――百合香、本当に幸せなの?


 美咲の言葉が頭から離れない。あの純粋無垢な、なんの駆け引きも下心もない台詞が、声音が、今日も頭で反響する。
(幸せってなんだ)
 きっと幸せ。そうに決まっていると思ったから、恋人のワンルームのアパートに飛び込んだのではなかったか。
(なんなんだ)
 カップ麺の容器や汚れた皿がつっこまれたシンクで今日も今日とて洗い物をする。
 料理は嫌いだ。中でも後かたづけが一番嫌いだ。
 それは今でも変わっていないはずなのに、こうもきちんと働いてしまうのは、このまま放置したらどんな惨劇が待ち受けているかよく理解しているからだ。洗わなければなくならない。洗えばなくなる。だったら洗うしかない、それだけのこと。
 そして何年もの時を一緒に過ごしてきたはずの恋人は、ソファに寝転がってスマホをいじっている。テレビはただのBGMらしく、音量を下げてほしいと何度か頼んだが無視され続けてきた。
 何気なく、コップにお茶を入れて差し出してみる。
 視線をくれただけで返事はない。
(ぞんざいだなあ)
 わかってはいたことだが、胸のあたりがむかむかしてくる。
「あのさ、お礼とかなんか、ないの」
「くれって言った訳じゃないし」
「そうだけどさ……なんか、こう……」
 おもむろに起きあがった彰良は、心底うっとうしそうな目で私を睨んだ。
「なんか言いたいことあんの?」
「どういう意味?」
「こないだから、ずっとこんなんじゃん。メシとか洗濯とか、何かする度にしつこく話しかけてきてさ。今までこんなことなかったのに」
「何かって……会話くらいするでしょ、普通」
「恩着せがましい感じが、嫌」
 何かの切れる音が、はっきりと聞こえた。
「恩着せがましいってどういうこと? 料理したり洗濯したりするのが恩着せがましいって?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
「じゃないならなんなの。あのね、私だって仕事あるんだよ。共働きなんだよ。同じ立場なはずなのに、どうして私ひとりで料理とか掃除とか全部やらなきゃいけないの? なんでそれを当たり前だと思ってるの?」
「別にしろなんて言ってないだろ。お前が遅いときは俺だって自分の分くらい料理するし、披露宴の日にお前が遅く帰ってきても何も言わなかっただろうが!」
「ええ、何も言わなかったよ! おかえりも何もね!」
 濡れた布巾をぐしゃぐしゃに丸めてテーブルに投げつける。音を立ててクローゼットを開き、自分の服を片っ端から引っ張り出して鞄に詰め込んだ。
 彰良は何も言わなかった。ただ舌打ちして壁を蹴ってから、財布だけ持って部屋を出ていく。
 ひとりになってから、声を上げて泣いた。泣きながらひたすら、彰良の存在と入り交じってしまった自分の物を、必死に引き剥がし鞄に入れた。化粧道具、目覚まし時計、家族写真、百均で買った安物のコップ。歯ブラシは自分の分だけゴミ箱に捨てて、ヘアゴムの類もひとつ残らず処分した。
 どうせいずれそうされるのだから、跡を濁さず立ち去りたかった。膨れ上がった鞄を背負い夜空の下へ躍り出る。見慣れたドア。しっかりと鍵をかけてから、合い鍵をポストに滑り込ませる。
 カラン、と音がした。
 途端に首筋が寒くなり、私はスマホを取り出した。当然だけど着信はなく、まだ心のどこかで期待している自分を蹴り飛ばす。
 これでいい。
 遅かれ早かれ、こうなっていた。見て見ぬ振りをしていたつけが回ってきただけだ。
