「びっくりさせてごめんね? 玲一の姉の一華でーす」
 ダイニングチェアにふんぞり返り、朝からハイボールの缶を開ける一華さん。
 厚めのお化粧でわかりづらいけれど、言われてみれば目元や鼻が椎名くんとよく似ている。お年はそこそこ上なのかな? 大きく開いたタンクトップの襟元から強烈な谷間が覗いている。
「よ、よろしくお願いします」
「よろしくー」
 正直なところ、椎名くんのお姉さんじゃなければ絶対によろしくしたくないタイプだ。電車で真横に座られたら隣の車両に逃げると思う。それはこの人が悪いというわけではなくて、単に私がこういう女性をものすごく苦手にしているだけだ。
 それに椎名くんのお姉さんということは、樹くんの従姉でもあるわけで……まったく、美男美女を何代かけ合わせればこういう顔面偏差値の一族になるのだろう。
「一華ちゃん、来るときは連絡してって、俺言ったよね?」
「別にいいじゃん、帰国したのに教えてくれないあんたが悪い。まァ、まさか樹にも会えるとは思ってなかったからそこはラッキーだけどね」
 そう言うと、一華さんは樹くんの肩を抱き寄せ、ほっぺに、ちゅっと、……キス、した……!?
「ニカとミカに自慢しよっと。樹笑ってー」
「嫌です」
「じゃあそのまんまでもいいわー、あんた顔良いから。カメラだけ見て、目線コッチー」
 自撮りをはじめた一華さんの肩を押しのけ、樹くんはキスされた頬を拭っている。驚きも戸惑いもない無表情。もしかしてこの人たち、これが普通のコミュニケーションなの?
 あたりまえだけどこの空間で私一人が完全に部外者。流れるように始まる会話に、私だけが置いてけぼりで借りてきた猫みたいに縮こまっている。居心地が悪い。いや、でも考えてみれば、今までがちょっと不自然なくらい居心地が良すぎたのかもしれない。
(彰良から逃げるためとはいえ、私、ちょっと二人に甘えすぎてたな)
「そーいや、ユリアちゃーん?」
 思いっきりお酒臭い息が耳元から直接ふりかかってきて、私はとっさに息を止めると一華さんのほうを睨んでしまった。一華さんはまったく気にした様子もなく、私の肩に寄りかかりながらぐいぐいハイボールを呑んでいる。
「……百合香です……」
「百合香ね! おっけおっけ! あんたって結局どっちの女なの? 玲一? 樹? 共用?」
 共用ってなんだ。共用って。
 正直口を開くのも嫌で、息を止めたまま黙り込んでいると、樹くんが一華さんの身体を私から引き剝がしてくれた。甘えるように首にまとわりつこうとした腕を払いのけ、樹くんは私と一華さんの間に割って座る。
「彼女は俺の恋人です」
 端的な。
 そしてあまりにも直球な一言に、今度は別の意味でたじろいでしまった。身体が一気に熱くなる。樹くんの背中を見られない。
「恋人? ずいぶん珍しい言葉使うじゃん。樹は女とレンコンの区別がつかないんだと思ってたわ」
「どういう意味ですか」
「言葉のとおりよ。はーぁ、つまんないの。てっきり毎晩【下品につき削除】三昧でうらやましーと思ったのに」
 な、な、なに言ってるのこの人!
 童心に返ったつもりで毎晩三人で雑魚寝してるのに、そんなこと言われたらこの先ますます寝づらくなっちゃうじゃない!
