どういうことかと環は瞬きをぱちぱちと繰り返す。
「あ、あの」
「まあいい、行くぞ」
ほどなくして指先が離れてゆくと、周はひらりと身を翻して自動車の運転席に乗り込んだのだった。
*
帝都の街に到着し、自動車から降りて石畳の道を闊歩する。
環の住む地域では道の整備がこれほどまで行き届いていない。そのため、通行人が数人歩いただけでと土埃が舞ってしまったものだ、とかつての生活を少しばかり恋しく思った。
見上げれば、青々とした空の下に煉瓦造りの建物が競いあうように建ち並ぶ。漢字とカタカナが混ざった看板が軒を連ね、田舎町では検討もつかないほどの往来があった。
白い女優帽を被った貴婦人や、品格のある燕尾服を着用した紳士、ハンチング帽子が特徴の新聞記者らしき人物、ズボンを履いた職業婦人などさまざまな人で溢れ返っている。
自動車の往来も多く、排気ガスを吸い込んでむせてしまうほどだ。環は人混み慣れをしていないため、歩いているだけでげっそりした。
本来であれば、動く写真が観られるという映画館や、ステンドグラスが輝くカフェーなどに目を輝かせるところなのかもしれない。しかし、生粋の引きこもりである環の心にはわずかばかりも響かなかった。
「ひいい……人が……多すぎ、ます」
周がいったいどこに向かっているのか分からない。マダラに関しては、屋台の匂いにつられて涎を垂らしている始末だ。
「あの角を曲がったところに馴染みの店がある」
威風堂々と帝都の街中を歩む周が、ちらりと環を一瞥した。環の気のせいでなければ、先ほどから貴婦人の視線を浴びている。なんて綺麗な方なの、だとか。流行りの劇団の俳優なのではないか、と噂をする者まであるほどだ。
「あ、あのう……」
「どうした」
「先ほどから、ご、ご婦人の目が……痛いのです、が……もう少し離れて歩いても、よ、よいでしょうか」
恐る恐る視線を上げると、月のように冷え冷えとした瞳と合致した。びくっと肩を震わせ、環は慌ててうつむく。
「あなたは私の婚約者なのだから、隣を歩いていてもなにも問題はないだろう」
「で、ででで、でも」
あくまでも偽物ではないか。
ただでさえ目を引く周の隣にいることで、環にまで人の注目が集まってしまうとは耐え難い。人の目がまとわりつくあの独特な感覚が恐ろしいのだ。
「――あれ、これはこれは……珍しい」
ある民間会社の前にさしかかった時、環と周に向けて見知らぬ甘ったるい声がかけられた。
青ざめながら顔を上げると、周とは対照的な美貌をもつ青年が立っている。
この国では珍しい亜麻色の長い髪はひとつに編み込まれて、結び目には小洒落た桜の花飾りがついていた。
──だが。
(この人……軍人さん、なの?)
その華やかな見た目に、崇高で実直な民の印である軍服が馴染まない。
しかも、胸もとのボタンを最後まで止めずに着崩しているではないか。襟章やら肩章が豪華であることからも、それなりの階級の者なのだろうと察するが。
いずれにせよ、なにかと物騒な軍人とはできれば関わりあいになりたくない。物腰が柔らかそうな男ではあったが、環はこの手の人間がもっとも苦手である。
「九條殿が女性を連れているとは。この方はあたらしい婚約者かな。いやいや、君も隅に置けないね」
「……面倒な男に見つかった」
「ええ? 面倒だなんて悲しいことを言わないでくれよ。僕と君の中じゃないか」
「藤峰、あなたに構っている暇はないのだが」
「君はいつも僕に冷たいよね。そこのかわいらしいレディも、そう思わない?」
突然環に振られるのだから戸惑った。身をかがめて視線をあわせてくる男――藤峰は、にっこりと笑っているが、どうにもうさん臭さを感じてしまった。
「あ、あの……えっと」
「これは失礼。自己紹介がまだだったね。僕は藤峰静香、軍の特殊部隊を仕切らせてもらっている者だよ。よろしくね」
気さくに手を差し出されるが、環には即座に応じられるほどの社交性はない。眩しいほどに陽気な男を前にしたら、尻込みせずにはいられない。
だが、相手は環よりもひとつもふたつも身分の高い軍人だ。挨拶くらいまともにできなくては、あとで殴り殺しにあうかもしれない。がたがたと震えていると、隣からため息が落とされた。
「やめろ。軍人を前にして、怯えているだろう」
「えー、僕はただ、かわいらしいお嬢さんと挨拶がしたかっただけなのになあ」
「余計な問答は不要だ。……行くぞ」
周は藤峰をあえて遠ざけるように背を向ける。
(藤峰さんは、周さんのお知り合い……なのだよね?)
周の態度からするに友好的ではないと察するが、藤峰の態度はそれとはまるで食い違っている。
「ああ、それから――令嬢の失踪事件のことだけど」
いずれにせよ、これ以上他人と関わるのは遠慮願いたい。環が周のあとを小走りで追っていると、藤峰はそれをとくに追いかけもせずに、ただ声色を鋭くした。周は意図せずに足をとめる。振り返らずとも、反応しているようだった。
「君も、これを追っているんだよね。一介のお役人の管轄外だというのに、執心なようで。そんなにこの事件が気になるのかな」
環は藤峰の張り付けたような笑みに苦手意識を抱いた。表面上は温厚ではあるが、腹の底が知れない不気味さがある。まるで周の意図を探っているようだ。
「なにが言いたい?」
「さあ、なんだろうね」
藤峰はまたにっこりと目を細めると、環……それからただの猫に変化しているマダラへと視線を向ける。
『にゃ、にゃんごろ~、ごろにゃ』
何を思ったのかマダラの前に膝をつくと、慣れた手つきで頭を撫でた。
「へえ……君は、不思議な猫を連れているんだね」
『にゃ、にゃ……』
わずかばかり低い声が聞こえたような気がした。冷や汗をかいたが、藤峰はすぐに立ち上がると、ひらひらと手を振って身を翻す。
「巡回の途中なんだ。上官殿に怒られてしまうから、もう戻るね」
「は、はあ……」
「またね、九條殿。それから……お嬢さんと猫さんも」
まさに瞬きの間のような感覚だ。颯爽と消えていった藤峰を目で追ったのち、安堵の息をはく。初見の周も恐ろしかったが、表情の意図が読めないという点では、今の男の方が何倍も勝っている気がする。
猫に化けているマダラを抱き上げると、毛が逆立っていた。
『あ……あいつ、とんでもねえ野郎だぞ』
「え? どうしたの?」
『たぶん、オレが猫に化けた妖だってことに、勘づいてやがる』
ぶるぶると躰を震わせて、警戒をしているようだ。
「むりもない。あの男には今後も警戒を怠るな」
いったいどういう意味なのか。あの男からは妖の気は感じなかった。つまりは環と同じ人間だということになるが、マダラが嘘を言っているとも思えない。
まさか、環のほかにも見識の才のある者がいるというのか。
「あ、あの方は、周さんの御友人……というわけでは、な、ないのですか」
「まさか、友人なわけがないだろう。あれは、帝都妖撲滅特殊部隊の総隊長――藤峰静香。ああやって親密な態度をとって、私の周辺を嗅ぎまわっている」
周の発言を経て、環は愕然とした。
(妖……撲滅……?)