 いつまでも突っ立っているわけにいかない。歩き出そうとして、ふと気づいた。どこへ行くというのだろう。
 今から帰るには新潟の実家は遠すぎる。こんな時間に押しかけられるような親しい友達なんていない。
 会社……は、さすがにもう施錠されているはずだ。ええい仕方ないホテルに泊まろう、と近くのホテルを検索したが、どこもかしこも満室、満室、満室、満室。
(やばい)
 手が震える。指が白くなるほどに握りしめられたスマホは、私の気など知らずに無視を決め込んでいる。
 不意に、一人の男の顔が頭に浮かんだ。
 そうしてから、情けなくなった。こんなときに思い出すのが大学時代の元彼だなんて、成長していないにもほどがある。
 でも彼ならきっと、行き場のない私を二つ返事で受け入れてくれることだろう。ケーキバイキングの帰り道に言われた言葉が真実なら。
 とっくの昔に日は暮れた。
 このままでは冗談じゃなく野宿になってしまう。
 悩み、迷い、叫び出したくなるのを堪えながら、私は覚悟を決めてその名を押した。


 ネカフェで一晩過ごすという手があったなとぼんやり考えていると、彼は少し焦った様子で足早にお店へと入ってきた。
 ベルの音とともに自動ドアが閉まると同時に、年若い店員のひそひそ話が聞こえてくる。ねえ、あの人かっこよくない? 背も高いし、何より顔がすっごく綺麗。
「悪い、待たせた」
 波留くんが目の前に座るのに合わせ、私はほとんど水同然になったフラペチーノを飲み干した。時計に目をやる。着信を受けてすぐ飛び出して来なければ、こんな時間には着かないはずだ。
「こちらこそごめんなさい」
「中原が謝ることはない。いつでも呼べと言ったのは俺の方だ」
「でも、本当にごめん。自分で自分が情けないよ」
「あまり悲しそうな顔をするな。夕飯は食べたか? 早く帰ろう」
 自然な動作で私の鞄を持ち上げ、波留くんは先に店を出る。なんとなく隣に並ぶのがはばかられて、斜め後ろでまごまごしていると、
「酒は飲むか?」
 彼がわざわざ後ろまで顔を向けて話しかけて来るものだから、そっと隣まで足を進めた。
「飲もうかな。コンビニ寄っていい?」
「チューハイと日本酒なら多少用意してある。家の近くにコンビニがあるから、買い足したければ後で行けばいい」
「何から何まで申し訳ないです」
「前に椎名が来たときに置いていったんだ。俺ひとりじゃ減らないから、むしろ助かる」
 大通りを曲がった少し先の低層マンションの最上階が、今の波留くんの家だそうだ。
 見た目は至って普通のマンションだけど、部屋のドアを開けた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
「広いね……」
「そうか?」
「それに綺麗。男の人の一人暮らしとは思えない」
 正直な感想だったのだけど、波留くんは「気を遣わなくていい」なんて笑っている。でも実際にこの部屋は、私が今まで住んでいた部屋とは比べ物にならないほど広くて、いつ誰を呼んでも恥ずかしくないくらいにきちんと整頓されていた。
「座って動画でも見ていてくれ。いま夕飯を用意する」
「えっ、波留くんが作るの?」
「当然だろ。これでも一人暮らしをしているんだ、料理くらいできるさ」
 冷蔵庫をのぞき込む波留くんのもとへ忍び寄ると、肩越しに優しい瞳と目があった。
「ええと、何かお手伝いできることがあれば」
「そう畏まらないでくれ。時間はかからないから」
「でもいきなり押し掛けておいて、座って待ってるだけっていうのも……あ、冷蔵庫見られるの嫌かな? それとも台所に立たれたくないとか」
