目が覚めてすぐ、身体の違和感に気がついた。
 喉がカラカラに乾いている。全身が鉛のように重い。
 胸に渦巻く不快感を堪え、とりあえず身体を起こそうとする。すると、腰回りにまとわりついていた温かなものが、私の背中をなだめるようにひと撫でした。
「おはよう」
 頭上から声。
 おそるおそる顔を上げる。
「は、……波留(はる)、くん」
「思ったとおりひどい声だな。だから水分をとれと言ったのに」
 波留くんはくつくつ笑うと、私を抱きしめていた腕をほどいてキッチンの方へと歩いて行った。唖然としてその背を見送りながら、私は少しずつ今の状況を整理する。
 ええと、ここは私の家じゃなくて、目の前にいるのは大学時代の元彼の波留くんで、それからええと……ええと。
 少しずつ記憶が鮮明になるにつれ、身体中から冷汗が噴出してくるのがわかった。
 私、もしかして、やってしまった……?





「元気そうだな」
 和やかな音楽とともに、薄暗い照明の下を新郎新婦がゆったりと歩いている。テーブルをひとつひとつ周り、中央のキャンドルへ火を灯して回るイベントだ。ハート型に広がる炎を囲み、招待客たちは皆にこやかに幸せのご相伴に預かっている。
 大学時代の親友・美咲の結婚式に呼ばれると聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのは、きっとあのメンバーが集まるだろうということだった。Y大学弓道部。私は大学生活の大半を部活動に捧げ、部で知り合った何人かは就職した今でも付き合いがある。
 今ほどの――
 練り歩く主役たちには目もくれず、私ひとりを見つめて話し始めた彼は、まさしく弓道部の人間だった。
 波留(はる)(いつき)
 容姿端麗成績優秀、大学卒業後はストレートで弁護士になった、弓道部の『王子様』。
「おかげさまで、元気にやってるよ。波留くんはどう?」
「まあまあだ。見ての通り、とでも言うべきかな」
「波留はあまり変わらないよね。中原は綺麗になったけど」
 逆隣から口を挟んできた椎名くんが、ほとんど一口でワインをあおった。中性的な顔立ちのわりに、仕草がいちいち男らしい。
「波留もそう思わない?」
「そうだな」
「やめてよ、二人とも」
 椅子の座り心地が急に悪くなってくる。
 椎名くんは私たちの代で弓道部の部長を務めていた。全員一致で選ばれたのは、弓道の腕だけが理由じゃない。誰とでもすぐに仲良くなれる人当たりの良さや、親身になって相談を聞いてくれる優しさ。あらゆる面で人として優れていると感じたから、私も彼に賛成した。
 だからこそ、腹が立った。彼はすべてを知った上で、綺麗になった、なんて素知らぬ顔で言ってのけたのだ。
 波留くんの前で。
 ……私が大学時代の一年間を恋人同士として過ごした、このひとの前で。
「冗談じゃないよ、本当にそう思った。昔は元気な女の子って感じだったけど、しっとりした大人の女性になったんだね」
「何言ってるんだか。椎名くんは今シンガポールに住んでるんだっけ? 外国ではそういう話を普通にしているの?」
「まあ、全くしないわけじゃない。でもそれだけが理由だと思われては困るな」
「見た目はあんまり変わらないのに、中身ばっかり外国人みたい。モテたんじゃない?」
「中原こそ。確か今は里野と付き合っていて、同棲もしているんだよね」
 にこやかな椎名くんの言葉が、見えないところで罪悪感を刺激した。
「そうだけど……なんで知ってるの?」
「後輩に聞いたよ。就職してから里野と付き合い始めて、そのまま同棲始めたって。長続きしているんだね」
 横目で伺った波留くんの顔が思った以上に冷めた色をたたえていてぞわりとする。
 今の恋人――同じ弓道部の里野彰良(あきら)と付き合い始めたのは大学を卒業してすぐのこと。そこから今日に至るまで、だらだらと付き合いを続けている。
 波留くんもたぶん、噂くらいは聞いたことがあるはずだ。彼もまた、私と別れて以来ずっと一人でいたわけではないのだから、私ばかりが責められることはない……と思うのだけど。
「確かに住むなら二人のほうが、お金も節約できるしね」
 ワインが気に入ったのかな、椎名くんはぐいぐいとグラスを空けていく。
 波留くんもしつこくグラスに口を付けているけど、ほとんど減っている様子はない。どうやら本当に唇をあてているだけみたいだ。
「でもそれじゃ、一緒に遊ぶのは難しそうだね。残念だったね波留、泣きたいなら胸貸すよ」
「そうだな、じゃあ泣かせてもらおうか」
「もう、そんなこと言って」
 新郎新婦が腕を組んで近づいてくる。ようやくこのテーブルにも順番が回ってきたらしい。
 新婦の美しいドレスを大袈裟に褒めながら、私はカメラを片手に立ち上がった。ドレスが綺麗なのも、一緒に写真を撮りたいのも本当だったけど、そんなことより早く波留くんの側を離れたいという思いが、何よりも強く私を突き動かしていた。


