【受賞作】人見知り乙女と、鬼の婚約者



 環は翌朝、しゃかしゃかと粒が擦れる音によって目覚める。寝ぼけ眼を擦り体を起こすと、部屋の中に小豆洗いが座り込んでいた。

 いつの間に入り込んできたものか。小豆洗いはとくに環に悪戯する様子もなく、何度も何度も念入りに洗っている。

「ん……おはよう……ございます」
『……』
「ふわ……あなたは……いつから、そこに?」

 しかし、欠伸をする環を一瞥すると、徐に立ち上がって壁の中に消えていってしまった。

(あれ、いなくなってしまった)

 妖ものは気まぐれな生き物だ。ここで小豆を洗うのに飽きたのかもしれない。

 それにしても昨夜は泥のように眠ってしまった。よほど社交場で気疲れをしていたらしい。
 できればもう二度と出向きたくはないのだが、そうも言ってはいられないのだろう。少なくとも、綾小路雅には何らかの接触を図らねばならない。あの勝気な令嬢相手に、環がまともに渡り合える気がしないのだが。

 はあ、とため息をつき周囲を見回す。マダラはといえば、ベッドの上で気持ちよさそうに眠っていた。

『……むにゃむにゃ、もう食えねぇぞ……』

(呑気に寝ていて、羨ましい)

 起こさずに布団から這い出る。身支度を整えると、環は一階へと向かった。

 女中が朝食の支度を済ませているのか、味噌汁のいい香りが立ち込めている。
 こんがりと焼かれた魚の匂いに食をそそられ、広間に向かう。そこには朝刊を読んでいる周のほかに、見慣れない僧風の男が座っていた。

「お………お、おはよう、ございます」

 環が声をかけると、朝刊からちらと視線を上げた周と目が合う。

「おはよう」
「……あ、あのそちらの方は」

 先ほどから茶を飲んでいる男は、おそらくは妖でよいのだろう。大正の時代とは逆行した麻の着物を身につけ、知的な印象を受ける。もっとも目を引くのは、大きく突き出た後頭部だ。

「ぬらりひょんだ。今日からしばらく屋敷に滞在するようだから、よろしく頼む」
「……ぬらりひょんさん、は、はじめ、まして」

 ぬらりひょんといえば、一般に瓢箪鯰のように掴まえどころがないという。頭脳明晰とも言われ、妖の総大将ともされている存在だが、環は未だかつて実物を目にしたことはなかった。

「ほう……君が、周殿のよい人か」
「よっ、よい人?」
「どれ、君から周殿の気が伺える。これは……ふむ、"式”の他にまだ何かつけられておるな」

 よい人だとはとんでもない。あくまでも周と環は偽物の婚約関係にあるだけだ。

 ぶるぶると否定をするが、ぬらりひょんは飄々とした顔で茶を飲んでいる。周に関しては朝刊に目を通しているばかりで、ちっとも気にしていないようだ。

「あ、あの、私は……本物の婚約者では……ないのですが」
「知っておる。人間の娘の失踪事件を追っているのだろう。あれは、誠に残念のことよのう……」

 環はおずおずと席につくと、食卓に並んでいる皿たちがこぞって眼前に集まってきた。今すぐに使ってほしいといわんばかりだ。

「本来、人間と妖は、住む場所を分かち、よほどのことがない限りは干渉しあわないものだ。互いの世界を守り、均衡を築く役目を担っていたのが、人間のとある一族と、妖の鬼族だったのだが……」
「鬼族……」

 ちらりと周を見るが、視線は朝刊に向けられたままだ。

「最近は、妖が次々と町中へおりていっている。昔から町中でこっそりと暮らしているものはいたが、此度の妖どもは様子がおかしいのだ。人間の味を覚え、理性が保てなくなるものが増えている」
「そう……なんですね」
「わしらとしては、あまり妖ものや妖怪の悪評を広めたくないのが本音なのだよ。現に、令嬢の失踪事件も、神隠しにあった、だの。妖怪に呪われたのだ、などと騒ぎ立てる連中までいる。そうなってしまっては、人間の目が一層光るばかりで、わしら妖はおちおち暮らしてもいられんものよ」

 ぬらりひょんは湯呑みを置き、重たいため息をついた。

『たいへんだ、たいへんだ』
『あちこちにお札が貼られているよ』
『あれ、痛くて苦しいよ』
『オイラたち、見えるにんげん、いじめてくる。遊び場が、なくなっちゃう』

 瞬きをしたその時、いつのまにか周囲に座敷童子たちが集まっている。その場でバタバタと走り回ると、壁を駆け上がり天井裏へと消えてしまった。

 このままゆけば、妖は人間に害をなすものとして、いっそう忌まれてしまう。すべての妖が悪ではないのに。人間にも善人と悪人がいるように、妖だってそうなのだ。
 環はやるせなくなり、かたく唇を結んだ。

「それにしても、風変りな娘さんよのう。このような妖まみれの屋敷で、平然と暮らしているとは」
「あっ……えっと、これはその……慣れている、ので」
「しかし、これほど視えてしまっては、面白がった輩どもにいたずらをされてしまうだろう」
「うーん、まあ、そうなの、ですが……勝手に鞄を持っていかれてしまったり、本を破かれてしまったり、あとは……ああ、そうだ、昔、一度だけ嫌々女中をしていた時に、お嬢様を池に転落させられたり……しました。おかげでお暇をいただくことが、できました」

 かつての出来事を思い出し、あははと笑った。口入れ屋から斡旋された仕事は、内職以外はどれもうまくいかなかった。大抵は、妖たちにいたずらをされ、気味悪がった主人に暇を言い渡されて終わってしまう。
 できることならば四六時中家に引きこもっていたい環にとっては、ありがたい迷惑だったが。

 すると、しばらく朝刊を眺めていた周がくすりと笑う。

「そこで喜んでどうする」
「あ……だ、だって」

 もごもごと口ごもると、女中が朝食を運んできてくれた。ふっくらと炊けた白米と、具沢山のみそ汁。それに加え、こんがりと焼けた魚も添えられているとは、なんと贅沢な朝食なのだろう。

「お……おおおおっ、おいしそう、です!」
「どうぞ、召し上がれ」
「いっ、いただきます!」

 環は両手を合わせて勢いに任せて白米をかきこんだ。マダラはいつまで寝ているのだろう。

「それで、令嬢界隈の件だが」
「ごふっ!」

 本題だ、とばかりに両手を顎の下で組み合わせている周がいる。かきこんでいた白米が喉につまり、環はあわててお茶を喉に流し込んだ。

 しらを切って視線を逸らそうかとも思ったが、周の鋭い瞳からは逃げられない。分かっている。給金をもらっている手前、どれだけ気が進まなくとも、環はやらねばならないのだと。

「……なんとか雅さんという御令嬢が、なにかご存じかも……しれません」
「公爵家の綾小路雅か」
「うっ……、そうです。公爵家の、かなりはっきりとものを申される御令嬢です……」

 とたんに憂鬱になり、箸を持つ手が止まる。

「なんでも、ご友人が失踪されたそうで……って、ぜんぶ周さんはみっ、視ていたんですよね? 説明しなくても、わっ、分かるじゃないですか」
「ああ。それで、環はどうしたいと思う?」
「え……? そりゃあ、本音では関わりたくはないと思います……人間って怖いし……」

 もし、この事件の犯人が妖であったとして、それが軍部側に露呈してしまったのなら。人間は、人間ならざる者を過剰に恐れ、撲滅を願うだろう。

 やがて国は魑魅魍魎の排斥に本腰をいれる。そうなってしまっては、なにも悪いことをしていない妖や妖怪も、殺されてしまうのかもしれない――そう考えると、環の決心は鈍るのだ。

「で、でも……」

 ぎゅっと唇を結ぶ。環の瞳が、周の月のような瞳に映った。

「なんとか、してあげたい」

 まだ人間は怖い。今のところは、妖側に寄り添う気持ちの方が強い気がする。人間は環をいつも苦しめ、寂しい時、悲しい時、味方をしてくれたのはいつも妖だった。
 そんな彼らが傷つくのは耐え難い。そしてなにより、我を忘れ、化け物になり果ててしまった妖を、楽にさせてあげたいと思ったのだ。
 翌週の日曜日になると、環は白薔薇会主催の‟ガーデンティーパーティー″に招待をされた。環は当然パーティーというものに縁がなく、招待状が届いた時には背筋が凍ったものだ。

 本来であれば迷わず断りたいところであったが、開催場所をみると綾小路邸と記載があるではないか。

 環はぐぬぬ、と眉を顰めて考え込んだ。綾小路雅の活発な態度を思い起こして、背筋が凍る。だが、これはおそらくは絶好の機会なのだろう。環は自身に鞭を打ち、参加の意思表示をしたのだった。

「環様、ごきげんよう!」
「ご……ごきげんよう、時子さん」

 綾小路邸は帝都の西側に門を構えている。洋風邸宅は、九條家に匹敵するほどに立派だった。

 敷地の中に入るなり、ほうとため息をつく。当主が好んでいるのか、庭園には色とりどりの薔薇が植えられていた。

『ひょえ~、随分と気合入ってんなあ~』

 庭先には豪奢なワンピースを身に着けた令嬢たちですでに賑わっていた。環の影の中に身を潜めるマダラも、あっけにとられている。
 ふんだんにあしらわれたフリル、きらりと光沢のあるブローチ、上品にも日傘をさしている者もいる。

(人が多いよ……はやく帰りたい……)

 時子に連れられるままに敷地の中を進むと、令嬢たちの視線が環へと集結する。

(こわい……! いじめられる!)

 やはり、先日の夜会でかましてしまった玲子への失言が響いてしまっている。こそこそと耳打ちする声が聞こえ、環はぶるりと震えあがった。

「た、環様……あまり、その、気負わないほうがよろしいかと……」
「は、はい……」
「た、たしかに先日の件はわたくしも驚いてしまいましたが、あれは、玲子様のお体を思ってのこと……だったのでしょうし。それにしても、環様は学に明るいのでございますね」

 時子は両手を合わせ、顔を青々させている環を宥めた。

「女学校時代は、立派な花嫁になるよう先生方から指導を受けていたものですから、学問に関しては、殿方の専門分野だとばかり思っておりました」
「えっと……その、私はべつに」

 ただ家に引きこもって学術書を読みふけっていただけだ。環は尋常小学校にも通っていなければ、女学校になどもっぱら縁もゆかりもない。周の婚約者を名乗っているが、それこそ花嫁修業の‟は‟の字も経験がないのだ。

「……それにしても、環様は九條邸で過ごされていらっしゃるのでしょう? その……何かお変わりはございませんでしょうか」

 続々と来訪する令嬢たち。その誰もが黒塗りの自動車から、使用人を連れて颯爽と降りてくる。環にとってはまるで別世界だった。周囲で挨拶が交わされる中、時子はこっそりと耳打ちをした。

「どういう意味、でしょうか……」
「いえ……あの、九條家は由緒正しく、素晴らしい血筋であると、存じ上げております。ただ……十年前に起こった惨事は、ご存じでしょう? 周氏をのぞき、一家が火事でお亡くなりになった……あの事件を」

 環ははっと息をのんだ。当の本人に仔細は聞かずにいるが、九條家の鬼たちは、なぜ殺されてしまったのだろうか。
 誰に? なんの目的で?