「いや、そういうわけじゃ……なら、中原さえよければ、手伝ってもらえるか?」
 こわばった顔で大きく頷くと、波留くんは苦笑して「包丁は持たせられそうにないな」と呟いた。
 波留くんの手際があまりにも良すぎて、結局私が手伝えることはほとんどなかった。
 鮭のみりん漬け焼きにサラダ、えのきのお味噌汁。どれもしっかり二人分だ。一人暮らしの冷蔵庫って普通もっとスッカラカンじゃないのかな、なんて考えていると、ひとつの疑問に行き当たる。
「もしかして今日、本当は誰か呼ぶ予定だった?」
「どうしてそんなことを聞く」
「冷蔵庫、たくさん入ってるから。その、もともと呼ぶ予定だった人とかいるなら、私帰るよ」
 ゆっくりと振り返った波留くんの顔は、包丁も相まって妙に恐ろしく見えた。
「いるなら中原を呼ばないし、毎日自炊していればこれくらい必要になるものだろ」
「そっか。ええと……なんか、ごめん」
 呆れ顔で出された冷や奴を受け取り、大人しくテーブルに着く。二人並んで手を合わせていただきますを言ったとき、それまで沈黙を守っていた私のスマホが音を立てて震え始めた。
 ぎょっとする私に、波留くんが目で促す。おそるおそる画面を確認してから、私はひとつ息を吐いてスマホを鞄に放り投げた。
「大丈夫か?」
「うん、なんでもない」
 ひとつの恋が正式に終わりを迎えただけ。
「そうか」
 聞かずにいてくれるのが彼の優しさなのだろう。
 昔からそうだった。友人と喧嘩をしたとき、部活でひどい失敗をしたとき、先輩にきつく怒られたとき。波留くんはいつも聞いてほしいときは黙って聞いてくれて、何も言いたくないときは黙って側にいてくれた。
 その優しさに、大いに甘えてきた。彼が許してくれるのをいいことに、自分の好きなように彼に頼り続けてきた気がする。恋仲を解消してからはそういうことはなくなったけど、今またにっちもさっちも行かなくなった私は、昔のようにこうして波留くんの優しさに甘えている。それが当然の権利であるかのような顔をして。
「中原?」
 気づけば、涙が溢れていた。
 しゃくりあげるばかりの口は食事中であるのも忘れ、手はお箸を持ったまま不作法にも机の上から動こうとしない。
「ごめん……ごめんね……」
「どうした、中原」
「本当に……ごめん。わたし、ほんと最低」
 言いながら、本当に死にたくなった。優しく慰めて欲しいがためにこれみよがしに涙を流す、なんて惨めで浅ましい女なのだろう。
「中原、泣くな。頼むから……」
 渡されたティッシュで顔を覆い、背中を向けた。出てくるのは謝罪の言葉ばかりで、それすらも鼻声がひどく上手く言えているのかもわからない。
「ごめんなさい。ごめんなさい……。私、ひどい、こんなひどいやつで」
「そんなことはない。自分を卑下するな」
「今だって、ここで……波留くんが、私に優しいの知ってて、その気持ちに、付け入るみたいに頼ったりして」
「なんだ、そんなことを気にしていたのか」
 波留くんは微笑むと、私の頭を優しく撫でた。
「中原が悪いわけじゃない。こういうのは、付け入られた方が負けなんだ」


……
……
……


 ローテーブルに水入りのコップが置かれた途端、ひっと声を上げて思わずうずくまってしまった。
 やばい。やばい。思い出せない。勢い任せに彼氏と別れて、波留くんの家に転がり込んで、子どもみたいに泣きじゃくって、優しく頭を撫でてもらって……。
(そのあと、私、何したっけ?)
