「ねえ、ほんとに帰んの?」
「帰る」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「あと一か月……いや、一週間残らない?」
「残らない」
「まじでぇ……?」
 けんもほろろに扱われた椎名くんが、隣にいた私へ顔を向ける。
 鷲掴みにされる両肩。戸惑う間もなく、女の子みたいに可愛い顔が無遠慮にずいと近づいてきた。
「あのさあ中原、やっぱり俺たち三人で付き合わない?」
「え!?」
「俺、うまくやるよ。平日は俺ん家で、土日は波留のところ行けばいいじゃん。今までどおり送迎もやるし、なんなら【下品につき削除】だって」
「椎名!」
 樹くんに首根っこを掴まれ、ギャーと叫んだ椎名くんが引き剥がされていく。
 昨夜からずっとこんな調子だ。彰良の件の解決に伴い、私たちは椎名くんの家から、もとの家――樹くんの家へと戻ることになった。
 椎名くんには本当にお世話になったし、三人の生活だって正直ちょっと楽しかった。だから、こんなふうに素直に寂しいなんて言われると、私としても後ろ髪を引かれる思いがするのだけど。
「お前はお前でさっさと相手見つけろよ」
「はーっ、むかつく! 他人事だと思って! 俺がこんなに寂しい思いをしてるのに!」
「どうせそのうちシンガポールに戻るんだろ」
「戻るよ! でもさあ、こんなに長く三人で一緒に暮らしてて、いきなり一人で放り出されたら誰だって寂しくなるもんでしょ!」
 人目もはばからず大騒ぎする椎名くんに、私と樹くんは顔を見合わせる。あと一週間くらい……と、口を開きかけた私を制し、樹くんは無言で首を横に振った。
「波留のケチ!!」
 わーっと泣き真似をして椎名くんが私に抱き着く。樹くんのこめかみに浮かぶ青筋。ああもう、二人そろってこんなときまで揉めなくてもいいのに。
 でも椎名くんだって別に、本気で言っているわけじゃないはずだ。私と樹くんが仕事をしている間、彼は私たちの荷物を全部車で運び出しておいてくれた。
 つまり、もうこの家には私たちの私物は何もない。あと一週間泊まりたくても、パジャマも下着もないわけだ。
「パジャマでもなんでも買ってあげるから……」
 私の考えを見越したみたいに、椎名くんが囁きかける。うーん、さすがお金持ち。これはまさしく悪魔の囁きかも。
 すっかりべったりな椎名くんの身体を、再び樹くんが引き剥がした。ばちばちと睨みあう二人。そういえば最初にここに来たときも、彼らはつまらないことで喧嘩して、火花を散らして睨みあっていたっけ。
 ついこの間の出来事のはずなのに、ずいぶん昔のことに感じる。いつの間にか、私もここでの生活に馴染んでいたということかな。
「お前は自分の幸せを見つけろ」
 樹くんがそう言った瞬間、椎名くんは確かに言葉を失ったように見えた。
 切れ長の瞳が、まっすぐに椎名くん一人を射抜く。
 数秒の沈黙の後、椎名くんはよろけるようにほんの少しだけうつむいた。そして次に顔を上げたとき、彼はもう私のよく知る椎名玲一に戻って、ニッと意地悪く笑っていた。
「はーぁ、わかったよ。家でもホテルでもどこにでも行けよ」
「あのな……」
「やりたくて仕方なかったんでしょー? 夜間のトイレの回数が減りそうでよかったですねえ波留さんよ」
「ほんと黙れお前」
 最後にわざわざひと睨みして、樹くんは鞄を肩に担いだ。
 私も自分の鞄を持って、慣れた玄関で靴を履く。
 扉が開く。
 ここから見下ろす街の景色も、もう、しばらくは見納めだ。
「椎名」
 樹くんが声をかけると、玄関の隅へ視線を落としていた椎名くんが顔を上げた。


「ありがとう」

「本当にありがとう、椎名くん」


 椎名くんの大きな瞳に、ほんの一瞬夜景がにじむ。