そのような機関がこの日の本に存在するとは思いもしなかった。しかも、軍部で特殊編成されているとは。
「帝都妖撲滅特殊部隊は、日の本でも取り分け霊感に長けた者たちで発足された組織だ。帝都を脅かす怪異を取り除くことを任務としているようだが、真の目的はそうではないだろう」
マダラの怯え具合からして、先ほどの藤峰はかなりの手練れだ。悪意のある妖やモノノケから帝都を防衛する、という点であれば合理的である。
だが、周の言い方から察するに軍部はよほど信用ならない存在――だとすると。
「あ、妖の、一斉排除を……しようとしている?」
環は頭の中で方程式を組み立て、解を導いた。
「おそらくは」
「なんでまた、そんな非道いことを」
「人間にとって妖やモノノケは、問答無用で排除すべき、忌々しい存在だ、ということだ」
環は強く唇を噛んだ。たしかに悪さをしてしまう妖はいる。だが、そうではない妖もいるのだ。
善人と悪人が存在するように、妖だって同じだというのに。
幼い頃から妖と近しかった環は、排斥されていく彼らを思うとやるせない気持ちになった。
「あ、周さんは軍部に目をつけられている……ということ、なのです、よね? それなのに、ここまで事件に介入するなんて、き、危険なのではないで、しょうか」
「私のことが心配か?」
「し、心配というか……あなたの正体は……もうすでに、あの方に見破られているのでしょうか」
「いや、あくまでも疑いの範疇といったところだろう。私の気を読んだのは、唯一、環のみだ」
おどおどと意見を述べる環に対し、周は満更でもない表情を浮かべた。
(わ、私……だけ)
よくよく考えるに、周の正体が妖の――それも鬼である事実を知られるのは、当人にとって至極都合の悪いことなのではないか。
うっかり軍部に漏らしでもすれば、一大事となる。それなのに、ろくに素性も知らない赤の他人同然の環を容認しているのだ。いっそ妖力をつかって記憶でも飛ばしてしまえばよかったものの、こうして環を街に連れ出している始末。
もしかすると、このまま未来永劫、仮初の婚約者として奴隷のように使われてしまうのではないか、と最悪な状況まで想定する。
「とにかく、あの男に関してはくれぐれも用心するように」
「……は、はい」
環は鬱々としつつも、先を歩く周の背を追いかけたのだった。
周に連れられてたどり着いたのは、西洋のドレスを扱う仕立て屋だった。 まるで宮殿のような豪奢な外観を前にして、環はため息をつく。日の本にいるというのに、ここは異国のようだ。
やはり、場違いなのではないかと環は猛烈に尻込みをした。帰りたい。帰って書物を読み漁りたい。そもそも、ここに何の用事があるというのだ。
「九條様、お待ちしておりました」
「息災のようでなによりだ。店主、彼女に似合うものを仕立ててもらいたいのだが」
「はい、もちろんですよ。お任せくださいまし」
店内に入ると、愛想のよい貴婦人が姿を現す。店主、と呼ばれていた女は環を目をあわせるとにっこりと微笑んだ。
あまりに友好的な態度を前にして、環はどこかの穴に埋まりたくなる衝動に駆られる。びくっと肩を震わせ、とっさに視線を逸らす。
(ひ、人……む、むり……)
つらい。つらすぎる。というかそもそも、似合うものを仕立てるとはなんなのか。
環だけが話の流れについていけず、とっさに周に助けを求めるが、満更でもない様子で布地を眺めている。マダラはといえば、立派な革があしらわれたソファーが気に入ったのか、ごろりと寝転がって寝息を立てているではないか。
環は愕然と肩を落とした。
「では、こちらへどうぞ」
「ひっ……あ、あの、これはいったい」
いよいよ、店の奥の部屋に入るよう促されると、環は半分泣きべそをかきそうになりながら訴える。
ちら、と横目を向けた周は、さも当然とばかりに告げた。
「ドレスの一着くらいは必要になるだろう。ここは馴染みの店だ。よい品がそろっている。安心しなさい」
「い……いいいいや、安心だなんて、できるわけ、ない……です!」
なにを言っているのか、この男は。これほど易々と高価なドレスの贈り物をするとは、どうかしているのではないか。
「だが、今後は社交場に出向く機会も増える。なくてはむしろ不便だろう」
「うっ……そ、それはそう……ですが、そ、その、いただくには……申し訳ないというか」
「かまわないから、黙って受け取っておけ」
つやつやと輝いている布地を手に取り、肌触りを確認しながら、周は淡泊に告げた。
そこまで言われてしまうとぐうの音もでない。
今後周の婚約者として社交場に赴くのであれば、ドレスは必要不可欠だ。むしろ普段着では浮いてしまうばかりか、貧相な娘だとしていじめられてしまうかもしれない。
(貰えるものは貰っておくべき……なのかな)
環はとうとう押し黙り、店主に誘導されるがままに奥の部屋の中へ入ったのだった。
――しかし、それからが地獄だった。
手早く済むのであれば、少しくらいの我慢もできるだろうと思っていたのが間違いだった。店主によって一通りの採寸がされると、ひと段落する間もなく、何着もドレスが運ばれてきたのだ。
まるで着せ替え人形のように着脱を繰り返すものだから、環は疲弊した。途中からはもうどれでもよいから、早く終わってくれないかと懇願するほどだった。
「あ……あのう、これは、す、少し……」
「まあ! 思った通りですわ! やはり、環様には紅色がぴったりです!」
「で、ででででも、布が……もう少しあった方が、お、落ち着くのですが……」
「今はこれくらい胸もとがあいたデザインが流行しているんですのよ! ああ、かわいらしい! 環様はまさに原石……着飾りがいがあるってものですわ!」
げっそりしている環をよそに、何故か店主が盛り上がっている。言葉を鵜呑みにせず姿鏡を見ると、引きこもりの田舎娘はどこへやら……どこかの家の令嬢ともいえるような女がいるではないか。
「さあさ、九條様に見ていただきましょう」
「えっ……ああああ、あの、私、いいっ……いいです!」
唖然としていると、店主に手をとられて部屋の外へと連行されてしまう。
(きっと、なんでもいいから、はやく決めろと思っているに違いない……)
先ほどから何度もこのやり取りを繰り返している。試着しては周に確認してもらい、違うものを着用する。あれでもないこれでもないと問答が繰り広げられ、かれこれどのくらいの時間この店に滞在しているのだろう。
「九條様、いかがでしょう。お見立てのとおり、紅色がとてもお似合いだと思いませんか?」
環はおずおずと顔を上げる。首の周りや胸もとが開放的であるあまり落ち着かなかったが、周はそんな環をじ……と見つめて、ゆるやかに口角を上げた。
「ああ! そうそう……たしかあのあたりにブローチが……」
店主が店の裏手へと消えてゆくと、肌にちりちりと突き刺さるような沈黙が流れた。ただ、周からの視線ばかりは一身に感じるため、環はどこかに隠れたくて仕方がない。
「あ、あのう……」
もう脱いでしまってよいだろうか。正直ドレスの良しあしなど分からない。環にとってはどれも同じようなものだ。それよりも、さっさと帰宅をして、薄暗い部屋に閉じこもって書籍を読んでいたい。
「わ、私、どれでも――っひい!」
視線を床に向けていると、突然頬に冷たい手のひらが添えられる。
何を思ったのか、目の前には恐ろしいほどに整った周の顔があるではないか。
「なっ、なななな、なんですか!?」
「……」
「ど、どどど、どこか、おっ、おかしいところでも、あっ、あっ、あるのでしょうか?」
「いや?」
環はあまりの至近距離にぎょっとする。目汚しをしてしまったのではないかと怯えたが、どうやら気分を害してはいないようだ。
冷ややかで、艶やかで、誰もがため息をついてしまうほどの美貌。
どういう了見か、周はそっと耳元に唇を寄せた。
「見惚れていた。よく、似合っていると思ってな」
「‼」
妖しく、色香のある美声が環の鼓膜を揺らした。
環は他人から褒められ慣れていない。もちろん、このような極上な絹があしらわれたドレスが自分に似合うとも思っていない。
それなのに、周の態度が予想とは異なっている。
「あなたは普段は初心なようで、このような姿になると別人のように垢抜けるようだ」
「……っ!?」
「だが、公衆の面前に晒すのは少し、惜しいかもしれない。この剥き出しになった肌から、そそる匂いがする」
そそる、とはどういうことか。環はごくりと生唾をのんだ。
「──やはり、味見をしておくべきか」
頬に添えられていた指先が、するりと首すじを撫でていく。
甘美なまでの手つきに、環の脳内は真っ白になった。
「ああああ、あのっ!」
逃げ出さなければ、ととっさに周の胸もとを突き飛ばす。
「も、もう着替えて、きます。し、失礼しますっ……!」
ばたばたと駆けだし、試着室へと繋がっている通路を進んだ。
(私がおいしいはず、ないっていうのに。からかわないでほしい)
昼間だが電燈が灯されている館内は、一人になるととたんに広く感じる。右に曲がり、左に曲がり、気づくと使用していた試着室がどこであったか分からなくなった。
(あれ……)
店主も連れずに勝手に戻ってしまったからだ。あたりを見回してみても、清掃用の備品が並んでいるだけだ。どうやら見当違いな裏手の方に来てしまったらしい。
こうなれば引き返すしかない、と思いたった時。
『これはこれは……うまそうな娘御だ』
背後に――ねっとりとはりつくような気配を感じた。振り返る間もなく、三メートルはある長細い手が環の体に巻き付いた。
(妖……どうして)
環は気づかないうちに、妖の縄張りの中に入り込んでしまっていた。慌てて走っていたため、気配を察知できなかったのだ。
『食べてもいいかえ? いいかえいいかえ?』
「た……食べないで、いただけ、ると助かり、ます」
『いいかえいいかえ、右手だけでも、どおれどれ』
よほど腹を空かしているのか、妖は環の言葉に耳を傾けてはくれない。
(目が……正気を失っている)
妖は基本、人里離れた山の中で暮らすものが多いため、街中にまで降りているものに遭遇するのは珍しい。
九條家の屋敷は例外ではあるが、あの場は裏を返せば、妖たちにとっての安息の地なのだろう。
『うううぅぅ……はぁはぁ、うまそう、だ』
「うっ……はな、して」
環は必死に訴えるが、聞く耳をもってはくれなかった。この妖は、猫又のマダラや化け狐の口入れ屋や、鬼の周とは違う。
(どう、しよう……本気で、食べようと、してる)
だらりと流れている涎。凍えるような妖気。巻きつく腕により腹部が圧迫され、息苦しい。
妖の性質は基本的には友好的なはずなのだ。
人間に興味をもち、多少の悪戯をしてしまうことはあるものの、滅多なことがないかぎり襲いかかったりはしない。
この妖は、いったいどれくらいの人間を食ってきたのか。
人間の血肉は、あまり摂取しすぎると毒になる。病みつきになり、やがてほしくてほしくてたまらなくさせるものなのだ。
とりわけ、知性の低い下位の妖が口にしてしまうと、特に気をおかしくさせてしまう。
『うぅぅ……ヒヒヒヒッ、やわらかそうな肌だなあ』
「っ、や、めて……」
巻き付いている妖の長い腕により、ぎゅう、と体が締め付けられる。
人間の匂いに、味に──。我を忘れてしまう。
もしかすると人間社会の中に紛れ、捕食する機会を狙っている妖は、そう少なくはないのかもしれない。
「もし、かして……あなたが……令嬢を、攫っているの?」
『攫う? さあ、なんのことか……知らない知らない』
一瞬、環の脳裏に華族令嬢の失踪事件がよぎった。
この店は階級の高い者にとって馴染の店。当然華族令嬢が足を運ぶ機会も多く、こうして館内の隅で息を潜めていれば、絶好の機会は訪れる。もしかすると、この妖が関わっていたりするのではないか――と考え至るのは自然の流れだったが。
『ああ、誠うまそうな匂いだ。よだれがとまらんぞ』
「そんなに食べたら、気が、おかしくなる、よ」
『だめかえ? 右の指先だけでも、食べたい食べたい』
妖の口から瘴気が吐き出される。環はもろに吸い込むと、ぐったりと腰を抜かしてしまった。
ここにはマダラがいない。人間の身では妖に太刀打ちできないことは理解していたが、指先を食いちぎられてしまってはたまったものではない。
のまれまいと抗っていたが、徐々に視界が狭まってゆく。妖の長い舌が、環の手のひらをべろりと舐めてゆく。――意識が朦朧とした時だった。
「おい、誰のものに手を出している」
胴震えするほどの冷気が、辺りを支配した。
まるで湖面が一瞬で凍り付くような。恐ろしいほどに冷たく、鋭い声。硝子がはめ込まれた窓がみしみしと振動し、その者は突如何の前触れもなく現れた。
艶やかな長い髪が視界の隅で流れている。凛々しい角は、鬼の証だ。
『ぎぃやああああああ!』
すぱん、と乾いた音が響くと、妖の左腕が宙を舞った。鈍い音をたててそれが転がると、環は拘束からようやく解放される。
のたうち回る妖に冷ややかな視線を向ける――鬼。
『痛い痛い痛い痛い痛い』
「……このような街中にまで、降りてくるとは」
『うひぃぃあああああっ!』
「よほど人間が食い足りないらしい」
左腕を失った妖は、窓から逃げ出そうと床を這いつくばる。だが、周はそれを許さず、頭部を鷲掴みにすると、ぎりぎりと爪を食いこませた。
『あああああ! やめて、やめて、ころさないでころさないで』
周は本気で同胞を亡き者にしようとしている。頭の皮膚が裂け、妖はさらに大きな悲鳴を上げた。
このままではいけない。妖の慟哭を前に、環は残る力を振り絞った。
「だ……め、です」
鬼の姿をした周は、ぴたりと動きをとめると環を顧みる。
「何故だ」
「その妖は、まだ……間に合う、から」
ゆらりと立ち上がり、環はおぼつかない足取りで妖と周のもとへ向かった。
「あなたにとって……人間の匂いがする、この街は、よくない。だから、里山にお帰り」
『ううううう……さと、やま?』
「そこで……天狗殿に、清めて、もらえば……きっと、正気に戻れるよ」
おそらくは、この妖は令嬢失踪事件の黒幕ではない。
人を食べすぎた妖は、その分知性を身に着けるはずなのだ。この妖との対話ではそれが感じられないことから、おそらくは二、三人を口にして、味を覚えてしまったというところだろう。
「さあ、迷わず、まっすぐ」
うめき声をあげながら、妖はよろよろと窓枠を飛び越えてゆく。
里山にむけて消えてゆく姿を目で追い、環はほっと胸を撫でおろした。
だが、それも束の間。凍えるほどの妖気は、依然背後に立ち込めている。
おそらくは迷惑をかけてしまった。環はおずおずと頭を下げ、謝罪をしようとしたが、すんでのところで封じられてしまう。いつのまにか、鬼の姿をした周が環の真後ろに立っていたのだ。
「あ、ああの」
ともすれば、体に腕が回り、強引に引き寄せられる。同時に首筋に長い黒髪が降りてきた。
「──んふっ!」
がり、と鈍い音がすると、肩もとに痛みが走る。
冷たい吐息が素肌を撫でていき、身震いがした。
信じられないことに、周が環の肩に歯を立てていたのだ。
「あんな者、殺しておけばよかったものの。馬鹿め」
「いっ……た」
「堕ちた妖を庇い立てるなど、誠、妙な女だ」
甘美なまでの声が鼓膜に届く。
(な……にが、起きたの)
まさか本当に味見をされている?
