「芙答応さま、どうぞこちらへ」
 陛下暗殺事件から一ヶ月がたった。毒によって一時は危うい状態であった赦鶯陛下も、傷もほぼ完治し、毒も抜け、誰かの手を借りなくても自力で歩けるようになった。
 元々、武術で鍛えていたので体力もあり丈夫だった。そのおかげで回復も早かったのだろう。さらに、赦鶯陛下の居室は、現在聖域に近い状態だ。それもこれも蓮花が部屋に巣くっていた亡霊どもをすべて取り除いたおかげ。それもあって、いい気が巡り、治りも早かったということもある。
 この日蓮花は、皇太后の体調が思わしくないと聞き、お見舞いにやって来た。
 皇太后とはあまり面識はない。
 もしかしたら門前払いをされるかと思ったが、意外にもあっさりと宮殿の中に入れてもらうことができた。侍女によって寝室に案内される。体調の思わしくない皇太后は寝台の背に寄りかかりながら休んでいた。
 蓮花は眉根を寄せた。何故なら、皇太后の周りに黒い靄のようなものがまとわりついているのが視えたからだ。もちろん、よくないものだ。
 呪詛の気配を感じた。何者かが皇太后に呪いをかけているのだ。これでは、体調が悪くなるのも当然だ。これらを散らして術者に跳ね返してしまえば、皇太后もすぐに元気を取り戻すだろう。何より皇太后はまだ若いのだから。
「皇太后さまに拝謁いたします」
 蓮花は恐る恐る顔をあげ、皇太后の身体の具合を尋ねる。
「体調はいかがですか? あまりよくないと聞き心配になってお見舞いに来ました」
「この通りよ。年には勝てないものね。日に日に身体が弱っていくのを感じるわ。起き上がるのも辛い状態」
「あたしにやらせてください」
 蓮花は侍女の手から薬湯の入った器を受け取った。
「皇太后さま、お薬をお飲みになってください。少しでも元気になってくださらないと、陛下も悲しみます」
 薬湯をすくい、皇太后の口元に持っていく。
 皇太后に薬湯を飲ませながら、蓮花は心の中で経を唱えた。
 呪詛を跳ね返す経だ。
『呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人!』
 皇太后にまとわりつくものよ、消え去れ!
 蓮花の経によって、皇太后に絡みついていた呪詛の塊が散り散りになり、まるでこの場から逃げ出すように消えてしまった。
 あらためて皇太后の様子を窺うため、蓮花は相手の顔を窺う。
 今まで黒い靄に覆われ、はっきりと見えなかったが、呪詛を祓ったことにより、改めて皇太后の顔貌を見て蓮花は目を見張らせた。
 美しい女性であった。年をとったといってもまだ四十代。まるで若い娘のようにきめ細やかな肌は、しっとりとしていて、髪もまだ黒く繻子のように艶やかだ。
 皇太后は美容マニアだと侍女の華雪が教えてくれたのは本当であった。
 蓮花は側にいる華雪を見やる。すかさず、華雪は小さな入れ物を差し出してきた。
「皇太后さま、あたし、すごくいいものを持ってきたんです。きっと喜んでくださるんじゃないかと思って」
 そう言って、蓮花は華雪からその小さな入れ物を受け取ると、蓋をあけた。すると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。中身は真っ白な粉だ。
「神仙玉女粉です。かの女帝も愛用したという肌に栄養を与える益母草(やくもそう)を用いた粉の美容液。そして、こちらは口紅です」
 蓮花は容器の中身を皇太后に見せた。
「この口紅に含まれるハナモツヤクノキは、血液を活性化し、うっ血を取り除く効果があるんです。長期間使用すると、唇の色をよりバラ色に変化させるんですよ」
 神仙玉女粉を皇太后の手にすり込む。
「あと、これは金銀花(すいかずら)で作った化粧水です。これをたっぷり肌に塗ると、しっとりもちもちの肌になるんです」
 皇太后は美容に関心があると華雪から聞き、恵医師と一緒に化粧水などを作ったのだ。どうやら効果は大だ。その証拠に皇太后の口元に嬉しそうな笑みが広がっていく。
 蓮花はちらりと侍女の華雪を見て親指を立てる。
 ありがとう、華雪!
