長い長い私の話を聞き終え、美咲はこれでもかというほど大きなため息を吐いた。
 沈黙が痛い。おしゃべりな美咲が、腕を組み、目を瞑り、黙っている。それがたまらなく怖い。
「いくつか質問させて」
 毎日のように上司になじられた新卒時代を思い出しつつ、私はおとなしく頷いた。
「一線は超えたの?」
「超えてない」
「キスは?」
「してない」
「結局住むの?」
「新しい家が見つかるまでだけお世話になります」
「家賃どうするの?」
「光熱水費と合わせた額を日割りで折半させてくれって頼んだ」
「わかった。じゃあ最後に」
 ドン。美咲の肘がオレンジジュースの水面を揺らす。
「百合香は波留とよりを戻す気はあるの?」
 ぐ、と喉から変な音が漏れる。脳裏に蘇るあの告白。波留くんは結局、私に答えを求めないまま、何食わぬ顔で一週間も私を部屋に住まわせてくれた。
 ――好きな女に頼られて嫌がる男などいないさ。
 私が彼と付き合っていたのは、大学時代の一年だけ。もう七年も前の話で、しかも私から別れを告げた。
 それなのに私を好きな女と呼ぶ彼は、私のどこに好意を持ったというのだろう。それに、いつから? ケーキバイキングから? 結婚式から? それともまさか、別れたときから?
「……わからない」
 だからといって、じゃあ付き合おうとあっさり言えるほど私もライトな人間じゃない。
 別れ方こそ最悪だったけど、私と彰良は四年も恋人同士だったのだ。確かに最近こそ嫌な記憶が目立つものの、楽しい思い出もたくさんあるし、ふとした折に彰良を思い出して胸が苦しくなることもある。
「今は正直、そういうこと何も考えられないんだ。ずっとこのままじゃいけないとは思うんだけど……」
「まあ、そうだよね。一応別れたばかりだもんね」
「あのさ、こんなこと聞かれて困るかもしれないけど」
「なに?」
「美咲だったら、波留くんと付き合う?」
 美咲は軽く腕を組み、難しい顔をして眉を寄せた。
「……波留が優しい人なのは知ってる。大学の頃は幹部でもないのに部活のことを手伝ってもらったし、相談だって色々聞いてくれたしね」
「うん」
「でも、付き合うのはちょっとね。単純に自分より顔の綺麗な男と並んで歩きたくないってのもあるけど、やっぱり波留って何考えてるかよくわからないところがあるから」
 そこで言葉を切り、美咲は目を逸らす。
「なんか……変な秘密を抱えてそうで、ちょっと怖くて」
 私たちの間に奇妙な沈黙が流れた。微笑む波留くんの顔が浮かんで消える。美咲が言おうとしていることが、ほんの少しだけ、私にはわかる。
 私も波留くんが、……彼の好意が、少し怖い。
「あ、ごめん。百合香の元彼なのにこんなこと言って」
「ううん、いいよ。私から聞いたことだし、正直に答えてくれてよかった」
「そっか。まあ、とにかく気をつけなよ。今の百合香は波留に莫大な借りを作っているのと同じなんだから」
 ストローを指先でいじりながら、美咲はいつになく真剣な声で言った。
「付き合う気がないなら、危機感持って生活した方がいいよ。言ってる意味わかるね?」
「わかります」
 私も両肩を小さく縮め、真摯な態度で美咲を見つめる。
 彼女は念押しするようにひとつ頷き、それからやっと表情を崩して傍らのメニューを取ると、
「ま、今はとりあえずダメ彼氏サヨナラ記念ってことで!」
 と、巨大なチョコレートパフェの塔を指さした。





「あの、波留くん。私も料理手伝うよ」
「いや、中原は休んでいてくれ。もうほとんど終わっている」
「じゃあせめて洗い物を」
「食洗機に突っ込むだけだから、わざわざやってもらうことはないよ」
 そんな感じで笑顔の波留くんに追い返されてしまった私は、たくさんのタッパーに詰められた料理を背にマイルームへと戻ってきた。
 そう、波留くんは私をキッチンに立たせない。包丁は危険だとか、水に触ると手が荒れるとか、あれこれと細かい理由をつけていつも私をリビングへ追いやる。そして自分は貴重な土日に、こうして大量の作り置きを一人でせっせと作っている。
 このタッパーは全部、平日の私たち二人の夕食になるのだから、本当は私にも手伝わせてほしいのだけど。
(これ以上波留くんに借りを作り続けるわけにはいかない。早く新しい家を見つけて、引っ越さないと)
 美咲の言葉を思い出す。付き合う気がないなら、危機感持って生活した方がいいよ。それはまったくそのとおりで、告白の返事を保留したままダラダラここに居座るなんて、波留くんにも失礼な話だ。


 じゃあ、付き合っちゃえばいいじゃない?


