九條家の正面に自動車が寄せられ、環はいそいそと降車する。屋敷の中に入っていく環を目で追う周は、猫又のマダラから視線を感じてその場で立ち止まる。

『今回の事件、無事解決できたら、あいつ、もうあんたにかかわらなくてもよくなるんだよな?』

 周は無言の視線を向けた。

『人間だとか、妖だとか、そういうの。あいつが首をつっこむ必要はない。あんたたちで勝手にどんぱちやってくれよな』

 周は考えていた。マダラは環にとってどんな存在なのか。なぜ、この不思議な気をもつ猫又の妖が環のそばについているのか。そこには明確な理由があるのだろうが、あえて聞かずにいた。

「環は、水戸の華族――九重家の隠し子であることを、あなたはあらかじめ知っていたのだろう」

 だが、この際、裏で調べ上げていた事実を確認するのもやぶさかではないだろう。素性の知れない娘を屋敷で野放しにするほど、周は愚鈍ではない。本人は何故か自覚がないようだが、戸籍を調べ上げたところ、紛れもなく九重家の血を引いている事実が露呈した。

 なぜ、人間をああまで避け、種族の異なる妖に気を許しているのか。これまではどのような暮らしをしていたのか。
 それとなく水戸九重家に手紙を出してみたが、知らないの一点張りであり、環の存在はなかったものとされていた。なぜか。
 おそらくは、長年付き従っているマダラが知っている、と周は確信している。

『おまえには関係のねえ話だ』
「関係ならあるだろう。契約上とはいえ、私は彼女の婚約者だ」
『けっ、やっぱきざったらしいな、お前』
「とぼけるな。なにか知っているのだろう」

 空が橙色に染まり、夜が訪れようとしている。昼と夜の間――常世と現世の気が不安定になる時間帯。逢魔時だ。

『どうでもいいだろう、そんなもの。お前にとって、環ってなんだ? 都合のいい手駒のように考えているんだったら、なおさら教えてやる義理もないね』
「……」
『ただでさえ、あんたは鬼族の生き残りなんだ。あんたみたいな奴が傍にいられたら、環の平穏は守られちゃくれない』

 マダラはそれだけ言い捨てて、屋敷の中へと入ってしまう。
 周は己の心境の変化に気づいていた。これまでのどの令嬢にも執着をしなかった周だが、環のこととなると考えずとも体が動く時がある。おそらくは、それなりに気に入っているのだろうとは思っていたが、それだけではない。

 痛みのない黒髪に触れたくなり、手放すのが口惜しいとすら感じている。気が小さいようで、突拍子のない行動をとる。常に何かに怯えたような目をしているかと思えば、好ましいものには転じて硝子のような輝かしい目を向ける。奇想天外な娘を、己の預かり知れぬ場所に置いておきたくはない。

 鬼族――か。

 周は自身の手のひらを見つめ、鋭く目を細めた。同胞が斬殺され、一度はこの世を恨んだ。鬼族に与えられた使命に辟易し、すべてを敵のように思った。
 そんな幼き周を救った恩人との約束を、かならずや果たさねばならない。人間と妖。異なる種族がなす渦の中に、環を巻き込んでしまいたいと思う己自身を、愚かだと思った。


  *

「それで……あの、どうして九條様も?」

 数日経ち、環のもとに雅から手紙が届いた。約束の日曜日となり、集合場所として指定されていた富永家に到着するとすでに雅の姿があったのだった。
 自動車から降りた環を確認したのち、続いて現れた人物を前にしてぎょっとしている。

「いきなり押しかけてしまってすまない」
「い、いえ……わたくしはその、かまわないのですが」

 環はびくびくと肩をすくめた。雅の視線がちらと環に向けられるたび、気まずい気持ちになる。それにしても、周がついてきてしまって本当に問題はなかったのだろうか。

「かねてより私も、ご令嬢の失踪事件を調べていた。それでちょうど今日、綾小路殿と約束をしているというものだから、今回は無理をいって同行させていただいた次第なのだが、邪魔だっただろうか」
「い、いいえ……! 九條殿のお力添えをいただけるだなんて、むしろ心強いかぎりですわ」

 とはいえ、富永家の者たちも周が訪れるとは予期もしていないのだろう。環はびくびくと震えながら押し黙った。
 富永家の邸宅は、和風の建築が施されていて、九條邸や綾小路邸とも異なる堅実な雰囲気が漂っていた。雅から聞くところによると、伝統的な書院造や数寄屋造を継承しつつも、内部には洋風の応接間を設けている和洋折衷を取り入れた近代和風建築であるそうだ。
 ほどなくして富永家の当主と奥方が姿を現すと、環はとっさに周の背後に身を隠した。

