「私と一緒に、この国を滅ぼしてほしいの」
王宮の片隅で、美蘭は初対面の青年に懇願する。
「対価が必要なら、私の全てを貴方にあげるわ」
*****
人の欲とは、無限に満たされないものらしい。
翠国と呼ばれるこの小国は、長らく戦乱とは無縁だった。
そんな穏やかな国に、美蘭は第三皇女として生まれた。民と共に牧草地で馬に乗って羊を追い、慎ましいが平穏な時間が過ぎる。
しかしその平穏は、隣国が更に西にある「焔」と呼ばれる国に侵略されたことで呆気なく終わりを告げる。
美蘭は父である王と妃の母、そして姉たちと共に焔国からの使者を唖然として見つめていた。
「我が焔国は、そなたら翠国をより豊かにするために以下の提案を行う――」
仰々しい口上のあと、突きつけられたのは提案でもなんでもなかった。
まず、収穫した作物の八割を差し出すこと。そして男は土木作業に従事し、女は後宮に入るかあるいは貴族の家政婦として働くこと。子どもと年寄りは、機織りや家畜の管理をする、などなど。
どう考えても奴隷として扱う気満々の内容に、呆れと怒りがふつふつと湧いてくる。
「すぐに返答は難しいであろうと、わが皇帝は仰った。よって半年の猶予を与える」
「待て! そのような内容は、提案でもなんでもないではないか! そのような一方的な話は、到底受け入れる事はできぬ!」
普段温厚な父が声を荒らげるのを、美蘭は初めて見た。
母と二人の姉は不安げに使者を見つめており、居並ぶ大臣達も王に賛同して頷いている。
しかし焔国の使者は、にやりと笑う。
「私はあくまで、使者として来ているだけですので、そうおっしゃいましても……そうそう、これは独り言ですが、半年の間にここにいる方々が翠国から姿を消しても、我が王は追わないでしょう」
「どういう意味だ?」
「この土地と民さえ手に入れば、王族と貴族の命は助けると言っているのです。寛大なお心遣いを無駄にされませぬように。では失礼致します」
そう言い残して、焔国の使者は広間から出て行く。
「あなた……」
「民を見捨てる訳にはゆかぬ。私達だけ逃げるなど、できるはずもない」
両手を握りしめ、悔しそうに顔を歪める父に美蘭は取り乱しかけた。けれど悲惨な未来を嘆いて泣き崩れる姉たちを前に、唇を噛んで感情を抑える。
(ここで泣いたって、どうにもならないわ)
焔国は幾つもの国を侵略し、強大な軍事力を持つ大国だ。
対してこの小さな翠国は、軍はあるもののもっぱら羊を襲う狼を追いはらったり、野盗を取り締まるのが主な仕事で人数も少ない。
使者の提案を受け入れなければ、あっという間に滅ぼされるだろう。
かといって提案を呑んだところで、とても平穏とは呼べない日々が待っているのは美蘭にも分かる。
「半年あれば、民を他国に逃がすことはできる」
「しかし、焔国が見逃すとは思えぬ」
「せめて女と子どもだけでも……」
家臣達が口々に意見を述べるが、無駄だという事は彼らも分かっている筈だ。
父も額を抑え、何ごとかを考えているようだがそう簡単に良案が浮かぶはずもない。
(民を逃がす計画は、焔国だって予想しているはずよ。向こうは労働力が欲しいんだもの……それに私達王族や貴族だって、逃げたところでいずれ捕まるわ)
自分に何ができるのか、美蘭は必死に考える。そして、一つの小さな希望があることに気が付いた。
「お父様、私に良案があります!」
「申してみよ、美蘭」
玉座の前に進み出た美蘭は、父王を真っ直ぐに見つめる。
「私の力を使えば、この国を救えます」
「しかし……お前の力は――」
「私はこの国を救うと、覚悟を決めました。だからお願いです。私を焔国の後宮に送ってください」
美蘭の言葉に、広間に居合わせた全員が息を呑んだ。
翠国の民は、何かしらの不思議な力を持って生まれてくる。
国民はその不可思議な力を「魔術」と称し、この力の存在を他国に知られぬよう守り通してきた。
幸い辺境にある翠国に立ち寄る旅人はほぼおらず、隣国との交流も必要最低限ですませていたので秘密は守られてきたのである。
何より魔術の力は、他者を害するような恐ろしいものではない。花を咲かせたり、清い水を少しだけ甘くしたりと、他愛のない魔術ばかりだ。
だが王族に限り、強い魔術を持つ者が希に生まれる。
それが美蘭だった。
*****
(豪華な宮殿……迷っちゃいそう)