 心で囁く甘い声を、私は即座に悪魔と断じた。聞こえないふりをしてパソコンを開き、不動産情報の検索を始める。
 ”じゃあ”ってなんだ。”じゃあ”って。
 自分が相手を本当に好きかもわからないのに、生活のためにお付き合いするなんて私には無理。
 それに、波留くんは誰がどう見ても魅力的なハイスぺ男子だ。今でこそ私を好きだと言ってくれているけど、もっと素敵な女性が現れたら心変わりする可能性もある。
(『他に好きな人ができたから出て行ってくれ』とか言われたら、きっと私は泣くだろうな)
 だったらもう、そんなことを言われる前にこちらから離れるしかないわけだ。
 情報サイトには多くの物件が並んでいて、目ぼしいものに片っ端からお気に入りマークをつけていく。駅までの距離や周辺環境、家賃その他諸々を換算しても、正直なところやっぱり一番条件がいいのは波留くんの家だ。
 甘えそうになる心を叱咤して、不動産会社に電話してみる。出てきたのは若い社員さんで、あっという間に物件の見学まで取り付けることができた。
(これでいいんだよね、きっと)
 心に残る一抹の迷いを振り払い、天井に向かってうんと伸びをした時だった。
 ふわ、とはためくカーテンの向こうから、何か黒いものが滑り込んでくる。焦点の合わない瞳で何気なくそれを追いかけた私は、両目のピントが合った瞬間テーブルを蹴って立ち上がった。
「うわ、わ、きゃあ――――!!」


「中原!?」


 その瞬間、バンと勢いよくドアを開けて部屋に飛び込んできた波留くんは、よろける私の身体を抱き留め素早く辺りを見回した。私は真っ青な顔でわたわたと波留くんにしがみつく。
「うぁっ、は、波留く、あの、」
「どうした、中原。何があった?」
「が、が! あれ、ほら、黒い……が!」
「が?」
 私の指が示す方へ、波留くんはゆっくり視線を向ける。
 真っ白なレースのカーテンの中で、穴が開いたように真っ黒い場所。
「蛾……か」
 ひとり納得したようにうなずき、波留くんは私を部屋の隅へ追いやるとカーテンの方へと足を進めた。こぶしひとつほど開いていた網戸を全開にして、外へ向かってカーテンをゆらゆら揺する。
 ゆったりと羽を休めていた蛾は、波留くんに導かれるように素直に窓から飛び立っていった。
「行ったな」
「ありがとう……」
「カーテン洗うか? 除菌スプレーもあるが」
「除菌スプレー貸してください……」
 すっかり腰が抜けてしまった私を見て少し笑うと、波留くんはリビングから除菌スプレーを持ってきてカーテンのあちこちに吹きかけてくれた。
 それだけで心が少し落ち着いて、同時に恥ずかしさがこみ上げてくる。私いま、どさくさに紛れて波留くんに抱き着いていたよね? ああ、またやってしまった……。
「小学生の頃に、課外授業で行った自然の家で」
 除菌スプレーを軽く振りながら、波留くんは憎々しいくらい平然と言う。
「手のひらほどの巨大な蛾に追い回されて以来、苦手だと言っていたな」
「そうだけど、……私、波留くんにそんなこと話したっけ?」
「ああ。大学生の頃、初めて二人でどこかへ出かけようと誘ったとき『どこでもいいけど虫がいるところは苦手なんだ』と」
 そう言うと波留くんは懐かしそうに、それでいて少しからかうように、私を見つめてくすりと笑った。
「あの時は、どんな場所なら中原に良い印象を持ってもらえるか必死になって考えていたから、今でもよく覚えてるよ」
 だめだ、全然記憶にない。
 でもエピソードそのものは正しいし、きっと私が覚えていないだけで私は波留くんにその話をしたのだろう。本当、彼は記憶力が良い。司法試験なんかに合格しちゃう人は頭の出来が違うんだ。……そう頭では思いながらも、まったく別のむずむずするような気恥ずかしさが心をじわりと温めていく。
 こんなことまで覚えているなんて、波留くんはやっぱり、私のことが――
「中原」
 常と変わらない彼の声音で我に返り、ほのかに赤く染まった頬を両手のひらで軽く押さえた。
 波留くんは私に背中を向けて、カラーボックスの上に置かれた小さな写真立てを見つめている。
 神奈川で就職が決まったとき、新潟の両親と実家で撮った家族写真だ。私とお父さんとお母さん、そして一昨年亡くなった愛犬のモナカ。私は特別家族思いというわけじゃないけど、苦しいときや寂しいときは、この写真を見て心を奮い立たせたものだった。
「どうしたの?」
「いや……これは、実家の写真か?」
「そうだよ。実家のリビング」
「この額縁は?」
 小さな写真のさらに小さな一点を彼が指さす。写真の中で笑う私、その頭の真上に飾られた、百合の花。
「百合の押し花だよ」
 なんてことない雑談の調子で、私は言った。
「近所の公園に山百合がたくさん咲いててね。ちっちゃい頃に私が持って帰ってきたのを、お母さんが押し花にしてくれたんだ」
「…………」
「私は全然覚えてないんだけど『大事な人からもらったの』って大切にしていたらしくてさ。すごく綺麗だったから、ラミネートして飾ってくれたの。でも、何年も経てばやっぱり色あせちゃうよね」
 波留くんは形の良い唇をほんのわずかに開いたまま、まるで何かに魅入られたみたいに写真を凝視している。
 そんなに気になることがあるような写真かな。訝しく思いながら波留くんの横顔を眺めていると、彼はふいに口元を緩め、長いまつげを伏せた。
「どうしたの?」
「いや。素敵な御母堂だと思ってな」
 振り返った波留くんの顔は、いつにも増して爽やかに見えた。いつもの彼の微笑がまとうミステリアスで妖しい雰囲気が、雨上がりの青空みたいにまっさらに晴れて消えている。
「勝手に部屋に入って悪かった」
「いや、むしろありがとう。助かりました」
 波留くんはにこと笑うと、去り際、私のノートパソコンの画面へちらと目を落とした。
 切れ長の瞳にわずかに力がこもったことに、私は最後まで気づけなかった。





