「あ……は、はい。お願いします」
女中は嬉しそうな様子で部屋の中に入っては、衣装箪笥の中から洋服を見繕いはじめた。環としてはそこまで外出に乗り気ではなかったのだが、女中のやる気の入り具合を見てしまうと、かえって居たたまれない気持ちになった。
『オレは支度が整うまで寝させてもらうぜ~。ふああ、腹もいっぱいだし、このベッドも、気に入ったぞ……』
マダラは能天気でうらやましい。環は深いため息を吐く。
給金目的だったとはいえ、やはりこの役目は荷が重すぎた。
「それにしても、周様がご自分から女性をデェトに誘われるだなんて。わたくし、俄然気合が入ってしまいますわ!」
「で、デェト……?」
デェトとはいったいどういう意味か。環は女中の言葉の解釈に苦しんだ。
生まれてからこの方、人の友人すらもったことがない環にとって、デェトなるものに縁もゆかりもない。御伽噺の中の出来事だとばかり思っていたが、そうか、本日のこれがデェトに当たるのかと狼狽する。
「じょ、女中さん、わ、わわわ、私、やっぱりむりです……」
「ふふふ、そうおっしゃらずに。さあさ、こちらのお洋服なんてお似合いだと思いますわよ」
環はマダラに助けを求めたが、呑気に寝息を立てているのだから呆れかえる。
(もう……! おねだりされても、マタタビ買ってあげないんだから!)
それからというもの、環は流行りだというワンピースと着せられ、洋風鏡の前で化粧まで施された。
慣れない白粉や口紅。仕上げだとばかりに舶来もののライラックの香水を施されると、陰気な娘からモダンガールへと変貌を遂げる。
「まあまあ! 思った通り、かわいらしい!」
「ううう……」
環にはどこがどうかわいいのかが理解できない。
それより、これから人混みの中に出向くことを考えてしまって憂鬱極まりないのだ。
「さあさ、周様のもとへ参りましょう」
『んお……? おお、もう行くのか?』
女中に連れられるままに廊下へと出ると、そのあとをマダラがぴょこぴょことついてくる。
環もマダラのような生活を送りたいものだと心の底から願ってやまない。
すると、天井裏が例の如くバタバタと騒がしくなった。
『にんげんのむすめだ』
『このにおいは……おまえ、たまきか?』
『見目がちがうが、たまきだ』
『おいしそうだ、味見がしたいぞ』
周の執務室の前に辿りつくやいなや、壁や天井を走り回る座敷童子に遭遇する。
(味見だけは勘弁してもらいたいものだけど……)
ずんぐりむっくりな子どもの妖が無数に環たちを取り囲んだ。退くように、と女中が制すが、座敷童子たちは俄然環に興味を示している。
妖の中には当然、人を食らって寿命を得ているものもいる。マダラはその点でいうと、人を食わない妖ではあるが、中には人肉に味をしめて悪さをするものもいるのが現実だ。
人を食う――それは、一件恐ろしく、許しがたい行為だというのが一般論であるが、環にとっては、人が動物の肉を食らって養分を得ているのと同義だった。
人を食う妖がいたとしても、なんら不自然はない。それはむしろ、自然の摂理なのだ――。
「――味見は許さん。私の婚約者だ。食われては困る」
ガチャリ、扉が開く。
今まさにドアノブに手をかけようとしたところだった。座敷童子たちの騒ぎを聞きつけたのか、思いがけず周の方から姿を現した。
『おお、周様はこわいぞ』
『こわいこわい、こわいのう』
『おいしそうだが、たべてはいけないようだ』
ともすれば、あはははははは、と笑いながら座敷童子たちはその場を離れていく。
環はしばらくあっけに取られてその場に立ち尽くした。
エリのついた洋風のシャツに、モダンなサスペンダーがついたズボン。鮮やかな花の刺繍が施された鳶コートが肩かけされている。
さも涼し気に着こなしているが、街を歩けば周に目が引かれない者はいないだろう。となれば、環は余計に委縮をすることになる。
『ちぇっ……、鬼なのにモダンボーイぶってやんの。人間被れしやがって』
「人の社会で生きる選択をとろうが、私の勝手だろう」
環の背後でマダラが悪態をつく。あまりの美々しさにひがんでいるのだろうが、その言い方はよくない。