思えば、周は普段は人間と同じ食事をしているはずだが、人間も食らうのだろうか。高い知性をもつ鬼族のことだ。人間の味を覚えて理性を失うことはないだろうが、できれば周が捕食する様子を想像したくはない。
「これで、しばらくはもつか」
周は口もとについた血を舐めとると、月のような瞳をすうと細めた。
なにがしばらくもつのか、環は動揺のため理解ができない。それよりも、薄い唇から覗く鋭い犬歯とどろりとした血液は目に毒だ。
「な……にをして」
鬼なのか、人間なのか。思えば、周はどちらでもあり、どちらでもない存在なのだ。妖でありたいのか、人間でありたいのか。いったいなぜ、なんのために人間社会で生きているのか。
冷たい瞳からは、何の感情も伝わってはこない。
「そう易々と食われてしまっては困るからな」
環の意識は次第に曖昧になり、瞼が重く閉ざされてゆく。
おそらくは、妖術をかけられたのだろう。
ふらりと倒れ込む環を周はそっと抱き止めた。
「馬鹿は、私も同じか」
環の血の味が、喉の奥にしつこく居座っている。妖どもの気を狂わせるのは十分なほどの甘美な味だった。
「味見など、するものではないな」
はっと自分自身を嘲笑する。
硝子に映るのは鬼の姿。いくら高い知性をもつ種族なのであろうと、先ほどの妖とさほど変わらないのだろう。
周は腕の中で眠る環をしばし見つめ、再び人間の姿に戻るとその場をあとにしたのだった。
気がつくと環は自室のベッドに横になっていた。随分と寝込んでいたらしく、窓の外に月が浮かんでいるのが見える。
あれからどうなったのかまったく思い出せない。たしか妖に食われかけたところを周が助けてくれた。そうして、鬼の妖力により殺されかけていた妖に、里山に帰るように促したのだった。それから――。
ぼんやりと肩に触れると、鈍い痛みがまだ残っている。やはり、記憶違いではなかった。あのあと、周に噛まれて意識を飛ばしてしまったのだ。
『お、環! 起きたのか!』
むくりと起き上がると足元のあたりでマダラが丸くなっていた。ぴょんぴょんと軽快に飛び跳ねながら環のそばにやってくる。
「マダラ……」
『妖に食われかけたって聞いて、肝を冷やしたぞ。オレがついていればよかったのに、悪かったな……』
「ううん、大丈夫だよ。周さんが、きてくれたから」
環は膝の上にのっているマダラの頭を撫でた。すると、マダラは不満そうにむくれているではないか。まるで手柄をとられたといわんばかりの態度だ。
『あいつ、いけ好かねえんだよな。騎士のつもりかってんだ。環を横抱きにして戻ってきたかと思ったら、誰もそばに近づけようとしなかったんだぜ?』
「え……え?」
(横抱き?)
環はぱちぱちと瞬きをし、一瞬言葉の理解に苦しんだ。
『そんでよ、環の匂い、あいつの妖術で消したみたいで。んなことしてくれなくたって、オレがいれば問題ないってのによ!』
「私の匂い? な、なにそれ……」
すんすんと自分の体を匂ってみるが、分からない。というかこれまでにマダラは一言もそんなことを教えてはくれなかった。
いやしかし、問い詰めるまでもなく、思い返す。長らく引きこもり生活を続けていた環のそばにはいつもマダラがいたし、四六時中自宅にいるのであれば、危険な場面に遭遇する機会すらないに等しい。訪ねてくる者も口入れ屋くらいであったからだ。
『環の周りに妖が集まってくる理由、それって、お前からいい匂いがするからなんだよ』
「え……」
『そいつらが全員、環を食いたいと思ってるかといえば、違う。あいつらは無駄に好奇心旺盛なんだよ。なんていうんだろうな、心地いいと感じてる奴が大半だろうな』
マダラはぽりぽりと後ろ足で体をかく。
昔から不思議に思っていたが、そういう理由からだったのか。理屈は分かったが、内心は複雑だ。
「そっ、そっか……匂いなんて、よく分からないけど、へえ……」
『周が妖術でなんとかしてるみてぇだけど、それも一時凌ぎにすぎないから、まっ、これからもオレのそばを離れないことだなっ!』
ふんす、と得意げになっているマダラを腕に抱き、「そうだね」と口にする。
周は今頃何をしているのだろう。昼間遭遇した妖は、無事に正気に戻れただろうか。環が止めなければ、あのまま周は妖を殺してしまっていたのだろうか。
この依頼を引き受けず、かつての家に引きこもっているままであれば、こうも考えあぐねることはなかった。
他者の存在は至極複雑で面倒だ。物言わぬ書物と向き合っている方が気楽だ。環は夜空に浮かんでいる月をぼんやりと眺めた。
「ごめんね、今日、おいしいものを食べるって言ってたのに、何も買ってあげられなくて」
『ん? おうよ、言っておくが、オレはコロッケって食いものを諦めてないからな! また連れていけよな!』
人混みを考えると気乗りはしなかったが、なにか与えてやらねばしばらくうるさいだろう。
今度女中に頼んでマタタビを買ってきてもらおう、と環は思った。
翌朝、九條邸の大広間はいつになく騒がしかった。
あれからもうひと眠りをした環の体調は、問題なく回復した。今日こそは引きこもって読書をする。学術書があれば、一日中解き明かしていたい。だが、さすがに空腹には耐えかねる。
環はマダラをつれて朝餉にありつこうとしたのだが、すでに見慣れない妖たちが食卓を囲んでいた。どこから沸いて出てきたのか、普段この屋敷では見ないものたちだ。
『おお、起きたか。よかったよかった』
『本当だ。どこも食われていないようだ』
誰だろう、と思いつつ、食卓につくと女中が朝餉を運んでくれる。
食欲をそそる白米の香り。こんがりと焼きあがった鮎。添えられている漬物は、環の好物のだいこんだ。湯気たつみそ汁を一口流し込むと、心落ち着くやさしい味わいがした。
「あら、周様、おはようございます」
すると、二階からこの屋敷の当主が下りてくる。環ははっとして顔を上げた。そして気恥ずかしさにどのような顔向けをすればよいか分からなくなる。
「おはよう。白湯を頼む」
「かしこまりました」
周は食卓を勝手に取り囲んでいる妖たちを見ても何も言わなかった。もしかすると、九條家ではこのようなことが日常茶飯事なのかもしれない。脅威となりうる妖でないかぎりは、好きに出入りさせているのだろう。
「……」
「……」
環の向かい側に周が着席する。自由気ままに食事をしている妖たちを挟んで、沈黙が流れた。
(どうしよう……お礼、言わないと……いけないよね)
運ばれてきた白湯を受け取り、周は朝刊を広げている。
「あっ……あああああ、あのっ!」
勇気を振り絞って口を開くと、ちらりと周が視線を上げた。
「き、昨日は、危ないところを助けていただき、あっ……あ、ああ、ありがとう、ございました」
突き刺さるような冷たい瞳は苦手だ。環はおそるおそる声を振り絞る。
「礼はいい。体はもう平気か」
「は、はい。たくさん眠ったので」
「そうか」
また沈黙。よりによって、食卓を取り囲んでいた妖たちが、ぞろぞろと席を立ってどこかへ消えてしまう。もう少しゆっくりしていけばいいものの、妖という生き物はきまぐれな性分なのだ。
「あ、あの……」
さっさと朝餉を済ませて、自室に逃げ込んでしまえばいい。だが、環は気づけば自分から声をかけていた。
「お、怒って……ますか」
「なぜ? 怒ってなどいないが」
「……ぜ、ぜったい、お、怒って、ますよね」
「怒っていない」
「でっ、でもっ、よっ……余計なことをしたと……おおおっ、思っています、よね」
環が食い下がると、周は小さく嘆息をつく。朝刊を閉じ、月のように静かな瞳を向けてきた。
「余計なこと?」
「わ、私が、あの妖を里山へ逃した、ことです……」
周は問答無用で排除しようとしていた。それを引き止めたばかりか、途中で意識まで失ってしまうとはとんだ面倒な女だっただろう。
いや、元はといえば気を失ったのは周のせいだ。肩のあたりを噛み、環に妖術をかけたから。
「甘いとは思う。あの手の妖は早々に息の根を止めねば、人間社会との均衡を脅かしかねない」
「……甘い」
「同胞だろうが、情けは無用だ。現世と常世の均衡を守る、それが私の──鬼族の責務でもある」
責務、という重い言葉がのしかかる。長らく引きこもり生活を続けていた環には、想像ができないほどのものを抱えているのだろう。
「昨日のような、事件は……て、帝都の街中では、よく起こっているの、でしょうか」
すべての妖が、マダラや口入れ屋のような理性のあるものたちであるとはかぎらない。ましてや、妖はただでさえ人間をはるかに凌駕する力を持っているのだ。
野放しにしていれば、もちろん両種の均衡にかかわる。
そうなると、帝都妖撲滅特殊部隊の目も一層厳しくなるばかりだろう。
「そうだ。これはおそらく、氷山の一角にすぎない」
「そう、ですか……」
「このままでは、人間と妖の溝は一層深まるばかりだろうな」
周は粛々と告げると、白湯を口に含んだ。
「来週末」
「え?」
「銀座のダンスホールで、華族連中が集まる。舞踏会とでもいえばいいか」
「ぶ……舞踏会」
「そこで必ず、白薔薇会という婦人の会が開かれる。茶を飲み、世論を語る――のだとかなんとか」
環の箸を持つ手が止まる。そうだ、環は周の婚約者となり、社交場に出向かなくてはならないのだ。嫌でも人と関わらなくてはならないとは、今から気が重くなった。
『それ、オレも隠れて見に行ってもいいんだよな?』
がっくりとうなだれていると、食事を済ませて満足そうにするマダラが出張ってきた。
『怪しまれねえようにうまくやるからよ。ついでに環のことも任せてもらっていい』
「マダラ……」
マダラがそばにいてくれるとなると頼もしい。自分が社交場などに出向いたところで、いじめられる未来しか考えられなかったのだ。
「ああ、そうするといい」
『けっ、なんだい、きざったらしいぜ』
華族社会など、まるで別世界なのだろう。一般庶民である環が馴染めるはずもない。勝手な解釈ではあるが、華族の人間は庶民を見下しているように思っている。正直なところあまり好ましくはないのだが、これも給金のためだ、致し方ない。
