よくよく考えるに、周の正体が妖の――それも鬼である事実を知られるのは、当人にとって至極都合の悪いことなのではないか。

 うっかり軍部に漏らしでもすれば、一大事となる。それなのに、ろくに素性も知らない赤の他人同然の環を容認しているのだ。いっそ妖力をつかって記憶でも飛ばしてしまえばよかったものの、こうして環を街に連れ出している始末。
 もしかすると、このまま未来永劫、仮初の婚約者として奴隷のように使われてしまうのではないか、と最悪な状況まで想定する。

「とにかく、あの男に関してはくれぐれも用心するように」
「……は、はい」

 環は鬱々としつつも、先を歩く周の背を追いかけたのだった。



 周に連れられてたどり着いたのは、西洋のドレスを扱う仕立て屋だった。 まるで宮殿のような豪奢な外観を前にして、環はため息をつく。日の本にいるというのに、ここは異国のようだ。

 やはり、場違いなのではないかと環は猛烈に尻込みをした。帰りたい。帰って書物を読み漁りたい。そもそも、ここに何の用事があるというのだ。

「九條様、お待ちしておりました」
「息災のようでなによりだ。店主、彼女に似合うものを仕立ててもらいたいのだが」
「はい、もちろんですよ。お任せくださいまし」

 店内に入ると、愛想のよい貴婦人が姿を現す。店主、と呼ばれていた女は環を目をあわせるとにっこりと微笑んだ。
 あまりに友好的な態度を前にして、環はどこかの穴に埋まりたくなる衝動に駆られる。びくっと肩を震わせ、とっさに視線を逸らす。

(ひ、人……む、むり……)

 つらい。つらすぎる。というかそもそも、似合うものを仕立てるとはなんなのか。

 環だけが話の流れについていけず、とっさに周に助けを求めるが、満更でもない様子で布地を眺めている。マダラはといえば、立派な革があしらわれたソファーが気に入ったのか、ごろりと寝転がって寝息を立てているではないか。

 環は愕然と肩を落とした。

「では、こちらへどうぞ」
「ひっ……あ、あの、これはいったい」

 いよいよ、店の奥の部屋に入るよう促されると、環は半分泣きべそをかきそうになりながら訴える。
 ちら、と横目を向けた周は、さも当然とばかりに告げた。

「ドレスの一着くらいは必要になるだろう。ここは馴染みの店だ。よい品がそろっている。安心しなさい」
「い……いいいいや、安心だなんて、できるわけ、ない……です!」

 なにを言っているのか、この男は。これほど易々と高価なドレスの贈り物をするとは、どうかしているのではないか。

「だが、今後は社交場に出向く機会も増える。なくてはむしろ不便だろう」
「うっ……そ、それはそう……ですが、そ、その、いただくには……申し訳ないというか」
「かまわないから、黙って受け取っておけ」

 つやつやと輝いている布地を手に取り、肌触りを確認しながら、周は淡泊に告げた。
 そこまで言われてしまうとぐうの音もでない。
 今後周の婚約者として社交場に赴くのであれば、ドレスは必要不可欠だ。むしろ普段着では浮いてしまうばかりか、貧相な娘だとしていじめられてしまうかもしれない。

(貰えるものは貰っておくべき……なのかな)

 環はとうとう押し黙り、店主に誘導されるがままに奥の部屋の中へ入ったのだった。


 ――しかし、それからが地獄だった。

 手早く済むのであれば、少しくらいの我慢もできるだろうと思っていたのが間違いだった。店主によって一通りの採寸がされると、ひと段落する間もなく、何着もドレスが運ばれてきたのだ。

 まるで着せ替え人形のように着脱を繰り返すものだから、環は疲弊した。途中からはもうどれでもよいから、早く終わってくれないかと懇願するほどだった。

「あ……あのう、これは、す、少し……」
「まあ! 思った通りですわ! やはり、環様には紅色がぴったりです!」
「で、ででででも、布が……もう少しあった方が、お、落ち着くのですが……」
「今はこれくらい胸もとがあいたデザインが流行しているんですのよ! ああ、かわいらしい! 環様はまさに原石……着飾りがいがあるってものですわ!」