『へっ……どうだが、今回の依頼の内容だって、偽りの婚約者だあ? おまえ、そんなのを求めてどうしろっていうんだよ。そんななりして、人と縁を結びたいロマンチストかなにかかあ?』
「ちょ、ちょっと、マダラ……言い過ぎだよ」
慌ててマダラを抱き上げ、諸悪の根源である口を手のひらで覆う。もごもごと暴れる猫又を両手で抱えて、環は何度も深々と頭を下げた。
繰り返し謝罪を述べる中でちらりと視線を上げると、冷え冷えとした瞳と交差する。
ロマンチストなどとはとんでもない。この男からはロマンの欠片も感じられないではないか。
「目的なら、明確にある」
「え……?」
「私の婚約者という建前を使い、華族の令嬢界隈を探ってほしい……これが、此度の依頼の真の狙いだ」
「れ、令嬢かい……わい……」
嫌な予感はしていたのだ。
周ほどの男がなぜ婚約者を求めていたのか。おそらく、のっぴきならない理由があるのではないかと踏んでいたが、とうとう悪い予感が的中し、環は軽い眩暈を催した。
『令嬢界隈だあ? いったいなんだってそんなところに環が入っていく必要があるんだよ』
マダラが不服そうに意見を述べると、周は眉ひとつ動かさずに返答をする。
「……ここ数ヶ月前から、令嬢の失踪事件が多発している。詳細を調べたいのだが、何分、男の私では不足することが多い。だから、融通のきく女性を求めていた」
猫又のマダラと淡々と会話を進める周。その間に入っている環は鬱々としつつも、会話の内容に耳を傾ける。
「といっても、私の屋敷を不気味がって離れていく者があとを立たなくてな。難儀していたのは事実だ」
『……つってもよ、中には本気でおまえのはなよめになりたかったおんなもいたんだろうに、利用なんてしやがって……いつかバチが当たるぞ』
「さあ、相手方も同じような動機故に私に取りいっているようだったが? ……とにかく、危険が伴う分、私の"式"をつけさせてもらうつもりだ。もちろん、給金も満足がいく分支払うし、身の安全も保証しよう」
令嬢の失踪……。
ただの事件であれば、警察に任せていれば良い話だ。だが、もしも万が一、人間の警察では解決できないような事案であったとしたら?
鬼である周がわざわざ関わろうとする理由は──なにか。
「それって、も、もしかして、妖……絡みの、じ、事件なので、しょうか」
おどおどとしつつも、環の脳内は冷静だった。考えを述べると、周は満足げに口角を上げる。
周と目が合い、環ははっとしてうつむいた。やはり、いくら妖だとはいえ、人の姿をしていては、どうにも緊張してしまう。
「そうでなければいいと思っているが、おそらくは」
――妖が、令嬢を食っている。
周の表情が物語る。
「その失踪事件は、ど、どのくらいの頻度で、お、起こっているのでしょうか」
環はごくりと生唾をのんだ。
威風堂々と歩みを進める周のあとをついてゆき、螺旋階段を下りてゆく。屋敷の正面玄関の前には、黒塗りの自動車が停められていた。
「はじめは月に数回……最近では、三日に一度ほどになっている」
「おかしい……人肉を食らう妖は、よほどのケガをしていないかぎりは、月の一度の食事でも、満足するはず……」
『あきらかに、食いすぎだなあ』
環は本来面倒ごとを嫌う性分だ。
基本的には家に引きこもる生活を好んでいて、新しい学術書や歴史書を読みふけるためだけに生きているようなもの。
だが、妖とは幼い頃から不思議な縁に結ばれている。
人も、妖も、環にとっては同じ。いや、むしろ妖の方が身近であり、よほど理解に易いと思うくらいだ。
社交場は大の苦手だが、もし本当に悪さをしている妖がいるのであれば、誰かが正気に戻してやらねばならないのだろう。
それが無理だというのであれば、最悪――。
「……と、ここまでが本来想定していた趣旨だが」
不意に下ろしている環の髪へと色白の指が伸びる。驚いて目を見開けば、すかした顔の周がいるではないか。
すう、と月のような目を細め、満足げな笑みを浮かべて。
「九重環という存在に、すこし、興味が沸いているのも事実」