『そうと決まればっ、腹も満たされたし、もうひと眠りするかあ~』
ため息をつく環をよそに、マダラは呑気にあくびをしている。よく食べ、よく眠る猫又だ。
螺旋階段の手すりをぴょんぴょんと上っていくマダラを横目に、残っていたみそ汁を飲み干した。
こうしてはいられない。はやいところ図書室の中を漁らなくてはならない。読みたい本が山のようにあり、いくら時間があっても足りないくらいだ。
両手を合わせ、環は席をたつ。外出の予定がないとは、なんて素晴らしい。
「環」
すると、湯呑をおいた周に名を呼ばれた。
闇夜のごとき黒髪の中に、月のような瞳が浮かんでいる。
「理性を失った妖であっても、一方的に排除すべきではないと、あなたは思うか?」
唐突な問いかけだった。環はとくに考える間もなく、頷く。
「まだ、もとに戻れるかも、しれない。人間も、道を違えることがあるように、妖も同じ、だから」
「言葉も通じぬ化け物であっても?」
「……そうなってしまったら、なるべく苦しめずに、常世に返してあげたい、です」
環は切なげに笑う。
「あの猫又の妖とは、長い付き合いなのか」
周はなるほど、とひとりごちると、再び話題を切りだした。まさかここでマダラのことを尋ねられるとは思いもしなかった。
「は、はい……物心ついた頃から、いっしょに、います」
「家族は? 家を出てきてしまっては、心配もするだろう」
湯呑に手をかけ、周が問いかける。
「家族はマダラだけなので、問題……ないです」
環は一瞬だけなんと回答すべきか逡巡した。月のような瞳が交錯すると、居心地が悪くなる。
「マダラだけで……いい、です」
「……それは」
伸びてくる腕。視界を覆う手のひら。化け物のような表情。高らかな笑い声。――燃え盛る、木々。
それらが脳内を駆け巡ったところで、環は我にかえった。
「ご、ごめん、なさい。あ、あのっ……し、失礼しますっ……」
それは無意識に封じ込めていた記憶だ。環の中には、妖よりも恐ろしい人間たちが居座っている。なにか言いたげな周を見ないようにして、二階へ上がっていったのだった。
*
帝都、銀座にある会員制の高級ダンスホールは富裕層で賑わっていた。陽が沈んだ時間帯だというのにもかかわらず、煌々と輝いている。路肩には黒塗りの自動車が並び、派手な風貌の男女がぞろぞろと姿を現した。
環は周にエスコートというものをされ、重い足取りでエントランス前までやってきた。
ただでさえ人との関わりに苦手意識があるというのに、華族を相手にするなど無理な話である。帰りたい、帰りたい、帰りたい、と心の中で唱えずにはいられない。
正直なところ、なんの役にもたたずに帰宅する未来しか描けていないのだ。仕立ててもらった紅色のドレスも身の丈にあっているような気がしない。華族令嬢といったい何を話せばいいというのだ。
『ひょえ~、こんな夜中だっていうのに、ぎらっぎらに輝いてんなあ~』
人の多さにはやくも吐きそうになっていると、環の影の中からひょろりとマダラが現れる。
マダラは妖術をつかい、環の影の中に隠れながらついてきてくれている。自由自在に変化できる妖がうらやましい。環も影の中に隠れていられたらどんなに幸せだろうと思った。
「わ、私につとまるとは思えないの……ですが」
「交流をもつように、とまでは言っていない。ただ、令嬢界隈で怪しげな動きはないか、見てきてくれるだけで十分だ」
「ううう……で、でも、そういうわけには、いかないのでは……」
周囲からは先ほどから突き刺さるような視線が向けられている。この九條周という男が目立たないわけがないのだ。
そうなってくると必然的に隣にいる環にも興味関心が向けられてしまう。ちくちくとした視線にさっそく品定めをされているような気がしてならない。
「いっ、今までも、こうして女性に協力して、もっ、もらっていたの、ですか」
本来、このような高級ダンスホールになど一般庶民が来られるはずもない。門前払いをされてしまうのが関の山だ。
だからこそ、このような場所を好む令嬢たちは、自尊心が高いのではないかと思うのだが。
「まさか……ここまで目的を明らかにしているのは、環がはじめてだ」
「え……では、これまでは」
「令嬢界隈に妙な様子はないか、それとなく相手に探っていた」
周はなんの悪びれもなく告げる。潔いまでの態度を前にして、環はげっそりしてしまった。血も涙もないなんて非情な男だ。分かってはいたが。
『うげえ、使えるものはなんでも使うって? やな感じ』
「さあ、そのあたりは相手も同じだ。華族連中のとる行動には、かならず裏があるからな。九條の名前を好いていただけで、私を好いていたわけではない」
環には色恋云々はよく理解できないが、もし本当にそうなのだとしたらとても虚しいことだ。これだから人間は信じられないし、恐ろしい。
「……この話はもういいだろう。入るぞ」
周はそっと腕を差し出し、環を館内に導いた。この一週間、女中とともに歩き方の練習をしていたものの、洋風の履物には未だに慣れない。油断をするとドレスの裾を踏んでしまいそうだ。
(は……恥ずかしい)
やけに重厚感のある扉の先は、まるで異国のような空間が広がっている。響き渡っているのは、楽器の生演奏だ。上品なワルツ、ゆったりと踊っている男女。きらきらと輝くシャンデリアに、敷き詰められた赤い絨毯。まるで――別世界だった。
「おお、ごきげんよう、九條くん」
「九條くんではないか、ごきげんいかがかな」
メインホールに足を踏み入れるなり、周は多くの人に声をかけられた。江戸時代から続く名家――九條家当主の存在は、上流階級の注目の的であった。飛び交う話題といえば、政治経済のこと、あの官僚はどうだとか、懇親を深めるためのパーティーへの誘い、そして――縁談のこと。
「――それで、貴族院議員の関氏といえば、どうも憲兵と裏でつながっているみたいでしてね……」
「賄賂を受け取っているのだとかなんとか、聞いたことがありますな」
「けしからんやつめ。これだから成金あがりの華族は」
「まったくだ……あちらの派閥にはろくなものがいない。……それにしても、どうだね、九條くんとはこれからもよい付き合いをしていきたいと思っているのだよ」
「私が贔屓にしているお家のお嬢さんがね、とても気立てのよい子なんだ。どうだい、ひとつ会ってやってみないかな」
目の前でああだこうだと議論がされている。環はいよいよ居心地が悪くなり、こっそりと周の背に隠れるようにして華族たちの視線から逃れた。
「あいにくですが、今はよいご縁がございまして」
「おや……? お連れになっているそちらのお嬢さんが今度のよい人で?」
「はい、婚約者の環といいます。ご報告が遅れてしまい申し訳ございません。また、ちょうどよい機会ですし、今夜は白薔薇会にもお邪魔させていただきたいと思っているのですが」
「おやおや、まあまあ、婚約者……。それはそれは……」
周の応対は完璧だとしか言いようがなかった。環はぺこりと頭を下げるが、目の前の政治高官たちが恐ろしくてたまらない。顔を真っ青にしていると、周がそっと環の腰を抱き寄せてくる。
「残念だが、それであっては仕方がないね」
「いったいどこのお嬢さんでいらっしゃるのかな」
興味関心、好奇の目がちくちくと突き刺さった。
目玉がたくさんこちらに向いている。それはまるで、かつて環が見たことのある化け物のようだった。
「彼女はこのとおり恥ずかしがり屋なのです。できれば、そっとしておいていただけると幸いなのですが」
「おっと、これは失礼した。いやはや、これまでに見かけないお嬢さんだと思ってねえ」
口では引いてくれているが、内心は納得いかないといった具合だ。環はごくりと生唾をのむ。
「それにしても、白薔薇会か……それであれば、西宮さん。ご案内をさしあげたらどうだろうか」
西宮、と呼ばれた男は、丸眼鏡をつけた五十歳ほどの男だった。飲んでいたワインをテーブルに置くと、しげしげと環を見つめる。
「あ……ああ、そうですな。おい、時子。環さんを白薔薇会へお連れしてやってくれないか」
西宮はそばにいた若い女を呼びつける。女は他の者と話し込んでいたところを中断し、こちらを振り返った。いかにも育ちのよさそうな令嬢だ。
「お父様、こちらの方は?」
「九條くんの婚約者の環さんだ」
「まあ……九條様の」
他人の視線が向けられるたびに、びくびくと震えてしまう。
(ご、ごめんなさい。私なんかが、周さんの婚約者を名乗ってしまって)
さっそくいじめられるのではないかと思うと恐ろしくて仕方がない。
「ごきげんよう、九條様。そしてはじめまして、環様。わたくしは西宮時子と申します」
「……は、はじめ、まして。九重環と申します……」
「九重……」
時子はドレスを広げ、礼を取る。環もぎこちない挨拶を返すが、うまくできているか不安がぬぐえない。
今日までに社交マナーは女中から叩き込まれた。環はそんなことよりも図書室に籠って本を読んでいたかったのだが。いじめられてしまっては嫌だから、としぶしぶ指導を仰ぐことになったが、この一週間は本当に苦痛だった。
「九重とは……そのような家、このあたりでは聞かないな」
「いや待てよ、たしか水戸のあたりで聞いた気がするのだが」
「九重……九重……。ああ、たしかそう、伯爵家ではなかったか? なんでも、水戸の土地に思い入れがあるため、あの場からは動かないのだという」
「伯爵か……? ならば、素晴らしい血筋のお嬢さんではないか」
大人たちがこそこそと話し始めるものだから、一瞬、早々にしくじったのではないかと冷や汗をかいた。苗字など自分から口にするものではなかったのかもしれない。環が顔を真っ青にしていると、よく分からないが状況は好転していた。
伯爵などとはとんでもない。環が華族出身であるとはとんだ笑い話だ。
しかしここは、あえて否定せずとも、勘違いをされたまま押し通すべきか。
(周さんは最初からこうなることが分かっていたんだよね……?)