父王を説得した美蘭は、身分を偽り後宮で下働きをする宮女として焔国へと送られた。
長く伸ばした自慢の黒髪を切り、服も装飾のない地味な物に着替えた。
問題は後宮に入る際の身分確認だったが、それは姉に「変化の魔術」をかけてもらうことで突破した。
「お前。名前は?」
「美蘭と申します。本日より、後宮で下働きをするよう命じられて参りました」
「……そうだったか? まあいい。後宮の門は、向こうだ。さっさと行け」
民に紛れ宮殿に入った美蘭は、役人に頭を下げると急いで後宮の門に向かう。
(一番目の姉様の魔法は三日で切れる。ここまで来るのに二日かかったから、今日中に入らないと)
入ってしまえば、後はどうにでもなる。なにせ焔国の後宮には、寵姫とその世話をする宮女がひしめいているのだ。
美蘭が紛れ込んでも、誰も気づきはしないだろう。
そして上手く後宮に入った美蘭は、まず身分の高そうな寵姫を探し出し近づくことにした。
本当は正妃の側仕えになろうと考えていたのだが、何故か正妃はおらず後宮内には寵姫しか住んでいないのだと親しくなった宮女から教えられた。
(予定が変わったけど、皇帝に近づけるなら寵姫でもかまわないわ)
寵姫の側仕えになれば、後宮に渡ってきた皇帝と出会う確率は高くなる。運が良ければ一夜の戯れとして、宮女が寝所に呼ばれることもあるらしい。
(まあ、姉様達ならともかく。私は色仕掛けしたって振り向いてもらえないだろうし。堅実に事を進めなくちゃ)
二人の姉は民から「天女」と呼ばれるほどの美貌だが、美蘭は特段目を引く容姿ではない。母譲りの黒髪は自慢できるけれど、それだけだ。
けれどその黒髪も平民に偽装するために、肩口までばっさりと切ってしまった。
少し悲しかったけれど、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
二番目の姉から貰った呪符を喉元に貼り、美蘭は寵姫の部屋に入った。
「そなたは?」
「何者だ。許可なく立ち入れば、死罪と知っての行いか!」
室内には数名の女官と宮女、そして一番奥の少し高い場所に置かれた長椅子に寵姫が座っていた。彼女たちは見慣れぬ美蘭へ一斉に鋭い視線を向ける。
だが美蘭は落ち着いてその場に平伏した。
「新しく側仕えに任ぜられました、美蘭と申します。貴族の黄様から推挙されて、参りました」
「……ああ、そうであったな。皆、美蘭に仕事を教えてやれ。黄の紹介ならば、信頼できる」
寵姫が表情を和らげ、美蘭を見つめる。
(よかった。これで変化の魔術が切れても、疑われることはないわ)
二番目の姉は、言葉を操る呪符を作れる。この呪符を喉に貼って言葉を発すると、聞いた者はそれを真実として記憶する。そして一番目の姉とは違い、呪符が破れない限り効果が続くのだ。
便利なようだが、この呪符は数回しか使えない。そして使用した時の言葉の重さや人数によって、劣化してしまうのだ。
その場に居た全員が寵姫の言葉に頷いたのを確認して、素早く呪符を懐にしまう。
寵姫の部屋を出た美蘭は、素早く人気のない建物の影に隠れて呪符を確認した。
(呪符の端が切れてる。やっぱり十人近くに使うと、劣化が早いわ)
ボロボロになって崩れてしまう前に、何としてでも皇帝に接触しなくてはならない。
予定では寵姫の側で情報を集め、皇帝の行動を探るつもりでいた。
しかし数カ月後には、再び焔国から使者が翠国を訪れる。そしてその時は、民を捕らえるために軍勢を引き連れているだろう。
(時間がないわ。ぐすぐずしていられない)
大好きな両親と姉たち、そして馬に乗り一緒に草原を駆けた多くの民の顔が脳裏を過る。
「……そういえば、さよならの挨拶してなかったな……」
翠国を発ってから、美蘭は初めて弱音を吐いた。
ここには見知らぬ人ばかりで、頼れるのは自分だけだ。
先月、結婚のできる歳になったばかりの美蘭にとって、家族と民の命運がかかったこの大仕事は自分から志願したこととはいえ、余りに重すぎる。
「それでも、私がやらなくちゃ」
力を持つ美蘭が立ち向かわなければ、翠国は滅ぼされる。目尻に浮かんだ涙を拭い、美蘭は姿勢を正すと皇帝の住む正殿を睨みつけた。
*****
数日後、美蘭は夜になるのを待って正殿へと忍び込んだ。美蘭は皇帝の寝所の場所は、呪符を使って女官から聞き出してある。
(でもなんで渡りがないのかしら?)
