「白薔薇会のみなさんと、オペラを……」
日比谷公園野外音楽堂から発展した西洋の音楽は、やがて帝国劇場を設立するまでに至った。
華族階級だけでなく、一般庶民でも身近に楽しめる音楽も広まっていたのだが、環には悉く縁がないものだ。
それにしても、白薔薇会の令嬢たちとオペラを見た帰りに失踪をするとは。
「そっ、その日は、瑠璃子様つきの運転手は、おられなかったのですか」
「いらしたそうよ。でも、ちょうどお開きになった時に、運転手は気をうしなって路肩に倒れていたそうなの」
「な、何者かに、ね、眠らされてしまった……ということでしょうか」
「そうね。きっと、運転手になりすました犯人が、彼女を誘拐した」
環はぐっと黙り込み、現場の状況を想像する。
「もし、それが事実だとすると、かなり、計画的な、は、犯行になると思い、ます」
「そう……それも、オペラが何時に鑑賞し終わるのかも分かったうえでのことよ。正直、白薔薇会の中に、おかしなことが起こっているのは間違いないと思うの」
環はこくりと頷く。
しかし、白薔薇会の令嬢たちに妖やモノノケが紛れていると仮定しても、それらの気配は少しも感じないのだ。この場にいる者たちはすべて人間だ。マダラと小鬼を除いて。
「あ、ああああ、あの」
雅は怖い。令嬢たちの目も恐ろしい。できることならこの場から逃げ出して、自宅に引きこもってしまいたいくらいであるのに。
人間なんて、信用できない。人間ほど身勝手な生き物はいない。
化け物のように映った彼らは、いまだに環の意識の中に居座っている。だが、環はいったい何に突き動かされているのだろう。
いきなり大声を出すものだから、雅はぎょっとした。環は基本的に人との距離感に疎いのだ。
「も、もしよろしければ……わ、私も、事件解決のお手伝いを、させていただけ、ないでしょうか」
環の助太刀などあってもなくてもたいして変わらないかもしれない。むしろ足手まといとなるのが関の山だ。
おそるおそる顔を上げると、雅は凛々しい表情を浮かべている。
「そういえば、名前を聞いていなかったわ」
「あ……ご、ごごごご、ごめんなさい。九重、環と申します」
「九重?」
聞いたことがない、といった反応だ。
「しゅ、出身はこのあたりではないものでして……」
「あら、そうなのね。わたくしは綾小路雅。あなたのような子がいてくれてよかったわ。令嬢たちが相次いで失踪しているというのに、自分たちだけ呑気にお茶をしているだなんて。とても正気だとは思えないもの」
環は環で華族界隈の華やかな雰囲気についていけないと思っていたが、公爵家の令嬢である雅がここまで言うとは予想外だった。雅は重たくため息をつき、身を翻す。
「ついてきて。あなた、新入りなのでしょう? これまでの失踪事件について、私なりに調べているの」
「は……はい」
そう言って、雅は螺旋階段を下りていく。
『それより、こいつはどうするよ』
「あー……もう離してあげてもいい、かも」
『つってもよ、おまえもなんであんな質の悪いいたずらなんてしやがったんだ?』
マダラによって首根っこを咥えられている小鬼は分かりやすくぶすくれている。楽しみを取り上げられた子どものようだ。
『よくわかんねえ妖から、たのまれたんだよ』
「え?」
『あの小娘に、悪さをしろって。そしたらたらふくうまいもん食わせてくれるって』
「そ、それって、ど、どんな風貌の、妖だった……?」
『お……覚えてねえよ、夜中だったし、そいつ、マントを被ってたからよ』
環はマダラと目を合わせる。この騒動はしくまれたものだった。しかも、妖に命じられた? それならば、なぜ雅が狙われたのか。環は瞬時に脳裏で考えを巡らせた。
「きっと、犯人にとって雅様は都合が悪い存在なんだ……」
『けっ、姑息な手段を使いやがって。そのうまいもん、ってのもおそらくは――人間のことだろうよ』
マダラは小鬼の拘束をとくと、不快な心情を露にする。
小鬼はよく状況を把握していないようだが、このままいくと手中に加えられてしまう恐れがあるだろう。
「あなたは里山にお帰り。きっとその妖には、近づかない方がいい」
『んあ……? なんでだよ』
