最近の樹くんは、少しだけ様子がおかしい。
 前よりもよくスマホを見ている。でも、浮気とかそういう感じではなくて、なんだか小難しい顔をして画面を睨んでいることが多い。
 ほら、今日も。
「…………」
 小さく震えたスマホを手に取り、樹くんはぎゅっと眉を寄せた。私の膝の上に載っていた頭がぐるんとお腹側に向き直る。私の位置からでは彼のスマホはどう頑張っても見えそうにない。
 一度はスマホをソファへ放り出し、うたたねを再開した樹くん。でも、結局五分もしないうちに彼は再びスマホを取ると、
「ちょっと電話してくる」
 と言って、ベランダの方へと出ていった。
 夜空と部屋を隔てる掃き出し窓がピシャンと閉まる。突然寂しくなった膝の上へ、私はクッションを引き寄せた。「何かあったの」と訊いたことはある。でも、何度訊ねても答えはいつも「なんでもない」だけだった。
(疑っているわけじゃないけど、毎回誤魔化されるのはちょっと寂しいな)
 リビングの中からではベランダの声など聞こえるはずもない。
 面白くもないバラエティ番組をぼんやりと眺める。ちょうどCMに入ったとき、再びベランダを振り返ると、電話を終えたらしい樹くんが手すりにもたれかかっているのが見えた。
 大きくて、逞しい背中。
 だけど今日は、いつもよりずっと小さく見える。
 私はテレビの電源を消すと、クッションとブランケットを除けて立ち上がった。普段ほとんど出ることのないベランダへの掃き出し窓へ手をかける。
 カラカラと窓を開けた途端、夏の夜特有の蒸し暑い熱気がリビングへ入り込むのがわかった。百均で買ったサンダルをつっかけ、樹くんの方へ顔を向ける――
「……樹くん?」
「あっ」
 揺れる肩にあわせ、細くたなびく一筋の煙。
 彼の手元の細い筒から出たそれは、夏の生ぬるい風に吹かれて空の彼方へと散っていく。
「……たばこ、吸うんだ」
 正直そういうイメージがなかったから、私はかなり驚いた。
 たばこって、なんていうか、もっと……やさぐれている人が吸うものだとばかり思っていたから。
 樹くんは自分の手元へ目を落とし、それから軽く目を逸らす。持っているのは普通のたばこじゃなくて、充電式の加熱式たばこらしい。黒いスマートな円筒が、樹くんのごつごつした長い指にとてもよく似合っていて、おしゃれな映画のポスターの中に入り込んだみたいに見える。
「ごめん」
「謝られるようなことじゃないよ。ちょっと驚いたけどね」
「家の中では吸ってない。それに最近は……何か月も吸ってなかった」
 確かにこの家でたばこ独特のにおいを感じたことはない。吸い殻らしきものを見かけたこともないし、きっといつもこのベランダで吸っていたのだろう。
 決まり悪そうに眉を寄せる樹くんの隣に並ぶ。真似して手すりに寄りかかると、どこか遠くからほんの小さな虫の声がかすかに聞こえた。
「いつ頃から吸い始めたの?」
「大学生の頃。百合香と別れた後、お世話になっていたバイト先の――まあ、今も務めている弁護士事務所の先生に教わった。あの頃は普通の紙巻きを吸っていて、でも、少しずつやめようと思って、一番ニコチンの少ないタイプの加熱式に変えた」
 樹くんの手元で黒い円筒が所在なさげに揺れている。
「ここ数年はほとんど吸わずに済んでいたけど、最近ちょっとストレスが多くて。少しでも嫌な気持ちが楽になればと、久々に試したところだったんだ」
 ああ、やっぱり。
 たばこを吸う彼の横顔を見たとき、そうじゃないかとは思ったんだ。
「今、樹くんはつらいことを抱えているんだよね?」
 樹くんは手すりに寄りかかったまま、ゆっくりと瞬きをする。
 返事はない。でもそれは、たぶん格好つけたがりの彼にできる唯一の肯定で、私は小さくうなずくと返事を待たずに言葉を続けた。
「それって、私には話せないこと?」
 長い沈黙が夜のベランダを押し包む。息苦しさと熱気にやられて、身体がじわと汗をかき始めた。
「本当に耐えられなくなったら、話す。でも」
 夜空の遠くを見つめたまま、樹くんは独り言みたいに言った。
「できれば百合香には……秘密のままにしたい」
 目の前の道路をトラックが横切り、夜闇を裂いたヘッドライトがあっという間に過ぎ去っていく。
 タイヤがアスファルトを蹴るやかましい音がなくなると、あたりはまた重苦しい沈黙へと戻った。
 秘密。
 樹くんが、ずっと私に隠していること。
「わかった。じゃあ聞かない」
 まだ大丈夫。私は思った。
 私は樹くんを信じてる。だから、彼が秘密にしたいというなら、私はまだ待つことにしよう。
 だって私たちは恋人同士だ。彼を信じて待つというのが、正しい選択……だよね?
