前髪ははねていない。後ろも大丈夫。襟も整っている。
 すべてを鏡の前でチェックし終えた私は、お気に入りの鞄を手に自分の部屋を出た。
 玄関で靴を履き、もう一度チェックをしてから外に出る。
 夏の朝はとても暑く、すぐに首まわりが汗でべたつく。服も体から出る汗でべっとりしてしまう。
 汗を拭くためのハンカチを鞄から取り出し、こめかみや首まわりを丁寧に拭いた。
「葉菜!」
 突然名前を呼ばれ、私は声のしたほうを向く。
 その爽やかな声の主は、準人だ。
 彼の姿が見えたのが嬉しくて、彼が私の好きな声で私の名前を呼んでくれたのが嬉しくて、集合時間より早く来てくれたのが嬉しくて、私は彼の元へ走った。
「おはよう。ごめんね、待った?」
「全然。俺も、ほんと今来たところだから」
 準人はそう言ってくれたけど、きっと、十分くらい待ったんだろうな、と思った。
 だって、日陰にいたとはいえ、準人のこめかみからは汗がけっこう出てきている。それに、髪の毛がさらさらしておらず、汗ばんでいるのだ。
「ごめんね……行こうか」
 今から映画デート。私も準人も映画が好きで、特にエンディングの音楽が大好きなのだ。あの莫大な音楽を映画館で聞けるなんて、最高。
「葉菜、今日どうしたの?」
「え?」
「なんだか、元気がないっていうのと……」
 準人はそこで言葉を切り、ひと呼吸おいて言った。
「……かわいい」
 準人は照れながらも、こうやって正直に言ってくれる性格だ。とても嬉しいし、そこが私が惹かれたひとつの原因なんだけど、面と向かって言われると恥ずかしい。
 目線を上げると、ほんのり赤くなった顔をした準人がいた。目があった瞬間、私たちは同時に噴き出してしまったけど。こういうときに気まずくならず、さらりと笑いに変えてくれるのが好き。
「私よりかわいい子なんて、たくさんいるのに」
「俺は、葉菜がかわいいんだよ」
 恥ずかしいけど、褒めてくれるのは本当に嬉しい。やっぱり準人を選んで正解だった、と思う。
「金持ちなのに、それを鼻にかけず、贅沢を嫌がる。最高じゃん」
「言いすぎだよ」
 私の家は、日本でトップレベルのお金持ち。お父さんがカプセルA社の社長で、テレビのCMに出ない日はないってくらい有名。
 家は大きくて、私は幼いころから不自由な生活をしたことがない。手伝いや運転手がいるし、小遣いがほしいと言ったらいくらでもくれる。
 誰もが憧れる暮らしだけど、私はそういう暮らしは好まなかった。
 カプセルA社の社長令嬢と知れば、映画館もすぐに予約がとれただろう。チケットを見せるために、列に並ぶ必要もない。
 だけど、そんなことをしたら周りの人と不公平になってしまう。私はそれが気に食わなかった。
「私のわがままで、ごめんね。並ばなくていいのに、並ばせちゃって」
「いいって。だって、並んでる間、葉菜とたくさん話せるだろ?俺にとってはめっちゃ贅沢だから」
 申し訳ないけど、準人がそう言ってくれるのだ。それに、準人にとってめっちゃ贅沢なら、私からすると、嫌なくらい贅沢、と言ったらいいだろうか。
 準人と話していたら、さっきまでの行列がうそかのように、次は私たちがチケットを見せる番だった。
 椅子に座ったら、喋ることはほとんどない。予告を見ながら、次に見たい映画を探すのだ。それは、準人もそうだろう。
 次に見たいのは……と探していると、私は自分の目と耳を疑った。
 タイトルは『知らない婚約者』。
 映画の予告を見る限り、主人公は特別な力を持っているらしい。その力とは、〝雲で、他人の運命の人を見る〟ことがてきるという力。ーーまるで私だ。
 人気女優と最近流行りのアイドルとのダブル主演らしい。だけど今の私は、まったくそれどころではない。
 ぐるぐると考えているうちに、いつの間にか予告が終わった。
 映画が始まっても、『知らない婚約者』のことしか頭にはなく、つい最近〝水たまり〟で見たあの光景も頭から離れなかった。
 結局映画鑑賞を楽しむことはできず、最後のエンディングもどんな歌詞なのか分からないまま、照明がついた。