 ぎゅっと眉間に力を込めて、彼は何かを言おうとして、でも視線を横へ逸らすと気の抜けたように微笑んだ。
「……夜遊びしたくなったら、いつでも俺を誘ってね」
「その予定はないな」
「お前じゃねーよ中原に言ったんだよバーカバーカ! とっとと帰れ!」
 第二ラウンドが始まる前に、私は樹くんを引きずって椎名くんの元を後にした。エレベーターが到着するまで、椎名くんはずっと玄関に立って私たちを見送ってくれた。
 エレベーターの中へ乗り込むと、途端に周りの空気がすぅっと色を変えた気がした。狭い個室では目のやりどころに困ってしまい、自然と視線は上を向く。
 かすかな振動。無言の私たち。でも、なぜだか心地よくて、不思議なほどにドキドキする。
 チン、と軽やかな音とともにエレベーターが動きを止めた。自動ドアが左右に開く。綺麗に掃除されたエントランスの向こうに、自由できらびやかな夜の街並みが見えている。
「……じゃあ、帰ろう」
 私たちはこれから、二人で一緒に暮らすんだ。
 ルームシェアではなく――恋人同士として。





 薄暗い廊下に手を伸ばし、手探りで電気をつける。
「わあ」
 なんて明るい声が漏れたのは、目の前に広がるそのすべてが懐かしさでいっぱいだったからだ。整頓された広いリビング。大きなソファとローテーブル。行き場のない私を受け止めてくれた、樹くんの想いの結晶。
 この部屋が私のために用意されたものだったなんて、あの頃の私は当然考えもしなかった。改めて思うと、樹くんのすさまじい奉仕精神がずんと心にのしかかる。
(ちょっと愛が重いけど、やっぱり私は幸せ者だな)
 私のためにここまでやってくれるような人が、自己愛の塊であるはずがない。
 懐かしのマイルームの扉を開ける。ずっと掃除もしていなかった部屋だ。電気に反射して細かい埃がきらきら浮かび上がっている。でも、やっと帰ってきたんだという思いを強く感じて、少し目頭が熱くなった。
 クローゼットの扉を開けて、私は再びリビングへ戻った。椎名くんが運んでくれていた収納ケースに両手をかけて、よいしょと力を入れてみる。
「うわ、重い」
 椎名くんは一人で軽々運んでいたように見えたけど、洋服がぎっしり詰まった収納ケースは想像よりずっと重量がある。私一人で部屋へ運ぶのはちょっと難しいかもしれない。
「ごめん樹くん、手伝って――」
 そう言って振り返ろうとした刹那、突然背後から抱きすくめられて、私は言葉の続きを失った。振り向きかけた顎を取られて、噛みつくようなキスで唇を塞がれる。
 ん、とくぐもった声が漏れて、私は樹くんの腕を軽く叩いた。ちょっと待ってと伝えたつもりだけど、彼は私のサインを無視して好きなように口内を蹂躙する。
 身動きできないよう抱きしめられて、逃げられないよう後頭部を支えられて、よろけた身体は受け止められるまま自然と彼へ寄りかかってしまう。弄ばれた舌が躍り、絡んだ唾液が跳ねるたびに淫靡な水音が頭で鳴る。
(くるしい)
 酸素が欲しくて鼻から息を吸い込むと、それと一緒に少し汗ばんだ樹くんのにおいが入り込んできて。
(もう、だめ)
 おかしな薬でもかがされたみたいに、足先から甘くしびれていく。
「……百合香」
 唇同士を触れ合わせたまま、樹くんは歌うように言う。
「先に謝っておく。たぶん、無理をさせると思うから」
「ちょっと……まって、おねがい」
「無理。待てない」
 せめてシャワーを、とお風呂場の方を指さすけれど、樹くんは私の手を取ると伸ばした指にキスをした。
 聞く気はない。逃がす気もない。
 獣のような欲を浮かべた彼の双眸が私を頭から飲み込んでいく。もう絶対に止められないと、私に覚悟を強いるみたいに。
 ああ、でも――やっと。やっとだ。
「や……やさしく、して」
 樹くんのシャツを掴んで、私が震えた声で言う。
