*
帝都、銀座にある会員制の高級ダンスホールは富裕層で賑わっていた。陽が沈んだ時間帯だというのにもかかわらず、煌々と輝いている。路肩には黒塗りの自動車が並び、派手な風貌の男女がぞろぞろと姿を現した。
環は周にエスコートというものをされ、重い足取りでエントランス前までやってきた。
ただでさえ人との関わりに苦手意識があるというのに、華族を相手にするなど無理な話である。帰りたい、帰りたい、帰りたい、と心の中で唱えずにはいられない。
正直なところ、なんの役にもたたずに帰宅する未来しか描けていないのだ。仕立ててもらった紅色のドレスも身の丈にあっているような気がしない。華族令嬢といったい何を話せばいいというのだ。
『ひょえ~、こんな夜中だっていうのに、ぎらっぎらに輝いてんなあ~』
人の多さにはやくも吐きそうになっていると、環の影の中からひょろりとマダラが現れる。
マダラは妖術をつかい、環の影の中に隠れながらついてきてくれている。自由自在に変化できる妖がうらやましい。環も影の中に隠れていられたらどんなに幸せだろうと思った。
「わ、私につとまるとは思えないの……ですが」
「交流をもつように、とまでは言っていない。ただ、令嬢界隈で怪しげな動きはないか、見てきてくれるだけで十分だ」
「ううう……で、でも、そういうわけには、いかないのでは……」
周囲からは先ほどから突き刺さるような視線が向けられている。この九條周という男が目立たないわけがないのだ。
そうなってくると必然的に隣にいる環にも興味関心が向けられてしまう。ちくちくとした視線にさっそく品定めをされているような気がしてならない。
「いっ、今までも、こうして女性に協力して、もっ、もらっていたの、ですか」
本来、このような高級ダンスホールになど一般庶民が来られるはずもない。門前払いをされてしまうのが関の山だ。
だからこそ、このような場所を好む令嬢たちは、自尊心が高いのではないかと思うのだが。
「まさか……ここまで目的を明らかにしているのは、環がはじめてだ」
「え……では、これまでは」
「令嬢界隈に妙な様子はないか、それとなく相手に探っていた」
周はなんの悪びれもなく告げる。潔いまでの態度を前にして、環はげっそりしてしまった。血も涙もないなんて非情な男だ。分かってはいたが。
『うげえ、使えるものはなんでも使うって? やな感じ』
「さあ、そのあたりは相手も同じだ。華族連中のとる行動には、かならず裏があるからな。九條の名前を好いていただけで、私を好いていたわけではない」
環には色恋云々はよく理解できないが、もし本当にそうなのだとしたらとても虚しいことだ。これだから人間は信じられないし、恐ろしい。
「……この話はもういいだろう。入るぞ」
周はそっと腕を差し出し、環を館内に導いた。この一週間、女中とともに歩き方の練習をしていたものの、洋風の履物には未だに慣れない。油断をするとドレスの裾を踏んでしまいそうだ。
(は……恥ずかしい)
やけに重厚感のある扉の先は、まるで異国のような空間が広がっている。響き渡っているのは、楽器の生演奏だ。上品なワルツ、ゆったりと踊っている男女。きらきらと輝くシャンデリアに、敷き詰められた赤い絨毯。まるで――別世界だった。
「おお、ごきげんよう、九條くん」
「九條くんではないか、ごきげんいかがかな」
メインホールに足を踏み入れるなり、周は多くの人に声をかけられた。江戸時代から続く名家――九條家当主の存在は、上流階級の注目の的であった。飛び交う話題といえば、政治経済のこと、あの官僚はどうだとか、懇親を深めるためのパーティーへの誘い、そして――縁談のこと。
「――それで、貴族院議員の関氏といえば、どうも憲兵と裏でつながっているみたいでしてね……」
「賄賂を受け取っているのだとかなんとか、聞いたことがありますな」
「けしからんやつめ。これだから成金あがりの華族は」
「まったくだ……あちらの派閥にはろくなものがいない。……それにしても、どうだね、九條くんとはこれからもよい付き合いをしていきたいと思っているのだよ」
「私が贔屓にしているお家のお嬢さんがね、とても気立てのよい子なんだ。どうだい、ひとつ会ってやってみないかな」
目の前でああだこうだと議論がされている。環はいよいよ居心地が悪くなり、こっそりと周の背に隠れるようにして華族たちの視線から逃れた。
「あいにくですが、今はよいご縁がございまして」
「おや……? お連れになっているそちらのお嬢さんが今度のよい人で?」
「はい、婚約者の環といいます。ご報告が遅れてしまい申し訳ございません。また、ちょうどよい機会ですし、今夜は白薔薇会にもお邪魔させていただきたいと思っているのですが」
「おやおや、まあまあ、婚約者……。それはそれは……」
周の応対は完璧だとしか言いようがなかった。環はぺこりと頭を下げるが、目の前の政治高官たちが恐ろしくてたまらない。顔を真っ青にしていると、周がそっと環の腰を抱き寄せてくる。
「残念だが、それであっては仕方がないね」
「いったいどこのお嬢さんでいらっしゃるのかな」
興味関心、好奇の目がちくちくと突き刺さった。
目玉がたくさんこちらに向いている。それはまるで、かつて環が見たことのある化け物のようだった。
「彼女はこのとおり恥ずかしがり屋なのです。できれば、そっとしておいていただけると幸いなのですが」
「おっと、これは失礼した。いやはや、これまでに見かけないお嬢さんだと思ってねえ」
口では引いてくれているが、内心は納得いかないといった具合だ。環はごくりと生唾をのむ。
「それにしても、白薔薇会か……それであれば、西宮さん。ご案内をさしあげたらどうだろうか」