 深入りすべきではないと理解しているが、周の言葉が脳裏に染み付いてしまって離れない。もし、鬼族をよく思わない存在がいるのならば、今も虎視眈々と周の寝首をかく機会を狙っているかもしれない。

「それが理由であるのかは分からないのですが、周氏の婚約者であった方々はみな、邸宅から不気味な気配がするといって、去られてしまっているのです」
「あ……ああ」

 考えを巡らせていたが、そこで現実に引き戻される。その不気味な気配とは、妖のことだ。

「周氏は見目の麗しい貴公子のようなお方……ですが、お屋敷は亡霊たちにより呪われているのではないか……とも噂されていたもので」
「えっと……それに関しては、なにも問題は、ないです」
「そうなの、ですか? でしたら、安心いたしましたが……。呪われたりはしていないかと、少々心配しておりましたので」
「あ、はは……」

 環は誤魔化しながらに笑うしかなかった。

「ほら、近頃の令嬢失踪事件もなかなか解決には至っていないようですし、警察でも、めぼしい証拠が出てこないようで。もしかすると神隠しやモノノケの仕業なのではないかって、一部ではもちきりなのですよ」

 時子は重々しい顔つきで述べた。環にとっては頭上に鉛が落ちてくるような感覚があった。

「昔から、逢魔時にはひとり歩きはするな、人ならざるものに攫われる――と言われておりますけれど、それが本当ならば怖いですよね……」
「……」

 なんと虚しいのだろう。妖ものがすべて明確な悪意をもっているわけではないというのに、どうしてここまで恐れられなくてはいけないのだ。

 人間の方がよほど怖いではないか。環はぐっと唇を噛みしめ、黙り込んだ。

「って、ほら、雅様がようやくお見えになりましたよ」
「え……?」
「公爵家の方々は、いつも、あちらの二階バルコニーでお茶を楽しまれるのです。ああ、今日も見目麗しい……」

 時子がうっとりしている隣で、環はそわそわと落ち着かない。あのような格上の世界。ただでさえ、公爵家とそれ以外のものたちで区切られてしまっているというのに、どのように接触をしたらよいものか。

「ごきげんよう、雅さん」
「……ごきげんよう。ですが、わたくしはあれほど延期にしようと申し上げましたのに。よくもまあそう呑気にお茶などしていられますね、玲子さん」

 今日の雅も機嫌が良いとはいえないようだ。あのような強気な令嬢に、陰気な環が太刀打ちできるわけがない。さあああ、と環の顔は真っ青になる。

「みなさまをご不安にさせてはいけないでしょう。それに、瑠璃子さんはきっと帰ってきてくださいますわ」
「だから、わたくしはお茶を楽しむような気分になどなれないと言っているのです!」
「雅さん、どうか、警察を信じて待ちましょう。わたくしたちが暗い顔をしてばかりいてはなりませんよ」

 雅はきっと鋭く睨み飛ばし、ふてぶてしい態度で椅子に腰かけた。

(あっ!)

 ──ともすれば、雅の足元に小鬼がいるではないか。
 いったいどこからやってきたのか、雅の足首にしがみつき、体をよじ登っている。当然、雅本人にもそれ以外の者たちにも見えているはずなく、環のみぞ知るところではあったが。

『放っておいても問題はねえだろ。まっ、多少のいたずらはするだろうけどな』
(いっ、いたずらって……大丈夫かな)

 小鬼はやがて雅の頭の上にたどりつき、満足げに腰を下ろす。しばらくあの場から離れるつもりはないらしい。
 環は小鬼の存在が気になって仕方がなかったが、やがて運ばれてくるお茶菓子に舌鼓を打ったのだった。
 環はマカロンというものを初めて口にした。西洋の菓子だというが、どのようにしたらこのような触感が生み出せるのだろう。
 外はさっくりと、内側はとろけるような歯ごたえ。砂糖を入れない紅茶は味気がないと思っていたが、これがあるとちょうどよい塩梅に感じる。
 環は令嬢たちの会話に混ざることなく、黙々と菓子を食べ続けた。

『おい! オレにも少し分けろよ!』

 すると、環の影の中からマダラの声が聞こえてくる。環は周囲を見回してから、マカロンを二つほど地面に落とす。

『ありがとよ! うっひゃあ、なんだこりゃ、こんなうめえ菓子、食ったことねえぞ』

(高級菓子なんだって。和菓子とはちょっと違うよね)

『もう一個! もう一個くれ!』

 中庭の隅っこでこそこそとマカロンを与える。しかし、先ほどから紅茶を何杯も飲んでいたせいで、不浄を催した。
 話に花を咲かせている令嬢たちをよそに、環は真っ青になる。

(ど、どうしよう……誰に、なんていえばいいの)

「あらまあ、では、藤沢様はようやく家督を引き継がれたのですね」
「そうなのです。これからもますますお支えしなくてはなりません」
「それにしても、最近は民本主義……などというものを求める運動が起こっているようですよ」
「存じ上げておりますわ。主に新聞社や小説家がそのような思想を民衆に広めているのだとか……」

 周囲を見回したが、とても声をかけられるような雰囲気ではない。泣きべそをかきそうになった時、ようやく給仕らしき人物を見つけた。
 環はよろよろと席を立つと、何度か躊躇しつつ勇気を振り絞って声をかけた。

「あ……ああああ、あの!」

 勢いあまってしまった。環ははっとして口ごもるが、ほら見ろとばかりに、訝しそうにしているではないか。環は人との距離感を掴むことが苦手だ。

「ど、どうかなされましたでしょうか」
「えっと……そ、そそ、その、紅茶を飲みすぎて、しまって……ご不浄を……拝借したく」

 もじもじする環を見て給仕は、ああ、と納得する。

「承知いたしました。ご案内いたします」
「あああ、あの、ご面倒を、おかけ、します」

 環は先を歩く給仕についていく。邸宅の中には、舶来物なのか見たこともないような壺や絵画が並んでいる。
 あれはたしか、ビリヤードというものだ。環は嗜んだ経験はないが、はいからな遊戯として華族界隈で流行っているのだという。
 環は邸宅の奥へと案内され、一通り使用方法の説明を受けた。

「錠前は扉の裏手にございます」
「は、はい」
「わたくしはこれにて失礼をさせていただきますが、よろしいでしょうか?」
「だ、大丈夫……です。ありがとう、ございました」

 引き返す給仕を横目に、環はほっと安堵をする。やはり、華々しい社交場など環には似合わない。厠のように狭くて、暗い、人が寄り付かないような場所がよほど好ましいと思ったのだった。


 厠から出ると、環は庭先に戻るのが億劫になった。令嬢たちとの会話についていけるはずがなく、中途半端に加わってしまったのならボロが出てしまう。

 そもそも陽の光よりも、薄暗い部屋の中の方が落ち着くのだ。環は重い足取りで正面玄関へと向かうが、その途中で興味を引かれる場所を見つけてしまった。

 この古びた印刷物の香りーー……書庫だ。死んだ魚のような瞳が一転して光を帯びる。

(勝手に入ったら怒られるよね……いいな、読み漁りたい……)

 欲望に突き動かされ、魂が抜けた亡霊のようにそろりそろりと歩みを寄せていた、その時だった。

「どうなされたの、雅さん!」

 二階から悲鳴じみた令嬢の声が聞こえてきた。環が足をとめると、影の中からマダラが現れる。
 バタバタと何やら騒がしい。

『雅って、あのきつめの令嬢だよなあ?』
「うん……なんの騒ぎだろう……」

 公爵家の令嬢たちはバルコニー席でお茶を楽しんでいたはず。それなのに、いったいどうしたというのか。環はびくびくと震えながら、螺旋階段の先を見上げた。

「落ち着いて! お気をたしかに!」
「その先は危険ですわ! どうかお止まりになって!」
「雅さん! ちょっと、誰か! 誰かいないの!」

 階段の手すりにしがみついて、おそるおそる様子を伺うが、この場所からは事態の全貌を伺えない。面倒事はご免だ。できれば見過ごしたいところであったが、ひとつだけ気になっていたことがあった。

「もしかして、あの小鬼がいたずらをしてるんじゃ……」
『ああ、その可能性はあるなあ』

 依然、環が女中をしていた時も、雇用主の令嬢が妖によって池に落とされたことがある。環はとっさに助けようとしたのだが、人ならざるもののことなどろくに信じてもらえず、濡れ衣を着せられてしまったのだが。

『とりあえず、様子を見に行ってみた方がいいんじゃねえか?』
「えっ、でも、勝手に上がっていいのかな」
『そんな小さいこと気にしてられっかよ。けっ、オレは先に行くぜ!』
「あっ、待ってマダラ!」

 階段を軽快に駆け上るマダラを追いかける。慣れないワンピースを踏みつけてしまわないようにたくし上げたが、そもそも洋風の靴すら履き慣れていないため、環は何度も転びそうになった。

「違うの! もう、痛い! ひっぱらないでちょうだい!」
「きゃあああ! 大変よ、雅さんがバルコニーから落ちてしまう!」
「痛い……痛いったら、やめて!」

 二階へとたどり着くと、雅がバルコニーの手すりの上に身を乗り出していた。玲子をはじめとする侯爵家の令嬢たちだけでなく、庭先でお茶をしていたその他の華族令嬢たちも騒ぎはじめているではないか。

 加えて、欲見れば環が思った通り、小鬼が雅の髪を引っ張っている。おそらくは面白がっているだけなのだろうが、当の本人がバルコニーから転落してしまっては一大事だ。

 もちろん、雅自身にもその他の令嬢たちにも、妖力の弱い小鬼の姿は見えていない。その分、雅の突拍子もない行動に動揺しているのも理解はできる。

『あれは小鬼をひっとらえないとまずいな……』
「どどどどど、どうしよう! おおおお、落ちちゃうよ」
『なんとかして小鬼の興味をほかに向けるしかねえぞ』

 興味? 環は唇を結んで、あれこれと考えた。
 環には正義感などというものは持ち合わせていない。いつだって自分のために生きてきた。
 いや、むしろ自分のこと以外を考える余裕などなかった。ましてや、自分以外の人間がどこでどんな目にあおうと知ったことではないのだが、ふと、あの夜の周の横顔がよぎってしまうのだ。
 環はふんす、と気合を入れ、一歩踏み出した。

「どっ、退いてくださいっ‼」
「きゃああ! あっ、あなた、どこから!」
「いっ、いいから、どっ、退いてください‼」

 今世紀最大の大声だった。環は勢いよく駆け出し、バルコニーの中に割って入る。どよめく令嬢たちには見向きもせず、環は雅の体にしがみついた。

「あっ……あなたは、いったい!」
「ごっ、ごめんなさい! あ、あの、今すぐ、取ります、ので!」
「と……るって」
「この子が、ひっぱってる、から、その……悪気は、ないん、です!」

 雅は訳が分からないといった様子であったが、あまりに切羽つまった状況を前にして環のいうことを鵜呑みにせざるを得ない。
 環は雅の体が手すりを越えてしまわないように押さえつつ、小鬼へと目をやった。

「ねえ、ここから、落ちたら、ケガをしてしまうから、これ以上は、だめだよ」
『んあ? なんだおめえ……おいらが見えるのか』
「おっ、おっ……お願いだから、離してあげて」
『なんでだよ、せっかく面白いところなのに』