 彼はそこでようやく微笑むと、くたくたの私の身体を抱き上げ、ゆっくりとソファへ横たえた。


 目が覚めてすぐ、身体の違和感に気がついた。
 喉がカラカラに乾いている。全身が鉛のように重い。
 胸に渦巻く不快感を堪え、とりあえず身体を起こそうとする。すると、腰回りにまとわりついていた温かなものが、私の背中をなだめるようにひと撫でした。
「おはよう」
 頭上から声。
 おそるおそる顔を上げる。
「い、……樹くん」
「うん」
 ずっと早くから起きていたらしい樹くんの穏やかな笑み。
 差し込む朝日に照らされる素肌の逞しく鍛えられた様に、昨夜の姿を思い出して一人で赤面してしまう。昨日はその、すごかった。自分のものじゃないような声がひっきりなしに漏れていたし、途中から完全に意識を飛ばしてしまったような気がする。
(なんか、既視感があるなぁ)
 そうだ。彰良の家を飛び出した日の夜、記憶をなくすほど酔っぱらった私は、樹くんを抱き枕にしてそのまま眠ってしまったんだ。
 その時も確かこんなふうに、目が覚めると同時に樹くんの声を聞いた。そして一気に青ざめたんだ。私、やってしまったんじゃないか、って。
(あの頃はまさか、本当に樹くんの恋人に戻るとは思わなかったな……)
 いろいろな出来事があっという間に過ぎ去って、気づけば私は再びこの家に戻ってきた。
 でもこれで、大きな問題はすべておしまい。これからはもう、ただ穏やかな日々が淡々と続くだけのはず。
「思ったより声がひどくない」
 流れゆく走馬灯に思いを馳せていると、樹くんの長い指が私の喉を軽くさすった。
「もっと無理させてもよさそうだな」
「だめ、絶対だめ」
 あのね樹くん、気絶と睡眠は似ているようで別物なんだよ。
 あんなのを毎晩のようにされたら確実に私の身がもたない。もちろんその、嫌だとか不快とかいうわけではなくて、……むしろ良すぎて戸惑ったほどだけど、体力の限界というのは気持ちとは別の問題だ。
「し、仕事いかなきゃ」
「今日は祝日だ」
「あれ、そうだっけ?」
「ああ。だから大丈夫」
 起き上がりかけた私の身体に逞しい腕が巻きついてくる。
 ぎゅうと優しく抱き寄せられて、地肌に直接体温を感じた。あたたかい。事後の気だるさがよみがえり、私は樹くんの胸に寄りかかると再び枕に顔をうずめる。
「……眠たい」
「ああ」
 首を彼の方へ向けると、小さなリップ音とともに優しいキスが降ってきた。
 まぶたが落ちる。抗い切れない安心感に、私の全身が深く深く包まれていく。
「俺も、眠い」
 時計の秒針が動く音が聞こえる。
 せっかくの貴重な祝日が、刻一刻と過ぎていく。
 でも不思議と、もったいないような気はしない。
(お休みの日を恋人とベッドで過ごすだなんて、ちょっと贅沢でいいかもしれない)





「いらっしゃいませ。どのようなお花をお探しですか?」
「お見舞いで……長く入院している方に贈るものなんです」
 あら、お見舞い。店員さんはそう繰り返すと、少し首をかしげて店頭に並んだお花を何本か手に取る。
「それなら、フラワーアレンジメントがおすすめですね。お見舞いはこれから行くご予定で?」
「はい、そのつもりです」
「それならすぐにお作りいたしますよ。イメージの写真や、お花のご希望はありますか?」
 言われてようやく、なんの考えも用意しないまま来てしまったことに気がついた。イメージ。イメージ。……正直、どんなお花でも彼に似合いそうで、逆になんにも浮かばない。
「ええと……おまかせで」
 申し訳なさそうに小声で言うと、店員さんは少し笑って傍らの雑誌に手を伸ばした。色々なお花が詰め込まれたフラワーアレンジメントの写真を片手に、次から次へとお店のお花を慣れた手つきで選んでいく。