女好きだと噂される皇帝がこの一年ほど、後宮に姿を見せていないらしい。もしかしたら気に入った寵姫を密かに正殿に住まわせているのかもしれないが、真偽は不明だ。
美蘭は小首を傾げながらも広い正殿を進んでいく。
幾つもの渡り廊下を通り、広間の奥にある寝所に漸くたどり着いた。
「……赤ちゃん?」
部屋の中からは、赤子の泣き声とあやす声が響いてくる。
しかし皇帝に世継ぎがいるという話は、聞いた事がない。それに乳飲み子の間は、後宮で育てられるのが慣例だ。
「もう、こんな馬鹿げた事は止めてほしいわ」
「大金貰ってるんだから、文句言わないの」
乳母だろうか。数名の女が話す声が聞こえる。美蘭は呪符を喉元に貼ると、寝所へと入った。
王宮の片隅で、美蘭は初対面の青年に懇願する。
「対価が必要なら、私の全てを貴方にあげるわ」
*****
人の欲とは、無限に満たされないものらしい。
翠国と呼ばれるこの小国は、長らく戦乱とは無縁だった。
そんな穏やかな国に、美蘭は第三皇女として生まれた。民と共に牧草地で馬に乗って羊を追い、慎ましいが平穏な時間が過ぎる。
しかしその平穏は、隣国が更に西にある「焔」と呼ばれる国に侵略されたことで呆気なく終わりを告げる。
美蘭は父である王と妃の母、そして姉たちと共に焔国からの使者を唖然として見つめていた。
「我が焔国は、そなたら翠国をより豊かにするために以下の提案を行う――」
仰々しい口上のあと、突きつけられたのは提案でもなんでもなかった。
まず、収穫した作物の八割を差し出すこと。そして男は土木作業に従事し、女は後宮に入るかあるいは貴族の家政婦として働くこと。子どもと年寄りは、機織りや家畜の管理をする、などなど。
どう考えても奴隷として扱う気満々の内容に、呆れと怒りがふつふつと湧いてくる。
「すぐに返答は難しいであろうと、わが皇帝は仰った。よって半年の猶予を与える」
「待て! そのような内容は、提案でもなんでもないではないか! そのような一方的な話は、到底受け入れる事はできぬ!」
普段温厚な父が声を荒らげるのを、美蘭は初めて見た。
母と二人の姉は不安げに使者を見つめており、居並ぶ大臣達も王に賛同して頷いている。
しかし焔国の使者は、にやりと笑う。
「私はあくまで、使者として来ているだけですので、そうおっしゃいましても……そうそう、これは独り言ですが、半年の間にここにいる方々が翠国から姿を消しても、我が王は追わないでしょう」
「どういう意味だ?」
「この土地と民さえ手に入れば、王族と貴族の命は助けると言っているのです。寛大なお心遣いを無駄にされませぬように。では失礼致します」
そう言い残して、焔国の使者は広間から出て行く。
「あなた……」
「民を見捨てる訳にはゆかぬ。私達だけ逃げるなど、できるはずもない」
両手を握りしめ、悔しそうに顔を歪める父に美蘭は取り乱しかけた。けれど悲惨な未来を嘆いて泣き崩れる姉たちを前に、唇を噛んで感情を抑える。
(ここで泣いたって、どうにもならないわ)
焔国は幾つもの国を侵略し、強大な軍事力を持つ大国だ。
対してこの小さな翠国は、軍はあるもののもっぱら羊を襲う狼を追いはらったり、野盗を取り締まるのが主な仕事で人数も少ない。
使者の提案を受け入れなければ、あっという間に滅ぼされるだろう。
かといって提案を呑んだところで、とても平穏とは呼べない日々が待っているのは美蘭にも分かる。
