暗い部屋で目を覚ます。自室のベッドの中だった。日付を確認すると、予想通り三月三十日の二十二時半。佑が二度目に死んだ四月一日から二日、つまり四十八時間戻ることができた。彼が亡くなったのは二十一時前だったが、あまりのショックから、すぐさま時間を戻すことができなかった。
半身を起こし、両手で顔を覆う。救えなかった。またしても、佑を死なせてしまった。下浮月橋に行かせなければ大丈夫だと思っていたが、彼の死に対する決意は並大抵のものではなかった。入水が叶わないなら軽々と他の方法に乗り換えて、とにかく死んでしまう。この力は運命を捻じ曲げることも可能なはずだ。それでも適わない。
だが、絶対に諦めるわけにはいかない。
眠れるわけがなく、明け方に少しうとうとしただけで、サークルの定例会に向かった。
「どしたの、ずっきー。クマできてるよ」
以前の三月三十一日とは異なる台詞を月子が口にする。ちょっと寝不足でと説明し、席に着いた。
「ちゃんと寝ないと駄目ですよ」
佑が囁いてくすくす笑う。おまえのせいだと小突く気持ちなど起きなかった。黙って頷くと拍子抜けしたのか、彼は目をぱちくりさせていた。
月子が前と同じことを話し、同じことをホワイトボードに書く。花見の提案をし、お開きになる。
「ねえ、ゆうゆうたちは来る? お花見」
全く同じ台詞。ぼんやりしている佑の頬を月子がつつく。今ならわかる。彼は明日に控えた自分の死について考えていたのだ。花見だなんて浮かれた気分には、とてもなれるはずがない。
「どうせ夜更かししたんだろ」
「いやいや、富士さんじゃないんだから」
「意味わからんて」
富士見とのやり取り。へらへらと笑ういつもの結城佑。それを見つめるだけで、自分がどれだけ平穏な時間を過ごしていたのかを思い知る。
「ずっきーはどうする、お花見行く?」
月子の視線がこちらを向く。
「……ちょっと、用事があって」
「そっかー。残念。急だったし、仕方ないよね」
月子は次に富士見に声を掛け、そして佑に声を掛ける。
「ゆうゆうはどうする? ずっきーが来ないなら、ちょっとあれかな」
からかうような言葉に、彼はにっこりと笑ってみせた。
「行けないかなあ」
「おまえ、どんだけ瑞希ちゃんにくっついてるんだよ」
「いやー、そういうことじゃなくって」
富士見に笑いかけ、彼は少し考える。
「もし、僕がこの世からいなくなったらどうしますか」
きた。瑞希は身を強張らせる。佑のこの一言は、後に月子たちにも大きな後悔を負わせることになる。彼はこうして、少しでも他人の記憶に残りたかったのかもしれない。
たったこれだけの台詞が、佑の悲鳴のようにも思える。
「やめてよ」
先輩二人が口を開く前に、瑞希は言葉を食いこませた。
「去年の四月一日に言ってたことでしょ。それ、嘘じゃないんでしょ。死んだりなんてしないでよ!」
瑞希の剣幕に、顔を見合わせる月子と富士見はおろか、佑まで驚きの表情を浮かべている。
「そんなこと言ってたのか」
「ゆうゆう、どした? なんか悩みでもあるの」
戸惑いつつも、二人が真剣味を帯びた口調で問いかける。この展開は佑にとって想定外のはずだ。普段の自分のキャラクターからは予想もつかないことを言ったのだから、冗談ととられるはずなのだ。
「あれ? 先輩、信じてたんですか」
思わぬ空気を察した彼は、全く自然な素振りで目を丸くしてみせた。
「やだなあ、去年の四月一日でしょ、エイプリルフールですよ。まだ覚えててくれるかなって言ってみただけですよ」
誤魔化す気だ。そして佑が作り上げたキャラクターは、その誤魔化しを可能にしている。まさか結城佑が死を選ぶわけないじゃないか。誰もがそう思う人物として。
「なるほどー、エイプリルフールかあ。やられたなあ」
月子がほっとした風に笑い、富士見も「おまえは本当に馬鹿だなあ」と呆れた顔をした。
彼の自殺願望を瑞希がどれだけ肯定しても、彼自身が否定すれば、この場の誰も信用しない。言ったくせに信用させないように彼が動いているのだ。誰かが期待を裏切ってくれないかと、周りを試しているのだ。そして誰もが彼の期待通り、結城佑の自殺など想像さえしない。
定例会後、以前の瑞希はさっさと帰路に着いた。
だが今回は違う。初めて瑞希から佑に「帰ろ」と声を掛けたのだ。「いいの?」などと面食らった顔をする彼の腕を掴み、電車に乗った。