 ひとまず自分の格好を確認。昨日アパートを飛び出してきた時と同じ格好で、襟元も特に乱れた様子はない。だから、大丈夫……と、思いたいのだけど。
 怯える私の間抜け面を横目に、波留くんは困ったように笑っている。よく見ると、彼が着ているのはY大学弓道部のジャージ。胸元には白字で『波留』の名前がしっかりと刺繍されている。
「中原が心配するようなことは、何も起きていないよ」
 どきり。飲もうとした水が跳ねて無様に口を汚す。
 ティッシュボックスを差し出しながら、波留くんは続ける。
「あのあと二人で食事をして、酒を飲みながら適当な映画を観たんだ。俺たちが子どもの頃によく観たアニメ映画とか、大学の頃に流行った恋愛映画とか。で、その途中で眠くなって、ここのソファでそのまま寝た」
「そのまま……寝た?」
「ああ。隣の部屋にベッドがあるから中原はそこで寝ればいいと言ったんだが、動くのが面倒だからここで寝たい、立ち上がったらたぶん吐く、毛布はいらない人間毛布になれ……なんて誰かさんが駄々をこねてな」
「大変申し訳ございません……」
 床に膝をついて深々と頭を下げる。なるほどつまり、この鉛のように重い身体やカラカラに乾いた喉は、酒の飲みすぎによる水分不足の結果というわけだ。
 やってしまったわけじゃなかった。
 でもまあ、やらかしてしまったことに変わりはない。
「あの、片付けをしたらすぐに出ていくから。これ以上迷惑なんてかけていられないし」
 慌ただしく立ち上がる私を見上げ、波留くんはきょとんと眼を丸くする。
「出ていくって、どこへ行くつもりだ?」
「ええと……その」
「同棲していた家には当然帰れないだろう? 中原の実家は新潟だから、ここから新幹線で四時間はかかる。それに新潟へ戻ったところで、明日から会社へはどうやって通うんだ?」
「う……」
 押し黙る私の真正面に立ち、波留くんは少し背をかがめた。ふと懐かしさを感じたのは、それがたぶん、私たちが付き合っていた頃によく彼がやった仕草だからだろう。
 背の高い彼が私と目線を合わせるときの、お決まりの仕草。私が彼の顔を見上げようとすると、それじゃ首が痛くなると笑って、いつもこうして屈んでくれた。
「ここにいればいいじゃないか」
 ほらまた、優しい言葉を平然と吐く。
「そういうわけにもいかないよ……」
「理由は?」
「だって、ほら、私たちもう付き合ってるわけじゃないんだし」
「ならルームシェアだと思えばいい。ちょうど部屋干し専用になっている空き部屋がある。布団なら一組使っていないのがあるし、小さめのテーブルがひとつ押し入れに畳んであるはずだ」
 キーケースから取り出した、青い鍵。
 小さくかすれた音を立て、見せつけるように光っている。
「どちらにしろ、中原には当面住む場所が必要なはずだ。新居が見つかるまでの仮住まいとするもよし、もちろんこのままずっといてくれても俺は全く構わない」
 鍵が揺れている。
 楽な方へと誘うように、思考の放棄へと導くように、揺れている。
 それは、甘い誘惑だった。目の前に差し出される易しい選択肢。それは確かに、喉から手が出るほど欲しいものではある。
 でも揺らぐ私を引き留めるように、頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。思い出して百合香。波留樹は危険な男だから、あのときあなたは彼との別れを選んだんでしょ?
「中原?」
 心配そうな声で我に返る。波留くんの瞳の真ん中に、戸惑う私の不細工な顔が映っている。
「波留くんは、どうして私に優しくするの」
 鍵の向こうで、波留くんがわずかに目を見開いた。
「どうして、か。わかっているのだとばかり思っていたけどな」
「…………」
「好意のある相手には、誰でも優しくするものだろう。中原だってそう思ったから、俺に連絡をしてきたんじゃなかったのか」
 悪意はきっとないのだろう。でも私の耳には皮肉っぽく聞こえてしまい、じわりと胸が痛くなる。
「そうだよ。……そういう女だとわかって、幻滅しないの?」
 鍵のゆるやかな揺れが止まった。
 切れ長の瞳が私を見据える。ゆっくりと、確かめるように瞬きをしてから、それは見たこともないほど柔らかな弧を描いて、私のすべてを包み込んだ。
「好きな女に頼られて嫌がる男などいないさ」
 それが答えだと言うように、大きな手が私の頬を撫でた。