ちら、と周の様子を伺うが、普段の冷淡な表情を浮かべるままだ。とくに口をはさむ必要もないという判断なのだろう。
「まあ……そのような方と知らず、子爵家のわたくしがご無礼をお許しくださいませ」
「あ……えっと……あはは」
時子はうやうやしく頭を下げる。違う、そもそも環は一般庶民のだが。本来は敬意を払うべき相手ではないことは、環自身がよく理解している。
「わたくしのような者の案内では、不足があるかもしれませんが……」
「いっ……いえ、そんなことは、ありません。ご親切に、どうもありがとう、ございます」
華族は公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順で序列されている。中でも公爵が一番人数が少なく、華族の中でもっとも皇室に近い存在ともされている。伯爵は真ん中の位であり、子爵よりも上位だ。
偶然が重なって幸運だったともいえるし、裏を返せば真実が明らかになってしまった時を考えると末恐ろしい。
『伯爵ってなんだよ? 偉いのか?』
(すごく偉いよ……とんでもない勘違いをされちゃってる……どうしよう、誤解を解かなくてよかったのかな)
『まあ、すっとぼけていればいいんじゃねえのか? いじめられるよりはマシだろう』
(そ、そうだよね……)
マダラは影の中から環にだけ聞こえるように話しかけてくる。それにしても、周も周で意地が悪い。同じ苗字の華族が存在する、とあらかじめ教えてくれたらよかったのだ。
環は長い引きこもり生活のおかげで学問には精通しているものの、世情にはもっぱら疎いのだ。
「では、時子。失礼のないようにね」
「はい、お父様」
そうして、環はいよいよ白薔薇会に足を踏み入れることとなる。
「よろしく頼みます。時子さん」
令嬢失踪事件――。それは、いったい何者が関与しているのか。
緊張の色を浮かべている環を、周は麗しい笑みで見送ったのだった。
*
周と別れると、環はとたんに心細くなった。人見知りをこじらせている環が、華族令嬢と渡り合えるわけがないのだ。時子に連れられて、ダンスホールの貴賓室までやってくると膝がかたかたと震えてしまった。
「まあ、時子さん、ごきげんよう」
「ごきげんよう、よし江さん」
貴賓室の中は令嬢たちで賑わっていた。入口から見える二階部分では、数人の令嬢がテーブルを囲んでいる。優雅にティータイムをしているといったところだろうが、大抵の者たちは一階部分で立ち話をしているようだった。
環は時子の背中に隠れてびくびくと震える。注目が自分に向けられているこの状況は如何せん耐え難かった。
「あら、そちらの方は……」
「九重環様です。九條周様のご婚約者でいらっしゃるそうで、この度はご挨拶をと」
「九條様の……? まあまあ……」
上から下まで品定めをされているような気がした。環は令嬢たちの視線から逃れるように身を縮こませる。
「わたくしは、平塚よし江と申しますわ」
「こ、九重、たっ、環……です」
フリルがふんだんに使われた豪奢なドレスが目に飛び込んでくる。いかにも上流階級であるといわんばかりの風貌に、尻込みをしてしまう。
(やっ……やっぱり、むりだよ)
『つってもよお……少しでも怪しいもんがないか探らねえとなあ』
環にだけ聞こえるマダラの声にびくりと反応する。周囲を見渡しても妖ものの気配は感じられない。もし、令嬢たちの中に人ならざるものが混ざっていたのであれば、環は早々に見破ることができるだろうが。
「そ、それにしても、ず、随分とたくさん……に、賑わっていらっしゃるんです、ね」
挨拶もそこそこに、環は怯えながら話題を切り出した。人とのかかわり方などよく分からないのだ。
「え? ええ、そうですね。環様は白薔薇会ははじめてですの?」
「は、はい。今まではあまり、こういう場には出向いたことが、なかったもので……」
よし江はいぶかしむような視線を環へと向けてくる。
(や、やっぱり怪しまれてる……!)
あきらかに令嬢らしくない振る舞いであることは重々承知している。機転の利く行動がとれるわけもなく、環はびくびくと肩をすくませるばかりであった。
「そう……ですか」
「環様のお家は水戸の伯爵家でいらっしゃるそうなんです。だから、このような場にいらしたことはないのかと」
「水戸の伯爵家……まあまあ、それは申し訳ございません。失礼いたしましたわ」
ひとたび沈黙が流れると、時子が仲裁に入った。華族であるとはとんでもない嘘なのであるが、よし江の表情は分かりやすいほどに友好的なものに変わったのだった。
「ここは、白薔薇会といって、華族当主、もしくはそのご子息を応援すべく、その妻、そして婚約者たちで結成されているのです」
「そ……そうなん、ですね」
となると、ここにいる令嬢たちは全員、華族である誰かと夫婦であったり、婚約関係にあるということになる。ただ華族令嬢であるだけでは、この白薔薇会の一員に加わることはできないのだ。もしかすると、華族に生まれた令嬢たちにとっては、この場への招待は何にも代えがたい名誉なのであるかもしれない。甚だ環には縁遠い世界だ。
「中でもあの二階席にいらっしゃる方々は、わたくしどもにはとてもとても……手の届かぬ存在」
「……と、いうと?」
「あの方々は、公爵家令嬢でいらっしゃるのです。中でも、中央の席に座っていらっしゃるのは、栗花落玲子様……白薔薇会を先導されているお方ですわ」
よし江があまりにうっとりと目を細めるものだから、環はつられて二階席を見やった。この貴賓室に入った時に一番はじめに視界に飛び込んできたが、まさに選ばれし者のみが上がれる天井の場所だった。
二階席の中央には、痛みひとつない黒髪を胸の下あたりまで伸ばしている令嬢が腰を下ろしている。優雅にティーカップを持ち、談笑していた。
(綺麗な人……)
環はぼけっと口を開いたまま見入ってしまう。周と同様に、儚い中にも艶やかさが香る美しさ。まるで環とは次元が違う。月とすっぽんだ。
『うげえ、オレはああいう気取った女は嫌いだね』
(き、気取ってるようには見えないけど……)
『明らかにすましてんじゃねえか。あんな二階の席なんかに座ってよお』
どうやらマダラは気にいらないようだ。かといって、環自身も仲がよくなれるのかと問われれば、とてもじゃないがそんな気は微塵もしないだろうと思った。
「と、ところで……、ひとつ、気になることがあるのですが、よろしいで、しょうか」
ぼんやりしている場合ではない。まったくもって腰が重いのだが、環には調べねばならないことがある。
時子とよし江の視線がこちらに向けられると、環はびくっと肩を震わせる。
「わ、私……う、噂をみっ、耳にしたのですが……」
「噂?」
「あっ……あのっ、近頃、れ、令嬢が失踪している……と。だから、す、少し……怖くて」
きょろきょろと視線を泳がせ、やっとの思いで問いを口にできた。
「ああ……そうですわよね」
「ここ最近、令嬢が失踪されているのは、事実ですわ。とくに、行方不明者は白薔薇会に所属している令嬢がほとんどですの」
「そ、それじゃあ……み、みなさんは、こ、怖くはないの、でしょうか」
白薔薇会に属する令嬢が狙われているといってもいいような状況だ。それなのに、ここにいる者たちは優雅に談笑をするばかりで、我が身を案じているそぶりはない。
「もちろん、みな警戒しておりますわ。護衛をつけて、一人になる機会はつくらないようにしております」
「で……でも、ここには護衛の方々はお見えにならないような……気がするのですが」
警護されているというのであれば、過剰な心配はいらないのかもしれないが、犯人は妖である可能性が高い。そうなれば、お手洗いに行くために席を立った瞬間を狙われることだってある。そもそも、男子禁制ともいえる白薔薇会には、腕っぷしのたちそうな護衛の姿はなかった。
「まさか……ここは白薔薇会ですもの。みな慎ましい女性……そのような物騒な出来事が起こるはずもありませんわ」
「で、ですが」
「とはいえ、行方不明になった令嬢は誰一人として見つかってはおりませんの。帝都警察は何をされているのかしら。早く犯人が捕まってほしいものですわね……」
時子とよし江はお互いに顔を合わせてため息をついている。
『……となるとやっぱり、この白薔薇会がいっそう怪しいんじゃねえのか?』
二人の間に挟まれて身をすくませていると、環の意識の中にマダラが声をかけてきた。
(マダラもそう思う……?)
