気がつくと環は自室のベッドに横になっていた。随分と寝込んでいたらしく、窓の外に月が浮かんでいるのが見える。

 あれからどうなったのかまったく思い出せない。たしか妖に食われかけたところを周が助けてくれた。そうして、鬼の妖力により殺されかけていた妖に、里山に帰るように促したのだった。それから――。

 ぼんやりと肩に触れると、鈍い痛みがまだ残っている。やはり、記憶違いではなかった。あのあと、周に噛まれて意識を飛ばしてしまったのだ。

『お、環! 起きたのか!』

 むくりと起き上がると足元のあたりでマダラが丸くなっていた。ぴょんぴょんと軽快に飛び跳ねながら環のそばにやってくる。

「マダラ……」
『妖に食われかけたって聞いて、肝を冷やしたぞ。オレがついていればよかったのに、悪かったな……』
「ううん、大丈夫だよ。周さんが、きてくれたから」

 環は膝の上にのっているマダラの頭を撫でた。すると、マダラは不満そうにむくれているではないか。まるで手柄をとられたといわんばかりの態度だ。

『あいつ、いけ好かねえんだよな。騎士のつもりかってんだ。環を横抱きにして戻ってきたかと思ったら、誰もそばに近づけようとしなかったんだぜ?』
「え……え?」

(横抱き?)

 環はぱちぱちと瞬きをし、一瞬言葉の理解に苦しんだ。

『そんでよ、環の匂い、あいつの妖術で消したみたいで。んなことしてくれなくたって、オレがいれば問題ないってのによ!』
「私の匂い? な、なにそれ……」

 すんすんと自分の体を匂ってみるが、分からない。というかこれまでにマダラは一言もそんなことを教えてはくれなかった。

 いやしかし、問い詰めるまでもなく、思い返す。長らく引きこもり生活を続けていた環のそばにはいつもマダラがいたし、四六時中自宅にいるのであれば、危険な場面に遭遇する機会すらないに等しい。訪ねてくる者も口入れ屋くらいであったからだ。

『環の周りに妖が集まってくる理由、それって、お前からいい匂いがするからなんだよ』
「え……」
『そいつらが全員、環を食いたいと思ってるかといえば、違う。あいつらは無駄に好奇心旺盛なんだよ。なんていうんだろうな、心地いいと感じてる奴が大半だろうな』

 マダラはぽりぽりと後ろ足で体をかく。
 昔から不思議に思っていたが、そういう理由からだったのか。理屈は分かったが、内心は複雑だ。

「そっ、そっか……匂いなんて、よく分からないけど、へえ……」
『周が妖術でなんとかしてるみてぇだけど、それも一時凌ぎにすぎないから、まっ、これからもオレのそばを離れないことだなっ!』

 ふんす、と得意げになっているマダラを腕に抱き、「そうだね」と口にする。

 周は今頃何をしているのだろう。昼間遭遇した妖は、無事に正気に戻れただろうか。環が止めなければ、あのまま周は妖を殺してしまっていたのだろうか。

 この依頼を引き受けず、かつての家に引きこもっているままであれば、こうも考えあぐねることはなかった。
 他者の存在は至極複雑で面倒だ。物言わぬ書物と向き合っている方が気楽だ。環は夜空に浮かんでいる月をぼんやりと眺めた。

「ごめんね、今日、おいしいものを食べるって言ってたのに、何も買ってあげられなくて」
『ん? おうよ、言っておくが、オレはコロッケって食いものを諦めてないからな! また連れていけよな!』

 人混みを考えると気乗りはしなかったが、なにか与えてやらねばしばらくうるさいだろう。
 今度女中に頼んでマタタビを買ってきてもらおう、と環は思った。



 翌朝、九條邸の大広間はいつになく騒がしかった。

 あれからもうひと眠りをした環の体調は、問題なく回復した。今日こそは引きこもって読書をする。学術書があれば、一日中解き明かしていたい。だが、さすがに空腹には耐えかねる。

 環はマダラをつれて朝餉にありつこうとしたのだが、すでに見慣れない妖たちが食卓を囲んでいた。どこから沸いて出てきたのか、普段この屋敷では見ないものたちだ。

『おお、起きたか。よかったよかった』
『本当だ。どこも食われていないようだ』

 誰だろう、と思いつつ、食卓につくと女中が朝餉を運んでくれる。

 食欲をそそる白米の香り。こんがりと焼きあがった鮎。添えられている漬物は、環の好物のだいこんだ。湯気たつみそ汁を一口流し込むと、心落ち着くやさしい味わいがした。

「あら、周様、おはようございます」

 すると、二階からこの屋敷の当主が下りてくる。環ははっとして顔を上げた。そして気恥ずかしさにどのような顔向けをすればよいか分からなくなる。

「おはよう。白湯を頼む」
「かしこまりました」

 周は食卓を勝手に取り囲んでいる妖たちを見ても何も言わなかった。もしかすると、九條家ではこのようなことが日常茶飯事なのかもしれない。脅威となりうる妖でないかぎりは、好きに出入りさせているのだろう。

「……」
「……」

 環の向かい側に周が着席する。自由気ままに食事をしている妖たちを挟んで、沈黙が流れた。

(どうしよう……お礼、言わないと……いけないよね)

 運ばれてきた白湯を受け取り、周は朝刊を広げている。

「あっ……あああああ、あのっ!」

 勇気を振り絞って口を開くと、ちらりと周が視線を上げた。

「き、昨日は、危ないところを助けていただき、あっ……あ、ああ、ありがとう、ございました」

 突き刺さるような冷たい瞳は苦手だ。環はおそるおそる声を振り絞る。

「礼はいい。体はもう平気か」
「は、はい。たくさん眠ったので」
「そうか」

 また沈黙。よりによって、食卓を取り囲んでいた妖たちが、ぞろぞろと席を立ってどこかへ消えてしまう。もう少しゆっくりしていけばいいものの、妖という生き物はきまぐれな性分なのだ。