女中は嬉しそうな様子で部屋の中に入っては、衣装箪笥の中から洋服を見繕いはじめた。環としてはそこまで外出に乗り気ではなかったのだが、女中のやる気の入り具合を見てしまうと、かえって居たたまれない気持ちになった。
『オレは支度が整うまで寝させてもらうぜ~。ふああ、腹もいっぱいだし、このベッドも、気に入ったぞ……』
マダラは能天気でうらやましい。環は深いため息を吐く。
給金目的だったとはいえ、やはりこの役目は荷が重すぎた。
「それにしても、周様がご自分から女性をデェトに誘われるだなんて。わたくし、俄然気合が入ってしまいますわ!」
「で、デェト……?」
デェトとはいったいどういう意味か。環は女中の言葉の解釈に苦しんだ。
生まれてからこの方、人の友人すらもったことがない環にとって、デェトなるものに縁もゆかりもない。御伽噺の中の出来事だとばかり思っていたが、そうか、本日のこれがデェトに当たるのかと狼狽する。
「じょ、女中さん、わ、わわわ、私、やっぱりむりです……」
「ふふふ、そうおっしゃらずに。さあさ、こちらのお洋服なんてお似合いだと思いますわよ」
環はマダラに助けを求めたが、呑気に寝息を立てているのだから呆れかえる。
(もう……! おねだりされても、マタタビ買ってあげないんだから!)
それからというもの、環は流行りだというワンピースと着せられ、洋風鏡の前で化粧まで施された。
慣れない白粉や口紅。仕上げだとばかりに舶来もののライラックの香水を施されると、陰気な娘からモダンガールへと変貌を遂げる。
「まあまあ! 思った通り、かわいらしい!」
「ううう……」
環にはどこがどうかわいいのかが理解できない。
それより、これから人混みの中に出向くことを考えてしまって憂鬱極まりないのだ。
「さあさ、周様のもとへ参りましょう」
『んお……? おお、もう行くのか?』
女中に連れられるままに廊下へと出ると、そのあとをマダラがぴょこぴょことついてくる。
環もマダラのような生活を送りたいものだと心の底から願ってやまない。
すると、天井裏が例の如くバタバタと騒がしくなった。
『にんげんのむすめだ』
『このにおいは……おまえ、たまきか?』
『見目がちがうが、たまきだ』
『おいしそうだ、味見がしたいぞ』
周の執務室の前に辿りつくやいなや、壁や天井を走り回る座敷童子に遭遇する。
(味見だけは勘弁してもらいたいものだけど……)
ずんぐりむっくりな子どもの妖が無数に環たちを取り囲んだ。退くように、と女中が制すが、座敷童子たちは俄然環に興味を示している。
妖の中には当然、人を食らって寿命を得ているものもいる。マダラはその点でいうと、人を食わない妖ではあるが、中には人肉に味をしめて悪さをするものもいるのが現実だ。
人を食う――それは、一件恐ろしく、許しがたい行為だというのが一般論であるが、環にとっては、人が動物の肉を食らって養分を得ているのと同義だった。
人を食う妖がいたとしても、なんら不自然はない。それはむしろ、自然の摂理なのだ――。
「――味見は許さん。私の婚約者だ。食われては困る」
ガチャリ、扉が開く。
今まさにドアノブに手をかけようとしたところだった。座敷童子たちの騒ぎを聞きつけたのか、思いがけず周の方から姿を現した。
『おお、周様はこわいぞ』
『こわいこわい、こわいのう』
『おいしそうだが、たべてはいけないようだ』
ともすれば、あはははははは、と笑いながら座敷童子たちはその場を離れていく。
環はしばらくあっけに取られてその場に立ち尽くした。
エリのついた洋風のシャツに、モダンなサスペンダーがついたズボン。鮮やかな花の刺繍が施された鳶コートが肩かけされている。
さも涼し気に着こなしているが、街を歩けば周に目が引かれない者はいないだろう。となれば、環は余計に委縮をすることになる。
『ちぇっ……、鬼なのにモダンボーイぶってやんの。人間被れしやがって』
「人の社会で生きる選択をとろうが、私の勝手だろう」
環の背後でマダラが悪態をつく。あまりの美々しさにひがんでいるのだろうが、その言い方はよくない。