「いいから。もういたずらのしすぎは、だめだからね」
環はその場にしゃがみこみ、小鬼の頭を撫でてやる。
『ちぇ! わ、分かったよ、里山に帰ってやるよ』
「ありがとう。天狗殿によろしくね」
ほっと胸を撫でおろし立ち上がると、小鬼は小走りで屋敷の外へと飛び出していった。
『オレは天狗の野郎は偉ぶってて嫌いだけどな』
「だって、たしかに偉い妖だし……」
『環はいいよなあ、昔から可愛がられててよ』
環は幼い頃から今までを里山で過ごした。帝都の西の外れに越してきたのはつい最近であり、社会勉強の一環だとして天狗に追い出されたのだ。働き口は化け狐の口入れ屋からもらうことでかろうじて生活が成り立っていた。
少しくらい援助を期待したのだが、天狗はそう甘くない。
里山での暮らしは今思うと世俗を忘れた、至極穏やかなものだった。日中は好きなだけ引きこもって書物を読み漁っていた。
そんな環のもとに妖たちが遊びにきては、貴重な紙類をびりびりに破かれた。
『なあ、今回の事件の黒幕……相当知恵が働いてやがる。人間を食いすぎだ。きっと、もう正気には戻れない』
「うん……そうなったら、常世に返すよ」
『オレがいるから心配はねえけどよ、環、あまり無茶はするなよ。オレは、約束してるんだ。かならず、おまえを守るって』
マダラが環のそばにいるようになったのはいつからだったか。環は思い出せるようで、思い出せないのだ。環が里山で暮らすようになる、ずっと前――。あの、暗く寂しい日々よりも、先であったか、あとであったか。
*
「こっ、これは、山本重三郎氏の算術・幾何大全集全十六巻……ああああ、これは不定積分、美しい数字の羅列……難しそう、解いてみたい。これは、そうだ、この円を回転させて生じる立体の体積は、円上の点を媒介変数として、その変数で積分すると……」
綾小路邸の書庫は環にとって夢のような世界だった。九條邸の図書室に匹敵するほどに数多くの書物が保管されている。
雅に連れられてやってきたのだが、環は我慢ならずに学術書に手を出してしまった。
「あなた……書物のこととなると別人のように饒舌になるのですね」
「だっ、だって、見てください。こっ、この偏微分の等式証明の問題を……! 私、微分が大好きなんです!」
「び……びぶん? わたくしにはよく分からないのだけれど」
環は興奮気味に書物を閉じた。まだ読んでいたいところだったが、ここに来たのは環の欲望を満たすためではない。ここは我慢をしなくては。
「ご、ごめんなさい……つい、舞い上がって、し、しまいました」
「見かけによらず随分と頭がいいのね」
「ううう……そう、でしょうか。算術などが、主に得意……です。へ、変……ですよね」
華族令嬢の役目は嫁ぎ先で健やかな子を産むこととされている。そこには、頭のよさなど求められていない。ただ、慎ましく、気高い女性であることを求められる。よくよく考えれば、環の令嬢らしからぬ行動は怪しまれてしまっても仕方がないのだろう。
「いえ? 好きなものを突き詰めてゆくのは、どこも変ではないわ」
書庫の奥から冊子を運んでくる雅は、さも当然とばかりに告げる。
「え……あ、あの、で、でも、時子さんは、殿方の性分と……」
「大抵の華族令嬢はそう思っているでしょうね。でも、私はもうこの考えは古臭いと思っているのよ」
「古い……?」
「お嫁にいくことがすべてではないはずよ。華族だから? 女だから? もっと、自由な選択がとれたっていいはず」
環は呆気にとられて言葉を失った。
「この白薔薇会だってそう。優雅にお茶をして世論を語ってはいるけれど、私たちは、社会の渦に片足すら浸かれていないのよ」
華族ではない環には、令嬢の心情を察すれない。
職業婦人として活躍する女性が増えている一方で、女性への参政権も得られていないのが実情だ。社会にかかわりたくない環にとってはどちらでも構わないのだが。
「話が逸れてしまったけど、これは、私が集めている令嬢失踪事件に関する切り抜き」
木製の机の上に冊子が置かれる。中には新聞の切り抜きが数か月分に渡り貼り付けられていた。
「うわあ……すごい」
「父には、新聞記者の真似事だと非難されたものよ」