 その場に居合わせている令嬢たちからすれば、ただの環の独り言だろう。おそらくは、雅の身を案じながらも、奇妙奇天烈な環の態度を前にいぶかしんでいる。

 人見知りで引っ込み思案な環であるが、この時ばかりは必死だった。

(マダラ……‼)

『あいよ‼』

 足元に目くばせをすると、環の足元の影の中からマダラが飛び出してくる。人間の目には映らないように気配を消しつつ、小鬼の体に飛び乗ったのだ。

『うぎゃああああ! 猫又だ!』
『観念しろ! いたずらはほどほどにしねえと、豆を無理やり食わせるからな!』
『そっ、それだけは勘弁してくれい! 謝るからさ! この通りだよ! ……ったく、こんなところに猫又が出てくるなんて思わないじゃねえか!』

 マダラは小鬼の体に飛び乗ると、バルコニーの床の上で羽交い絞めにする。マダラのずんぐりむっくりな体に押しつぶされるようにして、小鬼は静まってくれた。
 環はほっと胸を撫でおろしたが、ここでようやく我にかえった。雅の体から勢いよく離れ、おどおどと頭を下げる。

「ごごごごごご、ごめんなさい!」

 周囲を見回して、さらに背すじが凍る。この場に居合わせていた公爵家令嬢たちの視線が痛く突き刺さった。玲子にいたっては、ただ一人、穏やかに微笑んでいたが。

「お茶の邪魔をしてっ、もっ、申し訳ございません、でした!」

 この国の根幹を担っている家の令嬢たちの前で、とんだ無礼を働いてしまった。環はいてもたってもいられなくなり、バルコニーから駆けだした。
 マダラは小鬼の首根っこを咥え、環のあとをついてくる。だが、追いかけてきたのはマダラだけではなかった。

「お待ちになって!」

 びくっと肩を震わせ、環は螺旋階段の手前で立ち止まる。
 振り返らずともこの快活な声の主は分かった。綾小路雅、本人だ。

「さきほどは、危ないところを助けてくれて、どうもありがとう」
「……あ、ああっ、えっと」
「まったく、お礼も言わせずに逃げるだなんて、失礼ではないのかしら」

 振り返るとやはり、目鼻の凹凸がはっきりとした顔がある。高飛車な雰囲気は、彼女独特なものだろう。きっと悪気はない。

「ご、ごめん、なさい。でも、私みたいな根暗で、陰気な人間は、あのような場所に……本来はいてはいけないというか……もっと暗くてじめっとした場所の方が……ごにょごにょ」
「……何を言っているのかしら」

 意味が分からない、とばかりに眉を顰められた。しまった、イラつかせてしまった。環の得意分野である。ひい、と背すじが伸び、雅の翡翠色の瞳を直視できない。

「まあ、いいわ。聞いてもいい? あなたは、何かが見えるのね?」
「えっと……」
「わたくし、ずっと何かに髪をひっぱられていたの。だけど、皆は信じてはくれなかった」

 素直に答えてしまえば、立場を悪くしかねないのではないか。ただでさえ、妖やモノノケの存在は敬遠されているというのに。
 環は一瞬だけ躊躇したが、恐る恐る雅の瞳へと視線を向けて、妙にすとんと腑に落ちた。

(この方は、そんな真似はしないのだろう)

 こくりと頷くと、環はマダラが加えている小鬼へと横目を向けた。

「雅……様の髪は、たしかに、人ならざるもの……小鬼が引っ張って、いたずらをしていました」
「小鬼……」
「お、驚かないの、ですか」

 見えていないのだから、実感が沸かないのも無理はないのかもしれない。環の被害妄想ではあるが、よい家柄の令嬢は奇々怪々にめっぽう弱い印象であったからだ。

「そう……やはり、本当に存在するのね」
「え?」
「あなた、富永瑠璃子の失踪事件は、ご存じかしら」

 環は一度、自分の耳を疑った。まさか雅本人から聞きたかった話題が振られるとは思いもしなかったのだ。
 はっとして顔を上げると、真剣な面持ちの雅がいる。そして、どこか悔しそうに眉をひそめている。

「あの子……失踪する数日前から、身のまわりに妙なことが起きていると、言っていたのよ」
「妙な、こと……ですか?」
「ええ、置いてあったものが一瞬目を離した隙になくなっていたり、勝手に移動をしていたり、近くに誰もいないというのに、瑠璃子の名を呼ぶ声が聞こえたり」

 まさか、と環は言葉を失った。マダラと目をあわせ、頷く。

「お、おそらく、それは妖の仕業で、しょう。何がしたかったのかまでは、分からないのですが……」
「あなたは、疑わない? 信じてくれるのね?」

 こくこく頷く環を雅はじっと見つめた。

「失踪した原因にすくなくとも関係があるとみるのが、妥当、です」
「……そうよね。いえ、ごめんなさい。あなたにこんなことを聞いても困ると思うのだけど。だとしたら、やはり釈然としないわ」

 常に所在のない環の瞳とは違って、雅の瞳は迷いがなく、力強い。周のように儚く美しい瞳とはまた違って、他人をひきつけるものがある。

「彼女の身の回りに奇妙な出来事が起こっていたのは、たしかなのだけれど、極めつけは失踪をする当日のことよ」

 令嬢たちが集う花園で、いったい何が潜んでいるのか。

「あの日は……白薔薇会の令嬢たちとオペラを鑑賞した帰りだった」
「白薔薇会のみなさんと、オペラを……」

 日比谷公園野外音楽堂から発展した西洋の音楽は、やがて帝国劇場を設立するまでに至った。
 華族階級だけでなく、一般庶民でも身近に楽しめる音楽も広まっていたのだが、環には悉く縁がないものだ。

 それにしても、白薔薇会の令嬢たちとオペラを見た帰りに失踪をするとは。

「そっ、その日は、瑠璃子様つきの運転手は、おられなかったのですか」
「いらしたそうよ。でも、ちょうどお開きになった時に、運転手は気をうしなって路肩に倒れていたそうなの」
「な、何者かに、ね、眠らされてしまった……ということでしょうか」
「そうね。きっと、運転手になりすました犯人が、彼女を誘拐した」

 環はぐっと黙り込み、現場の状況を想像する。

「もし、それが事実だとすると、かなり、計画的な、は、犯行になると思い、ます」
「そう……それも、オペラが何時に鑑賞し終わるのかも分かったうえでのことよ。正直、白薔薇会の中に、おかしなことが起こっているのは間違いないと思うの」

 環はこくりと頷く。
 しかし、白薔薇会の令嬢たちに妖やモノノケが紛れていると仮定しても、それらの気配は少しも感じないのだ。この場にいる者たちはすべて人間だ。マダラと小鬼を除いて。

「あ、ああああ、あの」

 雅は怖い。令嬢たちの目も恐ろしい。できることならこの場から逃げ出して、自宅に引きこもってしまいたいくらいであるのに。

 人間なんて、信用できない。人間ほど身勝手な生き物はいない。

 化け物のように映った彼らは、いまだに環の意識の中に居座っている。だが、環はいったい何に突き動かされているのだろう。
 いきなり大声を出すものだから、雅はぎょっとした。環は基本的に人との距離感に疎いのだ。

「も、もしよろしければ……わ、私も、事件解決のお手伝いを、させていただけ、ないでしょうか」

 環の助太刀などあってもなくてもたいして変わらないかもしれない。むしろ足手まといとなるのが関の山だ。
 おそるおそる顔を上げると、雅は凛々しい表情を浮かべている。

「そういえば、名前を聞いていなかったわ」
「あ……ご、ごごごご、ごめんなさい。九重、環と申します」
「九重?」

 聞いたことがない、といった反応だ。

「しゅ、出身はこのあたりではないものでして……」
「あら、そうなのね。わたくしは綾小路雅。あなたのような子がいてくれてよかったわ。令嬢たちが相次いで失踪しているというのに、自分たちだけ呑気にお茶をしているだなんて。とても正気だとは思えないもの」

 環は環で華族界隈の華やかな雰囲気についていけないと思っていたが、公爵家の令嬢である雅がここまで言うとは予想外だった。雅は重たくため息をつき、身を翻す。

「ついてきて。あなた、新入りなのでしょう? これまでの失踪事件について、私なりに調べているの」
「は……はい」

 そう言って、雅は螺旋階段を下りていく。

『それより、こいつはどうするよ』
「あー……もう離してあげてもいい、かも」
『つってもよ、おまえもなんであんな質の悪いいたずらなんてしやがったんだ?』

 マダラによって首根っこを咥えられている小鬼は分かりやすくぶすくれている。楽しみを取り上げられた子どものようだ。

『よくわかんねえ妖から、たのまれたんだよ』
「え?」
『あの小娘に、悪さをしろって。そしたらたらふくうまいもん食わせてくれるって』
「そ、それって、ど、どんな風貌の、妖だった……?」
『お……覚えてねえよ、夜中だったし、そいつ、マントを被ってたからよ』

 環はマダラと目を合わせる。この騒動はしくまれたものだった。しかも、妖に命じられた? それならば、なぜ雅が狙われたのか。環は瞬時に脳裏で考えを巡らせた。

「きっと、犯人にとって雅様は都合が悪い存在なんだ……」
『けっ、姑息な手段を使いやがって。そのうまいもん、ってのもおそらくは――人間のことだろうよ』

 マダラは小鬼の拘束をとくと、不快な心情を露にする。
 小鬼はよく状況を把握していないようだが、このままいくと手中に加えられてしまう恐れがあるだろう。

「あなたは里山にお帰り。きっとその妖には、近づかない方がいい」
『んあ……? なんでだよ』
「いいから。もういたずらのしすぎは、だめだからね」

 環はその場にしゃがみこみ、小鬼の頭を撫でてやる。

『ちぇ! わ、分かったよ、里山に帰ってやるよ』
「ありがとう。天狗殿によろしくね」

 ほっと胸を撫でおろし立ち上がると、小鬼は小走りで屋敷の外へと飛び出していった。

『オレは天狗の野郎は偉ぶってて嫌いだけどな』
「だって、たしかに偉い妖だし……」
『環はいいよなあ、昔から可愛がられててよ』

 環は幼い頃から今までを里山で過ごした。帝都の西の外れに越してきたのはつい最近であり、社会勉強の一環だとして天狗に追い出されたのだ。働き口は化け狐の口入れ屋からもらうことでかろうじて生活が成り立っていた。
 少しくらい援助を期待したのだが、天狗はそう甘くない。

 里山での暮らしは今思うと世俗を忘れた、至極穏やかなものだった。日中は好きなだけ引きこもって書物を読み漁っていた。
 そんな環のもとに妖たちが遊びにきては、貴重な紙類をびりびりに破かれた。

『なあ、今回の事件の黒幕……相当知恵が働いてやがる。人間を食いすぎだ。きっと、もう正気には戻れない』
「うん……そうなったら、常世に返すよ」
『オレがいるから心配はねえけどよ、環、あまり無茶はするなよ。オレは、約束してるんだ。かならず、おまえを守るって』

 マダラが環のそばにいるようになったのはいつからだったか。環は思い出せるようで、思い出せないのだ。環が里山で暮らすようになる、ずっと前――。あの、暗く寂しい日々よりも、先であったか、あとであったか。