 席を立ってスクリーンを出る。ジュースを買っていたけど一口も飲んでいないから、仕方なく飲み残しのところに捨てた。
「今日のは見ごたえあったかも。もう一回くらい見にいきたいな。葉菜は、予告で次みたいのあった?」
 ぼーっとしていたが、準人から聞かれているのだと思い、急いで返事をする。
「う、うん!えと……『知らない婚約者』とか」
「あーいいね!なんか、切なそうなやつだったよな。葉菜泣きそう」
 準人がそう言ってからかってきたものだから、もー、と私は怒った。すると、さっきまで考えていたものが頭から消えた。もしかしたら準人は、私の様子に気づいて、わざと泣きそう、などと言ったのかもしれない。
 
 あとは買い物を楽しみ、夕焼けを眺めながら準人と帰った。頼んだら車を出してくれるのだろうけど、準人との時間が一分でも一秒でも惜しかった。
「葉菜」
 顔が、夕焼けのせいなのか、本当に恥ずかしいのかは分からなかった。赤い顔をしたまま、準人は私の名前を呼ぶ。
「ん?」
「来週、空いてたりする?」
「えっと、うん。大丈夫」
「じゃ、来週も映画でいい?それと……」
 一瞬、さっきより赤くなったのは、私の気のせいだろうか。
「葉菜の弁当食べたい」
「ふふっ。いいよ、作ってくるね」
 そんなことを話していたら、もう私の家だった。家の前で話すと嫌な噂を立てられるから、あとで電話しよう、ということになった。というか、いつもそうだ。
 準人を見送ったあと、家に入る。
 そのとき、見えてしまった。だから目を伏してそそくさと家に入った。
「お帰り、葉菜。……また準人くん?」
 また、と言われるのが本当に嫌だった。
 両親は、私と準人が交際していることを、あまりよく思っていない。理由は、『身分の差』というもの。今どき時代遅れだと思う。
 準人は、家みたいな社長じゃないし、特別金持ち、というわけでもない。そこら辺の普通の家庭だ。
「準人くんも、恥ずかしくないのかしら。葉菜みたいなお嬢様と付き合うなんて」
 ため息をついたお母さんは、自分の部屋に入っていった。
 なんなの。恥ずかしいってなに?身分があっても、お互いが一緒にいたいと思うならそれでいいじゃない。身分のことで色々言っているあ母さんたちのほうが恥ずかしい。
「葉菜、お帰り」
 にこにこしながら、部屋から出てきたお父さんは、私のおしゃれ姿を見るなり表情をなくした。
「デート……だったのか」
「……うん」
「食事のときに、お母さんと話そう」
 冷たく言い放って、部屋のドアを乱暴に閉めた。
 準人と初めて会ったときは、にこにこしていて、彼が帰ってからも『いい子だった』って褒めてたくせに。なのにふたりとも、彼が定食屋の息子だと知った瞬間、態度をがらりと変えた。
 それからも準人と両親は会ったけど、彼への態度は冷たかった。
 あんなに楽しかったのに、もう落ち込む自分がいる。
 どうして身分が関係するのだろう。私だってひとりの人間なのに。準人と同じ人間なのに。
 部屋のドアを開けて、枕に顔を伏せる。スカートがしわになるだろうけど、もうどうだっていい。
 うとうとし始めたとき、急にスマホが震えた。
「準人……」
 私は急いで電話に出る。両親のことなど、頭になかった。
「もしもし、準人?」
『ごめん葉菜。電話するの忘れて、手伝いしてた。ほんとごめん』
 彼の慌てている様子が目に浮かぶ。なんとも言えない気分になって、ふっと笑みをこぼした。
「ううん。私も、ちょっと寝ちゃってた。手伝い、お疲れ様でした」
『ああ、ありがと』
 それきり準人は黙ってしまった。
 彼は、私と面と向かってでは話せるのに、電話になると急に無口になるのだ。
「来週のデートなんだけど、映画じゃなくて、ピクニックしない?」
 準人が、私の弁当を食べたいと言っていたのを思い出した。来週はずっと天気がよくて、夏のわりに涼しいらしい。
 でも準人は映画が好きだから、断られるかもしれない。
『いいじゃん、楽しみにしとく』
「うん。おかずは、いつものでいい?」
『もちろんもちろん。材料費はちゃんと払うから』
