家の玄関を前にして息を呑んだ。
 僕にはまだ問題が残っている。だから、それを解消しなければいけない。ただ頷いて、良い子に逃げるのはもうやめようと思った。僕がそれを望んでいないのだから。

「……ただいま」

 リビングから聞こえてくる何かを炒める音。返事が来ないのを考えると、どうやら料理に気を取られて僕の帰宅に気が付いていないようだ。
 一つ大きく深呼吸をする。速い鼓動はそのままだったけれど、力の入る肩が幾分マシになった。
 意を決してリビングのドアを開ける。ちょうど、母親はコンロの火を止めたところだった。

「あら、おかえり」

 言葉に遅れて顔を上げた母親は一瞬にして訝しんだ。

「その荷物は何?」

 冷やついた声色に気圧される。きっと、ある種のトラウマになっているんだろう。
 大学に進学して一人暮らしをするまで辛抱すればいい。そう考えていた過去の僕。でも、彼女と出会って人生の有限さに気づかされた。だから、乗り越えなければいけない。

「やりたいことが出来たから、その道具だよ」

「やりたいこと?」

 母親は僕の言葉を待たず、既に否定を口に含んで用意しているように見えた。

「……絵をまた描きたいと思って」

「駄目に決まってるでしょ!」

 間髪入れずに耳をつんざく母親の言葉は予想通りだった。そして、ここから僕の心を折るようにまくし立てることもわかっていた。

「勉強はどうするの!? 最近は成績も落ちてきているじゃない。今年に入ってずっと模試がB判定よ。学内テストだって、順位を落としたじゃない。そんなんじゃ、良い大学に入って、良い企業に就職なんて出来ないわよ! わかってるの?」

「勉強はするよ。母さんの望んだ大学も入る。こだわりはないからね。だから、僕にもやりたいことをやらせてほしい」

 存外、冷静だった自分に驚く。

「それで万が一、受験に失敗したらどうするの。やれることはいくらでもあるんだから、絵にかまける暇なんてないのよ!」

「合格ラインは割らないようにする。それにやれることじゃなくて、今やりたいことを優先したいんだ。……未来なんて、誰にもわからないんだし」

「母さんは翔琉のためを思って言ってるのよ!」

「……ありがとう。でも、お願いします。僕に絵を描かせてください」

 母親をじっと見つめる。今までは目をそらして首肯に逃げていた。だから、今日は目を合わせ続けた。僕の気持ちが本気だと伝わるように。
 やがて、母親は諦めたようにため息をついた。

「成績落としたら、全部捨てるわよ」

 それ以上、母親は何も言わずに夕飯の支度に戻った。
 案外、過去のトラウマなんて向き合ってみれば大したことは無いのかもしれない。僕が勝手に逃げて、自分の意思を伝えなかったから、ずるずると長引いていただけだ。

「ありがとう、母さん」

 母親から言葉は返ってこなかったけれど、それが許しの合図だった。

 自室に戻ってベッドに身体を投げ出す。柔らかい感触に包まれ、一気に力が抜けた。
 まだ過去を清算しただけだというのに、随分と疲労を感じる。
 秒針の音が耳に伝わり、身体を起こす。こうしている間にも、時間は確実に進んでいる。もう、一分一秒を無駄にするのはやめると決めた。
 イーゼルを組み立て、キャンバスを置いてみる。久しぶりの迫力に少しだけたじろいだ。
 真っ白な空白を一から全て自分の色で染める。不安と緊張、そして忘れていた胸の高鳴りがそこにあった。
 描きたいものは決まっている。

「タイトルか……」

 考えるまでもなく、すぐに思いついた。
 僕の世界と、彼女の世界。真夏の景色に映った、真冬を生きる彼女。
 僕だけが知る雨笠涼音という少女の全て。
 だから、タイトルは決まっている。

『――――――――』

 紙に描いたタイトルをイーゼルの下に貼り、僕は筆を取った。