  *


「こっ、これは、山本重三郎氏の算術・幾何大全集全十六巻……ああああ、これは不定積分、美しい数字の羅列……難しそう、解いてみたい。これは、そうだ、この円を回転させて生じる立体の体積は、円上の点を媒介変数として、その変数で積分すると……」

 綾小路邸の書庫は環にとって夢のような世界だった。九條邸の図書室に匹敵するほどに数多くの書物が保管されている。

 雅に連れられてやってきたのだが、環は我慢ならずに学術書に手を出してしまった。

「あなた……書物のこととなると別人のように饒舌になるのですね」
「だっ、だって、見てください。こっ、この偏微分の等式証明の問題を……! 私、微分が大好きなんです!」
「び……びぶん? わたくしにはよく分からないのだけれど」

 環は興奮気味に書物を閉じた。まだ読んでいたいところだったが、ここに来たのは環の欲望を満たすためではない。ここは我慢をしなくては。

「ご、ごめんなさい……つい、舞い上がって、し、しまいました」
「見かけによらず随分と頭がいいのね」
「ううう……そう、でしょうか。算術などが、主に得意……です。へ、変……ですよね」

 華族令嬢の役目は嫁ぎ先で健やかな子を産むこととされている。そこには、頭のよさなど求められていない。ただ、慎ましく、気高い女性であることを求められる。よくよく考えれば、環の令嬢らしからぬ行動は怪しまれてしまっても仕方がないのだろう。

「いえ? 好きなものを突き詰めてゆくのは、どこも変ではないわ」

 書庫の奥から冊子を運んでくる雅は、さも当然とばかりに告げる。

「え……あ、あの、で、でも、時子さんは、殿方の性分と……」
「大抵の華族令嬢はそう思っているでしょうね。でも、私はもうこの考えは古臭いと思っているのよ」
「古い……?」
「お嫁にいくことがすべてではないはずよ。華族だから? 女だから? もっと、自由な選択がとれたっていいはず」

 環は呆気にとられて言葉を失った。

「この白薔薇会だってそう。優雅にお茶をして世論を語ってはいるけれど、私たちは、社会の渦に片足すら浸かれていないのよ」

 華族ではない環には、令嬢の心情を察すれない。
 職業婦人として活躍する女性が増えている一方で、女性への参政権も得られていないのが実情だ。社会にかかわりたくない環にとってはどちらでも構わないのだが。

「話が逸れてしまったけど、これは、私が集めている令嬢失踪事件に関する切り抜き」

 木製の机の上に冊子が置かれる。中には新聞の切り抜きが数か月分に渡り貼り付けられていた。

「うわあ……すごい」
「父には、新聞記者の真似事だと非難されたものよ」

 雅は差し向かいに腰を下ろすと、自虐的に笑った。近づきにくい人物だとばかり思っていたが、実はそうでもないらしい。環は少しだけ安堵をした。

「すでにご存じでしょうけれど、被害者は皆、白薔薇会に所属する令嬢たち。はじめて事件が公になったのは、四か月前。これまでに十五人も失踪しているの」
「十五……」
「今月に至っては、まだ月も半ばだというのに七人も失踪している。そのうちの一人が瑠璃子」

 新聞には‟マタシテモ令嬢失踪″と大きく印字されている。どの記事をみても、有力な手掛かりはないということだった。さらに直近のものに至っては‟奇々怪々ノ仕業デハナイカ″と報じられている。環は、ぐっと唇を結んだ。

「わたくしは、一刻もはやく犯人を見つけ出し、瑠璃子を救いたいの」
「そう……ですね。なにか、手がかりがあれば……」
「あなたは――環さんは、人ならざるものの気配がお分かりなのでしょう? であれば、富永の屋敷を調べてみるのはどうかしら」

 なるほど、その手があったか。なにかしら気配が残っていれば、あとを辿られるかもしれない。

「わ、分かりました」
「そうと決まれば、日を変えて出向きましょう。後日お手紙をお送りするわ。お住まいは――」

 まさか人見知りで陰気な環が、こうも気が強そうな令嬢と協力関係になるとは。恐ろしいような、どきどきと胸が高鳴るような、不思議な心地がした。

「あ、あの……今は、九條邸で暮らして、いるのです」
「九條!?」

 なにかよくないことを言ってしまったのだろうか。雅は驚いて椅子からずり落ちてしまった。

「ま、まさかとは思うけれど……環さんって」
「そ、その、九條周さんの、こ、婚約者を……させて、いただいて、います」

 内容に間違いはない。一時的ではあるが、環は周と婚約関係にある。

「ごっほん、ごめんなさい。まさか九條殿のご婚約者だったなんて、予想もしていなかったものだから。あの方ったら、冷たい雰囲気をお持ちなのに、よく婚約者が変わるのよね……? そのあたりはご心配ではなくて?」

「そ……それは、大丈夫、です」

 環はまた誤魔化して笑うしかない。周には周の目的があって婚約者を求めていただけで、なにも遊び人だというわけではないのだ。ただ、屋敷は妖の巣窟だ。蝶や花よと大切に育てられた華族令嬢たちの肌にはあわない。

「そう、ならよいのだけど。あの方も随分とご苦労されているわよね。あの年で家督を継いでいらっしゃるなんて」
「……そう、ですね」
「もしかして、九條家にも妖が出るのかしら? 九條殿の元婚約者たちは、不穏な物音がするといって次々に立ち去ったと聞くもの。環さんが怯えないのは、そういう理由があるのではないかしら」

 なかなかどうして、雅は鋭い。自身で調べものをするくらいには洞察力に優れているようだ。白を切る手も考えたが、雅は妖ものに対して寛容なように見えた。

 環は肩をすぼめてごにょごにょと口を開く。

「で、できれば、内密にしていただけると……ありがたいの、ですが」
「ええ、それはもちろんだけれど。ほら、中には九條家の例の事件を悪いように噂する人たちもいるから。……本当に苦労されていると思うわ。きちんとお支えしてさしあげて」
「は、はい」

 立ち上がった雅に続き、環も席を立った。
 この瞬間も‟式″を通して視ているのだろうか。

 周との関係は、この事件が解決するまでの仮初のもの。黒幕をつきとめ、悪事を暴いたそのあとは赤の他人に戻るのだ。


  *


 白薔薇会の令嬢たちによるガーデンティーパーティーが終わりを告げたのち、環は帝都の書店街を練り歩いていた。

 普段は街中に出向くなど考えたくもないのだが、書店めぐりだけは別問題だ。年季の入った建物。筆書きされている店看板が立ち並ぶ。せっかくだから何か見ていこうと浮き足立っていた時、背後からとんとんと肩を叩かれた。

「こんにちは、いつかのお嬢さん」

 びくっと体を震わせて振り返る。

 そこには、周とドレス選びに出かけた際に遭遇した、ひと際華やかな軍人が立っていた。
 たしか、気をつけろと念押されていた人物だ。軍人らしからぬ亜麻色の長髪。今日も花飾りをつけて後ろで一つに編み込まれている。今は公務中ではないのだろうか、軍服をそのように着崩していて問題はないものか。

(お名前はたしか……藤峰静香さんといったような)

 ふわりと鼻につくのは香水だろうか。品のある、しかしどこか柔らかくて優しい花の香りがする。
 男の、しかも軍人がつけるとは驚いたが、上官に叱られたりはしないのだろうか。

 藤峰はにっこりと目を細め、環の顔を覗き込んでくる。
 余計なことを口走らないうちにさっさと退却すべきだ。

「あ、あああ、あの」
「お嬢さん、白薔薇会ではうまくやっていけているかな?」
「えっ? あ、はい?」
「見たところ、お茶会帰りかな。送り迎えの方はいないのかい? こんなご時世だというのに、ご令嬢を一人で帰らせるだなんて冷たい当主がいるものだ」

 やれやれ、と両手を広げて項垂れる藤峰。違う。誤解だ。周からは、帰りの車も出してやると提案を受けたのだが、どうせなら書店巡りがしたいと思ったがために環が断ったのだ。

「ちっ、違います! 周さんはつっ、冷たい人じゃ……な、ないです!」

 なぜ、咄嗟に弁解してしまったのだろう。周はどうみても冷淡で、合理的な人間だ。環だってそう思っているはずなのに、よく知りもしない他人から一言で片付けられるのは気に食わなかった。

「こ、これは、私が無理をいって、勝手に……」
「おや、必死だ。かわいらしい小鳥のようだね。でも、そうだなあ、年頃の令嬢を一人きりにしておくのはやはり、よくない。たとえば、僕がお近づきになってもかまわないということだからね」

 胡散臭い笑みがずい、と近づく。環はひいっと声を漏らし、二、三歩後ずさった。
 巡回の途中ではないのだろうか。こんな場所で暇を潰していてはいけないはずなのに。

「私に近寄っても、なっ、なにもよいことは、ない、です」
「そうかなあ? たとえば、白薔薇会の令嬢失踪事件について──何か聞けるかもしれないとは思っているのだけれど」
「……え?」

 深淵をのぞくかのように、すう、と目が細められる。環はごくりと生唾をのみ、押し固まった。
 やはり、帝都妖撲滅特殊部隊も、一連の失踪事件の犯人は妖なのではないかと疑っているのだ。

「手がかりについて、お嬢さんは何かご存知ではないのかな」
「そ、そんなもの……し、知りません」
「帝都警察があれほど調査をしているのにもかかわらず、何も証拠が出てこないなんて……有りえると思う? ここまで尻尾を出さないのならば、いっそのこと、神隠しの類なのではないかと考えてしまうよね」

 物腰が柔らかくて飄々としているが、言葉の節々はまるで鋭利な刃物のようだ。
 環はびくびくと肩を震わせ、ひたすらに俯いて黙った。マダラが影の中から出てこないのは、見識の才のある藤峰に悟られてしまうためだ。
 おそらくは、藤峰の出方を伺っているのかもしれない。

「だから、ね。僕とこれから喫茶店でもどうかな。ああ、ミルクパーラーでもいいよ?」

 気さくに誘いかけているが、その先には優しさの欠片もない尋問が待っているような気さえする。
 藤峰が環の手を取った時、辺りに高潔な革靴の音が鳴り響いた。

「──私の婚約者に何をしている」

 この氷のように冷ややかな声の主は振り返らずとも分かる。背後から腕を引かれ、環はすっぽりと何かに収まった。
 それが胸もとであると理解した途端に、慌てて顔を上げる。そこには、洋風のシャツに、濡羽色の羽織りを重ねた周が立っていた。
 血の気の通っていない陶器のような肌は、今にも日光により透けてしまいそうだ。

(ど……どうして、いつの間にいらしていたの)

 環は疑問に思ったが、‟式‟をつけられているのだから、周には環がどこで何をしているのかが筒抜けだった。

「おや、これはこれは、九條殿ではないか」
「私の婚約者に、あまりかまわないでいただきたいのだが」
「君が女性にそこまで執着するなんて、はじめてなような気がするよ。そのお嬢さんは、これまでのご令嬢とは違って――何か特別なのかな」

 藤峰が含みをこめて笑う。

(ど……どうしよう、ただの婚約関係ではないって、見透かされてしまった?)