雅は差し向かいに腰を下ろすと、自虐的に笑った。近づきにくい人物だとばかり思っていたが、実はそうでもないらしい。環は少しだけ安堵をした。
「すでにご存じでしょうけれど、被害者は皆、白薔薇会に所属する令嬢たち。はじめて事件が公になったのは、四か月前。これまでに十五人も失踪しているの」
「十五……」
「今月に至っては、まだ月も半ばだというのに七人も失踪している。そのうちの一人が瑠璃子」
新聞には‟マタシテモ令嬢失踪″と大きく印字されている。どの記事をみても、有力な手掛かりはないということだった。さらに直近のものに至っては‟奇々怪々ノ仕業デハナイカ″と報じられている。環は、ぐっと唇を結んだ。
「わたくしは、一刻もはやく犯人を見つけ出し、瑠璃子を救いたいの」
「そう……ですね。なにか、手がかりがあれば……」
「あなたは――環さんは、人ならざるものの気配がお分かりなのでしょう? であれば、富永の屋敷を調べてみるのはどうかしら」
なるほど、その手があったか。なにかしら気配が残っていれば、あとを辿られるかもしれない。
「わ、分かりました」
「そうと決まれば、日を変えて出向きましょう。後日お手紙をお送りするわ。お住まいは――」
まさか人見知りで陰気な環が、こうも気が強そうな令嬢と協力関係になるとは。恐ろしいような、どきどきと胸が高鳴るような、不思議な心地がした。
「あ、あの……今は、九條邸で暮らして、いるのです」
「九條!?」
なにかよくないことを言ってしまったのだろうか。雅は驚いて椅子からずり落ちてしまった。
「ま、まさかとは思うけれど……環さんって」
「そ、その、九條周さんの、こ、婚約者を……させて、いただいて、います」
内容に間違いはない。一時的ではあるが、環は周と婚約関係にある。
「ごっほん、ごめんなさい。まさか九條殿のご婚約者だったなんて、予想もしていなかったものだから。あの方ったら、冷たい雰囲気をお持ちなのに、よく婚約者が変わるのよね……? そのあたりはご心配ではなくて?」
「そ……それは、大丈夫、です」
環はまた誤魔化して笑うしかない。周には周の目的があって婚約者を求めていただけで、なにも遊び人だというわけではないのだ。ただ、屋敷は妖の巣窟だ。蝶や花よと大切に育てられた華族令嬢たちの肌にはあわない。
「そう、ならよいのだけど。あの方も随分とご苦労されているわよね。あの年で家督を継いでいらっしゃるなんて」
「……そう、ですね」
「もしかして、九條家にも妖が出るのかしら? 九條殿の元婚約者たちは、不穏な物音がするといって次々に立ち去ったと聞くもの。環さんが怯えないのは、そういう理由があるのではないかしら」
なかなかどうして、雅は鋭い。自身で調べものをするくらいには洞察力に優れているようだ。白を切る手も考えたが、雅は妖ものに対して寛容なように見えた。
環は肩をすぼめてごにょごにょと口を開く。
「で、できれば、内密にしていただけると……ありがたいの、ですが」
「ええ、それはもちろんだけれど。ほら、中には九條家の例の事件を悪いように噂する人たちもいるから。……本当に苦労されていると思うわ。きちんとお支えしてさしあげて」
「は、はい」
立ち上がった雅に続き、環も席を立った。
この瞬間も‟式″を通して視ているのだろうか。
周との関係は、この事件が解決するまでの仮初のもの。黒幕をつきとめ、悪事を暴いたそのあとは赤の他人に戻るのだ。
*
白薔薇会の令嬢たちによるガーデンティーパーティーが終わりを告げたのち、環は帝都の書店街を練り歩いていた。
普段は街中に出向くなど考えたくもないのだが、書店めぐりだけは別問題だ。年季の入った建物。筆書きされている店看板が立ち並ぶ。せっかくだから何か見ていこうと浮き足立っていた時、背後からとんとんと肩を叩かれた。
「こんにちは、いつかのお嬢さん」
びくっと体を震わせて振り返る。
そこには、周とドレス選びに出かけた際に遭遇した、ひと際華やかな軍人が立っていた。
たしか、気をつけろと念押されていた人物だ。軍人らしからぬ亜麻色の長髪。今日も花飾りをつけて後ろで一つに編み込まれている。今は公務中ではないのだろうか、軍服をそのように着崩していて問題はないものか。