「いいよ、そんなの。って毎回言ってるでしょ?ほんといらないから」
『母さんが持っていけってうるさいんだよ』
「ええー、いらないのに」
『がんばって説得するわ。その代わり、葉菜には愛情こめて作ってもらいたいな〜』
「いつも愛情こめてるけどな」
『ははっ!じゃ、来週』
 待って、もう少し話していたい。
 そう言おうとしたけど、準人を困らせるだけだというのは目に見えていた。それに、奥からお母さんが彼を呼ぶ声が聞こえたし。
 仲いいんだな、と羨ましく思う。
 私だって、昔はもっと仲よかった。
 お父さんは会社のことで忙しいし、お母さんも社長夫人としてばたばたしていた。
 それでも、夜は必ず帰ってきてくれたし、三人でご飯を食べて、今日あったことを寝る時間まで語り合った。
 なのに、いつの間にかこんな状態になっていた。戻りたいけど、一度違う道を進んだら、もう戻ることなんてできないのだ、それが人生。
「お嬢様、お食事の準備が整いました」
 ドアの向こうから、私を呼ぶ声がする。
 ーーお嬢様。
 私はこの言葉が嫌い。
 お嬢様に生まれたせいで、準人ととの交際を悪く言われ、さらには準人のことも悪く言われる。
 お嬢様なんかに、生まれてこなければよかった。
「すぐ行く」
 クローゼットから普段着を取り出し、私は部屋を出た。

 空気が重い。
 私が準人とデートをした日はいつもそう。
 みんな黙々と料理を口に運び、食べ終わった人からごちそうさま。
「葉菜、本当に準人くんと付き合いたいのか」
 お父さんが珍しく、私に声をかけてきた。
「付き合いたい。本当だよ?お父さんも分かるかでしょ?準人がどんなにいい人か……」
「ああ、分かってる。でも葉菜、いいか」
 私の言葉をさえぎって、お父さんは私と準人の身分について、つらつらと話し始めた。
 分かってない。準人がどれほどいい人か。本当に、こんな人いるの?っていうくらいにいい人なのに。
「だから葉菜。準人くんと交際するのは、あまりおすすめしない」
「別に、お父さんの人生じゃないんだからいいでしょ」
 あえて、唇をとがらせて、棘のある口調で言った。
「葉菜!お父さんはね、葉菜に幸せになってほしいから言ってるの」
 お母さんの悲鳴が、私の鼓膜をじんじんと揺らす。
 何度も聞いた言葉だ。
 両親は幸せになってほしいのではなく、世間からの目気にしているだけ。
 カプセルA社のひとり娘が、一般庶民と結婚。そんなことが世間に知られてしまったら、会社はきっと、今のように上手く回らない。
 商談相手は少なくなるだろうし、社員も辞めないとは言い切れない。ニュースでは毎日取り上げられて、テレビや新聞に載せるために、家や会社、大学の前に、マスコミが嫌というほど押し寄せてくるだろう。ネットでの書き込みや嫌がらせも、十分にありえることだ。
 そんな世間の目しか頭にないくせに、私のためだとか、適当なこと言わないで。
「ごちそうさま。今日もおいしかった」
 シェフにそう言うと、私は部屋に向かった。
 それからお風呂に入ろうと、脱衣所で服を脱ぐ。その瞬間、ひゅ、と息が止まったのが分かった。
 お腹が、完全に透明になっている。この前は、へそ付近だけだったというのに。
 この命があと何年持つのか考えると、準人といつお別れしなければならないのかを考えると、不安と恐怖でその場から一時、動くことができなかった。
 なんとかお風呂に入り、体を洗うために、お腹を触る。感触はあるのに、鏡で見たら、やはりそこにはなにもなかった。
 お風呂から上がり、ベットでごろごろしながら、脱衣所で見たときのことを思い出す。
 デートはあんなに楽しかったのに、今はあの気持ちがうそだったかのように、不安と恐怖に包まれている。
 まるで、夢から覚めたようだ。
 いつまでも〝夢〟を見ているわけにはいかない。〝夢〟から覚めたら、必ず、厳しい〝現実〟が待っていることを、私は嫌というほど知っている。
 ーー本当に、あと何年生きられるんだろう。
 電気もついていない暗闇は、私の密かな悩みなどに、答えてはくれなかった。