環はマカロンというものを初めて口にした。西洋の菓子だというが、どのようにしたらこのような触感が生み出せるのだろう。
 外はさっくりと、内側はとろけるような歯ごたえ。砂糖を入れない紅茶は味気がないと思っていたが、これがあるとちょうどよい塩梅に感じる。
 環は令嬢たちの会話に混ざることなく、黙々と菓子を食べ続けた。

『おい! オレにも少し分けろよ!』

 すると、環の影の中からマダラの声が聞こえてくる。環は周囲を見回してから、マカロンを二つほど地面に落とす。

『ありがとよ! うっひゃあ、なんだこりゃ、こんなうめえ菓子、食ったことねえぞ』

(高級菓子なんだって。和菓子とはちょっと違うよね)

『もう一個! もう一個くれ!』

 中庭の隅っこでこそこそとマカロンを与える。しかし、先ほどから紅茶を何杯も飲んでいたせいで、不浄を催した。
 話に花を咲かせている令嬢たちをよそに、環は真っ青になる。

(ど、どうしよう……誰に、なんていえばいいの)

「あらまあ、では、藤沢様はようやく家督を引き継がれたのですね」
「そうなのです。これからもますますお支えしなくてはなりません」
「それにしても、最近は民本主義……などというものを求める運動が起こっているようですよ」
「存じ上げておりますわ。主に新聞社や小説家がそのような思想を民衆に広めているのだとか……」

 周囲を見回したが、とても声をかけられるような雰囲気ではない。泣きべそをかきそうになった時、ようやく給仕らしき人物を見つけた。
 環はよろよろと席を立つと、何度か躊躇しつつ勇気を振り絞って声をかけた。

「あ……ああああ、あの!」

 勢いあまってしまった。環ははっとして口ごもるが、ほら見ろとばかりに、訝しそうにしているではないか。環は人との距離感を掴むことが苦手だ。

「ど、どうかなされましたでしょうか」
「えっと……そ、そそ、その、紅茶を飲みすぎて、しまって……ご不浄を……拝借したく」

 もじもじする環を見て給仕は、ああ、と納得する。

「承知いたしました。ご案内いたします」
「あああ、あの、ご面倒を、おかけ、します」

 環は先を歩く給仕についていく。邸宅の中には、舶来物なのか見たこともないような壺や絵画が並んでいる。
 あれはたしか、ビリヤードというものだ。環は嗜んだ経験はないが、はいからな遊戯として華族界隈で流行っているのだという。
 環は邸宅の奥へと案内され、一通り使用方法の説明を受けた。

「錠前は扉の裏手にございます」
「は、はい」
「わたくしはこれにて失礼をさせていただきますが、よろしいでしょうか?」
「だ、大丈夫……です。ありがとう、ございました」

 引き返す給仕を横目に、環はほっと安堵をする。やはり、華々しい社交場など環には似合わない。厠のように狭くて、暗い、人が寄り付かないような場所がよほど好ましいと思ったのだった。


 厠から出ると、環は庭先に戻るのが億劫になった。令嬢たちとの会話についていけるはずがなく、中途半端に加わってしまったのならボロが出てしまう。

 そもそも陽の光よりも、薄暗い部屋の中の方が落ち着くのだ。環は重い足取りで正面玄関へと向かうが、その途中で興味を引かれる場所を見つけてしまった。

 この古びた印刷物の香りーー……書庫だ。死んだ魚のような瞳が一転して光を帯びる。

(勝手に入ったら怒られるよね……いいな、読み漁りたい……)

 欲望に突き動かされ、魂が抜けた亡霊のようにそろりそろりと歩みを寄せていた、その時だった。

「どうなされたの、雅さん!」

 二階から悲鳴じみた令嬢の声が聞こえてきた。環が足をとめると、影の中からマダラが現れる。
 バタバタと何やら騒がしい。

『雅って、あのきつめの令嬢だよなあ?』
「うん……なんの騒ぎだろう……」

 公爵家の令嬢たちはバルコニー席でお茶を楽しんでいたはず。それなのに、いったいどうしたというのか。環はびくびくと震えながら、螺旋階段の先を見上げた。

「落ち着いて! お気をたしかに!」
「その先は危険ですわ! どうかお止まりになって!」
「雅さん! ちょっと、誰か! 誰かいないの!」

 階段の手すりにしがみついて、おそるおそる様子を伺うが、この場所からは事態の全貌を伺えない。面倒事はご免だ。できれば見過ごしたいところであったが、ひとつだけ気になっていたことがあった。