 周は環の肩を抱いたまま、無言の視線を向けている。

「君の婚約者は三日と持たずに変わっていたけれど、その誰に関しても興味関心は薄いようだったし。僕が彼女たちに軽薄に声をかけても、眉一つ動かさなかった君が、ねえ」

 やはり、疑われているのだ、と環はびくびく震えた。できるだけ怪しまれないように振舞わねばならないというのに、これではまるで信憑性に欠ける。

「おっと、そんな怖い顔をしないでおくれよ。ちょっとからかっただけじゃないか。それにしても、令嬢が頻繁に失踪しているというのに、一人で街を歩かせるなんて危機感が足りていないのではないかな」

 軍人らしくない華やかな男は、微笑んでいるようでも瞳の奥は笑っていないのだ。じっと環を見つめると、ああ、と何かに気づいたように声をあげる。

「……それとも、何か、一連の事件の犯人に、襲われないといえるような確証でもあるのか」
「そっ、そんなことは……ない、です。私が、勝手に」

 環は耐え切れずに反論をしたが、周によって静かに制された。

「もともと、私が迎えにゆくつもりだった。それよりも、あなたの勝手な妄想を押し付けないでくれないか」
「妄想とは、随分と手厳しいね」
「手厳しい? あなたこそ、他人の婚約者をいったいどこに連れてゆく気だったのか。些か行儀が悪いのではないだろうか」
「おやおや、君がそこまで怒るとは……面白いものを見た気がするよ」

 ぴり、と張り詰めた空気が漂う。これは鬼特有の妖力ではなかったが、周のものだ。冷ややかな殺気が向けられると、藤峰は降参とばかりに肩を落とした。

「それじゃあ、僕はおとなしく巡回に戻るとするかな。君に殺されたくはないし」

 亜麻色の長い髪がふわりと揺れる。あの端麗な容姿に世の女たちは骨抜きにされるのだろう、と環は思った。

「それにしても、君はそちらのお嬢さんを大層気に入っているみたいだね。今までにない反応だ」
「……くどいぞ」
「お嬢さんも、一人歩きには用心しなよ。そろそろ逢魔時だ。――人ならざるものに、連れ去られないように、ね」

 藤峰は踵を返して路地裏に入っていった。ほっと胸を撫でおろしたのも束の間、環は自身が置かれている状況を理解して我に返る。
 環の肩を周が抱き寄せ、破廉恥にも胸もとにしなだれかかっているような状態。しかも、このような街中で……だ。通行人の視線が、先ほどから痛いほどに突き刺さっている。

「ああああ、あの!」

 はくはくと唇を開け閉めする環へと、冷ややかな視線が落ちてくる。依然、腕を離してはくれずに。

「ああっ、えっと、その、あの」
「私は、気をつけろと言ったはずだが」
「え?」
「藤峰のことだ。あまり隙を見せるな」

 怒っている――と、環は直感で悟った。役立たず、足手まとい、愚図……などと思われているに違いない。

「ご、ごめんなさい……」

 周の腕の中で環はごみょごみょと謝罪をした。すると、環の影の中からマダラの気配が現れ出てくる。

『それにしても、あいつ……オレは苦手だな』
「マダラ……」
『妙に勘が鋭いっていうか、気が抜けねえっていうか』

 ぴょんぴょんと環の肩の上に乗ると、げしげしと周の手元を踏みつけている。

『おい、いつまでいちゃついてんだよ! あんまり環を困らせんなよな!』
「いちゃ……⁉」

 そんなつもりは微塵もなかったのだが。慌てて周囲を見回すと、貴婦人たちが口元を手で押さえてくすくす笑っているではないか。妖力を抑えているため、もちろん、彼女たちにはマダラの姿は見えてはいない。

「婚約者なのだから、何も問題はないはずだ」
『くうう、きざったらしいぜ! むかつくな!』

 悪びれもなく返答をする周と対し、マダラは悔しそうにむくれている。たしかに問題はないのだが、いや、そういうわけではなくて。

「環、あまりあなたの行動を制限するつもりはないのだが、あまり不用心にいられては困る」
「は……はい」
「分かったのなら、いい。それよりも、茶会ではご苦労だった」

 周は環の肩を抱いたまま、石畳の道を進んでゆく。停車していたタクシーを呼びつけると、環を先に乗車させる。
 運転手を見て驚く。人間になりきっているようだったが、男は河童だった。

『九條の旦那、今日はどちらまで?』
「自宅まで頼む」
『あいよ! 任せときな!』

 周は馴染みの客なのだろう。このタクシーは人間相手でも乗せているのだろうか、と環は気になったが、今は茶会での出来事についてが先決だ。
 帝都の街並みが移り変わり、車窓の景色は閑静な住宅街が映り込む。

「綾小路雅さんと、一緒に事件を追うことに、なっ、なりました」
「ああ、視ていた」
「で、ですよね。説明は、いっ、いらないと思いますが、つい先日失踪した富永瑠璃子さんは、し、白薔薇会の令嬢……たちと、おっ、オペラを見た帰りに攫われたそう、で、今度、お屋敷を調べることに、なりました」

 自動車の走行音を右から左へと聞き流す。周の月のような瞳が向けられ、環はどぎまぎした。

「大手柄だ。よくやった」
「え、えへへ……」

 褒められ慣れていないせいか、少しばかり気恥ずかしくなる。周の言葉は一見すると淡泊のようだが、嘘偽りがない。環がもじもじしていると、肩に乗っているマダラが面白くなさそうにむくれている。

「マダラも、ひと役かっていたようだ」
『なんだい、おまけみたいによ!』

 マダラがぴょんと環の膝の上に飛び乗った。肉付きが言い分、そのまま抱き締めると、抱き枕のようで気持ちがいい。

「富永邸には、先日、帝都妖撲滅特殊部隊も立ち入り調査をしているようだ。だが、これといって妖ものの痕跡は見つけられなかったという」
「そ、そうだったんですね」
「あやつらの目は完全ではない。いくら霊力に優れていようとも、見えるものと見えないものはある。しかし環の目であれば、わずかな痕跡をも見出せるだろう」

 周は淡々と述べると、移り行く景色を眺めた。

「私が直接出向くことも考えたのだが、特段富永家との縁もない。動機付けが足りないと思っていたところだった」
「そ……そうです、よね。何か、見つかるといいの、ですが」
「藤峰がいい例で、軍部もあちこちを嗅ぎまわっているようだ。実際に、疑わしいからという理由で妖どもが消されている」
「そ、そんな!」

 環が声を上げると、運転手の河童も重たげにため息をついた。

『もともと、軍部はもっと寛容だったんですけどねえ。ここ最近は、生きづらいってなんの』

 聞けば、河童は出稼ぎをしに帝都まで下りてきているらしい。化け狐の口入れ屋のようにうまく人間社会に溶け込んでいる類の妖であるようだ。

『軍部だけじゃなくて、危なげな妖もうろついているみてえで。そいつについていった妖どもは、どこかおかしくなって帰ってくるようだから、旦那たちも気ぃつけな!』

 住宅街の角を曲がり、見慣れた風景が現れる。この道を進めば九條邸だ――とほっと胸を撫でおろしたのも束の間だった。

「そっ、それ、小鬼も同じことを言って、いました」
『んあ? 小鬼? あいつらはいつも腹を空かせてやがるからな、うますぎる誘いにひょいひょい乗っちまう』

 マントを被って容姿を隠していたというが、ここまで手の込んだ犯行を企てるとは、それなりに上位の妖であるのだろう。環が眉を顰めていると、隣から視線が向けられた。

「おそらくは、この令嬢の失踪事件はあくまでも手段の一つにすぎないのかもしれない」
「手段?」
「江戸時代より二百年あまり、我が一族を筆頭に築いてきた人間と妖の均衡。それを崩そうと企てている輩と、ゆくゆくは対峙せねばならないということだ」



 九條家の正面に自動車が寄せられ、環はいそいそと降車する。屋敷の中に入っていく環を目で追う周は、猫又のマダラから視線を感じてその場で立ち止まる。

『今回の事件、無事解決できたら、あいつ、もうあんたにかかわらなくてもよくなるんだよな?』

 周は無言の視線を向けた。

『人間だとか、妖だとか、そういうの。あいつが首をつっこむ必要はない。あんたたちで勝手にどんぱちやってくれよな』

 周は考えていた。マダラは環にとってどんな存在なのか。なぜ、この不思議な気をもつ猫又の妖が環のそばについているのか。そこには明確な理由があるのだろうが、あえて聞かずにいた。

「環は、水戸の華族――九重家の隠し子であることを、あなたはあらかじめ知っていたのだろう」

 だが、この際、裏で調べ上げていた事実を確認するのもやぶさかではないだろう。素性の知れない娘を屋敷で野放しにするほど、周は愚鈍ではない。本人は何故か自覚がないようだが、戸籍を調べ上げたところ、紛れもなく九重家の血を引いている事実が露呈した。

 なぜ、人間をああまで避け、種族の異なる妖に気を許しているのか。これまではどのような暮らしをしていたのか。
 それとなく水戸九重家に手紙を出してみたが、知らないの一点張りであり、環の存在はなかったものとされていた。なぜか。
 おそらくは、長年付き従っているマダラが知っている、と周は確信している。

『おまえには関係のねえ話だ』
「関係ならあるだろう。契約上とはいえ、私は彼女の婚約者だ」
『けっ、やっぱきざったらしいな、お前』
「とぼけるな。なにか知っているのだろう」

 空が橙色に染まり、夜が訪れようとしている。昼と夜の間――常世と現世の気が不安定になる時間帯。逢魔時だ。

『どうでもいいだろう、そんなもの。お前にとって、環ってなんだ? 都合のいい手駒のように考えているんだったら、なおさら教えてやる義理もないね』
「……」
『ただでさえ、あんたは鬼族の生き残りなんだ。あんたみたいな奴が傍にいられたら、環の平穏は守られちゃくれない』

 マダラはそれだけ言い捨てて、屋敷の中へと入ってしまう。
 周は己の心境の変化に気づいていた。これまでのどの令嬢にも執着をしなかった周だが、環のこととなると考えずとも体が動く時がある。おそらくは、それなりに気に入っているのだろうとは思っていたが、それだけではない。

 痛みのない黒髪に触れたくなり、手放すのが口惜しいとすら感じている。気が小さいようで、突拍子のない行動をとる。常に何かに怯えたような目をしているかと思えば、好ましいものには転じて硝子のような輝かしい目を向ける。奇想天外な娘を、己の預かり知れぬ場所に置いておきたくはない。

 鬼族――か。

 周は自身の手のひらを見つめ、鋭く目を細めた。同胞が斬殺され、一度はこの世を恨んだ。鬼族に与えられた使命に辟易し、すべてを敵のように思った。
 そんな幼き周を救った恩人との約束を、かならずや果たさねばならない。人間と妖。異なる種族がなす渦の中に、環を巻き込んでしまいたいと思う己自身を、愚かだと思った。


  *

「それで……あの、どうして九條様も?」

 数日経ち、環のもとに雅から手紙が届いた。約束の日曜日となり、集合場所として指定されていた富永家に到着するとすでに雅の姿があったのだった。
 自動車から降りた環を確認したのち、続いて現れた人物を前にしてぎょっとしている。

