かあったのかと思ったら、今日連絡来て、大学辞めて働くことになったって」
「え……」
「お父さんがやってる会社が、突然潰れたって言うの。なんか、不当解雇がどうとか、損害賠償がどうとかって言ってたけど……とにかくすごい数の人がシオリの家の前に集まって、デモみたいに大騒ぎしてたんだって。庭に石を投げてきた人もいたみたいで、シオリ、怖いって泣いてた」
「…………」
「それでシオリのお父さんが、その代表の人と話し合いをすることになったんだけど……そこに、波留君が来ていたんだって。相手側の弁護士と一緒に!」
 瞬間、あの日の波留くんの顔が脳裏にフラッシュバックした。俺が全部叶えてあげる。確か、彼はそう言った。
「これって、あれでしょ? うちらがあんたに嫌がらせしてたから、あんたが波留君に命令してやらせたんでしょ?」
「いや、そんな」
 違う、……と言いかけた声が、喉の奥へと引き戻される。
 本当に、違うの? 本当に?
 あのとき私は波留くんに、全部の本音を吐き出した。その言葉の中には、こんな未来を求めるものもたくさん含まれていたんじゃない?
「嘘つくなよ! 今度はなに、私の番なの? そんなの嫌だよ、大学辞めたくないよ! ……ねえ、なんとかして! 謝るから!」
 唾を吐きながら叫んだチナツが、突然顔を真っ青にすると私を突き飛ばして後ずさりした。
 絶望に見開かれたチナツの瞳。そこに映されているのは、紛れもなく波留くんの顔……なのだけど。
(波留くん……?)
 艶やかな切れ長の瞳からはいつもの優しさがまるで消え失せ、氷のような憎しみだけが冷たく彼女を射抜いている。もし彼が拳銃を持っていたなら、微塵も表情を変えないまま躊躇なく引き金を引くであろう憎悪と敵意と冷酷さ。今まで一度も見たことがない、凍てつくほどの陰惨さ。
「う……」
 チナツはそのまま数歩下がると、声にならない悲鳴を上げて逃げるように去っていった。
 私の隣に並んだ波留くんは、その背が本当に見えなくなるまで無言で眺めていたけれど、やがて私へ向き直ると恍惚とした笑みを見せた。
「百合香」
 そして私の耳元に唇を寄せ、睦言のように囁いた。
「嫌な奴が消えて、よかったな」


 チナツが大学を退学したのは、それからひと月後のことだった。
 大学の掲示板にはチナツと既婚者の教授が腕を組んでホテルに入る写真が何枚も掲載されていて、大学側は火消しに躍起になったという。





 目覚めた瞬間、全身にじっとりと汗をかいているのがわかった。
 頭は完全に覚めているのに、身体はまだ眠ったまま。枕もとのスマホへ手を伸ばしたいけど、上手に動かすことができない。
 嫌な夢だった。
 昔の夢だ。
(ああ、そうだ。思い出した)
 波留樹は危険な男。
 そう思ったから、私は彼との別れを選んだ。
 自分の言葉ひとつで誰かの人生が変わる恐怖。危険な行為に嬉々として手を染め、そこへ疑問も呵責も抱かない恋人。あまりにも大きく、あまりにも純真な波留くんの愛を、私は受け止めてあげることができなかった。
 私が別れを切り出したとき、彼はなんと答えただろう。目を見て話ができなかったから、彼のスニーカーの黒い紐だけは、今でも鮮明に覚えている。
 ええと、確か……


