紺碧の夜空に無数の星々が流れ落ちていく。
 突然現れた神秘的な流星群に、あちこちから歓声が上がる。珍しい光景にバルコニーから身を乗り出す貴族もいる中、レティシアは自分の婚約者をちらりと見上げた。
 高い鼻梁と薄い唇、涼しげな目元はまるで彫刻のよう。整った美貌はさすが三大公爵家の次男だ。今夜は王家主催の舞踏会ということで、ダークブラウンの前髪は後ろに流している。そしてサファイアと同じ色彩の瞳は、王家に近い血脈の証しでもある。
 だが今、その美しい瞳は何の感情も映していないように見えた。
 それもそのはず——レティシアの婚約者はあの「寡黙の貴公子」なのだから。

(エリオル様の性格はわかっていたつもりでしたが、この美しい景色を見ても表情がまったく変わらないなんて……感情をどこかに置き忘れてしまったのでしょうか?)

 仮にも婚約者に対して失礼なことを考えつつ、レティシアは控えめな笑みの下で物思いにふけった。
 エリオル・グラージュといえば、文武両道、眉目秀麗な青年として有名だ。
 社交的な兄とは正反対で、どんな美女が話しかけても興味がなさそうに無表情を貫き、必要最低限の会話しかしない。
 けれど、その見目麗しい外見は令嬢たちの心をつかみ、クールなところがいいと人気だ。顔がいいと欠点まで美点に変わるらしい。とはいえ、人を近寄せないオーラは健在のため、貴族令嬢からは鑑賞用として遠巻きに見られている。
 一年前まではレティシアもそのうちの一人だった。
 国境を守る辺境伯の跡取りとして、三大公爵家から婿養子を取ることになったとき、エリオルが選ばれた。レティシアと年齢が近く、婚約者もいなかったことから、グラージュ公爵も二つ返事で了承したと聞いている。

(婚約者としてエスコートもしてくださいますが、いつも会話が続かなくて無言が続くのですよね。このままでは結婚生活にも支障がありそうですし、せめて心の声でもわかればいいのですけれど……あ。そういえば、昔読んだ絵本に流れ星は願い事を叶えてくれるって書いてあったような……?)

 レティシアは無言を貫く婚約者を一瞥し、流星群に視線を戻す。
 そっと両手を組み、目を伏せた。

(少しの間でいいのです。わたくしにエリオル様の心の声を聞かせてください……って、これで願いが叶えば苦労しませんよね……)

 翠玉の瞳を開くと、聞き覚えのある声が頭の中で響いた。

《私の婚約者は相変わらず美しい。祈る姿は聖女のようだ……ここに画家を呼びたいな》

 低めの落ち着いた声音は、エリオルの声と酷似していた。
 勢いよく横を振り向いたが、婚約者の口は引き結ばれたままだった。聞き間違いかと首を傾げると、再び声が聞こえてきた。

《急に振り返ってどうしたのだろう。見たところ、異常は何もないようだが……。それにしても本当にここまで星が降る夜も珍しい。これほど素敵な夜をレティシアとともに過ごせるなんて感無量だ。今夜の思い出を私は生涯忘れることはないだろう》

 神様、大変です。本当に願い事が叶ってしまったようです。

   ◆◇◆

 婚約者の心の声が聞こえる、という不思議体験は一日だけではなかった。
 彼と会うたびに、レティシアは婚約者の意外な胸中を知っては驚く日々を過ごしていた。何度か検証したところ、どうやら一定の範囲内にいれば声が届くらしい。
 教師からの頼まれ事を終わらせたレティシアは、ふと足を止めた。歩いている先に婚約者の後ろ姿が見えたからだ。挨拶をすべきかすまいか悩んでいると、エリオルのつぶやきが聞こえてきた。

《今日はレティシアをまだ見かけていないな。だが偶然を装って会うのも限度があるか……。運よく会ったところで緊張して会話も満足にできないだろうし、我慢するしかない。いや待て、もう数日も会えていない。なんとか一目だけでも……》