『へっ……どうだが、今回の依頼の内容だって、偽りの婚約者だあ? おまえ、そんなのを求めてどうしろっていうんだよ。そんななりして、人と縁を結びたいロマンチストかなにかかあ?』
「ちょ、ちょっと、マダラ……言い過ぎだよ」
慌ててマダラを抱き上げ、諸悪の根源である口を手のひらで覆う。もごもごと暴れる猫又を両手で抱えて、環は何度も深々と頭を下げた。
繰り返し謝罪を述べる中でちらりと視線を上げると、冷え冷えとした瞳と交差する。
ロマンチストなどとはとんでもない。この男からはロマンの欠片も感じられないではないか。
「目的なら、明確にある」
「え……?」
「私の婚約者という建前を使い、華族の令嬢界隈を探ってほしい……これが、此度の依頼の真の狙いだ」
「れ、令嬢かい……わい……」
嫌な予感はしていたのだ。
周ほどの男がなぜ婚約者を求めていたのか。おそらく、のっぴきならない理由があるのではないかと踏んでいたが、とうとう悪い予感が的中し、環は軽い眩暈を催した。
『令嬢界隈だあ? いったいなんだってそんなところに環が入っていく必要があるんだよ』
マダラが不服そうに意見を述べると、周は眉ひとつ動かさずに返答をする。
「……ここ数ヶ月前から、令嬢の失踪事件が多発している。詳細を調べたいのだが、何分、男の私では不足することが多い。だから、融通のきく女性を求めていた」
猫又のマダラと淡々と会話を進める周。その間に入っている環は鬱々としつつも、会話の内容に耳を傾ける。
「といっても、私の屋敷を不気味がって離れていく者があとを立たなくてな。難儀していたのは事実だ」
『……つってもよ、中には本気でおまえのはなよめになりたかったおんなもいたんだろうに、利用なんてしやがって……いつかバチが当たるぞ』
「さあ、相手方も同じような動機故に私に取りいっているようだったが? ……とにかく、危険が伴う分、私の"式"をつけさせてもらうつもりだ。もちろん、給金も満足がいく分支払うし、身の安全も保証しよう」
令嬢の失踪……。
ただの事件であれば、警察に任せていれば良い話だ。だが、もしも万が一、人間の警察では解決できないような事案であったとしたら?
鬼である周がわざわざ関わろうとする理由は──なにか。
「それって、も、もしかして、妖……絡みの、じ、事件なので、しょうか」
おどおどとしつつも、環の脳内は冷静だった。考えを述べると、周は満足げに口角を上げる。
周と目が合い、環ははっとしてうつむいた。やはり、いくら妖だとはいえ、人の姿をしていては、どうにも緊張してしまう。
「そうでなければいいと思っているが、おそらくは」
――妖が、令嬢を食っている。
周の表情が物語る。
「その失踪事件は、ど、どのくらいの頻度で、お、起こっているのでしょうか」
環はごくりと生唾をのんだ。
威風堂々と歩みを進める周のあとをついてゆき、螺旋階段を下りてゆく。屋敷の正面玄関の前には、黒塗りの自動車が停められていた。
「はじめは月に数回……最近では、三日に一度ほどになっている」
「おかしい……人肉を食らう妖は、よほどのケガをしていないかぎりは、月の一度の食事でも、満足するはず……」
『あきらかに、食いすぎだなあ』
環は本来面倒ごとを嫌う性分だ。
基本的には家に引きこもる生活を好んでいて、新しい学術書や歴史書を読みふけるためだけに生きているようなもの。
だが、妖とは幼い頃から不思議な縁に結ばれている。
人も、妖も、環にとっては同じ。いや、むしろ妖の方が身近であり、よほど理解に易いと思うくらいだ。
社交場は大の苦手だが、もし本当に悪さをしている妖がいるのであれば、誰かが正気に戻してやらねばならないのだろう。
それが無理だというのであれば、最悪――。
「……と、ここまでが本来想定していた趣旨だが」
不意に下ろしている環の髪へと色白の指が伸びる。驚いて目を見開けば、すかした顔の周がいるではないか。
すう、と月のような目を細め、満足げな笑みを浮かべて。
「九重環という存在に、すこし、興味が沸いているのも事実」