彼女の家は知っていた。
 学校から走り続けて十分弱。海が一望できる小さな坂道の一角。なんてことのない一軒家だった。真新しい見た目をしてはいるが、ここに昔から家があって、立て壊しが行われていないことは知っている。だから、きっと彼女の祖母の家なのだろう。
 
 荒ぶる心臓が治まるまでかなりの時間を有した。
 正直、なんで彼女の家に来たのかわからない。でも、僕の足はここへと一直線に駆けた。
 彼女には、今はあまり会いたい気分じゃない。何を問えばいいのか、何を語り掛ければいいのか、そんなの一個だってわからない。しかし、胸を縛り付けるこの感覚を、このままにしておくなんて出来なかった。

 大きく息を吐き、意を決して、インターフォンを押す。小さく響く音が聞こえて、すぐに人の気配を家の中から感じた。
 玄関がゆっくりと開いて、姿を現したのは四十代前半くらいに見える女性。一目で彼女の母親だとわかった。彼女とそっくりの濡れた烏の羽のような艶めきを放つ髪をしていたから。

「はい? どなたですか?」

 緊張に震える舌を奥歯で噛む。

「雨笠涼音さんのクラスメイトの者です」

「まあ、娘のお友達?」

 涼音の母親は目を丸くして驚いたのち、口元に優しい笑みを添えた。彼女の笑顔とそっくりだと思った。

「ええ、まあ……。あの、涼音さんはご在宅でしょうか?」

 緊張か、焦燥か、いつもの他人行儀な自分が出てこなくて、掠れた訥々としたものになってしまう。

「ごめんなさいね。あの子、散歩に行くってついさっき出てったばかりなの。良かったら上がってお待ちになって」

 涼音の母親は急に来訪した僕を、しかも夕飯時で忙しいだろう最中、快く家へと上げてくれた。しかも、鞄一つ持たず、手ぶらで汗だくな僕に煎茶と、お茶請けだけでなく、タオルまで用意してくれる周到さだ。
 涼音の母親は瑚春(こはる)と名乗った。随分と物腰が柔らかな女性で、いつも溌剌な彼女からは想像の出来ない母親像だ。
 案外、彼女も大人になればこのくらい落ち着くのかもしれない。そんなことを考えて、また胸がちくりと痛む。
 通されたリビングは家族三人と考えると少し手狭で、やたらと綺麗な床や壁が落ち着かない。きっと、外装も内装もリフォームを施したのだろう。

「娘のお友達がこの家に来たのは、鳥野くんが初めてよ」

「えっ……どうして僕の名前を?」

 瑚春さんは微笑む。硝子のような透き通る瞳も、嫣然としたときの目の細め方も、彼女そっくりだ。

「ふふっ、あの子いっつも楽しそうに話すんですもの。一人の男の子のお話。すぐにあなたのことだとわかったわ」

「それは、何というか、お恥ずかしい限りです」

 今日だけで、二回同じような辱めを受けた気分だ。教師の次はあろうことか彼女の親。用事が無いのなら、今すぐお暇して顔を隠しながら帰りたい。

「本当に嬉しそうに話してくれるのよ。夢に付き合ってくれる人が出来たとか、一生懸命私に質問しながらつくったサンドイッチを美味しいって言ってくれたとか……」

 次々と瑚春さんの口から出てくる僕と彼女の思い出。恥ずかしくて、でも嬉しくて、照れ隠しで湯呑を口元に運ぶ。

「でも、涼音とお出かけするのはやっぱり大変でしょ? 本当に嫌な思いはしていないかしら」

 心臓が強く打つ。穏やかな空気が一変したような気がした。

「全然、嫌な思いとかはしてません。涼音さんからは、本当に色んなことを学ばせていただいてます」

「良かったわ。それだけが気がかりだったの。あの子、昔っから変わらずお転婆だから、大変でしょう?」

 僕は苦笑した。でも、それが彼女の良いところでもあるから、無下に首は横に振らない。

「おかげで、良い経験をさせてもらえてます」

 瑚春さんは僕と彼女のことを、言葉通り根掘り葉掘り尋ねた。学校での成績とか、友達は他にいるかとか。彼女のこと主軸で話は進むのに、僕が疑問に抱くことには中々触れない。きっと、瑚春さんも僕がどこまで知っているのかわからないのだ。だから、深い話は最初だけで、あとは何てことのない世間話に花を咲かせる。
 でも、僕はそんなことじゃなくて、もっと確信めいたことを話したい。そのためにここに来たのだから。

