波留くんは非常に多忙な人だ。
 土日にお料理の作り置きをする後ろ姿からは想像つかないけど、彼は今年から仕事を始めた新進気鋭の新人弁護士。任される仕事は多岐にわたり、早朝に出勤して毎日遅くに帰ってくることの繰り返しだ。
 だからどうしても、平日の私たちはすれ違うことが多い。私が朝起きる頃には波留くんはもう出勤しているし、私が着替えてお布団でゴロゴロしている頃、波留くんはやっと帰ってきて遅めの夕食を食べ始める。
 この日も同じく、いつもどおり定時で帰宅した私は、自分の分の食事を終えると波留くんの夕食の用意を始めた。用意といっても大半は作り置きされているので、料理をタッパーからお皿へ移して、温めたらすぐ食べられるよう盛り付けるだけ。それでも波留くんは大袈裟なくらい喜んでくれるから、毎日必ず準備するようにしている。
 トマト煮込みを取り分けていると、ピンポーン、と珍しくインターホンが鳴った。聞こえもしないのに「はーい」と返事してモニターを覗き込む。
 画面には何も映っていない。
(おかしいな? 確かにピンポーンって聞こえたんだけど)
 普通ならインターホンを押した人の顔が見えるモニターには、ただ真っ暗で少しかすれた映像が映るだけ。昔懐かしのピンポンダッシュかと思ったけど、それなら玄関先の風景が映るはずだ。
 とりあえず通話ボタンを押して、何も見えないところに向かって「もしもーし」と声をかけてみた。真っ暗な画面がかすかに揺れる。
 そこで気づいた。
 誰かが指でカメラを塞いでいる。
『……百合香』
 ひっ、と喉から空気が漏れる。
 お鍋に引っ掛けたままのおたまが床へ転がり落ちた。
『今ひとりだろ? 開けてくれよ』
 彰良だ。
 間違いなく彰良の声だ。
 でも、どうしてここに。パニックのあまり声も出せず立ちすくむ私をまるで無視して、彰良は笑いながら話し始める。
『俺さ、あの喧嘩の後、昔の友達と飲みに行ったんだよ。そこでお前の話をするうちに気づいたんだ。俺たちって四年も付き合ってたんだなぁってさ』
「…………」
『付き合いが長くなれば、そりゃ喧嘩のひとつふたつするだろって、友達に笑われて。こういうときは男が折れるもんだって言われたから、わざわざお前に謝りに来たんだよ』
「…………」
『お前が洋服入れてた場所、まだちゃんと空けてあるから。もう一か月以上経ったし、お前も頭が冷えたんじゃない?』
「…………」
『なあ、なんか言えよ。……ここ波留樹の家だろ? 俺あいつに会いたくないんだよ。戻ってくる前に、さっさと帰ろう』
 話が通じる気がしない。
 いや、それ以前に、同じ言葉をしゃべっている気すらしない。
 彰良は何を言っているのだろう。あれがただの些細な喧嘩で、時間が経てば仲直りできると思い込んでいるのだろうか。
 私に言わせればあの日の喧嘩は、長年の蓄積の崩壊だった。あの日のストレスだけじゃない、四年間ずっと抑え込んできた怒りや苦しみや悔しさが、とうとう堪えきれなくなって爆発した瞬間だったのだ。
 それを、喧嘩のひとつふたつって……お前も頭が冷えただろうって……。
「もう来ないで」
 強気に言い捨てたつもりだったけど、出てきた声はやっぱり惨めに震えていた。
「私たちは別れたの。こんなところまで追いかけてこられて、本当に迷惑してる」
『……でもそれは、お前が』
「お願いだからもう来ないで。つきまとったりするのもやめて」
『……波留に何か言われたんだろ?』
「違う。全部私の意思」
 話をしている間ずっと、モニターは指で塞がれたまま。ただ、彰良が唸ったり、ため息をついたりするたびに、少しだけ画面のざらつきが揺れる。
 私は両手をきつく握りしめ、何も映っていない画面を睨みつけた。喉がカラカラに乾いている。血を吐いてしまいそうなほど。
 長い長い沈黙のあと、彰良は絞り出すような、追いすがるような声で言った。
『コンビニ弁当飽きたんだよ……』
 そのとき、不意に外からガタガタと音が聞こえた。あ、と小さく呟いた彰良が、苦々しげに舌打ちをする。
 指が離れる。そのとき一瞬画面に映ったのは、間違いなく彰良の横顔だった。左側へ消えていったから、たぶん階段の方へと向かったのだろう。隣の部屋の人がちょうど帰ってきたのかもしれない。
 風景ばかりが映るモニターから、私は目を離せずにいた。心臓が熱い。いや、痛い。蛇に睨まれたねずみみたいに両足がすくんで、一歩でも歩いたらそのまま倒れてしまいそう。
(怖い)
 まだこの辺りに彰良がいるかもしれない。
(どうしよう。すごく怖い。震えが止まらない)