「それ、私も吸ってみていい?」
「いいけど、百合香はたばこ吸ったことないだろ」
「試してみるだけだから」
 手渡された加熱式たばこは私の指よりも細くて、咥えて息を吸ってみると円筒の先がふわっと緑色に輝いた。口の中へと溢れ出る煙は想像していたたばことは違い、どこかフルーティで甘みのあるとても不思議な味がする。
 口の中に煙を閉じ込め、次はどうしようかと悩んでいると、樹くんが自分の口を指さしふーっと息を吹く真似をした。私も唇をとがらせて、口に溢れるものをふーっと外へ押し出してみる。細くたなびく煙の帯が、夜空の中へと溶けていく。
「よくわかんない」
「だろうな」
 私からたばこを受け取った樹くんは、慣れた手つきでそれを口へ咥えようとした。でも、気の抜けたように苦笑して、煙草をそのままケースへしまう。
「樹くん」
 振り返った彼の服を引き寄せ、私は思いっきり背伸びをして。
 触れるだけ、音もならない、ほんの一瞬かすめたのみの、子どものおもちゃみたいなキス。
「これで、たばこの代わりにならないかな……?」
 恥ずかしさに緩む頬を懸命に抑え込みながら、私は冷静なふりをして言った。
 樹くんはきょとんとしたまま、大きな目でぱちくりと瞬きをする。
 しばらく無言で見つめあい、どちらともなくふっと吹き出して笑いあった。私はもう照れがひどくて、さっきから顔が熱くて熱くて仕方ない。
「なると思う。でも」
 私の髪に触れた樹くんが、そのまま両手で私の頬を持ち上げる。
「依存性が強すぎる」
 いつもより少し下がった切れ長の瞳。
 緩く微笑む口元が、少しずつ近づいてくる。
 微かなたばこの匂いを感じながら、軽く目を伏せた私の唇に、樹くんの淡い微熱が甘く柔らかに重なった。





 今日を、最後にしよう。
 そう思ったのは、やっぱりあの日の桂さんの言葉のせいだ。ただの冗談。ほんの戯れ。頭ではそうわかっていても、桂さんの弓なりの瞳がずっと頭から離れない。
 私が彼に与えられない、与えてはいけないものを求められている感覚。
 それはその、腎臓という直接的な意味ではなく、もっと漠然とした――深い感情を、求められている気がしてしまったから。
「今日は朝から()()()()()。お待たせしてしまってごめんなさいね」
 このお花屋さんで作ってもらう花束は、いつも必ず百合が入る。
 店員さんの趣味なのかな。具合悪そうにする店員さんに「お大事に」と伝えて、私は病院へと向かった。
(ここへはもう来ないと言ったら、桂さんはどんな顔をするだろう)
 いや、それ以前に、私は彼にどんな言葉で別れを告げればいいのだろう。
 重い足取りで病院に入ると、受付さんが私を見てにっこりと笑みを浮かべた。このままどうぞと、指先がエレベーターを指す。私ももう、すっかりこの病院の常連だ。
「おじゃまします」
 桂さんの病室の扉を開ける。
 白いベッドに横たわり、指先でタブレットをいじりながら、桂さんはまぶたを持ち上げ私の姿をちらと見た。
「いつもの服だね」
「仕事帰りですから」
「そう。嫌いではないよ」
 ベッドの下から丸椅子を引き出し、ここへ座れと彼の手が言う。
 傍に置かれた小さな花瓶に、私が今日買ってきた花束を付け足すと、
「お前も飽きないね」
 と笑って、桂さんがその中から百合一輪を引き抜いた。
「これを入れてくるのはわざとなの?」
「偶然ですよ。行きつけのお花屋さんが、百合の花を好きみたいで」
「そう。まあいいけど……」
 続く桂さんの言葉がまるで頭に入ってこない。どうやって切り出そう。どんな言葉なら傷つけずに済むだろう。頭の中がぐるぐる回って、さっきからずっと息が苦しい。
(いや、傷つけずに済む言葉なんてない)
 私が彼の立場だとしたら、どんな優しい言葉を使われても、深く深く傷つくはずだ。