帝都、銀座にある会員制の高級ダンスホールは富裕層で賑わっていた。陽が沈んだ時間帯だというのにもかかわらず、煌々と輝いている。路肩には黒塗りの自動車が並び、派手な風貌の男女がぞろぞろと姿を現した。
環は周にエスコートというものをされ、重い足取りでエントランス前までやってきた。
ただでさえ人との関わりに苦手意識があるというのに、華族を相手にするなど無理な話である。帰りたい、帰りたい、帰りたい、と心の中で唱えずにはいられない。
正直なところ、なんの役にもたたずに帰宅する未来しか描けていないのだ。仕立ててもらった紅色のドレスも身の丈にあっているような気がしない。華族令嬢といったい何を話せばいいというのだ。
『ひょえ~、こんな夜中だっていうのに、ぎらっぎらに輝いてんなあ~』
人の多さにはやくも吐きそうになっていると、環の影の中からひょろりとマダラが現れる。
マダラは妖術をつかい、環の影の中に隠れながらついてきてくれている。自由自在に変化できる妖がうらやましい。環も影の中に隠れていられたらどんなに幸せだろうと思った。
「わ、私につとまるとは思えないの……ですが」
「交流をもつように、とまでは言っていない。ただ、令嬢界隈で怪しげな動きはないか、見てきてくれるだけで十分だ」
「ううう……で、でも、そういうわけには、いかないのでは……」
周囲からは先ほどから突き刺さるような視線が向けられている。この九條周という男が目立たないわけがないのだ。
そうなってくると必然的に隣にいる環にも興味関心が向けられてしまう。ちくちくとした視線にさっそく品定めをされているような気がしてならない。
「いっ、今までも、こうして女性に協力して、もっ、もらっていたの、ですか」
本来、このような高級ダンスホールになど一般庶民が来られるはずもない。門前払いをされてしまうのが関の山だ。
だからこそ、このような場所を好む令嬢たちは、自尊心が高いのではないかと思うのだが。
「まさか……ここまで目的を明らかにしているのは、環がはじめてだ」
「え……では、これまでは」
「令嬢界隈に妙な様子はないか、それとなく相手に探っていた」
周はなんの悪びれもなく告げる。潔いまでの態度を前にして、環はげっそりしてしまった。血も涙もないなんて非情な男だ。分かってはいたが。
『うげえ、使えるものはなんでも使うって? やな感じ』
「さあ、そのあたりは相手も同じだ。華族連中のとる行動には、かならず裏があるからな。九條の名前を好いていただけで、私を好いていたわけではない」
環には色恋云々はよく理解できないが、もし本当にそうなのだとしたらとても虚しいことだ。これだから人間は信じられないし、恐ろしい。
「……この話はもういいだろう。入るぞ」
周はそっと腕を差し出し、環を館内に導いた。この一週間、女中とともに歩き方の練習をしていたものの、洋風の履物には未だに慣れない。油断をするとドレスの裾を踏んでしまいそうだ。
(は……恥ずかしい)
やけに重厚感のある扉の先は、まるで異国のような空間が広がっている。響き渡っているのは、楽器の生演奏だ。上品なワルツ、ゆったりと踊っている男女。きらきらと輝くシャンデリアに、敷き詰められた赤い絨毯。まるで――別世界だった。
「おお、ごきげんよう、九條くん」
「九條くんではないか、ごきげんいかがかな」
メインホールに足を踏み入れるなり、周は多くの人に声をかけられた。江戸時代から続く名家――九條家当主の存在は、上流階級の注目の的であった。飛び交う話題といえば、政治経済のこと、あの官僚はどうだとか、懇親を深めるためのパーティーへの誘い、そして――縁談のこと。
「――それで、貴族院議員の関氏といえば、どうも憲兵と裏でつながっているみたいでしてね……」
「賄賂を受け取っているのだとかなんとか、聞いたことがありますな」
「けしからんやつめ。これだから成金あがりの華族は」
「まったくだ……あちらの派閥にはろくなものがいない。……それにしても、どうだね、九條くんとはこれからもよい付き合いをしていきたいと思っているのだよ」
「私が贔屓にしているお家のお嬢さんがね、とても気立てのよい子なんだ。どうだい、ひとつ会ってやってみないかな」
目の前でああだこうだと議論がされている。環はいよいよ居心地が悪くなり、こっそりと周の背に隠れるようにして華族たちの視線から逃れた。
「あいにくですが、今はよいご縁がございまして」
「おや……? お連れになっているそちらのお嬢さんが今度のよい人で?」
「はい、婚約者の環といいます。ご報告が遅れてしまい申し訳ございません。また、ちょうどよい機会ですし、今夜は白薔薇会にもお邪魔させていただきたいと思っているのですが」
「おやおや、まあまあ、婚約者……。それはそれは……」
周の応対は完璧だとしか言いようがなかった。環はぺこりと頭を下げるが、目の前の政治高官たちが恐ろしくてたまらない。顔を真っ青にしていると、周がそっと環の腰を抱き寄せてくる。
「残念だが、それであっては仕方がないね」
「いったいどこのお嬢さんでいらっしゃるのかな」
興味関心、好奇の目がちくちくと突き刺さった。
目玉がたくさんこちらに向いている。それはまるで、かつて環が見たことのある化け物のようだった。
「彼女はこのとおり恥ずかしがり屋なのです。できれば、そっとしておいていただけると幸いなのですが」
「おっと、これは失礼した。いやはや、これまでに見かけないお嬢さんだと思ってねえ」
口では引いてくれているが、内心は納得いかないといった具合だ。環はごくりと生唾をのむ。
「それにしても、白薔薇会か……それであれば、西宮さん。ご案内をさしあげたらどうだろうか」