 完成まで座って待つよう促され、私は傍の丸椅子へ腰かけた。店員さんはお花を抱えて奥の作業台へ向かうと、
「あらやだ。机の上が()()()()だわ」
 と言って、上に散らかる荷物を除けた。


 退院されていたらどうしようかと思っていたけど、彼はまだこの病院にいるらしい。受付の女性は私を見るなり心からほっとした顔をして、
「どうぞ、最上階へ」
 とエレベーターのボタンを押してくれた。
 相変わらずの高級ホテル感。先日何気なく宿泊費用を調べたけど、文字通り目玉が飛び出るような金額だったのは言うまでもない。
 奥の部屋の扉をノックする。ややあって、ひどく不機嫌そうな「何?」という声が聞こえてきて、私は心を奮い立たせるように腕の中のお花を抱きしめた。
「おじゃましまーす……」
 扉を開け、ゆっくりと部屋を見回す。
 彼は――桂さんは、ベッドの上に横たわったまま私の方へ顔を向けた。
 久々に見る天使の顔。ガラス玉みたいにきれいな瞳が、私を見るなり幽霊でも見てしまったみたいに見開かれる。
「なんで」
「お、お久しぶりです」
 桂さんが身体を起こすと、彼の膝に乗っていたタブレットがずるりとベッドの上へ落ちた。
 シーツにぎゅうと爪を立てて、桂さんは私の顔を凝視する。それから、ふいに顔を歪めると、
「もう、来ないのかと思った……」
 ほとんど消え入りそうな声で、絞り出すようにそう言った。
 あまりにも切ない姿に胸がぎゅうと痛み出す。私が椎名くんに送迎してもらっている間、彼はたったひとり、この部屋でずっと待っていてくれたのかもしれない。
「すみません。ちょっとその、ストーカーのことでバタバタしてて」
「そう。そっちは落ち着いたの?」
「はい、おかげさまで解決しました。それで……これ、駅前のお花屋さんで作ってもらったんです。良かったら」
 鮮やかなオレンジ色を中心に、色とりどりの花が詰め込まれた小さなフラワーアレンジメント。
 おそるおそる差し出したそれを、桂さんは不思議そうな顔をしながら受け取った。そっと顔を寄せ、香りを確かめてから、くしゅっと気の抜けたように笑う。
「変わったものを持ってきたね。生花?」
「はい。涼しい部屋なら十日くらいは保つらしいです」
「ふうん……」
 桂さんの白い指が、花籠の根元に埋もれていく。そしてそこから、一本の百合の花が飛び出すように引き抜かれた。
 せっかくお花屋さんが綺麗にしてくれたのに、と少し残念な気持ちになったけど、贈ったものに対してうるさく言うのはさすがに無粋だ。たとえどんな形であっても、喜んでもらえるならそれに越したことはない。
「ありがとう。嬉しいよ」
 百合の花びらを口元に当て、桂さんは薄く笑っている。うーん、絵になる。樹くんや椎名くんとはまた違った、なんというか……清廉さ? こんなに花が似合う男性っていうのもなかなか珍しい気がする。
「それで、もう解決したってことは……」
 桂さんの言葉を遮るように、扉が軽くノックされた。
 入ってきたのは若い看護師さん。ひどく怯えた、いたたまれなさそうな様子で、桂さんの方へと近づいてくる。
「申し訳ございません。そろそろお時間ですので……」
「…………」
 桂さんは妙に冷たい表情で看護師さんを見ていたけど、やがてふいと顔を逸らすと、サイドボードの引き出しを開けて紙とペンを取り出した。さらさらとペンを走らせて、一息に破ったメモ紙を片手に、私を小さく手招きする。
「百合香」
「あ、はい。すみません、連絡もなしにいきなり来ちゃって」
「いや、いいんだ。ただ、月水金は用事があるから、できればそれ以外の曜日に来てほしい」
 強い力で手を引き寄せられ、私は内心ドキッとした。
 桂さんは私の手のひらにちぎった紙を握らせる。書いてあるのは数字……いや、電話番号?