「これはこれは、九條殿までいらっしゃるとは!」
「お噂はかねがね聞き及んでおりますわ。この度は瑠璃子のために、本当に感謝いたします」

 やはり、周の来訪に驚いている様子であった。奥方に至っては涙ぐんでいる始末だ。

「事前にお話をさせていただいたとおり、このお屋敷を少し、調べさせていただきたいと思っているのですが、よろしいかしら?」

 びくびくしている環とは対照的に、雅は勇敢だ。自分よりも二回り以上目上の人間に対してでも、臆することなく堂々としている。環には真似はできないだろう。

「もちろんだとも。何か少しでも手がかりが見つかればと思っている」
「ああ、瑠璃子……お願いだから、はやく戻ってきてちょうだい」
「とにかく、屋敷の中は好きに見ていただいて結構だ。とはいえ、先日も軍部の方々が隅々まで調査されていたのだがね」

 当主はため息をつき、中に入るようにと促した。周の背に隠れつつも、環も富永家の敷居を跨ぐ。その刹那のことだ。環は微妙な気の変化を肌で実感した。並みの者には察知できぬ微弱な痕跡。
 それは周も同様のようだ。無言のまま足を止め、周囲を見回している。――やはり、何かがある。

「どうかされたのかしら? お二人とも」

 雅が問いかけると、環はおずおずと口を開いた。

「す、すごく僅かですが……妙な気配が、あっ、あります」
「それは、本当に?」

 何度か頷き、環は周と同様にしきりに屋敷中を見回す。ほんのわずかではあるが、絡みつくような気配だ。

「瑠璃子様の、お、お部屋は、ど、どちらでしょうか」

 この屋敷には妖もの、それ自体はおそらくはいない。すでにここは用済みとなったというところか。いわばこれは、妖ものが残していった痕跡なのだろう。

「こっちよ。ついてきて」

 雅が踵をかえすと、和と洋が混在する廊下を突き進む。左手に伝統的な枯山水の庭園を望みながら、天井には近代的な電燈が灯されている。

 やはり、ここにもわずかな妖ものの痕跡を感じる。身動きをとると勝手に体に纏わりつく――糸のような。

「ここが瑠璃子の部屋よ。どう? 何か不自然な点はあるかしら」

 雅により案内された部屋には、令嬢界隈で人気だという【乙女時代】がずらりと並んでいる。一見すると、何の変哲もない年ごろの娘の私室ではあるが。

「これは……」

 畳の片隅にきらりと光るものを見つける。一瞬、瑠璃子の髪の毛かと思ったが、よく見ればそうではない。細長い糸状のもの。手に持てば、光を反射をした。

「蜘蛛の、糸……」
「蜘蛛?」

 嫌な予感がして周を見つめると、鋭く目を細めて天井を見上げている。

「おそらくは、ここは蜘蛛の巣の一部だった」

 環はこくりと頷き、考えを巡らせた。瑠璃子の失踪には、やはり妖が関与している。ここにはもういないとなると、黒幕はどこに身を隠しているのか。おそらくは、人目につかない場所に拠点を設け、次の罠を張る策を巡らせているはずだ。

「それも、ただの……蜘蛛では、ない。蜘蛛は、ここまで知略的に巣を作れ、ない」
「蜘蛛というのは、やはり、妖ものやモノノケの仕業だった……ということで、あっていたのね?」
「おっ……おそらくは。で、でも、どうして、白薔薇会の令嬢ばかりが、狙われているんだろう」

 腹を空かせた妖ものにとって、人間の、しかも若い女はこの上ないご馳走だ。狙うのならば、帝都中の娘たちをかたっぱしから攫えばよい話なのだ。それなのに何故、このような巣まで作り上げ、かつ、入念に痕跡まで消し去る手段までとっているのか。

 まるで、あえて白薔薇会の令嬢に狙いを定めにいっているようではないか。なんのために? どうやって? 無作為に獲物を選んでいるのではないとすれば、蜘蛛はどのようにして、白薔薇会の令嬢だけを攫っているのだろうか。

 しかも、瑠璃子に至っては白薔薇会の令嬢たちとオペラを鑑賞した帰りに失踪している。普段からいくらでも狙える機会はあったはずなのに、なぜ、そこで攫ったのだろうか。

 環は目を細めて、部屋中をよく観察する。すると、意識しなくては分からないような細い糸が張り巡らされてあるではないか。糸は天井へと伸び、どこかへと繋がっているような気配がした。

「まだわずかに、糸が残ってる……ここが、巣の一部なのだと、したら……伸びている先に、きっと、根城がある」
「そ、そんなことが、できるのかしら」
「や、やってみないと、分からない……ですが」