日比谷公園野外音楽堂から発展した西洋の音楽は、やがて帝国劇場を設立するまでに至った。
華族階級だけでなく、一般庶民でも身近に楽しめる音楽も広まっていたのだが、環には悉く縁がないものだ。
それにしても、白薔薇会の令嬢たちとオペラを見た帰りに失踪をするとは。
「そっ、その日は、瑠璃子様つきの運転手は、おられなかったのですか」
「いらしたそうよ。でも、ちょうどお開きになった時に、運転手は気をうしなって路肩に倒れていたそうなの」
「な、何者かに、ね、眠らされてしまった……ということでしょうか」
「そうね。きっと、運転手になりすました犯人が、彼女を誘拐した」
環はぐっと黙り込み、現場の状況を想像する。
「もし、それが事実だとすると、かなり、計画的な、は、犯行になると思い、ます」
「そう……それも、オペラが何時に鑑賞し終わるのかも分かったうえでのことよ。正直、白薔薇会の中に、おかしなことが起こっているのは間違いないと思うの」
環はこくりと頷く。
しかし、白薔薇会の令嬢たちに妖やモノノケが紛れていると仮定しても、それらの気配は少しも感じないのだ。この場にいる者たちはすべて人間だ。マダラと小鬼を除いて。
「あ、ああああ、あの」
雅は怖い。令嬢たちの目も恐ろしい。できることならこの場から逃げ出して、自宅に引きこもってしまいたいくらいであるのに。
人間なんて、信用できない。人間ほど身勝手な生き物はいない。
化け物のように映った彼らは、いまだに環の意識の中に居座っている。だが、環はいったい何に突き動かされているのだろう。
いきなり大声を出すものだから、雅はぎょっとした。環は基本的に人との距離感に疎いのだ。
「も、もしよろしければ……わ、私も、事件解決のお手伝いを、させていただけ、ないでしょうか」
環の助太刀などあってもなくてもたいして変わらないかもしれない。むしろ足手まといとなるのが関の山だ。
おそるおそる顔を上げると、雅は凛々しい表情を浮かべている。
「そういえば、名前を聞いていなかったわ」
「あ……ご、ごごごご、ごめんなさい。九重、環と申します」
「九重?」
聞いたことがない、といった反応だ。
「しゅ、出身はこのあたりではないものでして……」
「あら、そうなのね。わたくしは綾小路雅。あなたのような子がいてくれてよかったわ。令嬢たちが相次いで失踪しているというのに、自分たちだけ呑気にお茶をしているだなんて。とても正気だとは思えないもの」
環は環で華族界隈の華やかな雰囲気についていけないと思っていたが、公爵家の令嬢である雅がここまで言うとは予想外だった。雅は重たくため息をつき、身を翻す。
「ついてきて。あなた、新入りなのでしょう? これまでの失踪事件について、私なりに調べているの」
「は……はい」
そう言って、雅は螺旋階段を下りていく。
『それより、こいつはどうするよ』
「あー……もう離してあげてもいい、かも」
『つってもよ、おまえもなんであんな質の悪いいたずらなんてしやがったんだ?』
マダラによって首根っこを咥えられている小鬼は分かりやすくぶすくれている。楽しみを取り上げられた子どものようだ。
『よくわかんねえ妖から、たのまれたんだよ』
「え?」
『あの小娘に、悪さをしろって。そしたらたらふくうまいもん食わせてくれるって』
「そ、それって、ど、どんな風貌の、妖だった……?」
『お……覚えてねえよ、夜中だったし、そいつ、マントを被ってたからよ』
環はマダラと目を合わせる。この騒動はしくまれたものだった。しかも、妖に命じられた? それならば、なぜ雅が狙われたのか。環は瞬時に脳裏で考えを巡らせた。
「きっと、犯人にとって雅様は都合が悪い存在なんだ……」
『けっ、姑息な手段を使いやがって。そのうまいもん、ってのもおそらくは――人間のことだろうよ』
マダラは小鬼の拘束をとくと、不快な心情を露にする。
小鬼はよく状況を把握していないようだが、このままいくと手中に加えられてしまう恐れがあるだろう。
「あなたは里山にお帰り。きっとその妖には、近づかない方がいい」
『んあ……? なんでだよ』
「いいから。もういたずらのしすぎは、だめだからね」