 ただでさえ遠い心の距離が一気にかけ離れていく。どうしよう私、本格的にこの人苦手だ。たとえ彼女が雨の日に捨てられた子猫を拾っていたとしても、私はきっとこの人を好きになれない気がする。
「彼女にそういうことを言うのやめてもらえますか」
 気後れもせず言い放つ樹くんの顔を、一華さんは不躾にじろじろと見る。それから、樹くんの肩に両手をかけて上から私を覗き込もうとしてきたので、私はとっさに背中をむけてきつく両目をつむってしまった。
「ふぅーん……」
 ああ怖い。この人本当に、何を言い出すかわからないから怖い。
 今もどんな目で私を見ているのだろう。『このちんちくりんのどこがいいの?』とか『整形してから出直してこい』とか、直球で私の心をえぐる暴言を笑いながら吐かれそうだ。
 ふいに視界が闇に陰って、顔を上げると目の前に一華さんがいた。一華さんはにんまり笑って私の両頬を持ち上げると、お酒臭い顔を近づける。
「運動できなさそうな顔してんね」
 うなずくわけでも首を振るわけでもなく、ただ瞬きをするだけの私。
 でも、一華さんはひとり納得したように笑うと、私の耳元に熱い吐息を吹きかけた。
「おねーさんが良い場所に連れてってあ・げ・る」





 大きなダンベル。
 いかつい筋トレ器具。
 窓辺から階下を見下ろせるよう、ずらりと並ぶランニングマシン。
 駅から徒歩五分に位置するスポーツクラブシーナ神奈川は、この辺りでは一番高級で有名なクラブだ。施設の広さも設備の新しさも、他とは比較にならないという噂だけは聞いていた。
「……こんなところにお酒の匂いさせて来て大丈夫なんですか?」
「平気平気! だってここ、あたしの店だもん」
 ああ、そういうことですか。元社長さんな椎名くんのお姉さんだと思えば、別段驚くことでもない。
 脱力する私の服装は、身体にぴったり張り付くような黒いタンクトップとショートパンツ。中に着ているスポーツブラ含めて、なんと一華さんが全部まとめて買ってくれたものだ。タンクトップはサイズがぴちぴちで肩も背中も丸出しだから、できれば上にTシャツを着たかったけど「そんなもんないよ!」と一蹴されてしまった。
 一華さんは私とほとんど同じ格好だけど、それでもやっぱりスタイルの良さが際立っている。私の身体のあちこちについている余分なお肉が、一華さんの場合は全部そぎ落とされているということかな。その上で出るべきところはきちんと出ているから、女でもつい見惚れてしまう。
「中原、なかなか()()()()()格好してんね」
 トレーニングウェア姿の椎名くんが、私の頭からつま先までをからかうようにじろじろ眺める。確かに、普段のオフィスカジュアルや休日用ぶかぶか普段着と比べれば、この格好はなかなか……いや、かなりらしくないと言えるだろう。
「……やっぱり、似合わないよね?」
 そっと両手で胸元を隠し、苦笑いで目を逸らす。正直この贅肉ぷよぷよの身体を彼らに見られるのは嫌だ。無理にでも上に着るTシャツを用意するべきだったと、今更になって後悔する。
「いや似合うよ! 正直なところ、俺的には想像以上に良かったよ。なあ波留?」
 いかにも楽しそうに笑う椎名くんに反し、樹くんは何とも言えない複雑そうな面持ちのまま、私の足元と部屋の隅で視線を行き来させていた。
 やっぱりこんなの、似合わなかった? それとも私の身体が想像以上にぷよぷよだったから、幻滅されてしまったのかも……?
「あたしは百合香()遊んでるから、あんたたちはその辺で適当に鍛えてな!」
「中原()遊ぶの間違いじゃないの?」
 一華さんに追い払われて、樹くんと椎名くんはランニングマシンの方へ歩いて行った。ほっとしたのも束の間、私は一華さんに首根っこを掴まれて見慣れない筋トレ器具へ座らされる。
「今夜は【下品につき削除】なんてヤれないくらい、メタメタに鍛えてやるからね」
 何を言っても無駄だと感じ、私はおとなしく「ハイ」とだけ返事をした。


 一華さんは……やっぱり苦手だ。
 気が強くてキビキビしていて、自分を遠慮なく押し出してくる。人を振り回すのも躊躇がなくて、なにより自分に絶対的な自信と矜持を持っている。
 でも彼女の指導を受けるにつれて、最初に感じた強烈な拒否感は少しずつ薄れていった。言っていることは基本正しい。本人にも特に悪気はない。ただ、ちょっとパワフルで話していると疲れるのは変わらないけど。
「どう? あたしの言ってる意味、わかってきたんじゃない?」
 汗だくの私にタオルを差し出しながら、一華さんはえへんと胸を張る。そりゃあもうわかります。内臓を支える筋肉が弱いから体内で下がって胃下垂になる。お尻だってそう、きちんと鍛えてないからダルダルでスキニーパンツが履けないんだ。
(……ん?)