「……百合香、聞いてる?」
 ぺち、とほっぺたを叩かれて強制的に現実へと戻る。
 桂さんは私の頬に手を当てたまま、むすっとした顔でじっとこっちを見つめている。でも、彼もまた不意に我に返ったみたいに私の頬から手を離すと、どこか寂しそうに微笑んだ。ちくり、私の胸が痛む。
「……すみません。ちょっと、仕事のこと考えてました」
「そう。お前も忙しいんだね」
「いえ、その……すみません。なんのお話だったんですか?」
「これだよ。グーグルマップ」
 桂さんはタブレットの画面を私の方へと向けて見せる。映っているのは、どこか外国の大きな道路かな? 抜けるような青空と見る南国らしい緑の並木が、どこまでもまっすぐ続いている。
「まだ調子が良かった頃、旅行に行った先の景色を見ていたんだ」
「へえ、面白そうですね」
「面白いよ。これなら病室からどこへでも行ける。国内でも、海外でも」
 言いながら桂さんは、色々な国の色々な景色を次から次へと映し始めた。指先で軽くタップするだけで、まるで自分がそこにいるみたいに周囲の写真が映し出される。見慣れない車のナンバープレート。知らない文字で書かれた標識。その土地の風土や思い出を話す、桂さんの言葉は少年のように明るい。
「お前の家はどこなの?」
 住所の欄をタップして、桂さんが訊ねる。
 家といったら、今は樹くんと二人で住んでいるあのマンションを指すのだろう。でもなんとなく気が引けてしまい、私は桂さんからタブレットを受け取ると実家の住所を入力した。
 途端、視界に広がる田舎の風景。さっきまでの海外旅行気分とは打って変わって、お線香の匂いのしそうな昔懐かしい地元の姿に思わず軽く吹き出してしまう。
「懐かしい!」
「新潟? なんでまた……」
「実家なんです。うわあ、変わらないなぁ、この公園」
 カメラの向きを変えてみると、実家のすぐ向かいにある広い公園の姿が映った。手前側が遊具のある遊び場。そしてその奥にどんぐりの木がたくさん植えられた小高い山。住宅街の真ん中に突如現れた森みたいな、一風変わった空間だ。
 私が小さい頃にはすでに遊具の老朽化が激しかったっけ。ブランコにシーソー、滑り台もあったけど、そのほとんどに『立ち入り禁止』の黄色いテープが張り巡らされていた覚えがある。もうとっくに整地されているか、遊具が置き換えられているとばかり思っていたのだけど、この写真を見た限りおおむね当時のままのようだ。
「ここは……」
 隣に並んでタブレットを覗き込んでいた桂さんが、いやに神妙な面持ちで公園を見つめている。
「どうしたんですか?」
「いや……」
 少し考えるそぶりを見せつつ、彼は何かを振り払うように首を振った。
「お前はこの公園を知っているの?」
「実家の目の前ですからね。よく一人で遊びに来ていたんです。公園の裏の、山みたいになっているところに、夏場は百合がたくさん咲いていたんですよ」
「ずっと一人で遊んでたの?」
「いえ、外国人の男の子が一緒でした。サーレくんって言うんですけど」
 喋っているうちに少しずつ思い出してきた。お母さんが教えてくれた、謎の外国人サーレくん。
 確かに公園を眺めていると、私はいつもこの小さな世界で、ひとりの男の子と一緒に遊んでいたような気がする。言葉がまるで通じなかったから会話らしい会話はなかったけど、それでも毎日手を繋いで山百合の中を駆け回った。
「本当に懐かしい。私の初恋だったんです」
 ひとりでべらべらと喋りたてる私に対し、桂さんは軽く口元を押さえたままとうとう相槌すら打つのをやめてしまった。
 眉間に力が込められるたび、伏せ気味の長いまつげが別の生きものみたいに揺れる。ひどく難しい顔をして、何かを考えこんでいる様子だけど、私の今の話の中に悩むようなことなんてあっただろうか?