 つけっぱなしだったIHコンロの電源がピーと音を立てて消えた。慌ててお鍋の方を振り返り、おたまを落としたままだったことを思い出す。
 冷水でおたまを洗っていると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。鼻で大きく深呼吸をする。いつまでも怯えてばかりじゃいられない。
 波留くんに電話をしようかと思ったけど、きっとまだ仕事中だろうからメッセージを送るだけに留めた。内容は簡素に、感情を載せずに。彰良が家の前まで来たこと、つきまとうのはやめるよう頼んだことだけを説明する。
 送信してすぐ既読がついた。それから一分もしないうちに着信が鳴った。
「波留くん?」
『すぐに帰る』
 予想外の一言、といったら噓になる。
 私はこれまで、彼の途方もない優しさと気配りの雨を、これでもかというほど全身で浴び続けてきたのだから。
『ドアに必ずチェーンをかけてくれ。家の前に着いたら電話するから』
「ありがとう、でも大丈夫だよ。まだ仕事あるだろうし、私はここでじっとしてるから」
『無理するな』
「無理じゃないよ」


『だって、怖かっただろ』


 じん、と。
 胸がほのかに熱を持つ。春の陽だまりに包まれたような、優しく心地よいあたたかさ。
 ガチガチに凝り固まった全身が少しずつほぐれていくのがわかる。私は今、安心している。さっきまであんなに不安で仕方なかったのに。
「波留くん」
 彼の言葉が、すべてを変えた。
「怖かった」
 電話の向こうで、波留くんがかすかに笑う。ドアの開く音と入れ替わりで、賑やかな夜の街の喧騒が少し遠くから聞こえてきた。
『素直に言ってくれて嬉しいよ』
 走るから一旦電話を切ると告げられ、私たちの短い通話は終わった。





 さて。
 彰良につきまとわれていたこの一か月、私だってただ泣いて逃げ惑っていたわけではない。
 波留くんに付き添ってもらって、最寄りの警察署へ相談に行った。最初に話を聞いてくれた女性警察官の方は、里野彰良の名前を出すとさすがに戸惑っていたようだけど、それでも仕事として真剣に記録をとってくれた。
 防犯のための細かいアドバイスを貰い、また後で連絡すると言われて、もう何日経っただろう。いい加減忘れかけてきた頃、見知らぬ番号からスマホに着信があったのだ。
 そのとき私は珍しく残業を終えた帰りで、すっかり日の暮れた夜の道を一人で歩いていた。すでに午後七時を過ぎている。折り返し電話を掛けたところで、警察署はもう開いていないかと思ったけど、私に電話をくれた警察官は運良く署内にいたらしい。十秒程度の保留音の後、少し億劫そうな声が聞こえてきた。
『里野本人に聞き取り調査をしたところ、そのような事実はないということになりました』
 ……この言葉を聞いたときの私の絶望といったらもう。
 理由を尋ねても本人が否定したの一点張り。提出したインターホンの録画画像も、指でカメラを押さえたものでは証拠にならないと言われれば、言い返すこともできはしない。
『ちょっと自意識過剰なんじゃないですかね』
 小馬鹿にするように鼻で笑われ、私はもう怒りを通り越して脱力してしまっていた。
 いつもと同じ荷物だけの鞄が数倍重く感じる。『まだ何かありますか』と言われ、言いたいことは山ほどあったけど「もういいです」とだけ告げて電話を切ってやった。
(だめだったかぁ……)
 彰良自身が警察官である以上、薄々予想はついていた。警察はきっと私の主張より彰良の言葉を信じるだろうと。
 言葉での警告や着信拒否、できることは全部してきたつもりだ。それでもだめだから警察を頼ったというのに、ここで断られたら後はどうすればいいのだろう。
(……こうなったらもう、波留くんに迷惑をかけないために、仕事を辞めて実家に帰った方がいいのかも)
 分厚い雲の合間に覗く大きな月を見上げながら、ふぅと小さくため息を吐いたとき、
「おい」
 急に背後から腕を掴まれたかと思うと、乱暴な力で思い切り引き寄せられた。
「あっ……彰良!?」
「お前、うちの署に言っただろ」
 ぎりぎりと腕を締め上げられて、奥歯から苦痛の声が漏れる。掴まれた手を振りほどきたいのに、痛みのあまり腕にも足にもうまく力が入らない。
「やめろよ、そういうの。困るんだけど」
「困ってるのは……私の方だからっ……」
「どうせお前が何言ったって誰も信じないし、そうやって俺の評判下げようとするのマジでやめて?」
 痛みを介して彰良の怒りが伝わってくる。ふざけるな馬鹿、と怒鳴りつけてやりたい気持ちがお腹の中で滾っているのに、明らかに力で叶わない事実が恐怖となって私を止める。ここで挑発なんてしたら、もっとひどいことをされるかも。