 和気藹々とした披露宴を終え、招待客たちはまばらに解散していく。
 タクシーで帰るというお金持ち達を見送り、いざバス停まで歩こうとしたとき、聞き慣れた声が背中から私を呼び止めた。
 嫌な予感がしつつも振り返れば、そこには当然のような顔で波留くんが立っている。微塵も色を変えない頬、影を作るほど長い下睫毛。微笑む程度にゆるんだ口元がなんだか艶めかしい。
「帰るのか」
「うん」
「少し話していかないか」
 せっかく久しぶりに会ったんだ、と波留くんの示す先では、椎名くんや他の友達が昔と少しも変わらない顔で談笑している。
「悪いけど、あんまり遅く帰るわけにいかないんだ」
 頭に浮かぶ恋人の背中。
 私の曖昧な笑顔の理由を、波留くんは必要以上に察してくれたようだった。
 軽くうつむく。そうか残念だ、と告げる声の低さに、少しだけ胸が痛くなる。
「またの機会に、是非。皆とランチしたいって思ってたし」
「そうだな、良い店を探しておこう」
「うん、私もいろいろ見ておくよ。……それじゃ、今日はこれで」
 きびすを返すより先に腕を掴まれる。
 唖然とする間もなく引き寄せられ、気づけば耳元に波留くんの唇があった。
 吐息が熱い。
「……悪い。なんでもないんだ」
 ぱ、と手を離されたとき、腰を抜かさず踏みとどまった自分を褒めてやりたい。
 遅れてやってきた羞恥に真っ赤になる私を見て、波留くんはもう一度詫びを述べてから去っていく。私の様子に気づいた椎名くんが目を細めていたけれど、私は気づかないふりをしてそそくさとその場から立ち去った。


 脱ぎ散らかされた靴をまたいで部屋に入る。
 つけっぱなしのテレビから耳障りな笑い声が聞こえてくる。シャワーの音が止むと、それはいっそう大きく頭の中で反響した。こめかみが痛む。
「あ、いたんだ」
 首にタオルをひっかけた彼――彰良が、髪の水滴を拭いながらやってくる。全裸のままソファに座ろうとした彼に下着を投げつけ、何か言ってやろうと思ったけど言葉が出てこない。
「いい結婚式だったよ」
 結局当たり障りのない言葉でお茶を濁そうとしたけど、返ってきたのは「そう」という一言だけだった。
「もっと何かないの?」
「何かって?」
「部活で一緒だったんだから」
「さあ、幽霊部員みたいなもんだったしなぁ」
「みんな来てたよ。あんまり変わらなかった」
「そう」
 気分を変えたくてパーティドレスを脱ぎ捨てる。半ばまでチャックを開けてからカーテンを閉め、その場でパジャマに着替えた。
 付き合い四年、同棲一年。
 恥じらいがないのはお互い様だ。
「お前さ、その鼻歌」
 テレビのリモコンをいじりながら彰良が言う。
「古いし音外れてるし、うざい」
「どーもすみません」
 この部屋に転がり込んだ当時、同棲という言葉には夢があった。好きな人といつも一緒にいられると思えば、不安なんて何もなかった。
 だが実際はどうだろう。心が躍ったのはほんの最初の頃だけで、半年もする頃には間近に見る彼の寝顔にときめくこともなく、風呂上がりに裸で出てきても恥じらいどころか怒りすら沸かなくなってしまった。一緒に出かけることだってほとんどないし、エッチだってもう何ヶ月もしていない。
 一足飛びで夫婦になってしまったのだとしたら、夫婦というのはこんなにも冷たいものなのだろうか。
 真っ白なチャペルでキスをしていたあの二人は、心から幸せそうに微笑みあっていたというのに……。
「俺、先寝るわ」
 ひとつしかないベッドで向けられた背中。向かい合って眠らなくなったのはいつからだろう。
 これみよがしについたため息は、自分を情けない気持ちにさせるだけだった。