「あの……もしかして、新潟に嫌な思い出とかあります?」
「…………」
 桂さんはそのままずいぶん長く黙りこくっていたけど、やがて再びかぶりを振ると、
「なんでもない」
 と短く言って、唐突にタブレットを切ってしまった。
「あっ、やめちゃうんですか?」
「やめる。別の話をしよう、なんでもいいから」
 もしかして本当に新潟に嫌な思い出でもあったのだろうか。日本酒飲み放題のお店で張り切りすぎて救急車で運ばれたとか? 佐渡金山に観光に行ったらあまりにも寒くて風邪をひいたとか?
 いきなり別の話をしようと言われても、そんな唐突に新しい話題など思いつくはずもない。そもそも私、今日は桂さんに別れを告げにきたんだった。
 楽しく遊んでいる場合じゃないと……でも桂さんと過ごすのは楽しいと、心がまた重たく沈んでいく。どうしてこうもままならないものなのだろう。
 そのときふいに、私の鞄から明るいメロディが聞こえてきた。
 あの日、桂さんから電話がかかってきた時と同じデフォルトの音楽。私は桂さんに一言断り、急いで鞄からスマホを取り出す――
「わっ」
 と、私の手から釣れたての魚みたいに滑り出したスマホは、まるで狙いすましたように桂さんの膝の上へ着地した。私のスマホを手に取った桂さんの表情が、霜が降り注いだみたいにさあっと凍りついていく。
「あの、スマホ」
 落としてすみません、と言いかけた私の口を、桂さんの手が遮った。彼の視線はスマホへ向いたまま。食い入るように、吸い込まれるように、穴の開くほど鋭い眼差しで画面を見つめている。
「桂さん」
 会社からだったらどうしようと慌てる私の目の前に、ようやく着信元の名前が突き付けられる。
「これが……お前の恋人?」
 ――波留樹。
 私はそのとき、……理由はまったくわからないけど、自分の心臓が桂さんの手で握り潰されたような感覚を覚えた。今のこの桂さんの瞳は――返す返すも、理由の説明はできないのだけど――それだけの敵意と激情を燃やし、私を殺してしまうほどの勢いをもって、私と、その後ろに立つ樹くんの二人を射抜いたのだ。
「は、い」
 スマホはまだ震えている。
 早く電話に出てあげたいのに、桂さんはスマホを離す気配がない。
 やがて諦めてしまったのか、軽快な音楽と小刻みなバイブレーションは停止した。画面が暗転してようやく、桂さんは嘲るような笑みを浮かべてスマホをベッドへ放り投げる。わざと、私の座る方とは反対側へ。
 胸がざわめく。
 開けてはいけない心の扉が、重く軋み出した音がする。
「桂さん……」
「なに」
「それ……返してもらえませんか」
「いいよ」
 意外にも桂さんはあっさりとスマホを手に取ると、何食わぬ顔で私に向かって差し出した。若干拍子抜けした気持ちになりながら、私はおずおずと手を伸ばす。
 その瞬間、桂さんは私の手首を素早く掴むと、病人とは思えないほど強い力でぐいと引き寄せた。顔が一気に距離を縮めて、鼻先がぶつかる寸前で止まる。思わず息を止めた私を、嘲るように歪む唇。
「思い出した」
 桂さんは瞳の奥に強い力を込めて笑った。
「『サーレくん』は僕だ」





 ――僕のフルネームは諏訪邉(すわべ)桂。
 まるで物語をなぞるように、桂さんは淡々と語る。幼い頃、父の仕事の都合でアメリカから新潟へ引っ越したこと。日本語がまったく喋れなくて、幼稚園に溶け込めなかったこと。日中はいつも人のいない公園で、ある女の子と遊んでいたこと。
 語るうちに記憶はどんどん鮮明になってきたようで、熱を帯びた声音のまま思い出話は長く続いた。名字しか名乗らなかったのは、当時の彼が(かつら)のツを上手く発音できなかったからだと。スワベをサーレと聞き違えるなんて子どもの聴力は当てにならないと。そう苦笑しながら語る姿は、不自然なほど明るく見えた。