「ちょっとこっち来いよ」
 ぐいと路地裏に引き込まれそうになり、とっさに電柱を片手で掴む。でも結局は焼け石に水。私はか細い悲鳴とともに、そのまま物陰へ連れ込まれそうになった時だった。
 ふいに視界の端で光がほとばしったと思うと、間近でドゴッと鈍い音が響いた。掴まれていた腕の痛みがほどけるように消えていく。彰良の身体がうつ伏せのままアスファルトに叩きつけられ、ぎゃあっと悲鳴じみた声が上がった。
 唖然とする私の手首が強い力で掴まれる。反射で振りほどこうとした私に顔を近づけ、彼は――私が窮地の時に絶対に駆けつけてくれる彼は、息を切らして短く言った。
「逃げるぞ」
「……波留くん……!」
 背中を丸めたままの彰良が、肩を震わせて立ち上がろうとする。
 波留くんは私の鞄を持ち上げると、私の手を強く引いたまま全速力で走り出した。私は波留くんに引っ張られるまま、ほとんど足をもつれさせながらやっとのことで駆けてゆく。
 そのとき突然、私の胸で淡い稲光が明滅した。遠い昔の風景が洪水のように流れ込んでくる。握った手のひら。走る私。記憶の奔流に溺れる中で、山百合の甘い香りが鼻腔をくすぐり、消えていく。
 遠くで彰良の声が聞こえた。何か叫んでいるようだったけど、風の音と握った手の温もりが、すべてをかき消してくれた。


「……そうか。警察はだめだったか」
 電車の座席に並んで座り、ぽつりぽつりと話をした。警察官との電話の内容。いきなりやってきた彰良のこと。波留くんは眉間にしわを寄せ、睨みつけるほど真剣な目つきで私の話を聞いてくれた。
「彰良はもう、言葉で説明してどうにかなるような状況じゃないと思う。今だって、波留くんが来てくれなかったら何をされていたかわからないし……」
 彰良の態度はどう考えても、復縁を求める相手へのものではなかった。暴力と恐怖で相手を屈服させ、思い通りに従わせようとする、言ってしまえば躾のようなものだったと思う。
 引きずり込まれる恐怖を思い出し身震いする私の隣で、波留くんはスマホの画面をしきりに親指で動かしている。それから、ほんの小さく舌打ち。……こんなに苛立っている波留くん、ちょっと珍しい。
「あいつを殴る直前にスマホで写真を撮ったんだが、周りが暗くて顔までは上手く写せなかった。これを提出したところで、警察の態度は変わらないだろうな」
「うん、そうだね……。でも波留くん、よく私がここにいるってわかったね?」
 波留くんはほとんど上の空のようで、私の問いかけにも「ああ」とおざなりな返事をしただけだった。
 仕方なく私は背もたれに寄りかかり、今しがたの走馬灯の記憶を呼び起こす。いままでずっと忘れていた、なんだかとても懐かしい思い出が蘇りかけたような気がする。
 でも、意識して思い出そうとしても結局何も浮かんでこなくて、目に映るのは電車の広告と案内表示のディスプレイくらい。あの甘い花の香りだって、私は山百合を連想したけど、本当は近所のお庭に咲いている別の花の匂いだったかもしれない。
「中原」
 指先をくすぐる感触で我に返る。
 絡んだままの指先を無意識に弄びながら、波留くんはいつになく真剣に言った。
「里野のことは、俺が全部なんとかする。少し時間はかかるかもしれないが、すべて俺に任せてほしい」
「う、うん」
 でも、頼みの綱だった警察にも門前払いされたのに、この上さらにできることがあるのだろうか。
 心の中に疑問を浮かべる私から目を逸らし、波留くんは独り言のように付け足した。
()()()()()、危ない目に遭わせたりしないから」





 翌日、定時で仕事を終えた私は、机の上を掃除しながら重たい気持ちと戦っていた。
 一秒でも早く波留くんの家に帰りたい。でも、会社を出たらまた彰良が追いかけてくるかもしれない。
 だからといってだらだら残るわけにもいかず、むしろ暗くなればなるほど危ない目に遭う可能性だって跳ね上がる。
 波留くんだってスーパーヒーローというわけじゃないんだもの。いつもいつも私のピンチに駆けつけてくれるとは限らない。
(だめだ。気合を入れて、ひとまず帰ろう)
 大きく深呼吸をして鞄を肩にかけたとき、一足先に退勤していたおじいちゃん社長がオフィスへ戻ってきた。忘れ物かなと思ったけど、社長はひょこひょこと私のデスクへ近づくと、
「百合香ちゃん、あれ見て」
 と、窓の外を指さしてみせる。
「なんですか?」
「あの赤い車。ずぅっとあそこで待ってるから、どうしたんですかーって聞いてみたんだよ。そしたらね『中原百合香さんを待ってるんです』って」
 ん、んんん?