 連絡をくれたのが親友の美咲でなかったら、あるいは断っていたかもしれない。
 波留くんから話があったと思うけど、という出だしで始まったその内容は、元弓道部のみんなでケーキバイキングに行こうという無邪気なお誘いだった。本気で行くとは思っていなかったので少し驚いたけど、別に断るような理由もない。
 日本初出店の有名ケーキ店ということもあり、ケーキそのものには心惹かれた。でも、引っかかることがひとつだけある。
 波留くんだ。
(やっぱり来るよね、きっと)
 なんとなく訊ねることができなかったけど、言い出した張本人が来ないなんてことはないだろう。引き留められた腕。近づく唇。真っ赤になった自分を思い出すと顔を合わせるのが気まずくなってくるけど、私たちはもう別れて以来七年近い月日が流れている。
(気にすることなんてなにもない。きっと、なにも)
 はたして待ち合わせ場所に到着してみれば、そこには狙い澄ましたかのように波留くんがひとりで佇んでいた。思わず足を止めた私を見て、形の良い唇がふ、と笑う。
「早いな。五分前か」
「波留くんこそ」
 何事もなかったかのように接してくるのはせめてもの救いだった。酔いの上での戯れだったと思えるのなら、それに越したことはない。
「本当に行くことになるとは思わなかったよ」
「俺もだ」
「波留くんが言い出したんじゃないの?」
「いや、橋本(美咲の旧姓)だ。あのあと連絡が来て『披露宴じゃあんまり喋れなかったから、時間とって皆で会おう』と」
「ああ、それで」
 会話が途切れる。
 沈黙は怖いけど良い話題もない。雑踏の中で友人を探すふりをしていると、背中までのロングヘアーを肩で結んだ美咲の顔が、人波の中からぴょんと跳ねるように近づいてきた。
「百合香ー! 波留ー! 久しぶりっ!」
「こないだの結婚式で会ったばっかりでしょ、美咲」
「でもほら、あの時は私が主役だったからそんなにお喋りもできなかったし、やっぱり百合香とは気楽な形で会いたかったし!」
 このあいだの豪奢なドレス姿とは違う、カジュアルで可愛い花柄のスカート。
 そしてその後ろからひぃひぃ言いながらついてきたのは、美咲の恋人……じゃなくて、旦那さんになった石川達也くん。大学の頃から美咲の尻に敷かれていたけど、その関係はどうやら新婚さんの今も変わらないらしい。
 時間が合えば椎名くんが途中参加とのことで、ひとまず四人でケーキ屋さんへ入ることにした。予約の名前を聞かれたときに旧姓の「橋本」を名乗りかけた美咲が、達也くんのほうを振り返り気恥ずかしそうに笑っている。
(ああ、いいなあ。新婚さん)
 うっとりする私は完全に外野。店に入っても二人のペースはそのままだった。当然のように隣同士で腰かけた新婚夫婦を前に、私は若干の気まずさを押し隠して波留くんの隣へと座る。波留くんは私をちらと見たものの、特別意識した様子はなかった。
「すごいケーキの数だね、70種類だっけ?」
「そうそう、しかもハズレがないんだって。ねえ達也、とりあえずあのライン全部とって来ようよ」
「マジかよ、そんなに食えるのか?」
「いけるいける! 甘いものは別腹なの、知ってるでしょ?」
 喜び勇んで飛び出した美咲を追って、達也くんも苦笑しながら列に並ぶ。
「相変わらずだな」
「そうだね」
 囁くようなひとりごとに、私は振り返らず返事をした。
「二人とも、大学の頃と全然変わらないね」
「ほっとしたか?」
「どうして?」
「そう見えただけだ」
 本当にほっとしているとしたら、それはたぶん別の理由によるものだろう。
 言ってやりたい気もしたけど、笑って誤魔化す。どんな反撃が来るかわかったもんじゃない。
 ケーキをつっつきながら、四人で他愛ない話をした。仕事のこととか友達のこととか、話すことなんて結局のところ似たり寄ったり。私の場合は披露宴で椎名くんたちに聞かせた話を繰り返しているようなものだ。
「そういや中原、まだあいつと付き合ってんの?」
 だからこの話題も繰り返すのだろうと、ある程度は覚悟していた。
 隣の視線を無視しながら、私はチーズケーキにフォークを刺す。
「続いてるよ。一緒に住んでる」
「同棲? いいねー」
「里野は元気? 仕事は何してるの?」
「警察官。交番勤務で三交代制だから、休みがなかなか合わなくてね」
「へえ、そうなんだ。でもそれなら、里野が休みの日はご飯とか作ってもらえるんじゃない?」
 美咲、と達也くんの唇が動いた。
 たしなめるような視線が美咲へ、それから私をかすめてその隣をさまよう。構わず、私は続けた。
「いや、結局私が作ってるよ。昔はたまーに簡単なの作ってくれたりしたけど、今はあんまり」
「えーっ、そうなの? 共働きなのに、ちょっとフェアじゃないよね、それ」
「本当それ、本人に言ってやってよ。私の言うことなんてほとんど生返事なんだから」
「だってそれじゃあ、百合香は毎日仕事から帰ってきて、休みで寝てる里野の分までご飯作ってるんでしょ? 洗い物は?」
「全部わたし」
「嘘でしょ、ありえない……漫画みたいなクズ男じゃん……」
 フォークが鋭い音を立ててケーキを断った。
 隣の皿からだった。