 ――そう。お前は、
 どこか恍惚とした笑みを浮かべ、桂さんは私の指に触れる。
 ――僕()初恋だったんだね。
 私は、その手を……振り払いに行ったはずだったのに。
 結局思い出に流されるまま、気づけば私は言うべき言葉をすべて飲み込んであの病室を後にした。また必ず会いに来てねと、命令じみた強引さで私の手を握る桂さん。その手をどうすることもできずに、小さな肯首で応えた私は、あのとき何を思っていたのだろう。
(子どもの頃の初恋がなんだ。そんなの、ついこの間までまるっきり忘れてたことじゃないか)
 頭ではそうわかっているのに、心がなぜかもやもやする。初恋の人。そのラベルがあるかないかの違いだけで、人というのはこんなに違って見えるものなのだろうか。
 いや、きっと、それだけじゃない。
 私はきっと、桂さんのことを知りすぎた。友達として、あまりにも多くの時間を過ごしすぎた。
 寂しそうに微笑む桂さんを、放っておけないと思ってしまうほどに。
(これはよくない)
 子どもの頃のキラキラした思い出が桂さんの微笑とリンクする。いちごムースみたいに甘酸っぱい気持ちが心に誤作動を呼び起こす。
「どうかしたのか?」
 一向にページをめくろうとしない私の指先を訝しく思ったのだろう。ソファの隣に腰かけた樹くんが、私の顔を覗き込む。
 私は文庫本にしおりを挟むと、
「なんでもない」
 と言って、ローテーブルへ本を置いた。
 樹くんの視線から逃れるように目を閉じる。なんでもない。彼の口からこの言葉が出る度、私もひどく複雑な気持ちになっていたはずなのに。
(隠し事はお互い様かな)
 咎める気持ちはあるのだけれど、桂さんとの一連の出来事を樹くんに話したところで、私たちにいったいどんなメリットがあるだろう。
 樹くんはきっと嫌な気分になるだろうし、私だってまったく得をしないはずだ。だったらもう、お互いのために、秘密にしてしまう方がいい。
「樹くん」
「ん?」
 樹くんの膝の上へ、そっと手を置いてみる。
「今日、疲れてる?」
 言いながら恥ずかしさがこみ上げてきて、最終的にはほとんど声が消えてしまった。
 この言い回しは、私たちの間で決まった合図。今夜は触れても良いですか、をオブラートで包み込んだお誘い。
「疲れてない、けど」
 樹くんは少しはにかみ、私の顔をまじまじと見つめる。
「百合香からは珍しい。というか、初めてじゃないか?」
「そうかもね」
 確かめあうように指先が絡む。
 私の意思を確認するみたくじっと見つめてくる樹くんに、私は彼の瞳を見ながらゆっくり深く頷いてみせる。
 素直な笑みを浮かべてくれる樹くんがいとおしい。私は今、本当にこの人のことを好きだと思う。
 でも、心にはまだ、ちくちくとした痛みが残り続けていた。


 淫靡な水音が頭蓋に響いて、血の巡りが速度を上げていく。
 触れられた肌が次々に熱を帯び、身体の奥が疼き出す。
 常夜灯に淡く照らされた二人の身体のシルエット。びく、と悶える私の背中を後ろから抱きかかえ、樹くんは濡れた唇をうなじから下へと這わせていく。
「んっ……」
 漏れかけた声を喉で止めると、樹くんの長い指が、たしなめるように喉をなぞった。指先が唇を割って口の奥へと侵入する。そうしながら、反対の手は今もなお私の秘められた奥深くを緩やかに拡張し続けている。
「やめて、ゆび、かんじゃう」
「なら、頑張って口を開けていてくれ」
 仕方なく舌先で彼の指を舐めていると、さっきまでぎりぎりのところで押しとどめられていた嬌声が、遮るものを失って次から次へとこぼれ始めた。あ、あ、と唾液まみれの口でみっともなく喘ぐ私を、樹くんは瞳を細めて満足そうに眺めている。
 やがて、シーツを握る私の指に力が入らなくなってきた頃、ようやく唇が解放されるとともに額に優しくキスをされた。下腹部を掻き回していた圧力がずるりと抜ける。小柄な私が大きな彼を受け入れるのには時間がかかる。
