【九月五日(金曜日)】
 
「……」
「……」
「あのさ……」
「何?」
「……機嫌、悪いみたい」
「オレはいつもこうだよ」
「……怒ってる?」
「別に」
「……」
「……」
 
 今日は引き続き、図書室の棚卸作業。

 水曜日、大幅に作業を行ったものの、まだまだ書籍移動作業は残っているのだ。

 相葉君は作業中、始終むっとしていた。
 普段から愛想がいいとは言えないが、今日はなんだか怖いくらいだ。

 ……なんなのよ、もう。

 おそらく昨日私が、図書室へ時間通りに行かなかったことを、怒っているのだろう。

 うっかりしていて、連絡するのも忘れていた。

 確かにそれは悪かったが、遅刻常習犯の相葉君にイラつかれたくない。
 
「昨日はごめん。ちょっと用事があって……百花から聞いた。私のこと探してたんだって?」
「……」
「……それで、怒ってるんでしょ? 悪かったわよ。謝るわよ」
「……なに……してたの?」
「え?」
 
 前日の、高橋先輩との地獄のような時間が思い出された。
 気分が悪くなってくる。
 
「用事ってなに?」
 
 ……なんで、そんなこと聞くのよ?
 なんの嫌がらせ?
 こいつ本当は、私の心を読めるんじゃないの?
 
「……いや別に……相葉君には関係ないよ」
 
 そう答えるのがやっとだった。

 警察の取調べを受けてる気分だ。いや、実際に取調べなんて、受けたことはないけれど。

 きっと、こんな感じに違いない。
 もう……思い出したくもないのに、なんだってこの男は、人の傷口を抉るまねをするのだ。

 自覚はないだろうが、それがかえって悪質だ。無自覚な悪意ほど、始末が悪いものはない。
 
 次に、腕に鈍い痛みが走った。

 視界は宙を舞い、平衡感覚を失う。

 気が付けば図書室の絨毯へしたたかに、腰を打ちつけている自分がいた。

 なにが起こったのか、しばらく分からなかった。

 目の前には、すぐ相葉君の顔がある。こんなに近くにいるのに、彼の表情は逆光で見えなかった。

 一瞬が永遠のように感じられたが、次第に相葉君の体の重さが伝わってきて、自分が彼に、簡単に押し倒されてしまったことに気が付く。

 ――恐ろしかった。

 なにが恐ろしいかも分からないほどに、混乱していたと思う。

 だけど……私の心の片隅には、ヒンヤリとした冷静さが横たわっていて、二学期の始業式の日、彼が言った言葉が頭にボンヤリと浮かんだ。
 
『……っ! 冗談じゃねーよ! なんでババア相手に……女なら、誰でもいいってわけじゃないの! オレの理想は高いの! 胸が大きくて、スタイル抜群の、グラビアアイドルみたいなお姉さん!』
 
 ……ああ。

 どうして今の流れで、こういうことになったのかは、てんで分からないが、そういうつもりなの……か?
 
 私は驚くほど静かに、冷静に、その言葉を口にしていた。
 
「私と……したいの?」
 

 永遠とも言える、刹那の時間が再び流れた。

 次に相葉君は、バネのように私から飛びのいた。

「ばっ……ばかじゃねーの!」

 そんな捨て台詞を吐いた後、彼は私をそのままにして、図書室から足速に出て行ってしまった。
 
 図書室の床は窓からの日差しを吸収し、じんわりと暖かかった。
 夕陽が落ちるのは意外に早い。日が傾いてきて私の顔を照らて行く。
 オレンジ色の強烈な光が目に差し込んで、私はぎゅっと瞼を閉じた。

 だが目を閉じようとも、オレンジ色は私の瞼に貼り付いて剥がれない。目を背けることはできない。

 私は床に大の字になって、ただ天井を見上げていた。
 図書室には私の他には、きっと誰もいない。いたとしても、私に慰めの言葉さえ、掛ける者はいないだろう。

 たぶん部屋の向こうから、乾いた馬鹿みたいな黄色い笑い声が、微かに聞こえてくるだけに違いないのだ。
 
 そう、まるで私は世界から隔絶され、気にも留められない存在。

 
 ……百花なら、相葉君も逃げはしなかっただろうか?

 どうして……どうしてこんなときまで私は……彼女のことを、思い浮かべてしまうのだろう?

 生暖かい涙が、頬を伝って行く。

 それがなにに対する絶望なのか、はっきりと分かった気がする。
 
 今の私ほど哀れな女は、世界中のどこを探してもいないだろう。
 きっと、神様でも天使でも魔法使いでも悪魔でも、私を救えやしない。

 
 ……。
 ……一つ、……一つだけあった。


 ネガイカナエノホン。

 そのときなにかが、私の中で音をたてて壊れて行った。


つづく