 慌てて窓から身を乗り出すけど、あんないかにも高級そうな車、見覚えがないし心当たりもない。
 そうこうしている間に、噂を聞きつけた他の社員たちがわらわらと窓辺へ集まってきた。「えっなに、百合香ちゃんの彼氏?」とか「若い子っていいねー!」とか、言いたい放題にぎやかに囃し立ててくる。
「いや、でも、私ほんとうに知らない車で……」
 あまりにも人が集まりすぎたのだろう。件の車も騒ぎに気が付いたらしく、運転席側の窓ガラスがゆっくり下へ降り始めた。
 そして、そこから顔を覗かせたのは――
「し、椎名くん!?」


「驚いたでしょ、中原」
 ふんわりパーマの柔らかな茶髪、女の子みたいな優しい顔立ち。でも、私の知る彼は非常に男らしい、頼りがいのある弓道部部長だ。
 椎名玲一(れいいち)
 顔を合わせるのは美咲の結婚式以来だろうか。私にとっても思い出深い男友達は、助手席に座った私にペットボトルを差し出しながら微笑んでいる。
「だいたいの事情は波留から聞いたよ。里野のせいでずいぶん苦労したみたいだね……ああ、勝手に色々聞いてごめん。怒ってる?」
「いや、怒ってないよ。私だって機会があれば、たぶん椎名くんに相談していただろうし」
 椎名くんの信頼できる人柄は、私もよく覚えている。彼なら彰良のこともそれなりに知っているから、相談相手としてはうってつけと言えるだろう。
「で、その……もしかして椎名くんは、波留くんに頼まれてここに?」
「まぁ、そういうこと。波留は仕事で忙しいから付き添ってあげられないってことで、これからは俺が中原の送迎係をやらせてもらうからね」
「それはすっごくありがたいんだけど、……椎名くん、仕事は?」
「俺? ニートだよ」
 爽やか笑顔で言う。
 なんともいえない表情をする私に、椎名くんも意図を悟ったらしい。「違う違う」と笑いながら慣れた手つきでハンドルを切る。
「ちょっと前に事業を全部売却してね。今はいわゆる充電期間ってやつ」
「あっ、そっか。椎名くん、大学の頃からいろいろ起業とかしてたもんね」
「そうそう。その辺のニートと一緒にされちゃ困るなぁ」
 確かにこの車だって、誰がどう見ても高級車とわかる豪華さだ。中は広くて座席はふかふか、それになんだかいい匂いがする。
 椎名くんの車に揺られながら、私は徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。確かに車で移動すれば彰良と出会う心配はない。椎名くんには本当に申し訳ないけど、ほとぼりが冷めるまで送迎をしてもらえるのなら、私にとっては涙が出るほど嬉しいことだ。
(ただ、桂さんのお見舞いには行きづらくなっちゃうな)
 病院へ逃げ込んだあの日以来、私はときどき桂さんの病室にお邪魔するようになっていた。ただ遊びに行って少しお話をして帰るだけなのだけど、それでも桂さんはいつも嬉しそうに私を迎えてくれていた。
(まあ仕方ない。色々と落ち着いたらまた遊びに行かせてもらおう)
 車の中から街を眺めていると、いつの間にか見慣れた風景が遠ざかっていることに気がついた。ここはどこだろう、隣町? 標識の名前は見覚えあるけど、今まで足を踏み入れたことはない高級住宅地の地名だ。
「椎名くん。私の家、こっちじゃ……」
 言いかけてカッと頬が熱くなる。『私の家』だなんて、いったい何を言っているんだろう?