 婚約者の心の葛藤が脳内で直接再生され、戸惑わない人はいないだろう。
 エリオルと会う回数が多いのは彼が生徒会長だからだと思っていたし、心の声と表情がまったく一致していないので、すぐに信じられるはずもなかった。
 そもそも他人の声が聞こえるなんて荒唐無稽な話だ。誰かに相談したとしても、空想癖があると思われるのがオチだ。
 それに、どう反応を返すのが正解かもわからない。

(……ここは一時撤退と参りましょう)

 幸い、まだ向こうには気づかれていない。今のうちだと、そろりそろりと後退する。
 だがレティシアを追い越した男子生徒たちが騒ぎながら廊下を駆けていったせいで、エリオルがこちらを振り向いた。
 青く透明なサファイアの中に、レティシアの姿が映し出される。
 迷ったのは一瞬。動揺を悟られないよう、淑女の仮面を被って無理やり口角を上げる。いつも通りを意識して口を開いた。

「ご、ごきげんよう。エリオル様」
「……ああ」
「…………」
「…………」
「…………ええと、では失礼しますね」

 長い沈黙に耐えかねて廊下の端まで走り、柱の陰に隠れた。
 ここには淑女らしくない行動を諫めるメイドもいない。学び舎の下で生徒は皆、平等の立場だ。何よりエリオルは身分を振りかざすような真似はしない。
 そう頭ではわかっているが、会うたびに婚約者の思わぬ本音を聞かされる身としては、正直たまったものではない。

《レティシアの笑顔は癒やされる。もっと見ていたい。大好きだ》
《……今日もレティシアが最高に可愛い。彼女と出会わせてくれた神に感謝を捧げよう》
《世界で一番、レティシアを愛しているのは私だ》

 一週間で浴びた言葉を思い返すだけで、悶絶しそうになる。
 そこへ追い打ちをかけるように、エリオルの声が脳内に響く。

《ふ、不意打ちは心臓によくないな……息が止まるかと思った。レティシアは日に日に美しさに磨きがかかっている。見るだけで心が浄化されるようだ。ああ、これで数日は頑張れる》

 楽しげな余韻を残して、声の主は去っていく。
 一方、恋愛経験の乏しいレティシアは教科書とノートで顔を覆っていた。
 手鏡を見なくてもわかる。きっと今、自分の頬は桃のように色づいているに違いない。

   ◆◇◆

 レティシアとエリオルの婚約は、政略結婚によるものだ。
 家同士の契約のため、本人の意思は関係ない。相手が好きであろうとなかろうと、結婚から逃れることはできない。
 婚約当初は公爵家のお招きに心躍らせたものだが、そこにいたのは寡黙の貴公子だった。
 弾まない会話。動かない表情。これでは親睦が深められるはずもない。
 贈り物はこまめに届いていたが、婚約者の義務を果たしているだけだと思っていた。けれど、それは違っていたのだと最近になって知った。
 エリオルは従者に任せるのではなく、花言葉やレティシアが好む色を調べ、自ら贈り物を手配してくれていたのだ。婚約者が、自分のために一時間以上かけて真剣に悩んでくれたと知って、喜ばない人はいない。
 形だけの婚約者ならば、ここまでの気配りをする必要はない。
 大事にされていると実感するには十分すぎるほどだった。しかし、これまで気づかずにいた彼の優しさを知れば知るほど、罪悪感も膨れ上がっていく。
 誰だって、まさか婚約者に本音が筒抜けとは思うまい。
 エリオルに非はない。だからこそ、心の声には絶対に返事をしてはならないのだ。
 もし逆の立場だったら。考えるだけでも恐ろしい。もはや悪夢に近い。

(不可抗力とはいえ、わたくしがしているのは、胸の内に隠している本音を暴いているのも同じこと。ならば、聞かなかったふりをするのが優しさ……でしょうね。聞こえないふり、聞こえないふりです……)

 必死に自分に言い聞かせ、夜空に浮かぶ満月を見上げる。
 今夜は星々の光が霞むぐらいに、ひときわ白く輝きを放っていた。
 月明かりが照らす庭をエリオルと二人で歩く。公爵令息のパートナーとして夜会で最低限こなさなければならない挨拶は終わった。招待客の大半はまだ舞踏会の会場だろう。
 意図せず婚約者の本音を聞いてしまう状況に白旗を揚げ、夜風にあたりに行くと伝えたら、エリオルが同行を申し出た。これでは意味がない。だが断るのも角が立つ。そして現在、仕方なしに貸し切り状態の庭を二人きりで散策している。
 喧噪から離れ、外は静かだ。

(ん? 静か……? そういえば、さっきからエリオル様の心の声が聞こえませんね?)