 何気なく顔を上げた先に、樹くんの姿が見えた。見慣れないポニーテールの女性と向かい合って話をしている。女性は遠めでもはっきりわかるほどスタイルが良く、私と同じトレーニングウェアを完璧に着こなしている。
 並んでチェストプレスマシンのもとへ歩いていく二人。そして、器具に腰かけた樹くんの脇腹を、艶やかな女性の細い指が撫でさするように触れた。
(…………)
 胸のあたりがもやもやする。
 こんな言い方をすると変態みたいで嫌なのだけど、はっきり言って私だって触れ合うのを我慢しているんだ。付き合いたての恋人同士だもの、人目さえなければたくさん抱きしめあいたいし、キスだっていっぱいしたい。
 でも、今は状況が状況だから、ぐっと堪えている最中だというのに……あんな見ず知らずの人が、べたべたと……。
「ヘイヘイ、百合香」
 視界に綺麗な指がちらつき、それから一華さんがひょいと顔を覗かせた。
「上の階に大浴場あるから、裸の付き合いでもしましょーよ」
 正直気は進まなかったけど、ここにいたくないという気持ちが私の背中を後押しした。
 私は勢いよく立ち上がると、意識して二人に背中を向ける。苛立ちを誤魔化すみたいにペットボトルのキャップを開けると、握られすぎてひしゃげたボトルからスポーツドリンクが噴き出した。





「あああああ~~」
「なにそれー、ビール飲んだおっさんじゃん」
 肩までお湯に浸かった瞬間なさけない声が全身から漏れた。
 数年ぶりにいじめられた私の筋肉が、ようやくの自由に歓喜の声を上げている。なにこれ最高。温泉って気持ちいい。疲れた身体にお湯の温かさがぐんぐん沁みていくのがわかる。
「人工温泉だけど、なかなかのもんでしょ。このお風呂目当てに入会してる人だっているんだから」
「最高です……今まで入ってきた中で一番のお風呂かもしれないです」
「そりゃよかった」
 穏やかな日光が天窓のガラスから広い湯船の底へ差し込んでいる。ほわほわとうごめく柔らかな湯気が、呼吸するたび身体の中までほのかに温めていくみたい。気を抜くとこのまま眠ってしまいそうで、湯船のふちに寄りかかる。
 肩までお湯に浸かっていた一華さんが湯船で軽くのびをすると、見とれてしまうほど豊満なバストがお湯の中でぶるんと揺れた。うーん、さすが一華さん。何から何までゴージャスだ。
「百合香」
「あっ、はい!」
 さすがにじろじろ見すぎただろうか。慌てた私はお湯を跳ね上げて兵隊みたいに背筋を伸ばす。
 お化粧を落とした一華さんの顔は本当に椎名くんそっくり。目力の強い大きな瞳が私を捉えて離さない。


「樹はやめときな」


 水音だけが響くお風呂で、その声はやけに大きく耳を打った。
「遊ぶなら玲一のほうがいいよ。椎名家(うち)には自由があるからね」
「どういう意味ですか……?」
「言葉の通りだよ」
 一華さんの大きな双眸がゆっくりとひそめられていく。それから彼女はまとわりつく羽虫を払うように、忌々しげに吐き捨てた。
「あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね」
 父親?
