オレが再び図書室に訪れたのは、肌に感じる空気が、かなり冷たくなってからだ。

 偶然だった。

 補習用に、どうしても入用な本があったのだ。
 残暑の中、新書と古書が入り混じって雑然としてた、あの頃の図書室の情景は、ここにはもうない。

 図書室独特の整然さが、漂っている。
 
 イヤでも、渡辺のことを思い出した。

 まるで殺人を犯した犯人のような、追い詰められた気分になった。

 早く……早くここから出なければ……。
 
 オレは目的の本棚まで早足で駆け寄ると、素早く目配せして、目的の本を探した。

 入用の本はすぐに見つかった。やった! そう思って、本に手を掛けたとき……

 
「相葉くん」
 
 心臓が止まるかと思った。

 恐る恐る、声の方へ視線を向ける。
 そこには女の姿をした、とても恐ろしいものが立っていた。
 
***
 
「なんだかこうして話すの、久しぶりね?」
「……」
「同じクラスなのに」
「そ……そうだな」
「まあ、図書室の本整理期間以外には、話したこともなかったけど」

「……渡辺、オレ……」
「私ね……妊娠してるの」
「……」
「本当よ」

 
 ――これは夢だ。夢に違いない。

 こんな平凡な、なんの取り柄もない、地味な日々を送る自分に、そんなことが起こるはずない。
 
「フッ……なんて顔してるのよ」
「そ……そんな……冗談だろ?」
「クックックックックックックックックックックッ……おめでたい人」
 
 まさか、あのときの……
 
「たった一度で……相葉君、凄い打率ね?」
「そんな、そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
「私、相葉君を告発しようと思って」
 
 妊娠に、告発……オレの平穏な日常の中には、ありえなかった言葉だ。
 言い逃れようとすれば、なんとかなったかもしれない。
 でもそのときのオレは、とても正常な精神状態じゃなかった。

 もうすべてが恐ろしく、自分の人生が真っ黒に染まっていく音が、聞こえていたんだ。

 この……この状況から逃れられるなら、なんでもする、そんな考えしか浮かんでこなかった。
 
「フフフ……顔、真っ青よ?」
「おまえ、妊娠って……お腹の子、どうするつもりだよ⁉︎」
「どうして欲しい?」
「……!?」
「堕ろすにしても、もうあまり時間がないわよ」

 
 なにも……なにも言えなかった。
 なにを言っていいか、分からなかった。
 オレには、本当になんの覚悟もなかったからだ。

 
「……」
「……」
「許して……あげてもいいわよ?」
「え?」
「告発しないで、あげてもいいわ」
「……」
「ただし、条件がある」
 
 そう言って渡辺は、後ろ手に持っていた物を、おもむろに顔の横まで掲げて見せた。

 オレはまばたきも、息の仕方も瞬間忘れていた。


 あの日……

 あの文芸部で見つけた、赤い、紅い、朱い本……

 きっと死神が笑ったら、こんな感じに違いない。
 彼女は薄く、幸せそうに微笑んだ。




つづく