「あ、あの……」

 さっさと朝餉を済ませて、自室に逃げ込んでしまえばいい。だが、環は気づけば自分から声をかけていた。

「お、怒って……ますか」
「なぜ? 怒ってなどいないが」
「……ぜ、ぜったい、お、怒って、ますよね」
「怒っていない」
「でっ、でもっ、よっ……余計なことをしたと……おおおっ、思っています、よね」

 環が食い下がると、周は小さく嘆息をつく。朝刊を閉じ、月のように静かな瞳を向けてきた。

「余計なこと?」
「わ、私が、あの妖を里山へ逃した、ことです……」

 周は問答無用で排除しようとしていた。それを引き止めたばかりか、途中で意識まで失ってしまうとはとんだ面倒な女だっただろう。
 いや、元はといえば気を失ったのは周のせいだ。肩のあたりを噛み、環に妖術をかけたから。

「甘いとは思う。あの手の妖は早々に息の根を止めねば、人間社会との均衡を脅かしかねない」
「……甘い」
「同胞だろうが、情けは無用だ。現世と常世の均衡を守る、それが私の──鬼族の責務でもある」

 責務、という重い言葉がのしかかる。長らく引きこもり生活を続けていた環には、想像ができないほどのものを抱えているのだろう。

「昨日のような、事件は……て、帝都の街中では、よく起こっているの、でしょうか」

 すべての妖が、マダラや口入れ屋のような理性のあるものたちであるとはかぎらない。ましてや、妖はただでさえ人間をはるかに凌駕する力を持っているのだ。
 野放しにしていれば、もちろん両種の均衡にかかわる。

 そうなると、帝都妖撲滅特殊部隊の目も一層厳しくなるばかりだろう。

「そうだ。これはおそらく、氷山の一角にすぎない」
「そう、ですか……」
「このままでは、人間と妖の溝は一層深まるばかりだろうな」

 周は粛々と告げると、白湯を口に含んだ。

「来週末」
「え?」
「銀座のダンスホールで、華族連中が集まる。舞踏会とでもいえばいいか」
「ぶ……舞踏会」
「そこで必ず、白薔薇会という婦人の会が開かれる。茶を飲み、世論を語る――のだとかなんとか」

 環の箸を持つ手が止まる。そうだ、環は周の婚約者となり、社交場に出向かなくてはならないのだ。嫌でも人と関わらなくてはならないとは、今から気が重くなった。

『それ、オレも隠れて見に行ってもいいんだよな?』

 がっくりとうなだれていると、食事を済ませて満足そうにするマダラが出張ってきた。

『怪しまれねえようにうまくやるからよ。ついでに環のことも任せてもらっていい』
「マダラ……」

 マダラがそばにいてくれるとなると頼もしい。自分が社交場などに出向いたところで、いじめられる未来しか考えられなかったのだ。

「ああ、そうするといい」
『けっ、なんだい、きざったらしいぜ』

 華族社会など、まるで別世界なのだろう。一般庶民である環が馴染めるはずもない。勝手な解釈ではあるが、華族の人間は庶民を見下しているように思っている。正直なところあまり好ましくはないのだが、これも給金のためだ、致し方ない。

『そうと決まればっ、腹も満たされたし、もうひと眠りするかあ~』

 ため息をつく環をよそに、マダラは呑気にあくびをしている。よく食べ、よく眠る猫又だ。
 螺旋階段の手すりをぴょんぴょんと上っていくマダラを横目に、残っていたみそ汁を飲み干した。

 こうしてはいられない。はやいところ図書室の中を漁らなくてはならない。読みたい本が山のようにあり、いくら時間があっても足りないくらいだ。

 両手を合わせ、環は席をたつ。外出の予定がないとは、なんて素晴らしい。

「環」

 すると、湯呑をおいた周に名を呼ばれた。
 闇夜のごとき黒髪の中に、月のような瞳が浮かんでいる。

「理性を失った妖であっても、一方的に排除すべきではないと、あなたは思うか?」

 唐突な問いかけだった。環はとくに考える間もなく、頷く。

「まだ、もとに戻れるかも、しれない。人間も、道を違えることがあるように、妖も同じ、だから」
「言葉も通じぬ化け物であっても?」
「……そうなってしまったら、なるべく苦しめずに、常世に返してあげたい、です」

 環は切なげに笑う。

「あの猫又の妖とは、長い付き合いなのか」

 周はなるほど、とひとりごちると、再び話題を切りだした。まさかここでマダラのことを尋ねられるとは思いもしなかった。

「は、はい……物心ついた頃から、いっしょに、います」
「家族は? 家を出てきてしまっては、心配もするだろう」

 湯呑に手をかけ、周が問いかける。

「家族はマダラだけなので、問題……ないです」

 環は一瞬だけなんと回答すべきか逡巡した。月のような瞳が交錯すると、居心地が悪くなる。

「マダラだけで……いい、です」
「……それは」

 伸びてくる腕。視界を覆う手のひら。化け物のような表情。高らかな笑い声。――燃え盛る、木々。
 それらが脳内を駆け巡ったところで、環は我にかえった。

「ご、ごめん、なさい。あ、あのっ……し、失礼しますっ……」

 それは無意識に封じ込めていた記憶だ。環の中には、妖よりも恐ろしい人間たちが居座っている。なにか言いたげな周を見ないようにして、二階へ上がっていったのだった。