『だってよ、被害者はこの白薔薇会に出入りしている令嬢がほとんどなんだろ? 接点を利用して、こっそり攫って食っちまってるんじゃねえかって話だよ』
(で、でも……だとしたら誰が? ここには妖の気配はしないよ)
『そうなんだよなあ、こうなってくるともう少し聞き込みが必要になるかもしれねえな』
これだけでも精一杯だというのに、またさらに人脈を築かなくてはならないのか。環は顔を真っ青にして首を振った。
「どうされましたの?」
「い……いえ、なんでも、ありません」
いっそ白薔薇会の中に分かりやすく妖しい人物がいてくれたらよかった。そうすれば、対象者を周に告げたら万事解決。もう二度とこのような社交場に連れられる機会もなくなるだろうに。
「なんなんですの……! いったいどうして、わたくしがおかしな言いがかりをしているというの!?」
再びうつむいた時、貴賓室一帯で突然金切り声が炸裂した。びくっと肩を震わせると、二階席から大股で階段を下りてくる令嬢がいる。名前は知らないが、二階席にいたということは、華族の中でも最も位の高い公爵家令嬢だろう。
「もういいわ、あなた方ではお話になりませんもの」
何があったのか。穏やかな令嬢たちの会合は、彼女が声を荒げたことにより、しん……と静まり返ってしまう。かなり苛立っているように見えた。それだけでなく、もともとの性質なのか気の強そうな令嬢だ、と環は思った。
「あ、あの方は……」
「綾小路雅様ですわ。あの玲子様と同じく公爵家令嬢であらせられるお方」
あたりに緊張感が走ったため、時子はこっそりと耳打ちをして教えてくれた。
「そんなすごい方が、どうして」
「実は先日、雅様の旧来のご友人が失踪されたのです。もちろん、白薔薇会のご令嬢で、お名前を冨永瑠璃子さんと申します。それで……」
「え?」
「ええ、それで……大変申しにくいのですが……雅様は、この白薔薇会の中に犯人がいると、玲子様に直談判をされているんです」
環ははっと喉を鳴らした。雅は、行方不明となった友人のため、自力で事件を解決しようとしているのだ。環や周の考えがあっているのであれば、今頃は妖ものの巣に囚われているか、もしくは、もうすでに――。
「雅さん、お静かに。みなさまが驚かれているでしょう」
すると、雅を追いかけるようにして、玲子が螺旋階段を下りてくる。ただそれだけの光景であったのに、ため息が出るほど美しかった。
「では、わたくしの意見に耳を傾けていただけるのでしょうか」
「……雅さんのお気持ちは十分にお察しいたします。けれど、このような場所で騒ぎ立ててしまっては、余計にみなさまの心配を煽るだけでしょう」
「だから、わたくしは、その白薔薇会自体が怪しいのではないかと申しているのですわ!」
環たちの目の前で立ち止まった雅は、ものすごい剣幕で捲し立てている。思わず二、三歩後退してしまうほどだった。
「善良なみなさまを疑うなどとは……心苦しいことをどうかおっしゃらないで」
「どうして玲子さんはそう呑気でいらっしゃるの? もう良いです。わたくし一人で調べてみせます」
そう言い捨てて、いよいよ雅はこの場から去ってしまった。
この華族界隈で一番偉い人物相手にそこまで言えてしまうとは、と環は腰を抜かしそうになった。
『すっげえ……』
(うん、でも、あの人だったら、なにか知ってるのかな)
『あそこまで強気な態度をみるかぎり、そうかもしれねえな。近づいてみる価値あり、だな』
マダラの声に環はどきりとした。まさか、雅のような勝気な令嬢にどうやって接触しろというのだ。環の技量では甚だ難しいように思えるのだが。ぶるぶる震えていると、ひと際美々しい雰囲気を醸し出している玲子と目があった。
(――え)
玲子は環に気が付くと、目尻を細めて笑いかけてきた。
「あら、はじめてお目にするお嬢様だこと」
「あ……えっと」
そうだ、環は今日はじめて白薔薇会の扉を叩いた新入りなのだ。となれば、それを先導する者に挨拶をしないなど、失礼極まりない。
「こちらは九重環様でいらっしゃいます。九條周様の婚約者であるそうで、本日より白薔薇会にお見えになっておりますわ」
「そう……九條殿の……」
すうと目が細められ、環の顔をよく見るように一歩近づいた。口元のひとつをとっても麗しく、気を抜けば飲み込まれてしまうような雰囲気をもつ令嬢だ、と環は思った。
「ふふ、かわいらしいお嬢様ね」
「ひっ……」
ふわり、薔薇の香りがした。魅惑的な笑みを向けられ、環はおどおどと身を強張らせる。
「わたくしは栗花落玲子。今日ははじめてだというのに、怖がらせてしまってごめんなさいね」
「い、いえ……」
「ここはとても素敵な場所よ。どうかそう緊張せずに、楽しまれて」
「……は、はい」
そんなわけがないだろう。環は一刻もはやくこのドレスすら脱いでしまいたいと思っているのだ。人と関わるのは苦痛でしかなく、暗くじめっとした部屋で本を読んでいたい。ましてや、育ってきた環境が異なる令嬢たちとまともに打ち解けられるわけがない。表では綺麗な顔を浮かべておきながらも、どうせ、玲子も一般庶民を見下しているに違いないのだ。
びくびくと肩を揺らす環をみて、玲子は再び目を細める。
「本当に……かわいらしいお嬢様だこと」
「あ、あの」
桃色に艶めく唇がゆるやかな弧を描いた。
「白薔薇会へようこそ。――……環さん」
あまりに端麗な顔を前に環は逃げ腰になる。ましてや公爵家令嬢などとは、とんでもない。できれば関わり合いになりたくはないのだが、そうもいっていられない実情がある。おどおどと視線を泳がせつつ、環は玲子と向き合った。
(あれ……)
そこでふと気づく。環は玲子の顔面を凝視した。
「わたくしの顔がどうかなさいましたか?」
「い、いえ……あ、あの」
あえて聞くべきものではないのかもしれない。そればかりか、身分が格上の令嬢相手に無礼を働くことになるだろう。
「もしかすると……れ、玲子さ、様は、最近お疲れなのでは、なっ、ないでしょうか」
だが、環は一度気になると、答えを明らかにしなくては気がすまない性分である。背後で時子やよし江があからさまに喉を鳴らしている。しかも、このような公の場で聞くことではないのだ。貴賓室内がざわざわと騒がしくなると、いよいよ不穏な空気が漂った。
「どうしてそう思われたのかしら」
玲子は眉一つ動かさずに、秀麗な笑みを浮かべているままだ。環はびくびくと肩を震わせ、口を開いた。
「お化粧で、かっ、隠されている、ようですが……おっ、大きな、くっ、隈があるよう、です。そっ、それから、しっ、白目が黄色がかって、いっ、います」
並の人間ではまず分からないほどには巧みに誤魔化されている。環が告げると、玲子は無言で目尻を細めた。
「目の隈は、生活習慣の……乱れによる、血流不足が原因、です。考えられるのは、過労、精神なストレス、そして、過度な夜更かし――……」
つらつらと言葉を並べてふと環は思う。下働きをしている女中でもあるまいし、華族の、それも公爵令嬢には縁がないものばかりだ。
「先ほどから何をおっしゃっているのかしら。あなた、玲子様に向かって失礼よ」
「いいのよ。……ふふ、それにしても、なかなかに鋭い目をお持ちなのですね」
玲子の共をしている令嬢が捲し立てるが、それを制するのは当の本人だった。環はしまった、と慌てて口をつぐむ。
「面白い子が入ってきてくださったようで、嬉しいわ」
「あ、あの……お疲れのようなら、や、休まれた方が、よいと、おっ、思います」
「助言をありがとう。でも、心配は無用よ。これは少し……そうね、小説に夢中になってしまって、夜更かしをしてしまっていたからなの」
「そ、そう……ですか」
そういうことならば、環にも身に覚えがある。玲子はクスリと微笑を浮かべ、歩みを進めた。
「皆様も、あまり夜が楽しいからといって、羽目を外しすぎてはなりませんよ」
玲子がわざとおどけるようなそぶりを見せると、令嬢たちの談笑がちらほらと沸き起こった。聴きなれない上品なワルツや、煌びやかな装飾品。夫や婚約者を応援するとは名ばかりで、耳に入るのはどれも自慢話ばかりだ。富や名誉に目がくらんだものは恐ろしい。己の利のために巧に嘘をつき、やがて見境なく搾取しようとするのだから。
帝都市民の誰も羨む夜会ではあったが、環にとっては窮屈な時間がただ過ぎてゆくばかりであった。
夜会から帰宅をし、湯浴みを済ませた環は火照った体をさますためにバルコニーを訪れた。綺麗な月が浮かぶ夜であったため、ぼんやりと夜空を見上げたかったのだが、そこには先客がいた。
麗しい容貌は、月夜によく映える。冷たい双眸が環に向けられると、びくりと肩が震えた。
「こっ……こんばんは」
邪魔をしてしまったのではないか。令嬢界隈への潜入結果については翌朝に聴取するということで、周からは今夜ははやく休めと命じられていた。慣れない社交場に気疲れをしてしまった分ありがたかったが、こうして居合わせてしまうと気まずい。
「今夜の湯は熱かっただろう」
「え……あ、あ、ああ、そうです……ね。だから、夜風に当たろうと……」
「薪焚きがいつになく張り切っていた。環を気遣ってのことだろうが、熱すぎてはかなわん」
「そ……そうだったん、ですね」
九條邸には数多の妖が住み憑いている。座敷童子たちのようにただ駆けずりまわっているだけの者もいれば、己の役割に価値を見出しているものもいる。どうやら、妖たちは環を歓迎しているようだった。
「周さんは、どうして、こんなところに?」
涼しい夜風が環の体をさましてくれる。聞こえてくるのは木々がざわめく音だけだ。
「私が月を見に来てはいけないか?」
「いいいい、いえ! ごっ、ごっ、ごごごごめんなさい!」
そういうつもりで聞いたのではない。とっさに首を横に振ると、周はくつりと笑った。
「……それはそうと、今日は大義だった」
「え?」
「‟式″からすべて視ていた。上出来だ」