 一瞥すると、エリオルは相変わらずの無表情だった。
 この状態で婚約者の気持ちを推し量ることは困難を極める。レティシアは早々に諦めた。静かであるなら、こちらは問題ない。
 木の葉がそよ風で擦れた音、夜に活動する鳥の羽ばたき、湿気を含んだ風。昼間の庭と景色は変わらないはずなのに、ほとんどの色彩が薄闇に染まっているせいで、まるで別世界にいるような錯覚を覚える。
 いつまでも続くかと思われた静寂の時間は、ふと途切れた。
 ガシャン!と窓硝子が割れる音がした後、悲鳴と叫び声がした。エリオルと足早に声のほうへ向かうと、ヒュッと影が動いた。何かがすごい速さで近づいてくる。
 黒服の男だ。武装しているらしく、右手から銀の刃が閃いた。夜会主催者である伯爵家は資産家として有名だ。鉱山で得た富で豪勢な暮らしをしており、本邸の中には大小さまざまな宝石や貴金属を飾った部屋があると聞く。
 そして怪しい人物が、後ろを何度か振り向く様子から導き出される答えは、ひとつ。

(泥棒さんですわね……!? 勝手に敷地内に侵入した挙げ句、盗みを働くとは!)

 一歩前に出たエリオルが腕を広げ、レティシアの身を隠す。
 それが自分を守ろうとする行動だと頭では理解できても、体に染みついた習慣とは恐ろしいもので、無意識に体が動く。エリオルの腕の下をくぐり抜け、サッと賊との距離を詰める。
 レティシアの今宵の装いは、有事の際に動きやすいようにボリュームを最大限抑えた特注品だ。ドレスの下は補正下着ではなく、大きなフリルが重なったもので代用し、ワンピースのように身軽に動ける作りにしてある。
 眼前に迫るナイフの刃を寸前で避け、犯人の後ろに回り込んだ。
 悪者に情けは無用。足払いをかけて相手が体勢を崩した瞬間を狙い、手首をひねり上げ、壁際までぶんっと投げ飛ばした。
 その物音で「なにか音がしたぞ!」「あっちだ!」という声が遠くから聞こえた。
 警備兵と野次馬が集まってくる気配を感じ、反射的に振り返る。すると、そこには目を見開いた状態のエリオルがいた。
 そこでようやくレティシアは我に返った。

(ああ、お父様。約束を守れなくてごめんなさい……!)

 今まで淑やかな令嬢らしく心がけていたのに、なんたる失態。
 どう取り繕っても、普通の令嬢としてあるまじき行動だ。さあっと血の気が引く。

(ど、どうしましょう……。結婚するまでは、おとなしくしているようにと厳重注意されていましたのに。こんな女、引かれるに決まっています)

 国境を守る辺境伯の娘として、レティシアは小さい頃から護身術をたたき込まれている。
 地域の特性上、不法入国者や国外逃亡を図る犯罪者を取り締まることも多く、ライセットの領民は自分の身は自分で守れるように教育を受ける。
 特に外国との玄関口である港町で商売する者は、世間話をしながら笑顔で犯人を懲らしめていくことで有名だ。なんとも誇らしい領民である。
 だが、普通の令嬢は自分で馬を駆けることはしない。本来守られる立場なのに護衛を差し置いて、悪漢を一人で懲らしめることもしない。まして、可憐な容姿で相手が油断することを見越した上で、怖がるふりをして敵を罠にはめようとは考えない。そして、細腕とは思えない握力で敵を圧倒し、時には回し蹴りで成敗するなんて――。

(言い訳は……見苦しいですね。でも一体、どうしたら……?)

 無言で見つめ合う状態は、恋のドキドキというよりも、獰猛な野生動物と遭遇してしまったドキドキに近い。やがて長い沈黙を破ったのはエリオルだった。

「……怪我は」
「ございません」