「『それが百合香の幸せになるなら』」


 静まり返った心の水面に、その言葉が波紋を広げた。
 キッチン、いや、ダイニングの方に、小さな橙色の明かりが灯っている。ダイニングテーブルを挟んで向かい合わせに座り、波留くんと椎名くんが小さな声で話をしているようだ。
「――このくらい、安いものだ」
「はあ、信じられない話だね。だいたい、いきなり『一週間以内に引っ越せる二人用の部屋を教えてくれ』なんて言うから驚いたんだよ? まあ親父は大喜びだったけど」
「叔父さんには感謝しているよ。突然だったのに良い部屋を見つけて、しかも安く貸してくれて」
「親父は波留に甘いからねぇ」
 椎名くんは笑いながら、おつまみのチーズを少しずつかじっている。
 椅子の背もたれに寄りかかり、ビールの缶を軽く左右に振りつつ、波留くんはゆっくりと長い足を組み替えた。
「でも事実、すべて俺の描いたとおりになっただろ」
「それはそうだけどさ。……ああそうそう、俺が紹介した劇団はどうだった?」
「十分役に立ってくれたよ。痴話げんかと歌い手はともかく、ピットブルは少しやりすぎだと思ったが、よくよく見たらあれは大きめの猫だったな」
「面白いでしょ。ピットブルって名前の猫らしいよ」
 引っ越し? 劇団?
 これはいったい、……どういうこと?
 混乱する私を置いてけぼりに、二人の話は続いていく。でも、目覚めたばかりの私の頭は情報の奔流に溺れて、みっともなく混乱したまま全然理解が追い付かない。
「しかし、なんでそこまでして他人をコントロールしようとするのかね。俺には到底理解できないよ」
「別にコントロールしようとしてるわけじゃない。最善の選択肢をそれとなく用意しているだけだ」
「で、その道を無理やり選ばせているんでしょ? それをコントロールって言うんじゃないの?」
「失礼だな。茨の道を行かなくても良いよう脇道を拓いているだけだろ」
「だけ、ねえ。波留は中原のことになると頑固なんだから。ちょっとは学習しろよ、大学生の頃に同じことして振られてるくせに」
 小馬鹿にしたように椎名くんが笑う。
 波留くんは長いため息をつき、それから窓の外へ視線を向けた。開かれたカーテンの奥には都会の夜景が広がっていて、波留くんの瞳はそのさらに遠くを侘しそうに見つめている。
「百合香が幸せでいてくれるなら、傍にいるのは俺じゃなくていい。そう思ったから、俺は断腸の思いで別れを吞んだんだ。でもその結果どうなった? 百合香は里野みたいなクズを選んで、結局不幸になったじゃないか」
 波留くんの右手の空き缶が、鈍い音を立ててひしゃげた。
「俺が最初から手放しさえしなければ、あんな思いはさせずに済んだのに」
 そのとき、ガサッと唐突な物音が私のすぐ手元から聞こえた。ビニール製のティッシュボックスに私の指が触れてしまった音だ。
 そしてその音は、深夜のひそひそ話を妨げるには十分だったらしい。二人の視線を頬に受けつつ、私は恐々としながら灯りの方へ顔を向ける。
「中原」
 椅子を回転させて振り返った波留くんの顔は、怖いくらいにいつも通りの穏やかさだった。
「悪い。話し声で起こしたか?」
「ごめんね、中原」
 平然と声をかけてくる二人に、なんて顔をして応えたらいいのかわからない。
 今さっき目覚めたふりをするべきか。それとも、話の内容を追及するべきか。ぐるぐる混乱する頭が私をひたすら急き立てる。
「引っ越し……した、ばかりだったの?」
 たどたどしく私が訊ねた言葉に、波留くんの表情が消えた。
「劇団って……歌い手にピットブルって、あれだよね。私の不動産巡りに付き合ってくれたときの。あれって、まさか……」
「…………」
 頭の中に散らばっていたピースが、勝手に次々繋ぎ合わさり、ひとつの大きな恐ろしい絵面を私の前に突きつける。
 いつから? どこから? まさか最初から?
 私がこれまで歩いてきた道は、自分で選んだはずの道は、すべて波留くんが用意したものだったというの?
 波留くんは本当に、本当に穏やかな眼差しをしていた。無言で椅子から立ち上がった彼が、私の方へと歩み寄る。自然と後ずさりした私の気を張った表情に気づくと、彼は私に手の届かないぎりぎりの位置で足を止め、その場に膝をついた。
「わかった。……すべて、話そう」