 どういたしましてと、華雪は片目をつむった。
「あの……」
 口を開いた蓮花を、皇太后は手をあげとどめる。
「わかってるわ。笙鈴のことでしょう?」
 やはり皇太后は、蓮花がここに来た理由をわかっていたようだ。
「はい……」
 蓮花は素直に認めた。
「正直ね。この偽りばかりの後宮で、おまえの素直さは新鮮に思えるわ」
「すみません」
「あやまらなくていいのよ。そう、おまえの母、笙鈴は今どうしているの?」
 皇太后の問いに蓮花ははやる胸の鼓動を押さえた。まさか、この後宮で母のことを聞けるとは思いもしなかったから。だが、皇太后は母が亡くなったことを知らなかったようだ。
「母は一年前に、亡くなりました。殺されたんです」
 皇太后は驚いたように目を見開いた。その顔は本当に衝撃を受けたという表情であった。
「殺された。あの笙鈴が……なんてこと……」
 ひたいに手を当て、皇太后は悲しそうに瞳を震わせた。主を気遣った侍女が肩に手を添えようとするが、皇太后は首を振る。
 蓮花は戸惑いを覚えた。まるで皇太后は、母のことをよく知っていたような口振りだ。
 蓮花は続けた。
「突然、黒ずくめの男たちがやって来て、そいつらに両親は殺されました。最初は村に現れた賊だと思ったんです。でも、賊のわりには手際がよかった。そして、彼らは何者かの命令によって動いているようでした。いったい誰の命令で両親が殺されたのかはまだわかりません。あの……皇太后さまは、もしかして母のことを知っているのですか?」
「ええ、知っているわ」
 蓮花の胸の鼓動がはやまる。ようやく、母が何者であったか知ることができる。
「おまえの母、笙鈴は、先帝の弟の正妃、翆蘭が実家から連れてきた侍女だった」
「え? は?」
 母が先帝の弟の正妃の侍女? 頭の中で相関図を描くが、どうにもぴんとこない。だが、簡単に言うと、母はこの後宮で働いていたということだ。
 いや、そんなはずはない。母が後宮にいたなんて、聞いたことがない。
「おまえの両親は賊に殺されたと言っていたが、おまえの言う通り、ただの賊ではない。何者かが笙鈴を殺すよう命じたのだ」
「母を殺すように命じたなんて。だって、母は誰かに恨まれるような人じゃない」
 いや、恨まれないにしても、何かに巻き込まれ、身の危険を感じたから後宮を抜けだし、辺境の片田舎に身を潜めるように暮らしていたのか。
「蓮花、よく聞きなさい。おまえの母を殺すよう命じたのは、おそらく……(ビン)太妃」
「氷太妃?」
 初めて聞く名の妃であった。そんな名の妃がこの後宮にいただろうか。
「話は長くなるわ」
 皇太后はちらりと侍女に目配せをすると、彼女たちはいっせいに部屋から退出した。
 よほど他の者に聞かれてはまずいことなのか。
 皇太后は当時のことを思い出すように、ゆっくりと語り始めた。
「この後宮には二人の妃が人目に触れず、ひっそりと暮らしている。一人はおまえの母、笙鈴が仕えていた妃で、今は冷宮(ランゴン)にいる」
「冷宮?」
 聞き慣れない言葉に蓮花は首を傾げた。
「寂しい所よ。皇帝の寵愛を失った、あるいは重い罪を犯した妃が幽閉される場所」
 宮廷内でも、人に忘れられ誰も近寄らなく寂しくて荒れた場所がある。そこに修理されないまま老朽化した建物に住む落ちぶれた女たち。冷宮とはそういう所だという。
 そんな場所がこの後宮に存在するなど初めて知った。皇太后は続けた。
「貴妃の位を剥奪され庶人に落とされた翆蘭と、もう一人は、昔私と先帝の寵愛を競った氷太妃だ」
「何故、二人ともそんな寂しいところへ?」
「この話を誰かに聞かせることになるとは」
 皇太后の手が蓮花の手に重ねられた。
「当時、先帝の皇后だった私は、何度も氷妃に命を狙われた。彼女は私から皇后の座を奪い取るため、あらゆる手を使い私を陥れ、亡き者にしようと計略を張り巡らせていた。だが、皇后の座を奪い取ることが無理だと分かった氷妃は計画を変えた。そう、皇帝そのものを変えてしまえばいいと思った」
 皇帝を変えるなんて、氷妃はどこまで悪辣なことを考える女なのだろう。