「半年あれば、民を他国に逃がすことはできる」
「しかし、焔国が見逃すとは思えぬ」
「せめて女と子どもだけでも……」
家臣達が口々に意見を述べるが、無駄だという事は彼らも分かっている筈だ。
父も額を抑え、何ごとかを考えているようだがそう簡単に良案が浮かぶはずもない。
(民を逃がす計画は、焔国だって予想しているはずよ。向こうは労働力が欲しいんだもの……それに私達王族や貴族だって、逃げたところでいずれ捕まるわ)
自分に何ができるのか、美蘭は必死に考える。そして、一つの小さな希望があることに気が付いた。
「お父様、私に良案があります!」
「申してみよ、美蘭」
玉座の前に進み出た美蘭は、父王を真っ直ぐに見つめる。
「私の力を使えば、この国を救えます」
「しかし……お前の力は――」
「私はこの国を救うと、覚悟を決めました。だからお願いです。私を焔国の後宮に送ってください」
美蘭の言葉に、広間に居合わせた全員が息を呑んだ。
翠国の民は、何かしらの不思議な力を持って生まれてくる。
国民はその不可思議な力を「魔術」と称し、この力の存在を他国に知られぬよう守り通してきた。
幸い辺境にある翠国に立ち寄る旅人はほぼおらず、隣国との交流も必要最低限ですませていたので秘密は守られてきたのである。
何より魔術の力は、他者を害するような恐ろしいものではない。花を咲かせたり、清い水を少しだけ甘くしたりと、他愛のない魔術ばかりだ。
だが王族に限り、強い魔術を持つ者が希に生まれる。
それが美蘭だった。
*****
(豪華な宮殿……迷っちゃいそう)
父王を説得した美蘭は、身分を偽り後宮で下働きをする宮女として焔国へと送られた。
長く伸ばした自慢の黒髪を切り、服も装飾のない地味な物に着替えた。
問題は後宮に入る際の身分確認だったが、それは姉に「変化の魔術」をかけてもらうことで突破した。
「お前。名前は?」
「美蘭と申します。本日より、後宮で下働きをするよう命じられて参りました」
「……そうだったか? まあいい。後宮の門は、向こうだ。さっさと行け」
民に紛れ宮殿に入った美蘭は、役人に頭を下げると急いで後宮の門に向かう。
(一番目の姉様の魔法は三日で切れる。ここまで来るのに二日かかったから、今日中に入らないと)
入ってしまえば、後はどうにでもなる。なにせ焔国の後宮には、寵姫とその世話をする宮女がひしめいているのだ。
美蘭が紛れ込んでも、誰も気づきはしないだろう。
そして上手く後宮に入った美蘭は、まず身分の高そうな寵姫を探し出し近づくことにした。
本当は正妃の側仕えになろうと考えていたのだが、何故か正妃はおらず後宮内には寵姫しか住んでいないのだと親しくなった宮女から教えられた。
(予定が変わったけど、皇帝に近づけるなら寵姫でもかまわないわ)
寵姫の側仕えになれば、後宮に渡ってきた皇帝と出会う確率は高くなる。運が良ければ一夜の戯れとして、宮女が寝所に呼ばれることもあるらしい。
(まあ、姉様達ならともかく。私は色仕掛けしたって振り向いてもらえないだろうし。堅実に事を進めなくちゃ)
二人の姉は民から「天女」と呼ばれるほどの美貌だが、美蘭は特段目を引く容姿ではない。母譲りの黒髪は自慢できるけれど、それだけだ。
けれどその黒髪も平民に偽装するために、肩口までばっさりと切ってしまった。