「いきなり押しかけてしまってすまない」
「い、いえ……わたくしはその、かまわないのですが」

 環はびくびくと肩をすくめた。雅の視線がちらと環に向けられるたび、気まずい気持ちになる。それにしても、周がついてきてしまって本当に問題はなかったのだろうか。

「かねてより私も、ご令嬢の失踪事件を調べていた。それでちょうど今日、綾小路殿と約束をしているというものだから、今回は無理をいって同行させていただいた次第なのだが、邪魔だっただろうか」
「い、いいえ……! 九條殿のお力添えをいただけるだなんて、むしろ心強いかぎりですわ」

 とはいえ、富永家の者たちも周が訪れるとは予期もしていないのだろう。環はびくびくと震えながら押し黙った。
 富永家の邸宅は、和風の建築が施されていて、九條邸や綾小路邸とも異なる堅実な雰囲気が漂っていた。雅から聞くところによると、伝統的な書院造や数寄屋造を継承しつつも、内部には洋風の応接間を設けている和洋折衷を取り入れた近代和風建築であるそうだ。
 ほどなくして富永家の当主と奥方が姿を現すと、環はとっさに周の背後に身を隠した。

「これはこれは、九條殿までいらっしゃるとは!」
「お噂はかねがね聞き及んでおりますわ。この度は瑠璃子のために、本当に感謝いたします」

 やはり、周の来訪に驚いている様子であった。奥方に至っては涙ぐんでいる始末だ。

「事前にお話をさせていただいたとおり、このお屋敷を少し、調べさせていただきたいと思っているのですが、よろしいかしら?」

 びくびくしている環とは対照的に、雅は勇敢だ。自分よりも二回り以上目上の人間に対してでも、臆することなく堂々としている。環には真似はできないだろう。

「もちろんだとも。何か少しでも手がかりが見つかればと思っている」
「ああ、瑠璃子……お願いだから、はやく戻ってきてちょうだい」
「とにかく、屋敷の中は好きに見ていただいて結構だ。とはいえ、先日も軍部の方々が隅々まで調査されていたのだがね」

 当主はため息をつき、中に入るようにと促した。周の背に隠れつつも、環も富永家の敷居を跨ぐ。その刹那のことだ。環は微妙な気の変化を肌で実感した。並みの者には察知できぬ微弱な痕跡。
 それは周も同様のようだ。無言のまま足を止め、周囲を見回している。――やはり、何かがある。

「どうかされたのかしら? お二人とも」

 雅が問いかけると、環はおずおずと口を開いた。

「す、すごく僅かですが……妙な気配が、あっ、あります」
「それは、本当に?」

 何度か頷き、環は周と同様にしきりに屋敷中を見回す。ほんのわずかではあるが、絡みつくような気配だ。

「瑠璃子様の、お、お部屋は、ど、どちらでしょうか」

 この屋敷には妖もの、それ自体はおそらくはいない。すでにここは用済みとなったというところか。いわばこれは、妖ものが残していった痕跡なのだろう。

「こっちよ。ついてきて」

 雅が踵をかえすと、和と洋が混在する廊下を突き進む。左手に伝統的な枯山水の庭園を望みながら、天井には近代的な電燈が灯されている。

 やはり、ここにもわずかな妖ものの痕跡を感じる。身動きをとると勝手に体に纏わりつく――糸のような。

「ここが瑠璃子の部屋よ。どう? 何か不自然な点はあるかしら」

 雅により案内された部屋には、令嬢界隈で人気だという【乙女時代】がずらりと並んでいる。一見すると、何の変哲もない年ごろの娘の私室ではあるが。

「これは……」

 畳の片隅にきらりと光るものを見つける。一瞬、瑠璃子の髪の毛かと思ったが、よく見ればそうではない。細長い糸状のもの。手に持てば、光を反射をした。

「蜘蛛の、糸……」
「蜘蛛?」

 嫌な予感がして周を見つめると、鋭く目を細めて天井を見上げている。

「おそらくは、ここは蜘蛛の巣の一部だった」

 環はこくりと頷き、考えを巡らせた。瑠璃子の失踪には、やはり妖が関与している。ここにはもういないとなると、黒幕はどこに身を隠しているのか。おそらくは、人目につかない場所に拠点を設け、次の罠を張る策を巡らせているはずだ。

「それも、ただの……蜘蛛では、ない。蜘蛛は、ここまで知略的に巣を作れ、ない」
「蜘蛛というのは、やはり、妖ものやモノノケの仕業だった……ということで、あっていたのね?」
「おっ……おそらくは。で、でも、どうして、白薔薇会の令嬢ばかりが、狙われているんだろう」

 腹を空かせた妖ものにとって、人間の、しかも若い女はこの上ないご馳走だ。狙うのならば、帝都中の娘たちをかたっぱしから攫えばよい話なのだ。それなのに何故、このような巣まで作り上げ、かつ、入念に痕跡まで消し去る手段までとっているのか。

 まるで、あえて白薔薇会の令嬢に狙いを定めにいっているようではないか。なんのために? どうやって? 無作為に獲物を選んでいるのではないとすれば、蜘蛛はどのようにして、白薔薇会の令嬢だけを攫っているのだろうか。

 しかも、瑠璃子に至っては白薔薇会の令嬢たちとオペラを鑑賞した帰りに失踪している。普段からいくらでも狙える機会はあったはずなのに、なぜ、そこで攫ったのだろうか。

 環は目を細めて、部屋中をよく観察する。すると、意識しなくては分からないような細い糸が張り巡らされてあるではないか。糸は天井へと伸び、どこかへと繋がっているような気配がした。

「まだわずかに、糸が残ってる……ここが、巣の一部なのだと、したら……伸びている先に、きっと、根城がある」
「そ、そんなことが、できるのかしら」
「や、やってみないと、分からない……ですが」

 環がおどおどと口ごもると、周は無言で天井へと手をかざした。何をしているのかとしばらく見つめていると、指の先から冷たい炎を出しているではないか。雅がいる前で何をしているのかとぎょっとしたが、当の本人には見えていないらしい。

 人間の目には映らない――妖ものの力。鬼火だ。

 おどろおどろしい炎はたちまち、糸をつたってゆく。屋敷の天井裏に入ってゆき、そこからどこまで伸びているのかは周のみぞ知るところであったが。

「なるほど……灯台下暗しということか」

 すっと手のひらをおろした周は、低い声で告げた。

「この蜘蛛の糸は、栗花落の屋敷に向かって伸びているようだ」

 環は己の耳を疑った。栗花落――とは、白薔薇会に所属している栗花落玲子のことで間違いはないのだろう。
 雅も何を言っているのか理解ができないとばかりに動揺をしている。

「栗花落……? いったいどうして、手をかざしただけで、そのようなことがお分かりになるのでしょう」

 当然ではあるが、雅には鬼火が見えていない。そればかりか、周が実は鬼族であることも知り及んでいないのだ。
 なんと説明すべきかとおろおろする環をよそに、周は冷静沈着だ。

「怯えさせてしまってはいけないと思って黙っていたのだが、実はこの手の気を読むのが得意なんだ」
「そ、そうでいらしたのですか……九條殿も」
「驚かせてしまってすまない。できれば、このことは他言無用でいただけると大変助かる」

 雅は何度か瞬きをすると、やけに納得したようにうなずいた。

「もちろん、お約束いたしますわ」
「……恩にきる」
「それで、玲子さんのお屋敷に向かって蜘蛛の糸とやらが伸びているとは、誠なのでございましょうか」

 環も信じがたいと思ってしまうくらいには、玲子からは少しも妖ものの気を感じなかったのだ。玲子自身は紛れもなく人間であり、妖ものが化けているようにも感じなかった。
 玲子の知り及ばない場所に蜘蛛が巣くっているとでもいうのだろうか。

「天井から地下道へと伸びる糸を辿ったが、日比谷にある栗花落邸に通じていた。それも、栗花落の屋敷を中心に、帝都中の屋敷へと蜘蛛の糸が張り巡らされている」
「そんな……!」
「一連の令嬢失踪事件の黒幕の根城であることは、まず間違いないだろう」

 愕然とする雅は、へなへなと腰を抜かしてしまった。

「で、では……瑠璃子や、失踪をしているほかの令嬢たちは……」
「生きているのならば、栗花落邸にいるはずだ」
「そんな、であれば、玲子さんはどうしてあのように穏やかに笑って……」

 環が解せないのはその点だった。玲子は本当に何も知らないのか。それとも、なんらかの事情があって妖に与しているのか。
 いずれにせよ、玲子に近づいてみる以外に方法はないようだ。

「わ……わ、私が、囮になるのは、い……いかがでしょう、か」

 環にしては妙案だと思ったのだが、周は眉を顰めて難し気な表情を浮かべている。人質がいる以上は、正面突破は良作ではない。もし、囚われている令嬢たちが生きているのであれば、自らが餌として捕まれることで救出する機会を見出せるかもしれないと考えたのだが。

『何も、環がそこまでする必要、あるのかよ』

 そこでしばらく黙っていたマダラの声が脳内に響く。
(で、でも……見殺しにする、わけには……)
『だけど、環には関係のねえ奴らだ。生きていようが死んでいようが、正直なところ、知ったこっちゃねえな』
(ううう……でも、それって後味が悪いよ)
『これまでの探偵ごっことはわけがちげえんだ。そもそも、根城が分かったんだから、もう環が出張る必要はねえって』

 脳内で交わすやりとりは、雅には聞こえていない。ここにきてマダラが協力的ではないとは、環にとっては想定外だった。

 人間はたしかに怖い。嘘をつき、裏切り、搾取する生き物だ。だからできれば、関わり合いにはなりたくない。今もそう思っているはずなのだが、環はいったい何にそこまで突き動かされているのか。

「な、何をおっしゃっているの。そ、そんなの危険だわ」
「で、でも……ほかに良い手が、う、浮かばないというか」
「であれば、わたくしが参ります。蜘蛛とやらになど屈しないわ」
「い、いくらなんでも……雅様を囮にするわけには……」

 びくびくと肩をすくめていると、背後から冷たい視線を感じた。

「囮はいい。私の方で策を練ろう」
「……え」
「――帰るぞ。綾小路殿も、お屋敷までお送りしよう」

 氷のように張り詰めた鋭い視線だった。名案だと褒められるのではないかと思っていたのに、周は静かに怒っていたのだ。

 環は物心がついた時より、人ならざるものを見ることができた。それらは環にいたずらをすることもあったし、寂しい時の話し相手になってくれることもあった。

 環は、幼少時代を座敷牢で過ごした。土蔵が厳重に仕切られ、施錠され、今が昼なのか夜なのかすら分からないような場所で、いったいどのくらいの時間を過ごしていたのだろう。暗くて、怖くて、寂しかった。

 冬は凍えるほどに寒く、夏は蒸し風呂のように暑い。そんな場所でただじっと耐え忍んでいると、ついに、座敷牢の施錠が解かれる時がくる。
 大人たちは環を外に連れ出すと、人目を避けるように薄暗い道を進んでゆく。木々の背後に隠れている妖怪たちが環をじっと見ていた。環が声をかけると妖怪たちは消えてしまったが、大人たちを見れば、まるで恐れおののくように震えあがっていた。

 うねるように生い茂る林道の先、ぼんやりと灯されている提灯が見えた。座敷牢の中は狭くて暗かったが、外の世界をはじめて知れて、環は嬉しかった。

 環が「どこに行くのか」と尋ねると、大人たちは優しそうな笑みを浮かべて「うまいものがたらふく食べられるところだよ」と答えた。環はなおのこと嬉しく思った。親切な大人たちが環を外に出してくれたのだ。

 どのくらい歩いたことか。やがて、環は見知らぬ男たちのもとへ引き渡された。じろじろとした目で環を選別すると、環を四方から取り囲む。
 闇夜に浮かぶ目玉が恐ろしかった。伸びてくる腕が生き物のようにうねって見える。逃げ出そうとする環を、大人たちは走って捕獲した。優し気な笑みを浮かべながら「じっとしていなさい、いい子だから」と告げる。

 環には、誰が人間で、誰が妖ものなのかが判別できなかった。いやだ、離して、と訴える環に、大人たちは優しく笑いかけるのだ。不気味だった。恐ろしかった。大人たちは環を座敷牢から連れ出してくれたのではなかったのか。

 伸びてくる手にぶるぶると震える。いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだ。

 ――誰か、‟みんな″!