車両は浮月川にかかる鉄橋を渡っていく。きらきらと輝く水面を見つめ、明日の彼がどうかここに飛び込むことにならないよう、必死に祈る。
「どうしたんですか。なんか変だなあ。先輩らしくない」
秘密基地に行こうと誘うと、彼は目を細めてにやにやした。その手を握りしめて河原を行く。
「ねえ」一度、軽く唇を噛む。「本気なんでしょ」
「本気って、なんのこと」
「エイプリルフールなんかじゃないんでしょ」
彼が立ち止まり、するりと手が解けた。振り向くと、佑は強く口を引き結んでいた。尚もふざけようとしているのか、頬が二、三度引きつったが、すぐに諦めたらしい。
「なんでそう思うんですか。死相でも浮いてます?」
わざと両手で頬をつまみ、口角を上げてみせる。その仕草が愛おしくて仕方ない。急に鼻の奥がツンとして下を向くと、彼は慌てて「ごめんなさい」と謝った。
青空の下、いつものソファーにタオルケットをかけ、並んで腰を下ろす。正面に広がる浮月川は、電車の窓から見たのと同じように輝いている。
「信じてもらえるって、嬉しいなあ」
あどけない表情で、佑が笑った。その横顔を見て、いたたまれない気持ちになる。
「こんなの、誰にも信じてもらえないって思ってた。だって、結城佑だもん。そんなこと言うキャラじゃないし」
「私、寂しいよ」
俯くと、佑の笑い声が途切れた。
「いなくなってほしくないよ」
「ごめんね、先輩」
「なら、やめてよ。私、佑がいない毎日なんて、耐えられないよ」
「……初めて呼んでくれた」
昨日と同じ。瑞希が自分の名を呼ぶことに驚いて笑う。「一生、呼んでくれないかと思ってた」
「呼ぶよ。いくらだって呼ぶから。だから……だから、これからも私と一緒にいてよ」
零れそうな涙を必死にこらえる。代わりに、もっとずっと早くに言うべきだった言葉たちが、ぽろぽろと雨粒のように転がり落ちる。一年ですっかり馴染んだ結城佑の笑顔。明日を越えれば、その姿さえ見られなくなるだなんて。
じっと黙って瑞希を見つめていた佑は、ゆっくり頷いた。
「先輩、繰り返してるんですね」
彼は本当に勘の良い少年だ。言葉に詰まる瑞希を見て、「やっぱり」と確信する。
「だって、先輩がこんなに心変わりするなんて、信じられない。僕なんかに全くなびかないクールさはどこいったんですか」
「クールなんかじゃない。私は素直じゃないだけ」
「どの未来から戻って来たんですか」
ひとまがいである彼は、実のところ瑞希よりずっと賢かった。誤魔化す気など今更起きず、「四月五日と、四月一日」と瑞希は呟いた。
「じゃあ、これで二回目ってこと? それなら、僕の手紙とかも見られてるんですね。あー、なんだか恥ずかしいなあ」照れ笑いなんかをする。「ひとまがいのネタばらし、しないでね。まだ完結してないんだから」
「そういうことじゃないでしょ」
「あっ、じゃあ、どうだったんですか。新人賞!」
「……通ってたよ。一次」
「やっぱり! おめでとうございます!」
自殺のことなどすっかり忘れた風で、彼は両手を握ってぶんぶん振ってくる。いつも通りのマイペースぶりに、ついその手を振り払った。
「だから、そんなのどうでもいいんだってば! 私は止めに来たの。佑が死ぬのを阻止したいの!」
「でも、前の繰り返しで失敗したんだ」
「何を言っても聞いてくれなかった。ひねくれて、私の告白にも耳を貸さなかった」
「先輩、告白なんてしたんですか」
うっかり赤面するのを感じる。「したよ!」やけになって肯定する。
「そしたら、僕はなんて?」
「そんなのはただの感傷だって。止めたいからそんなことを言ってるだけだろうって」
「うわあ、ひねくれてるなあ」
「違うのに。私、ほんとに好きだって思ってるのに。馬鹿、佑の大ばか!」
わざとらしくのけぞる佑に、真っ赤な顔で吠えた。くくくと喉を鳴らした後、あははと彼は笑った。
「嬉しいなあ。信じてもらえるだけで嬉しいのに、先輩がそんなこと言ってくれるなんて」
「ねえ、考え直してよ。みんな悲しむよ。月子さんも富士見さんも、学校の子たちも、うちの文芸部の部長や弥生だって。佑と知り合った人たちは、みんな泣くよ」
しかしどれほど訴えても、佑に未来を変える素振りはない。ちょっと困った顔をして、「それは申し訳ないですね」と言うだけだ。