少し悲しかったけれど、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
二番目の姉から貰った呪符を喉元に貼り、美蘭は寵姫の部屋に入った。
「そなたは?」
「何者だ。許可なく立ち入れば、死罪と知っての行いか!」
室内には数名の女官と宮女、そして一番奥の少し高い場所に置かれた長椅子に寵姫が座っていた。彼女たちは見慣れぬ美蘭へ一斉に鋭い視線を向ける。
だが美蘭は落ち着いてその場に平伏した。
「新しく側仕えに任ぜられました、美蘭と申します。貴族の黄様から推挙されて、参りました」
「……ああ、そうであったな。皆、美蘭に仕事を教えてやれ。黄の紹介ならば、信頼できる」
寵姫が表情を和らげ、美蘭を見つめる。
(よかった。これで変化の魔術が切れても、疑われることはないわ)
二番目の姉は、言葉を操る呪符を作れる。この呪符を喉に貼って言葉を発すると、聞いた者はそれを真実として記憶する。そして一番目の姉とは違い、呪符が破れない限り効果が続くのだ。
便利なようだが、この呪符は数回しか使えない。そして使用した時の言葉の重さや人数によって、劣化してしまうのだ。
その場に居た全員が寵姫の言葉に頷いたのを確認して、素早く呪符を懐にしまう。
寵姫の部屋を出た美蘭は、素早く人気のない建物の影に隠れて呪符を確認した。
(呪符の端が切れてる。やっぱり十人近くに使うと、劣化が早いわ)
ボロボロになって崩れてしまう前に、何としてでも皇帝に接触しなくてはならない。
予定では寵姫の側で情報を集め、皇帝の行動を探るつもりでいた。
しかし数カ月後には、再び焔国から使者が翠国を訪れる。そしてその時は、民を捕らえるために軍勢を引き連れているだろう。
(時間がないわ。ぐすぐずしていられない)
大好きな両親と姉たち、そして馬に乗り一緒に草原を駆けた多くの民の顔が脳裏を過る。
「……そういえば、さよならの挨拶してなかったな……」
翠国を発ってから、美蘭は初めて弱音を吐いた。
ここには見知らぬ人ばかりで、頼れるのは自分だけだ。
先月、結婚のできる歳になったばかりの美蘭にとって、家族と民の命運がかかったこの大仕事は自分から志願したこととはいえ、余りに重すぎる。
「それでも、私がやらなくちゃ」
力を持つ美蘭が立ち向かわなければ、翠国は滅ぼされる。目尻に浮かんだ涙を拭い、美蘭は姿勢を正すと皇帝の住む正殿を睨みつけた。
*****
数日後、美蘭は夜になるのを待って正殿へと忍び込んだ。美蘭は皇帝の寝所の場所は、呪符を使って女官から聞き出してある。
(でもなんで渡りがないのかしら?)
女好きだと噂される皇帝がこの一年ほど、後宮に姿を見せていないらしい。もしかしたら気に入った寵姫を密かに正殿に住まわせているのかもしれないが、真偽は不明だ。
美蘭は小首を傾げながらも広い正殿を進んでいく。
幾つもの渡り廊下を通り、広間の奥にある寝所に漸くたどり着いた。
「……赤ちゃん?」
部屋の中からは、赤子の泣き声とあやす声が響いてくる。
しかし皇帝に世継ぎがいるという話は、聞いた事がない。それに乳飲み子の間は、後宮で育てられるのが慣例だ。
「もう、こんな馬鹿げた事は止めてほしいわ」
「大金貰ってるんだから、文句言わないの」
乳母だろうか。数名の女が話す声が聞こえる。美蘭は呪符を喉元に貼ると、寝所へと入った。