「もしかして、あの小鬼がいたずらをしてるんじゃ……」
『ああ、その可能性はあるなあ』

 依然、環が女中をしていた時も、雇用主の令嬢が妖によって池に落とされたことがある。環はとっさに助けようとしたのだが、人ならざるもののことなどろくに信じてもらえず、濡れ衣を着せられてしまったのだが。

『とりあえず、様子を見に行ってみた方がいいんじゃねえか?』
「えっ、でも、勝手に上がっていいのかな」
『そんな小さいこと気にしてられっかよ。けっ、オレは先に行くぜ!』
「あっ、待ってマダラ!」

 階段を軽快に駆け上るマダラを追いかける。慣れないワンピースを踏みつけてしまわないようにたくし上げたが、そもそも洋風の靴すら履き慣れていないため、環は何度も転びそうになった。

「違うの! もう、痛い! ひっぱらないでちょうだい!」
「きゃあああ! 大変よ、雅さんがバルコニーから落ちてしまう!」
「痛い……痛いったら、やめて!」

 二階へとたどり着くと、雅がバルコニーの手すりの上に身を乗り出していた。玲子をはじめとする侯爵家の令嬢たちだけでなく、庭先でお茶をしていたその他の華族令嬢たちも騒ぎはじめているではないか。

 加えて、欲見れば環が思った通り、小鬼が雅の髪を引っ張っている。おそらくは面白がっているだけなのだろうが、当の本人がバルコニーから転落してしまっては一大事だ。

 もちろん、雅自身にもその他の令嬢たちにも、妖力の弱い小鬼の姿は見えていない。その分、雅の突拍子もない行動に動揺しているのも理解はできる。

『あれは小鬼をひっとらえないとまずいな……』
「どどどどど、どうしよう! おおおお、落ちちゃうよ」
『なんとかして小鬼の興味をほかに向けるしかねえぞ』

 興味? 環は唇を結んで、あれこれと考えた。
 環には正義感などというものは持ち合わせていない。いつだって自分のために生きてきた。
 いや、むしろ自分のこと以外を考える余裕などなかった。ましてや、自分以外の人間がどこでどんな目にあおうと知ったことではないのだが、ふと、あの夜の周の横顔がよぎってしまうのだ。
 環はふんす、と気合を入れ、一歩踏み出した。

「どっ、退いてくださいっ‼」
「きゃああ! あっ、あなた、どこから!」
「いっ、いいから、どっ、退いてください‼」

 今世紀最大の大声だった。環は勢いよく駆け出し、バルコニーの中に割って入る。どよめく令嬢たちには見向きもせず、環は雅の体にしがみついた。

「あっ……あなたは、いったい!」
「ごっ、ごめんなさい! あ、あの、今すぐ、取ります、ので!」
「と……るって」
「この子が、ひっぱってる、から、その……悪気は、ないん、です!」

 雅は訳が分からないといった様子であったが、あまりに切羽つまった状況を前にして環のいうことを鵜呑みにせざるを得ない。
 環は雅の体が手すりを越えてしまわないように押さえつつ、小鬼へと目をやった。

「ねえ、ここから、落ちたら、ケガをしてしまうから、これ以上は、だめだよ」
『んあ? なんだおめえ……おいらが見えるのか』
「おっ、おっ……お願いだから、離してあげて」
『なんでだよ、せっかく面白いところなのに』

 その場に居合わせている令嬢たちからすれば、ただの環の独り言だろう。おそらくは、雅の身を案じながらも、奇妙奇天烈な環の態度を前にいぶかしんでいる。

 人見知りで引っ込み思案な環であるが、この時ばかりは必死だった。

(マダラ……‼)

『あいよ‼』

 足元に目くばせをすると、環の足元の影の中からマダラが飛び出してくる。人間の目には映らないように気配を消しつつ、小鬼の体に飛び乗ったのだ。

『うぎゃああああ! 猫又だ!』
『観念しろ! いたずらはほどほどにしねえと、豆を無理やり食わせるからな!』
『そっ、それだけは勘弁してくれい! 謝るからさ! この通りだよ! ……ったく、こんなところに猫又が出てくるなんて思わないじゃねえか!』

 マダラは小鬼の体に飛び乗ると、バルコニーの床の上で羽交い絞めにする。マダラのずんぐりむっくりな体に押しつぶされるようにして、小鬼は静まってくれた。
 環はほっと胸を撫でおろしたが、ここでようやく我にかえった。雅の体から勢いよく離れ、おどおどと頭を下げる。