「けれど、僕は寿命なんです。決まったことなんです。寿命を延ばすことなんて、それこそ神様じゃないとできないでしょ」
いつもの彼の笑顔は、まるで泣き顔のようにも見えた。
半身を起こし、両手で顔を覆う。救えなかった。またしても、佑を死なせてしまった。下浮月橋に行かせなければ大丈夫だと思っていたが、彼の死に対する決意は並大抵のものではなかった。入水が叶わないなら軽々と他の方法に乗り換えて、とにかく死んでしまう。この力は運命を捻じ曲げることも可能なはずだ。それでも適わない。
だが、絶対に諦めるわけにはいかない。
眠れるわけがなく、明け方に少しうとうとしただけで、サークルの定例会に向かった。
「どしたの、ずっきー。クマできてるよ」
以前の三月三十一日とは異なる台詞を月子が口にする。ちょっと寝不足でと説明し、席に着いた。
「ちゃんと寝ないと駄目ですよ」
佑が囁いてくすくす笑う。おまえのせいだと小突く気持ちなど起きなかった。黙って頷くと拍子抜けしたのか、彼は目をぱちくりさせていた。
月子が前と同じことを話し、同じことをホワイトボードに書く。花見の提案をし、お開きになる。
「ねえ、ゆうゆうたちは来る? お花見」
全く同じ台詞。ぼんやりしている佑の頬を月子がつつく。今ならわかる。彼は明日に控えた自分の死について考えていたのだ。花見だなんて浮かれた気分には、とてもなれるはずがない。
「どうせ夜更かししたんだろ」
「いやいや、富士さんじゃないんだから」
「意味わからんて」
富士見とのやり取り。へらへらと笑ういつもの結城佑。それを見つめるだけで、自分がどれだけ平穏な時間を過ごしていたのかを思い知る。
「ずっきーはどうする、お花見行く?」
月子の視線がこちらを向く。
「……ちょっと、用事があって」
「そっかー。残念。急だったし、仕方ないよね」
月子は次に富士見に声を掛け、そして佑に声を掛ける。
「ゆうゆうはどうする? ずっきーが来ないなら、ちょっとあれかな」
からかうような言葉に、彼はにっこりと笑ってみせた。
「行けないかなあ」
「おまえ、どんだけ瑞希ちゃんにくっついてるんだよ」
「いやー、そういうことじゃなくって」
富士見に笑いかけ、彼は少し考える。
「もし、僕がこの世からいなくなったらどうしますか」
きた。瑞希は身を強張らせる。佑のこの一言は、後に月子たちにも大きな後悔を負わせることになる。彼はこうして、少しでも他人の記憶に残りたかったのかもしれない。
たったこれだけの台詞が、佑の悲鳴のようにも思える。
「やめてよ」
先輩二人が口を開く前に、瑞希は言葉を食いこませた。
「去年の四月一日に言ってたことでしょ。それ、嘘じゃないんでしょ。死んだりなんてしないでよ!」
瑞希の剣幕に、顔を見合わせる月子と富士見はおろか、佑まで驚きの表情を浮かべている。
「そんなこと言ってたのか」
「ゆうゆう、どした? なんか悩みでもあるの」
戸惑いつつも、二人が真剣味を帯びた口調で問いかける。この展開は佑にとって想定外のはずだ。普段の自分のキャラクターからは予想もつかないことを言ったのだから、冗談ととられるはずなのだ。
「あれ? 先輩、信じてたんですか」
思わぬ空気を察した彼は、全く自然な素振りで目を丸くしてみせた。
「やだなあ、去年の四月一日でしょ、エイプリルフールですよ。まだ覚えててくれるかなって言ってみただけですよ」
誤魔化す気だ。そして佑が作り上げたキャラクターは、その誤魔化しを可能にしている。まさか結城佑が死を選ぶわけないじゃないか。誰もがそう思う人物として。
「なるほどー、エイプリルフールかあ。やられたなあ」
月子がほっとした風に笑い、富士見も「おまえは本当に馬鹿だなあ」と呆れた顔をした。
彼の自殺願望を瑞希がどれだけ肯定しても、彼自身が否定すれば、この場の誰も信用しない。言ったくせに信用させないように彼が動いているのだ。誰かが期待を裏切ってくれないかと、周りを試しているのだ。そして誰もが彼の期待通り、結城佑の自殺など想像さえしない。
定例会後、以前の瑞希はさっさと帰路に着いた。
だが今回は違う。初めて瑞希から佑に「帰ろ」と声を掛けたのだ。「いいの?」などと面食らった顔をする彼の腕を掴み、電車に乗った。
車両は浮月川にかかる鉄橋を渡っていく。きらきらと輝く水面を見つめ、明日の彼がどうかここに飛び込むことにならないよう、必死に祈る。