ため息が出るほどに美麗な笑みだった。指先がするりと環へと伸びると、頭を撫でられる。環は身を強張らせて受け入れたが、不思議な感覚だった。生まれてこの方、誰かに褒められた試しなどなかったからだ。
「視ていた……のですか?」
「言っただろう。‟式″をつけると」
「うううっ……いつのまに」
式をつけられるのならば、何も環でなくともよかったのではないか。いや、でも、この屋敷を不気味がって逃げ出してしまう令嬢があとをたたないのであれば、困ったものかもしれない。
環は悶々としつつ、周を見やった。
「も、もし……一連の事件が、本当に妖の仕業だったとするなら……はやく、止めないと。とりかえしのつかないことに、なってしまう」
「おそらく、すでにもう、もとには戻れないだろうがな」
環はぐっと口を結んだ。そうなってしまっては排除以外の道はない。
だがそれは環にとっては悲しい選択だった。妖は元来、悪ではない。人間の味を覚えてしまったがゆえに我を失っただけである。
ただでさえ、この国の民は妖ものやモノノケの類を疎んでいるというのに、そうなってしまってはますます立場が悪化してしまう。
「周さんは、どうして……そこまで」
夜風が周の艶やかな黒髪を撫でる。そろりと横目が向けられたかと思えば、再び夜空の彼方を仰いだ。
「かつて、私が幼い頃に世話になった人間がいた」
「……人間?」
ぽつり、こぼれ落ちた回答は、環にとっては意外だった。
「その頃の私まだ幼子であり、一族の責務などまったくもって軽んじていた。いや……恨みばかりがつのっていたか」
周は月明りに照らされた周の輪郭を見つめた。
「その者は、半場自暴自棄になっていた私に、言った。無念だと思うのなら、憤りを感じるのならば、己が力でこの国を正しく導けと」
夜のとばりを映す瞳からは、周の言葉の真意を伺えない。
かつての周が怨恨を抱いていたとは、果たして事実であるのだろうか。
「我が一族は、十年前に滅んでいる」
「え……? 滅ぶ?」
「ああ。屋敷に火の手が上がっていた。轟轟とうねりをあげ、燃えてゆく光景を、私はただ唖然と眺めていた」
さも昔話のように口にしているが、環にとってはそう簡単には理解しがたい内容だった。
「世間一般では、不慮の事故として片付けられたが、そうではない。あれは紛れもなく殺しだ。私が駆けつけた時にはすでに、惨たらしい光景が広がっていた」
「……そん、な、犯人は、捕まってはいないのですか?」
環が恐る恐る問いかけると周は寂寞とした表情を浮かべる。
「未だ、犯人が人間であるのか、妖であるのかすら、分かっていない」
「……っ」
「なかなか尻尾を出さん。屋敷を燃やすなどとは、随分と派手な趣向を持っていることは確かなのだがな」
どうして、そのような凄惨な出来事を経験しているというのに、周はそこまで気高くいられるのだろう。
環には決して真似ができない。たとえ、恩人となる者が現れたとしても、だ。
「華族連中は私を憐れんでいるようで、腹の底ではどうだったか。財産にでもあやかりたいという魂胆が見え透いていて、余計に辟易した」
「……」
「誰も信じられなくなっていた時、彼に出会った。そして彼は、私が人間ではなく妖──それも、鬼である事実を知っていたようだ。鬼族は古より、人間社会に紛れて生活していたのだが……不思議な人間だった」
「その方は、今は……?」
環が問いかけると、周は静かに月を見上げる。
「死んだ。……あっけなかった」
聞いてはいけなかったのではないか。いや、故意に聞かずともよかった。契約上の関係なのであるから、周の身の上話に踏み込む必要もない。それは環だけではなく周も承知しているはずだ。それなのに、何故口にしてくれたのか。
「すまない。つまらない話をした」
「い……いえ」
これ以上踏み込んではいけない。周の月のような瞳を見ていると、封じ込めている一面までのぞかれてしまうような気すらする。
とにかく、今は事件の解決が先決だ。そうしてこの荷が重すぎる役目から解放されねばならない。
「とっ、ところで、周さんは、みょ、苗字のこと、ごっ、ご存じだったのでは、ないでしょうか」
話題を変えようととっさに切り出したが、周は軽く口角を上げているのみだ。周の手のひらの上で転がされているようで、釈然としない。
「だったら、何か問題でも?」
「あ、あらかじめ、おっ、教えてくれても、いいじゃない、ですか!」
「ああ……忘れていた」
「忘れていたって! もう! 私、華族出身なんかじゃないのに!」
あの時は本当に肝が冷えた。いくら社交場で使い物にならない陰気な娘だとしても、事前情報として共有くらいはしてほしかった。
分かりやすくむくれる環に、端麗な瞳が向けられる。
「そういった顔もまた、興がある」
ずい、と距離を縮められる。目と鼻の先に整った顔があるものだから、環の呼吸が止まった。
「臆病なのか、将又肝が据わっているのか……」
「な、な……」
「栗花落の令嬢相手によくもああまで言ったものだ」
先刻の無礼を思い出し、環の背筋はたちまち凍り付いた。
(令嬢たちからいじめられてしまったらどうしよう)
玲子の目が気になったため口にしてしまったものの、あの場には適していなかったようだ。何故マダラは止めてくれなかったのか。これから先も、場にそぐわない発言をしてしまうのではないかと不安になる。
「――九重環とは何者なのか」
「へ……?」
ごくりと生唾をのむ。硝子のようにきらきらと輝く瞳が、緩やかに細められた。
「知りたいと思うほどには、あなたを気に入っている」
幽玄な月が浮かぶ夜。周はそう告げると、環の頬をするりと指で撫で、バルコニーをあとにしたのだった。
環は翌朝、しゃかしゃかと粒が擦れる音によって目覚める。寝ぼけ眼を擦り体を起こすと、部屋の中に小豆洗いが座り込んでいた。
いつの間に入り込んできたものか。小豆洗いはとくに環に悪戯する様子もなく、何度も何度も念入りに洗っている。
「ん……おはよう……ございます」
『……』
「ふわ……あなたは……いつから、そこに?」
しかし、欠伸をする環を一瞥すると、徐に立ち上がって壁の中に消えていってしまった。
(あれ、いなくなってしまった)
妖ものは気まぐれな生き物だ。ここで小豆を洗うのに飽きたのかもしれない。
それにしても昨夜は泥のように眠ってしまった。よほど社交場で気疲れをしていたらしい。
できればもう二度と出向きたくはないのだが、そうも言ってはいられないのだろう。少なくとも、綾小路雅には何らかの接触を図らねばならない。あの勝気な令嬢相手に、環がまともに渡り合える気がしないのだが。
はあ、とため息をつき周囲を見回す。マダラはといえば、ベッドの上で気持ちよさそうに眠っていた。
『……むにゃむにゃ、もう食えねぇぞ……』
(呑気に寝ていて、羨ましい)
起こさずに布団から這い出る。身支度を整えると、環は一階へと向かった。
女中が朝食の支度を済ませているのか、味噌汁のいい香りが立ち込めている。
こんがりと焼かれた魚の匂いに食をそそられ、広間に向かう。そこには朝刊を読んでいる周のほかに、見慣れない僧風の男が座っていた。
「お………お、おはよう、ございます」
環が声をかけると、朝刊からちらと視線を上げた周と目が合う。
「おはよう」
「……あ、あのそちらの方は」
先ほどから茶を飲んでいる男は、おそらくは妖でよいのだろう。大正の時代とは逆行した麻の着物を身につけ、知的な印象を受ける。もっとも目を引くのは、大きく突き出た後頭部だ。
「ぬらりひょんだ。今日からしばらく屋敷に滞在するようだから、よろしく頼む」
「……ぬらりひょんさん、は、はじめ、まして」
ぬらりひょんといえば、一般に瓢箪鯰のように掴まえどころがないという。頭脳明晰とも言われ、妖の総大将ともされている存在だが、環は未だかつて実物を目にしたことはなかった。
「ほう……君が、周殿のよい人か」
「よっ、よい人?」
「どれ、君から周殿の気が伺える。これは……ふむ、"式”の他にまだ何かつけられておるな」
よい人だとはとんでもない。あくまでも周と環は偽物の婚約関係にあるだけだ。
ぶるぶると否定をするが、ぬらりひょんは飄々とした顔で茶を飲んでいる。周に関しては朝刊に目を通しているばかりで、ちっとも気にしていないようだ。
「あ、あの、私は……本物の婚約者では……ないのですが」
「知っておる。人間の娘の失踪事件を追っているのだろう。あれは、誠に残念のことよのう……」
環はおずおずと席につくと、食卓に並んでいる皿たちがこぞって眼前に集まってきた。今すぐに使ってほしいといわんばかりだ。
「本来、人間と妖は、住む場所を分かち、よほどのことがない限りは干渉しあわないものだ。互いの世界を守り、均衡を築く役目を担っていたのが、人間のとある一族と、妖の鬼族だったのだが……」
「鬼族……」
ちらりと周を見るが、視線は朝刊に向けられたままだ。
「最近は、妖が次々と町中へおりていっている。昔から町中でこっそりと暮らしているものはいたが、此度の妖どもは様子がおかしいのだ。人間の味を覚え、理性が保てなくなるものが増えている」
「そう……なんですね」
「わしらとしては、あまり妖ものや妖怪の悪評を広めたくないのが本音なのだよ。現に、令嬢の失踪事件も、神隠しにあった、だの。妖怪に呪われたのだ、などと騒ぎ立てる連中までいる。そうなってしまっては、人間の目が一層光るばかりで、わしら妖はおちおち暮らしてもいられんものよ」
ぬらりひょんは湯呑みを置き、重たいため息をついた。
『たいへんだ、たいへんだ』
『あちこちにお札が貼られているよ』
『あれ、痛くて苦しいよ』
『オイラたち、見えるにんげん、いじめてくる。遊び場が、なくなっちゃう』
瞬きをしたその時、いつのまにか周囲に座敷童子たちが集まっている。その場でバタバタと走り回ると、壁を駆け上がり天井裏へと消えてしまった。
このままゆけば、妖は人間に害をなすものとして、いっそう忌まれてしまう。すべての妖が悪ではないのに。人間にも善人と悪人がいるように、妖だってそうなのだ。