「いかがですか!? ここ、いいお部屋でしょう!」
 ドカバキゴトン! 痛ぇっ、何しやがるこのクソ女! キーッ黙れ浮気男! あんたなんか殺してやる! うわっ、包丁はやめろ! 助けてーっ!
「…………」



「ほら見てくださいこの景色! 素晴らしいと思いませんか!?」
 ワンワンワンワンワンワン! ああっ見ろ! 田中さんの家のピットブルが脱走したぞ! みんな逃げろ! また嚙み殺されるぞーっ!
「…………」



「こちらのお部屋はどうですか!? この家賃は破格ですよ!」
 ピー。えー、どうもおはこんばんにちは! 今日はねー、えー、皆さん待望の! 歌ってみたを! やってみたいと思います! ジャジャジャジャジャンボエエー!
「…………」





「どうなってるのこの地域」
 治安が完全に死んでいる。
 いや、痴話喧嘩と歌い手はまだ仕方ない。でもピットブルはだめでしょう、ピットブルは。世界で一番死亡事故が多い犬だよ。脱走とか絶対させちゃいけない犬種だよ。
「また嚙み殺されるって言ってたけど、もうすでに誰か噛み殺されたの?」
「いや……そういうニュースは聞いていないが……」
 カフェテラスのテーブルに両肘を突き、難しい顔で黙り込んでいた波留くんが、コーヒー越しに深刻そうな眼差しを私へ向ける。
「中原、聞いてくれ」
「うん」
「俺は中原に、痴話げんかで包丁を持ち出す女がいるアパートとか、ピットブルが頻繁に脱走する地域とか、壁が薄いのも気にせず大声でカラオケを歌う隣人がいるところには住んでほしくない」
「う、うん」
 立ち上がった波留くんが、私に向かって深々と頭を下げた。
「頼む。どうか俺の家で暮らしてほしい」
「わ、わあっ、やめてよ! そんなのされたら私の方から頼みづらくなるから!」
 慌てて立ち上がった私を見、波留くんは心からほっとしたように眉尻を下げた。周りのお客さんが私たちを見ながらひそひそ小声で話している。私はできるだけ笑顔を作りながら、波留くんにもう一度座るように促した。
「じゃあ、今日の物件は全部なしということでいいな?」
 言われるまでもなくこんな場所ムリだ。
 身体的危険に騒音公害。それに加えて、いずれの物件も今の環境より駅まで遠く家賃が高い残念なものばかり。一日でも早く波留くんの家から出なきゃいけないとは思っていたけど、さすがに私もこんな物件では二の足を踏んでしまう。
 ちなみに三件目を見たあと案内されそうになった物件は、紹介写真にこの世のものではないものがガッツリ映り込んでいた。なんでそんな物件しかないんだこの地域。
「一緒に不動産屋さんまで来てくれたのに、ごめんね」
 このコーヒーは私からのお詫びの印。波留くんは最後まで自分でお金を出すと言っていたけど、結局私が押し切って奢らせてもらったのだ。
「いや、俺はむしろ嬉しいからいい」
 ご機嫌な波留くんに、もはや突っ込む気力すらない。
「物件探し自体は続けるつもりだから……」
「そうか……」
「なんでそんなに残念そうなの?」
「俺は中原と一緒にいたい」
 世間話のような調子で言う。
「出ていかれるなら、残念に決まっているだろ」
 返す言葉を見失ったまま、私はさまよう視線をごまかすようにカフェラテに口付ける。
 波留くんは相変わらず返事を求める様子もなく、自分のコーヒーを大事に大事に飲んでいた。