 刹那、視界が真っ赤になる。ぶちぶちと何かが引き裂かれる音、大人たちの悲鳴が聞こえる。気づけば、あたりに火の手があがっていて、環がたった一人だけその場に立っていた。


  *


 雅を送り届け、九條邸に到着してからもやはり、周はどことなく不機嫌な様子だった。環はそわそわと落ち着かず、広間で茶を飲んでいるぬらりひょんに相談を持ち掛けた。

「周殿はおぬしを大事に思っているからこそ、怒っておられるのだろう」

 だが、ぬらりひょんは面白い話を聞いたとばかりに笑っているではないか。環にとっては深刻な相談をしたつもりだったというのに、真面目に答えてほしいものだ。

「だ、大事、だと……な、なんで、お、怒るのでしょうか……」
「それは、おぬしに自分自身をもっと大切にしてほしいからだろうな」
「よ、よく分かりません……」
「ふむ、おぼこいの、おぼこいの、そうかそうか周殿もようやく……」

 ぬらりひょんは屋敷に上がり込んでは茶を飲んでいるだけで、的確な助言はしてくれなかった。そもそも、この一連の令嬢失踪事件の解決は何よりも先決ではないものか。妖ものを可視できる環が囮になることで、令嬢たちも効率的に救出できる。それの何が良くなかったのだろう。

「そ、それに、マダラも乗り気じゃないみたいで。いつもはもっと調子がいいのに」
「その蜘蛛とやらはおそらく、土蜘蛛で間違いないだろう。あやつは、腹の中に何をため込んでいるのか、予測もできんからな……おぬし一人で向かわせるのは危険じゃろて」
「で、でも」
「しかし、不思議だのう。おぬしは少し前まで、外界との接触を頑なに拒んでいるように見受けられたのだが」

 ぬらりひょんが茶を喉に流し込むと、環はぐっと押し黙った。

「そ、それは、もちろん、できることなら……引きこもって、いたい、です」
「ふむ」
「で、でも……自分でも、わ、分からないの……ですが、わ、私にも、できることがある、ならって、思ってしまう時がある、というか」

 不思議な感覚だった。そうすることで、己自身が何を求めているのか。妖は好きだ。人間は嫌いだ。でも、人間に雅のような裏表のない者もいれば、妖にも土蜘蛛のように悪さをしてしまう者もいる。周ほどの大義名分は背負えないものの、環はこの目で、世界の在り方を確認したいと思ってしまっているのかもしれない。

「ご、ごめんなさい……す、少し、夜風に当たって、きます」

 結局考えはまとまらず、環はその場をあとにした。


 二階のバルコニーに出ると、周の姿があった。環ははっとして引き返そうとしたのだが、何もない場所にけつまずいてその場に尻もちをつく。

 しまった、と冷や汗をかいたのも束の間、振り返った周と目があってしまった。

(きっとまだ怒ってる……)

 気まずい気持ちになり、とっさに俯くと、周がこちらに歩み寄ってくる気配がする。

「ひいい、ごごごご、ごめん、なさい!」
「……ただ手を差し伸べているだけだろう」

 怒られるのだと身構えていたが、頭上からため息が落とされる。恐る恐る見上げると尻もちをついた環に手を差し出している。
 おずおずと手をとって立ち上がると、さらに居たたまれなくなった。

「あ……ありがとう、ございます」
「……」

 再び訪れる沈黙。夜空に浮かんでいる月は、周の美しい横顔を幻想的に照らしている。

「わ、私、その」

 環が口を開きかけると、周の視線がそろりと向けられた。綺麗な指先が伸びてくると、環の長い髪を一束掬い上げる。
 あまりに唐突な行動に、環は呼吸を忘れてしまった。周はそのまま指先を口元に寄せると、環の髪に口づけをした。

「あ、あのっ!」

 はくはくと唇を開け閉めし、動揺が隠せない。だが、周はいたって冷静沈着だった。

「どうして――こうまで腹が立つのか」
「え……?」
「この髪の一本でさえも、何者にも奪われたくはないなどと」

 いったい何を言っているのか。環は頭の中が真っ白になる。

「他の者に食われる前に、いっそ私が、一思いに食ってしまえばいいものか」

 やはり――怒っているのだ。鋭く伸びてゆく爪が、環の首筋につきつけられる。犬歯は鋭く尖り、額からは一対の角が現れた。鬼の姿に変貌を遂げた周は、環を冷たく見据えた。

「奪われなければ、よいの、ですか」
「……」
「きっと、うまく……やります。そうしたら、褒めては、くれないの、ですか」

 周ならば上出来だと言ってくれるものだと思っていた。環を認めてくれると思っていた。あれほど他者を拒絶していたはずであったのに、ここ最近はなぜか、自身を承認されるようで嬉しかったのだ。

 だから、このように冷たい目を向けられると胸が痛んだ。悲しい。なぜ? 分からない。

「私は、足手まとい……ですか」
「……」
「もう、用済み、ですか」

 婚約者のふりをして令嬢界隈に潜り込むなど御免だと思っていた。厄介な仕事を引き受けてしまったものだと後悔をしていたはずだ。早々に手がかりを見つけて、暇をもらおうと考えていたのに、環の気持ちは揺らいでいる。

 周はしばらく沈黙を貫くと、そっと環を抱き寄せる。

「違う。そうではないから、腹が立っているんだ」
「え……?」
「私には、あなたが必要だ」
 必要――。その言葉が環の胸にしみ込んだ。

 マダラをはじめとした妖に囲まれて暮らしていた頃には得られなかった感情だ。周も鬼であり、妖であるというのに、この違いは何であるのか。

 環と周の間を夜風が抜けていくと、呆れかえったようなため息が聞こえてきた。

『まったく……かゆすぎるったらありゃしねえな』

 マダラだ。
 はっと我にかえると、屋根の上でかったるそうに毛づくろいをしているではないか。

『ようは、オレがついてりゃいいんだろ』
「マダラ……?」
『何も環が出張る必要はねえという気持ちは変わらない。だけど、それだとお前、煮え切らないんだろ』

 マダラは環の心中を察しているのだろうか。本音では気が進まないといった具合ではあったが、あくまでも環の考えを尊重してくれている。

『周、お前もそう癇癪を起すなよ。周りの妖怪たちがびびっていやがる』
「……」
『オレも環と一緒に蜘蛛の巣に潜り込んでやる。それで、攫われた人間の娘も助けるし、土蜘蛛も倒す――万事解決だ』

 えっへんと胸を張っているマダラを見て、環はほっと胸を撫でおろした。

(よかった……一緒にきてくれるんだ)

 だが、それも束の間。周の表情は依然として氷のように冷たいままだった。

『おまえさ……いったい何が不満なんだよ。オレがいるかぎり、こいつに危険はねえってんだから、それでいいだろ』
「ま、マダラ」
『そんで、ちゃちゃっと事件を解決して、環はもとの暮らしに戻る。もう鬼族の婚約者……なんて大層なもんを背負わなくて済むってもんだ』

 すると、ぱりぱりぱり……と凍てつく氷が砕けるような音がする。
 マダラが楽天的に口にする傍らで、周から静かな妖気が立ち上る。

(周さん……?)

『そんな物騒なもんを出すなよ……オレだって、環を守らなきゃならないんだ』
「あ、周さん」
『そういうことだから、いくぞ、環』

 マダラはそう告げると、すたすたと屋敷の中へ戻ってしまう。環は慌てて追いかけようと試みたが、後ろ髪を引かれて後方を振り返った。
 環は結局、己自身の気持ちすら理解できていない。自分が何をしたいのか、どうありたいのか、ぐちゃぐちゃに混ざってしまって、心と体が分離してしまう。

 解が明確である算術とは違うのだ。やはり、意思のある他者と関わりあうことは、環には向いていない。自分以外の他者の心中を寸分の狂いもなく理解できたのなら、苦労はしないのだ。分からないことは気持ち悪い。すっきりしない。だから、環は孤独を好んだ。だが――どうして、説明のできぬ物体が胸の中に居座り続けるのだろう。


  *


 周と顔を合わせる機会がないまま、数日が経過した。起床して広間に降りるといつもは朝刊を呼んでいる周と挨拶を交わしていたはずなのに、その場にいるのはぬらりひょんのみだ。
 腹を空かせて朝食に飛びつくマダラを横目に、環は少しだけ寂しさを抱く。

「ひょっひょっひょっ、若いとは羨ましいことだのう」
「え?」
「生きていれば、思い通りにならないことの方がほとんど。常に悩ましいと感じながら進むしかないのだろう」

 ぬらりひょんは飄々と笑っている。環には何を言っているのかが理解できなかった。

「それに、わしにしてみれば、周殿もまだまだ尻が青い。まるで赤子のようなものよ」
「えっと……」
「あと五百歳若ければのう、わしも助太刀のひとつやふたつ、できただろうに。この老いぼれでは、土蜘蛛の相手はつとまらないのじゃ。すまないのう」

 そう言って、ぬらりひょんは再び茶を喉に流し込んだ。

(ぬらりひょんさんって、いったいいくつなんだろう……)

 今のところ、屋敷に上がり込んでは茶を飲んでいる姿しか見ていない。百鬼夜行の総大将とも名高いぬらりひょんだが、実際に目の前にいる妖は、少しばかり頼りないようにも見えた。

「マダラは、ほ、本当についてきて、くれるの?」
『んあ? だから、ついていくって言ってんだろ』
「つ……土蜘蛛って、かなり、強い、みたいだし。その……う、うまくやれるかなって、急に、し、心配になって」
『ったく、オレを誰だと思ってるんだよ! 土蜘蛛なんて、けちょんけちょんにしてやるさ』

 食事にがっついていたマダラは、不満そうに眉をひそめた。

『白薔薇会のサロンってもんが、明日開催されるんだろ? 栗花落玲子って人間の娘に近づいて、どさくさに紛れて屋敷に潜り込む絶好の機会じゃねえか』
「う……うん、そう、なんだけど」
『こうなったら、はやいところ解決しちまおうぜ。ここの食いもんにありつけなくなるのは惜しいけどよ』

 環はこくりと頷き、黙り込んだ。
 はじめばかりは給金目当てであった。図書室を好きに使用できるという旨味につられてしまっただけだった。しかし、後出しで明かされた華族当主の婚約者という役目は、環には荷が重く、一刻もはやく開放されたい気持ちでいた。
 それなのに、環の心は晴れやかではない。むしろ、周と顔を合わせず仕舞いである事実にやきもきしている自分がいる。