 樹くんのお父さんということは、一華さんや椎名くんにとっては伯父さんにあたる人だ。私の知らない樹くんのご家族を、この人たちは当然知っているのだろう。……でも、あまりにもひどい言い様に、私は言葉を失ってしまう。
「あんたもどうせ見た目に騙されたクチでしょ。確かに樹は、見た目だけは抜群にいいからね」
「…………」
「でもあの男も父親と同じ。優しさのかけらも持ち合わせない、自己愛の塊みたいな男だ。悪いことは言わないから、あんたも手遅れになる前に逃げた方がいい」
「一華さん」
 言葉を遮られた一華さんが、そこでようやく私の方へ顔を向ける。
「私、大学一年の頃も、樹くんと付き合ってました」
 ハッと目を見開いた一華さんが、小さな声で何かを口走った。まさか、あんたが。そう言われた気がした。
「じゃあわかるでしょ? 樹は――」
「確かに樹くんはちょっと怖い人ですけど!」
 大学時代に付き合っていた頃も、なんならつい最近も、樹くんの優しさを私は確かに怖く感じた。それは否定できない事実。でも。
「でも今、私は彼の優しさに助けられてます。つらいときや危ないとき、樹くんはいつも私のためになんでもしてくれました。住む場所を用意してくれて、あたたかい言葉をかけてくれて、怖い思いをしたら駆けつけてくれて。その優しさを……自己愛の塊なんて言われるのは……」
 そこで言葉を切り、一華さんを見上げる。
「私は嫌です」
 唇を一文字に結んだまま、一華さんは黙っている。その目には、まるで見ず知らずの死体を見下ろすような、妙な冷ややかさがあった。
 私は奥歯を噛みしめて、一華さんの滲み出る怒りを真っ向から受け止める。一華さんが怖い。でも、私にも退けない理由がある。
「あたしは親切心で言ってるんだよ」
「それはありがたいですけど、私は自分の目で見たものを信じたいです」
「あんたの目が正しく見えている保証はどこにもない」
「それは一華さんにだって同じことが言えるじゃないですか」
「あたしにはわかる。あたしはずっと見てきたんだ」


「どうしてそんなに樹くんを悪く言うんですか!」


 私の場違いな大声が浴室に反響して消えていく。シャワーを使っていた他のお客さんたちが、怪訝な顔で私を見る。
 耳が痛いほどの沈黙が、私と一華さんを包み込む。彼女はまっすぐに私を見つめ――でも、私の奥に別の誰かの姿を見ながら、絞り出すような声で言った。
「何も知らない田舎娘の心が壊れていくのは、もう嫌なんだよ」





 結局あの後、一華さんは私に何も説明しないままひとりで先に帰ってしまった。
 ひとりエントランスに残された私は、飲みかけのペットボトルを弄びながらベンチで樹くんたちを待つ。
 運動自体は楽しかったと思う。久しぶりにたくさん汗をかいて、身体をしっかり疲れさせた。今夜はきっといつもよりも早く深く眠れるだろう。
 でも私の心には、ぶつけどころのないもやもやが残ったまま。
(樹くんのお父さん、か……)
 一華さんの強い言葉と、憎しみに暗く燃える瞳を思い出す。
 知りたくないと言えば噓になる。でも、あまりにも内容がプライベート過ぎて、聞き出す勇気が湧いてこない。
「百合香」
 スマホで適当なニュースを眺めながら一人いらいらしていると、私服に戻った樹くんが鞄を片手に歩いてきた。私たち同様お風呂で汗を流したのだろう、湿った髪がうなじに張り付いている。
「お疲れさま、樹くん」
「ああ、疲れた」
「一華さん、先に帰るって。二人によろしくって言ってた」
「そうか。……」
 私の隣に腰かけた樹くんは、炭酸ジュースの缶をあけ喉を反らして飲み干した。上下する喉仏。少し甘いため息をついて、視線が床の木目を滑る。
「一華さんにはもう会わないでほしい」
 心臓をぎゅっと鷲掴みにされた心地がした。
「……どうして?」
「あの人は昔から俺のことが好きじゃない。きみに対しても、きっと俺の陰口を吹き込んだだろう」
 彼女との会話を思い出し、少しだけ背筋が寒くなる。いくら大声になったとしても、女風呂で話していたことが樹くんの耳に届くはずない。
 でも、彼はきっと知っているのだろう。