 その日の夜、いつもなら休日の夕食後はリビングで過ごす波留くんが、珍しくまっすぐ自室へと向かっていた。
 つい背中を目で追っていると、振り返った波留くんが小さく笑う。
「少し仕事が残っているんだ」
「あ、そうなんだ」
 胸に広がる罪悪感。私に付き合ってトンデモ不動産巡りなんかやらなければ、今頃とっくに仕事を終えてのんびりできていただろうに。
 テレビの中では女優さん演じる美人秘書が、イケメンの社長へおしゃれな紅茶を差し出している。きっと恋愛ドラマだろう。私は別に美人秘書でもなんでもないけど、このまま一人だけのんびりテレビを見ている気にはなれそうにない。
 冷蔵庫の二段目の左半分が私のエリア。波留くんが私のために空けてくれた場所だ。正直あまり入れるものもないので、自分用のコーヒーやお茶、サプリメントなんかを少し入れさせてもらっている。
 そこからノンカフェインのルイボスティーを取り出し、二人分のお湯を注いだ。立ち昇る独特な甘い香りは、好き嫌いは分かれるだろうけど、私はとても気に入っている。
 波留くんがいつも使っている黒いマグカップに注ぎ、お盆は見当たらなかったのでカップだけ持ってドアをノックした。返事まで少し間があいたのは、仕事が忙しいからか、それともなんて答えたらいいのか少し迷ったからかもしれない。
「どうぞ」
 さっきのドラマとまったく同じ彼の台詞に笑いを噛み殺しながら、私はそっと部屋のドアを開けた。
 広がっていたのは、モノトーンの世界。
 白いクロスに黒い床。それだけでも圧倒されるのに、部屋の家具まで大半が白と黒で統一されている。本棚には政治や経済の本が隙間なく詰め込まれていて、さらに入り切らなかったであろう本たちがデスクに山のように積み上げられている。流れる音楽は洋楽で、少し古風で落ち着いたメロディ。シックな部屋と大人びた波留くんにあつらえ向きに似合っている。
 ノートパソコンの光が、黒いデスクチェアに座った波留くんの少し戸惑った顔を、背中側から照らしていた。
「また蛾が出たか?」
「ううん、そうじゃなくて」
 恥ずかしそうに笑う私の手元へ視線をやり、波留くんはパッと眉を上げるとほころぶ口元を手で押さえた。そんなに嬉しそうにされると、こっちも少し照れてしまう。
「ルイボスティー飲んだことある?」
「いや、初めてだ」
「苦手だったら下げるから」
 湯気の香りを少し嗅いで、波留くんは赤茶の水面に口付けた。味わうように伏せられた長いまつげが、やわく緩んだ目元と同時に持ち上がる。
「たぶん美味しい」
「たぶん?」
「嬉しくて味がわからない」
 ……まったく、よくまあこんな恥ずかしい言葉がぽんぽんぽんぽん出てくるなぁ、と。
 表向きは呆れた顔をしながら、私は赤くなった耳を隠すように髪をいじる。
 美咲は波留くんのことを『何を考えているかよくわからない』と言った。確かに私も、今まではそう思っていた。
 でも今は、ほんの少しだけその印象を訂正したい。波留くんはけっこう顔に出る。少なくとも、嬉しいときは。
「じゃあ私、行くね」
「ああ、おやすみ。これは味わって飲むよ」
「また言ってくれたらいつでも淹れるから。おやすみ」
 くゆる湯気の向こうで小さく微笑む波留くんに背を向け、私はおしゃれが充満した部屋を後にした。波留くんの部屋には初めて入ったけど、見た目通りに洗練されたモデルルームみたいな部屋だ。
 容姿端麗、成績優秀、大学卒業後はストレートで弁護士になった、弓道部の『王子様』。住んでいるマンションはとても広くて家電は全部最新式。寝室は洋楽が流れるモノトーンのおしゃれ空間。つくづくフィクションの世界の住人みたいだなと思う。
 でも、強く抱きしめられた身体は、確かに熱を持っていた。


 ――波留くんは私を好きだと言った。


 その理由はわからない。でも。
(私、信じてもいいのかな)
 波留くんの言葉を。
 好きだという想いを。