環はその場にしゃがみこみ、小鬼の頭を撫でてやる。
『ちぇ! わ、分かったよ、里山に帰ってやるよ』
「ありがとう。天狗殿によろしくね」
ほっと胸を撫でおろし立ち上がると、小鬼は小走りで屋敷の外へと飛び出していった。
『オレは天狗の野郎は偉ぶってて嫌いだけどな』
「だって、たしかに偉い妖だし……」
『環はいいよなあ、昔から可愛がられててよ』
環は幼い頃から今までを里山で過ごした。帝都の西の外れに越してきたのはつい最近であり、社会勉強の一環だとして天狗に追い出されたのだ。働き口は化け狐の口入れ屋からもらうことでかろうじて生活が成り立っていた。
少しくらい援助を期待したのだが、天狗はそう甘くない。
里山での暮らしは今思うと世俗を忘れた、至極穏やかなものだった。日中は好きなだけ引きこもって書物を読み漁っていた。
そんな環のもとに妖たちが遊びにきては、貴重な紙類をびりびりに破かれた。
『なあ、今回の事件の黒幕……相当知恵が働いてやがる。人間を食いすぎだ。きっと、もう正気には戻れない』
「うん……そうなったら、常世に返すよ」
『オレがいるから心配はねえけどよ、環、あまり無茶はするなよ。オレは、約束してるんだ。かならず、おまえを守るって』
マダラが環のそばにいるようになったのはいつからだったか。環は思い出せるようで、思い出せないのだ。環が里山で暮らすようになる、ずっと前――。あの、暗く寂しい日々よりも、先であったか、あとであったか。
*
「こっ、これは、山本重三郎氏の算術・幾何大全集全十六巻……ああああ、これは不定積分、美しい数字の羅列……難しそう、解いてみたい。これは、そうだ、この円を回転させて生じる立体の体積は、円上の点を媒介変数として、その変数で積分すると……」
綾小路邸の書庫は環にとって夢のような世界だった。九條邸の図書室に匹敵するほどに数多くの書物が保管されている。
雅に連れられてやってきたのだが、環は我慢ならずに学術書に手を出してしまった。
「あなた……書物のこととなると別人のように饒舌になるのですね」
「だっ、だって、見てください。こっ、この偏微分の等式証明の問題を……! 私、微分が大好きなんです!」
「び……びぶん? わたくしにはよく分からないのだけれど」
環は興奮気味に書物を閉じた。まだ読んでいたいところだったが、ここに来たのは環の欲望を満たすためではない。ここは我慢をしなくては。
「ご、ごめんなさい……つい、舞い上がって、し、しまいました」
「見かけによらず随分と頭がいいのね」
「ううう……そう、でしょうか。算術などが、主に得意……です。へ、変……ですよね」
華族令嬢の役目は嫁ぎ先で健やかな子を産むこととされている。そこには、頭のよさなど求められていない。ただ、慎ましく、気高い女性であることを求められる。よくよく考えれば、環の令嬢らしからぬ行動は怪しまれてしまっても仕方がないのだろう。
「いえ? 好きなものを突き詰めてゆくのは、どこも変ではないわ」
書庫の奥から冊子を運んでくる雅は、さも当然とばかりに告げる。
「え……あ、あの、で、でも、時子さんは、殿方の性分と……」
「大抵の華族令嬢はそう思っているでしょうね。でも、私はもうこの考えは古臭いと思っているのよ」
「古い……?」
「お嫁にいくことがすべてではないはずよ。華族だから? 女だから? もっと、自由な選択がとれたっていいはず」
環は呆気にとられて言葉を失った。
「この白薔薇会だってそう。優雅にお茶をして世論を語ってはいるけれど、私たちは、社会の渦に片足すら浸かれていないのよ」
華族ではない環には、令嬢の心情を察すれない。
職業婦人として活躍する女性が増えている一方で、女性への参政権も得られていないのが実情だ。社会にかかわりたくない環にとってはどちらでも構わないのだが。
「話が逸れてしまったけど、これは、私が集めている令嬢失踪事件に関する切り抜き」
木製の机の上に冊子が置かれる。中には新聞の切り抜きが数か月分に渡り貼り付けられていた。
「うわあ……すごい」
「父には、新聞記者の真似事だと非難されたものよ」