 げっそりしている環をよそに、何故か店主が盛り上がっている。言葉を鵜呑みにせず姿鏡を見ると、引きこもりの田舎娘はどこへやら……どこかの家の令嬢ともいえるような女がいるではないか。

「さあさ、九條様に見ていただきましょう」
「えっ……ああああ、あの、私、いいっ……いいです!」

 唖然としていると、店主に手をとられて部屋の外へと連行されてしまう。

(きっと、なんでもいいから、はやく決めろと思っているに違いない……)

 先ほどから何度もこのやり取りを繰り返している。試着しては周に確認してもらい、違うものを着用する。あれでもないこれでもないと問答が繰り広げられ、かれこれどのくらいの時間この店に滞在しているのだろう。

「九條様、いかがでしょう。お見立てのとおり、紅色がとてもお似合いだと思いませんか?」

環はおずおずと顔を上げる。首の周りや胸もとが開放的であるあまり落ち着かなかったが、周はそんな環をじ……と見つめて、ゆるやかに口角を上げた。

「ああ! そうそう……たしかあのあたりにブローチが……」

 店主が店の裏手へと消えてゆくと、肌にちりちりと突き刺さるような沈黙が流れた。ただ、周からの視線ばかりは一身に感じるため、環はどこかに隠れたくて仕方がない。

「あ、あのう……」

 もう脱いでしまってよいだろうか。正直ドレスの良しあしなど分からない。環にとってはどれも同じようなものだ。それよりも、さっさと帰宅をして、薄暗い部屋に閉じこもって書籍を読んでいたい。

「わ、私、どれでも――っひい!」

 視線を床に向けていると、突然頬に冷たい手のひらが添えられる。
 何を思ったのか、目の前には恐ろしいほどに整った周の顔があるではないか。

「なっ、なななな、なんですか!?」
「……」
「ど、どどど、どこか、おっ、おかしいところでも、あっ、あっ、あるのでしょうか?」
「いや?」

 環はあまりの至近距離にぎょっとする。目汚しをしてしまったのではないかと怯えたが、どうやら気分を害してはいないようだ。

 冷ややかで、艶やかで、誰もがため息をついてしまうほどの美貌。
 どういう了見か、周はそっと耳元に唇を寄せた。

「見惚れていた。よく、似合っていると思ってな」
「‼」

 妖しく、色香のある美声が環の鼓膜を揺らした。
 環は他人から褒められ慣れていない。もちろん、このような極上な絹があしらわれたドレスが自分に似合うとも思っていない。
 それなのに、周の態度が予想とは異なっている。

「あなたは普段は初心なようで、このような姿になると別人のように垢抜けるようだ」
「……っ!?」
「だが、公衆の面前に晒すのは少し、惜しいかもしれない。この剥き出しになった肌から、そそる匂いがする」

 そそる、とはどういうことか。環はごくりと生唾をのんだ。

「──やはり、味見をしておくべきか」

 頬に添えられていた指先が、するりと首すじを撫でていく。
甘美なまでの手つきに、環の脳内は真っ白になった。

「ああああ、あのっ!」

 逃げ出さなければ、ととっさに周の胸もとを突き飛ばす。

「も、もう着替えて、きます。し、失礼しますっ……!」

 ばたばたと駆けだし、試着室へと繋がっている通路を進んだ。

(私がおいしいはず、ないっていうのに。からかわないでほしい)

 昼間だが電燈が灯されている館内は、一人になるととたんに広く感じる。右に曲がり、左に曲がり、気づくと使用していた試着室がどこであったか分からなくなった。

(あれ……)

 店主も連れずに勝手に戻ってしまったからだ。あたりを見回してみても、清掃用の備品が並んでいるだけだ。どうやら見当違いな裏手の方に来てしまったらしい。

 こうなれば引き返すしかない、と思いたった時。

『これはこれは……うまそうな娘御だ』

 背後に――ねっとりとはりつくような気配を感じた。振り返る間もなく、三メートルはある長細い手が環の体に巻き付いた。

(妖……どうして)