 環がおどおどと口ごもると、周は無言で天井へと手をかざした。何をしているのかとしばらく見つめていると、指の先から冷たい炎を出しているではないか。雅がいる前で何をしているのかとぎょっとしたが、当の本人には見えていないらしい。

 人間の目には映らない――妖ものの力。鬼火だ。

 おどろおどろしい炎はたちまち、糸をつたってゆく。屋敷の天井裏に入ってゆき、そこからどこまで伸びているのかは周のみぞ知るところであったが。

「なるほど……灯台下暗しということか」

 すっと手のひらをおろした周は、低い声で告げた。

「この蜘蛛の糸は、栗花落の屋敷に向かって伸びているようだ」

 環は己の耳を疑った。栗花落――とは、白薔薇会に所属している栗花落玲子のことで間違いはないのだろう。
 雅も何を言っているのか理解ができないとばかりに動揺をしている。

「栗花落……? いったいどうして、手をかざしただけで、そのようなことがお分かりになるのでしょう」

 当然ではあるが、雅には鬼火が見えていない。そればかりか、周が実は鬼族であることも知り及んでいないのだ。
 なんと説明すべきかとおろおろする環をよそに、周は冷静沈着だ。

「怯えさせてしまってはいけないと思って黙っていたのだが、実はこの手の気を読むのが得意なんだ」
「そ、そうでいらしたのですか……九條殿も」
「驚かせてしまってすまない。できれば、このことは他言無用でいただけると大変助かる」

 雅は何度か瞬きをすると、やけに納得したようにうなずいた。

「もちろん、お約束いたしますわ」
「……恩にきる」
「それで、玲子さんのお屋敷に向かって蜘蛛の糸とやらが伸びているとは、誠なのでございましょうか」

 環も信じがたいと思ってしまうくらいには、玲子からは少しも妖ものの気を感じなかったのだ。玲子自身は紛れもなく人間であり、妖ものが化けているようにも感じなかった。
 玲子の知り及ばない場所に蜘蛛が巣くっているとでもいうのだろうか。

「天井から地下道へと伸びる糸を辿ったが、日比谷にある栗花落邸に通じていた。それも、栗花落の屋敷を中心に、帝都中の屋敷へと蜘蛛の糸が張り巡らされている」
「そんな……!」
「一連の令嬢失踪事件の黒幕の根城であることは、まず間違いないだろう」

 愕然とする雅は、へなへなと腰を抜かしてしまった。

「で、では……瑠璃子や、失踪をしているほかの令嬢たちは……」
「生きているのならば、栗花落邸にいるはずだ」
「そんな、であれば、玲子さんはどうしてあのように穏やかに笑って……」

 環が解せないのはその点だった。玲子は本当に何も知らないのか。それとも、なんらかの事情があって妖に与しているのか。
 いずれにせよ、玲子に近づいてみる以外に方法はないようだ。

「わ……わ、私が、囮になるのは、い……いかがでしょう、か」

 環にしては妙案だと思ったのだが、周は眉を顰めて難し気な表情を浮かべている。人質がいる以上は、正面突破は良作ではない。もし、囚われている令嬢たちが生きているのであれば、自らが餌として捕まれることで救出する機会を見出せるかもしれないと考えたのだが。

『何も、環がそこまでする必要、あるのかよ』

 そこでしばらく黙っていたマダラの声が脳内に響く。
(で、でも……見殺しにする、わけには……)
『だけど、環には関係のねえ奴らだ。生きていようが死んでいようが、正直なところ、知ったこっちゃねえな』
(ううう……でも、それって後味が悪いよ)
『これまでの探偵ごっことはわけがちげえんだ。そもそも、根城が分かったんだから、もう環が出張る必要はねえって』

 脳内で交わすやりとりは、雅には聞こえていない。ここにきてマダラが協力的ではないとは、環にとっては想定外だった。

 人間はたしかに怖い。嘘をつき、裏切り、搾取する生き物だ。だからできれば、関わり合いにはなりたくない。今もそう思っているはずなのだが、環はいったい何にそこまで突き動かされているのか。

「な、何をおっしゃっているの。そ、そんなの危険だわ」
「で、でも……ほかに良い手が、う、浮かばないというか」
「であれば、わたくしが参ります。蜘蛛とやらになど屈しないわ」
「い、いくらなんでも……雅様を囮にするわけには……」

 びくびくと肩をすくめていると、背後から冷たい視線を感じた。

「囮はいい。私の方で策を練ろう」
「……え」
「――帰るぞ。綾小路殿も、お屋敷までお送りしよう」

 氷のように張り詰めた鋭い視線だった。名案だと褒められるのではないかと思っていたのに、周は静かに怒っていたのだ。