雅は差し向かいに腰を下ろすと、自虐的に笑った。近づきにくい人物だとばかり思っていたが、実はそうでもないらしい。環は少しだけ安堵をした。
「すでにご存じでしょうけれど、被害者は皆、白薔薇会に所属する令嬢たち。はじめて事件が公になったのは、四か月前。これまでに十五人も失踪しているの」
「十五……」
「今月に至っては、まだ月も半ばだというのに七人も失踪している。そのうちの一人が瑠璃子」
新聞には‟マタシテモ令嬢失踪″と大きく印字されている。どの記事をみても、有力な手掛かりはないということだった。さらに直近のものに至っては‟奇々怪々ノ仕業デハナイカ″と報じられている。環は、ぐっと唇を結んだ。
「わたくしは、一刻もはやく犯人を見つけ出し、瑠璃子を救いたいの」
「そう……ですね。なにか、手がかりがあれば……」
「あなたは――環さんは、人ならざるものの気配がお分かりなのでしょう? であれば、富永の屋敷を調べてみるのはどうかしら」
なるほど、その手があったか。なにかしら気配が残っていれば、あとを辿られるかもしれない。
「わ、分かりました」
「そうと決まれば、日を変えて出向きましょう。後日お手紙をお送りするわ。お住まいは――」
まさか人見知りで陰気な環が、こうも気が強そうな令嬢と協力関係になるとは。恐ろしいような、どきどきと胸が高鳴るような、不思議な心地がした。
「あ、あの……今は、九條邸で暮らして、いるのです」
「九條!?」
なにかよくないことを言ってしまったのだろうか。雅は驚いて椅子からずり落ちてしまった。
「ま、まさかとは思うけれど……環さんって」
「そ、その、九條周さんの、こ、婚約者を……させて、いただいて、います」
内容に間違いはない。一時的ではあるが、環は周と婚約関係にある。
「ごっほん、ごめんなさい。まさか九條殿のご婚約者だったなんて、予想もしていなかったものだから。あの方ったら、冷たい雰囲気をお持ちなのに、よく婚約者が変わるのよね……? そのあたりはご心配ではなくて?」
「そ……それは、大丈夫、です」
環はまた誤魔化して笑うしかない。周には周の目的があって婚約者を求めていただけで、なにも遊び人だというわけではないのだ。ただ、屋敷は妖の巣窟だ。蝶や花よと大切に育てられた華族令嬢たちの肌にはあわない。
「そう、ならよいのだけど。あの方も随分とご苦労されているわよね。あの年で家督を継いでいらっしゃるなんて」
「……そう、ですね」
「もしかして、九條家にも妖が出るのかしら? 九條殿の元婚約者たちは、不穏な物音がするといって次々に立ち去ったと聞くもの。環さんが怯えないのは、そういう理由があるのではないかしら」
なかなかどうして、雅は鋭い。自身で調べものをするくらいには洞察力に優れているようだ。白を切る手も考えたが、雅は妖ものに対して寛容なように見えた。
環は肩をすぼめてごにょごにょと口を開く。
「で、できれば、内密にしていただけると……ありがたいの、ですが」
「ええ、それはもちろんだけれど。ほら、中には九條家の例の事件を悪いように噂する人たちもいるから。……本当に苦労されていると思うわ。きちんとお支えしてさしあげて」
「は、はい」
立ち上がった雅に続き、環も席を立った。
この瞬間も‟式″を通して視ているのだろうか。
周との関係は、この事件が解決するまでの仮初のもの。黒幕をつきとめ、悪事を暴いたそのあとは赤の他人に戻るのだ。
*
白薔薇会の令嬢たちによるガーデンティーパーティーが終わりを告げたのち、環は帝都の書店街を練り歩いていた。
普段は街中に出向くなど考えたくもないのだが、書店めぐりだけは別問題だ。年季の入った建物。筆書きされている店看板が立ち並ぶ。せっかくだから何か見ていこうと浮き足立っていた時、背後からとんとんと肩を叩かれた。
「こんにちは、いつかのお嬢さん」
びくっと体を震わせて振り返る。
そこには、周とドレス選びに出かけた際に遭遇した、ひと際華やかな軍人が立っていた。
たしか、気をつけろと念押されていた人物だ。軍人らしからぬ亜麻色の長髪。今日も花飾りをつけて後ろで一つに編み込まれている。今は公務中ではないのだろうか、軍服をそのように着崩していて問題はないものか。