 環は気づかないうちに、妖の縄張りの中に入り込んでしまっていた。慌てて走っていたため、気配を察知できなかったのだ。

『食べてもいいかえ? いいかえいいかえ?』
「た……食べないで、いただけ、ると助かり、ます」
『いいかえいいかえ、右手だけでも、どおれどれ』

 よほど腹を空かしているのか、妖は環の言葉に耳を傾けてはくれない。

(目が……正気を失っている)

 妖は基本、人里離れた山の中で暮らすものが多いため、街中にまで降りているものに遭遇するのは珍しい。

 九條家の屋敷は例外ではあるが、あの場は裏を返せば、妖たちにとっての安息の地なのだろう。

『うううぅぅ……はぁはぁ、うまそう、だ』
「うっ……はな、して」

 環は必死に訴えるが、聞く耳をもってはくれなかった。この妖は、猫又のマダラや化け狐の口入れ屋や、鬼の周とは違う。

(どう、しよう……本気で、食べようと、してる)

 だらりと流れている涎。凍えるような妖気。巻きつく腕により腹部が圧迫され、息苦しい。

 妖の性質は基本的には友好的なはずなのだ。
 人間に興味をもち、多少の悪戯をしてしまうことはあるものの、滅多なことがないかぎり襲いかかったりはしない。

 この妖は、いったいどれくらいの人間を食ってきたのか。
 人間の血肉は、あまり摂取しすぎると毒になる。病みつきになり、やがてほしくてほしくてたまらなくさせるものなのだ。
 とりわけ、知性の低い下位の妖が口にしてしまうと、特に気をおかしくさせてしまう。

『うぅぅ……ヒヒヒヒッ、やわらかそうな肌だなあ』
「っ、や、めて……」

 巻き付いている妖の長い腕により、ぎゅう、と体が締め付けられる。

 人間の匂いに、味に──。我を忘れてしまう。
 もしかすると人間社会の中に紛れ、捕食する機会を狙っている妖は、そう少なくはないのかもしれない。

「もし、かして……あなたが……令嬢を、攫っているの?」
『攫う? さあ、なんのことか……知らない知らない』

 一瞬、環の脳裏に華族令嬢の失踪事件がよぎった。
 この店は階級の高い者にとって馴染の店。当然華族令嬢が足を運ぶ機会も多く、こうして館内の隅で息を潜めていれば、絶好の機会は訪れる。もしかすると、この妖が関わっていたりするのではないか――と考え至るのは自然の流れだったが。

『ああ、誠うまそうな匂いだ。よだれがとまらんぞ』
「そんなに食べたら、気が、おかしくなる、よ」
『だめかえ? 右の指先だけでも、食べたい食べたい』

 妖の口から瘴気が吐き出される。環はもろに吸い込むと、ぐったりと腰を抜かしてしまった。

 ここにはマダラがいない。人間の身では妖に太刀打ちできないことは理解していたが、指先を食いちぎられてしまってはたまったものではない。

 のまれまいと抗っていたが、徐々に視界が狭まってゆく。妖の長い舌が、環の手のひらをべろりと舐めてゆく。――意識が朦朧とした時だった。

「おい、誰のものに手を出している」

 胴震えするほどの冷気が、辺りを支配した。

 まるで湖面が一瞬で凍り付くような。恐ろしいほどに冷たく、鋭い声。硝子がはめ込まれた窓がみしみしと振動し、その者は突如何の前触れもなく現れた。

 艶やかな長い髪が視界の隅で流れている。凛々しい角は、鬼の証だ。

『ぎぃやああああああ!』

 すぱん、と乾いた音が響くと、妖の左腕が宙を舞った。鈍い音をたててそれが転がると、環は拘束からようやく解放される。
 のたうち回る妖に冷ややかな視線を向ける――鬼。