「まだ教えていないと思ったから」
 私の手を握ったまま、桂さんは落ち着いた調子で言う。
 私は笑顔でお礼を述べて、すぐに番号を登録しようとした。でも、私が空いた手でスマホを取り出しても、桂さんは私の手を離さない。中の紙がくしゃくしゃになっていくのも気にせず、包み込んだ私の手の形を確認するみたいに、ふにふにと柔く握っている。
 やがて、彼は居心地悪そうにする看護師の方へと目を向けて、鼻で小さくため息を吐くとようやく私の手を離した。変などきどきを気取られないよう、私は急いで彼から距離を取る。
「それじゃあ、私、行きますね」
 仕事用の鞄を肩に担いで、出入り口の方へ向かおうとしたときだった。
「必ず来て」
 背中にかけられた桂さんの声。
 とても優しく、穏やかなのに、有無を言わせない不思議な魔力が秘められたその言葉。
「待ってるよ」
 魔法にかけられたみたいに、私が小さく「はい」と答えると、桂さんは瞳を細めて微笑んだ。





 電話番号を登録する段階になってはじめて、私は桂さんの名前を知らないことに気がついた。
 仕方がないので電話帳には『桂さん』と、ありのままで登録する。
 まあ名前以前に、私は桂さんのことを何も知らない。いつから病院に入院しているのか、そもそもどんなご病気なのか、どんな身分の方なのか……。
 最後のひとつはだいたい想像がつく。あんな病室に長々入院しているくらいだ。それはもう、私みたいな庶民なんかでは、普通なら口も利けないような方のはず。
(必ず来て、か)
 初めてお会いした日のことを思い出す。
 窓辺に腰かけ、街を見下ろす桂さんの横顔は、孤独に慣れて寂しさすら忘れてしまっているように見えた。
(今までと違って自由に出歩けるし、仕事の帰りにまたお邪魔してみようかな)
「百合香」
 部屋の外から樹くんの声が聞こえた。
 慌ててスマホをハンドバッグにしまい、私はスカートのしわを叩く。髪型よし。服装よし。お化粧は、まあ……これでいいや。
「ごめん、すぐ行くね」
 すでに靴を履き終えた樹くんが、ドアノブに手をかけて微笑んでいる。
 そう、私たちは今日ようやく……普通のデートに行くのです!


 最後にこのショッピングモールに来たのは、まだ私たちが単なるルームシェア仲間だった頃。
 樹くんのパジャマを買いに来たはずだったけど、結局満足に買い物もできず、逃げるように駅へ向かう中で里野彰良と再会した。
 ずいぶん昔のことのようだけど、実はあれからまだ半年も経っていない。本当に私のここ数か月は怒涛の勢いで過ぎていったと思う。まあ、ストーカーで不自由する期間なんて、短ければ短いほどいいに決まっているのだけど。
「今日は絶対に樹くんのパジャマを買います」
「俺は百合香の服を見に行きたい」
「まずパジャマです。椎名くんにもさんざん馬鹿にされたじゃない」
 懐かしい! クソダサジャージ! と、げらげら笑う椎名くん。ちなみに椎名くんのクローゼットにもまったく同じジャージがしまわれていて、試しに着てみてとお願いしたけど丁重にお断りされてしまった。
 それにやっぱりジャージは寝づらいだろうし、いっそ私からのプレゼントということで新しいパジャマを……と思っていると、突然樹くんの人差し指が私の唇をつんとつついた。
 指先を視線で追いかけると、少しむっとした表情の樹くんと目が合う。彼は帽子のつばを軽く持ち上げ、
「他の男の名前は禁止」
 と、拗ねたような声でたしなめた。
 ああ、そっか。言われてようやく、今がデートの真っ最中だと思い知る。確かにデート中に恋人が他の男の名を呼んだら、誰だって多少は嫌な気持ちになるだろう。
(そっか。私たち、恋人だった)
 なんて、本当の本当に今更の実感が湧いてくる。なんだか私だけ気持ちが入っていないみたいで、樹くんに申し訳ない。
「ごめん」
 私の素直な謝罪を聞いて、樹くんは小さくうなずく。
 そして、まるで当然のことみたいに、彼の長い指が私の指先をきゅと握った。
(あ)
 手、繋ぐんだ。そりゃそうか。
 恋人とデートに来ているんだもの、手くらい当然繋ぐよね。
(ええと、手ってどうやって繋ぐんだっけ。デートの手繋ぎなんてずっとしてなかったから忘れちゃったな。指ってどうするの? 手の向きは? うーんと、どうすればお互いの手が楽になるんだろう……)
 ごちゃごちゃ考える私の隣で、樹くんが小さく吹き出す音がする。気づくと、彼の手は私の握りこぶしを包むような形になっていて、これでは到底恋人同士の手繋ぎとは呼べないだろう。
 ごめん、と繰り返そうとした私を遮り、樹くんは私の指に触れると一本一本ほぐすように広げ始めた。指の間を撫でさすり、関節を軽くつまんで、……愛撫にも似た触り方に、じわじわと顔が熱くなっていく。
 やがて伸びきった私の指の、それぞれの合間に自分の指を差し込んで、ぎゅうと握ればドラマでよく見る恋人繋ぎが完成した。私も樹くんの真似をして彼の手を軽く握ってみる。手のひらと手のひらがぴったり密着して、触れ合う手首が熱を持つ。
「ずっとこうして歩きたかった」
 いつもより少しだけ、近い位置から聞こえる声。
 この距離感にほんの少しだけ懐かしさを覚えながら、私は照れ隠しに微笑むと繋いだ手に力を込めた。


 前回の反省を踏まえて、買い物には順序を決めた。まず樹くんのパジャマ。それから私の洋服と小物。あとは二人で雑貨を見て、最後に本屋に寄って帰るルートだ。
 何件かお店を見て回って、お昼ご飯を食べて少し休憩。今度は雑貨を見に行こうと再び歩き出したとき、ふいに樹くんがあるお店の前で足を止めた。
 きらびやかな純白のドレスと、ピンクの造花で作られたブーケ。傍らには『海外挙式とハネムーンをセットに!』なんて可愛らしいポップとともにパンフレットが並べられている。どうやら、旅行会社の宣伝用ウェディングドレスのようだ。
(えっ、もう結婚?)