「そうか、この一件が解決すれば、おぬしはここを去ってしまうのか」
「……」
「ここに住まう妖ものたちも、ここ最近は楽しげだったのだが。ふむ、寂しくなるのう……」

 環は静かに席ち、図書室に引きこもった。小難しい学術書を開いては、いくつもの設問を解き明かす。
 いつもは満ち足りる気分になるのに、この日ばかりは靄が晴れることはなかった。

  *

「そ……それで、本当に、雅様も?」
「ええ、もちろんよ」

 翌日。帝都某所にて、白薔薇会のサロンが開催された。華族令嬢たちが話に花を咲かせている片隅で、環と雅は神妙な面持ちで向き合う。

 この日もとうとう周と顔を合わせる機会はなく、環の独断で作戦が決行されるに至ってしまった。

 環の影の中にはマダラが隠れている。いざとなれば、マダラが飛び出してくれるという心強さこそはあれど、結局、了承を得られていないままだ。うじうじと悩んでいると、環のもとへ勇ましいかぎりの綾小路雅が現れたのだった。

「瑠璃子が囚われているのよ? それなのに、何もせずにただ指を咥えて待っていろというの?」
「で、でも……さすがに、き、危険なので」
「そんなことは百も承知よ。でもね、こればかりは譲れない。大事な友達が危険に瀕しているというのに、わたくしだけが安全な場所にいるだなんて。美学に反する」
「美学とか……こだわっている、場合じゃ、ないと思います……」

 環はぶるぶると震えながら、雅と対峙をする。だが、いくら諭しても聞き入れてはくれないようだ。

「いいから、わたくしもついていく。そもそもあなた、玲子さんと接点はないじゃない。わたくしがいなくては、お屋敷に招いてもくれないわ」
「うっ……! た、たしかに」
「爵位などくだらないと思っていたけれど、この時ばかりはこの公爵家という肩書きも役に立つものね」

 ふん、と息を吐き、雅はやるせない様子で両手を広げる。環には分からない世界だが、煌びやかに思える華族にもいろいろと込み入った事情があるのだろう。

「それにしても、栗花落邸に蜘蛛が住み憑いているだなんて……未だに信じられないわ」
「そう……ですね。あの場にいらっしゃる玲子様は、ちゃ、ちゃんと、に、人間のようですので。妖の気配は、少しも感じられない……」
「いずれにせよ、この目で確かめるに越したことはないわ。たとえ、危険を冒してでも。……瑠璃子やほかの令嬢たちのためだもの」

 上品なレコードの音色が響き渡る。可憐な薔薇が咲き誇る場所で、いったい何が潜んでいるのか。
 雅はそう言うと、公爵家令嬢たちが囲んでいる二階席へと上っていった。

「さあ、みなさま、今宵は有意義な時間を過ごしましょう」

 その中心で笑みを浮かべる玲子は、不自然なほどに美しかった。
 令嬢たちはサロンにて政治的な意見の交換を心から楽しんだようだ。解散の合図があり、ちらほらと席を立つ令嬢たちに紛れて、環はそわそわと立ち尽くした。

『あいつ、どこからどう見ても、ただの人間なんだよなあ』

 雅からの指示があり、この場で待つようにとのことだったが、公爵家令嬢を相手にいったいどのように立ち振る舞えばよいものか。

『蜘蛛の糸で操られている……なら、何かしらの痕跡があるはずだろうし。まさか、屋敷に巣を作られてるってのに、気づかないわけはねえもんな』

(う、うん……)

『にしても不気味だな。ふつうだったら、あんなに穏やかに笑っていられねえぞ』

 土蜘蛛の中には時に、人間を蜘蛛の糸で使役するものもいる。だが、それに至るまでには、よほどの人間を腹に蓄えねばならない。ただの土蜘蛛が、これほど知略的に動けるはずがないのだ。

 普通に暮らしていればここまで暴走することもないはずだが、いったいどのようにしてここまでなれ果ててしまったのか。

「環さん、今少しよいかしら」

 しばらくその場に立っていると、背後から声がかけられる。びくっと肩を震わせつつ振り返れば、思っていたとおりの姿があった。

「……こ、こんばんは、雅様、それから……れ、玲子様、まで」

 雅の隣には玲子が微笑んでいる。打合せのとおり、雅が間をとりもってくれたのだ。

「九重環さん、あなたとはいずれ、ゆっくり話してみたいと思っていたところだったのよ」
「いきなりで申し訳ないのだけど、よければ、これから時間を作れないかしら。三人で語り明かしたいと、玲子さんと話していたところなの」

 雅は違和感ひとつない口ぶりで環を誘いかける。ほかの令嬢からすれば、公爵家の玲子や雅から誘いを受けるなど、有頂天になる事案だろう。だが、演技の経験などない環はわざとらしく喜ぶこともできない。

「え……わ、私などと……でしょうか」
「ええ、先日の雅さんの救出劇もお見事でした。よければ、栗花落の屋敷に招待をさせて。友人の窮地を救ってくださったお礼もかねて」

 完璧なまでの笑みを前にして、環はぶるりと背すじを震わせた。はじめて目にした時にも気づいたことだが、玲子の目の下には、やはり大きな隈がある。悠々自適な暮らしをしている華族令嬢と、疲労や寝不足が起因する隈はどうにも結びつかないと思っていたが、土蜘蛛絡みであることは、まず間違いはないようだ。

「あの……えっと」

 視線を巡らせ、うつむいていた顔を上げる。環と目が合うと、玲子は目尻を下げてゆるりと微笑んだ。

「ご、ご招待……謹んでお受け、いたします」


  *

 環と雅は、栗花落家の自動車に乗車し、日比谷にある邸宅までたどり着く。玲子の様子は終始穏やかであり、車内では舶来ものの哲学書の話題で持ちきりだったほどだ。

「環様は博識のようにお見受けいたしますけれど、かのキルケゴールはご存じかしら」

 環は念には念を入れて周囲を警戒していたのだが、一向に妖ものの気配は感じられない。運転手にいたっても、人ならざるものの特徴である妖気は感じられない。ただの人間であるのだ。

「は……はい。‟死に至る病″のキルケゴール、ですよね。読んだことは、あります」
「まあ! 令嬢方は小難しいからといって、今までに読んでいらっしゃる方に巡り合ったことはございませんでしたの。ふふふ……なんていう素晴らしい日でしょう。嬉しいわ」

 キルケゴールとは欧州の哲学者、思想家のことだ。代表著書である‟死に至る病″は読破できない難解な本として有名だ。

 華族令嬢たちはもっぱら、ロマンス小説や女性作家の文学冊子を好むものだと思っていた。もちろん、可憐な風貌の玲子もどちらかというと、その手の書物を好んでいるのかと考えていたが、まさか玲子の口からキルケゴールの名を聞くことになるとは。

「わたくし、キルケゴールの考え方に深い感銘を受けておりますの」
「ぜ、‟絶望の諸段階″のこと、でしょうか……」
「ええ、あなたはこれについてどう考える? 人は、絶望をしてこそ自己を認識できる。そして、その自己を認識したのち、人間はいったいどのようにして救済を求めようともがくのかしら」
「は、はあ……」

 玲子は秀麗な笑みを浮かべている。余るほどの富や名誉を持つ公爵家の令嬢にとって、苦しみなど無縁ではないのか。美しい容姿からは想像もできないような重たい命題である。環はちらちらと雅を見やりながら、どう答えるべきか逡巡した。

「絶望は、人間だけがかかる病気。それは、人間が動物以上の存在である証拠……だけれども、悲しみや苦しみを知らない子が多すぎる……まったくもって、可哀想よ」

 玲子は小さくため息を落とし、嘆いた。
 やはり、可笑しい。目の前に存在しているのは、いびつな美しさだ。花園で紅茶を楽しんでいるような令嬢が、まさかこれほど危険な考えをもつに至っているとは。雅も静かに生唾をのんだ。

「人間が本当に高次元の生き物であるのだとしたら、絶望をしたその先で、真の輝きを見出せるはずなのよ」
「ち……違い、ます。キルケゴールの、‟死に至る病″は、に、人間は、自己意識をもつからこそ、絶望をして、自己を見つめることができる。たくさん挫折をして、主体的に生きることが重要だと、解いている……だから、絶望をするから輝けるのでは、ない……です」

 環は自身の考えを述べながら、ふと、過去の残像が脳裏によみがえる。
 燃え行く森の中でただ一人立ち尽くす幼い環。ひたひたと流れている――人間の血。絶望から目を背けているのは、環自身ではないのか。

 もう誰のことも――信じられないと思い、嘆き、自己に蓋をして生きていた。

「そう……環さんは、そのようにお考えなのですね」
「……」
「残念だわ。きっとあなたとなら、分かり合えると思っていたのだけれど」

 自動車がようやく停止し、栗花落邸に到着する。敷地の中に入った途端、辺りの異様な気を察知し、ぶるりと背すじを震わせた。

(やっぱり、ここに土蜘蛛の巣がある……)

『間違いねえな、いったい何人腹に蓄えてやがるんだ……』

 いつ何が起きてもおかしくはない状況だ。環の影の中にいるマダラの警戒心が強くなった。
 雅に注意を払いながら、環は玲子のあとをついてゆく。

「今日は、あなたたちをとっておきの場所に招待しようと思っているのよ。家の者には秘密にしている……わたくしだけの、ユートピア」
「そう、それはいったいどのような場所なのかしら。楽しみだわ」

 くすりと微笑む玲子をよそに、雅は挑発的な態度で返した。

(せめて、雅様のことは、守らないと……)

 とっておきの場所とは、土蜘蛛の巣であることは間違いない。玲子は正真正銘の人間であり、蜘蛛の糸で操られている痕跡もない。そうなると、妖ものである土蜘蛛に魅せられて、自発的に協力をしていると考えるのが妥当だ。
 無垢な令嬢を屋敷に招き、土蜘蛛の餌として提供している。その過程で得られる人間の‟絶望‟――命の輝きとやらに陶酔しているのだ。

 玲子は凄艶に微笑み、環と雅を地下室へと案内する。その道すがらは、ひどく重く、冷たい瘴気がたちこめていた。呼吸をしているだけで肺が腐ってしまうような、気持ちの悪い空間だった。

『おい、環平気か……これは、ちとやべえな……』

(だ、大丈夫。それよりも、雅様が)

『ったく、なんの耐性もない小娘が、こんな場所に来るべきじゃねえってのによ』

 雅を見やれば、顔を真っ青にしてふらついている。意識もおぼろげな様子であったが、どうにか気力で持ちこたえているようだった。

「環さん、あなたをはじめて目にした時から、わたくしは、大きな悦びを感じていたのよ」
「……悦び?」
「ええ、あなたの目には深い‟絶望″が見えた。華族令嬢には不釣り合いな――深淵に迫る漆黒。悲しみ。嘆き。憤怒。ああ……なんて輝かしいのかしら、と期待に満ち溢れていたのだけれど」

 地下通路は狭く、さらに奥深い場所へと繋がっている。かつての防空壕の名残であったのか、はじめこそは煉瓦造りの壁で囲われていたが、やがて洞窟のように周囲の岩肌が剥き出しになってゆく。

「あなたも、退屈な喜劇を語るのね。よき理解者になってくださると思ったのに……嘆かわしいこと」