「ごごごごごご、ごめんなさい!」

 周囲を見回して、さらに背すじが凍る。この場に居合わせていた公爵家令嬢たちの視線が痛く突き刺さった。玲子にいたっては、ただ一人、穏やかに微笑んでいたが。

「お茶の邪魔をしてっ、もっ、申し訳ございません、でした!」

 この国の根幹を担っている家の令嬢たちの前で、とんだ無礼を働いてしまった。環はいてもたってもいられなくなり、バルコニーから駆けだした。
 マダラは小鬼の首根っこを咥え、環のあとをついてくる。だが、追いかけてきたのはマダラだけではなかった。

「お待ちになって!」

 びくっと肩を震わせ、環は螺旋階段の手前で立ち止まる。
 振り返らずともこの快活な声の主は分かった。綾小路雅、本人だ。

「さきほどは、危ないところを助けてくれて、どうもありがとう」
「……あ、ああっ、えっと」
「まったく、お礼も言わせずに逃げるだなんて、失礼ではないのかしら」

 振り返るとやはり、目鼻の凹凸がはっきりとした顔がある。高飛車な雰囲気は、彼女独特なものだろう。きっと悪気はない。

「ご、ごめん、なさい。でも、私みたいな根暗で、陰気な人間は、あのような場所に……本来はいてはいけないというか……もっと暗くてじめっとした場所の方が……ごにょごにょ」
「……何を言っているのかしら」

 意味が分からない、とばかりに眉を顰められた。しまった、イラつかせてしまった。環の得意分野である。ひい、と背すじが伸び、雅の翡翠色の瞳を直視できない。

「まあ、いいわ。聞いてもいい? あなたは、何かが見えるのね?」
「えっと……」
「わたくし、ずっと何かに髪をひっぱられていたの。だけど、皆は信じてはくれなかった」

 素直に答えてしまえば、立場を悪くしかねないのではないか。ただでさえ、妖やモノノケの存在は敬遠されているというのに。
 環は一瞬だけ躊躇したが、恐る恐る雅の瞳へと視線を向けて、妙にすとんと腑に落ちた。

(この方は、そんな真似はしないのだろう)

 こくりと頷くと、環はマダラが加えている小鬼へと横目を向けた。

「雅……様の髪は、たしかに、人ならざるもの……小鬼が引っ張って、いたずらをしていました」
「小鬼……」
「お、驚かないの、ですか」

 見えていないのだから、実感が沸かないのも無理はないのかもしれない。環の被害妄想ではあるが、よい家柄の令嬢は奇々怪々にめっぽう弱い印象であったからだ。

「そう……やはり、本当に存在するのね」
「え?」
「あなた、富永瑠璃子の失踪事件は、ご存じかしら」

 環は一度、自分の耳を疑った。まさか雅本人から聞きたかった話題が振られるとは思いもしなかったのだ。
 はっとして顔を上げると、真剣な面持ちの雅がいる。そして、どこか悔しそうに眉をひそめている。

「あの子……失踪する数日前から、身のまわりに妙なことが起きていると、言っていたのよ」
「妙な、こと……ですか?」
「ええ、置いてあったものが一瞬目を離した隙になくなっていたり、勝手に移動をしていたり、近くに誰もいないというのに、瑠璃子の名を呼ぶ声が聞こえたり」

 まさか、と環は言葉を失った。マダラと目をあわせ、頷く。

「お、おそらく、それは妖の仕業で、しょう。何がしたかったのかまでは、分からないのですが……」
「あなたは、疑わない? 信じてくれるのね?」

 こくこく頷く環を雅はじっと見つめた。

「失踪した原因にすくなくとも関係があるとみるのが、妥当、です」
「……そうよね。いえ、ごめんなさい。あなたにこんなことを聞いても困ると思うのだけど。だとしたら、やはり釈然としないわ」

 常に所在のない環の瞳とは違って、雅の瞳は迷いがなく、力強い。周のように儚く美しい瞳とはまた違って、他人をひきつけるものがある。

「彼女の身の回りに奇妙な出来事が起こっていたのは、たしかなのだけれど、極めつけは失踪をする当日のことよ」

 令嬢たちが集う花園で、いったい何が潜んでいるのか。

「あの日は……白薔薇会の令嬢たちとオペラを鑑賞した帰りだった」