 さすがにちょっと早いような気がしたけれど、言われてみれば私たちももう二十六歳。大学生の頃とは違って、そろそろ本気で将来を見据えたお付き合いを始めても良い頃だ。
 それに樹くんは私のことを、死ぬまで好きだと言ってくれた。その言葉を信じるならば、私はもうプロポーズまでされたと言っても過言ではない……気もする。
「結婚かぁ……」
 美咲の結婚式を思い出す。多くの人々に祝福されながら、笑顔で手を振る美咲の姿。その顔の部分だけが真っ黒に塗りつぶされたかと思うと、でれでれ笑う自分の顔がゆっくり浮かび上がってくる。
 隣を歩く樹くんのすらっときれいなタキシード姿。誰に見せても恥ずかしくない、むしろ大手を振って見せびらかしたい、私の自慢の旦那さま……。
「結婚?」
「えっ?」
 傍らから降り注いだ声に、我に返って顔を上げる。
 樹くんは少し困ったような、それでいて口元だけ微笑んだような、なんともいえない不思議な表情で私を見つめている。
「もしかして、私……声に出てた?」
 樹くんがうなずく。それと同時に、私の顔が火を吹いたみたいに一瞬で真っ赤になった。
「あ、あ、あの、ごめん。ちょっとあの……思い出したの! 美咲のことを!」
「ああ……」
「あの結婚式さ、ほら、すごく良かったなって! 美咲はすっごい綺麗だったし、石川くんも」
 あたふた言い募る私を尻目に、樹くんはふいと視線をドレスへ向ける。それから、
「結婚なんて紙切れ一枚だ」
 いつもの彼らしくない、耳を疑うような言葉が、その唇から飛び出した。
(え……?)
 普段はあれほど情熱的で、自分の想いにまっすぐで、恋人を……私のことを本当に大事にしてくれる彼の、あまりにも冷たく白けた横顔。
 聞き間違いかと戸惑う私に、彼はなおも言葉を続ける。
「神様の前で何を誓わせても、意思さえあればあんなものいくらでも覆される」
「…………」
「相手を縛る鎖にもならない、ただの無意味な通過儀礼だ。自己満足にすらなりはしない」
「樹くん……?」
 そこでようやく我に返った彼は、今の今まで存在そのものを忘れていた目で私を見た。それから決まり悪そうに唇を噛み、ぎゅっと私の手を握る。
「帰ろう」
「えっ、本屋さん行かないの?」
「今度にしよう。また来ればいい」
 ひどく冷酷にそう言い捨てて、樹くんは大股で歩いていく。立ちすくむ私の腕を犬のリードみたいに引き寄せ、転びかけた私の身体を抱き留めると、彼は耳元で低く告げた。
「今すぐに、きみを抱きたい」
 ……そして私の返事も聞かず、顔すら見ずにまた歩き出す。
 仕方なく小走りでついていきながら、私は彼の横顔を見上げることしかできなかった。いつもの樹くんの顔が、今日は知らない人のように見える。
 今、私は知らずのうちに彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか。痛みさえ覚えるほど強く握られた手に、不安がいっそう増していく。
(樹くん、どうしたんだろう)
 大きな背中は沈黙のまま、これ以上の深入りをはっきりと拒絶していた。