「氷妃は先帝の弟に近づき、皇弟に玉座を簒奪するよう言葉巧みにそそのかした。すっかり氷妃の計画に乗せられた皇弟は謀反を企み、皇帝陛下を殺そうとした。だが、その計画は失敗に終わった」
 皇太后はつらそうに眉根を寄せ、その時のことを思い出すように続けてこう語った。
 皇弟は謀反の罪で処刑。そして、皇弟の正室であった翆蘭と息子も、処刑されるはずであったが、翆蘭に密かに恋心を抱いていた皇帝陛下は、翆蘭に貴妃の位を与え自分の側室として迎え、彼女の息子も己の子として育てることにした。
 一方、皇弟に玉座簒奪をそそのかした張本人である氷妃は、突然気が触れ、何を問うてもまともに答えることができず、以来、自分の宮殿に引きこもり、滅多に外に出ることがなくなった。
 皇帝暗殺の罪から逃れるため、氷妃は、気が触れた振りを演じたのだ。
 事件はいったん収まったかのように思えたが、そうではなかった。
 当時、皇帝陛下には四人の皇子がいたが、そのうち二人が急死した。自分の息子を太子にたてようと翆蘭が企んだのだ。かくもそのように欲深く、邪悪な女だったとは、と陛下は激怒し、翆蘭から貴妃の位を剥奪。庶人に落とし、彼女を冷宮に送った。そして、翆蘭の息子も皇族としての身分を廃し、宮廷から追い出した。息子は臣下にあずけられた。
 おそらく、翆蘭は氷妃の仕掛けた罠にはめられたのだ。
「私は何度も氷妃を処刑するよう陛下に進言したが、結局、今もあの女はこの後宮で生きている」
 氷妃……なんて恐ろしい女なのだろう。
「このままでは私自身もあの毒婦によって陥れられ、皇后の座を奪われるかもしれないと恐れた。何故なら、私には陛下との間に子が出来なかったから。いつか、氷妃によってこの座を引きずり落とされるかもしれないと思った私は、翆蘭の子を引き取り、我が息子として育てた」
 ん? と蓮花は首を傾げる。皇帝の母は皇太后だ。
「え? じゃあ、翆蘭の息子というのが赦鶯陛下?」
 そうだった、確か一颯は陛下と皇太后は血が繋がっていないと言っていた。
「そう。私があの子を引きとり、太子にたて皇帝にした」
 そこで、皇太后はこめかみの辺りを手で押さえた。
「皇太后さま、いつもの頭痛ですか? もうお休みになったほうが」
 側にいた侍女が皇太后の体調を気遣う。皇太后は苦しそうに胸を押さえ込んだ。これ以上、今日はお話を聞くのは無理だろう。皇太后の身体が心配だ。
「蓮花、真実を知りたいと思うなら、冷宮にいる翆蘭に会いなさい」
 蓮花は無言でうなずいた。
 母が仕えていた妃を訪ねれば、もっと詳しいことを聞き出せるかもしれない。
「ありがとうございます。皇太后さま、母のことを教えてくださり感謝いたします」
 礼を言い、皇太后が住む宮を出た蓮花は、侍女に呼び止められた。
「芙答応さま」
 呼ばれて蓮花は振り返った。ちょうどこちらも話があったので侍女の方からやって来てくれて助かった。皇太后さまがいる前で、こんな話はしたくなかったから。
「芙答応さまには、あれが何に視えましたか?」
「もしかして? あなたも視える人?」
「いえ、私には芙答応さまのような力はございません。ですが、何かよくない気配を皇太后さまの周りから感じるのです。何か視えたのなら、どうか教えてください」
「何者かが皇太后さまを狙っていた」
「狙う? それは命ですか……誰が……まさか氷妃?」
 すぐに蓮花は口元に指を立て、黙ってというように侍女の言葉を遮る。
「呪詛はあたしがすぐに祓ったけど、誰が皇太后さまに呪いをかけたかまでは突き止めることはできなかった。また呪いを仕掛けてくるかもしれない。それを回避するためにも、皇太后さまの部屋に花をかかさずに置いて。皇太后さまの代わりに、生きた花を身代わりにたてるの。呪詛を向けられた花はすぐに枯れるから、そのたびに新鮮な花を活けて」
「かしこまりました」
「あたしのほうでも、呪詛を向けた者を調べてみる。でもすぐ分かるわ。はね返った呪いは必ず術者に戻るから。それも、倍になってね」
 侍女が言った通り、皇太后と寵愛を競っていた氷妃の仕業なのだろうか。彼女が今でも皇太后に恨みを抱き呪っているのか。