 椎名くんはたぶん、私の赤面の理由に気づいたのだろう。軽く肩をすくめて茶化すように笑いながら、正面の道を顎で指す。
「まあ見てて」
 車はどんどん先へ進み、うんと顔を上げても頂上が見えないような巨大な建物の前で停まった。これは、いわゆるタワマン……だよね? チラシでなら見たことはあるけど、こんなに近づいたのは初めてかもしれない。
「荷物、持てるだけ持ってって。でかいのは俺が持つから」
 そう言うと椎名くんは車のトランクを開き、見覚えのある鞄を渡してきた。見覚えあるというか、これ、間違いなく私の鞄だ。彰良の部屋から飛び出したとき、持ち物をぎゅうぎゅうに詰め込んだ旅行用鞄。
「これ、なんで――」
 言いかけた私の目の前に現れたのは、波留くんの家に置いておいたはずの三段重ねの収納ケースで、私は思わずその場でひっくり返りそうになった。





 午後八時過ぎ、椎名くんの家にやってきた波留くんは、私の顔を見るなり眉を下げ「悪かった」と謝罪した。
 いったい何に対する謝罪なのか私は少し迷ったけど、どうやら無断でストーカーの件を椎名くんに話したことへのものらしい。それについては前に言ったように、相手が椎名くんなら別に何の問題もないことだ。
 ただ、それ以外に、説明していただきたいことがいくつかある。……たとえばこの、私の洋服のすべてが入っている収納ケースが、ここにある理由とか。
「おい椎名、お前の家こんなに狭かったか?」
「なんも変わってないよ。俺にとっては日本滞在中の拠点でしかないし」
「前は確か畳の部屋があっただろ」
「ああ、あれ? ふすまブチ抜いて、畳をフローリングにしてリビングを拡張したんだよ」
「……いろいろと想定外だな。もっときちんと確認すればよかった」
「確認したところで、どうせ俺以外に頼る相手もいないくせに」
 大きな鞄を足元に置き、波留くんは部屋を見回して難しい顔をしている。
「あの、波留くん」
「どうした?」
「私だけちょっと、状況が飲み込めていないみたいなんだけど」
 部屋の片隅で正座をしている私を見下ろし、波留くんは「ああ」と納得したようにうなずいた。
「俺()()は今日からほとぼりが冷めるまで、椎名の家で暮らすんだ」
「ええっ!?」
 ……今の驚きは、私から出たものではない。
 いや、私だって本当は同じように「えーっ!?」と声を上げたかった。でもそれより早く、絶対に驚いちゃいけない人が驚きの声を上げてしまったのだ。
 波留くんは怪訝そうな顔をし、椎名くんをじろりと睨む。
「なんでお前が驚くんだよ」
「だって、待って、聞いてない」
「ちゃんと電話で話しただろ、事情も全部説明したはずだ」
「いやだから俺は、中原だけが俺の家に泊まると思ってたの!」
 ぴしっ、と。
 何かに亀裂の入る音が、どうやら私にだけはっきりと聞こえたようだ。
 私に完全に背を向けて、椎名くんの方へ向き直る波留くん。仕事帰りの彼の背中に、いつになく危険な空気が淀み漂っている。
「俺がそんなこと許すはずないだろ……?」
 地獄の閻魔大王の声って、きっとこんな感じなのかな?
 底冷えするような低い声に震える私をまるで無視して、椎名くんは一歩も引かずに唇をとがらせている。
「だって、なんで波留までついてくるの? 中原はわかるよ、やばいストーカーに追われてるから一人にしちゃだめだって。でも波留は違うでしょ、別に狙われてるわけでもないんだし」
「あのな、冷静に考えてみろ。お前みたいな女癖の悪いやつの家に、俺が中原を一人で預けると思ったのか? 自分の(しも)の制御すらできない男の家に?」
「せ、制御できてるから。失礼だな……だいたい俺ん家、二人も人を泊めてやれるほどの用意はないよ。マットレスだって二枚しかないし、ソファはこないだ捨てちゃったし」
「買ってこいよ」
「嫌だよ!」
 なんだか懐かしささえ覚える賑やかなやりとりをBGMに、私は椎名くんにもらったペットボトルの口を開けた。
 できることならこのお茶を飲み終えるまでに、二人の喧嘩が終わってくれればいいんだけどな……なんて思いながら。