 一華さんが私に伝えようとした、その内容を。
「…………」
 彼の心を傷つけないために、陰口なんて聞いていないと嘘をつくべきだろうか。
 それとも逆に思い切って、こんなことを言われたと打ち明け、『父親』の話を聞き出すべきか。
 目を泳がせる私の隣で、樹くんもまた黙り込む。お風呂でさっぱりしたばかりのはずなのに、私の額に嫌な汗が滲んでいく。
「それに」
 樹くんの持つジュースの空き缶が、ベコと音を立ててひしゃげた。
「今日みたいな格好を他の男に見せるのは、嫌だ」
 突然の話題の転換に、私は思わず「へ?」と間抜けな声を漏らした。
 樹くんは呆れたような、それでいて少し怒った顔で、私を横目で軽く睨む。
「本当に気づいていなかったのか? 色々な男がきみを目で追っていて、俺は正直気が気じゃなかった」
「一華さんを見ていたわけじゃなくて?」
「きみを噂する声も聞こえた。とても下世話で、口には出せないような噂だ」
 どうしよう、全然気づいていなかった。
 でも言われてみれば、今日の私の格好はなかなか……人目を引くものだったと思う。一緒にいた一華さんが似たり寄ったりの格好だったからあまり違和感なく着てしまったけど、冷静に考えたらあれは人前に出られるような服じゃない。
 今更青くなる私を尻目に、樹くんは小さくため息を漏らす。それから、少し俯いて言い捨てた。
「俺がどんな気持ちで我慢しているのかも知らずに、あいつらめ」
 あ、と。
 小さなひらめきが脳裏をよぎる。今とほとんど同じ台詞を、少し前に私も思った。
 じわじわとこみ上げてくる感情に頬が勝手に緩んでしまう。なあんだ一緒だったんだ、と気づけば気持ちはずいぶん楽になる。
「樹くん」
「どうした」
「あのトレーニングウェア、一華さんが買ってくれたんだ」
「知ってる」
「もう、人のいる場所では着ない。だから」
 そこで一旦言葉を切り、私はほとんど耳打ちみたいに小さな声で囁いた。
「今度……二人きりのときに着る?」
 樹くんの動きが止まる。
 どこか遠くに焦点を合わせてしばらく黙り込んでいた彼は、やがて両手で頭を抱えるとそのまま顔を伏せてしまった。あー、と小さく唸る声。耳の付け根がわずかに赤い。
「樹くん?」
「なんでもない」
「ほんとに? 大丈夫?」
「ちょっと不意打ちで驚いただけだ」
 う。さすがにちょっとやりすぎた?
 遅れて襲い掛かってくる羞恥心に、私もまた深々とうつむき縮こまる。顔が熱い。なんというかその、直接的な意味で言ったつもりではなかったのだけど、その……まあ、そう解釈できるのをわかった上で言いました。
 我慢してるのはお互い様。嫉妬したのもお互い様。
 私たちは二人とも、同じ気持ちを持て余しながら耐えている。
「わっ」
 突然腰を抱き寄せられて、慌てて周囲を見回してしまう。誰もこっちを見ていないな、と少しだけ安心した刹那、樹くんの甘い唇が耳元を撫でるようにかすめた。
「期待してる」
 直接脳に流し込まれる、囁くような低音ボイス。
 確かな熱を帯びたその声に、私は両手を膝の上で握ると真っ赤な顔でうなずいた。





 緩やかな午後の日差しが差し込むフローリングに横たわり、ふかふかの枕に頭を預け読みかけの文庫本を開く。
 なんて穏やかな休日だろう。つい先週のドタバタスポーツコメディが嘘みたいに、静かでのどかで心地よいインドア時間だ。これぞ休日。運動しようかな、なんて先週の思いもすっかり忘れ、私は横になったままうんと両手で伸びをする。
「私……椎名くんの家でリラックスしすぎかな」
「いいんじゃないか」
 私と逆向きに横たわる樹くんが、漫画本を読みながら投げやりに答えた。彼の傍らに積み上がっているのは、少し前に実写映画化もした人気の青年コミック。椎名くんの部屋の本棚にずらっと並んでいたのを、さっき丸ごと借りてきたものだ。
「どうせ椎名の家だし」
「樹くん、優しくって言ったでしょ」
「俺は十分優しい」
 開いた漫画本を軽く持ち上げ、樹くんが私をじろりと睨む。
「だいたい百合香は椎名に甘すぎるんだ。はっきり言うが、あいつはきみに優しくされるような男じゃない」
 そ、そうかなぁ? そこまで言う?