環はやるせなくなり、かたく唇を結んだ。
「それにしても、風変りな娘さんよのう。このような妖まみれの屋敷で、平然と暮らしているとは」
「あっ……えっと、これはその……慣れている、ので」
「しかし、これほど視えてしまっては、面白がった輩どもにいたずらをされてしまうだろう」
「うーん、まあ、そうなの、ですが……勝手に鞄を持っていかれてしまったり、本を破かれてしまったり、あとは……ああ、そうだ、昔、一度だけ嫌々女中をしていた時に、お嬢様を池に転落させられたり……しました。おかげでお暇をいただくことが、できました」
かつての出来事を思い出し、あははと笑った。口入れ屋から斡旋された仕事は、内職以外はどれもうまくいかなかった。大抵は、妖たちにいたずらをされ、気味悪がった主人に暇を言い渡されて終わってしまう。
できることならば四六時中家に引きこもっていたい環にとっては、ありがたい迷惑だったが。
すると、しばらく朝刊を眺めていた周がくすりと笑う。
「そこで喜んでどうする」
「あ……だ、だって」
もごもごと口ごもると、女中が朝食を運んできてくれた。ふっくらと炊けた白米と、具沢山のみそ汁。それに加え、こんがりと焼けた魚も添えられているとは、なんと贅沢な朝食なのだろう。
「お……おおおおっ、おいしそう、です!」
「どうぞ、召し上がれ」
「いっ、いただきます!」
環は両手を合わせて勢いに任せて白米をかきこんだ。マダラはいつまで寝ているのだろう。
「それで、令嬢界隈の件だが」
「ごふっ!」
本題だ、とばかりに両手を顎の下で組み合わせている周がいる。かきこんでいた白米が喉につまり、環はあわててお茶を喉に流し込んだ。
しらを切って視線を逸らそうかとも思ったが、周の鋭い瞳からは逃げられない。分かっている。給金をもらっている手前、どれだけ気が進まなくとも、環はやらねばならないのだと。
「……なんとか雅さんという御令嬢が、なにかご存じかも……しれません」
「公爵家の綾小路雅か」
「うっ……、そうです。公爵家の、かなりはっきりとものを申される御令嬢です……」
とたんに憂鬱になり、箸を持つ手が止まる。
「なんでも、ご友人が失踪されたそうで……って、ぜんぶ周さんはみっ、視ていたんですよね? 説明しなくても、わっ、分かるじゃないですか」
「ああ。それで、環はどうしたいと思う?」
「え……? そりゃあ、本音では関わりたくはないと思います……人間って怖いし……」
もし、この事件の犯人が妖であったとして、それが軍部側に露呈してしまったのなら。人間は、人間ならざる者を過剰に恐れ、撲滅を願うだろう。
やがて国は魑魅魍魎の排斥に本腰をいれる。そうなってしまっては、なにも悪いことをしていない妖や妖怪も、殺されてしまうのかもしれない――そう考えると、環の決心は鈍るのだ。
「で、でも……」
ぎゅっと唇を結ぶ。環の瞳が、周の月のような瞳に映った。
「なんとか、してあげたい」
まだ人間は怖い。今のところは、妖側に寄り添う気持ちの方が強い気がする。人間は環をいつも苦しめ、寂しい時、悲しい時、味方をしてくれたのはいつも妖だった。
そんな彼らが傷つくのは耐え難い。そしてなにより、我を忘れ、化け物になり果ててしまった妖を、楽にさせてあげたいと思ったのだ。
翌週の日曜日になると、環は白薔薇会主催の‟ガーデンティーパーティー″に招待をされた。環は当然パーティーというものに縁がなく、招待状が届いた時には背筋が凍ったものだ。
本来であれば迷わず断りたいところであったが、開催場所をみると綾小路邸と記載があるではないか。
環はぐぬぬ、と眉を顰めて考え込んだ。綾小路雅の活発な態度を思い起こして、背筋が凍る。だが、これはおそらくは絶好の機会なのだろう。環は自身に鞭を打ち、参加の意思表示をしたのだった。
「環様、ごきげんよう!」
「ご……ごきげんよう、時子さん」
綾小路邸は帝都の西側に門を構えている。洋風邸宅は、九條家に匹敵するほどに立派だった。
敷地の中に入るなり、ほうとため息をつく。当主が好んでいるのか、庭園には色とりどりの薔薇が植えられていた。
『ひょえ~、随分と気合入ってんなあ~』
庭先には豪奢なワンピースを身に着けた令嬢たちですでに賑わっていた。環の影の中に身を潜めるマダラも、あっけにとられている。
ふんだんにあしらわれたフリル、きらりと光沢のあるブローチ、上品にも日傘をさしている者もいる。
(人が多いよ……はやく帰りたい……)
時子に連れられるままに敷地の中を進むと、令嬢たちの視線が環へと集結する。
(こわい……! いじめられる!)
やはり、先日の夜会でかましてしまった玲子への失言が響いてしまっている。こそこそと耳打ちする声が聞こえ、環はぶるりと震えあがった。
「た、環様……あまり、その、気負わないほうがよろしいかと……」
「は、はい……」
「た、たしかに先日の件はわたくしも驚いてしまいましたが、あれは、玲子様のお体を思ってのこと……だったのでしょうし。それにしても、環様は学に明るいのでございますね」
時子は両手を合わせ、顔を青々させている環を宥めた。
「女学校時代は、立派な花嫁になるよう先生方から指導を受けていたものですから、学問に関しては、殿方の専門分野だとばかり思っておりました」
「えっと……その、私はべつに」
ただ家に引きこもって学術書を読みふけっていただけだ。環は尋常小学校にも通っていなければ、女学校になどもっぱら縁もゆかりもない。周の婚約者を名乗っているが、それこそ花嫁修業の‟は‟の字も経験がないのだ。
「……それにしても、環様は九條邸で過ごされていらっしゃるのでしょう? その……何かお変わりはございませんでしょうか」
続々と来訪する令嬢たち。その誰もが黒塗りの自動車から、使用人を連れて颯爽と降りてくる。環にとってはまるで別世界だった。周囲で挨拶が交わされる中、時子はこっそりと耳打ちをした。
「どういう意味、でしょうか……」
「いえ……あの、九條家は由緒正しく、素晴らしい血筋であると、存じ上げております。ただ……十年前に起こった惨事は、ご存じでしょう? 周氏をのぞき、一家が火事でお亡くなりになった……あの事件を」
環ははっと息をのんだ。当の本人に仔細は聞かずにいるが、九條家の鬼たちは、なぜ殺されてしまったのだろうか。
誰に? なんの目的で?
深入りすべきではないと理解しているが、周の言葉が脳裏に染み付いてしまって離れない。もし、鬼族をよく思わない存在がいるのならば、今も虎視眈々と周の寝首をかく機会を狙っているかもしれない。
「それが理由であるのかは分からないのですが、周氏の婚約者であった方々はみな、邸宅から不気味な気配がするといって、去られてしまっているのです」
「あ……ああ」
考えを巡らせていたが、そこで現実に引き戻される。その不気味な気配とは、妖のことだ。
「周氏は見目の麗しい貴公子のようなお方……ですが、お屋敷は亡霊たちにより呪われているのではないか……とも噂されていたもので」
「えっと……それに関しては、なにも問題は、ないです」
「そうなの、ですか? でしたら、安心いたしましたが……。呪われたりはしていないかと、少々心配しておりましたので」
「あ、はは……」
環は誤魔化しながらに笑うしかなかった。
「ほら、近頃の令嬢失踪事件もなかなか解決には至っていないようですし、警察でも、めぼしい証拠が出てこないようで。もしかすると神隠しやモノノケの仕業なのではないかって、一部ではもちきりなのですよ」
時子は重々しい顔つきで述べた。環にとっては頭上に鉛が落ちてくるような感覚があった。
「昔から、逢魔時にはひとり歩きはするな、人ならざるものに攫われる――と言われておりますけれど、それが本当ならば怖いですよね……」
「……」
なんと虚しいのだろう。妖ものがすべて明確な悪意をもっているわけではないというのに、どうしてここまで恐れられなくてはいけないのだ。
人間の方がよほど怖いではないか。環はぐっと唇を噛みしめ、黙り込んだ。
「って、ほら、雅様がようやくお見えになりましたよ」
「え……?」
「公爵家の方々は、いつも、あちらの二階バルコニーでお茶を楽しまれるのです。ああ、今日も見目麗しい……」
時子がうっとりしている隣で、環はそわそわと落ち着かない。あのような格上の世界。ただでさえ、公爵家とそれ以外のものたちで区切られてしまっているというのに、どのように接触をしたらよいものか。
「ごきげんよう、雅さん」
「……ごきげんよう。ですが、わたくしはあれほど延期にしようと申し上げましたのに。よくもまあそう呑気にお茶などしていられますね、玲子さん」
今日の雅も機嫌が良いとはいえないようだ。あのような強気な令嬢に、陰気な環が太刀打ちできるわけがない。さあああ、と環の顔は真っ青になる。
「みなさまをご不安にさせてはいけないでしょう。それに、瑠璃子さんはきっと帰ってきてくださいますわ」
「だから、わたくしはお茶を楽しむような気分になどなれないと言っているのです!」
「雅さん、どうか、警察を信じて待ちましょう。わたくしたちが暗い顔をしてばかりいてはなりませんよ」
雅はきっと鋭く睨み飛ばし、ふてぶてしい態度で椅子に腰かけた。
(あっ!)
──ともすれば、雅の足元に小鬼がいるではないか。
いったいどこからやってきたのか、雅の足首にしがみつき、体をよじ登っている。当然、雅本人にもそれ以外の者たちにも見えているはずなく、環のみぞ知るところではあったが。
『放っておいても問題はねえだろ。まっ、多少のいたずらはするだろうけどな』
(いっ、いたずらって……大丈夫かな)
小鬼はやがて雅の頭の上にたどりつき、満足げに腰を下ろす。しばらくあの場から離れるつもりはないらしい。
環は小鬼の存在が気になって仕方がなかったが、やがて運ばれてくるお茶菓子に舌鼓を打ったのだった。