「あの、涼音さん最近お休みが多いですけど、体調の方は大丈夫ですか?」

 思い切って、足を踏み出す。視線が自然と下がり、瑚春さんの目を見ることが出来ない。

「心配させちゃってごめんなさいね。体調は大丈夫なの。ただ、最近はどうも精神的に不安定になることが多くてね。本人も結構、参っちゃってるみたい」

「……そうですか。僕も少し戸惑うことが多いです。嫌ってわけじゃないんですけど、彼女が取り乱した時どう接してよいのか、正直よくわかりません」

 外から、小さな子供たちの無邪気な声が聞こえてきた。陽は既に西の空に姿を隠し、外は藍色の世界になりつつある。

「そういう時はね、何も言わずに側にいてあげるだけでいいのよ。あの子もよくそうしていたわ」

「あの子……?」

 瑚春さんは目を細めて遠くを見つめる。まるで、過去の思い出を起こし、懐かしむように。その瞳は少しだけ潤んでいて、細い指先が目元を撫でる。

「陽音と涼音はどっちかが落ち込んでたり、泣いてたりすると、もう片方は必ず横で何も言わずにじっと寄り添ってたわ。それで、いつの間にか二人して肩を預けながら寝ちゃって」

 瑚春さんにとっては、つい昨年までの当たり前の光景で、今では永遠に見ることのできない姿。
 想像は出来た。だって、僕の知る涼音は人の気持ちが良くわかって、持ち前の溌剌さだけでなく、静かに感情の共有が出来る女性だ。彼女の纏う気配に何度心を奪われたかわからない。
 壁にかかるアンティーク調の振り子時計が、重々しい低音を奏でる。見ると、時刻は十八時を回っていた。既にお邪魔してから一時間以上経過している。

「すいません。こんなに長居してしまって。出直します」

「あら、ごめんなさいね。あの子、どこまで行ったのかしら……。今日も朝から不安定だったし、心配だわ」

 玄関先まで瑚春さんは見送ってくれた。すっかり外が暗くなっていることが、玄関越しにも伝わる。
 靴を履き、お暇しようとした時、大事なことを思いだした。なんで、失念していたのだろうか。

「あの最後に、陽音さんにお線香を上げたいのですが」

 僕の言葉に瑚春さんは眉をぴくっと動かし、目を閉じて小さく首を振った。その様子が、ひどく悲しそうに見える。

「ごめんなさいね。今日は、遅くなる前に帰りなさい」

 遠回しに拒絶されているのだと察した。なぜ、拒まれたのかわからない。
 胸がざわざわと騒ぐ。
 ただの高校生にあんなにも丁寧に、良心的に接してくれた人が、一感情で故人への哀悼を断るだろうか。ほんの一時間しか話していないけど、瑚春さんがそんな人で無いことくらい、よくわかる。
 じゃあ、どうして……。

「そ、そうですか……。では、失礼します」

 六月の夜はまだ暑いとは言えない。生ぬるい風が肌をなぞる。まるで、今の僕の心情を表しているみたいだ。色んなものが絡まって、どこが違えた結び目なのかわからない。
 穴あきのパズルをずっと眺めている。そんな気分だ。

 スマホも鞄も、全部学校に置きっぱなしだ。早く戻らないと閉まってしまう。
 やけに重い身体を引きずる。面倒だけど、取りに戻ることにした。
 商店街を抜け、海沿いの坂道を上る。海開きもまだだというのに、海岸には褐色のガラの悪いグループが溜まって小さな輪をつくっていた。正面から近づいては一瞬に過ぎ去っていく自動車のライトに目がくらむ。

 ゆっくり歩きながら、ずっと考えていた。結局、彼女の家に行って、わかったことは何もない。もやもやが増えただけだ。そして、何か大きな間違いを犯した気がする。
 彼女に直接聞くのが一番手っ取り早い。そんなことはわかっている。でも、彼女は僕に隠したのだ。嘘をつかない彼女が僕に教えなかった。つまり、彼女は語りたくないと言うことだろう。ならば、僕自身で答えを導き出すしかない。きっと、もうパーツは全部揃っているのだ。これ以上、誰に何を聞いても増えることは無い。というか、元々僕は全てのパーツが手札にあった。今日は、一日を通してそのパーツの再確認をしただけだ。

 目の前の踏切が、けたたましい音と共に橋を降ろす。
 視線を上げた僕は、対岸で同じように昇降機が上がるのを待つ人物に驚く。その人物は僕を一点に見つめ、両手を頭の上で大きく振っている。大きく口を開けて、何か言ってるみたいだけど、カーン! カーン! というやかましい音で聞き取れない。
 暗がりに包まれだす夜の街で、踏切付近だけが明るさを保ち、その中心に彼女がいるみたいだ。いや、そうじゃない。踏切の明るさに負けない輝きを、彼女が発していた。