 確かにちょっとチャラさが過ぎるところはあるけど、私にとっての椎名くんは今でも頼りになる部長さんだ。
 でも、下手に彼を庇うと樹くんがますます機嫌を損ねそうで、私は曖昧に誤魔化しながら再び視線を文庫本へ戻す。面倒事にはかかわらないのが吉。特にこの頃の樹くんは、やきもちという名の面倒くささが日に日にヒートアップしているみたい。
 これもいわゆる『我慢』の弊害かな。私たちが普通の恋人同士になれるまで、いったいあとどのくらいかかるのだろう。
「中原、ちょっと」
 噂をすれば話題の主がスマホを片手にやってきた。椎名くんは私の枕もとに膝をつき、耳元へこそこそ唇を寄せる。
「一華ちゃんが中原の連絡先知りたがってるんだけど、教えない方がいいよね?」
 その名前が出ただけで、のどかな部屋に一瞬で緊張が走った。
 樹くんの方をちらと伺う。傍らで寝転がる大きな背中。さっきまで着々と漫画のページをめくっていた彼の手が、今は不自然に動きを止めている。
「ごめん……内緒で」
 困った顔で囁く私を見て、椎名くんは苦笑すると、
「わかった。うまく誤魔化しとくから」
 と、額にひっかかった私の前髪を人差し指で軽く撫でた。
 ありがとう椎名くん。やっぱり彼は頼れる人だ。
 一華さんのことは、嫌い、とまでは言わないけど、やっぱり苦手だし未だに怖い。
 それになにより樹くん自身が、一華さんには会わないでほしいと言った。だったら私は恋人として、彼の言葉を尊重したい。
(これで、いいんだよね?)
 もう一度樹くんへ目を向けると、長い指が再びページをめくるのが見えた。内心ほっとすると同時に、彼のわかりやすさに笑いがこみ上げる。
 そのとき、ブブブと小さなバイブ音が部屋のどこかから聞こえてきた。
 椎名くんが立ち上がり、カウンターに置きっぱなしの樹くんのスマホを取る。投げ渡されたそれを片手でキャッチし、樹くんはゆっくりと身体を起こした。
「…………」
 無言で立ち上がった樹くんが、そのまま廊下の奥へと消える。なんだろう、ただ歩いているだけなのに、言い様のない不穏な空気が少し肌にひりついた気がする。
「でも、一華ちゃんにも困ったもんだね」
 スマホでメッセージを打ちながら、椎名くんが面倒くさそうにぼやく。
「あの人ものすごいお節介だから、中原のことが気になって気になって仕方ないみたいで」
「そうなんだ」
「うん。でもまあ、あんまり気にしなくていいよ。きっとそのうち飽きるだろうから」
 ――あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね。
 お節介。あの言葉は、そんな可愛らしい一言で収まりきるものとは思えなかった。もっと根深く、もっと恐ろしく、もっと重たい憎悪のかたまりが見え隠れしていた気がする。
 椎名くんは簡単に言うけど、一華さんには一華さんの理由がきっとあるのだろう。他の親戚の人たちはどうなのかな。たとえば樹くんの……うん?
「そういえば私、樹くんのご家族のこと全然知らないや」
 兄弟はいるのか、とか、ご家族のお仕事は、とか。
 一華さんがちらりと漏らしたお父さんの件もそうだけど、思えば私は樹くんの周りのことを何も知らずにいた。椎名くんが従兄弟にあたるということすら知らなかったほどだ。
 それは本当に何気ない、いっさいの他意のない独り言だったのだけど、椎名くんは少し微笑んだまま返事をしてはくれなかった。
 変な沈黙が部屋を包む。
 しばらくして、樹くんが戻ってきた。
 彼はいつもと同じ冷静な――でも、どこか陰のある表情で、
「里野彰良だが」
 唐突に、その名前を口にした。
「九州で行われるサミットでの警備担当になることが決まった。短期間だが神奈川県から離れる形になる」
「……え?」
「サミット後は戻ってくるが、今までの交番を離れ遠方の駐在所での勤務となる予定だ。ここへは電車とバスを乗り継いで数時間かかる距離になる。今までのように気軽に現れることはできなくなるだろう」
 樹くんは淡々と言う。でも、その内容は爆弾発言だ。
 彰良が神奈川を離れる? 帰ってきた後も、遠くの町へ行くことになる?
「それって、つまり」
 ……私はようやく、自由になれるってこと?
 頭が追い付いていかないけど、それで間違いないだろう。理解が進んでいくにつれて、身体の中に残り続けていた重荷がするすると消えていくのがわかる。
 長かった。本当に。
 でも、これでやっと、私たちは自由だ。
「国家権力を動かしたの?」
 唐突な椎名くんの声は、いつもより数段冷ややかだった。
 そこでようやく、喜び一色の私の心にも疑問が生まれる。樹くんは、なぜそのことを? ううん、それより……一体どうやって?
「代償は大きいんじゃない?」
 椎名くんの言葉に、樹くんは遠くを眺めたまま「そうだな」とだけ呟いた。