「百合香、本当に幸せなの?」


 音が響くのと、その声が頬を打つのと、自分がヒートアップして日頃の鬱憤を声に出していたことに気づくのと。
 同時に襲われた私は、思わずフォークを取り落としていた。傍目から見れば美咲の言葉にショックを受けたようにでも見えたのかもしれない。必要以上に狼狽した達也くんが美咲を小声でたしなめている。
「幸せなんだよ。きっと、これが」
 拾ったフォークをナフキンで包みながら、どうってことないような声で笑ってみせる。
 美咲は疑わしげに眉を寄せていたけど、それ以上追求はしてこなかった。達也くんもまた、別の話題を不器用に振ったりして、彼らしい気遣いを見せてくれた。
 波留くんはといえば、二度目だからか話には全く口を挟まず、黙って皿に並ぶケーキを見ていたようだ。ただ、ケーキはどれも一口サイズ以下に細かく断たれていて、見とめた美咲が「お上品な女子じゃん」と笑ってつっこんでいた。


 以降、不穏な気配もなくケーキバイキングは終わり、美咲と達也くんは家具を見ると言ってショッピングモールへ向かっていった。
「中原はどうする?」
「帰るよ。やらなきゃならない仕事あるし」
「そうか。椎名がようやく用事を終えて、今からこちらへ来ると言っているから、よければ一緒にどうかと思ったんだが」
「どこか行くの?」
「ああ、ラーメン屋に行きたいらしい」
「あれだけケーキ食べた後で、よくまたラーメンなんて食べられるね」
「甘いものを食べた後はしょっぱいものが食べたくなるものだ。まあ俺はあまりラーメンは得意じゃないんだが」
「チャーシューの脂身、苦手だもんね」
 何気ない会話のつもりだったけど、波留くんは口元を緩ませる。
「よく覚えているじゃないか」
「……何度かそういう話、したでしょ」
「そうだな。俺も覚えているよ、中原は料理が苦手だ。作るのも面倒だが洗うのはもっと面倒くさい、結婚するなら家事が得意な人がいい、だったか」
 私は内心頭を抱える。確かに大学の頃、ふざけてそんなことを言った覚えはある。でも、どうしてまあ自分でも薄ぼんやりとしか思い出せないようなことを、この人はきちんと覚えているのだろうか。
 理由を訊ねてみたい気はしたけど、彼の口からそれを言わせるのは少し怖い。結局私はわざとらしく、明るく笑ってみせた。
「よし、それじゃあ今から結婚相談所に良い人探しに行こうかな!」
 それじゃあまた!と大きく手を振り、駅に向かって歩き出す。
 さすがに予想外の返事だったらしい。波留くんは少し言葉を失っていたようだけど、すぐに我に返ったらしく、後ろから呼び止める声が追ってくる。
「待て、中原」
「待たないよ。また変なこと言うんでしょ」
「変じゃない。一言だけだ」
 腕を捕らえられる。引き寄せられる身体。ああ、またこれだ。
 仕方なしに振り返った私は、彼の目を見上げてからすぐに後悔した。
 はっきりと見開かれた切れ長の瞳。
 冷たいとも言えるほどの獣のような眼光が、端にいくばくかの熱をにじませて私を射抜いている。抑えきれない感情を外側から直接ねじ込んでくる強引さ。外れかけた冷静さの仮面の奥に色めく情熱は、あの頃と少しも変わらない。
「何かあったらいつでも呼べ」
 彼の手が手首から指先へ、辿るように動いていく。
「待っている」
 そして、離れた。
 思わず縋ってしまいたくなるほどの温かさだった。