 僕も手を挙げて答えようと、右手を軽く顔の横に持ってきて、動きを止める。
 交互に何度も点滅する赤い信号に何故か目を吸われた。点いて、消えて、また点いて――。
 鼓動が急に早くなる。
 電車が横切り、彼女の姿が窓越しに映る。まるで、鏡の中みたいに。六月の初夏の僕の世界で、半そでの彼女が。
 散らばっていたピースが、勝手に動きだす。一つハマると、次が動きだして、また正解の位置に移動していく。

 彼女との思い出が鮮明に思い起こされる。
 ――私が、私だという証明だからだよ。
 初めて出会った時、僕に名前呼びを強要した彼女。
 ――女の子が八か月入院して寝たきりだった理由は、頭を強く打っちゃって、その打ち所が悪かったから。そして、双子が引き裂かれた理由は信号無視の車との衝突事故。
 事故を説明するときの曖昧な語り口をしていた彼女。
 ――んー、でも身体を壊すのは申し訳ないからなぁ。
 山頂で、風邪をひく心配を含みのある言い方で受け取った彼女。
 ――お姉ちゃんは行けて、私は行けなくて。双子なのに……。ずっと一緒に同じ景色を見てきたのに、急に私だけが病院の窓からの景色ばかりで、お姉ちゃんのこと何度恨んだかわかんない。でも、会ったら好きなフリしなくちゃって。辛かったよね?
 ちぐはぐで整合性のない独り言。

 置き去りにしていた違和感が、違和感でなくなっていく。不可解な言動が、カチッと当てはまっていく。
 心臓が悲鳴を上げる。
 うるさい鐘が、すごくゆっくり聞こえた。そして、脳内で全てのピースがある過程を経て、ぴったりとハマったと同時に、世界が急速に動きだす。
 電車は轟音を残して過ぎ去り、対岸の彼女が鮮明に姿を見せる。
 ひまわりのような夜でも輝く笑顔。
 この笑顔の少女は――。

 僕は彼女に背を向けて走り出した。
 今すぐ、確認しろと僕の心が叫んでいる。でも、現実を見たくない自分もいて、頭がおかしくなりそうだ。
 走りながら、なぜか涙が出そうになった。泣くなんて、お門違いもいいところなのに。
 思い返せば、彼女は一度も〝死ぬ〟とは言わなかった。消えるとかタイムリミットなんて言葉で、ちゃんと伝えていたんだ。
 気づきたくなかった。
 気づかなかった方が良かった。
 知らないふりをして、残りの日々を過ごせばよかった。
 きっと、弱虫な僕は今日の行いを一生後悔して、引きずり続ける。
 背負う覚悟も、歩む覚悟もまだないけれど、現実は残酷で、僕に受け入れろと時計の針を進め続ける。
 閉じたくなる瞳を、止めたくなる足を、食いしばって耐えた。
 僕は現実と向き合わなければいけない。それが、雨笠涼音に対する最大の敬意だ。

 彼女の家のインターフォンを迷うことなく押した。暴れる心臓がうるさくて、押せたかわからなかったから、もう一度強く確実に押す。
 ドアが開くまでの数秒がもどかしかった。すごく失礼なことをしているのは承知の上だ。
 白塗りのドアがゆっくりと開き、瑚春さんが驚いた表情で顔を見せる。その瞬間、僕は頭を下げていた。

「先ほどは、すいませんでした」

 切れ切れな呼吸で、精一杯口にした。瑚春さんの顔は見えない。でも、僕の言葉を待ってくれている気がした。

「改めて、娘さんに会わせていただきたいです。会って、お話をさせてください。雨笠涼音さんと――」

 さっきまでの境遇が嘘のように、心の底から落ち着いていた。
 ゆっくりと顔を上げる。
 瑚春さんは口元に手を当てて、今にもその瞳に溜めた涙を零してしまいそうだった。でも、その表情は悲しさというよりは、嬉しさを帯びているように思える。

「翔琉くんっ!」

 背後から聞こえてきた声に、振り向いても良いのかわからなかった。
 瑚春さんは涙を拭い、僕に微笑みかける。そして、僕の後ろへと視線を向けた。

「少し、出ています。涼音、鳥野くんをご案内して、よく話し合いなさい」

 もう、後戻りはできない。
 僕は改めて、彼女の家に招かれた。