「待って」
 ベッドボードの引き出しを開けようとした樹くんの手を、私はとっさに掴んでいた。
 少し戸惑った樹くんの顔が、暗がりの中で近づいてくる。
「どうした?」
「あの……本当はもっと前に言おうと思ってたんだけど」
 荒い呼吸をごまかすように、私は鼻でゆっくりと息を吸う。
「私、ピル飲んでるから……それ、つけなくても平気なの」
 私の言うそれの意味が、樹くんにはすぐには理解できなかったらしい。
 軽く首を傾げられて、私は仕方なくそのものの名前をはっきり答える。それでも合点がいかなかったのか、樹くんは今度は反対側に首を捻った。
「え?」
「ええと、ストーカーでバタバタしてた頃、生理不順がちょっとひどくなっちゃってね。婦人科に行ったらピルを勧められて、今日までずっと飲んでたの。今月は一度も忘れてないよ」
 生理不順を整えるための低用量ピルは、正しく飲んでいれば99パーセント以上の避妊効果がある。もちろん本当はきちんと避妊具をつけなくてはいけないのだけど、この日の私は何かに急き立てられるまま言葉を続けた。
「だから……そのまま」
 ベッドの上に両手をついて、私は樹くんへにじり寄る。薄暗がりの部屋の中で、つばを飲み込んだ彼の喉仏が上下する。
「樹くん」
 私の気持ちを、私自身に確かめさせて。
 指先が彼自身へと触れようとしたその瞬間、
「落ち着け、百合香」
 突然両頬を手で挟まれて、私はベッドの上らしからぬ変顔で動きを止めてしまった。
 樹くんは焦る気持ちを堪えるみたいに、ぎゅっと唇を噛みしめて私を見つめている。
「私は落ち着いてるよ」
「いや、落ち着いてない。やはり何かあったんだろ、どう考えても様子が変だ」
 純粋な心配の眼差しがこの日はやたらと癪に触って、私はシーツを握りしめると部屋の隅へと視線を逸らす。拗ねる子どもをなだめるみたいに、樹くんは私の髪や頬へ唇を落としていく。
「いくら薬を飲んでいたとしても、俺は百合香の身体に危険な影響のあることはしたくない。仮にこのままつけずにしたとして、本当に子どもができてしまったらどうする?」
「…………」
「出産は今でも命の危険を伴うものだ。医療を過信して軽々しく『産めばいい』とは思わないでほしい。きみが子どもだけを残して死んでしまったら……残された俺は、きっと、耐えられない」
 素肌の私をぎゅうと抱きしめ、樹くんは諭すように言う。
「万が一のことがあってからでは遅いんだ。もう少し自分を大切にしてくれ」
 ……ああ。ここだけ切り取れば、理想の恋人の発言だ。
 目先の快楽より私自身のことを一番に心配してくれる。こんな男の人、そうそう出会えるものじゃない。
 それはわかる。わかってる。でも、心の中のわだかまりが消えない。
(もし万が一のことがあったなら、樹くんが責任を取ってくれるんじゃないの? 子どもを産んで私が死んだら、今まで私にくれた愛情をその子に注いでくれるんじゃないの?)
 いや、それは期待しすぎなのかな。だって前にも、彼はなんだかよくわからない理由で結婚をめちゃくちゃにけなしていたし。
 いわゆる一般的な結婚願望とか、家族を持ちたいだとか、そういう気持ちが希薄な人なのかもしれない。そこは人それぞれだから責めるつもりはないけれど、私はできるなら……好きな人とは結婚をして、子どもだって作りたい。
「わかった。ごめん」
 そっけない言葉とともに、樹くんの身体を遠ざけてしまう。彼の言っていることは正しい。ただ、今の私が求めていた答えとは少し違っていただけ。
「百合香……」
「ごめんね。なんか……私、ちょっとおかしいみたい」
 冷えた身体は再び熱を持ちそうになくて、私は頭痛をこらえて謝るとそのまま樹くんの部屋を出た。