「どうしたんですか。なんか変だなあ。先輩らしくない」
秘密基地に行こうと誘うと、彼は目を細めてにやにやした。その手を握りしめて河原を行く。
「ねえ」一度、軽く唇を噛む。「本気なんでしょ」
「本気って、なんのこと」
「エイプリルフールなんかじゃないんでしょ」
彼が立ち止まり、するりと手が解けた。振り向くと、佑は強く口を引き結んでいた。尚もふざけようとしているのか、頬が二、三度引きつったが、すぐに諦めたらしい。
「なんでそう思うんですか。死相でも浮いてます?」
わざと両手で頬をつまみ、口角を上げてみせる。その仕草が愛おしくて仕方ない。急に鼻の奥がツンとして下を向くと、彼は慌てて「ごめんなさい」と謝った。
青空の下、いつものソファーにタオルケットをかけ、並んで腰を下ろす。正面に広がる浮月川は、電車の窓から見たのと同じように輝いている。
「信じてもらえるって、嬉しいなあ」
あどけない表情で、佑が笑った。その横顔を見て、いたたまれない気持ちになる。
「こんなの、誰にも信じてもらえないって思ってた。だって、結城佑だもん。そんなこと言うキャラじゃないし」
「私、寂しいよ」
俯くと、佑の笑い声が途切れた。
「いなくなってほしくないよ」
「ごめんね、先輩」
「なら、やめてよ。私、佑がいない毎日なんて、耐えられないよ」
「……初めて呼んでくれた」
昨日と同じ。瑞希が自分の名を呼ぶことに驚いて笑う。「一生、呼んでくれないかと思ってた」
「呼ぶよ。いくらだって呼ぶから。だから……だから、これからも私と一緒にいてよ」
零れそうな涙を必死にこらえる。代わりに、もっとずっと早くに言うべきだった言葉たちが、ぽろぽろと雨粒のように転がり落ちる。一年ですっかり馴染んだ結城佑の笑顔。明日を越えれば、その姿さえ見られなくなるだなんて。
じっと黙って瑞希を見つめていた佑は、ゆっくり頷いた。
「先輩、繰り返してるんですね」
彼は本当に勘の良い少年だ。言葉に詰まる瑞希を見て、「やっぱり」と確信する。
「だって、先輩がこんなに心変わりするなんて、信じられない。僕なんかに全くなびかないクールさはどこいったんですか」
「クールなんかじゃない。私は素直じゃないだけ」
「どの未来から戻って来たんですか」
ひとまがいである彼は、実のところ瑞希よりずっと賢かった。誤魔化す気など今更起きず、「四月五日と、四月一日」と瑞希は呟いた。
「じゃあ、これで二回目ってこと? それなら、僕の手紙とかも見られてるんですね。あー、なんだか恥ずかしいなあ」照れ笑いなんかをする。「ひとまがいのネタばらし、しないでね。まだ完結してないんだから」
「そういうことじゃないでしょ」
「あっ、じゃあ、どうだったんですか。新人賞!」
「……通ってたよ。一次」
「やっぱり! おめでとうございます!」
自殺のことなどすっかり忘れた風で、彼は両手を握ってぶんぶん振ってくる。いつも通りのマイペースぶりに、ついその手を振り払った。
「だから、そんなのどうでもいいんだってば! 私は止めに来たの。佑が死ぬのを阻止したいの!」
「でも、前の繰り返しで失敗したんだ」
「何を言っても聞いてくれなかった。ひねくれて、私の告白にも耳を貸さなかった」
「先輩、告白なんてしたんですか」
うっかり赤面するのを感じる。「したよ!」やけになって肯定する。
「そしたら、僕はなんて?」
「そんなのはただの感傷だって。止めたいからそんなことを言ってるだけだろうって」
「うわあ、ひねくれてるなあ」
「違うのに。私、ほんとに好きだって思ってるのに。馬鹿、佑の大ばか!」
わざとらしくのけぞる佑に、真っ赤な顔で吠えた。くくくと喉を鳴らした後、あははと彼は笑った。
「嬉しいなあ。信じてもらえるだけで嬉しいのに、先輩がそんなこと言ってくれるなんて」
「ねえ、考え直してよ。みんな悲しむよ。月子さんも富士見さんも、学校の子たちも、うちの文芸部の部長や弥生だって。佑と知り合った人たちは、みんな泣くよ」
しかしどれほど訴えても、佑に未来を変える素振りはない。ちょっと困った顔をして、「それは申し訳ないですね」と言うだけだ。
「けれど、僕は寿命なんです。決まったことなんです。寿命を延ばすことなんて、それこそ神様じゃないとできないでしょ」
いつもの彼の笑顔は、まるで泣き顔のようにも見えた。