『痛い痛い痛い痛い痛い』
「……このような街中にまで、降りてくるとは」
『うひぃぃあああああっ!』
「よほど人間が食い足りないらしい」

 左腕を失った妖は、窓から逃げ出そうと床を這いつくばる。だが、周はそれを許さず、頭部を鷲掴みにすると、ぎりぎりと爪を食いこませた。

『あああああ! やめて、やめて、ころさないでころさないで』

 周は本気で同胞を亡き者にしようとしている。頭の皮膚が裂け、妖はさらに大きな悲鳴を上げた。
 このままではいけない。妖の慟哭を前に、環は残る力を振り絞った。

「だ……め、です」

 鬼の姿をした周は、ぴたりと動きをとめると環を顧みる。

「何故だ」
「その妖は、まだ……間に合う、から」

 ゆらりと立ち上がり、環はおぼつかない足取りで妖と周のもとへ向かった。

「あなたにとって……人間の匂いがする、この街は、よくない。だから、里山にお帰り」
『ううううう……さと、やま?』
「そこで……天狗殿に、清めて、もらえば……きっと、正気に戻れるよ」

 おそらくは、この妖は令嬢失踪事件の黒幕ではない。
 人を食べすぎた妖は、その分知性を身に着けるはずなのだ。この妖との対話ではそれが感じられないことから、おそらくは二、三人を口にして、味を覚えてしまったというところだろう。

「さあ、迷わず、まっすぐ」

 うめき声をあげながら、妖はよろよろと窓枠を飛び越えてゆく。
 里山にむけて消えてゆく姿を目で追い、環はほっと胸を撫でおろした。

 だが、それも束の間。凍えるほどの妖気は、依然背後に立ち込めている。

 おそらくは迷惑をかけてしまった。環はおずおずと頭を下げ、謝罪をしようとしたが、すんでのところで封じられてしまう。いつのまにか、鬼の姿をした周が環の真後ろに立っていたのだ。

「あ、ああの」

 ともすれば、体に腕が回り、強引に引き寄せられる。同時に首筋に長い黒髪が降りてきた。

「──んふっ!」

 がり、と鈍い音がすると、肩もとに痛みが走る。
 冷たい吐息が素肌を撫でていき、身震いがした。
 信じられないことに、周が環の肩に歯を立てていたのだ。

「あんな者、殺しておけばよかったものの。馬鹿め」
「いっ……た」
「堕ちた妖を庇い立てるなど、誠、妙な女だ」

 甘美なまでの声が鼓膜に届く。

(な……にが、起きたの)

 まさか本当に味見をされている?

 思えば、周は普段は人間と同じ食事をしているはずだが、人間も食らうのだろうか。高い知性をもつ鬼族のことだ。人間の味を覚えて理性を失うことはないだろうが、できれば周が捕食する様子を想像したくはない。

「これで、しばらくはもつか」

 周は口もとについた血を舐めとると、月のような瞳をすうと細めた。
 なにがしばらくもつのか、環は動揺のため理解ができない。それよりも、薄い唇から覗く鋭い犬歯とどろりとした血液は目に毒だ。

「な……にをして」

 鬼なのか、人間なのか。思えば、周はどちらでもあり、どちらでもない存在なのだ。妖でありたいのか、人間でありたいのか。いったいなぜ、なんのために人間社会で生きているのか。

 冷たい瞳からは、何の感情も伝わってはこない。

「そう易々と食われてしまっては困るからな」

 環の意識は次第に曖昧になり、瞼が重く閉ざされてゆく。
 おそらくは、妖術をかけられたのだろう。

 ふらりと倒れ込む環を周はそっと抱き止めた。

「馬鹿は、私も同じか」

 環の血の味が、喉の奥にしつこく居座っている。妖どもの気を狂わせるのは十分なほどの甘美な味だった。

「味見など、するものではないな」

 はっと自分自身を嘲笑する。
 硝子に映るのは鬼の姿。いくら高い知性をもつ種族なのであろうと、先ほどの妖とさほど変わらないのだろう。

 周は腕の中で眠る環をしばし見つめ、再び人間の姿に戻るとその場をあとにしたのだった。